反転の日

tu-buri

八月十日

「おい、お前。おれの腰に縄結んでくれ。自分で結んだのじゃあ信用できない」

「そんなまた子供みたいな事を言って。去年も、来年は自分で結ぶ。はっきり言って人が結んだのじゃあ信用できない、って。いきり立ちながらおっしゃってたじゃないですか」

 愚痴りながらも妻らしき女性は、夫らしき男性の腰に縄をつけようと身体に手を回す。

「あ、お前、この縄じゃ無いよ、もっと太いやつだ。道具棚の三段目に置いてあっただろう、そんな細っこいやつじゃあ、途中で切れちまうよ」

「こんな縄なんか無くたってこの家には天井があるから大丈夫ですよ、それじゃなくてもあなたはベッドの下に潜り込んでいるんですから、空に飛んでく心配はありません」

「いや、なに、最近体重が増えたんだ。こればっかりはしょうがない。おれの身体がベッドを押しのけて、その勢いで天井まで突き抜けたら、お前も巻き沿いだぞ」

「あら、そう言えばあなた、よく見れば太ったわね。ズボンもきつそうだし、あごも段になってる」

「違う、違う、太ったんじゃあない。最近外回りが多かったから身体に筋肉がついたんだ、そうに違いない。大体、最近お前の料理は味がうすくてまずいから、いつも残してるじゃないか。それで太るなんてあるもんか」

「なによ、あなたの身体を思って薄味にしてるのに、恩知らずな人だわ! ああもう嫌になった、縄なんて自分で好きに選んで自分で好きに結んでちょうだい!」

「なにを、だれがこの家に金を入れてると思ってるんだ、お前なんか料理もまずくて、掃除も適当だし、シャツもシワがついてるし……」

 夫婦は喧嘩になった。といってもこの夫婦にとっては日常茶飯事で、三日に一回、給料日前だと二日に一回のペースでこれをやっているから世話がない。これでも近所ではオシドリ夫婦として知られている。

 ふと、テレビから深夜ニュース番組のイケメンアナウンサーの声が聞こえてきた。

「夜の十一時になりました。明日は八月十日、『反転日』です。くれぐれも皆さん空に飛んでいかないよう、家の中か、屋根の付いている場所にいらっしゃってください。あ、トイレも早めにすませておくか、おむつの用意をおすすめします。それでは」

 そう締めくくるとテレビは効果のない健康器具のCMに移った。

「ああもう一時間しかない、お前、さっきのは謝るから、縄も自分で持ってくるから、どうかおれの腰に縄を結んでくれ、この通り」

 夫らしき男性は頭を床にこすり付けて妻らしき女性に懇願する。

「しょうがないですね、来年こそは自分で結べるようになってくださいね、恥ずかしいですから」

「ああ、ああ、ありがとう。お前が妻で本当によかったよ」

 夫らしき男性は顔を上げて泣きそうになりながら感謝を述べた。

 

 

 八月十日は反転日である。日付が変わってちょうどから二十四時間は人に対する重力が反転する。屋外に出ていて自分と天上の間に遮るものが無い、または人間に対する反重力よりも遮蔽物の重力が少なかったり支えが弱かったりすれば真っ逆さまに空に落ちていく。どうしてこのような事が起こるのか紀元前より人類を襲い続けるその現象の仕組は未だに解明されていない。

 そもそも毎年八月十日というのが実に奇妙である。これはグレゴリオ太陽暦のその日付と一致しておりそれ以外の暦法においては必ずしもそうでない。しかしこの日を基準にしてグレゴリオ太陽暦が決まっているかといえばそれも異なってグレゴリオ太陽暦には別の確かな理屈があるのでまた不思議。暦が開発される前はこの日付も曖昧だったので人によっては二、三日前から家にこもったり洞窟に入ったり、歴史上とびきりの臆病者は一ヶ月も前から山中の岩石洞窟に逗留し捜索願を出されたという記録もある。

 さらにこの二十四時からというのは親切なことにその国の標準時間に従っていて、経度が同じでも人が浮き上がるのは土地の国籍によって違い、ナントカ半島やカントカ島のように領土問題で荒れている場合も世論のより傾いている方に反転開始時間が準ずるとこれまでの調査でわかっている。これによって何時に人が空に浮くかでどちらの領土だと主張する輩が後を絶たないが国際法においてこの判断基準は無効とされているので特別意味はない。

 この反転にこじつけて自殺志願者は意気揚々としたり顔で空へ飛んでゆき、色欲狂達は家に異性を連れ込んでは天井でのアブノーマルな性行為を楽しみ自分たちから見て上へ飛んでゆく精液愛液を眺めキャッキャキャッキャと騒ぎ出す。金持ちの資本家はこの日のために調度や寝具あるいは玄関、ベランダが天井に取り付けられている別荘を建てて、その満足度は正直大した事無くともそれを持つことを世間へのステータスとしている。

 一番困り物なのは日本という島国におけるスモウ・レスラーという奇っ怪なスポーツマン達で彼らには非常に強く重力が働くため稽古場の天井は職人技で異常なほど頑丈に作られる。両国国技館の土俵の上にやたら立派な屋根が付いているのは過去八月九日の夜中稽古に励んでいた力士二名が空に飛んでいってしまった反省から作られたと言われている。

 

 ある年の、そんな悪魔の八月十日になる少し前、街灯が少しついているだけの暗い田んぼ道を歩く一人の制服姿がいた。彼の名前は愚愚太郎。田舎の寂れた高校に通う身分の十七歳、身長百六十五センチメートル体重五十九キロの丸顔。

 彼がこんな真夜中に外をうろついているのは決して女としけこんでいたわけではなく父親と喧嘩をしたからであった。原因は進路希望調査である。彼のふざけた進路希望調査用紙を見かねた担任がそれを両親へ送って喧嘩になったのだ。

 第一志望の欄には汚い字でYoutuberと書かれていた。そう、彼はYoutuberになりたかったのだ。彼は心底自分を非常にユーモア溢れる人間だと思いこんでいて、せこせこ働く事は全くバカらしく、自分の口から出る下品な言葉の連続が世間にウケてガッポガッポ儲かるのだと信じてやまなかった。その過信から彼は本気だった。だから、両親からもはや反対ですら無い罵詈雑言と化した息子への愛をぶつけられた時はひどく自尊心が傷つけられた。自分の存在を否定されたような気になった。もう進路希望調査用紙を提出する時にはYoutubeにどんな動画を上げるか、どの芸能人をコラボさせてやろうか、ファンにはどんな女の子がつくのかなどと考えを巡らせていた。もう自分の人生はこれしかないと本気で思っていた。

 そうであるから家に帰って父親が怒っているのを見てまず驚いた。理由が進路希望調査であることを知ってなお驚いた。なぜオヤジはこんなに反対するのだろう。もう十七年も一緒に住んでいるのだから自分の面白さと人物的魅力について十分知っているはずだったので不思議でしかたがなかった。

 要領を得ない顔をしながら父親と言い争っているうちに、どうやら父親が自分を取るに足らない人物だと勘違いしているらしいことが分かった。俺はこんなにも面白いのに、オヤジは何を言っているんだ。彼はこんな見る目の無い家族に囲まれ過ごしてしまえば自分の圧倒的な才能が腐ってぐじゅぐじゅになってしまうと思い、輝かしい未来を奪う悪しき父親は悪魔とみなして顔をまっかにしながら家を飛び出した。

 彼は田んぼ道を歩きながら延々と父親への悪態をついていた。独り言が口に出るのは彼の癖だった。

 家出なんて初めてなものだから勝手が分からず行く宛に迷った。誰かの家に泊めてもらう考えも浮かんだがやめた。彼は友人がいないわけでは無かったが泊めてもらう程の間柄となると話は別であり、自身の交友関係の浅さを人に迷惑をかけるのは主義に反するという理屈で肯定した。とりあえず雨風をしのげる所、近くの山にある無人の神社にでも行くつもりだった。

 学生のうちの家出なんてものはそもそもどうしたって親子の縁を切るようなものにはならず、しばらくしたら気まずい顔で戻ってきて次の日には同じ卓で朝食を食べるのに決まっている。そんなつまらない相場に愚太郎はうすうす気がついていた。彼にできるのはせいぜい親をどれだけ心配させるかの勝負で、むしろ今の自分が発見されて家に返されるならばそれは勝利であると思っていた。

 オヤジ、まだかな。オカン、まだかな。このままだとこの俺はどこかへ行ってしまうぞ。そう心のなかで思っていた時、ふわり。身体が浮遊感に包まれた。二十四時になり日付が変わったのである。

 あっ。

 愚太郎は一瞬で事を理解した。自分のバカさ加減も理解した。しかし、為す術は無い。身体は持ち上がっていく。混乱さえ追いつかない。刹那の出来事だった。やばい。脳内は若者言葉のその一言に集約されていた。すっーっと空へ昇ってゆく。

 びよん、びよん、びよん。

 彼は空に落ちていかなかった。身体が横になって浮き上った後、なんと彼は電柱にかかる三本の電線へ腹ばいの姿勢で引っかかったのだ。

「うわぁ!うわぁ!」アホな彼でも脳はこの危機的状況下において素早く回り、生存するための選択肢を取ろうとした。電線に捕まって落ちないようにしないと。いやしかし電線とは素手で触れて良い物だっただろうか。間違いなく電気が通っているのだろうし、いやしかしカラスなどの鳥類が平気で止まっている事を考えると大丈夫、いやいやカラスの足は何で出来ているんだ、もしかしたら電気を通さない何かで出来ているという可能性もあるかもしれん……。一瞬の内に安心と不安のいたちごっこが始まる。

 愚太郎は世間を知らなかった。電線は絶縁されているので触っても安心だ。疑心暗鬼に陥った彼は制服の裾をできる限り伸ばして頼りなく電線に捕まった。彼は奇跡的なバランスで安定していた。彼はしばらくそうして震えていた。

 

 何時間経ったのだろうか。真下にある空はまだ暗い。ああ早く一日経ってくれよ。こんなことになったのも全部オヤジのせいだ。俺の面白さが分からない事がまず論外だし、そもそもオヤジの稼ぎが良ければ俺の人生にも余裕ができていて、Youtuberに成ることのリスクも無いから反対だってしなかったはずだ、全部オヤジが悪い、くそっ、くそっ。

 人は寝ることによって思考がリセットされるというが彼は勿論寝ることが出来なかったので何時間も父親への怒りが静まらずにいた。

 

 うう、暑い。太陽は調度真下ぐらいだからもう昼ごろだろうか。そうだとしたらこの悪魔の二十四時間もやっと半分だ。もう半分をこのまま乗り越えれば、俺は生き延びることが出来る。いやしかし。暑い。彼は置かれた状況と炎天下が相まってドバドバ汗をかいていた。脱水症状の一歩手前であったが若さでなんとか耐えていた。額から、髪から、足の裏から、脇の下から、股間から液体が滲み出てくる。自分は下手をすれば空へ真っ逆さまなのに地面に落ちてゆく汗が恨めしい。

 そんな時、彼にとっての視界の上、自分が歩いてきた田んぼ道の向こうから車が一台やってきた。それは、反転対応車だった。反転対応車とはその名の通りこの重力反転日に対応させた車で、簡易的にハンドル、ブレーキ、アクセル、シフトレバーその他ユーザーインターフェースを天井側に備えたものであった。

 愚太郎は涙が溢れそうになった。人が来たのだ。助けてもらえるに違いない。俺は死なずに済むのだ。彼は大きな声で叫んだ。「おーい!ここだー!助けてくれー!」身体が不安定だから手も振れず、ありったけの声を振り絞った。一生懸命叫び続ける。車は道なりに進んで、愚太郎の下まで至り、なんとあっけなくそのまま先へ行ってしまった。

 彼は大きくうなだれた。と言っても下手に大きくうなだれると落ちてしまうので表情がこの世の終わりになっただけだ。しかし少し経つとボロボロ声も上げずに泣き始めた。えずいて身体がびくっと収縮するもこれまた反動で落ちそうになるので満足に出来ない。彼はしばらく泣き続けた。

 

 カラスが鳴く夕刻にもなると少し冷え始めた。涙も汗もすっかり乾いて、風がひゅうと吹けば寒さで身体が跳ねる。

 彼は父親と先程通り過ぎた車に激しく憎悪していた。こんな曲芸じみた状況に置かれているのは元々父親の了見の狭さが唯一絶対の原因であるし、先程の車に乗っていたやつなんてそもそもこんな日に好き好んでドライブしている気違いだ。そう遠くない未来に世界中を笑顔にするスーパーYoutuberをここで殺す事になればそれは奴らが一生をかけても償えない人類の損失でありとんでもない悪徳だ。そもそも担任も悪い。自分が気に入らないからといって親に進路希望調査用紙を見せるぐらいなら最初から親に書かせればいいだろう。これじゃあ最初から俺を不幸に貶めるだけの仕組みじゃないか。ああそれからクラスの池上。あいつのような勉強ばっかしている頭でっかちが見せびらかすみたいに高い志望校を書きたいが為に進路希望調査は存在しているのかもしれない。それから、それから……

 愚太郎の怒りはとどまるところを知らない。家族、教師、クラスメイト、親戚、スーパーの店員、道路工事の土方、自動販売機、犬、猫、……思いつく限りのあらゆる物に一通り悪態をついた後、二週目に入ってスーパーの店員の悪口を言っている時にそれは起こった。

 かぁかぁ、かぁかぁ。電線に引っかかっている彼の横、お隣失礼という顔でカラスが止まった。電線がぶらんと揺れる。おいおい落ちるやめてくれ。彼はカラスを追い払おうと手足を振って威嚇する。しかしカラスはどこ吹く風で動じない。いくらやっても動じない。彼は観念して、自分が落ちないよう安定に努めた。カラスのどこのゴミ捨て場をあさってきたのか腐卵臭が鼻をつく。俺はこの臭いと共に真夜中まで過ごさなければいけないのか。生きて帰れてもその時には鼻がすっかり曲がっているのではないか。くさいくさい不快だ。

 彼をあざ笑うかのようにまた一匹カラスが電線に止まった。今度は頭のすぐ近くに止まった。ますます臭い。バサバサバサとまた二、三匹やってきた。あ、こいつ俺の足の上に止まりやがった。足を振って追い払う。カラスは楕円を描いて離れて、今度は愚太郎の頭に止まった。流石に頭はたまらない。首を振る。胴体に乗った。もうこれ以上はよそう勘弁だ。悪臭の中で愚太郎は諦める。どんどんカラスが集まってくる。かぁかぁ、かぁかぁ。かぁかぁ、かぁかぁ。大合唱が始まる。一体こいつらはなんの為に鳴いているのだ。うるさいうるさい。くさいくさい。

 一匹の、頭の近くのカラスが愚太郎をつつき出した。結構強くだ。彼は目を見開いた。悪臭、騒音に加えて直接干渉とは。おいお前正気か? 信じられないという顔でカラスを睨みつけた。カラスは気にも留めず頭をつつき続ける。痛い痛い穴ができてしまう。すると別のカラスも、他の子供が遊ぶおもちゃに惹かれるかの如く愚太郎をつつきはじめた。今度は足だ。今度は尻だ。あれよあれよと言う間にそこに集まっていたカラスの殆どが彼をつついている。

 彼は必死になって電線にしがみついた。初めは制服越しでおそるおそる捕まっていたのに今ではもう素手でがっちりだ。うえーんうえーんと泣きじゃくっていた。無理もない。可哀想になってきた。ここらへんで終わらせてあげよう。

 あるカラスが愚太郎の手の甲をつつく。つつかれた跡が赤く変色する。色が変わったのが面白いのかまたつつく。何回も何回もつつかれてついに手を離してしまう。そのカラスはつつく対象が無くなって手持ち無沙汰で残った片方をまたつつき出す。おんなじ事が起こって左手も離す。そもそも電線の上で奇跡的なバランスで落ちずに済んでいたのだから野生の悪意の前に為す術は無い。だんだん身体の重心が電線の外側へ、遂にずるりと下半身が宙吊りになり、最後は宙を手で掻きながら空へ落ちていった。カラス達も目で寂しげに見送った。

 

 

 ここはどこだろう、アニメで見た宇宙戦艦の管制室のような場所だった。暗い部屋の中にたくさんのモニター、その手前にはやたらボタンの多い制御盤があって、またその手前には神妙な面持ちの人型が忙しそうに作業をしている。

「長官、ご報告いたします、よろしいでしょうか」

「うむ」

 偉そうな椅子に偉そうに座っている初老に、制服を来た若者が緊張の面持ちで業務連絡を始める。

「劣等ヒトモドキ駆除用反重力発生装置は正常稼働に成功し、実に全体の約0.54%にあたる三千二百四十五万四百二匹の星外放逐を実施、ウチ二十一匹は大気圏間でのショック死、三匹は老衰を迎え、飼い主に巻き添えを食らって犬が百三十四匹、猫が六十五匹、その他種々のペッドが二百三十匹、成層圏の通過を確認しています」

「うむ」

「装置の稼働率は99.86%、前年の98.72%から大幅な向上です。故障地区もチリ沖西三百二十キロメートル地点のヒトモドキ非居住座標に集中しており、維持部門の増資に十分応えうる成果を収めました」

「うむ、うむ」

「装置の稼働率上昇に伴い翌年度からは出力に関して四分五厘以上の増加目標が委員会で設定されています、開発部の予算を増やす必要があり今回の稼働データを第二十四銀河、百五十二惑星系研究所に送信の後、インドリウム星人労働者組合の署名を集めそれから………

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

反転の日 tu-buri @nurumayukaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る