みずたまと殺戮

蒼舵

prologue

 ただ茫然と、見ていることしかできなかった。

 目の前で起きていることが何なのか、どんな意味を持つのか、何を目的としているのか、理解することが出来なかった。

 西陽射す放課後の学び舎。後輩たちの部活動もほとんどが終了し、生徒の気配は少しもない、張り詰めた空気の校舎。対称的に、早鐘を打つ、心臓の爆音。目が乾く。口が渇く。背中がじんわりと湿っぽい。今日は? 九月の二十八日。


 南校舎最上階端、3年1組。


 どうしても学校に置き忘れたくなかったものを取りに自宅からまた学校にやってきたことや、その忘れ物の詳細や、あるいは置き忘れてしまった直接の理由だとかは、この物語に一切必要な情報ではなくて。


 目の前の光景は、鮮明に灼きついていく。


 教室の机は、大きな円状に並び換えられている。綺麗に並んだ机の上には、等間隔で蝋燭が灯されている。教室の前方、後方それぞれにある黒板、南向きの窓に引かれたカーテンには赤いペンキで何やら文字の羅列のようなものが殴り書きされていて、それぞれの羅列のちょうど中央部分から、教室の真ん中に向かうようにして一本の太い線が、同じように赤いペンキで引かれている。廊下側の壁からも一本引かれているため、おそらく四方向、線上にある机を横断してペンキは引かれ、そして中央には――


 魔法陣。きっとそれは、そう呼ぶのが最も相応しいもの。重ね重ね、それが何を意味するかは分からない。ただ、伝わってくるのは、伝わってきてしまうのは。

 魔法陣の中心、イコール教室の中心には、一人の少女。ペンキの飛び散ったセーラー服を身に纏った少女。同級生、クラスメイト、接点は? 無い。彼女が浴びた赤、それはまるで返り血のようで、それじゃあ、教室中に飛び散った血は、




 目が合う。




     ◇


 彼女が〝殺戮〟と呼んだあの事件の次の日から、彼女は学校へ来なくなった。おそらく自宅学習なり別室登校なりできちんと義務教育は終えたのだろうけれど、〝殺戮〟以降、彼女に会うことが出来たのは卒業式が終わった後の三月の一度だけだった。

 彼女からの呼び出しを受けて、肌寒い川沿いを二人で歩いた。並木の桜は蕾を蓄え、その姿は灰色の空に身を縮めているようにも見えた。

「ねえ、あの時、最後にあなたがその手を引いていたら、きっと結末は違ったと今でも思うの」

 魔法陣の中心で目を合わせたその時から、いつだって彼女の右手にあったバタフライナイフは、事件の後でも相変わらず彼女の掌の中にあったらしい。彼女は実に何気ない仕草で、桜の幹を切りつける。鈍色の刃が、表皮に白い傷跡をつける。

「まあでも――」

 そう言って振り返る。風に靡く黒いスカート。長い髪がその表情を隠す。

「きっともう会うことはないでしょうね」

 温度のない風に乗せるように、どこか澄ました口調でそう言って、そうして彼女は、同級生の誰もが足取りを掴むことの出来ないような遠くの高校へ進学した。


 彼女は、消えない痕跡を、傷痕をこの胸に刻んだ。消えない、消せない、削り取ることも、切り落とすことも、引き千切ることもできない真っ黒いものを残して、目の前から消えた。


 ――そして俺は、一年の浪人を経て、大学生になった。地元を出て、一人暮らしをしながら、文学を専攻して……なんて些末な情報は、この物語にさしたる意味を添えることはなく、ただ重要なのは、5限の終わり、足を運んだサークルの部室で、夕暮れの中で、それは謂わばの、橙色の中で、再び、もう一度、彼女に、会いたくなかった、会いたかった、ずっと×××したかった、


 八代カナに出会ってしまったことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

みずたまと殺戮 蒼舵 @aokaji_soda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る