のこされたもの<後編>

 二〇一五年、日本。

 南郷愛次は、若頭として組の経営に携わると同時に、二代目サイコシルバーとして裏の使命を帯びている。

 チェザレ・アットリーニの高そうなスーツを着て、膝に乗せた白い長毛猫(ケンゴロウ)を時おり撫でながら、事務仕事をする。見た目だけは、それなりに、ボスキャラっぽい風格はついた気がした。

 この一〇年余り、悪を裁いてきた。

 かつてビリーがそうしたように。

 南郷が、悪と認識した相手を倒して、救いの道を示してきた。

 かつてビリーに対してそうしたように。

 彼のヒーロー活動は、他ヒーローと競合するものが多かった。あえて、同業者ヒーローと敵対する使命を選んできたからだ。

 ヒーローもまた、何かしらの狂気に魅入られた犠牲者達。それを倒し、止める事で救済するヒーローが必要だ。

 そうして、アンチヒーロー・サイコシルバーは生まれたのだった。

 南郷は、本業の事務書類を横にどけた。南郷の身動きを鬱陶しがった猫が降りて、部屋の隅のソファで眠りについた。

 南郷は、ノートパソコンを起動した。そこには、余人に理解不能なプログラムの記述があった。

「……“どちらの件”も、難しい」

 南郷は、静かに呟いた。

 今、彼は大きな使命に直面していた。この日本の――そしていずれは全世界の秩序を変質しかねない危険人物が、一人居る。

 その人物も、かつてヒーロー資格を得ていた。

 今はただの猫カフェ店主として、静かな生活を選び取り、ヒーローには変身しなくなった。

 だが。

 その人物は、静かに暮らしているだけでも、いずれ巨悪をなしてしまう性を背負っている。

 悪は、阻止せねばならない。一七歳の時、アメリカでそうしたように、迷える魂は倒して救わなければならない。

 それに。その人には、普通の幸福を得てほしいと。そんな、個人的感情もあった。

 だが、今回の仕事はかなり困難を極めていた。

 理由は二つある。

 一つ。

 今回の件の裏に、ヒーロー結社の別な思惑が強く結び付いている事。

 結社のその企みもまた、危険極まりないものなのだ。

 猫カフェ店主の一件にかこつけた、世界統制の計画が、裏で行われようとしている。こんな事は、断固止めねばならない。

 南郷は、ヒーロー結社もまた、道を誤った悪と見なしている。いずれ打ち倒し、正しき組織に矯正すべきだと考えている。

 だが、現状、一矢も報いれた事はない。

 ヒーロー結社とは、単にヒーローを管理し、活動を行う組織ではない。

 裏世界の巨大組織群……いや、もはや概念の暴走と化した実体なき存在。

 ABLがそうだったように、ヒーロー結社を構成する当事者達でさえも、ヒーロー結社の非生物的な“想い”に動かされている事を理解していない。

 人類の誰もが抱く、正義と英雄への想い。南郷と言う砂粒が押し止めるには、雄大すぎる荒波だ。

 だが、今回ばかりは負けるわけにはいかなかった。阻止できなければ、いずれ人類は今の形を保てなくなる。

 最悪、人類の破滅が待っている。

 しかも、その計画とは、かつての“理想的な米国”計画を下地に発展させたものだ。自分に責任の一端がある以上、なおの事、引き下がるわけにはいかなかった。

 だが、事もあろうに、本計画の完成を依頼されたのはサイコシルバーだった。

 さもありなん。アメリカでの一件は、サイコシルバーの資質こそが鍵になっていたのだから。

 南郷が拒否すれば済む……と言う話ではなかった。南郷がやらなければ、ヒーロー結社はいずれ、似たような資質の人間を見つけて計画を進めかねない。

 仮に南郷が一〇〇年に一度の才能を持っていたとするなら、結社は、一〇〇年以上待つだけの事だ。

 何しろ相手は人間では――組織ですら無い。ただの概念に、滅びは無い。生きているうちに――組織が存続しているうちに――事を成し遂げようなど、性急な考えなど存在しないのだ。

 それならまだ、南郷自身の手に計画が委ねられている方がやりようもある。その“やりよう”を決められないのが、悩みの原因ではあるのだが。

 この上、もう一つ、南郷にとっての悩みの種がある。今回の敵には、かなり凶悪なヒーローが護衛についているのだ。

 サイコブラックと言うこのヒーロー、南郷がこれまで遭遇した中でも、トップクラスに危険な男だった。

 善意や道徳を捨てたのではなく、元々持ち合わせていない。

 そうしたストッパーが無い分、目的の最適解を、誰よりも早く得る事が出来る……いわば人間ロボットだ。

 先日、部下がこのサイコブラックを捕らえている。明日か明後日には、サイコシルバーとして彼と対面するつもりだ。

 だが、これは罠だ。

 サイコブラックがわざと捕まっているのは、明白だった。

 南郷が彼の所に行けば……これから決定的な何かが崩壊する。それでもサイコシルバーは、サイコブラックに会わねばならない。

 何故なら――、

「カシラ、今、お時間頂けますか」

 ドアをノックされ、南郷の思考は今ある現実に引き戻された。

「どうぞ」

 入ってきたのは、小谷だった。

 アメリカに居た時の事を思い返していた所に、かつて共にアメリカに居た男が一番に現れるとは。そんな役体の無い事を考えてしまう。

「カシラに、お客さんが来ています」

「――」

 

 この時。

 南郷の思考が、完全に止まった。

 よくよく小谷の思考を視た瞬間、あり得ない事実が浮かんだからだ。


「……通してあげて、下さい……」

「わかりました」

 何も知らない小谷は、ただ、従順に応じた。

 何かの間違いだ。

 南郷の資質テレパスとて、決して万能ではない。

 先日、相対したサイコブラックの真意を読もうとして、失敗したばかりだ。

 表面上の思考を視ただけではわからない、何か、違う事情が、

「失礼、します……」

「――」

 その人が入ってきた瞬間、南郷は、いよいよ絶句させられた。

 彼女が歩けば、微かな衣擦れが聞こえる。

 足音がする。

 淡い香水の香りがする。

 ゴーストなどではない。

 彼女は、

 マナは、

 確かにそこに居た。

 容姿にほとんど変化は無い。強いて言えば、記憶に残っていた彼女よりも、洗練された顔立ちに見えた。化粧のせいか。

 その変化がなおの事、彼女が生きている事実を、南郷に突き付けた。

「死んだはずだ……」

 特撮に出てくる三下のような言葉しか、浮かばない。

 確実に殺したはずだ。この南郷愛次が。

「死んでないよ、わたしだよ」

 マナは、おずおずと言った。

 彼女の思考を、南郷はようやく認識した。

 ――迷い。恐れ。騙された。悔しかった。悲しかった。裏切られた。殺されかけた……けれど。

 ――それ以上に会いたかったのだと、気付いた。

 馬鹿な。

 あれから一〇年以上も経って……どこまで人が好いのだと。南郷にはもはや、自分の正気が信じられなかった。

「あのっ、これ、見せるために……来ました」

 バッグから取り出したのは、アメリカの新聞――ウォール・ストリート・ジャーナルだ。

“ハリウッドの女帝、NFLナショナル・フットボール・リーグの王者と電撃婚約!”

 震える指でマナはその記事を指し示す。

「し、知ってた? 長かったよね、やっと結婚するんだって、あのころ、くっつきそうで全然くっつかなくて、だから、それ思うと、すごい感慨深いよね、愛次くんも、そう思うよね?」

 あらかじめ用意していたらしい台詞を、壊滅的な演技力で並べ連ねる。

 ああ、自分と話すきっかけにしたかったのかと、心を視るまでもなくわかった。

 マナは、何も変わっていなかった。

 ――どうやら、今もなお、俺の事が好きなようだ……。

 南郷は、ふらりと立ち上がる。そして、頼りない足取りで、マナの前へ。両手を広げかけて、ためらう。

 だが。

 マナの方から、勢いよく南郷の胸に飛び込んだ。

 顔を、南郷の胸に埋める。

 南郷は、両腕に力を込めて、ようやくそれに応じた。

 ――この人を、護りたい。

 この時、南郷は、初めて自分の本心に気づいた。

 ――今度は、自分の命と引き換えになったとしても。

「あのクリスマスイブの夜、サイコシルバーが出ていったあと。ブロスフェルト先生が――サイコクロースがきたんだよ。空飛ぶソリで来てくれた。

 フライングプラットホームなんて、はじめて乗ったよ。当たり前だけどね。あの時はそんな余裕なかったけど、今思い返したら、自分が流れ星になったようだったな」

「サイコクロースが……」

 南郷は、静かに反芻はんすうした。

 マナが生きていたと言う事実に関して言えば、確かに辻褄は合っている。サンタが空飛ぶソリを用いるのは、当然の事だからだ。

 ビルが爆破されるよりも前にマナ達を乗せ、離脱する事は充分可能だろう。

 だが、何のためにそんな事を。

 サイコクロースの真意もまた、南郷は見抜いている。

 サマーディ計画。

 人の心をデジタルデータ化し、人間にインストール可能なシステム。

 誰もが他人の意識を出し入れする事で、世界から“個人差”を消そうと言う試み。

 あのスクールで、そしてABLアッシァー・バイオニクス・ラボラトリーで彼が暗躍していた理由の全てが、そこにあった。

 まず、南郷にアートマン・システムを完成させる。それを基盤に、サマーディ計画へ繋げる事こそが、サイコクロースの帯びた真の使命だった。

 実際に南郷はアートマン・システムを完成させ……実のところ、サマーディ・システムも完成させている。

 サイコクロースの目的は、あの時点で達せられていた。危険を犯してまで乾父娘を救出する必要など、どこにも無かったはず。

 むしろ、アートマン・システム完成後にマナが生存する事は、結社にとってもリスキーな事だった。

 理想的な米国計画は、サマーディ計画の踏み台に過ぎない。 だが、サマーディ計画と言う新たな世界秩序の実現には、理想的な米国計画によって築かれた秩序の破壊が前提となる。

 サマーディ計画の発動は、マナの才能をも人類の共有財産としてしまうからだ。彼女に危険が及びかねない革新を、乾が許すはずもない。抵抗に遭うのは確実だった。

 さすがにヒーロー結社と言えど、米国を掌握した男と戦争するには、分が悪い。

 だから、サイコクロースの使命には、理想的な米国システムの破壊と、父娘の始末も含まれていたのだ。

 もちろん、アートマン・システムを通して、サイコクロースの本心は洗いざらい盗聴したはずだ。

 ……いや。

 サイコクロースには一つの悪癖があった事を、南郷は今にして思い出した。

 成功を恐れる余り、自分の成果を寸前で破壊せずにはいられない、そんな悪癖を。

 何かを為そうとすれば、それを破壊してしまう。彼にだって、ヒーロー結社の闇をどうにかしようと考えていた時期はあったのだ。

「……なるほど、そう言う事か」

 南郷は、弛緩の笑みを浮かべた。

 今更だ。今更、サイコクロースの最後の贈り物が届いた事になる。

 マナを殺す事で、彼女とアメリカを救う。そんな南郷の覚悟と、サイコクロース自身の使命を、彼は最後の最後、土壇場で破壊してしまったのだ。

 南郷と別れた後、急に思いついた行き当たりばったりな思考など、アートマン・システムをもってしても読み取れるはずがない。

「それで、サイコクロースに助け出されてすぐに、ABLビルが爆発して。そのあと、わたしとお父さんをおろしてくれたサイコクロースが、全部教えてくれた。

 あれは愛次くんがしたってことも、ビリーのことも。

 その上で、わたし達がこれからどうするか、自分で決めなさいって言われて。

 わたしはその時、頭が真っ白で何も考えられなくて。

 愛次くんにまた会いたいのか、会いたくないのか。どちらでもあるような気がして、踏ん切りがつかなくて……結局、一〇年以上もかかっちゃった」

 ――ほんとは、会いたい気持ちしかなかったのにね。

「そのあと、わたし達家族は、日本に帰った。

 あの事があって、わたしが死にかけたことで、お父さんもすごい、しょんぼりしてしまって。将来の仕事、わたしが自分で決めていいって言ってくれた」

 ビリーの犠牲は、無駄にはならなかった。

 巨大研究機関の権威と世界一のIQとヒーロー結社の後ろ盾、その全てを結集しても、娘が絶対に安全な世界など存在しないのだと、父は痛感したのだ。

 結果的に、黒幕・乾から野望の心が潰えた。その懸念が消えた事に、南郷は内心で安堵の息をついた。

「それでわたし、今、青森で社会科教師をしてるんだよ」

「遠いな。道理で、会わなかったはずだ」

「会わないように、してたからね。ごめん」

「ビル諸共爆殺されかけたんだ。それも、君にとっても大切な友達を犠牲にして。二度と会いたくなくなるのが普通だよ」

 マナは、くすぐったそうに笑って見せてから、

 決心の顔をした。

「ねえ、愛次くん。一〇年も経ったのだから、好きな人とか、いる、よね?」

 先程から、やけに南郷の左手を気にしていたマナが、恐る恐る訊いてきた。

 少なくとも結婚はしていないが、それで安心できるはずもない。

 ――その事も怖くて、会えなかった。

 思考とは、実に正直で雄弁なものだと、南郷は改めて思う。

「ああ。いるよ」


 そうだよね。

 愛次くんがモテないはずないよね。

 もしかして、わたしを探し出して、愛次くんに会いなさいって背中を押してくれた、あの女の人かな。

 すらっとしてて、知的で、おしゃれしなくてもキレイで。わたしと正反対の人だったな。

 やっぱり、はっきりわかると安心したけど、少し寂しいな。

 少し、寂しいな。


 この時に限って。

 南郷は、マナが秘めた心のうちに気づかなかった。

 ――マナの本心を、知りたくない。

 ――彼女とは、新鮮な気持ちで接したい。

 そう望んだ事が、叶ったのかもしれない。

「そっか。愛次くん、やっぱ好きな人がいるんだ。そっか……」

「ああ。君の事だ」

 そう言って、彼は彼女の唇を唐突に奪った。


「教職を選んだのは、あの人に憧れて?」

「うん。さすがに、わかりやすすぎたね。

 命の恩人ってだけじゃないよ。

 あの日、ソリからおろしてもらって、真相を聞かされた時。あの人の、本当の顔を見た気がして。

 それを踏まえて、スクールでのあの人の姿を思い返してみたら……ブロスフェルト先生って、冷たいようで、誰よりも生徒思いだったんだなって。

 わたしも、さりげなく誰かの未来作りを助けられるような人に、なりたかった」

 ――ブロスフェルト先生。

 ――あなたは、確かに、人の未来を作っている。

 ――あなたは、ただの破壊狂などではない。

 ――少なくとも、俺と彼女は、そう思っています。

 南郷は、この場にいない恩師に、心の中で一礼した。

「そうか。俺も、あの人のようなヒーローになってみようかな」

 南郷の笑顔は、晴れやかだった。

 心が決まったからだ。

 サイコブラックを倒し、ヒーロー結社の企みを破壊する方法が、ひとつだけある。

 だが、勝算は非常に低い。

 他でもない、サイコブラックの心を信じる必要があるからだ。

 もしも、サイコブラックが南郷の思う通りの、人間ロボットでしかなければ……。新世界の実現をためらわない事だろう。

 その場合、南郷が今からしようとしている事は、サマーディ計画の実現をむしろ手助けしてしまう事になる。

 南郷は、自分の能力と言う、最も信頼してきたものを疑った上で、賭けに出なければならない。

 だが、“予想が的中して”賭けに敗れた場合は……南郷自身の手で幕を引く覚悟だった。

 マナが生きている間に、サマーディ計画が頓挫してしまえば、それだけで充分だと思えたから。

 結社は、何百年かけて次のサイコブラックでもなんでも探せば良い。

 今、初めて、彼は。

 世界の平和よりも、一人の女性の平和を選び取った。

 だから。

「サイコブラックを、倒して救う」

 やる事は、今までと同じだ。

「変身ッ!」

 サイコシルバー、出動。

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無血打倒救済のヒーロー サイコシルバー 聖竜の介 @7ryu7

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