第3話 キューと悪魔
「ローズさん?ローズさん!」
「……」
問いかけに答える様子も無く、ローズさんの闇夜の瞳は、あたしを見つめたままだ。
……その視線が刺さる。
気が付けば、なぜかローズさんから視線を逸らすことができない……。
なんで?
ひどく冷たい尖った気配が体を刺す。
身動きが取れない!
次の瞬間。
「あ……ぁぁ……」
か細い声を上げて突然ローズさんが床に崩れ落ちた。と同時に、身体の縛りも解けた。
「え?え!?ローズさん??」
慌ててそばに駆け寄る。
「ど、どうしたんですか!?大丈夫ですか?」
あたしはとっさにローズさんの体を支えようと、その肩に手をかけた。すると、あたしが手を触れた場所からローズさんの体が赤く光り始め、それはすぐに全身広がった。
な、何?一体何が……?
とっさにローズさんから数歩距離を取る。
ローズさんの体を包んだ赤い光は大きく発光し、すぐに消えた。その一瞬の眩しさに目を伏せる。
「……何?今の」
再びローズさんに目を移せば、ローズさんの一つに結われていた赤毛の長い髪は、短髪の巻き毛に、細かった体は筋骨隆々に、彫りの深い四角い顔にはギョロっとした大きな目玉が、さらに頭には2本の角が生えた姿に変わっていた。
「!!!!」
あ……、悪魔……だ。
しかも女装状態。
ボタンがちぎれそうなほどパツパツになったブラウスの胸元から赤毛の剛毛がのぞいている。スカートのウエストのゴムは最大限まで伸び、今にも切れそうだ。
いろんな意味で驚きのあまり言葉が出ない。
「うぅ……。やっぱり駄目だったか」
さっきまでローズさんだった悪魔が言う。その地鳴りのような声は、もはやローズさんのそれではなかった。
「……変身まで解けるとは。こんな見習いの奴でも、天使は天使ってことなのか……ふぅ……」
悪魔はそう言って大きく深呼吸すると、なにやら呪文を唱え、両手を胸の前で組んだ。すると突然黒い羽が現れ悪魔の体を包んだ。それは間髪おかずにパッと散って消え、悪魔は再びローズさんの姿へと変わった。
……ローズさんって、本当に悪魔だったんだ。
ローズさんが再びこちらを見る。その表情に悪魔の印象はまるで無い。部屋に入ってきたときとなんら変わらず穏やかだ。服も元に戻っている。
「ごめんなさいね。やっぱりどうしても、もう一度試してみたくって……。先ほどはスタグさんに邪魔されてしまったから……」
あたしはどう答えてよいのやら……、言葉が浮かんでこない。
「キューさん、驚いている顔もかわいいわね」
ローズさんがにっこりと微笑む。
「え……と、あ、あの……その……」
「もう、何もしませんよ。キューさんには私の術が効かないことがこれで十分わかりましたから。安心してください」
そんな笑顔で言われても、今の状況からは、とてもそうは思えない。それに、何の術をかけようとしていたのかも気になる。
「あ、あの。ローズさん、あたしに何の術をかけようとしていたんですか?」
「うーん、……そうねぇ。それは下の階に来ていただければわかりますよ」
「下の階……?それって食堂?」
「えぇ、そうです。ではそこでお待ちしておりますね」
そう言うとローズさんはあたしの前を通り過ぎ、部屋を出て行った。
再び扉が閉まる。
「……」
今のは一体なんだったんだろう?
ローズさんが本当に悪魔だっていうのは、これではっきりわかった。
けど……、良い悪魔?悪い悪魔?悪魔に良いとか悪いとかあるのかもわからないけど、やっぱり油断はできない。
それにしても、スタグの奴、こんな時にどこに行ったんだろう。頼りないなぁ……。
「はぁ……」
窓の外は、東から夕闇が広がっていた。
部屋の時計は7時半を指している。
夕食までは少し間がある。
どうしようかな。スタグは先に食堂に行ってるのかな?……少し早いけど、あたしも食堂に行ってみようかな。
あたしは部屋に鍵をかけると、1階の食堂へ向かった。
階段を下り、ホールから管理人室の前を通り過ぎて突き当りの部屋へ。
確かそこが食堂のはず……。
食堂の扉に手をかけようとしたその時、突然ガシャガシャ、ガシャーッ、と、ものすごい音がした。
「ひえっ!?」
びっくりしたぁ。何だろう?
音は食堂の手前の部屋からのようだ。
振り返り、興味本位にその食堂の手前にある部屋の扉を少しだけ開けて中の様子を窺がった。
フライパンやお鍋が置かれたステンレスの台、それと奥に食器棚が見える。
調理をする部屋みたいだ。
あれ?スタグがいる。何やってるんだろう?
薄暗い部屋の中、スタグは銀色の大きなお鍋を両手にいくつも重ねて、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ、変な動きをしている。挙句バランスを崩してその鍋を落っことした。とたんに、先ほど聞いたものすごい音!
「……この音だったのか」
それにしても一体何をやっているのやら……。ローズさんの手伝い?
スタグは鍋を拾うと、また重ねて持ち直した。そして何をするわけでもなく調理場を千鳥足でウロウロし始めた。再び、バランスを崩して鍋を散乱させる。またしてもすごい音。
「ちょっとスタグ!何やってるの!?」
あたしはスタグの間抜けぶりに、思わずドアを開けて叫んだ。
スタグには、あたしの声が聞こえているのかいないのか、再び重ねた鍋を両手に持ち、調理場の端から端へフラフラと歩いている。そして調理台の足につまずいて、またもやすごい音を立てて鍋を散乱させた。寸胴の鍋がゴロゴロと螺旋を描いてあたしの足元に転がってくる。
あたしはその鍋を両手で受け止めると持ち上げた。
うっ……思ったより重い。こんなものを重ねて両手に持つなんて……。
もしかして、新手の筋トレか何か?スタグ趣味が悪い。
鍋を調理台に置きスタグを見る。先ほどと同じように鍋を拾い、積み重ねて奥の窓の方へとフラフラと歩いている。
「スタグ!……スタグってば!」
聞こえてない?それとも無視してる?
あたしは後ろからスタグの肩を揺さぶった。
「ねぇ、スタグってば!」
「はっ、キュ、キューさん!?」
そう言ってスタグがこちらに振り返った。その瞬間、スタグの手に持っていた鍋がすごい音をたてて再び床に散乱した。
「うわ!な、鍋が!何で!?」
スタグは慌てて鍋を拾い集めた。あたしも小さな鍋を拾い、そして調理台へと置く。
「ねぇ、スタグ。さっきからここで何やってるの?」
鍋を片付け終わったスタグの顔を覗き込むと、スタグは焦ったような、困ったような表情をしていた。
「それは……その……、あの……、はぁ……」
「フフフ、もう術を解いてしまったのね」
え?
振り返ると調理場の入り口にローズさんが立っていた。
「もうちょっと楽しみたかったのに……フフフ」
「……」
スタグが厳しい表情で唇をかむ。
「キューさんは、私の術を何でも解いてしまうのね」
「術?……!?」
ハッとしてスタグを見る。
スタグは唇をかみしめたまま、ローズさんをじっと見ていた。
もしかしてスタグ、ローズさんに何か術をかけられていたの?……でも、一体何の術?それに何のために……。あたしにかけようとしていた術も、これと同じだったのかな……。こんな新手の筋トレみたいな……、だとしたらそれは微妙すぎる……微妙すぎるぞ!
「もうやっていないんじゃなかったのか?」
スタグが言う。
静かな口調だけど、あきらかに怒っていることがわかる。
「何のお話かしら?」
「魔術は使わないと、アモル様との誓約書にあったろう?またしても俺に術をかけたな!」
「フフフ、スタグさん、あの時より少しは成長したのかと思って、試してあげたんじゃない」
「何だと!?」
「でも、相変わらずみたいね。私の術にはすぐにかかってしまうなんて、フフフ」
「……」
「本当はもう少し、スタグさんの挙動不審な動きを見ていたかったんだけど……」
ローズさんがあたしを見る。
「スタグさんにかけた術までこうも簡単に解いてしまうなんて……、予想外だわ……」
「え……?」
「キューさんが一緒では、もうスタグさんにも術はかけられないわね」
そう言ってローズさんはにっこりと笑った。
「さぁ、お食事にしましょう。もう食堂に用意はできていますよ」
ローズさんは半歩下がると、そのドアの所から、あたしとスタグに食堂へ向かうよう促すような仕草をした。
スタグは唇をかんだまま沈黙している。
「……」
せっかく楽しみにしていた夕食なのに、こんな気まずい状況なんて、内心少し複雑だよ。
横目にチラッとスタグを窺う。
厳しい表情をしている。
まぁ、スタグはどうあれ、ローズさんの言動はどうあれ、あたしはやっぱり夕食は楽しみだ。それにおなかも減ったし……。
「スタグ、食事にしようよ」
沈黙しているスタグの、服の袖をちょこっと引っ張って食堂へと誘う。
それに反応してか、スタグがあたしの顔を見る。
もしかしたらスタグ、食事に行くのをためらうかな?
「……、そう……ですね……」
少しだけスタグの表情が緩やかになった気がした。
「夕食にしましょうか」
スタグはそう言うと、何事も無かったかのようにローズさんの横を通り過ぎ、食堂へと向かって行った。
今、一瞬の間にどんな気持ちの切り替えをしたのか……。
ま、これで一緒に食事ができるね。
食堂に入ると、そこは料理のとてもおいしそうな良い匂いが漂っていた。見れば、少し大きめの長いテーブルに、すでに二人分の夕食が並んでいる。
「どうぞ、席にお座り下さい」
ローズさんが食堂の扉を閉めて言う。
「わ~、おいしそう~!」
あたしはテーブルの奥に回り込んだ。そしてスタグと向かい合って席に着く。
並べてある白いお皿には、生の野菜が色とりどりに盛られたものや、魚の切り身にオレンジ色のソースがかかったもの、コーンの入った野菜のスープ、他にも数品が食卓をにぎわせていた。
「これ、全部ローズさんが作ったんですか?」
一人で作るには、結構大変そうな品数だ。
「えぇ。でも今日の夕食は、スタグさんにも手伝っていただいたんですよ」
「え!そうなんだ~!」
「キューさんが人間界に来て最初のお食事、というお話でしたので、いつもの献立より少し品数を多めにしてみたの」
お茶目に照れ笑いするローズさん。
「うれしい~!ありがとうございます」
やっぱり、ローズさんって本当は良い悪魔なのかも。
あたしが寝ている間、スタグはやっぱりローズさんのお手伝いをしていたんだね。きっとその時に、ローズさんに術をかけられたんだろうな。
なんだかんだ言ってこの二人、やっぱり仲がいいのかな?
「……」
向かいに座ったスタグは苦笑いをしている。
「そういえば、ローズさんの分は?一緒に食べないんですか?」
「えぇ……、私はいつも皆さんが食事を終えた後で、ゆっくりいただいておりますから」
「そうなんですか?」
「えぇ、ですから、どうぞお気になさらずに。お茶とコーヒーはそちらのテーブルに用意してありますので、ご自由にね。……では管理人室におりますから、食事が終わりましたら声をかけてください。フフフ」
「はい、わかりました」
そう言うとローズさんは食堂から出て行った。
そしてあたしとスタグは、さっそくテーブルの上の料理を食べ始めた。
「おいしい!」
野菜スープは栄養のバランスがよさそうだ。中のコーンがとても甘い。白身の魚に添えられたオレンジのソースは、さっぱりとして魚のうまみを引き立てているね。
ひと口ふた口と食べ進めていくと、あっという間にお皿が空になった。
「ん~、おいしかった!ローズさんって料理が上手なんだね!」
「……」
苦笑いから若干不機嫌そうなスタグの顔。
「どうしたの?」
あたしの問いかけにスタグはフォークを持った手を止め、あたしを見た。
「参りましたよ。ここに来て、またしてもローズに術をかけられるとは……」
……なんだ、やっぱり気にしてたんだ。
「ねぇ、何の術だったの?鍋持ってウロウロしてたけど」
「……、キューさんが見たのは、もう術の目的が終わった後の状況ですよ……。不覚です、油断しました」
「目的って……。じゃぁ、鍋を持ってウロウロしてたのは何?やっぱりスタグの趣味?」
「ち、違いますよ!」
全力で否定するスタグ。
「あれは……、あれはローズの中途半端な術のせいで、そんな動きをしていただけで……」
「ふ~ん。じゃ本当はどんな術だったの?」
「ローズは相手を操る術が得意なんです。さっき、ローズがこの夕食は僕が「手伝った」って言ってましたけど、実際は操られて手伝わされていたんです」
「なんだ、そうだったんだ」
なんとなくガッカリ。スタグが率先して手伝ってくれたわけじゃないのね……。
「キューさんが見たのは、料理を作り終わった後の状態で、おそらくローズから「鍋を運ぶ」という命令で動いていたんだと思います」
そう言って苦笑するスタグ。
「そうなの?それにしてはスタグ、ずいぶん変な動きしてたよ?新手の筋トレかと思ったし」
「えぇ!?筋トレって……どういう発想ですか。あれはローズの命令が「鍋を運ぶ」のみで、どこへどの鍋を運ぶのかっていう具体的な指示が無いものだから、調理場に出してある鍋を手当たり次第に持って調理場内をウロウロするような状態になったんです……」
「へ~、そうなんだ!なんだか面白い」
「……はぁ、こっちとしては「またか」って感じですけどね」
そう言ってスタグは残りの料理を食べ始めた。
ローズさんの得意な術は、相手を操る術……か。
あたしにはそれを2回かけようとして、ダメだったわけだね。もし、あたしが操られていたら、何をさせられてたんだろう……。
空になった皿を見つめる。
少なくとも、ローズさんの術はあたしには効かない。この点は安心していいのかもしれない。
「では、そろそろ行きましょうか」
スタグが言う。
「うん」
あたしは軽く頷いた。
「ローズには、僕から声をかけておくよ」
そう言うと、スタグは椅子から立ち上がり、足早に食堂の扉を開け出て行こうとした。
「待ってスタグ。あたしも一緒に……」
とっさに呼び止める。
視線がスタグと合う。
スタグは軽く頷いて、あたしが来るのを待った。そして食堂から出て二人並んで管理人室のドアの前に立った。
スタグがドアをノックする。
コンコンコン。
「ローズ、食べ終わったよ」
ドア越しに言う。
中から、バサッバサッと、変な音がする。
あたしはスタグと顔を見合わせた。
スタグがもう一度声をかける。
「ローズ、いるのか?……開けるよ?」
返事を待たず、ガチャリとドアを開ける。鈍く開いたドア、そこには……。
「!!!?」
思わず硬直するスタグ。
「あれ?!」
さっきの悪魔だ!
そして、悪魔はこちらを振り向いた。
「おっ!?」
ローズさんの変身の解けた状態の、ムチムチの女装悪魔が管理人室のテーブルに片足をついて、何か黒い物を口にくわえている。
「ありゃりゃ、まずい所を見られてしまった……。あー、こりゃこりゃ」
悪魔はそう言って、照れ笑いをした。
その口にくわえた黒いものはコウモリの羽のようにも見え、口からはみ出した部分がバサバサと暴れている。悪魔はそれを口の中に押し込み、丸飲みにした。
スタグは動揺しているのか何なのか、完全に動かない。
「ロ、ローズさん!?何やってるんですか!」
「あはは、私の夕食の味見です」
「味見って……」
「食材が逃げ回るものだから、つい……、力が入ってしまって変身がね……」
そう言っている間に、悪魔はローズさんの姿に戻った。
「解けてしまったんです。……驚かせてしまってごめんなさいね、フフフ」
「さっきの黒いのは食材だったんですか……?」
「えぇ。私は人間の食べ物は食べることができないので、魔界から調達しているんですよ」
「そうだったんですか……」
「フフフ、私も天界の宿舎の管理をしている以上、いろいろと制約が多いものだから。今の私の変身が解けた所は、見なかったことにして下さいね。では」
そう言って、ローズさんは管理人室から食堂へと向かおうとした。
「あ、あたしも、後片付け手伝います」
ローズさんの後を追う。
「ありがとう、キューさん。でも今夜は良いわ。スタグさんもきっと疲れているだろうから……。今夜はゆっくり休んでくださいね。お手伝いはまた、明日お願いするわ」
やさしい笑顔でそう言うと、食堂へと消えていった。
ふと管理人室の入口を見れば、ドアの手前でスタグが先ほどのまま固まっている。
「スタグ!何やってるの!」
あたしはスタグの腕を強引につかんで揺さぶった。
しかしスタグは金縛りにあったような状態のまま、まったく動く気配がない。
「んもぅ!」
あたしは銅像のように固まったスタグを後ろから抱え込み、そのまま後ずさりをするように玄関ホールまで引きずった。
「うぅ、スタグ重い……」
案の定、階段の手前で力尽き、丸い絨毯の端で滑って尻餅をついた。その拍子に後ろ向きのスタグがあたしに覆いかぶさる。
「ぎぇ~、重い!」
「ん?うわぁぁ、きゅ、キューさん!」
金縛りから解けたスタグが、あわてて体をずらし、床に手をついてあたしの横に転がった。
「スタグ、大丈夫?」
あたしは尻餅をついた状態のまま、スタグを見た。
「あ、ありがとうございます」
そう言うと、スタグはすっと立ち上がり、あたしに手を差し伸べた。
「すみません、助かりました……」
困惑した表情のスタグ、その手をつかんで、あたしは立ち上がった。
「どうしたの?なんで固まってたのー?」
「……僕は悪魔姿のローズの気配に弱いんですよね。まさか変身が解けていると思わなくて……。事前に分かってるなら対処もできるんですが……」
スタグが気まずそうに答える。
「えっ、……そうなの?あたしは平気みたいだよ。ねぇ、それってクピドはみんなそうなの?」
「い、いえ、僕だけです。しかもローズ限定という……。あいつとは……、ちょっといろいろありまして……」
そう言って、視線を外しうつむいてしまった。
「いろいろ?」
「……えぇ」
スタグは下を向いたまま弱く答えた。
なんだろな?
「いろいろ……?」
あたしは視線を合わせないスタグの目の前に向き直り、強引にスタグの視線に割って入った。
「うわ、キ、キューさん」
困惑した表情のスタグ。
「いろいろって何?何があったの?すごく気になるんだけど」
「……そうですね、いずれお話しますよ。課題のことも絡んできますし。……でも、今日はなんだか急に疲れてしまって。すみません、先に休ませてください……」
そう言うと、スタグは「ふぅっ」とため息をついて、そのまま階段をよたよたと上って行ってしまった。
えぇ……?えぇぇぇぇ!?
不意に置いてけぼりにされるあたし。
いろいろの理由はともかく〝部屋で打ち合わせをしましょう〟とか〝夜の街を見てみましょう〟とか無いの?
次の行動を期待してたのに、なんだかショック!
「もぅ!」
玄関ホールの柱時計がボーンボーンと、9時の鐘を刻む。
「……しょうがない」
あたしも部屋に戻ることにした。
階段を上り2階へ、そして廊下を進み二つの部屋の扉の前を通り過ぎて自分の部屋へ。
ガチャリと扉を開けて部屋に入るとわずかに薄暗い。
「あれ?」
見れば、チェストの上のキノコ型のランプが淡く灯っている。
「これって……、もしかして暗くなると自動で点くタイプ?」
とりあえず傘から垂れ下がった紐を引いてみる。
カチッっと音がして、明かりが消える。
「む?」
もう一度紐を引く。
カチッと音がして、先ほどより明るく灯る。
それは薄ぼんやりと部屋全体を照らし出した。
「へぇ~。ムード照明って感じ……」
あたしは、ランプの明かりを背にベッドに転がった。
その途端、急な疲労感が襲ってきた。
スタグじゃないけど、あたしも思ったより疲れてるのかも?
なんだかこのまま眠ってしまいそう……。まだ、今日の分経過、課題書に書き込んでないんだけどなぁ。
それに……、ジトっとする身体。
シャワー浴びたい……。
「……うーん」
あたしは眠気をこらえてゆっくりと起き上がった。
「やっぱりシャワー浴びよう……」
カバンからタオルを取り出す。そしてシャワーのある小部屋へ。
服を脱いでトイレの蓋の上に置き、間仕切りのカーテンを引く。
蛇口をひねるとシャワーから勢いよく水が吹き出し、それはすぐに温かいお湯に変わった。
「なるほど、水の温度変化はこんな感じなのね」
人間界の日常生活における知識や感覚はある程度わかる。しかし、すべての実体験はなにもかも初めてだ。
シャワーのお湯を足に当てたり、顔に当てたりしてみる。
先ほど感じた急な疲労感が少し治まった気がした。
見ればシャワーの横の小さな棚に、丁寧にもシャンプーや石鹸まで備え付けてあった。
シャボンの香と湯気が充満する小部屋。
適当にシャワーを終えて再び服を着終えると同時に、1階のホールから凍りつくほど強いローズさんの魔力の気配を感じた。
「え!?な、なんだろ?」
先ほど以上の強い気配だ。
首にタオルをかけ、髪も乾かさないままにあわてて部屋を飛び出す。
廊下を抜けて、2階から吹き抜けのホールを見下ろすと、そのホールの真ん中にローズさんが立っていた。
「ロ、ローズさん!」
階段につながる手すりに前のめりになって声をかける。
「あら?キューさん?」
ローズさんはすぐにあたしに気づいてこちらを見た。
「この強い気配、ローズさん、何してるんですか?」
急いで階段を降りながら話しかける。
「あら、気づいちゃいました?キューさん、もしかして実はとても強い天使なのかしら?」
「そ、そんなことはないと思いますけど……。だって、ローズさん、すごい魔力……」
恐怖は無い。けれども弱いものなら気を失ってしまうほどに強い魔力の気配だ。
ローズさんが頬に指を当てて困ったような笑みを浮かべた。
「……大したことじゃないんです。魔界から調達している食材が一つ間違えて送られてきましてね、返品していたところなんですよ」
「返品……?」
階段を降り切ったところで、突然ホールのどこからか発せられる、切り裂かれるような波動を感じた。
ローズさんの気配じゃない、もっと恐ろしい何かの波動。
あわててローズさんの傍に寄りロビーを見回す。
どこだ……。
キョロキョロと、ホールを見る。
柱時計、今しがた降りてきた階段、東西に延びる廊下、そして天井。
違う……。
「キューさん?」
「ローズさん、なんかこのロビー、変な感じがするんです」
「……クスッ、たぶんそれはそこですね」
ローズさんは小さく笑うと、ロビーの奥の大きな窓を指差した。
「え?」
見れば夕食の時と何一つ変わっていない窓。
ただ1点を除いて。
景色が黒い。
窓の外は、暗雲たち込めた空、窓から蛇のようにうねり遠くへ延びたダートな道、その両脇には上下が分からない幹の青い大木列。
……人間界じゃない。
天界でもない……。
「……」
「魔界……、そう呼ばれている世界です」
ローズさんが小さく言う。
なんだか物悲しい、遠い目をしている。
「危険なのでそろそろ入口を閉じますよ」
そう言って、こちらを見て一瞬穏やかにほほ笑むと、ローズさんの髪が逆立ち、目を見開いて、ホールの真ん中から窓の方へ手をかざした。と同時に、より一層強い魔力を発する。
……すごい、なんという魔力。
見れば窓の外は瞬く間に、元の隣の家の塀しか見えない景色へと変わっていった。
「ふぅ……。これでよし、っと」
ローズさんが髪を結い直しながら言った。
「それにしても、キューさんは強いんですね……」
「え?」
「すぐに魔力を察知するし、それにほら、これを見て」
そう言うとローズさんは、両手を広げてホールの床を示した。
言われるままに足元を見る。
円しか描かれていなかったはずの床の丸い絨毯が、今は、円の内側が複雑な文様へと変わっている。
「こ、これは……」
「魔法紋です」
……二階から見たはずなのに、気づかなかった。
「魔界の扉を開くには、強い魔力が必要なの……。それにはどうしても悪魔の気配が強くなってしまうから。この魔法円で魔力が外に漏れないよう完全に抑えているんですけどね……」
「え?そうなんですか?」
「えぇ……。それにね、普通なら簡単にこの中には入ってこれないのよ。……キューさんはクピドさん達やスタグさんとは違うのね。やっぱり将来の優秀な天使候補なのかしら」
「え!?そ、そうなのかなぁ……、あはは」
初めて言われた優秀という言葉に、思わず動揺してしまった。
「さてと……」
ローズさんが右手を床にかざす。
絨毯の文様がすーっと薄くなり、やがて消え、元の円だけの模様に戻った。
「キューさん、これからどこかに出かけられます?」
「い、いえ。今日はなんだか疲れたから、もう寝ようかなと……」
「そうね、その方が良いわ。では今日は、もう玄関の鍵を閉めるわね」
そう言うとローズさんは、玄関のドアへと近づいて行った。
「はい。んじゃローズさん、おやすみなさい……」
「おやすみなさい」
あたしはそのまま、今降りてきたばかりの階段をゆっくり上った。2階へ上りきったところで下を見れば、ホール越しに管理人室へと戻っていくローズさんの姿が見えた。
「悪魔……か」
廊下の暗がりを通り、部屋へと戻る。
空調の効いた窓の閉められた部屋は、外の騒音を拾うことなく静寂を保っている。
窓際の椅子に座り、テーブルの上に課題書を広げペンを執る。
オレンジ色のランプの明かりが、穏やかに部屋を包んでいた。
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