星屑とネギ

 家事の一切を妻に頼っていた男の一人暮らしは、「男やもめに蛆がわく」とか言う通りひどいものである。蛆がわくほどではないが、キッチンに放置しておいてめきめきと芽が生えているじゃがいもを見てため息をつく。

 じゃがいもってこんなに成長するもんだったか、そんな感想を抱きつつも容赦なくそれを掴みゴミ箱に捨てる。これだけ芽が出てしまってはもう食べられないだろう。

 やっぱり、仕事で夜遅いこともあるし、こうして食材を駄目にしてしまうことも多い。そうなると自炊するよりは賞味期限の切れた惣菜を片付けていくほうがよっぽど経済的でエコロジーではないかと思う。金には困ってないが、食べ物を粗末にするのはどうかと思うのだ。

 金曜の夜、モンスターと化したじゃがいもと相対してどっと一週間の疲れが襲ってくる。とりあえず、明日は一日中寝よう、好きなだけ寝よう。

 そう思った矢先、チャイムが鳴った。


「……何だ?」


 そんな独り言が口をついて出た。なぜならうちのマンションのチャイムは、エントランスからなら一度、部屋直通なら二度鳴る仕組みになっていて、今は二回鳴ったからだ。近隣の住民が何かご用事だろうか。俺は何もしていないはずだが。

 うるさくしてもいないし階下に水漏れだってしているはずもなく、そもそも今さっき帰ってきたばかりだし、いったい何者が訪問してきたと言うのか。

 俺がキッチンで固まっていると、もう一度チャイムが鳴る。インターホンにはカメラがついておらず、男の一人暮らし、いきなり襲撃されることはないだろうと高をくくり、とりあえず玄関に向かった。


「はい……」

「リョウ! 久しぶり!」

「……」


 思わず閉めかけたドアを、立っていたそいつが慌てて引いた。

 満面の笑みでそこにいたのは、ツリ目の女子高生だった。



 番外編:カモがネギをしょってやってきた



「デリヘルはお呼びじゃない」

「うわっ、ぴちぴちの現役に向かって何言ってるの!?」


 スカートは膝上十五センチは下らないだろう、紺一色で、同じ色合いのブレザーの下には灰色のカーディガンを着ている。

 長い、背中まである髪の毛は二つになんか結わえられていないでそのまますとんと落ちて、ぱっつんの前髪から覗く吊り上がった勝気な瞳がきらきらと星のように輝いてこちらを見つめていた。


「何の用だ」

「星になりに来ました!」

「帰れ」


 一蹴すると、彼女はふわっと眉を上げ、俺をすさまじいまでの眼力で睨みつけてきた。


「ちょっと! カモがネギ持って来てるって言うのに!」

「ネギ?」

「ゴム」

「帰れ」


 一気に脱力してしまう。何がネギだゴムだ。

 俺がげんなりしている隙に、彼女がそそくさと玄関に上がり込んでくる。スカートからすらりと伸びた足は紺のハイソックスを履いていて、黒いローファーをぽいと脱ぐ。その脱いだローファーをきちんと並べようとしゃがみ込んだ時にしゃなりと長い黒髪が揺れた。

 その揺れた髪の毛に気を取られているうちに彼女はさっさと立ち上がり、ぱたぱたと短い廊下を駆けていく。それに、ようやく我に返って、俺はその背を追いかけた。


「おい」

「変わんないね~、あっソファカバー変わってるね!」

「おい、リリコ」

「しっかり冬素材じゃん。あったかそ~」

「リリコ!」

「何? そんなおっきな声出さなくても聞こえてるよ」


 振り向いた彼女がにっこり笑って、それが、数年前の夜の泣き笑いに重なる。「ありがとう。だいすき!」。

 まさか、ほんとうに星になりに来たって言うのか。こんな、五十近い独り身の男のとこに。

 リリコが、身体ごと振り返って俺の前に立った。そして腰に手を当てて胸を張る。


「背、大きくなったでしょ?」

「……」

「これで、星になれるでしょ?」

「……」

「リョウ?」


 こいつが俺の前に突如流れ星のように現れた日のことは、今でも忘れない。まだまだ小さかった女の子がこんなに成長するほど年月が経ったなんて、信じられないくらいに鮮明なのだ。

 その分、俺だって年を取った。もうすぐ五十の大台に乗っかってしまうし、あの頃に比べて皺も増えたし認めたくないが腹ももう少し出てきてしまった。(最近、引き締めようとジムに通い出したが、効果はまだ出ていない)

 じっと、目の前に立つ少女を見つめる。少し化粧をしているようだ、まつげがきっちりと上向きで、唇もなんだかつやつやしている。けばけばしいわけではなく、きちんと若さという素材を生かしているふうで俺はどうにも居心地が悪くなった。


「リリコ。俺は今仕事から帰ってきたばっかで疲れてんだよ」

「そうだね、まだスーツだもんね」

「お前と遊んでる元気はないんだ。帰れ」

「遊びに来たんじゃないよ」


 ぎゅっと片手でスーツの裾をつままれて、あ、やばい、と思った。

 リリコは、俺のことをじっと上目に見て軽く唇を噛んだ。


「星になりに来ました!」

「……」


 何て言ったらいいのか、分からなかった。

 今この少女は何歳だったっけ、とうすぼんやり、そんな考えが浮かんで、かぶりを振った。


「帰れ」


 短く鋭くそれだけ言う。

 俺はたぶん、戸惑っているのだ。あのクソガキだったリリコが大人の女になりかけていることに。まだまだ蕾かもしれないけれど、確実に咲こうとしていることに。

 いや、もう彼女はすでに、「リリコ」ではないのだ。


「わざわざ電車乗り継いでここまで来たの。星になるまで帰らないよ」

「お前、星になるってどういう意味で使ってんの」

「リョウの恋人になるって意味だよ」

「……小娘に興味はない」


 そう言うのが精一杯で、俺はずきずきと疼く頭を押さえた。

 いつまでも小さい女の子であるはずだったのに、どうして羽化してしまうんだ。そうやって俺の手の届かないところに、また飛んでいってしまう。星になってしまう。

 彼女は俺を、まっすぐに黒い瞳で突き刺して、丸裸にしようとする。心の中まで覗き込むように。


「待ってるって言ったじゃん」


 ぽつんと、置いてけぼりになった子供のように落ちた言葉。心細そうな声色。呆然と俺を見つめるツリ目。

 そうだ、俺は確かに言った、待ってる、って。けれどそれが「大人の約束」であることを、彼女にどう説明すればいいのだろう。

 決して、その場しのぎに言ったつもりじゃなかったけれど、俺は彼女がほんとうに来るなんて、思ってもいなかったのだ。約束を破られるのは俺のほうであるはずだったのだ。

 戸惑いが目に表れていたのかもしれない。彼女はすっとそのツリ目を細めて口を開いた。


「リョウ」


 昔の面影のあるその目で、俺を見るな。女になってしまった唇で、俺の名を呼ぶな。

 いい年こいたおっさんを揺さぶるのがそんなに楽しいか。


「……莉子、あのな」


 そこで言葉は途切れた。彼女が突進するかのように、けれどもったいぶるように抱きついてきたのだ。

 昔とは違う目の高さ。相変わらず見上げてはいるのに、ああ、キスができる距離だな、と思ってしまった自分がなんだか嫌だった。

 白くふくらんだ身体が押し付けられて、ぎくりと背筋が強張る。


「待たせてごめんね」


 そう言って笑い、そっと彼女が背伸びをした。距離はあっけなく埋まってしまって、俺は避けることもできなかった。

 リビングは、空気清浄機の音しかしないはずなのに、二つ分の微妙にずれた心臓の音が、自分の身体の内側から聞こえてくるようだった。それくらい密着している、ということの証明だった。

 こんないい年こいたおっさんが、二十歳にも満たない女の子に抱かれて好き勝手されているのなんか、いったい誰が得をすると言うのだ。

 ため息をついたら、彼女は目を見開いて、それから歯を出さずに微笑んだ。

 そして静かに呟いた。


「あたしもうすぐ高校卒業するの」

「……」


 十歳の女の子を立派な女にする。八年の歳月というのはそういうことだ。

 きついだけの印象を与えていたツリ目が、いつの間にか柔らかな色気を備え、星が瞬くように長いまつげが揺れる、それが八年という時間の仕業だ。

 俺の可愛い思い出をこんなぶち壊しにしやがって、どうしようもない、時間なんてやつは。


「八年か」

「リョウ、おなかちょっと大きくなったんじゃない?」

「俺もう四十八だぞ、そりゃあ出るだろ……」

「ぷにぷに」

「お前だって昔は骨と皮しかなかったのに」

「女ですから」

「……」


 墓穴を掘った。

 俺が黙り込むと、彼女は少しだけ、うれしそうにはにかんだ。

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リリコ・スターダスト 宮崎笑子 @castone

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