7
星はいつもそこにある。けれど決して触れることはできなかった。
俺はリリコを星屑だと言ったけれど、それだって、星屑だって立派な星だ。少し小さいけれど、ちゃんと星のかたちをしている。
星から生まれた小さな星は、きっと瞬く間にまばゆく輝くようになるのだろう。
そして、俺はきっとまたそれに触れられないのだろう。
最終話:さよなら星屑
リリコの風邪もだいぶよくなったので、俺は心置きなく会社に行くことにした。スーツを着込んで姿見の前でネクタイを締める。それをベッドに横になって眺めながら、リリコが言う。
「今日の晩ご飯、何?」
「まだ朝だぞ……、なんか考えて材料買ってくるよ」
「カレーがいいな。甘口のやつ」
「ガキかよ」
ははっと笑って、しょうがない今夜はカレーだ、と思う。
鞄を持ち上げて、玄関に向かう。リリコがついてきた。
「行ってらっしゃい」
「おう」
「早く帰ってきてね。おなかすくから」
元気になったらなったで、うるさいクソガキである。
適当に手を振って家を出て駅に向かう。電車の中で、カレーって何が入っていたっけ、と考えたらにんじんが出てきて、あいつにんじん平気なのかよ、と思わず笑いがこぼれてしまう。
にんじん大きめにカットしてやろう、と思いつつオフィスの入っているビルのエレベーターを待っていると、背後から人の気配がした。振り返る。
「おお、ハヨ」
「……おはよう」
「なんだ、元気ねえな」
同僚の飯田が、すぐれない顔色で立っている。いつも元気な彼女にしては珍しい。ちょうどエレベーターが来て、俺と飯田はそれに乗り込んだ。
「具合悪いのか?」
「いいえ、ちょっとね……」
「あ?」
「今日の帰り、警察に行こうと思っていて」
「警察?」
のっぴきならない事情があるらしい。あまり深入りするのはぶしつけか、と思いつつも、気になるものは気になるし、飯田だって俺に言う気がないなら言葉を濁すはずなので、聞いても問題はないだろうと勝手に結論付ける。
「どうかしたのか?」
「……娘が帰ってこないのよ」
「……」
「家出は常習だから気にしてなかったけど……お友達の家に電話してもどこにもいないし、もしかして事件に巻き込まれてるんじゃないかと思って」
まさか、と嫌な予感が渦を巻いたが、黙って話を聞く。
「今朝あの子の部屋のゴミ箱から携帯が出てきたの。家出は家出だと思うけど……何か大変なことが起きているような気がして」
「……」
「一週間も帰ってこないなんて初めてだから……」
その時、ふと過去の記憶がよみがえった。
五年前、一度目の離婚のあとで飯田が、ろくな食事をとってないんじゃないかって言って俺を家に呼んだのだ。飯をごちそうになったのはもちろん覚えている。その時、小さな女の子がそばにいたような気がする。つやつやした髪の毛で、ふっくらとしたほっぺたの、ツリ目の女の子。
「その子、名前……」
「莉子。平野くん、一度会ったことがあるでしょ?」
あの時、俺に人見知りを発揮してなかなか近づいてこないながらもじっと俺を気にしていたあのツリ目と、遠慮のないまじまじと見つめてくるツリ目が、重なる。
リョウは覚えてないんだね。
「……警察に行く必要はない」
「え?」
「その子、今俺の家にいる」
「……は?」
飯田が目を見開いて、俺は少しだけ後悔した。
もう、あいつににんじんたっぷりのカレーを作ってやる必要がなくなったことや、びしょ濡れの長い髪の毛を乱暴にタオルドライすることもないのだろうことを少しだけ考えた。
でも、これが正しい選択だ。俺はあの子の父親でもなんでもない。
「一週間前に、いきなり拾わされた」
拾わされた。その表現のあまりの的確さに、自分でも笑ってしまう。
飯田に事情を説明しているうちに、たぶんリリコは今頃午前の情報番組を見ている、と想像した。ソファに埋もれるようにして座り、テレビのリモコンをちゃかちゃかいじっているのが目に浮かぶようだった。ああ、いや、番組表覚えたんだっけ。
「……呆れた」
全部聞き終えて、飯田はそんなことを言う。
「そんな脅しに屈さないでとっとと警察に突き出せばよかったじゃない」
「ああ、うん、冷静に考えれば、そうだよな」
「知り合いの娘じゃなかったら、下手したら犯罪よ」
「うっ……」
乱暴されたって言う、そんなはったりをずっと本気にしていたわけじゃない。けれど警察に届けられなかったのはきっと、楽しかったからだ。
家に帰ればリリコがいて、俺が料理をしているのを後ろからそわそわと眺めている、そんなのが楽しかったからだ。
「帰り、うちに寄って行って引き取ってけよ」
「そうするわ」
俺が帰ってきて、隣に母親がいたら、リリコはどう思うだろう。そんなことを思いながら、仕事があまり身に入らない。
それでも今日の仕事は全部きちんと終わらせて、俺は定時過ぎに飯田と連れ立って会社を出た。ふと気になっていたことを口にする。
「あいつ、ちょっとわがまますぎやしないか?」
「そうかしら?」
「ガキなんかいたことないからこんなことお前に言うのもアレだけど……育て方間違えたぞ」
「気に入らないことがあるとすぐ家出する以外は聞き分けがいい子だけど」
「そうなのか?」
母親には、あんなふうに自己中心的な顔を見せていなかったのか。聞き分けがいいリリコなんか、想像できない。
俺が深々とため息をつくと、飯田もため息をつく。複雑な心のうちは察するが、それでも俺は一つだけ、言いたいことがある。
「なあ」
一週間も経たないと、リリコの行方不明が明るみに出ない、そんな家庭環境はどうかと思うぞ。
リリコは、と思う。リリコはもしかして、ずっと待っていたんじゃないのか。家族が見つけ出してくれるのを。
かたくなに警察に行くことを拒んだのは、自分からではなく、家族の手が差し伸べられるのを待っていたんじゃないのか。
飯田は黙り込んで、それから小さく、そうよね、と呟いた。さみしげな顔は、ツリ目でもなければ生意気そうでもないのに、リリコに似ていた。ああ、親子だなって思う横顔だった。
エレベーターに乗って、俺の部屋の階までたどり着く。エレベーターすぐ横の扉を開ければそこにリリコが待っている。開けるのが、怖かった。
それでも俺は、ゆっくりと鍵を挿し込んで回し、扉を開けた。
「リョウ! お帰り!」
「……ただいま」
廊下を駆けてきたリリコは、すぐに俺の隣にいる飯田に気付いて顔色を変えた。
「……ママ」
「莉子、あんた人様の家で何してるのよ」
リリコが一歩後ずさる。その腕を飯田が掴み、引っ張った。よろけたリリコが、けれど気丈に突っ張った。
「帰るわよ」
「いやだ!」
「莉子!」
玄関先でこんな大声でわめかれても困る。俺は、とりあえず二人に中に入って話し合いをするよう勧めてみた。
「リリコ、わがまま言うな」
「リョウの裏切り者!」
「何をどう裏切ったんだよ、俺が」
半べそをかいているリリコが、ぶすっとした顔でダイニングの椅子に座っている。その向かい側に座った飯田も、いつになく怖い顔をしている。これが母親の顔か。
スーツのジャケットをハンガーに掛けながら、俺はリビングで二人の会話に耳を澄ませている。
「家出するのは勝手よ、でも人に迷惑をかけるような子に育てた覚えはない」
「一週間もほったらかしで、母親面しないでよ」
「あんたの家出はもはやオオカミ少年なのよ」
「……」
「平野くんに迷惑かけて……ママがどれだけ恥ずかしい思いしたと思ってるの」
「リョウは、あたしのパパだもん!」
「あんたのパパはうちにいるでしょ」
「あんなの、パパじゃない!」
何となく分かった。リリコは、自分の父親があまり好きではないのだ。それがどういういきさつで、というものかは知らないが。
それで、俺が父親だったらいいななんて勝手な希望を持ってここにやってきたのだ。
気付けばリリコはわあわあ泣いていた。何度も何度もしゃくり上げて、それでも何とか抵抗をしている。けれど、大人と子供の差なのか、リリコが言い負かされているのは誰の目にも明らかだった。
そこまで追い詰めなくてもいいだろ、と思ったあとで、俺もずいぶん甘くなったなと苦笑する。
結局リリコはなんだかんだと退路を断たれ、逃げ場をなくして袋小路に立たされてしまった。
「帰るわよ」
「……」
最後の抵抗で、リリコは椅子から立ち上がろうとしない。莉子、と苛立たしげに飯田が声をかけると、ぽつんと呟いた。
「最後に、リョウとお話させて」
「……」
飯田は静かにかぶりを振って、少しだけよと呟いて出て行った。外で待っているつもりなのだろう。名指しされた俺は、リリコの背後から近づいた。
「リリコ」
「……あたしリリコじゃないんだよ」
「俺にとっては、リリコだよ」
二つに結わった髪の毛のてっぺんを撫でると、リリコは泣いたまま呟いた。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
「いいよ、もう。……親父さんと仲良くしろ」
「……だって、あっちがあたしに興味ないんだもん」
「……」
細い背中がさみしそうな理由も、俺といて楽しかったのかも、何も分からないけど。でも、俺の作った飯を食べて見せる笑顔とか、俺とふざけ合ったりしてじゃれるリリコが嘘をついてたとは思わないから。
「いっつも、いっつもいないもん。あたしの誕生日も、クリスマスもお正月もいっつも」
「お前誕生日いつ?」
「四月」
「もう過ぎてんのか」
リリコは、少しだけ期待するような目で俺を見たけれど、それもすぐにうつむいた。誕生日を俺は祝えないし、祝うべきじゃないと思っているし、父親が祝ってくれたほうが何倍もうれしいことは分かり切っている。
「リョウ、思い出した? あたしのこと」
「……おう。ていうか、あんなの覚えてるのうちに入らないだろ」
「おじさんだから物忘れ激しいんだよ!」
「うるせえクソガキ」
こんなやり取りも今夜が最後なのだ。
振り返ったリリコの目は星屑みたいに濡れ光ってきらきらしていた。
「リョウはおじさんだからきっと、あたしのことすぐ忘れるよ」
さすがにこんな濃い一週間のことは、墓まで持って行けるレベルで忘れないと思うけど、それは口には出さずに唇だけで笑った。
「でもね、あたしは物覚えがいいから、忘れないんだよ。リョウが忘れても、あたしは忘れないんだよ」
「……大した自信だな」
思わず吹き出すと、リリコはまた泣いた。俺はきりりと表情を引き締めて、なあ、と投げかける。
「泣きたい時は、泣けよ」
「……」
「俺を呼んでもいい。駆けつけてやる」
「……リョウ、めっちゃカッコつけてるじゃん」
「うるせえ」
「……でも、ありがとう。だいすき!」
「……ばか」
「決めた!」
リリコがひときわ大きな声を出す。泣きながら、リリコはにんまりと歯を見せて笑った。歯並びがいいことに、今更気が付く。
「あたし星になるよ」
「は?」
「星屑じゃなくて、星になる!」
「……」
「絶対いい女になるから」
まあ、お前は顔は悪くないんだし、その甘っちょろい世界を舐めきってる性格さえ矯正すればたぶんすごくいい女になるよ、ということは癪なので言わない。
代わりに、生意気言いやがって、というつもりで髪の毛をわしゃわしゃと掻き混ぜた。結わいた髪が乱れて、リリコは目をぎゅっとつぶる。へへへと笑って目を開けて、リリコはいたずらっぽく俺を見た。
「だから、リョウは待っててね」
「あ?」
「あたしがいい女になって星になるまで、待っててね」
「……おお」
子供の戯言だ。そんなことは分かっていたけど、リリコはいたって真剣で本気なようなので、俺も笑って頷いた。
「待ってる」
リリコは、星屑なんかじゃなかったリリコは、母親に連れられて俺の家をあとにした。
スーツのまま着替えもせずに、ソファに座り込む。ああ、飯、何食おう。結局カレーの材料は買っていないし、かと言って魚肉ソーセージを食べるのももう飽きた。
コンビニ行くか、と重い腰を上げて財布を手に取る。夜でも明るい光を放つコンビニはほんとうにマンションの目と鼻の先にあって、リリコはここに行くのを面倒がったんだよなあとおかしな気持ちになった。
弁当とビールを買って戻る。静かだ。誰もいない。当たり前のことだけど、もうそれは俺にとって当たり前ではなくなってしまった。
妻が出て行って、リリコも出て行って、それで俺には何が残っただろう。
別に、何か残らないといけないわけじゃないけれど。
広い家だな。と思って、ぽつりとその気持ちが落ちてきた。
さみしい。
「……アホくさ」
そんなのは幻想だ。俺はもともと一人だったし、二度も離婚しているんだから、きっと誰かといることに適性がないのだ。だから女は星なんだ。手を伸ばしたって触れられない。
でも、そんな星に、リリコはなると言う。
「ならなくていいっつの」
お前まで星になったら、俺は誰に触ればいいんだよ。
そんな言葉を本気にしたわけじゃないけれど、だけどやっぱりリリコにはリリコでいてほしかった。俺が触れることのできる、リリコで。
まあ、あの性格じゃあ道のりは遠いけどな。と心の中で負け惜しみを吐いてビールをあおる。普段美味しいと思うそれは、なんだか妙に苦々しくて。
忘れないよ。忘れられるはずがないだろう。
だいたい、多感な時期の女の子のほうがこういうことって忘れてしまうんじゃないのか。たぶんリリコはそのうち、星になると決めたことなんてすっかり忘れて同級生の男と恋をしたりする。それでいいんだ。
俺はきっと、それを待っている。リリコがそうやって大人になるのを、ちゃんと待っている。
リリコは星屑なんかじゃなかったけれど、俺にとってはたしかに輝いていた。
◆了
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