新聞をくまなく読んでも、テレビのニュースに耳をそばだてても、ネットのニュースを舐めるようにチェックしても、行方不明の女の子は見つからない。

 リリコはどこからやってきて、これからどこへ行くのか。

 春の風が、葉桜を揺らしている。ざわざわと木立ちが歌う横を、俺はスーパーの袋をぶら下げて気持ち急いで歩いていた。

 早く家に戻らないと、と思うが駅前のスーパーからの帰り道はこんな時だけ遠い気がする。



 第六話:うわごとのひめごと



 リリコが熱を出した。

 自然に目が覚めたのは九時頃だったのだが、リリコは寝室から出てきていないようだった。昨日は、十一時に起きた(正確には起こされた)俺を馬鹿にしていたのに、自分はねぼすけか。そう思って、俺は寝室のドアを勢いよく開けた。


「リリコ、起きろ。朝だぞ」


 返事がない。

 ベッドに寝っころがっているリリコの肩を掴んで、その異変に気が付く。


「……おい?」


 掴んだ肩が妙に熱い。それで、リリコの顔を覗き込むと、彼女は苦しそうに息をついて目をぎゅっと閉じていた。


「どうした」

「気持ち、悪い」

「風邪か?」

「たぶん」


 リリコに逆襲してやろうという気持ちは当たり前に消え去り、俺は今度は慌てはじめた。リリコが風邪を引いた。もちろん医者に見せるのが一番に決まっているが、彼女は保険証なんて持ってるはずがないだろう。

 医者には見せられない。いよいよって事態になるまで自力で治してもらうしかない。


「買い物行ってくるな」

「え……」

「なんか欲しいもんあるか?」

「……ない」

「じゃ、行ってくる」

「まっ……」


 リリコが何か言いかけたのを無視して俺はそそくさと家を出て、十時開店のスーパーに並んで入店し必要物資を調達して帰ってきた。


「リリコ」

「……」


 寝室のドアを開けると、ベッドに寝っころがっていたリリコが視線だけこちらに向けた。なんとなく頬が上気しているような気もする。


「今からおかゆ作るけど、食うか?」

「うん……」


 それだけ確認して寝室を出る。

 無駄に元気なリリコがあれだけ弱っていたら、俺じゃなくたって心配する。ことことと鍋でご飯を炊きながら薬味のネギを輪切りにしていると、手元を誤って指を切った。


「っつ」


 ぷっくりと盛り上がった血を舐めて、面倒なのでネギはそこまでにする。絆創膏を探してリビングの棚という棚を開けまくる。誰も一度も使っていないような救急箱が出てきて、そこに未開封の絆創膏の箱があった。

 絆創膏を指に貼る。ちょっと不格好になったがまあいい……いやこれはひどい。


「おっと」


 結局もう一度貼り直していると、鍋がかたかた言い出して慌てて火を止めた。

 パックライスに水を含ませるだけの簡単なおかゆだが、ないよりましだろう。米から作るのは時間がかかりすぎる。塩で味付けして、茶碗に盛りつけてネギを散らす。

 トレイにスプーンと茶碗と水の入ったグラス、そして解熱剤を置いて、寝室のドアを開ける。


「リリコ」

「……」

「おかゆ作った。食えるか」


 リリコが、顔をくしゃくしゃにしてのそのそと上体を起こした。その表情に小さな疑問を感じつつも、俺はベッドの空いたスペースにトレイを置いた。

 ほかほかと湯気の立ったおかゆをちらりと見て、リリコはため息をついた。


「なんだよ」

「……なんでもないの」


 いつもの弾丸のような元気がない。やはり具合が悪いとさすがのリリコだって弱るようだ。リリコにおかゆを食べるようにせっつくと、のろのろとスプーンを握っておかゆを一さじすくい、冷ますこともせずに口に突っ込む。はふはふと口を忙しく動かしながら、リリコはぽつんと言った。


「しょっぱい」

「あ?」

「しょっぱいの」

「塩入れすぎたか? ……おい?」


 リリコが泣いている。泣くほどしょっぱかったのか、と一瞬馬鹿なことを考えたが、すぐにそんな理由じゃないのだろうことが分かる。けれど、じゃあ理由はなんだと聞かれたら分からない。

 服の袖でぼろぼろ零れ落ちる涙を拭っているリリコが、鼻をぐすりと鳴らして言った。


「リョウのバカ」

「ああ?」

「広いよ、この家」

「は?」


 何の話だ。突拍子もない。

 ただ、泣いているリリコを見ていると、ふと出て行った妻のことを思い出した。それは別に似ているだとか未練だとかではなくて、ただ単純に、リリコが体調を崩して俺がおかゆの材料を買い出しに行っている間一人でこの家にいたことを考えたのだ。具合がすぐれなくて心細いだろうにこの無駄に広い家に一人きり。

 別に今日だけじゃない。リリコは、俺が仕事に行っている間ずっと一人だった。それは妻も同じだったと思い当たった時に、少しだけ思うことがあるのだ。

 さみしかったんだろうな。

 俺が、仕事仕事と飛び回った挙句に不貞をはたらいて、もうこのさみしい家にいる意義もなくしてしまったのだろうな。


「さみしかったか?」

「……」


 リリコは、だいぶ不満そうにしていたけれど、それでもこくんと頷いた。

 そうだ、この子は生意気だけど、いや生意気だからこそ、まだ十歳で、子供でお嬢ちゃんだ。心細いに決まってる。

 俺は、しかたねえなあ、という表情をしたけれど、面倒くさそうな表情を作ったけれど、リリコの細い絡みそうな髪の毛をくしゃりと撫でたその手は、自分史上最高に優しかったと思う。


「なあ、リリコ。聞いてもいいか」

「……何?」

「なんで俺だったんだ?」

「え?」

「なんで、家出の先が俺の家だったんだ?」


 我ながら馬鹿らしい質問だとは思う。けれどどうしても気になっていた。

 リリコはどこから、なんで俺のところに来たのか。


「……リョウは覚えてないんだね」

「え?」

「……ごちそうさま。しょっぱかった」

「何……」


 俺が、何を、と思っているうちに、リリコは水を口に含んで薬を飲み干した。その姿に、錠剤飲めないとかわがまま言われるのかも、と売り場で少し悩んだ自分を思い出す。なんだ、飲めるのか。

 そのままリリコは、ばふっと布団に横たわり、毛布を唇まで引き上げた。


「リリコ」

「もう寝る」

「俺が何を忘れてんの」

「ねーる」


 こうなったらリリコはてこでも動かない。何も話してくれない。こういう意地っ張りなところは、誰に似てるのだろう。俺、なんだろうか。

 俺が何を忘れているのか、リリコは何を覚えているのか。分からないけれど、きっと過去に俺たちの間には何かがあって、それが今をつないでいる。

 むっつりと黙り込んで俺に背中を向けてわざとらしく寝息を立てているリリコの、洗いざらしの髪に触れる。


「リリコ」

「……」

「……ゆっくり休めよ」

「……」


 ベッドに散らばる髪の毛をまとめてやって、俺はトレイを持ち上げた。病人のくせに気持ちいいくらいの食べっぷりを見せたリリコはおかゆを平らげているし、水も全部飲んでいる。

 もっと、病人っていうのは食欲が減退してしまうものだと思っていたけど、そんなに熱も高くなさそうだし、そこまで心配することもないのだろうか。

 食器を洗おうと水を出して触れると、ぴりっと指先に痛みが走る。ああ、そう言えばネギ切る時に一緒に切ったんだった。濡れて絆創膏が剥がれかけている指先を眺め、ため息をつく。

 結局うまいこと貼れてないじゃないか。


「不器用かよ」


 ぼそりと呟いて、傷口を見る。皮がめくれて、止まってはいるようだが血が滲んでいる。あとでまた貼り直すか。

 しゃこしゃことスポンジを泡立てて茶碗を洗う。そこで、俺の腹がぐうと鳴った。

 そういえば俺は朝から何も食べてない。リリコが熱を出したので、慌てて開店とともにスーパーに駆け込んで今に至っている。時計を見れば、十一時半だ。

 冷蔵庫から魚肉ソーセージを出して一気食いして寝室に向かう。

 そっとドアを開けて様子を見ると、リリコはさっきのわざとらしさから一転、すっかり夢の中だった。


「……」


 ベッドのふちに腰掛けて、リリコの寝顔を覗き込む。普段はぺっちゃらぺっちゃらうるさいけど、こうして黙って寝ていれば可愛い顔してるんだよな。

 ぽかぽかと頬が赤い。額に浮いた汗を、自分の服の袖で拭う。タオル持って来たほうがよかったかな、と思って立ち上がろうとすると、ふとリリコが身じろぎした。


「起こしたか?」

「……リョウ」


 リリコが潤んだ目で俺を認識する。それから、立ち上がりかけた俺の服の裾をつまんだ。


「タオル取ってくるだけだよ」

「……」

「リリコ」


 リリコは、焦点の定まらない視線で俺をぼんやりと見ながら、それでも服の裾を握ったまま離そうとしない。


「汗とか気持ち悪いだろ、拭きたいだろ」

「……いい」

「いや、あのな」


 こんなにも弱弱しい力で服の裾を掴まれていては、どうにも振り払うこともはばかられる。

 俺は困り果てて、リリコの頭を撫でた。じっとりと汗で湿っている。


「一緒にいてよ」

「……」


 リリコらしくない甘えた言葉に、リリコらしいストレートな要求。

 泣きそうな顔をした彼女に、俺は仕方なくまたベッドに座り直した。するとほっとしたように目を閉じた。まっすぐで長いまつげが、頬に影を作る。

 色白、ではないと思う。健康的な、一般的ないわゆる肌色だ。日本人らしい、黄みがかった肌色。その頬が赤くなって息は上がっていて、つらいんだな、と思う。

 もぞもぞと身じろぎしたリリコが、かすれた声で、ねえ、と言う。


「ねえ」

「何だ?」

「リョウは、あたしのパパだよね?」

「……」


 黙るしかない。答えられるはずもなかった。

 俺はお前の父親なんかじゃないと言い切ることも、そうだなとおざなりに同意することも、どちらの選択もあまりに不適切だった。どっちにしたって、誠意がない。

 けれどリリコは一生懸命、俺の答えを求めているのだ。そのすがるような目を見た時に、急にはじけるように分かったような気がした。

 俺は、リリコの父親なんかじゃないのだと。

 この数日間、リリコは何度も何度も俺に確認するように、パパだよね、と聞いた。それは俺に、そうだよ、と言ってほしいから故のことで、正解を求めているわけではないのだ。

 なぜ、とか何のために、とか事情や理由はまだ分からないけれども、リリコは嘘でもいいから俺を父親に仕立て上げたいのだ。


「……寝ろ。苦しいだろ」

「リョウのばか」


 そんな覇気のない捨て台詞を吐いて、リリコはまた目を閉じた。そのまま、彼女の意識がふわふわと落ちていくのを確認して、俺はそっと服の裾を握っていた手をほどいて洗面所へ向かう。

 濡れタオルを作って戻ると、リリコはさっきよりいくばくか楽になったような顔で眠っていた。薬が効いてきたのだと思う。


「なあ、リリコ」


 返事がないことは分かっているけれど、名前を呼んだ。

 リリコが来てから、俺のペースは狂わされっぱなしだ。慣れない料理を作らされるし、休日は叩き起こされるし、わがまま放題やりたい放題。

 なあ、リリコ。でもそれが今となっては少し楽しい自分がいるんだよ。変だろ。

 離婚してから悠々自適にやってきた俺に、いきなり娘ができた。少しだけうれしかったりしているんだよ。おかしいだろ。

 ふと、リリコが何かうわごとのように呟いて、まなじりから水滴が零れ落ちた。悪い夢ででもみているのかもしれない。

 濡れタオルでこめかみを拭いてやって、俺はため息をつく。休日のうちに伸びてしまった顎ひげを撫でて、俺は静かに寝室を出た。

 リビングのテレビをつけて、もうここ数日の習慣になっている、ニュースによる行方不明の女の子探し。

 もう、リリコがうちに来て一週間近く経つのに、どうして。どうして何のニュースにもならないのだろう。

 リリコの言葉を思い出す。「リョウは覚えてないんだね」。なんとなく、何かが引っかかるようで引っかからない。

 冷蔵庫からもう一本魚肉ソーセージを取り出してビニールを剥く。かぶりつきながら、俺もなんだか頭が痛い、と思った。


「リョウ」


 ふと気が付くと、リビングのドアのそばにちんまりと、心細そうにリリコが立っていた。ニュースが終わっても惰性でつけていたテレビを消して、ふらふらしているリリコのそばまで向かう。


「寝てろよ」

「もう、治ったよ」

「寝言は寝て言え」


 リリコの額に手を当てると、朝よりかはましだったがやはりまだ平熱以上の熱さがある。


「見たいテレビあるの」

「寝言は、寝て言え」


 ちょっと心配した俺が馬鹿だった。

 リリコはてくてくソファの前まで歩いてぼすっとそこに座り、俺が消したばかりのテレビのリモコンを握る。俺のTシャツから伸びる手足は、健康的な細さだ。まだ未成熟の、けれどちゃっかり大人に半歩踏み込んでいるような、そんな細さ。

 この間覚えたばかりの番組表のボタンを押してぼんやり文字を目で追うリリコの横顔は、子供なんだか大人なんだかよく分からなかった。

 変な夕方のバラエティ番組だった。


「アニメ見るんじゃないの」

「あたしあれ好きじゃない」

「なんで。日曜の夕方はあれが鉄板だろ」

「日曜日終わっちゃうの、嫌なの」


 なんだよ、月曜が憂鬱な社会人みたいなこと言いやがって。

 テレビ画面の中では、芸人たちが料理を作っている。材料が無駄に高級で、どう転んでも美味いものしか作れなさそうなそんな番組だ。

 そうか、日曜日が終わるのか。

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