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どすんと身体に何か重たいものが乗っかった気がして呻く。けれど、すぐにその何かは安定した心地よさに変わり、俺はまた眠りに落ちていく。とろりと、浮上しかけた意識がまた溶けかけたところで、俺のうとうとした耳をすさまじい音量の何かがつんざいた。
「うるせえ!」
「あっリョウ起きた?」
がばっと跳ね起きると、ソファで寝ていた俺の腹にリリコがどっしりと座り込み、大音量でテレビを見ていた。
第五話:寿司で笑顔は釣れない
状況を把握するや否や俺は、女は殴らないという方針をあっさり曲げてリリコの頭に鉄拳を浴びせた。
「痛い!」
「朝っぱらから人様の眠りを妨げといて何が痛いだ!」
「リョウ……」
リリコが、俺を憐れむような眼差しで見てくる。そして壁掛け時計を指差した。
「もう十一時だよ」
「知るか! 俺は休日は一日寝る主義なんだよ!」
「不健康だね」
俺に殴られた頭頂部を押さえながら、リリコはやれやれと肩をすくめてため息をつく。このクソガキめ……夕飯事情どころか休日の過ごし方にまで口を出してくるのか。
イライラしながら、俺は体勢を整えてリリコの隣に腰を落ち着け、がしがしと髪の毛を掻き混ぜた。深いため息をついてうなだれると、リリコが首を傾げた。
「どうしたの?」
「お前にそれを問う権利があると思うなよ……」
「え?」
テレビ画面の中では、モデルらしいスタイルのいい女の子と芸人らしい女の子がわちゃわちゃ買い物を楽しんでいる。明らかに店の商品の宣伝だろ、と思う。そんな強烈に面白くない情報番組を、リリコは楽しそうに見ている。
「えっこの店めっちゃ可愛い~」
「……」
「これ欲しいな~」
「……」
こんな、芸能人が買い物してるだけのところを見て何が楽しいんだよ。訳が分からない。
そんなことより俺はだな。
「あー……腹減った」
この一言に尽きる。何か食い物をあさりにキッチンに向かおうと、立ち上がるために足に力を入れたところで、隣からさっと棒状の何かが差し出された。
「はい」
「……おお、サンキュ」
赤いビニールに覆われた、魚肉ソーセージだった。ふと見れば、リリコは自分の隣の肘掛に、魚肉ソーセージを数本ストックしてそれをもしゃもしゃと頬張りながらテレビを見ているのだった。ずぼらを絵に描いたようなその姿に、知らず彼女の将来を憂えてしまう。
「お前さ」
「ん?」
「魚肉ソーセージをせめて炒めるとか、調理しようとか思わねえの」
「これはこのままで食べられるから便利なんじゃん」
何言ってんの、みたいな顔で見られて、たしかにその通りなんだが、と言葉に詰まる。俺としても、これを調理しろと強制するのはなんだか不本意だ。
ビニールを剥いてソーセージにかぶりつき、俺はぼんやりテレビを見る。普段土曜のこの時間は寝てるんだか起きてるんだかっていううつろな意識だから、この時間にやってるテレビ番組について詳しくはないんだが、一目見て分かる。この番組は面白くない。
「これつまんねえな。チャンネル変えね?」
「え、やだ」
「やだじゃねえよお前に拒否権あると思うなよ」
無理やりリモコンを奪い取って番組表を開くと、リリコがえっと声を上げた。
「何これ?」
「このボタン押すと、わざわざお前がやってるみたいにちゃかちゃかチャンネル変えなくても、一覧が見られるんだよ」
「ええっ何それ! うちのテレビもそうかな!?」
「そうなんじゃねえの、大抵の家が今じゃそうなってるよ」
何の気なしにそんな受け答えをしてから、ハッと気付く。今こいつ、自然に「うちのテレビ」という言い方をしたよな。
リリコの住むべき場所がここでないことくらい知っていたし、とっとと家に帰ればいいと思っていたけれど、いざ彼女の口からそんなことを聞くと、少しだけつまらない気持ちになる。
なんとなくむしゃくしゃして番組表の文字列に目を通すが、駄目だ、土曜のこの時間って何一つ面白そうな番組をやっていない。
そもそも俺は、そんなに一生懸命テレビを見る人間ではないし、ニュースとほんの少しの知識さえ得られればそれでいいと思っているので、あまりテレビをつけない。
リリコは違うようだが。
俺がどの番組にしようか迷っているのに目ざとく気付いたらしく、リリコがリモコンを取り上げた。
「見たいのないなら、あたしが見たいのでいいでしょ?」
「……チッ」
「うっわ、舌打ちとかおとなげない」
「うるせえ」
結局、そのままリリコが見ていた情報番組に戻されて、今度は店から店へ餃子を食べ歩いている。もはや情報番組じゃないな、と思いながらも、そして俺からすれば茶番なやり取りを見ながら、少し目を閉じる。何せ、休日は一日中寝るもの、というふうに身体のリズムが一週間単位で刻まれているので、そうなってしまうのは致し方ないことなのだ。
リリコの隣で舟をこいでいると、だんだんテレビの音も気にならないどころかいい子守唄になってきて、いつの間にか本気で眠っていた。
次に気が付くと、テレビは消えていた。俺はふらふらする頭を押さえながら無意識にリリコを探して目がうろついた。リリコはどこにもいない。
「……リリコ?」
妙な焦燥感に駆られて、普段なら急に立ち上がると立ち眩むんだがそんなことも気にせずにソファを立ってリビングを出た。
寝室を覗く。斜陽が差し込む大きな窓に照らされたベッドは空っぽだ。この間買ってきたゴキブリホイホイが部屋の隅にちょこんと置いてある。壁を見れば、リリコと邂逅したその日に彼女が着ていた服が掛かっていて、ああ、と思った。
「リョウ?」
「ッ」
突然背後から声をかけられて、情けなくも肩がぴくりと浮いた。振り返ると、髪の毛から雫をぽたぽたと滴らせたリリコが、首からタオルを下げて立っていた。
「……風呂入ってたのか」
「うん、なんか、寝汗かいちゃったから」
「寝てたのか?」
「リョウが寝てるからつまんなくて、テレビも飽きたし、そこで寝てた」
ベッドを指差したリリコは、すたすたとリビングに向かって歩いていく。その背中をぼんやりと眺めながら、俺も呪縛から解き放たれたように歩き出す。
焦った。
そう思ってから、ふと眉が寄る。
何に焦るんだ、リリコは本来ここにあらざる者だし、出て行ったって俺には何の支障もないはずだ。なんで、リリコがいないことに焦りを覚えなくてはいけないんだ。
どうも調子が狂う。
いないことがふつうであるはずのリリコの不在に、こんなにも心が揺れてしまうなんて。
「ねえリョウ、夕飯何?」
「あー……作るのめんどくせえなあ」
「えっ、夜も魚肉ソーセージなの!?」
それは、俺も嫌だけれど、材料は余ったにんじんと昨日のチーズしかない。何もできないじゃないか。今更駅前のスーパーに買い物に行くのも面倒くさい。ふと、オットマンの上に投げ出された昨日の夕刊に目が行く。そしてひらめいた。
「よし、今日は寿司食おうぜ」
「寿司?」
「ほら、これ」
夕刊に挟まっていたデリバリーのチラシをちらつかせると、リリコはふうんと目を細めて腰に手を当てた。仁王立ちになってチラシを睨むリリコに、なんだよ、と聞くと、リリコは意外なことを言った。
「あたし魚嫌い」
「あ?」
意外、でもないな。妥当だな。なんたって甘やかされて育ったお嬢ちゃんは好き嫌いが激しいからな。
「魚肉ソーセージ食ってんじゃねえかよ」
「生の魚はサーモンとエビしか食べられない」
「トロは?」
「無理」
顔を歪ませたリリコが、別のチラシを手に取る。
「こっちにしようよ」
「ピザぁ?」
「うん。アボカドのやつ食べたい」
「お前、昨日グラタンだっただろ」
「それが何?」
「二日連続チーズって」
呆れて言うと、リリコは目を真ん丸くして唇を尖らせた。
「リョウ、チーズ好きじゃん」
「好きも嫌いもねえよ」
「あんなに山盛り乗っけてたのに?」
「それよりお前、アボカド食えるのかよ」
アボカドって、食べたことないけど、噂には醤油をつけたらマグロみたいな味と感触なんだろう? 生の魚が嫌いなくせにそういうのは食べられるわけ?
胡乱な目でリリコを見つめると、リリコはふんっと鼻を鳴らして馬鹿にしたように俺を見た。
「食べれるよ。ヨユー」
「俺アボカド食ったことねえよ」
「おじさんじゃん」
「あ?」
食べてるもので年齢を判断される時代になったのか。アボカド食べれば若いつもりか、おしゃれな食べ物だからおじさんには縁がないよねってか、やかましいわ。
リリコは、テーブルの椅子に座ってさっさとデリバリーピザのチラシを広げている。
「Mサイズ二つは多いかなー? でもあたし、こっちも食べたいなー」
「おいまだピザにすると決めたわけじゃ」
「寿司は嫌」
子供って、寿司食べさせておけば笑顔になるんじゃないのかよ。俺の認識がまた一つ覆される。
リリコは、ハーフアンドハーフにするとか、クォーターにするとか、ぎゃいぎゃい騒いでいる。俺の腹はすっかり寿司に気持ちが向いていたのだが、仕方がないので諦めて、リリコの背後からチラシを覗き込んだ。それに気付いたリリコが、少し首を傾けて俺が見やすいようにする。
「アボカドのやつと、あとパイナップルのやつがいい」
「パイナップル? ピザにパイナップル?」
「美味しいよ」
「ガキだな……」
「じゃあリョウはどれがいいの?」
「俺マルゲリータでいいよ」
「おもしろくないから却下」
イライラする。なんで面白い、ネタになりそうなピザ選ばなきゃならんみたいな空気なの。俺はふつうのピザが食べたい。シンプルで、でも美味いやつが食べたい。
しかしそんな俺の簡単なはずの願望はもちろん通らず、結局俺はリリコの食べたいアボカドのナントカカントカとパイナップルのナントカカントカを頼む羽目になった。
届いたピザの箱を開けて、リリコはさっそくアボカドのほうを口に入れる。
「美味しい~」
「あまっ、これ甘い」
パイナップルの甘さとトマトソースの酸味が何とも言えない。チーズが口から伸びているリリコを睨むが、彼女はすっかりアボカドに夢中で俺の視線なんか気にしちゃいない。口の中はパイナップルでいっぱいなのに、なんだかひどく苦々しい。
Lサイズのピザを半分ずつ頼んだけれど、俺とリリコはひとかけらも余すことなくきっちり食べ終えて、家にあったミネラルウォーターを飲んでいる。
「ジュースがよかったな」
「ジャンキーかよ」
「ジャンキーって何?」
「こういうジャンクフードにどっぷりはまってる奴のことだよ」
「何それ」
と言うか、ジャンキーという単語も知らないのか。呆れたな。
たっぷりピザの入った腹を撫で、リリコはテレビのリモコンに手を伸ばす。土曜の夜って何やってるんだ。
しょうもないバラエティを見始めたリリコにため息をついて、俺はソファにどっさりと身体を預けた。
一週間分の疲れがどっと襲ってくる。普段はそれを一日中寝ることでエネルギーを充填しているのに、今日はそうじゃない。それに加え、リリコを抱え込んだ今週の気苦労は未知数だ。
深々とため息をつくと、リリコは俺を見て首を傾げた。
「リョウ、ため息多いね」
「うるさい」
「でもため息って身体にいいらしいよ」
てっきり、幸せ逃げるよ、とか何とか言われるかと思ったが、予想外の言葉に目を開く。リリコは記憶を手繰り寄せるように眉を寄せながら呟く。
「なんか、理由とか忘れちゃったけど」
「……そうかよ」
理由を忘れてしまったのなら、その生半可な知識に用はない。俺は立ち上がる。
「風呂入ってくるわ」
「はいはーい」
シャワーを浴びながら、俺はもう一度、肺に溜まった空気を押し出すように息を吐く。リリコが来てから、ため息の数が多くなった気がするんだが、これってほんとうに身体にいいんだろうか。ほんとうなら、リリコがいないならばつかなくてもよかったはずのため息をついて、ほんとうに身体にいいんだろうか。
そんなどうでもいい自問自答をしながら、シャワーだけ浴びて風呂を出る。洗面所の鏡に自分を映すと、ほんの少し出ている腹がどうしても気になった。つまんでみる。そして、つまめる、という事態に慌てふためく。
「……嘘だろ」
額に手を当ててうなだれて、そのまま鏡を睨めば、リリコとよく似たツリ目が睨み返してくる。
リリコはいったいどこから来たのだろう。彼女はほんとうに俺の子なんだろうか。たしかに、顔立ちは似ていると言えなくもない。年頃の女の子はきっと、父親に似ているなんて嫌なんだろうけれど。
いや待て、俺がリリコの父親だと決まったわけじゃない。と言うか、そんなはずはない。
じゃあリリコはいったいなんで、俺のところに来たんだ。ただの家出で匿われる先を探していたなら、ほかのおっさんでもよかったはずだ。適当にパパと呼べばよかったはずだ。それがなんで、俺のところに。
偶然と言う言葉で片づけてしまうには、なんだか、少し妙なことが多かった。
リリコは俺の名前を知っていた。迷うことなく俺についてきた。
「……」
リビングに戻ると、テレビを半笑いの表情で見ていたリリコがちらりと俺を見た。
「あたしもお風呂入ってこよ」
「……おう」
俺の横をすり抜けていくリリコは、テレビをつけっぱなしにしているリリコは、何者なのだろう。
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