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「チーズ乗せすぎじゃない?」
「うるせえな」
昨日のシチューが余ったので、煮詰めてチーズを撒いてグラタンにすることにした。俺が帰りに買ってきたミックスチーズ(特大サイズが割安だった)を全部使い切る勢いで振り撒いていると、リリコが横槍を入れてきた。
「多いよ、こんなのグラタンじゃないよ」
「お前の分じゃないんだからいいだろ」
二つの耐熱皿にシチューを等分したんだから、俺の分に何をしようとリリコに文句は言わせない。
第四話:俺の知らない歌
チーズオンチーズ、みたいなことになった俺の分の皿を見て、リリコがけたけた笑う。
「リョウの、もうグラタンじゃなくてチーズじゃん!」
「これくらい乗せなきゃ食った気がしねえ」
リリコの皿をちらと見れば、シチューの具が見えるくらいにしか乗っていない。それは逆に、少なすぎないか。そう指摘すれば、リリコはいいんだよーと言って、俺の目を気にしてかもう一つまみだけチーズをかけた。
オーブンを温めている間、リリコは二つ並んだグラタンの皿を眺めて、ぽつりと言った。
「楽しい」
「……は?」
「うん、楽しい」
「……」
その横顔がなんだか全然楽しそうじゃなくて、俺は自然と眉が寄る。どういう意味、と問おうとしたのだが、リリコの表情はすぐにいつもの笑顔に戻ってしまって、スプーンでチーズをつんつんとつついている。
その、楽しい、と言う言葉にどういう意図があったのか考えあぐねていると、リリコが俺のシャツの裾をつまんで引っ張った。
「もういいんじゃない、オーブン」
「ああ……」
「ぼうっとしてどうしたの?」
「いや」
首を振って雑念を振り払うようにして、俺は皿をオーブンに入れた。そのまま、十五分に時間を設定してその場を離れてソファに座る。
オーブンの前にリリコがしゃがみこんで陣取っている。そして、うわあ、と呟いた。
「リョウの分、すっごい泡吹いてるよ」
「泡?」
「泡って言うか、ぐつぐつしてる」
「いいじゃねえか」
今朝の新聞に目を走らせながら、グラタンの焼け具合はリリコに一任することにした。視線はオーブンの中に向けたまま、リリコはぶつぶつぼやいている。
「こんなにチーズかけるからおなか出るんだよ……」
「……」
「ていうか、好きも嫌いもないとか言ってたじゃん……」
「……」
「結局チーズ好きなんじゃん……」
「おい、黙って番をしろ」
聞き捨てならない言葉がいくつか聞こえたが、そこはあえて突っかからないのが大人だ。
俺の小言に口を閉じたリリコは、けれどすぐに開いて歌い出す。断片的にしか聞こえてこないが、俺の知らない歌であることは分かった。曲調が、今っぽいと言うかなんと言うか、とにかく俺がよく知っている歌の感じではない。
「太陽みたいな君にね」
「……」
「僕はまぶしくて目をつぶったんだ」
「……」
呟くように歌うリリコの背中を見る。細くて小さくて、なんだか今にもぽつんと消えてしまいそうだ。
さみしげな、つまらなさそうな背中。
「なんかさあー」
「あ?」
呼びかけられて、不意に意識がそちらに集中する。リリコの背中はもう、別にさみしそうでもなんでもなくなっていた。
「この歌リョウみたい」
「何が」
「今超流行ってる歌なんだけどね」
「……はあ」
何の脈絡もないその話題についていけずに俺は呆けた相槌を打つ。リリコは、オーブンの中を注視したままぺらぺらと喋る。
「女の子が好きな男の子に告白したいんだけど、その人は超人気者だからなかなかできないの。で、どうしよっかなーって思ってるうちに、男の子は月みたいにきれいな女の子と付き合っちゃうの」
「……それのどこが俺みたいなんだよ」
「リョウって、太陽みたいだよね」
意味が分からない。最近の小学生の話に対する読解力が欲しい。
目を眇めて、俺は二つ結びになっているリリコの髪の毛を見た。つやつやしていて、触り心地も悪くない、そんな髪だ。
「だってさ、リョウってモテるんでしょ?」
「まあな」
「そしたらきっと、この歌の女の子みたいに思ってる人もいるんじゃないかなって思うの」
「……まあな」
それは俺がモテることとはあまり関係ない気がする。誰にだって、そういう相手はいそうなものだ。
それにたぶん、このお嬢ちゃんは俺がつい数日前に言ったことを忘れている。
「俺は月とは付き合わねーよ」
「何それダジャレ?」
「違う」
リリコがようやく振り向いた。その表情はのっぺりとしていて、読みづらい。
両膝と両肘を合わせて頬杖をついているリリコの生意気に尖った唇が動く。
「月っていうのはヒユじゃん」
「お前、比喩とか知ってたんだな」
「うわっ超バカにされてる」
ぽろりと本音が出ると、リリコが眉を吊り上げた。
追撃される前に俺は急いで言葉を繰り出して、リリコに喋らせないようにする。
「俺は、いつも星と付き合ってんの」
「……ああ、なんか言ってたね」
「なんだその心底馬鹿にしたような顔」
「超バカにしてる」
へへっと笑うリリコの不敵っぷりにも、生意気っぷりにも慣れてきている自分がいてなんだかつらい。それで、すぐに真剣な顔になったリリコは、リョウ、と俺の名前を呼んだ。頬杖のせいで顔が歪んでいる。
「リョウ、月だって星だよ」
「まあ、そうだけどさ」
月も、衛星と言うくらいなんだからもちろん星なのだろうが、いまいちぴんとこないし、リリコにそれを指摘されるとなんとなく腹が立つ。そして、腹が減る。
そう思ったところでリリコがひねっていた首の角度をオーブンのほうに戻して、あっと声を上げた。
「焦げ目ついてる。できたよ!」
「腹減った」
「ミトンある?」
みとん。なんだそれは。
「えっ知らないの? なんかほら、手袋のかたちした、熱いやつ持つ時に使うの」
「ああ……」
そんなものはうちにあっただろうか。出て行った妻は料理好きだったから、もしかしたら置いてあるかもしれない。そう思いながら台所を探すと、親指だけが枝分かれした手袋みたいなものが出てきた。
「それ、それ」
「これか」
リリコがそれを手にはめて、オーブンの扉を開ける。そしてぐつぐつと表面が煮えているグラタンを取り出して、テーブルの上に置いた。
こっちがリョウので、こっちがあたしの、と言ってテーブルにセッティングして、リリコはさっさと席につく。俺も、スプーンを取り出してリリコに手渡して座る。
「いただきまーす」
「いただきます」
思うに、リリコの食べっぷりは見ていて気持ちがいい。はふはふと美味しそうに食べる。にんじんを除いては。
けれど、チーズをかけたからなのかじっくり煮込んだからなのか、そこまでにんじんも気にならないようで、リリコはそのふっくらした頬をもぐもぐと動かして、まさしくほっぺたが落ちそう、みたいな顔をして食べる。
「やっぱ舞茸強烈~」
「うるさい」
「今度はちゃんとマッシュルームにしてよね」
「だから、お前はいつまでうちに居座る気なんだよ」
うんざりとした表情を作るも、リリコにはまるで効果がないようだ。
そういえば、俺はリリコが目覚める前には家を出ているわけなんだが、リリコはいったい日中何をして過ごしているんだろう。
「お前さ」
「ん?」
「朝飯とか昼飯、どうしてんの」
「リョウさあ、冷蔵庫の中見たことある?」
「あるよ、馬鹿にすんな」
「魚肉ソーセージがなぜかスーパーの棚みたいにいっぱいあるんだよ」
「……」
たしかに。あれは楽だし栄養もあると思っているので、俺は安売りしているたびに買い足している。いつの間にか消費が購入に追いついていない感じはしていたが、そんなに大量にあったのか。
「ってことは、朝も昼も魚肉ソーセージ?」
「うん」
「コンビニでなんか買って食えよ……飽きるだろ」
「別に」
リリコが少し不機嫌そうに、別に、と言う。何だ、何か地雷でも踏んだか。
唇をうんと尖らせて、彼女はぼそっと言った。
「外出るのめんどくさい」
「お前なあ……」
コンビニは、このマンションの道路を挟んだ向かい側にある。それを面倒くさいと言ってしまったら、どこにも行けないじゃないか。
「それにあたしそんなお金持ってないし」
「あ」
そうだ、リリコはうちに来た日、何にも持ってなかったじゃないか。いや、待てよ。
「お前、電車乗ってたじゃん」
「うん」
「電車賃どうしたんだよ」
「それくらいはあったよ」
「どっちなんだよ」
「コンビニでご飯買うほどは持ってないの」
ふと、寝室の壁にハンガーで掛けている、ここに来た初日にリリコが着ていた服を思い出す。ふつうの、変哲のないカットソーにミニスカートだ。ポケットがついていたような気もするが、服をあそこに掛けたのはリリコなので、詳しくは知らない。
それにしてもポケットに現金がそのまま入ってるって……。
「お前おっさんかよ」
「リョウに言われたくないよ!」
「たしかに俺はおっさんだけどさ」
たしかに、おっさんにおっさんと言われる気分はいいものではないだろうが、それでも小銭がポケットに入っているのはどうにもおっさんくさい。
ばつの悪そうな顔で、リリコはスプーンにすくったグラタンに息を吹きかけた。俺は猫舌ではないが、さっきまでの食べっぷりを見ている限り、リリコも熱いのが苦手というわけではなさそうだったので、それはきっと照れ隠しだと思った。
ふんと笑うと、リリコはぐぐっと眉を寄せて俺を睨んだ。
「そうだ」
「え?」
「俺明日休みだわ」
「今日何曜日だっけ」
「金曜」
花の金曜日に、俺はこんなクソガキと向かい合ってグラタンをつついている。言葉にすれば、なんとわびしい。
リリコは少し考えて、そっか、と納得したように頷いた。
「曜日感覚なくなっちゃってた」
「お前いい加減にしろ」
「は?」
「とっとと家に帰れ、そして健全に学校に通え」
「……」
頬を膨らませ、リリコは無言というかたちで抵抗した。
しかしそんなのは俺には効果がない。そろそろほんとうに、親が心配して警察に行ってる頃だろう。いくらなんでも、四日も家にいなけりゃ気付くに違いない。こいつが眠ったあとで、ニュースをチェックしなければ。
食べ終えたグラタンの皿をリリコがキッチンまで持って行って洗いながら言う。
「これ、チーズの焦げたやつ落ちない」
「根気よくこすれ」
「力仕事じゃん!」
「だからなんだよ」
「リョウがやってよ!」
こういう奴が、男女平等とか言いながら女のか弱さをこれ見よがしに主張する大人になるんだろうな。そんなことを思いながらも、たしかにリリコの皿より俺の皿のほうが、チーズが多かった分焦げ跡が多いので、自分の分は自分でこすることにした。
二人でしゃかしゃかと泡で皿を擦っていると、リリコがハッとしたように言う。
「今何時?」
「八時ちょっと前」
「見たいテレビある! あとリョウやっといて!」
「は? おい」
引き止める間もなく、リリコはリビングに突っ込んでテレビをつけた。ふ、ざ、けんなよ。
「リリコ!」
「何?」
「こんなのちゃちゃっとやればすぐ終わるだろうが!」
「だってテレビ始まっちゃう」
「だから、始まる前にさっさと済ませろ!」
「……」
とぼとぼと戻ってきたリリコが無言で皿をこする。こいつの甘えっぷりは、どうにか家に帰すまでに矯正しておきたいところだ。
ぶすっとしている横顔に、俺はきっぱりと言い放つ。
「リリコ、お前この家にいたいなら家事くらいできるようになれ」
「……」
「お前のママがどんだけ甘いかは知らないけどな、俺は厳しいからな」
「……リョウの意地悪」
「あ?」
「なんでもないですー」
リリコが洗った皿をあとでチェックすると、若干ざらざらしていてチーズの焦げ跡が完全には取れていなくて、俺はテレビを見終わったリリコをまたもキッチンに立たせ、いい加減な仕事をするなと説教をする。
むっつりと黙り込んだリリコは、黙々と皿をこすってぴかぴかにして、それから言い放った。
「あたし絶対もっと優しい人と結婚する!」
「何の話だよ」
「リョウみたいな人とは絶対結婚しない」
それを聞いて、俺は怒りより先に感心がきた。そうか、この年頃の娘がいたらこんなことを言われていてもおかしくはないんだよな、と。小さい頃はパパと結婚するとか言ってくれたのに、と嘆いていた同僚(洗濯物を一緒にしないでと言われていた例の奴だ)の顔が頭に浮かんだ。
それにしても甘ったれた思考だな。
「勝手にしろ。誰もお前みたいな甘ちゃん相手にしないと思うけどな」
「何その捨て台詞っぽいやつ!」
「うるさい」
「リョウのバーカ!」
「とっとと風呂入ってこい」
しっしと手で払うと、リリコは歯を剥き出しにして怒りを表したあと、風呂場に逃げるように駆けこんで行った。
手のかかるお嬢ちゃんだこと、と独り言を言う。それでもなんとなく、笑みがこぼれてしまうのはなぜなのだろう。
どうせ今日も髪の毛からぼたぼたと雫を垂らしながら出てくるんだろうな、それを俺が力いっぱいタオルで拭くのだろうな。そんなことを想像すると楽しくなってくるのだ。
ニュースをチェックする。今日も、行方不明の女の子はいなかった。
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