今日の忙しさは尋常じゃなかった。次から次へと、部下がへまをやらかしてその対応に追われる羽目になったのだ。ほんとうならしなくていい作業を延々と続けていたせいで、俺の堪忍袋の緒はぶち切れそうである。


「平野くん、大丈夫?」


 明らかに目つきが鋭くなってしまっている俺に、同僚の飯田が声をかけてくる。俺は彼女をぎろりと睨みつけるが、効果はない。もう彼女は慣れっこなのだ。

 苦笑いした飯田は、俺にホットのコーヒーが入ったカップを手渡した。深々とため息をついた俺に、彼女は言う。


「ため息は身体にいいって言うけど……まあ、あんまり根詰めすぎないで」

「おう、サンキュ」


 それを受け取って一気に飲み干すと、また飯田が笑う。猫舌なんていう言葉とは縁がないのだ。

 こんなに疲れて帰って、俺にはまだリリコに飯を作るという作業が残っているのかと思うと、気が重い。世の共働き世帯の母親は実は最強の刺客なのでは……。



 第三話:舞茸は色が出る



 クリームシチューに入れるキノコはなんだったか。エリンギか? しめじか?

 キノコ売り場でしばらく悩み、結局、キノコ類の中で一番可愛くて女の子受けがよさそうな舞茸をカゴに入れ、ついでに隣の売り場にあったにんじんも突っ込む。俺の頭の中では、リリコが顔をしかめてにんじんを嫌嫌口にしている。

 俺が作るんだから、黙って出来上がるのを椅子に座って待っているリリコに文句なんぞ言わせない。

 シチューのルー売り場でどのルーが一番美味いのか、パッケージを吟味していると、通路を制服姿のお嬢ちゃん二人が通った。手には、安売りのペットボトルのジュースとチョコレート菓子。


「ていうかさあ、聞いて~。あたし長野に告られたんだけど」

「えっマジ? キモッ」


 長野が誰かは存じ上げないが、好きだと言っただけで気持ち悪いと言われるのは非常に可哀相だ。

 リリコは昨日、十歳だって言ってたな。お嬢ちゃん二人の背中を見る。近所の中学の制服だ、部活帰りだろうか。……リリコにも、あんなふうに会話をする友達がいるんだろうか。

 どうも見たところ、学校どころかマンションのあの部屋から一歩も出ていないようだし、実に不健全だ。それに、リリコがうちに来てもう三日目。親も心配しているだろうし、もしかしたら捜索願なんか出しているかもしれない。最近はそういうのにメディアも敏感だし、ニュースでやっているかもしれない。今夜チェックしておこう。


「ただいま」

「お帰りリョウ!」


 三日目にしてすっかりおなじみになってしまったお出迎えにおざなりに、おう、と返してスーパーの袋を玄関に置く。リリコはその袋の中を覗き込み、げっと顔を歪ませた。


「にんじんじゃん!」

「文句あんのか」

「信じらんない! 人の嫌いなものわざわざ買ってくるとかマジありえないんだけど!」


 その、マジありえないという語感がそれこそマジありえないんだが。何だよ、マジありえないって。

 靴を脱いで、俺はリリコを無視して寝室に向かう。スーツを着替えていると、リリコがドアの向こうで言う。


「何? リョウ機嫌悪いの?」

「うるせえ」

「仕事忙しかったの? どーでもいいけど、それであたしに八つ当たりすんのダサいよ」


 いらっとする。しかし、それはまったくもってその通りである。仕事でへまをやらかした部下に怒るべきであって、リリコに八つ当たりすべきではない。

 しかし図星を当てられると、大抵の人間は激昂する。そこだけは教えておこう。

 部屋着に着替えてドアを開け、リリコをじっとりと睨みつける。


「リリコ」

「何?」

「思ったことを全部言ってたら社会で生きていけないぞ」

「は?」

「たしかに八つ当たりは認めるけどな、指摘して俺みたいに反省する奴ばっかりじゃない」

「……反省してんだ、ウケる」


 疲れたせいで溜まっていたイライラのゲージがぐんと跳ね上がる。

 突っ立っていたリリコを押しのけてキッチンに向かう。リリコがぺたぺたと裸足の足音を響かせながらついてきて、スーパーの袋の中身をあさっている俺に、あっと声を上げた。


「このルー、うちで使ってるのと一緒」

「そうかよよかったなあ」

「なんか怒ってるの?」

「……」


 リリコには、気が付く、という性質が備わっていないのかもしれない。じゃないとこんなに無神経でいられるはずがない。気配りだの気遣いだの、そういう能力が欠落しているに違いない。

 黙って具材を切っていると、リリコは俺の背後をうろうろしながら恨み言のように呟く。


「にんじん入れるの?」

「……」

「ねえ、ほんとに入れるの、にんじん」

「……黙って食わねえとにんじんお化けが出るぞ」

「えっ何それ。子供だまし」


 お前はじゅうぶんクソガキだ。

 そして、俺がキノコを取り出した瞬間、リリコは大声で叫んだ。


「何それ! 舞茸じゃん!」

「舞茸がなんだよ」

「そんなのシチューに入れるの!?」

「お前まさかキノコも嫌いなのか」

「違うよ! シチューはふつうマッシュルームとかでしょ!?」

「……」


 そうなのか。このひらひらしたの、女の子受けはばっちりだと思ったんだがな。リリコの家ではマッシュルームを使うらしい。俺は、そんなのを意識してシチューを食ったことがないから、元妻だの元恋人だのが何を入れていたのかは思い出せないが。

 鶏肉を一口大にカットして鍋に放り込む。そのほかの具材も全部一緒くたに放り込んで、水を入れて火をつける。

 煮えてきたら、ルーを入れて掻き混ぜてさらに煮込む。これで、あとは放置しておけば出来上がりだ。


「リリコ、煮てる間にシャワーでもしてきたら」

「そうする」

「着替え、棚に入ってるから」

「うん」


 うまいことリリコを風呂に誘導し、シャワーの水の流れる音を聞いてから、俺はテレビをつけた。ちょうど、七時のニュースをやっている。最近の大きなニュースから入って、こまごましたことにも触れていくが、女の子が行方不明になったという件は報道されていない。……と言うことは、親はまだ警察には行ってない、と考えるべきだろうか。

 リリコがうちに来て三日目だ。あの年頃の娘が三日も家を空けたら、事故や事件に巻き込まれた、と思うのがふつうの反応ではないのだろうか。そんなふつうの反応をしない原因に思い当たらないこともないが。


「リョウ、シチューできた?」


 テレビの前で考え込んでいると、いつの間にか風呂から上がったリリコが髪の毛から水を滴らせながらそこに立っていた。


「もうすぐだろ」

「ふうん。てか、この家ドライヤーないよね」

「俺一人なんだからんなもん必要ないだろ」


 リリコの、腰近くまで伸びたきれいな生乾きの髪の毛を見る。たしかにこの長さならドライヤーは必要だろうが、残念ながらここは彼女の家ではない。

 リリコが持っていたタオルを奪って椅子に座らせて、俺はリリコの髪をがしがしと拭いた。


「乱暴だよー」

「水が垂れてんだよ」


 毛先のほうまでタオルにくるんで、ぎゅっと水分をタオルに含ませるように押す。そろそろシチューも煮えた頃だろう。

 鍋のふたを開けると、ホワイトシチュー、とは言えない色になっていた。隣で鍋の中を覗き込んだリリコがため息をつく。


「舞茸なんか入れるから」

「舞茸のせいなのかよ」

「だって、こんな茶色いの、ほかにないじゃん」

「……そうだな」


 でも、別に舞茸の色素が出ただけで味に支障はないはずだ。皿についで、リリコと向かい合ってダイニングテーブルに座る。

 いただきます、と言ってシチューを一口含んだリリコが顔を歪める。


「超舞茸っぽい味がする」

「悪かったな」

「別にいいけど」


 なんで俺がリリコに許されなくてはならんのだ。作ったのは俺だぞ、文句言うな。

 結局リリコは、なんだかんだ言いつつちゃんと、俺のお情けで少なめに盛ってやったにんじんも食べて、皿を洗っている。キッチンで水の流れる音を聞きながら、俺はスマホでブラウザを開いた。

 テレビのニュースでやっていなくても、もしかしたらネットのニュースなら速報や、報道されない細かい情報が入っているかも知れない。そう思ってニュースサイトを開いたが、女の子の失踪に関するニュースはひとつもなかった。


「なあリリコ」

「何?」


 皿を拭いてソファにやってきたリリコがテレビのリモコンを手に取った。


「親御さん、心配しないのか?」

「……リョウがパパでしょ」

「アホか」

「……してないよ」

「なんで」

「内緒!」


 にっと笑って、リリコはチャンネルを回す。昨日もやっていたその行動を見るに、おそらくリリコは番組表一覧という機能を知らない。

 そういえば、いまどきの小学生にしては珍しく、携帯も持っていないようだ。まあ、それは置いてきた、という可能性もあるが。

 親が心配しない、という状況は、ひょっとしてリリコが家にいなくても気付かないような生活リズムの親なのかもしれない。共働きで単身赴任中だとか、多忙だとか。それでさみしくなって家出をした、という可能性も捨てきれないな。


「お前、学校行ってないな?」

「……」

「友達は心配してないのか? 先生は?」

「大丈夫じゃない?」

「じゃない? って」


 思わず、深いため息が漏れる。

 スーパーで見た二人組の女子中学生がリリコに重なって、その中学校の制服を着ているリリコを想像する。うん、違和感はない。少しばかり背と年齢が足りないが。

 十歳ってもうちょっとでかいもんだと思ったが、リリコはたぶん百四十センチあるかないかくらいだろう。女らしさの象徴であるはずの長い髪は、逆に幼さを強調している。

 テレビに夢中になっているリリコの横顔をじっと眺める。長いまつげが大きなツリ目を囲っていて、瞳の色は海の底みたいな黒さだ。やっぱり鼻はぺたんこでおうとつがない顔に、右目の下に星のように連なったほくろがかすかなアクセントになっている。


「何?」

「いや」


 視線に気が付いたリリコがくるっと目をこちらに向けた。

 無遠慮にその顔を見つめていると、リリコはその鋭い目をぐいと細めて逆に俺の顔を眺め回してきた。


「リョウってさ」

「なんだよ」

「モテるでしょ」

「まあな」

「そこは否定しなよ~」


 けたけた笑ったリリコが、マジウケる、と言いながら手を数度打ち鳴らした。事実は事実なのである。俺は、この年になっても女が放っておかないし、だからこそ、と責任逃れするわけではないけれど、だからこそ離婚に至ってしまったわけで。

 ひとしきり笑ったリリコが、目尻に涙をにじませながら(そんなにおもしろかったかよ)、俺の目元を指差した。


「カッコイイ大人って感じ」

「そうかよ」

「あたしの友達、超好きそうな顔してる」


 小学生にモテたって仕方ない。俺は大人だし、それなりに色気のあるタイプが好きだし、そもそも小学生相手は犯罪になる。

 が、やはりそう言われて悪い気はしない。スーパーを歩いていたお嬢ちゃんたちも、誰々に告白されて云々とか言っていたし、そういうのを意識し出す年齢ならもう立派に女だ。

 そこでリリコがついと視線を下げる。


「でもさあ」

「あ?」

「リョウ、ちょっとおなか出てるよね」

「……気にしてんだよ」

「ほんのちょっとだよ、大丈夫」

「何の慰めなんだよ」


 たしかに、若い頃は意識もしなかった場所に肉がついてきていることは認める。二十代までは何もしなくとも体型を維持できていたのに、三十過ぎたあたりからそうもいかなくなってきた。ジムでも通おうか、と考えていたところである。


「お前は細いよな」


 何気なく、比較する気持ちでリリコの腕を取る。ちょっと力を込めてひねればパッキリいきそうな細腕だ。俺の指が一周して有り余る。


「もうちょっと大きくなる予定だよ!」

「そうだよなあ、ちょっと小さいよなあ」

「馬鹿にしてんの!?」

「してねえよ、幼児体型なんて言ってねえよ」

「今言ったじゃん!」


 リョウのバカ!

 容赦なく頭をグーで殴られて、けれどそれは別に痛いわけではなくて、俺は笑う。

 何て言うか、離婚してからこの家はほんとうに寝るためだけに帰ってくるような場所で。ただいまを言う必要もなければおかえりが返ってくるはずもなかった場所で。

 そんな場所にリリコという女の子がいて、おかえりと言って俺が作る飯をなんだかんだ言いながら食べている。不思議でちょっとびっくりする。

 リリコが痩せた腕で拳で俺を殴って、楽しそうにその痩身をくっつけてくる。俺も、痛くもないのに痛いよと言って軽く抵抗しながら、二人で笑っている。

 子供がいたら、こんな感じなのか。そんな気持ちがふとわいてきて、慌ててそれを打ち消した。こいつは、俺の娘でもなんでもないのだと、自分自身に言い聞かせる。

 それにあれだ、娘を持つ同僚たちは決まってこう言う。


「娘が最近俺に冷たい」


 年頃の娘なんて、こんなふうに父親と遊んではくれないんだろうなあと思う。

 洗濯物を分けて洗って、と母親に要求しているのを見てしまった奴もいるくらいだ。リリコみたいな年の子は、もう父親とこんなふうに無邪気に遊んではくれないのだ。

 でもだからこそ、なんだか余計にうれしくなってしまう。

 俺はリリコの父親なんかじゃないけど、リリコは俺の娘でもなんでもないけど、それでももしかして、と思ってしまう。

 リリコの首筋から、シャンプーの匂いが漂ってきて、それは俺が使っているメンズシャンプーの香りで、なんだか妙にむずがゆい気持ちになった。

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