2
「ハンバーグ煮込む? それとも、警察行く?」
「どう考えてもおかしいだろ」
帰りにスーパーで買ってきた合挽き肉を捏ねて成形しながら、ため息をつく。背後ではリリコが興味深そうに俺の手元を覗き込んでいた。暇なら手伝えよ、という言葉が喉まで出かかるが、思い直す。文句を言ったらまた何か面倒なことを言われるに決まっている、疲れて帰ってきているのにこれ以上火種を増やすような真似はしないほうが賢明だ。
それに俺は、こいつを正当に警察に突き出すことを諦めているわけではない。
「マジで警察行くか? 親御さんが心配してるだろ」
「リョウがパパだよ」
「……」
何言ってんの、という顔でそう言うリリコに、俺が何言ってんのと言いたい。
このお嬢ちゃんが現れて二日目の夜、俺は未だに彼女の名前しか知らない。
第二話:ハンバーグを煮込め
結局、ハンバーグを煮込むことはなく、リリコは至極不満そうに唇を尖らせて、美味しく焼けたハンバーグを箸でつつく。
俺はその向かい側で黙ってハンバーグを食べながら、そういえば自分で料理をしたのは随分久しぶりだと思った。自分でつくるよりも美味しい惣菜が、スーパーでは夕飯時を越えると一気に安くなる。そこを狙って買い溜めしたりしている。印刷されている消費期限は短いが、冷蔵庫に入れておけばなんとかなると思っている。
「明日は煮込んでね」
「明日もハンバーグなのかよ」
「じゃあ、明後日」
おい待て。お前はいつまでうちに居座るつもりだ。
「いつまでってどういう意味?」
「そのまんまの意味だよ」
「変なの。ずっとだよ」
「はあ!?」
思わず声がひっくり返る。リリコは何を気にすることもなく、黙々とハンバーグを口に運んでいる。焦げてる、と呟いた高い声が、異様なほどに生意気に聞こえた。ふっくらとした頬がハンバーグで膨れているのを忌々しげに眺めていると、ふと気付く。
「おい」
「何?」
「にんじん食わねえのか」
「……」
付け合わせの焼いたにんじんを、リリコは顔を歪めて箸で皿の隅に追いやった。
まあ、半分分かっていて聞いた俺も意地が悪いが、あれだけ人をこき使っておいて、嫌いなものが出たから食べませんというのはいかにもクソガキらしい。
わざとらしく、自分の皿のにんじんにかぶりつき、俺はにたりと笑った。
「リリコはこんなもんも食えないのか」
「た、食べれるよ」
「じゃあ食えよ」
「あとで」
「食えるんなら、今食えよ」
ぶすっと頬を膨らませたリリコに、にたにたと顔を歪ませていると、彼女はひどくばつが悪そうな顔をして、だって、と呟く。
「だって、野菜なのに甘いんだもん」
「ガキは甘いもんが好きだろうが」
「リョウはヘンケンのカタマリだね」
「なんだと」
心外なことを言われて、俺は思わずこのお嬢ちゃんが二回りも、下手したらそれ以上も年下の女の子であることをすっかり忘れ噛みついた。にんじんを箸でいじり倒したリリコは、残りのハンバーグにかぷりとかじりつき、あっさりと言い放った。
「リョウににんじんあげるね!」
「いらねえよ」
「にんじん好きなんでしょ?」
「俺は好き嫌いはねえんだよ、ガキと違って」
「ふうん……」
思案顔になったリリコは、首を傾げて俺を見た。その目には、ありありと疑惑の色が浮かんでいる。
「リョウは、好きなものも嫌いなものもないの?」
「……ないな。特別これが好きだとかはない」
「じゃあどうして、ママと付き合ってたの?」
「……」
まさか食べ物の好みの話からそんなところに飛躍するとは思っていなかったため、若干面食らう。白米を口に入れて噛み砕いて飲み込む。
「それはまた別の問題だろ」
「そうなの? ママのこと好きだった?」
お前のママとやらに覚えはない。と思ったが、リリコは思いのほか真剣だったので、俺も真剣に考えてみることにした。
一夜の間違いを犯したことも、もちろんある。そういうのは数に入れないとして、リリコの母親と真剣に付き合っていたとして、俺はその女と一緒に出掛けたり部屋でのんびりしたりしている光景を想像する。
改めて、目の前で真面目な顔をしているリリコを見やる。俺によく似た気の強そうなツリ目、日本人らしいぺったんこの鼻、少し生意気に尖った唇、ふっくらとした子供らしい頬。腰まである長いつやつやした髪を、横で二つに結わっている。
もしかして彼女はほんとうに俺の子供なんだろうか。
「……お前は星屑だな」
「ほしくず? なんで星じゃないの?」
思わず零すと、リリコは不満気に顔をしかめた。
「そりゃお前、愛した女は星なんだから、お前は星屑だろ」
「何それ」
「いっつもそうだよ。好きな女に俺は最後までさわれない」
どんだけ好きになったって、愛してもらったって、いつだって彼女たちは俺に心まで明け渡してくれるわけじゃなかった。こっちがどれだけ差し出したって、だ。
まろく光り輝いていて、美しくて遠い。そんな存在だった。だからきっと、リリコの母親もそうだったんだ。
「……リョウ、ロマンチストみたいでキモいね」
「ああ?」
人が感傷に浸っているというのに、リリコはデリカシーのかけらもないことを言う。くそ、こんなクソガキに俺の恋愛観を語ったところで無駄だったか。
深くため息をついて、残りの白米をかき込む。リリコもその小さな口にハンバーグを詰め込んでいたが、ふと呟いた。
「で? ママのこと好きだった?」
「……お前のママとやらに覚えがまったくないんだよ」
「……」
じっとりと暗い目で見つめられ、俺は呆れてしまう。愛した女が星で、リリコは星屑で、とするとリリコの母親を俺はちゃんと愛してたっていう方程式が成り立たないんだろうか、このお嬢ちゃんの頭では。
「お前のママの名前、なんだっけ」
「もう言わない。リョウには絶対言わない」
「なんで」
「愛した女は星なんだ……とかカッコつけてる人には絶対言わない」
前半のセリフはおそらく俺の真似をしたつもりなんだろう、なんだか半端じゃなく気障な感じに出来上がっている。それが余計にいらつく。
ぎりぎりと睨みつけるが、そんな視線をものともせずにリリコはがたっと席を立って食器を持ち上げた。
「ごちそーさま!」
そのままキッチンに食器を持って行ったかと思うと、俺が食べ終えた分の食器も運んでいってしまう。ほほう、さすがに居候は肩身が狭くて皿洗いくらいはするのか、と思いながら見ていると、リリコはそこで作業を終えてソファのほうへ歩いていく。おい、待て。
「リリコ、お前皿どうする気だよ」
「どうって?」
「洗えよ」
「なんで?」
「はあ!?」
きょとんとしたリリコがテレビのリモコンを押した。途端に、スピーカーからどっと笑い声が起こって、バラエティをやっているんだと分かった。そしてそののんきな笑い声は、俺の神経を逆撫でした。
「リリコ」
「何?」
「俺は仕事して満員電車乗って疲れて帰ってきてんの」
「うん、知ってるよ」
「そんで、お前のために飯も作ったわけ」
「うん」
「皿くらい自分が洗おうとか、ならないわけ?」
「……お皿を洗うのはパパの仕事でしょ?」
何を言っているんだこのクソガキは。
俺の表情が歪んだのを怪訝そうな顔で見ていたリリコは、けれどすぐに飽きたのか手に持っていたリモコンをちゃかちゃか操作してチャンネルを回した。細切れに俺の耳に届く笑い声やドラマティックなセリフや平坦なナレーションが、いちいち癪にさわってしょうがない。
「リリコ!」
「なぁに?」
面倒くさそうに、怒鳴った俺を見たリリコの神経の図太さにはほんとうに感心するしかない。そもそも、知らないおっさんの家にこうやって上がり込むこと自体相当胆が据わっているとは思う。俺がロリコンと呼ばれる種の人間だったらどうするんだ。カモがネギ背負ったような無防備な顔をしやがって。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
母親は、俺の恋人だったらしい女は、このお嬢ちゃんにどういう教育をしてきたんだ。
「あのなあ! 人様の家に勝手に上がり込んどいて家事のひとつも手伝わねえってのはどういう了見だ!」
「……」
「ここはせめて遠慮して私がやりますくらいのこと言ったらどうなんだ!」
リリコが、ぱちくりとまばたきしておもむろに首を傾げた。
「リョウは、パパでしょ?」
「あ?」
「人様の家じゃなくて、ここはあたしの家でもあるんだよ?」
「……あ?」
あ、に濁点をつけたくなるような、そんな言葉だった。
何が、あたしの家、だ。
リリコは、長い髪をいじりながら退屈そうにしている。
「リリコ」
「ん?」
「ここはお前の家なんかじゃないし、そもそもお前の家なら手伝いをしなくていいって道理にはならない」
「……」
「働かざる者食うべからずだ。分かるな?」
「……」
「お前の家では、ママが全部何もかもやってくれたか? お優しいママだな。……残念ながら俺はそういう教育方針はとってない」
地を這うような俺のどすのきいた声に、リリコがびくりと顔を歪ませた。
ダイニングテーブルの前に仁王立ちしている俺と、ソファで居ずまいを正したリリコが睨み合っている図は、他人の目にはさぞかし滑稽に映るだろう。こんなお嬢ちゃん相手に何をむきになって、と。けれど俺はけっこう本気で怒っている。
「お前いくつだ、歳」
「……十歳」
「四年生だな?」
「うん」
「ママがどんな奴かは知らないが、お前はなんにもできない年齢じゃない」
「……」
うつむいて、リリコが昨日俺が貸してやった服の裾を握った。大きなTシャツがワンピースのようになっていて、たぶん短パンははいてない。
ちょっと言い過ぎたか、と思いつつも、これはこれからのリリコのために必要な怒りだと考え直す。
「大人になってから、料理も掃除も何もできないってなったら、困るのはお前だぞ」
「……リョウ、説教くさい」
「……ああ、そう」
もごもごと居心地の悪そうな表情で、リリコの精一杯の抵抗に、俺はふつっと切れてしまった。笑みを顔に乗せると、リリコが眉を寄せてソファの上で後ずさった。
「じゃあいいよ。俺がやるから」
「えっ」
「お前はそこでのんびりしてろ」
「……」
踵を返して、キッチンに向かう。腕まくりをして水を出してスポンジで洗剤を泡立てていると、ぺたぺたと足音がして、振り返るとリリコが背後に来ていた。
「あ、あの」
「何?」
「あたし、やる……」
「そう? いいよ、ゆっくりしてれば?」
「い、いいよ! あたしやるってば!」
なかなか気の利いた動き方ができないやる気のない社員をやる気にさせる魔術が、リリコにも効いたようだ。
こういうガキは、やらなくてもいい、と優しく突き放されると天邪鬼なのでやり始める。
子供がいたことなんていまだかつてないけど、意外とうまく操縦できているのは経験のたまものなんだろうか。子育てって、こんな感じで進んでいくんだろうかとか思うと、なんだか妙に感慨深い。
「リョウ、明日の晩御飯何?」
「何も考えてない」
「あのね、ホワイトシチューがいい」
「……」
リリコが皿を洗いながら俺にリクエストをしてくる。俺は隣で皿を拭きながら少し思案した。
ホワイトシチューって具材を煮込んでルーを入れるだけの簡単なやつだよな。まあそれくらいならいいか、と思ったところで、俺はふと思い出す。
「ホワイトシチューって、にんじん入ってなかったか?」
「うちのホワイトシチューは入ってないよ」
「……あっそう」
どこまでこいつの親はこいつを甘やかしているんだ。こうなったら、明日のシチューにはにんじんごろごろ入れてやる。
待てよ。
「お前、明日も俺んちに居座るつもりか」
「そだよ?」
「ふざけ……!」
開いた口がふさがらないとはこのことだ。いったいいつまでこのお嬢ちゃんは、俺の家にいるつもりなんだ。
リリコがやってきて二度目の夜、結局寝室を彼女に明け渡した俺は、ソファに寝そべって考える。
リリコについて分かっているのは、名前と年齢、そして嫌いな食べ物がにんじんということだけ。ほかには何の手がかりもない。携帯も持っていないようだし。
いったい彼女は何者なのか、謎は尽きない。
「リョウ!」
「えっ」
寝たと思っていたリリコが、鋭い叫び声とともにリビングに駆け込んできた。うとうとしかけていた頭を慌てて持ち上げて彼女を見る。
「どうした!?」
「ゴキブリが出た!」
「はあ!?」
急いで寝室に駆け込むと、たしかに小さな小さなゴキブリが壁を這っていた。俺は、用意した殺虫剤をそいつに思い切りスプレーした。しばらく奴は抵抗していたが、やがてぽとっと床に落ちる。
「や、やっつけた?」
「たぶんな。ティッシュ箱持って来い」
幾重にも重ねたティッシュでゴキブリの死骸をつまみあげて、ゴミ箱に放り込む。
その一部始終を見ていたリリコが、とんでもないことを言い出した。
「ま、まだいるかもしれないよ」
「そうだとしても、見つからなきゃ仕方ないだろ。明日薬買って撒くから」
「一緒に寝て!」
「はあ!?」
服の裾を引っ張られて、俺は思わず声を上げた。リリコは至極真剣な顔をしている。
結局、俺は何度か断ったもののリリコの勢いに負け、寝室のベッドに一緒に横になる羽目になった。
「リョウ、あたしより先に寝たら駄目だからね」
「……」
なんだその理不尽。
結局、怖がっていたくせにリリコはあっさりと眠りに落ち、俺ももう今更ソファに移動するのが面倒になってこのまま寝ることにした。
リリコの寝顔をじっと見つめる。寝顔だけなら可愛い女の子なのにな、口を開けば生意気だわ常識知らずだわ……。
そっと髪の毛を撫でる。さらさらでつやのある綺麗な髪だ。
リリコはほんとうに、俺の子供なのだろうか。それとも違うのだろうか。まったく真偽は分からないけれど、これもまあ、何かの縁だから。とりあえずこいつを家に無事帰すまでは、面倒を見てやらんこともない、などと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます