リリコ・スターダスト

宮崎笑子

WEEK

 あまりにも春めいていて、一瞬仕事や責任といったすべてのことを忘れてしまいそうになるような陽気だった。もちろん一瞬あとには仕事や責任といったすべてのことが戻ってくる。

 定時を少し過ぎたあと、ロッカールームで大きくため息をつく。今日の飯は何にしようとか、やっぱ楽な刺身かとか、そんなことを考えたあとで、ああ違う、と思った。

 今日の飯はハンバーグなのだ。



 第一話:スターダスト現る



 家に帰るのがこんなに憂鬱だったことはいまだかつてない。いや、一度だけあるな、妻に浮気を察知された日だ。察知と言うか、仕事中に彼女は電話をかけてきてどういうことかと詰ってきたのだ。それで、これからあのリビングで、綺麗好きな妻により白とブラウンを基調としたインテリアでまとめられた片付いたリビングで、どんな修羅場が待ち受けるのかと戦々恐々と帰ったあの日はこれくらい憂鬱だったかもしれない。

 結局、あの日俺を待っていたのは妻ではなく、一枚の紙切れと判子だった。


「ただいま……」

「お帰りリョウ! 遅かったじゃん、おなか減った」

「……」


 じゃあテメーで作って食ってろよクソガキ、という暴言が喉まで出かかった。

 こちとら朝から晩まで仕事してへとへとになって帰ってきてるんだ、その上こんな縁もゆかりもないクソガキの面倒を見なければならないと思うと胸くそ悪い。


「呼び捨てにすんな、領さんもしくは平野さんと呼びなさい」

「は? リョウはリョウじゃん?」

「黙れクソガキ! オメーみたいなクソガキに呼び捨てにされる名前なんか持ち合わせてねーんだよ!」

「……」


 思わず怒鳴ってしまう。いかん、こんなクソガキに本気で怒鳴って俺は馬鹿なのか。大人としての威厳がだな。

 とか思っていると、そいつはうっと黙り込んだあと、じわあっと目に涙を溜めて言い放った。


「リョウのバカ! 警察駆け込んでおじさんに乱暴されたって言ってやる!」

「待て! 早まるな!」


 玄関に立っていた俺の横をすり抜けようとした小さな身体を慌てて引き止める。そんなことをされたら折り返し地点に立ちかけている俺の人生が終わる。

 涙目でじろりと睨みつけてくるそいつに、引きつる喉を宥めすかして猫撫で声を絞り出した。


「リリコ、今日ハンバーグだから、な?」

「ほんとう? 煮込む?」

「いや、煮込むつもりはない……」

「……警察に」

「待てって、仕方ないだろ材料ないんだから!」


 そいつ――リリコは、少し考えるように俺を見て、ふうん、と言った。仕方ないから許してあげる、とも言った。

 なんでお前ごときに俺が許しを乞うて、その上ご機嫌取りまでしなくちゃならないんだよ。苛立ちが鎌首をもたげるが、ここでまたぷっつり行ったらさっきの二の舞だ。

 すべての始まりはつい昨日のことだった。

 春爛漫である。その日俺は、いつも何かしらの失敗をしてしまう新人が珍しくパーフェクトに雑用をこなすのを見て上機嫌だった。

 俺の勤めている会社はそこそこいいところで、オフィスが入っているビルもかなりの高層だし眺めもいい。四十の誕生日を迎えて管理職にも就いたし、離婚歴が二度ほどあることをのぞけば、俺の人生は順風満帆にいっていると言えた。

 仕事を終えて、とっぷり暮れた空を見上げながら帰路につく。電車を降りてしばらくして、俺はそれに気が付いた。

 俺の住んでいる町は別に繁華街というわけでもない。ただオフィス街にアクセスがいいということでそれなりに人の流れがある。ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で俺の隣に立っていた小学生くらいの女の子が、俺と同じ駅で降りた。そこまでは別に気にもしなかったが、その女の子がどうやら俺のあとをつけてきているのではないか、と帰り道で気が付いたのだ。

 立ち止まって後ろを振り返る。女の子は、隠れる様子もなく俺をじっと見ている。なんだ、と思いつつ別に害はなさそうなのでそのままにする。

 マンションのオートロックの前まで来たところでさすがの俺ももう一度振り返った。


「お嬢ちゃん」


 声をかけると、びくっと女の子が肩を浮かせて俺を見た。ただ見たと言うよりかは一生懸命に観察されているような、そんな不思議なきらきらした瞳だった。


「俺になんか用か?」

「……」


 この年の女の子を不審者と呼んでしまっていいのか分からない。何せ、小学校五、六年生くらいの女の子なのだ。ただ不審であることは間違いない。

 女の子はもじもじしながら俺のそばに寄ってきて、スーツの裾をちょっとつまんで顔を上げた。


「あの」

「うん」

「あたしのパパですか?」

「……うん?」


 意味が分からない。思わず持っていた鞄を取り落としかけるが、そんなことを気にもせず女の子は続けた。


「パパだよね?」

「……いや、違うと思う」


 女の子の顔をまじまじと見る。二重の切れ長なツリ目はたしかに俺に似たものを感じるが、親子であるという証拠にはならない上に、そもそもどういうことなんだ。

 軽く混乱していた。いきなり、女の子に「パパだよね」と聞かれて混乱しない中年男性がいるか、いやいない。

 目まぐるしく頭の中でこれまで抱いた女の顔が走馬灯のように行き来して、間違いは犯していないことをきっちり確認してゆっくりと首を横に振りながら女の子の手を握って俺のスーツを奪還する。


「お嬢ちゃん、人違いじゃないかな。俺に子供はいないんだ」

「でも、パパだよ」

「いや、だからな?」

「あたし家出してきたの! おうち入れて!」


 人の話聞けよ。

 いや待て家出と言ったな。と言うことは、帰る場所がなくて困って俺を父親に仕立て上げようとしている可能性も捨て切れない。そうと決まれば行く場所はひとつだ。


「警察行こうか、お嬢ちゃん」

「やだ!」

「嫌だじゃなくて、家出なら親御さんが心配してるだろ」

「パパでしょ、リョウでしょ?」

「っ」


 俺の名前をずばり言い当てられて、ぎくりとする。

 まさかほんとうに過去に関係を持った女との間の子供で、その女は俺に伝えることなく一人で産んで育て、この女の子にパパの名前はリョウだよ、とか言っていたのだろうか。

 そこまで一気に考えた。そして結論が出る。


「警察行こうな」


 たとえそうであってもだ。女のほうが俺に何も伝えなかったのは何か理由があるはずで、すなわちこの女の子は生物学上俺の子である可能性があったとしても俺の子供ではない。

 女の子の腕を引いて、警察署はどっちだったか、と歩き出そうとすると、彼女が口を開く。


「警察行くなら、あたし、このおじさんに乱暴されたって泣くよ」

「……なんだと?」

「今すぐ超騒ぐよ。おじさんに痛いことされたって泣くから!」


 そう言うと、女の子はすうっと息を吸って、見る間に目にうるうると涙の膜を張り始めた。

 コンマ何秒かの出来事だった。俺はがばっと女の子の口を塞いでオートロックを即行で開けて中に滑り込む。

 全力で肩で息をしている俺に、涙目でしてやったりという顔をしている女の子が言い放つ。


「リョウ、あたしをおうちに入れて!」

「ふざけるな……」

「リョウはあたしのパパでしょ、だったら面倒見てよ!」


 幼さゆえの思考なのか、教育が駄目だったのか、それとも今時の小学生というものは皆こうなのか。

 いろいろ思うことはあるが、答えはもちろん、決まっている。


「駄目だ。おうちに帰りなさい」

「いいの? 叫ぶよ、おじさんにひどいことされたって叫ぶよ?」

「……」

「おうち、入れて」


 この、オートロックの中に通してしまった今の状況でそんなことを叫ばれたら俺に勝ち目はない。そう悟った俺は、しぶしぶ彼女の要求を受け入れることとなったのだ。

 部屋に入れると、彼女はしげしげとリビングを見回して俺を振り返った。


「超汚いじゃん!」

「……黙れクソガキが」

「え、なんでなんで? なんでこんな汚いの? 意味分かんない」


 たしかに、朝遅刻しかけて朝食の食器はテーブルに置いたままだし新聞も数日分積み上げてある。ソファで寝ることがたまにあるからソファカバーもくったりしているし、掃除機も二週間かけてない。空気もよろしくないだろう。だが、そんなことを初対面の女の子に言われる筋合いはない。


「お嬢ちゃんのおうちは綺麗か?」

「うん」

「じゃあおうちに帰りな」

「やだよ」


 とりあえず、警察に連れて行こうとすると叫ぶだの言い出すのでどうにもならず、俺はとりあえずこの状況はさて置いて情報を収集することにした。


「お嬢ちゃん、お名前は?」

「リリコ」

「リリコな」


 どうにも偽名くさいが、すっと出てきたあたり本名なのだろう。最近の子供の名前の流行は分からないし。


「どっから来たんだ?」

「ねえリョウ、おなかすいたよ」

「どっから来たんだ?」

「何か食べるものないの? あっ、リョウはご飯食べた?」

「……」


 答える気はないらしい、と。スーツのジャケットを脱いでハンガーにかけて壁に引っ掛ける。冷蔵庫を覗くと、魚肉ソーセージがあったのでそれをとりあえず与えておく。するとリリコは明らかに不満そうな顔をした。


「ええっ、これがご飯? マジで?」

「嫌ならおうちに帰れ」


 どうやらこの言葉は効果覿面らしい。リリコはぶすっとした顔で魚肉ソーセージのビニールを剥がし始めた。

 もぐもぐしているリリコがダイニングの椅子に座る。俺はそのテーブルを挟んだ向かい側に座って、尋問を再開した。


「お母さんの名前は?」

「マイコ」

「……」


 マイコ。まったく覚えのない名前だ。とすると、やっぱりこの子は俺の子ではない、と思う。なのできっと、まったく赤の他人であるリリコは家出をしたはいいが行く場所がなく、なぜかは知らないが俺に目をつけたのだろう。とするとなぜ俺の名前を知っているかだが……。


「なあ、なんで俺の名前を知ってる?」

「内緒」


 にっこり笑ったリリコがソーセージを食べ終えてきょろきょろあたりを見回す。


「ねえリョウ、奥さんは?」

「……いないよ、そんなもんは」

「なんで?」

「なんでって、いなきゃいけない理由でもあんのかよ」


 そうぶっきらぼうに答えると、リリコはうーんと腕組みして、俺の顔をじいっと見た。そのツリ目は、やっぱり毎朝鏡で見る俺の顔に少し似ていたのだけど。


「でも、こんな広いところに一人で住んでるの?」

「……別に、いいだろ」


 二件目の離婚が成立してまだ半年だというのは、こんな初対面のお嬢ちゃんに言う必要のないことだ。

 俺の浮気が原因だっただけに、慰謝料もがっつりふんだくられてわびしい暮らしを送っているなんて、言わなくてもいいことだ。


「で、だ。リリコ」

「何?」

「俺がパパだっつーのは、どういうことだ?」


 一番聞きたい質問を繰り出す。するとリリコは、困ったように眉をひそめた。

 何か、言いにくいことがあるのだろうか。ごくりと思わず唾を飲み込む。


「リョウが……パパだからだよ」

「意味分からん」

「ねえリョウ、お風呂入りたい!」

「いや、話は終わってねえぞ」

「こっち?」

「おい」


 勝手にぱたぱたと浴室のほうに歩いて行ってしまったリリコのあとを追う。

 脱衣所につけば、リリコは今まさに服を脱がんとしていたところだった。慌ててドアを閉める。いや別に見たって俺自身は何も思わないんだが、法律はそうはいかないんだろ、確か。児童ポルノとかさ。


「悪い」

「替えの服とさー、バスタオル置いといてよー」


 どこまでも横柄な奴である。

 ここまで自分勝手で自己中心的な相手に対してなら礼を欠いても問題ないだろう、ほんの小娘だし。俺はそう結論付けて、会社の新人よりもつらく当たることを決意した。

 とりあえず、自分のTシャツとハーフパンツとバスタオルの代わりになる大きさのタオルを洗濯機の上に置いて声をかける。


「置いとくからな」

「はーい」


 こもった声がして、そのあと鼻歌が聞こえてきた。どこまでものんきな奴である。

 とりあえず、スーツから部屋着に着替えて今朝の朝刊を読んでいると、リリコがすっきりした顔で上がってきた。俺も風呂に入ろう。


「リリコ」

「何?」

「リビングから一歩も出るなよ、絶対に」

「あ、分かった、寝室とか超汚いんだ」

「……」

「あたしもう眠いんだけど、ベッド貸してよ」

「ふざけんな、そこで寝てろ!」


 ぶちっと切れてソファを指差すと、リリコは深々とため息をついた。


「女の子をそんなところに寝かせて、いいと思ってるの?」

「お前は女の子である以前に、完全に招かれざる客なの」

「……ちぇっ」


 しぶしぶといった体でソファに横になったリリコは、目を閉じた。とりあえず、この家で大事なものは全部寝室の金庫の中だ。こいつには開けられないだろう。泥棒だと思うわけではないが、そういう自衛精神は必要である。

 風呂で熱いシャワーを浴びながら、一日の疲れを落とす。どっと疲れた。なんだってこんなことになってしまっているのだ。

 仕事を終えてくたくたになって帰ってきたら、俺をパパと呼ぶ女の子が押しかけてきている。どういうことなんだ。

 とりあえず今まで関係を持った女を総当たりしてみたい気持ちになるが、一部をのぞき音信不通だ。もちろんのこと元妻とは通帳でしかつながっていないし、いちいち元恋人のアドレスを残しておくなんて面倒なことはしない主義である。

 どうしてリリコが俺のところに来たのか、そして俺の名前を知っていたのはなぜなのか、謎は尽きない。


「……」


 風呂から上がると、リリコはすうすう寝息を立ててソファの上で眠っていた。その寝顔に見覚えがあるようなないような、そんな不思議な気持ちになって、リリコを抱き上げる。軽い。小学生の女の子ってこんなにも軽いものなのか。

 寝室のベッドにその身体を横たえてから、そっとドアを閉めた。リビングに戻ってソファに横になったところで、俺は帰ってきてから何も口にしていないことに気付いたが、もう空腹どころの話ではないので、明日の朝多めに食べればいいということにして、目を閉じた。

 こうして、俺とリリコの奇妙な同居生活が始まった。

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