──翻るワンピースの赤を憶えている。


 もう幾年ぶりだろうか、父の仕事の都合で引っ越して以来足を踏み入れていなかったこの街を訪れるのは。変わり果てた街並みと想い出よりも褪せた気のする空を見上げても、不思議と感慨を抱くことはなかった。そう言えば聞いたことがある。人の光彩は少しずつ弱まり、視界は徐々に色褪せていくらしい。懐かしい街の変わらない筈の空の青が淡く感じたのはその所為かもしれない。


 新しく買った白いワンピース。それの値札を切ったところで急に出かけたくなったのは、新しい服を身に纏ったときにありがちな妙な高揚の所為だろう。シンプルなデザインのそれに妙に惹かれて買ったのもあって、少し気分がいいから遠出しようと思った。

 問題は何処に行くかという事だ。勢い余って電車に乗ったのはいいけれど、それを決めていなかった自分を少し恨めしく思いつつ──電車のアナウンスが告げる懐かしい駅の名が「そうだ、此処に行こう」とすとんと心に落ちたのだ。


 足は自然と歩き出す。用があって訪れた訳ではないので、行く当てがある訳でもない。気の向くまま、脚の動くままに通り過ぎていく街並みをぼんやりと眺めながら、古い記憶を思い出す。此処には確かリサイクルショップがあったはずだ。あそこの不動産屋はレンタルビデオショップであったし、そこの空き地は本屋があったはずだった。けれど変わらないものはきちんとある訳で、其処の歯医者は相変わらず薄汚れた看板を出しているし、あの川の向うに見える教会はまだちゃんと其処にある。案外憶えているものだな、とひとりごちてみた。わたしの記憶力も、捨てたものでは無いらしい。

 自然に進む足が、はたと止まった。顔を上げれば其処は昔、わたしが住んでいたはずのアパートであった筈の場所である。あの角の家を憶えている、其処の川を憶えている。なのに、わたしの記憶にある薄汚れた白い壁だけが何処にもない。──かわりにそびえ立つ明るい黄色の建物。表札が出ているので誰かの家なのだろう、最新のアニメキャラが描かれた三輪車がちょこんと置かれている。なんだか妙に胸の内がかき乱されるような気がして、逃げるようにその場を去った。


 殆ど逃げるようにして、滅茶苦茶に歩き回って辿り着いたそこは交差点だった。この交差点は知っている。苦手な場所だったから、憶えている。そう、たしかあの先に病院があって、昔は注射をされるのが嫌でぐずったのを思い出す──いや?それだけじゃない、確かに苦手だったのだけれど、その理由は──


 考え込むように横断歩道の淵に立っていた私の背中を『誰か』が強く押した。何が起きたのか理解できず、ふらつきながら前に出た私の視界の端で赤に変わる信号と、真っ黒なワゴン車が見える。まずい、と思った瞬間には衝撃。暗くなる視界に翻る血まみれのワンピースの赤と、幼児の瞳がちらりと映った気がした。




 わたしは、あのみちがにがてだ。おかあさんにつながれたてはいたいし、あそこをわたったさきのビョーインでチューシャをされるのはこわい。それになにより、のだ。まっかなワンピースをひらりとひろげてたおれる、が。おかあさんは「きのせいよ」っていうけれど、ほんとうなのだ。だから、だから、わたしはあのみちがにがてだ。

 ────苦手だったのだ。

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噺屋『化猫』怪奇譚 猫宮噂 @rainy_lance

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