旅する男
三角海域
第1話
旅する男は旅を続けていた。
いつごろから旅を続けているのかは誰も知らない。ただ男が旅をしているということだけは誰もが知っていた。
男の顔すら誰も知らない。ただその存在だけは誰もが知っていた。
誰かが、男は舌を抜かれており、それでしゃべることができないのだ。男が旅をしているのは、自分の舌を抜いた者を探し殺すことだと言った。それが本当なのかは誰も知らない。
ある冬の日。男を見かけたと語る男が酒場にやってきて、旅する男のことを語ると言った。
田舎町の酒場なので、強風に煽られた雪が窓を強くたたき、壁もぎしぎしと鳴っている。男は店の片隅にある古いストーブに手をかざしながら、酒を注文する。ほかの客は早く旅する男のことを聞きたくて、男を取り囲んでいた。
店主が男にウイスキーを手渡し、男は舐めるようにちびちびと酒を飲み、大きく息を吐きだすと、ゆっくりと語りだした。
※
ある夜のことさ。どこからか冷たいか風が吹き込んできて、目が覚めた。毛布を体に巻き付けて、どこから風が入ってきてるのか確かめに行ったら、窓が少し開いてたんだ。俺も妻も、戸締りには敏感だったんだが、どうしてかその日は窓を閉め忘れたらしい。酒も飲んでいないし、特に眠たかったわけでもないのにだ。カーテンで隠れてはいたが、風は入ってくるし、カーテンもなびく。でも俺たちはなぜだかなんの疑問ももたなかった。
まあとにかく、窓が開いていたのさ。で、窓を閉めようと近づいた時強い風が吹いて、カーテンが大きくなびいた。雪が降り始めてて、風と一緒に雪の粒が吹き込んできた。その時、見たのさ。白い世界にぽつりと立つ旅する男を。
噂通り、旅する男は目深に帽子をかぶり、長いコートを着て、腰から鳥籠をぶらさげてた。
俺は夢中になって、家を飛び出した。大きな音をたてたからだろう。妻が起きだしてきたが、無視して俺は外へ出た。
旅する男の背中が見えた。だが、もうかなり遠い。確かに上着を着こんだりブーツをはいたりしてたが、旅する男の姿を見てからすぐに飛び出したはずなのに、もうその背中はシルエットになってた。
俺は必死に追いかけた。冬場の冷たい空気はナイフみたいで、走るとまるで頬を切られてるように感じた。
息が上がって、視界も靄がかかってきた。だが、必死に走った甲斐があって、旅する男の背中はもう間近だった。
俺は叫んだ。
おいあんた! あんた旅する男だろ! 待ってくれ! 俺はあんたと話がしたいんだ!
男は立ち止まった。でも、俺ももう限界だった。立ってられなくて膝をつき、息もうまくできない。
旅する男がゆっくりと振り返った……ちょっと酒を飲ませてくれ。口が乾いちまった……悪いな。どこまで話した? ああそうか。旅する男は振り返って俺を見た。でも俺の視界はもう歪んでいて、強くなってきた雪のせいもあって顔はよく見えなかった。その時さ。雪景色に溶け込むような、きれいな鳴き声が聞こえた。あれはサヨナキドリの鳴き声だ。間違いない。この町に越してくる前、よく鳴き声を聞いてたんだ。たぶん、旅する男の鳥籠から聞こえてきたんだと思う。
でも、おかしいんだ。サヨナキドリは越冬するだろう。この冬場に、それもこんな田舎で雪も多い場所で、あんな綺麗に鳴けるもんなのか。
そんなことを考えながら、俺は気を失った。どうやら妻が知り合いを読んで俺を追いかけけてきたらしく、凍死はせずにすんだ。かなり遠くまで追いかけてたらしい。あとからその距離を聞いてたまげたよ。
結局旅する男のことはほとんどわからずさ。でも、あのサヨナキドリの声だけははっきり覚えてる。冬の風に負けない澄んだ美しい鳴き声だけは。
旅する男の歩いてる場所は、俺たちの住んでる場所と微妙にずれているのかもしれない。まるでファンタジーだがな。
※
男の話はそれで終わりらしく、周りの人間がどれだけ待っても何も語ろうとはしなかった。
周りを取り囲んでいた人々は散り、各々いつも通りの会話を交わす。
旅する男のことを語った男は、ウイスキーの残りを飲み干すと、すぐに酒場を出ていった。
今日も旅する男はどこかを旅しているだろう。誰も男のことを知らないが、誰もが男が旅をしていることは知っている。
旅する男 三角海域 @sankakukaiiki
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