第3話

「『――鬼に食べられてしまいますの』」

「……田中?」

 不穏な言葉につられて後ろを向くと、そこに足を怪我して公園で一人凍えていた彼女の姿はなかった。ああそうか、おぶっている俺が負ぶわれている田中を見ようとして振り返っても見えるわけないかと、今度は首だけを動かして彼女を見ようとする。

 田中はいなかった。

 その時になって初めて、俺は体が軽くなっていることと、両腕が自由になっていることに気付いた。

 どこかで救急車のサイレンが聞こえた。


~~~~~


「――といった感じで不安を煽りはするものの、残念ながらわたくしは生きておりますのよ」

「まあ、知ってた」

「え、マジ?」

 田中は果物ナイフでリンゴを剥きながら器用に話す。病院服がダボダボで少し動きづらそうだった。

「だってお前が言ってた芥川って、あの芥川だろ。オチが蛇足だって有名な」

 物語の後半で、確かに主人公に見染められた姫君は鬼にさらわれる。だが、芥川という話には最後の最後に盛大なネタばらしがあるのだ。本当は主人公が高貴な姫君をさらってしまったため、それを姫君の兄たちが取り返しに来ただけの話だという、そんなネタばらしが。

「ちょっと待って。なにそれ、私が生きてたのが蛇足だって言いたいの? ひどくない?」

「あんなあからさまに幽霊然としたやつがいまさら生きてましたって、そっちの方がおかしいだろうが」

「いや櫛田君見たでしょ、私の足のケガ。幽霊が無い足を見せますか?」

 確かに、昨日見た田中の足ははっきりと存在していた。だが、

「それよりも前に、お前、体中血まみれだったじゃねえか」

 公園で見た田中の手や膝小僧は赤に染まっていた。昨日の夜は雪が降るほど寒かったが、それは決して寒さのせいではない。

 単純に、血でべっとりと赤くなっていたのだ。

 だから俺は田中にこう聞いたのだ、『お前、こんな夜の公園でなにやってんの?』と。

「ならすぐに私の正体を見破ってほしかったものだよ。そのころ本体の私がどんなにつらい状況だったか」

「知るかよ。こちとらいつ呪われるのかと内心ビビってたんだ」

「ああ、だから大人しく家までおぶってってくれたのか。きゃー。かわいー!」

「……」

 家に帰ってから数時間後。そろそろ勉強を終えて寝ようかという俺のところに一本の電話がかかってきた。それは病院に備え付けられた公衆電話で、相手は

『田中若菜と申します。タクシー田君はいらっしゃいますか?』

「切るぞ」

『わー待って待って待って!』

 ………。

 ……。

 …。

 結局、田中は生きていた。あの日彼女は下校途中で交通事故に遭い、十時ごろまで緊急手術を行っていたのだという。事実から見ればそれだけなのだが、どういうことか俺と田中にはそれ以上の記憶がある。具体的には十時ごろ、夜の公園でジョークについてあれやこれやしていた記憶だ。

「私が手術を受けて生死の淵をさまよっていた時に、精神だけが分離してたのかもね」

 これが田中の見解だった。俺としても納得できる説明を持ち合わせてはいなかったので、おおむねこの意見に同意している。

 それにしても、

「なんだこのやっすい脚本は」

「おいおい。下半身不随の女の子を前にしてそれを言うか。言っちゃうのか」

「嘘をつくな嘘を。三か月歩けないってくらいだろうが」

 死ぬわけでもなく、この先一生残る障害もなく。リハビリと日常生活が不便になること以外には、センター試験を車椅子の上で受ける程度のことしか変わるものはない。

「そんなものなんだよ。幸運なことに、芥川よろしく残念なラストでごめんなさいね」

「芥川はお前が言い出したことだろ」

「ともかく」

 田中は皿に盛りつけられたウサギ型のりんごを、まるで自分の器用さを誇るかのように俺の目の前に持ってきた。

「私が言いたいことは一つです」

 そして、まるで昨日のように中途半端な笑顔を見せ、言ったのだ。

「この先数か月間、私は車椅子生活になるでしょう。一人では不便なことも何かと多いです。特に移動面。私のか細い腕ではどうにもならない場面に幾度も出会うでしょう。私は自分を運んでくれる、そう、タクシーのようなものが必要になるのです。だから――」

「『Please call me taxi?』……これでいいか?」

「……ごーかく」

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「Please call me」 桜人 @sakurairakusa

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