喫茶店、夜を告げて
日々ひなた
喫茶店、夜を告げて
夕焼け小焼けのBGMが街中に鳴り響く。今は午後5時。子供達は門限が来たと騒ぎ出し、遊びを辞めて家に走る。学生は夜の予定を決めるため安いファミレスでくだらない、しかし彼らにとっては単位や課題よりも貴重な笑顔の耐えない
カランコロン、ギィと静寂の中、扉の鈴が鳴る。
「やっほーマスター、調子どう?」
古びた木製の扉が軋む音をたてて開く。そこから凡そ20代後半の女性がヒールの音を鳴らしながら入ってくる。どうやら常連の様で一番奥の席に堂々と腰をかけた。
「いらっしゃい。見れば分かる通り読書に夢中さ」
店主は女性をチラリと見ると、本を閉じメガネを掛けた。
「へぇ『夕暮れの哲学』か。ずいぶんとまた難しい本を読んでいるのね」
先程まで店主の読んでいた本のタイトルだろうか。興味のない様子で尋ねる。
「あいにく暇を潰すのに忙しくさせてもらってるからね。小説なんかじゃすぐ読み終わってしまうんだ」
先程の本をクラシックな棚に仕舞うと慌てる様子も無く食器を用意し始めた。
ここは寂れた商店街の一角にある喫茶店「オールドファッション」。暖炉や置き時計等の中世ヨーロッパを感じさせるレトロな内装で、少し不釣り合いのカジュアルな制服を来ている偏屈な店主の経営する小さい喫茶店である。
「しかし本当に寂しいお店ね。内装は素敵なのに。マスターもひげを伸ばして雰囲気出せば少しは人気出るんじゃない?」
「私が装いを変えた所で変わらないさ。名物が小さなパン屋のチョココロネしかない寂れた商店街、後は八百屋に惣菜店と文具店位しか無いからね。そんなことより喫茶店に来たんだから何か注文の一つでもして欲しい所なんだけどな」
その表情は殆ど変わらないが声には多少の呆れが感じられる。
「分かってるわ。そうね、いつもは紅茶を頂いているけど今日はコーヒーにしようかしら。マスターが一番美味しいと思うのを頂戴」
「では一昨日仕入れた豆を使おうか。少し割高になってしまうがいいかな?」
「あら、私が値段を気にするのならこんな寂れた喫茶店に来る理由があるのかしら」
「ごもっとも。では出来る限り美味しいものを入れよう」
ゴリゴリ、と豆を挽く音が響くと店内はたちまちほろ苦くも上品な香りが充満し始めた。
「いい香り。紅茶も良いけどコーヒーを頼んで良かったわ。ついでにお茶菓子も頼もうかしら」
「それはちょうどいい。今朝商店街の名物チョココロネをいくつか買ってきていた所だし温めよう」
と言ってすかさずトースターを開けパンを中に入れた。
「マスターなんだかんだであのパン気に入ってるじゃない。残念ながら私ももう買ってきてるの。だから違うのでお願い」
するとこの女性もカバンからパンを取り出すと手を払い違うものを要求した。
「そうか、手間が省けたと思ったんだが。実に残念。僕の夕飯にするしか無いね」
この店主も心から残念そうな様子で取り出すと冷蔵庫へ閉まった。
「さっきまで暇だと言っていたじゃない。別になんでも良いわよ」
「私はお茶やコーヒーを淹れる人ではあるけどお菓子を作る人では無いよ。それはパティシエにお願いすべきだと思うね。やれやれ、昨日作ったショートケーキで良いかな」
そう言うと冷蔵庫からラップに包まれたイチゴのショートケーキを取り出し、フォークと共に女の前へ置いた。
「なんだ、そんな事言いつつもちゃんと作ってあるのね。本当に変な人」
客は呆れるような顔をするも目の前にあるケーキのラップをすぐさま取り外した。
「この喫茶店に来ている時点で貴女も変人。さ、召し上がれ。コーヒーはもう少しかかるよ」
「ありがとう」
そして先端のイチゴが挟まれた部分にフォークを差し込むと顔とは似つかない大雑把な様子で口に運んだ。
「うん、美味しいわ。何よりこのイチゴが甘酸っぱい」
「君は甘酸っぱくないイチゴに魅力を感じるのかい。これはあの八百屋で買ったものだ、不味いものは出すまいよ」
店主はコーヒーを少しづつドリップしながらまたもや無愛想に答える。
「本当に偏屈ね。こんなに美味しいケーキを作った人なのにガッカリよ」
客はフォークで店主を指しながら褒めているのか貶しているのか分からない言葉を投げかける。
「生憎当たり前の呟きに出てくる言葉なんて丸くしてもこの辺りが限界さ。お待たせ、今日のコーヒーだ。いつもの紅茶と同じでミルクも砂糖も入れてないよ。後はごゆっくり」
当たり前の皮肉を言いながら店主はシンプルな白い磁器にコーヒーを注いだ。そこからは湯気が立ち昇り、今度はほろ苦いだけではなく芳醇な香りがカップから溢れ出る。
「良く分かってるのね。じゃあ頂くわ」
と客は言うも、既に店主は先程の事を忘れたかのように読書を再開している。
「客の前なんだから少しは店主っぽくしなさいよ……。ま、いいわ」
そう愚痴を言いカップに口を付ける。途端に客の口から「あっ」と驚嘆の声が漏れる。
「美味しい。本当に。今まで行ったどんな高級店とも全然違う。鼻に抜ける香りも後から来る苦味も。お世辞じゃないわよ?」
本当に美味しかったのだろう、客は若干食い気味になりながら感想を述べた。
「お世辞だったらがっかりさ」
それに対し店主は一言、素っ気無く返すだけだった。
「ねぇマスター。私が店員になればきっと売上も増えるわよ。バイトに雇ってみない?」
先程のコーヒーによほど感動したのだろう。唐突に女性は提案した。
「はぁ、一流企業の女社長様を満足させるお給金が払える余裕がうちにあるように見えるのかいまったく。もっともバイトの出来る時間が貴女にあるようには思えないけれどね」
「分かってる、冗談だから。せっかくの休み時間に仕事の話なんてうんざり。本当はもう少しゆっくりしていきたいけどもう行かなきゃ」
店主の最後の一言が客を現実へ呼び戻した。置き時計を見て本当に残念そうに呟くとコーヒーを飲み干し、慌ただしく準備を始めた。
「まったく、あなたは少し頑張り過ぎだ。僕を見てみなさい、こんなに適当に生きていてもなんとかなっているというのに」
カップと皿を片付けながら店主はやや呆れたように言う。
「ありがと、じゃあここへ来る為に頑張るわ。次も期待してるからね」
と言って女性は金をカウンターに置いた。
「僕の暇潰しになる位ゆっくり出来る時間が出来たらまたおいで」
カラン、コロンとドアが開き夕日が店内に差し込む。女性は笑顔で手を振りながら外の車に乗り込んでいった。まもなく街は今日も夜を迎える。そしてこの女性はささやかな幻から日常へ戻って行くのだった。
喫茶店、夜を告げて 日々ひなた @tairasat9
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