桜のココロ

第2話 桜のココロ



 春の名残は雨に流され、いまや葉櫻が木漏れ日を揺らしている。

 石畳の通路を進む小さな革靴は少女のもの。規則正しく、軽やかな靴音を響かせるリズムはまるでひとり、軽やかなワルツを奏でるかのようだ。

「気の早い梅雨も明けて、風も詠うかのようですね。唇とて、立葵に続いて綻ぶ程に」

 重なるのは少女の詩を諳んじるような声。

 けれど、少女の声からは決して強さや硬い印象は憶えない。あくまで清々しく。あるいは柔らかく。つまる所、繊細な少女が歌っている。

 久しぶりに雨雲を振り払った空から落ちる日差しさえ優しげに思えるほどだった。

 くすりと微笑みを漏らすと、両手で握った鞄の中から取り出したのはルーズリーフの小さな手帳。桜のはなびらが描かれたそれを開くと、シャープペンシルを走らせる。

 中身は、唇が紡ぐものと同じ。つまりは即興で浮かんだ歌のメモだ。口にして詩の韻を調べて、瞬きに生じて消える想いを書き記す。

 下手をすれば。いや、普通であればきっと奇異の目で見られるだろう。

 それでもどうしてかこの少女に違和感を覚えることができなかった。蝶が空を舞うのに、どんな不思議があるのだろう。つまりは何処まで纏う雰囲気が『らしい』のだ。

「あるいは、この陽射しでは蝶とて踊るかもしれません。なら、私は私のリズムで歩くだけ。刻むのは私だけの足音。他の誰も、私と同じ足音は奏でられないのですよ?」

 くすりと笑う気配。たん、たんっ、と革靴の底が石畳の道を叩いて音色を鳴らす。

 ここは大正時代以前に立てられた中高一貫の、正真正銘のお嬢様学校。百年以上の歴史の積み重なった路を歩く少女は確かにそういった『らしさ』を纏っていた。

 風に揺れる小さな花のよう、とさえ言えるだろう。

 自己主張は決して強くなく、それでいて周囲を和ませる。雰囲気であり、風格であり、そして貌に浮かぶ微笑みがそう感じさせるのだ。

「夏の空の青さで、結ぶ心の糸を染めましょう。未だ見えぬ小指の糸の代わり、信頼に結う花として、あれほど美しく、見上げれば常に寄り添う優しい色はないのですから。未だ先あり、飛べる翼あると微笑む為に」

 続く即興詩は、少女独特の感性と旋律。あるいは予感を口にしていたのかもしれない。

「雨の終わった雲で、柔らかな布を織りましょう。涙拭うハンカチを。三日月のような白々しさで笑いましょう。困ったことなど、ふたりいれば忘れてしまう。夏の優しさを、紡ぎましょう」

 今までの少女達が歩んで来たように、黒い長髪の少女は平成の今に足音を続かせていた。時代は流れても、この中にある本質は何も変わらないのだと。

「――まあ、私のような風変わりの花が他にいても困りモノですけれどね?」

 いや、本当にそうなのだろうか。

 密やかな靴音は楽しげに学園内の道を歩む。

 春と夏の合間に吹く風は少し湿り気を帯びているが、それは頬を撫でるかのような感触。ゆるりと少女の腰の下まで伸ばされた黒髪を靡かせて、そこに結われた小さなリボン、そして古めかしいセーラー服の裾をひらり、ひらりと揺らしている。

 確かにそれだけ見れば美しいお嬢様だ。

 いまだに成長しきっていない顔立ちは可愛さから綺麗へと移ろうとしている最中。夜色という言葉を思わせる静かな瞳は穏やかな感情を浮かべている。

 何処か儚い。夢物語の登場人物であるかのようだ。

 ある意味、時代錯誤感のような、何処か現実性の薄さを感じるがこの場ならば仕方ないと思わせる匂いがある。

 たおやかやで繊細な少女――そう云えるのは、恐らくその肩に羽織るものがなければ、だろう。 


――ふわりと、赤織の翅が舞う。


 それは少女がカーディガンの代わりとでいうかのように羽織った赤橙色の着物だった。

 一体何を考えているのだろうか。制服はスカートの長さを始め、タイや靴下まできっちりと校則に反することなく着込んでいる。だというのに、どこに問題があるというのでしょう、というような風情で着物を羽織って歩く姿は、奇異を通り越して夢の蝶が踊るかのよう。

 もちろん、本来なら教師に見つかれば小言ではすまない。少なくとも古くから続く女子学園は学生寮を内部に建てている程に大きく、だからこそ現代においては厳しすぎるほどの校則か掲げられている。何かしらの事情がなければ、休日に学校の中の寮生の友達に会いに来ただけだとしても、最悪、停学が待っているだろう。

 が、少女はそれがどうしたのです、とばかりに微笑むだけだ。

 きっとこれが少女にとっての自然体。気負うことも違和感を覚えることも欠片もなく、着物の裾をはためかせて歩き続ける。

「こんな姿をするのは、私だけでしょうし。この足音に重ねる人は、何処にもいないでしょうし」

 そんな少女が口にするものは、何故だろう。

 ひどく胸を掻き毟るような切なさを孕みながら、どこか空虚なほどに達観している。

 だから、余計に見ている側の認識と意識がズレてしまうのだ。

 歌っていると思うのは、そこに実感のある言葉だと思えないからだ。

 匂いとはいったけれども、それは果たして学園のそれだろうか。いいや違う。きっとこの少女の纏う雰囲気に酔ってしまう。夢の甘さをそのままに、現実感を奪って失わせる不思議な少女。夢物語の登場人物ではなく、少女を中心に幻想性が広がり、そして見るものをその着物の意識を鮮やかで攫うかのように。

「私は――私、ひとり」

 そして、少女は詠う。即興の夢を。

「赤織の衣纏いましょう。黄昏の空から紡いだ糸で織った夢を。秋の紅葉を飾りましょう。幾千の葉が、異なる赤だと誰も気づかぬ間に。いずれ来る冬に、黄昏は青く染まって衣は雲に溶ける。紅葉の模様は、忘れ去られて森の雪の元に眠る。赤は刹那で、涙より短い」

 こつ、こつ、というメトロノームのような規則正しい靴音も、より一層のリアリティと理性を奪うかのようだ。

 それしか響かない。

「夕焼けが落ちれば、還りましょう。赤い娘は、赤い空へ。月の白さにも、相容れられず。けれど、また巡りてあいましょう。次なるは薄紅の桜吹雪の中に、夢まどろみ」

 午後の陽だまりと少女の歌声は優しく、眠気を誘うように漂う。

 音を立てるのはただ少女。木漏れ日の下で、蝶の翅を揺らす不思議な少女だけ。

 だからこそ、溜息は遠くからでもはっきりとその少女へと届いた。視線を上げ、朝顔が綻ぶように満面の笑みを浮かべる。対して、迎えだったのだろう長身の少女は肩を竦めた。

「相変わらずだな、桜花。まさかまさか、相談ごとを持ちかけられてもそのなりでくるとは」

 ある意味、諦観を含んだ苦笑を浮かべる、迎えの少女。

 ポニーテールに結われた髪の毛が、揺れる。

 綺麗な少女だが、鋭さが強い。釣り目な瞳は薄っすらとした灰色で、光の加減で僅かに青みがかっても見えた。珍しい瞳の色だが、その他は日本人と思わせる貌だ。

 凛々しいとまず感じる。姿勢も声の響きも、何よりも真っ直ぐに相手を見据える視線がこの少女の本質を物語るのだろう。誠実で、物怖じせず、そして強かな芯を抱く。少女だからすべてが花のように優しく、弱いのではない。

 これもまた少女の強さ。きっととてもリアルで、現代に則したまっすぐな強さ。

「御機嫌よう、夕鶴さん」

 だから桜花と呼ばれた少女と、夕鶴という少女を比較するとひどい差も出るのだ。

 それこそ桜のしなやかさと弱さを感じさせる桜花と、容易く手折れたりしない凛々しくて強い夕鶴。まるで正反対の性質の二人だが、だからこそ妙な親和性がそこにはあった。

「そのなり、と申されても困りますね。私の常はこのように。他人から頼られ、相談を受けるからと衣を変え、姿を変え、偽りの顔で相手の信頼を得てもそれは不義理かと」

「よく口が回るな。なら生徒会書紀として言い返せて貰うが、完全な校則違反だぞ。まず、その常、とやらを改めろ。そんな姿だからずっと変わり者と扱われるのだろうよ」

「おや、それは驚きです。何時の間に校則に着物を羽織ってはいけない、という一文が乗ったのでしょう。カーディガンの着用は校指定のものか申請したものをとはありますが、私は当時の担当の教師に着物をカーディガン代わりにと申請して通っております」

 一度唇を開けば、ころころと鈴の音のように言葉が出てとまらない桜花。

 くすくすと笑いながら言葉を投げかけるさまには親しみが含まれており、夕鶴が相手だから言っている部分はあるのだろう。 

 対する夕鶴もまた気心が知れている相手が桜花だ。普通なら困惑するだろう言葉に対して、小さく笑っただけ。友人に向けるには冷たい印象を受けるが、これが夕鶴という少女なのだと深く桜花は理解している。

 印象も何もかもが違うのに、二人は友人だった。

 前髪をかきあげながら、桜花は詩を諳んじるように口にする。

「私が変わり者なのは確かでしょう。けれど私は変わりません。天地が引っくり返っても、四条・桜花という少女は私だけなのです。私は、私です」

「それが幸いなのか、それとも桜花だけの幸いなのか、私の頭では理解できないな。出来れば私に教えてくれないか?」

「そういいつつも、夕鶴さんも楽しげなご様子。口では何といっても眼が笑っていますよ。私の着物のことで頭を悩ませ、頭痛を覚えるなど無駄なことです。夜空のお月様が落ちてこないように、私が着物を羽織るのをやめる筈もありません。いわゆる杞憂です。月も着物も落ちる理由と道理がないのですから」

「……そういう言動の方が私の頭痛を増しているのだがな」

 夕鶴の溜息に、くすくすと笑う桜花。

 今や華族の子女が通っていた学園も今では進学校のそれに近しい部分がある。

 悲しきかな、とまで言わないのは学園の雰囲気が壊れず、外のものと掛離れている部分があるからだろう。が、成績が優先される中で桜花は学年のトップ、それも生半可ではなく、中学から常に一位をキープし続けている。

 才女や天才の類と云っていいだろう。

 時代が時代であれば神童と云われたかもしれない。学問、芸術。

 身体こそ繊細な少女のそれだが、知能と感性、技術を問われるもので他者と比べようもない質を宿している。いつも横に並ぶ夕鶴が剣道の大会で常に県の上位に食い込んでいるのだから、比較されてあまり運動は得意ではないと見られがちだが、それでも並以上はあるのだ。

 この奇妙な装束以外は非の付け所がなく、無理に教師陣が口にすれば先のようにするりと交わされ、手痛いカウンターを受けたことも多数ある。

 セーラー服の上に着物を羽織る珍妙な姿以外は、確かに品性良好。成績優秀に加えて血筋もやんごとなき元華族だ。強く出るより、衣装ひとつ自由にさせれば大人しくなるならそうさせようとしているのが実情。第一、桜花の姿を真似しようとする生徒などいまい。

 例外は例外。そんな扱いだからこそ。

「これは、私のせめても反抗です」

 きっ、と表情を引き締めて語る桜花。

「この学園とて例外ではなく、日本の雅たる和の文化は廃れて薄れていくばかりではありませんか。憐れや悲しき、今や弦といえば弓弾くであり、爪弾くものではないのです。つまり、琴を弦楽器と思い浮かべるひとがいない程、欧米のヴァイオリンやヴィオラが流れている」

「悪くはないのではないかな。それ自体に反抗する理由はないと私は思う。音楽とは奏でて流れ、心に行き付くもの。そも、それを好くという心がなければ響きもしない」

「では、琴の演奏を聞いたことのある少女がどれだけいるでしょう?」

「……む」

「そもそも、辿り着かない。聞くこともできない。衣として纏えば着物の良さも解るものでしょう。同様、琴の音色も最近は鳴らされず、少女達は聞いたことなく知らぬのままです」

「それをお前は、廃れて薄れていくというのだな?」

「そうですよ。だから少しでも興味を持って欲しくて、こうして纏うのです。美しく雅な織物を」

 そういうとその場で爪先ひとつを中心に、くるりと回るは桜花。

 着物の裾がはためき、赤橙の色彩が午後の日差しで柔らかく滑る。

「が、お前が好きな飲み物は砂糖を沢山いれた紅茶だったな? むしろ抹茶は苦くて飲めないといってなかったか?」

「……さ、さあ。何のことでしょう?」

 くるり、と回る脚は更に速く、逃げるようへと前に進むが、言葉からは逃げられない。

「好きな食べ物はピザ。イタリアンが好きで、学食ではパスタを食べる姿がよくみられる。お米よりもパン、サンドイッチを好み、むしろ魚の煮物など苦手だったと記憶するが」

「わっ、わっ、わーっ。何のことでしょうっ。私は好きなものを好きなだけ、ただ、それだけですよっ。素敵を偽る心も、そして、色んなものを知って、それが素敵だと思う心を大切にしたいだけですっ」

 たたたっ、と小走りになって先に進む桜花と、肩を竦めて溜息をつく夕鶴。

 しっかりものの姉と、お茶目でお転婆な妹といえばもしかしたら通じるかもしれない。何処となく似通ったものが二人にはあるのだ。

 けれど、その姿を姉妹と間違えるものはいないだろう。

 今のような遣り取りを聞かなければ、似ている所はあっても、決して親友のように思えない。擦れ違う、性質の反対なだけの少女ふたり。

「そうだな。心こそを、大切にしたいな」

「……そうですよ?」

 だからこそ、夕鶴には解る。今の桜花がとても柔らかく微笑んでいるだろうことを、その背中だけを見て。

 羽織られた赤橙の着物は、桜花を包む柔らかな夕焼けの光のよう。

 黄昏の色。逢魔ヶ刻。そして。

「だって――私は無痛症ですから」

 神秘的なまでに、儚い声。繊細な音色は、触れれば壊れる硝子で出来たオルゴールのそれに似ている。色はくるくると綺麗な光と感情を宿して変えている。が、同時に絶対に触れないと解ってしまう。あくまで、ステンドグラスの色硝子を透かした光なのだ。

 四条・桜花という少女の心の距離は余りにも遠く。何も誰も、届かない。

 誰のどんな指先でも掴めない。

「誰か、私を泣かせてくれないでしょうか? 困らせてもいいんですよ? 笑い泣きさせてもいい。何故、世界はこんなに退屈で、痛みさえ教えてくれないのでしょう?」

 そんなことを優しく柔らかな口調で言う。

 桜花は痛みを知らない。そんな心を知っていても、夕鶴では共感できない。

 孤独に、桜は咲く。風に吹かれるように小首を傾げた。少しずつ、花びらが風に攫われていく桜の枝のように。

「――産まれた時に世界の痛みを知っているから、赤子でさえ、呼吸した瞬間に泣くのに。世界の痛みを、息をして胸に入れた瞬間に覚えるのに。なら、私は産まれてさえいないのでしょうか?」

 そこに寂しさがあれば救われたかもしれない。

 悲しみがあれば、本当は痛みがあって気づいていないふりをしていると怒れた。

 声色が歌うように楽しげで、とても澄んでいなければ、ただの戯言だろうと言えただろう。

「……私は、無痛症なのでしょうか?」

 そうだとしかいえない。

 昔、夕鶴が言ったことだ。桜花は人の心の痛みがないから、他人のことが判らないのだと怒ったそれをまだ引き摺っている。いや、縋っている。その先に到達しないようにと、夕鶴が桜花の心の在り様に怒ってくれているのだと、信じている。

 その先――もう、桜花はとっくに応えを出してしまっているのに。

「何にせよ、お前にだよ。この不思議な事件は」

 その衣を外すことはできないのだろう。

 くすくすと、こんな状態でも微笑む桜花を、夕鶴は痛ましく思う。

 痛みを下さいと、赤橙の翅を翻し、桜花はその薄紅の心を散らしていく。

 夕鶴では止められない。ただ、緩やかにその風の速度を落とすだけ。指先を絡めることも、できはしない。痛みを知るものと、痛みを知らないものでは、どうしても。

 桜花は独りだった。

 それを悲しい痛みとも、寂しい痛みとも感じられない。

 奇異で不思議で、綺麗で。何より孤独であることが当然の少女。

 だから、どうしようもないのだ。彼女の心に触れられるものはいないのだから。

「そう。せめてもの……反抗です。私に痛みをくださいな」

 それは実感。生きている情動。困り、苦労し、そして……。

――触れて欲しいのだな。

 夕鶴はその背に、少しの悲しみを覚えた。

 けれど、流れる艶やかな黒髪はその視線さえも滑らせて、届かせない。

 親友であっても、何もできない。孤独なままに完結してしまった、この少女には。

 幼い頃、神隠しにあったという桜花は、その心が未だに現に戻らない。

 浮世離れしただなんて、知ってしまった今では冗談としてもいうことが出来ない。

 そう振り返れば、桜花の言葉のひとひら、仕草の揺れのひとつさえも、まるで夢のように綺麗で。


「私は……生きているのでしょうか」


 楽しげにそう歌う姿が、どうしようもなく、遠かった。 


「神隠しに往き合った私の心の痛みは、どこにあるのでしょうか?」


 もしかしてと。

 ゆるゆると振り返った、その笑顔。理解出来ないからこそ、痛くて、その痛みを伝えられないのが堪らなく悔しい。本当に、真実、桜花は感情の無痛症。

 痛いがなければ。

 嬉しいもないのだ。

「心こそを、未だ攫われ、隠されているのかもですね」

 それは、もはや断言に近かった。

 夢の世界に心があるから、彼女は胡蝶の夢、そのものなのだ。

 赤橙の蝶が、夢を見ている。桜花という少女の夜色の瞳で。

「そうだな」

 同じ夢と情景を見ることのできない夕鶴は、苦く笑うだけだった。


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桜は遠く、月より遠く 藤城 透歌 @touka-kutinasgi

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