桜は遠く、月より遠く

藤城 透歌

第1話 完結された夢、由来の花


 これは極端な例え。彼女は、彼女ひとりで完結しているのだろう。

 彼女を不思議だと思う要素は沢山あるけれど、私にはそれを違和感だと覚えられない。

 そう気づいた時、動揺が背筋を走って指先が震える。掴もうとしたティーカップが、ただそれだけでかちゃりと音を立てた。鼓膜に直接響くのは、それに続いた彼女のくすりという微笑み。

 対面の少女は紙のように薄い陶磁器のカップから、音のひとつ立てることさえなく紅茶を飲む。ここは自分の家といっていい寮の談話室。なのに私のほうが酷く追い詰められて、少女はふわりと微笑むばかり。

 形のよい唇がカップに触れ、小さく傾けられれば琥珀色の液体が口へ、喉から胸へと。音を立てるのは香りに対して失礼だといわんばかりな上品さ。

持ち上げ、香りを楽しみ、笑顔でまたソーサーへと戻す。それらが擦れる僅かな音もない。

 音なく流れる仕草に気品や優雅さを感じるのは当然。そんな振る舞いを自然と出来る少女は、現代にどれだけ残っているのだろうか。

「さて、困りましたね。この紅茶のように、ただ口にすればいい、というものではないのですから」

 少しだけ微笑んで口にする少女はあくまで可憐なだけだ。

 旧華族のお嬢様と血統を辿れば成る程と頷く部分もある。けれど、羨ましいとは思わない。こんな風に産まれて育ったら、なんて考えが浮かばないのだ。

 艶やかな長い黒髪は午後の陽だまりの中でするりと揺れた。

 深い黒色の瞳は逆に夜を思わせる静かさと、何故だか見ている私を安心させてしまう。

「言葉並べて唱えればよい? そうすれば紅茶の香りのように、ひとくちで事件の最中と、その前後に香り立った相手の心まで判る?」

 繊細な様は、風で舞う花びらのよう。

 伴う声色は張り詰めた弦、爪弾くかのように澄んでいる。

「ふふ、その程度で解決するのならば午後の一杯と変わらないでしょう。安楽椅子に身を預け、解決の答えを出せば――それで解かれるのは謎ではなく、数式のようなもの。裡に心がないのですから、事件たりえない。事件足りえる動機という心情語れずでは、事件解決の回答にならないのです」

 一言で表せば、浮世離れしている。決して俗世に交わらないし、それが外面にも内面にも出ているのだから、不思議とは思っても違和感にはならない。

 元から違っている存在に異を感じるなんてとても難しい。最初から蝶と人では違い過ぎていて、どこどこが違うなんてひとつひとつ認識したりしない。

 そういうレベルで、目の前の少女は、ひとり、完結した世界を紡いでいる。

 私はようやく、目の前の少女を、同じ人間として今までみたことがないのだと自覚した。

 だからといって対応が変わる訳がない。

「感情を口にして、飲めばいいだけじゃないってわけ?」

「そう。そのとおりです。何しろ、人の起こす言動は一人で成す訳ではないのですから。ただ起きたことを述べればそれでいい訳ではありません。どうしてそんな事を? それに対しての返答もまた、私たちは用意しなければならないのです」

 チェスの棋譜に似ていますね、と少女は口にする。

 一手、一手。思惑があり、思考があり、詐術がある。駆け引きは炎に似て揺らめき、本当の狙いと形を見通させない。けれど、一度、紙に記してしまえば、向き合った二人の盤上の上で交差した想いは何もかもなくなってしまう。

 そのようなものだから、と。

「私は熱を持ちませんから」

 語る少女は、そうなのだろう。

 ようやく、はにかむように、困ったように、可愛らしく笑う貌こそ……不思議だった。

 この子は桜。だから人と交わらない。そもそも、人と桜は異なるのだから違和感などありはしない。桜同士なら、こちらは白い花びら、こちらは薄紅。蝶ならば更にその翅の色など、差異に渡って小さな差異が違和感となる。が、百匹のアゲハ蝶の中にカラスアゲハが混じっても、『それ』は異なっているのだからと最初から除外してしまう。

 そう。私も、いなくなった彼女も、隣で紅茶のカップを置いた桜たる少女の親友も、人として見ていない。見えない。どうしても。どこまでも。


 彼女の心には、誰も触れられない。

 彼女もまた、その心で現実に触れることができない。


 何故だろう。それを孤独だと、可愛そうだとおもえないのは。

 これはそういうもの。異なっているから仕方ないと、すとんと納得できてしまう。

「だから、必要なのですよ。人の心を解いて紡ぎなおせる、探偵さんが」

 桜とは、神が座す樹だという。

 ならば単純かつ明快。人に神の心が判らないように、神も人の心など判らない。

 理由は判る。理屈だってそうだ。起きたこと、起こされたこと。そして私の嘘も作りも何もかも判っているのに、そうして心が判らないから――彼女は。

「――私に解ける謎ではないのです」


 桜の花が散るように、とても儚く笑ったのだ。


 人の心が判らない桜の花びらは、悲しさや痛みさえも知らない。

 不思議だと思った。違和感は変わらずない。だから、可哀想とさえ思えない。

 人間の筈なのに、どうしてここまで明白に、夢に見る程の切実な想いが、彼女には解らないのだろう?

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