心の人形

御手紙 葉

心の人形

 彼はそっと腕を持ち上げ、自分の頭をぽりぽりと掻いた。

「いやあ、参ったね。お客さんがこんだけじゃ、僕の素晴らしい芸をやっても仕方ないような気がしてくるわ」

 彼は丸い頭を持って抱えて、沈んだ声で言った。僕は彼の肩にぽんと手を置いて、そんなことはないよ、と語った。

 子供達が僕らを見つめながら、きらきらした目をしてうなずいている。

「大丈夫さ。だって、君がこうして話しているだけで、芸は成り立つんだもの」

「はあ? じゃあ、僕がジョークを飛ばさなくても、平気ってことか?」

「君の存在自体がジョークなんだよ」

 僕がそう言うと、彼が僕の脛を蹴っ飛ばし始めた。子供達が噴き出して、大きな笑い声を上げる。

「ちくしょう、この辺にしておくか。じゃあ、みんな、またな! 俺のイカした芸を見に、来週もやって来いよ!」

 彼はそう言って、胸に手を当てて、大きく頭を下げた。子供達が拍手喝采する。僕は彼を抱え、そっとステージを去った。見世物小屋の支配人が笑っていて、僕にうなずいてみせる。僕はありがとうございました、と舞台裏で頭を下げた。

 子供達の歓声はまだやまなかった。


 その日のショーを終えると、僕は彼を大切に箱に仕舞って、そっと額を撫でた。

「明日も、よろしくな。君がいれば、僕も皆も笑顔になれるんだ」

 そう言って、僕は彼に笑いかけた。すると、彼も身動きしないまま、「お安い御用よ」と唇の端を持ち上げてくれた気がした。

 そう、彼は人形だった。ずっと昔に、人形芸の師匠から受け継いだものだ。彼は息を引き取る時、その人形を差し出し、これだけは大切に守ってくれ、と僕に言ったのだ。それ以来、僕はこの人形を大切にして、今も子供達の笑顔を守り続けている。

 彼の名前は、ケイン、と言った。ぺったりと丸顔に長い髪が張り付き、それは茶色だった。目がまんまるで、鼻がピノキオのように突き出していて、唇はにんまりと曲がっている。服装はまるっきり少年のそれだ。僕は彼を見る度、自分も子供に立ち還ったような気がして、嬉しくなるのだった。

 僕は彼の入った箱を閉じると、それを担いで見世物小屋を後にした。すっかり辺りは宵闇が満ちていて、ひんやりとした空気が肌を突き刺してくる。僕はコートの襟を引き寄せて、足早に歩いた。お腹が鳴ったけれど、ポケットを探ってみると、わずかな金しかなかった。

 今日入った見世物料は、孤児院の子供達の為に使おうと決めていた。これからすぐに住んでいるアパートに行って、来週の芸を考えなくてはならない。子供達の笑顔を守る為に、僕は人形達と生を共にしようと決めていたからだ。

 坂道を息を切らしながら上がっていき、ようやく小さなその古びたアパートに辿り着いた。僕は三階の奥の部屋に辿り着くと、中に入ってすぐに狭い部屋のベッドに腰を下ろした。

 明かりはぼんやりとしていて、端までは暗闇から浮き上がることはなかった。僕は朝食べたばかりの食パンを切り、それを口に運んだ。部屋の中の埃っぽい空気を逃がす為に窓を開けた。

 それでも空腹はやまなかった。僕は少し考えた後、ケインの箱を大切にベッドの前に置き、食べ物を買いに行くことにした。知り合いの男性が夜でも僕を気遣って、物を売ってくれるということがあった。

 僕は箱を開き、ケインの頭を撫でた後に、行ってくるね、と笑った。けれど、ケインはその時、何も言わなかった。じっと僕を見つめて、静かにしている。僕はどうしたんだろう、と思ったけれど、すぐにその鼻を叩いてうなずいてみせた。

「大丈夫。すぐそこの店に行ってくるだけだから。帰ってくるよ。その後に練習しようね」

 そう言って僕は箱を閉じ、立てかけると、部屋を出た。その時、幻聴か、彼の声が聞こえた気がした。ありがとう、と深い囁きが僕の耳に届いたのだ。でも、僕は気にせずにドアを閉じ、そのアパートを後にした。

 階段を降りて、夜道を歩きながら、歌を唄い出す。とても苦しい生活だけれど、そこに息づく人々の顔は笑みに溢れていた。僕はそう自分を鼓舞して、前へ前へと踏み出していく。不思議とどこか、アパートに後ろ髪を引かれながら。


 *


「はいよ、これは俺からのサービスだ。うちのガキも君にはお世話になってばかりいるからね」

 店主はドアを開けてその袋を僕に渡してくる。僕はそこから溢れんばかりの林檎と、チーズが入っていることに気付き、何度も頭を下げた。

「ありがとうございます。おじさんのパンは、僕が一番大好きな食べ物です」

「こちらこそありがとな。ケインに宜しく言っておいてくれよ」

 彼は髭だらけの顔をうなずかせて、豪快に笑うと、僕の肩を叩いて送り出してくれた。僕はうなずき、スキップをするように弾んだ足取りで歩きながら、坂を下っていく。周囲の木々がさやさやと揺れていた。いつもより風が強いようだった。

 遠くから人々の賑やかな声が聞こえてくる。遠くに明かりが見えた。今日は特別明るい夜のようだった。風の唸りが耳元に張り付き、寒々しい凍てつく寒気が僕の顔を覆おうとする。僕は足早にアパートへと向かった。

 そして、どこかその喧騒が近くにあるような気がして、怪訝に思い始めた。明かり、と言っても、空に浮き上がるほどのものなのだ。遠くの宵闇が街明かりに重なり、誰かが喚いているのが聞こえた。僕は胸騒ぎがして、早足で歩き続けたけれど、坂を降りたところで、人だかりができていることに気付いた。

 そして、重なるようにして、鐘の音が聞こえてきた。僕はもう走り出し、胸騒ぎの原因を突き止めようと、その人の輪に近づいた。

 その瞬間、絶句した。


 アパートが燃えていた。人々が大きく口を開けて、何かを喚き散らしている。消防団の人々が必死に消火活動に当たっていた。僕はもう心のざわめきが消えて、駆け出していた。林檎がころころと道を下っていく中を、駆け、叫び、アパートの中に入ろうとする。

 アパートの住人が僕の肩をつかんで引き戻し、やめろ! と耳障りな声を上げる。やめろ、止めるな、ケインが、ケインが燃えてしまう! 駄目だ、やめてくれ! 早く火を、火を止めてくれ!

「さあ、飛び降りろ! いち、にい、さん!」

 窓から人が飛び降りるのが見えた。その女性がクッションに横たわり、起き上がるのを見届けると、人々が歓声を上げた。良かった、無事だ、これで誰も犠牲にならずに済んだ。皆無事だ!

「違う……」

 違うよ、ケインが、ケインがまだ中にいるんだ、彼を助けてくれ! 彼は生きているんだ、死なせる訳にはいかない! ケインッ!

 僕は涙を流して絶叫を続けた。人々に必死に制止されながら、僕はその木造の壁が焼け焦げ、崩れ落ちるのを見つめている。ケインの笑みが炎の先に浮かんで、小さく首を振っているのが見える。

 ケイン、僕は君がいないと、生きていけないんだ。

 その切実な願いは、炎の前では掻き消されて、どこまでも天へと灼熱の柱が立ち上っていく。ケインはその中でただ静かに、世界へと還る道筋をそのままにして、消えて行った。僕は燃え尽きるその命を見つめながら、絶望に震えるしかなかったのだ。

 ケイン……………ケイン…………


 *


 ケインは死んでしまった。そして、その真実は僕の命をも蝕み始めた。僕は見世物屋の廊下の段差に座り込み、心を失っていた。蝶が前を舞っても、陽射しがうなじを掠めても、僕の心は動くことはなかった。世界はただ淡々と、ケインの死を前にしても行き過ぎていく。

 ケイン……君はもう、いなくなってしまったんだね。

 先程何度も声を掛けてくれた団長も、僕の元を離れ、そっとしておこうとしているのかもしれなかった。でも、もう僕には関係がないのだ。ケインがいなくなった今、僕にはもう生きる道など残されていないのだ。

 芸のことを言っているのではない。ケインを守り通すと決めたあの日の誓いを、僕は無碍にして葬り去ってしまったのだ。もしあの時、僕が人形師としての自覚と、責任と、情熱を持っていれば、ケインを部屋から連れ出し、彼をあの孤独な室内に残すことはなかっただろう。

 僕がケインを殺したのだ。僕が、師匠の言葉を踏みにじったのだ。

 それは僕の生きる意味を奪ってしまう致命的なことだった。僕はこれからどうすればいい? もうケインはどこにもいない、ケインのあの微笑みも、言葉も、温もりも、全て泡沫の夢として消えてしまった。

 あるのはただ、唇の下の噛まれた血の匂いと、喉のひりつくような苦さだけだった。僕にはもう、孤独と寂寥感しか残されていないのだ。

 ケイン……ケイン……。

 もう僕は一人きりなのだ。おい、と声がした。僕は振り向かず、そっと肩を握られる感触がある。

「大丈夫か、レイ。ここにお前の好きなパンを山盛りにしたバスケットを置いておくから、食べろよ」

 パン屋の店主だった。僕は彼にわずかに顎を傾け、そして再び壁を向いた。彼の足音はゆっくりと、墓場から去る老人のように、寂しさを残して遠く掻き消えていった。

 僕は孤独に残された。ケインの声を感じようとしても、それは炎に呑み込まれ、瓦礫の下に埋没してしまった。

 僕の焦燥感は、何かに責め立てられ、過ちを犯してしまったことを悔いる絶望にも似ていた。ケイン、と僕は囁き、顔を覆った。ケインの声が聞きたかった。ケインは今、どこにいるんだ? 僕のことを見ていてくれるんだろうか?

 けれど、そこで――。


 ――レイ。


 ふと声が聞こえた。僕ははっと顔を上げて、立ち上がり、周囲を見た。煤けた灰色の壁が横に続いているだけの、狭苦しい廊下が奥へと伸びていた。小さな窓から覗く明かりは、昼間の明るい陽射しだけれど、ケインはそこから顔を覗かせている訳でも、僕を頭上から見下ろしている訳でもなかった。 

 なら、どこに?

 ――ここだよ、レイ。

 僕は自分の胸の奥、熱い脈動を高鳴らせている心を感じた。自分の心の中だ。そこからケインの声がする。

 ――レイ、君は一人じゃない。僕は消えた訳でも、死んだ訳でもない。僕は初めからずっと君の側にいたんだ。

「ケインが、僕の中に?」

 ――そうだ。僕はずっとずっと、星が空から降ってきても、永遠の闇が訪れても、君を見ているよ。君と一緒にいる。だから、安心して。僕は君の、心の中にいるよ。

「心の、中に」

 ――そう。僕は、心の人形だから。

 そう言って、ケインはにっこりと微笑み、すっと奥底に沈んで消えて行った。

 僕は目を見開いて宙を見つめていたけれど、やがて大きな声を上げて泣き出した。子供の頃からこんな喉を引き裂くような声を張り上げることなど、なかった。僕は全身の力を全て吐き出すように、ほとんど絶叫するように泣き出した。

 ケインは僕の中にいる。簡単なことだったのだ。ケインは、元から僕の中にいたのだ。

 そうして僕は周囲を団員で囲まれて、パン屋の店主に肩をつかまれていても、どこまでも無邪気な泣き声を出して号泣し続けた。ケインの亡骸を見つけてやることもできない僕の、それが精一杯の、彼への勇気と賛辞だったのだ。


 *


 僕のケインに対する想いは、悲しみと懐かしさの波の満ち引きのように、絶えず海を彷徨っていたけれど、繰り返しその感情を胸に溢れさせるにつれ、一つの願いが自然と形になって僕の心に根付いていくのを感じた。

 だから僕は、帰るべき場所に、足を踏み出そう、と決心できたのだ。

「それでは、人形芸の真骨頂、心優しい若き青年、レイの登場です!」

 団長の声と共に、子供達の歓声がわっと膨れ上がり、一気に爆発的な拍手となって僕の元に押し寄せてきた。僕は深呼吸を一つして、幕の後ろから進み出ようとしたけれど、体が硬直して動けなかった。

 もうケインはいないのだ。でも、僕の心の中には確かに――。

 目を閉じ、その願いを篭めて、「ケイン」とつぶやいた。そして、意を決してステージへと出る。子供達の歓声がさらに溢れ返り、見世物小屋はあまりの熱狂に燃え上がりそうになる。でも、その熱狂は、あの火事とは違う、心の熱から来る暑さだった。

「みんな……久しぶり」

 僕はステージの中央に立つと、皆にそう言った。そこで、子供達から不穏な囁き声があちこちで聞こえてくる。僕の手にはケインの人形が握られていなかったからだ。

「皆に、お知らせがあります」

 僕がそう言うと、子供達が息を潜め、しんと静まり返った。それはケインがいなくなったことへの僕の喪失感そのものだった。けれど、もう僕は迷うことはなかった。確かにケインがこの胸の中にいて、叫んでいるからだ。

 今から、とびきりのショーを、見られるんだからよ! と。

「ケインは、先日遠いところに旅立ちました」

 子供達の目が見開かれ、息を呑むのがわかる。彼らが呆然と僕を見つめて、口々に「いつ戻ってくるの!」と泣きそうな声を上げる。僕は首を振り、静かにつぶやいた。

「もうケインは、戻ってこない。永遠に」

 嘘だ! と子供達が叫んで立ち上がる。僕は彼らの魂の叫びに体中を打たれながら、それでも堪えて言った。

「もうケインは帰ってこないんだ。でもね、君達のすぐ側にいるんだ」

 皆がえ、と目を丸くしたまま、僕の声に耳を澄ませている。

「君達の心の中に、ケインはずっといるんだ。それは僕がいなくなっても、世界が渦巻いて色んな出来事が起こっても、変わらずに残る事実なんだ。何故なら、初めからケインは君達の心の中にいるからだ」

 子供達が涙を浮かべて、唇を引き結んでいる。僕は目を閉じ、背中に置いていた箱にそっと手をかけた。

「君達に、見せたい友人がいるんだ」

 そして、そっと箱を開き、僕はそこから重い手足を引き出した。

「君達の、新しい友人を!」

 子供達がわっと声を上げて身を乗り出し始める。僕は懐に人形を置き、立たせてその姿を子供達に見せた。

「なんだなんだなんだ、皆しけた面しやがって! そんなんでお前ら、俺のショーを見る気あるのかよ!」

 丸い顔に、ぺったりと張り付いた栗色の髪、少年のままの姿……まさしくそれは、ケインだった。

「わっ! ケインだーーっ!」

「ケインがいる! ケインが生きてた!」

 子供達が飛び上がって歓声を上げ始め、僕はその人形をバク転させて元気のいい動き方をさせた。そして、小さくつぶやく。

「彼の名前は――」

 コスギだ! と僕は絶叫した。

「コスギ? コスギだって!」

「変な名前――!」

 僕はコスギの手を胸に当てさせ、一緒にお辞儀をすると、高らかに言った。

「彼はケインの息子、コスギだ! 二つの名前を繋ぎ合わせると、ある名前になるんだ!」

 あ、わかったーー! と子供達が声を上げる中、僕は人形と共に世界へと雄叫びを上げる。それは歓声で、心の絶叫で、僕は人形と共に生きていくのだ。それは僕がいなくなっても、世界が渦巻いて色んな出来事が起こっても、揺らぎようのない事実だ。

 僕は心の中に彼がいることを知っているから。だから、心の人形と共に、世界を色取り取りの花で溢れ返らせるのだ。

 僕はそっと窓の向こう、一面に輝く光のビロードの先を見つめて、ケインに言った。

 ケイン、見ていてくれ。

 僕は絶対に、皆の笑顔を花開かせてみせるから。

 その誓いは、いつかの願いと交わり、晴天の青空へと立ち昇っていく……。


 了

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心の人形 御手紙 葉 @otegamiyo

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