第2話 『LEMON―レモン―』

 本当に意味のあること。

 とてもとても、小さなこと。


 ちっぽけなこと。



 鼻にかすかに残る、柑橘系の香り。個室を希望されるお客様には、予約の際、アロマの香りを選んでもらう。限られた時間の中で、できるだけ長くリラックスしてもらえることが、うちのお店の願いだ。

「最近はこの匂いが好きなのよ」

 本日のお客様は、入江さん。

 お子さんは2人。共に男性で、既に家を出ている。昨年、ご主人も定年退職をし、今はシニア雇用で週に3回だけ仕事に行っている。子育ても終わり、共に連れ添った旦那も無事に定年を迎えた。

 空いた時間に、こうして、マッサージをうけながらお喋りするのが彼女のストレス発散なのだと言う。いつも指名してくれる。気も遣える頭のいいしっかりとした女性だ。

「柑橘系の香りが多かったですね」

 うつぶせで目を閉じる入江さんの首を押しながら、表情に変化がないかを伺う。どこか痛いところかないか、押した箇所が効いているのか、見逃さないためだ。ここが気持ちいい、と言ってくれるお客様ばかりではない。

 頭と首の付け根部分がやや硬い。

「最近、目がお疲れみたいですね」

 少し強く押すと、う、と声が漏れた。

 大きく息を吐いてから、スマホをちょっとね、と話はじめた。

「次男が結婚したんだけどねーなんていうのかな、頭はいいんだけど、偉そうなところがあって…」

「偉そう?」

 スマホを使っている、という話から結び付けにくい導入に、思わず聞き返した。入江さんは、ふふふ、と小さく笑う。

「次男はもう30代後半で、お嫁さんは20代なのよ。年齢差もあるし、どうしても多少は上からになるというか、よく言えば引っ張るっていうの?そういう関係はしょうがないと思ってたんだけどねぇ」

 うちと似てるなと思った。最近もお金のことで話し合ったのに、上手く着地できないまま、なんとなく終わってしまった。そのため双方、不満が残った。けれど、雰囲気を悪くしたくなくて、なんとなく、その手の話題を避けてしまっている。

 そんな状況でも、この家は俺が主だ、という意識は漏れるもので、旦那の零す言葉にいちいち反応してしまう。

 偉そう、というか、偉い、と思っているのだ。

「お嫁さんがね、泣いて電話くれたのよ。ほら、彼女の親はもういなくて少し苦労してきたって話したじゃない?だからきっと、私に助けを求めてきてくれたんだけど…」

「嫁姑の関係が良好なのはいいことですよ。入江さんが優しいお義母さんだから」

「私は何もしてないし、今までこんなことなかったんだけどね。初めて業務連絡以外で連絡してきたの」

 入江さんはまた、ふぅと息を吐く。呼吸は深くしてください、と最初に話してあった。すぐに息を吸い込み、それでね、と続けた。

「一人で挙式の打ち合わせに行ってきた帰りだったのよ」

「結婚式の?」

「そう、身内だけで小さくやるから、打ち合わせって言ってもドレスと場所の確認くらいなんだけどね。ほら、たくさんドレス着て、どれにするか悩むのって、女が結婚するときのちょっとした行事じゃない?ウェディングドレスに興味なくても、あんなに上質で華やかなドレスを着てるうちに、お姫様気分になるっていうか、テンションがあがるじゃない?」

 入江さんは一気に話す。そうですね、と相槌を打った。

 自分も式は挙げなかったが、ドレスを着て写真を撮った。事前にドレスを決めるとき、旦那は付き添ってくれず、友人が一緒にきてくれた。ひとりだったら少し空しかったり寂しかったりしたのかな、と思い出す。

 そうか、ひとり、か。

「うちの子、休みで家にいたっていうのに、付き添ってくれなかったそうなの。でも、お嫁さんも、疲れてるだろうからって言えなかったらしくて。そういうことがたくさん重なって、ドレスをひとりで選んで、ついでにうちの息子の衣装まで決めてきて、我慢していたものが溢れてしまったそうなの」

 自分が同じ状況だったらと、想像する。

 たったひとりで、ウェディングドレスを選ぶ気持ち。細かいことをひとりで決めて、特別なドレスを着れば着るほど、鏡の前の自分に問いたくなる。あなたひとりで結婚するの、と。

「男性は…そういうことに無頓着なのかもしれないですね」

 自分の気持ちとは反対のことを言った。そうすることで、入江さんがその先の話を進めやすくなるためだ。さすがに入江さん本人に、息子さん最低ですね、とは言えない。

「無頓着でもね、そういうことの積み重ねじゃない?結婚生活って。特に、ウェデシングドレスを着るって、やっぱり特別なことでしょう?普段着ないドレスを着て、その瞬間は、自分が世界で一番幸せだって思えると、なんとなく夢見てるじゃない」

 その先の現実の世界は置いといて、と入江さん。それには遠慮なく笑い、そうですね、と答えた。

「でもお嫁さんはね、自分が足りないから、認めてもらえないから、平等じゃないんだろうって言ってきたのよ。頭がガーンってなっちゃった。そんなことを一番大切な女性に思わせるような、そんな息子に育ててしまったのか、って」

 ここがお店でなければ、わかります!と大声で言いたい。居酒屋だったらジョッキを片手に、むかつきますね!と、叫んでいたかもしれない。

「夫婦って平等なのよ。亭主関白やかかあ天下なんて言葉はあるし、その家庭で色々な形はあるけどね。でも、相手を思いやる気持ちを欠いたら、一気に崩れてしまうと思うのよ」

 入江さんだから言える言葉の数々だ。重みがある。自分が同じセリフを言っても、その言葉には、まだ、重さがない。ただの愚痴だ。

「だからね、これからは遠慮なく連絡してって言ったの。息子には私が言うからって。それでもお嫁さんはね、いいんですって息子を庇うのよ。もうっ!!ってイライラしちゃって。それで、ラインっていうの?あれを始めたの」

「あら」

 漸く、話が見えた。ここに落ち着くわけか。

「ラインをダウンロードしてあーだこーだやってたら、首やら肩こっちゃって!もう、ここに来るしかない!ってすぐに予約したってわけ」

「それで、このコリなんですね」

 ゴリっと音でもしそうな首のかたまりを、強めに押した。

 入江さんも、いたーいと、何かスッキリとした様子だった。

「あースッキリ!こんなこと、あんまり話せないじゃないー!ごめんね、聞いてもらって」

「いえ、とても勉強になりました」

 勉強か、と入江さんはチラリと私の方を見た。

「あなたも大変そう」

 ………。 

 なんてね、と、一拍置いて、入江さんはまた、元の位置に顔をもどした。

 私も、入江さんには敵いません、と、施術を再開させた。不意に、レモンの甘くて酸っぱい匂いが、鼻を通って、胸に染みてきた。酸っぱい。


 全て見抜かせていたようだ。

 自分の中の小さな小さな、本当に小さなコリ。ちっぽけなこと。


 積み重ね、と彼女は言った。

 小さなことも積み重なったら、塵だって山になる。


 でも、彼を愛しく思う気持ちに比べたら、こんなこと。

 小さな小さなことなのに。


 ちっぽけなことなのに。


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『彩ーイロドリー』 美依 @panpanpan

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