黒い森

 こどものように声を上げて泣く老人にどう接したものかと思案していると、袖に強い力を感じた。老人がぼくの服を引っ張っている。

「許してくれ、こんなはずじゃなかったんだ、こんなことに使われるなんて思ってなかった」

 僕のことを神様か何かだと思っているのか、膝立ちになって縋るように泣いている。僕は神様じゃないからなにもできることはない。尤も、ぼくが神様だったとしてもこの老人になにかの救いを与えるようなことはしなかったと思うけれど。

「ねえ、とりあえず離してよ。袖が伸びる」

 言いながら半ば強制的に老人の手を開かせて袖を解放した。そのまま老人は地面に四つん這いになって一層大きく泣いた。なにをそんなに悲しんでいるのか僕にはわからない。理由を話してくれないから。さっきからずっとこんなはずじゃなかったと幼子のように泣いている。


 いつしか青かった空は鈍色に変わって、重い雲が垂れ込めている。

 雨は降っていない。その代わりに老人が全世界の雨を代行して涙を流しているみたいだ。

「破棄してくれと頼んだんだ、それなのに、その要望が通る前に外つ国に漏洩した。先を越されてしまった。こんなことになるなら、公表するんじゃなかった」

 額を地につけて、まるで地球と一体化するために泣いてるようだった。

「なんで僕に謝るの?」

 その問いを投げると、老人の嗚咽は一旦止んでかすかに額を上げた。

 握りしめられた拳が小動物のように震えている。

「ほかにできることがないからだ。生きて罪を償えと言われたが、私のような老い先短い病を抱えた老体が生き延びたって、仕方がない」

 その声は喉を絞ってようやく出したような、そんな声だった。

「誰に言われたの?」

「偉い人たちだよ」

「酷いね」

 老人の首が上げられて涙に濡れた皺だらけの顔が露わになった。

 その目は驚いているようでも、畏怖に満ちたようでもあったのをよく覚えている。


 眉尻が穏やかに下がって泣き笑いのような表情になった。

「君は、まだ子どもだ。柔らかく、弱い。子どもであるということは偉大だ」

 しばらく、僕が老人の頭頂部を見下げる時間が続いた。

 濁った空から本物の雨が降り始めた頃老人は何かを決心したように立ち上がって膝のあたりを叩いた。

 僕がその一連の動作を見ていると今度は逆に老人に見下される側になった。顔の前、顎のあたりに左手が差し出されたので僕は右手を差し出した。それを見てやれやれというふうに老人は右手に変えて僕の手を握りこんだ。

「僕はさ、大人になんかなりたくないよ。大人の手は、乾いている」

 握手を解除する。

 右肩を力強く握られて、僕の言動に怒っているのかと思って見上げてみたけれどその顔はやっぱり悲しそうで怒りなんて微塵も感じられなかった。

 その理由を聞こうと口を開いた途端、「さあ、もう帰りなさい。引き止めて悪かったね」


 開きかけた口を閉じて小さく顎を引いて頷いた。

 さ、行きなさい、と背中を叩かれた。その感触は何故だろうどこかで感じたことがあった。思い出せない。


 数歩踏み出して、振り返る。

 老人は最初に会った時のようにベンチに座って泣き笑いの表情のまま僕を見つめていた。瞳に促されるように軽く走ってその場を離れた。


 ベンチから離れたところで再び立ち止まって振り返ると、もうそこには老人はいなかった。






 その日は珍しく夢を見たんだ。

 夢のなかで、僕はどこか白くて広い場所いて、辺りは植物まみれ。屋内なのか屋外なのかは起きてからじゃ分からなかった。かろうじて白だとわかったのは草木の隙間から見える色が白だったから。

 草木を分入って進んでも見えるのは草だらけ、花だらけ。いい加減疲れて座り込もうかと思った時、つま先にあたるものがあった。人の頭蓋骨だった。

 ころん、とまるで石のように自然に転がっている頭蓋骨には背骨も肩甲骨も鎖骨もなにも付いていなくて、ただ頭蓋骨だけがそこに在った。


 眼窩からは種類のわからない雑草が生えていて、小さく可愛らしい花も何本か茎を伸ばしていた。

 よく見ようとしゃがんでみると、眼窩の淵に朝露だか水滴だかわからないものが付いていた。

 でも僕はそれを直感で涙だと思ったんだ。

 その頭蓋骨は眼窩から花を咲かせて泣いていた。

 剥き出しの歯が笑ってるみたいで、なんだかおかしかったけれど笑う気にはならなかった。


 僕はその涙を人差し指で掬った。

 もう頭蓋骨は泣いてない。

 楽しそうに花を咲かせて笑っているように見えた。


 立ち上がって、頭蓋骨を跨いでまた草をかき分けた。

 それから少し歩き続けるとどこかの壁に当たったようで突き当たりだった。

 草を分けても白い壁が見えるだけ。

 少し視線をあげると小さな窓が付いていた。

 うんと頑張って背伸びをすると窓外には黒が満ちていた。外は夜だろうか。


 かさかさと葉の擦れる音が聴こえる。

 後ろの草木が揺れているのかと振り返るが、音を立てるほど揺れてはいない。

 不思議に思って窓外の黒に目を凝らした。

 よくみるとところどころ黒じゃない色が混ざっている。でも徐々にその黒じゃない色は黒に侵食されて居場所を追われている。かさかさという音も大きくなった。


 黒い森が近づいてきていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

47日間 @kdylagumo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ