先生

 なぜ私をそんなにも慕うのか、と尋ねられたことがある。

 それは確か、6月のよく雨が降っていた日。

 僕と先生は揃って散歩に出ていた途中だった。急な雨が降ってきたので近くの公園の屋根のあるベンチで休むことにした。全身ずぶ濡れでたどり着いた屋根の下で先生は体に付いた水滴をハンカチで拭い、僕は前髪から止め処なく垂れる水滴に厭になっていた。

 淡い色を滲ませていた紫陽花は驟雨に打たれて痛々しそうに揺れている。


 先生はその光景を銀縁眼鏡の奥から鋭くも穏やかな瞳で見つめていた。そして思い出したようにスーツの内ポケットからメモ帳を取り出した。しかしメモ帳は雨に濡れたせいかしっとりと湿っているようでペンを立てるとインクが出る前に紙のほうがうねった。

 小さく溜息を吐いたのが聞こえたので僕が鞄からシャーペンとメモ帳を出して先生の前に差し出す。

「よかったら、どうぞ」

「ありがとう」

 先生は薄い唇を歪めて微笑った。

 そう、さらさらと何かを書きつけながら、質問を僕に投げたのだ。なぜそんなにも私を慕うのか、と。


 脈絡の見えない唐突な質問に答え損なった。


「私は仕事もせず、こうして毎日心の動くままに放浪している身だよ。所謂、社会不適合者だ。なぜそんな私を君は先生先生と慕うんだ」


 確かに先生は仕事もせず毎日ふらふらと外に出ては海へ行ったり森へ行ったりプラネタリウムに一日中篭ったりと、気ままに過ごしている。

 みんなはこういう人間のことを社会不適合者だのクズだの底辺だのと罵るけれど、僕は先生を批判する社会適合者を尊敬する心持ちになったことがなかった。


「先生は、先生という言葉をどのように捉えておいででですか」

 メモ帳から目を上げた先生は雨に叩かれている紫陽花を見ながら、

「学校の先生、お医者様、学者。高度な知識を持ち尊敬に値する人を指す敬称、かな」

「僕が先生を先生と呼ぶのには尊敬に値する人というニュアンスが含まれていますが先生はそういう崇高な理由を含んで呼ばれるのはあまり得意ではなさそうですね」

 まあね、と先生は自嘲気味に口角を上げた。

「先生、中国語で先生と呼ばれるのはどういう意味だと思いますか」

「日本語と同じようなものじゃないのか」

「中国語では、日本語の何々さんと同じような感じで何々先生と使われることがあるようですよ」

 一拍遅れて、そうなのか、と小さく呟いた後先生は再び視線をメモ帳に向けた。

「そのぐらい軽い意味で使われる先生もあるんですよ。でも僕が先生を先生と呼ぶのは尊敬しているからです。僕は正直社会であくせく働いている人たちよりも自分の心に従って生きている先生を尊敬しているんです。学問をやっていたり何か成功をおさめた人しか先生と呼んではいけないんですか。恩師は人それぞれです、僕が先生と呼ぶことを許可してもらえませんか」

 一息でまくし立てると先生は喉をくっくと鳴らして笑った。

「わかったよ、許可しよう。ただ、私が先生と呼ばれるのを重荷と思っていることだけは念頭に置いておいてほしい。私は元来先生と呼ばれるような立派な人間じゃないのだから」

 そう言って先生は立ち上がった。

「さて、雨も上がったようだ。通り雨だったかな。そろそろ帰ろう」

 そして掌を見つめペンとメモ帳を僕に返した。それを受け取り掌に収まったメモ帳を開くとそこには先生の細くて頼りない字が並んでいた。


 ──驟雨に打たれ、頼りない紫陽花の如く朧げな陽は、


 文章はそこで途切れていた。

 大股で屋根の下から先に出た先生の輪郭が、ちょうど雲の切れ目から差した強い陽の光に照らされてぼやけている。その後ろ姿を見て僕は、この人は近い将来きっと僕の前から何も言わずに姿を消してしまうのだろうと、直感的にそう思った。

 しかし、不思議と寂しくはならなかった。

 心の向くままに歩む先生だから、それが先生だと思ったから。




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