見捨てられた町
何も知らないまま生きていたかった、と彼女は一度泣いたことがある。
廃線になったトンネルの先は見知らぬ美しい街に繋がっている。月の形が毎日変わるのは空の上で誰かが月をめくっているから。星が輝くのは神様がろうそくを灯したから。花は永遠に美しく、樹は世界が終わるその時まで誰かの肩に木漏れ日を落としている。
彼女は、年々剥がれていく想像のかわりに露わになる汚物のような現実に、着実に疲れていた。
年を重ねるごとに彼女は美しいものにどんどん惹かれていった。音楽、絵画、写真、本。
あらゆる芸術の知識を吸収して、彼女は賢く気高く脆く儚くなっていった。まるで彼女自身も1つの芸術になろうとするかのように。
彼女は特にフェルナン・クノップフの絵が好きで、クノップフの絵が載った本を一日中見つめていることも多々あった。いつか、何をしているの?と聞いたことがある。
彼女は絵から目を離さずに、「この絵の中に私がいたらどんな感じかなと思っていたの」ようやく目を離した彼女はその本を僕に寄越した。ページの右側にパステルで描かれたその絵は幻想的で静かだった。
絵はどこかの家を描いたもので、左側に家が伸びている。前面には玄関のようなものがあるが右側には海の浜辺のようなものが描かれていた。
よくわからず絵の細部を、謎を解くように見る僕を見兼ねて彼女が口を開いた。
「この絵はベルギーにあるブリュージュの広場を描いたもの。ブリュージュは中世、貿易港として栄えていたの。けれど水路が狭くなって港として機能しなくなって、近代化から取り残され街は衰退していく一方だった。それを描いたのがフェルナン・クノップフの『見捨てられた町』だよ」
家かと思った、と僕がいうと彼女は鈴のように笑った。
「私も最初は家だと思った。気になって調べたら実際にある広場の修道院かなにかの絵だった。絵はそういうところが好き。私はたくさん絵を見てきたけど彼の『見捨てられた町』が何故かどんなに荘厳で美しい絵を見ても忘れられなくて」
僕は彼女に本を返した。
「でもなんで一日中この絵を眺めていられるの?僕も絵は好きだけれど飽きることなく一日中見ていられる絵とはまだ出会ったことがない」
彼女は再び本に視線を落としてその絵を指でなぞった。
「この絵、扉を開けられないでしょ。海がもう少し迫ってきたらずっとそこ留まっているしかない。中にいる人は外界との接触もなく静かにひっそりと死んでいく。私がこの中にいたらどんな感じかなっていつも考えているの。朝起きて玄関を開けて海を眺めて、指先を浸してまた中に戻り、僅かな絵と本に囲まれて毎日変化なく誰の訪問もなく静かに暮らす。そして扉を開けられないくらいに水嵩が増したらもうその日を境に扉に鍵をかけて、私も出られないようにして、魚も入らないように、神さまのように姿の見えない崇高なものもはいらないようにする。とっても素敵じゃない?」
僕は再び『見捨てられた町』に視線をうつしてみる。
彼女の話を聞いた後だとその家は、建物は、内部に死を閉じ込めたままただ時が過ぎ去るのを待っているようだった。
建物はやがて海水に侵食されて永遠に上に行くことのない魂とともに、水底に沈んでゆく。
死に得る肉体の主人がいつか骨になり灰になり粉になっても、その主人から切り取った髪の毛は永遠に残っているように、この建物もまた永遠にそこに在るのだろう。
クノップフの「見捨てられた町」は多分、彼女の理想郷だった。彼女が心から求めて届かなかったユートピア。世界を遮断し、誰の介在も許さず静物に囲まれる彼女1人だけの楽園。
だから彼女は、幻想の世界で永遠の安らぎを探していた。
そして、彼女は今、見捨てられた町の内部に住んでいる。
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