第2話
晴れない気持ちのまま空になった缶ビールを持って部屋に入ると、聡美が深皿に取り分けたカレーを食卓に並べていた。今日のカレーは少し黄色くて、野菜がゴロゴロ入っている。何でも凝り性らしく、カレーから煮魚に至るまで毎回具材が変わり、全く同じものを食べたことがない。確か1ヶ月前に食べたカレーはほうれん草のカレーか何かで、ルーが真緑だったのは覚えている。美味しかったがビジュアルが強烈すぎて、「今日は失敗したの」とウッカリ口にしてしまって危うく夕飯抜きになるとこだった。
そんな彼女だが専業主婦という訳ではなく、結婚して3年が経とうという今でも仕事を続けている。結婚したからといって、辞めたいと思えるほど今の仕事が嫌な訳じゃないのよ、と言っていた。勿論俺だって彼女のそんな性格は分かっていたからどうこう言うことはなかったが、同僚の嫁さんは皆ほとんどが寿退社(という言い方は今は古いらしい)で、夫婦2人だけの家庭で共働きというのは今の時代まだ珍しいようだ。そういう専業主婦たちは、夫が働きに出てる間掃除洗濯料理と家事をして過ごしているのだろうが、聡美はそんな生活の繰り返しではつまらないと言う。そりゃあ、小さい子供がいれば別だけどね、と前置きした上で、でもね、圭ちゃん。女の幸せって結婚して専業主婦になることじゃないと思うの。と黒目がちな瞳を揺らしながらそう呟いたことがあった。聡美はどういうのがその幸せだって思ってるんだ、と問うと、少し間を開けて、分からないよ、と曖昧に微笑んだ。
「私だって圭ちゃんと歳は変わらないんだもの。まだ学生に毛が生えたようなものなのに、そんなことは分からないよ」
そう返した彼女は、それ以上あまり多く語らなかったけれど、なるほど女というのは…聡美が、かもしれないが、男より多くのことを考えているのかもしれないと思った。俺と歳が変わらないことには違いないが、聡美と話していても物の考え方や捉え方がずっと大人びているような、そんな気がする。俺よりずっと大人だ。ひょっとすると、俺がなりたいと思っている大人とやらはただ歳をとれば自動的になれるものじゃないのかもしれない。聡美みたいに、まだ世間的には若い部類に入る歳であったとしても地に足の着いた考えだって出来る。ただ、やはりどうしてもどうしたら俺もそんな大人になれるのか、その方法が分からなくて、憧れと焦りだけが募ってゆく。聡美にどんどん置いていかれるようで、俺だけはずっと子供のままじゃないのかとすっと隙間風が漏れてくるような寂しさを感じた。
「圭ちゃん、やっぱりどこか具合悪いんじゃない?食欲、なかった?」
食卓についたっきり、ぼんやりスプーンも取らず中空を見つめていた俺に、聡美が先ほどよりもぎゅっと眉尻を下げた心配そうな顔で声をかけた。その声にふと我に返って、食卓を見ると、先ほどまで湯気の立っていたカレーがすっかり冷めきってしまっていた。聡美の皿はもう綺麗に平らげられて、俺が随分長い間ぼうっと物思いに耽っていたことが分かる。ビアグラスに注いでいた2杯目のビールも、すっかり白い泡が消え失せて、ただただ生温い苦味のある液体に成り果てていた。
急速に現実に引き戻された意識が困惑するのを押し留めながら、心底心配そうな聡美に、いや、大丈夫だよとへラリと笑ってテレビのリモコンを取った。
「明日は仕事もないし、録画していたジブリでも観ようか」
そう言って、リモコンを操作すると、ややあって先週放送していた番組に切り替わった。画面に流れていく色鮮やかな風景と、少女が不思議な世界に迷い込んでいくストーリー。聡美はすぐに引き込まれ、子供のように目を輝かせながら観ていたけれど、いつまでも胸に何かがつかえているような感覚は失せなくて、冷めきったカレーをレンジに入れて、オレンジ色の光の中でもうもうと湯気を立てていくカレーを眺めていた。
ブラックコーヒーにはまだ早い 水月 @jerryfish_lc
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