ブラックコーヒーにはまだ早い
水月
第1話
まだ学生だった頃、街中や通勤電車でサラリーマンを見かけるたびに「早く大人になりたい」と数え切れないくらい、願ったものだ。身を包む黒い学生服は息苦しいくらい窮屈で、背丈や肩幅が特に大きくなった訳でもないんだけれど、例え学生って身分で映画やカラオケ代が安くなろうと、学生って不自由だなと思った。酒も飲めないし、バイトで稼げる金も大して無いし、親はいい大学へ行けとうるさいし。将来医者になりたいとかスポーツ選手になりたいとか、そんな夢でもあればその為に努力するのが楽しくなったかもしれないが、生憎そんな夢も希望もない平凡な学生だった俺には、学生という身分がただただ鬱陶しいだけのものだった。だからきっと、街中で出会う大人がやたらと自由で、キラキラしていて、憧れの存在に見えていたんだと思う。例えくたびれたスーツを纏った疲れ顔のオッサンでも、俺よりはまだ自由に過ごしているんだろうと考えていた。しかし大人は、俺たちみたいな窮屈に生きてる学生を見ては「若いっていいな」「あの頃に戻りたいな」と言う。本気で訳が分からなかった。あんたたちの方が、世の中のある程度のことは自由に出来るじゃないかと。かつての青春に思いを馳せ、寂しそうにこぼす大人たちにほんの少し怒りのような感情さえ感じていた。それはきっと互いに無い物ねだりで、手に届かないものだからこそ羨ましいと思っているだけだった。
今、こうしてベランダで缶ビールを手にぼんやりしている自分は、昔の俺が憧れていた、自由で格好いい大人ではない。ただただ、時の流れに従って歳だけ食った、なりそこないの大人。中身はいつまでも青くさいガキのままの大人。それが今の俺だった。
「圭ちゃん、ごはん出来たよ」
カラカラ、と背後で音がして、食欲をそそるスパイスの匂いがふわりと漂った。振り返ると、まだエプロンを着けたままの聡美が目を瞬かせながら俺を見つめていた。彼女は、じぃっと暫く俺を見つめて逡巡した後、ようやく口を開いた。
「何だか…いつもと違って少し煤けた感じだけど、何かあったの」
俺としては普段のように過ごしていたはずが、聡美はきっちり微細な違和感を感じ取っていたらしい。聡美が人の変化に敏感なのか、それとも俺が分かりやすい人間なのかは分からないが。
そうして妻として心配してくれるのは嬉しいが、さすがにこんなつまらないことをぐだぐだ考えながら酒を煽っていたなんて格好悪い事はとても口には出来なかった。
「いや…、今日は金曜だし、少し疲れただけだ。明日明後日と休みだからその間にきっちり休めば何とかなるよ」
いつも通りを装ってへラリと笑ってそう答えると、聡美はまだ晴れない顔をしていたが、俺があまり話したくなさそうなのを感じ取ったのか、
「そう。ならいいけど、お酒はほどほどにね。この前の人間ドックの結果悪かったでしょう」
と茶化すような口調になると、背を向けてキッチンの方へ去っていった。
青くさい少年だった俺は、いつの間にか成人して、就職して、結婚して、今は家庭を持つ身になっている。もう三十手前、いい大人だ。なのに俺が追い続けた理想の大人とやらには全く近付けないで、遠ざかっていくばかりで、じりじりした焦りのような苛立ちすら感じる。でも自分がなぜ大人に成り切れていないのか、なぜそう感じてしまうのか、肝心なことが分からない。
答えのない問いだけが胸の中につかえていくようで、缶の中に残ったぬるいビールをぐいと一気に煽ったら、苦味に舌が痺れた。
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