第3話 以心伝心

「こないだの、あれ。お前、見たか?」

「あれってなんだよ」

「あれだよ。あの、特番。宇宙開発秘話、研究者は語る!」

「あー、なんかやってたな」

 俺がそう答えると、同僚はがっくりと肩を落とした。

「ほんとうにお前は、知的好奇心てもんに欠けてやがるな」

 同僚はそう言って、ぬるくなったビールを飲み干すと、店内を振り返りジョッキを掲げた。

「お姉ちゃん、生もういっちょ!」

「はい、ただいま」

 居酒屋お仕着せのエプロンをした女の子が、元気に了解した。北欧系の顔立ちで、茶色い髪をポニーテイルにしている。なかなか、かわいらしい子だ。

 俺は、短いエプロンに包まれた見事なお尻を堪能してから、同僚に意識を戻した。

「で、その特番がどうしたって?」

「超光速航法の特集だったんだよ。お前、あれ見たら驚くぞ。富士山よりもでっかい宇宙船が、太陽系の彼方まで、ひとっ飛び!」

「そりゃ、すごい」

「だろ? 無人機の失敗が続いて、一時はどうなるもんかと思ったけどなあ」

「確か、地球と火星の技術者が手を組んだんだっけ」

「そうそう。噂じゃ、星間戦争の準備をさせられてた科学者が、ほとんどそっちに移ったらしいからな」

「世の中には、頭の良い奴らがいるもんだな」

「俺たちとは、大違いだな」

 うんうん、とうなずき合っていると、さきほどの女の子がジョッキを手に戻って来た。

「生ビール、お待たせしましたー」

「どうもねー」

 いそいそとジョッキを受け取って、同僚が鼻の下を伸ばす。

「かわいいな」

「かわいいねえ」

「ちょっと、お願いできないもんかな」

「無理だろうねえ」

 俺は同僚と笑みを交わして、三度目の乾杯をした。



 世の中には、頭の良い奴がごまんといる。

 十五年ほど前に開発された超光速航法によって、銀河系の端から端まで、無人探査機が飛び回る時代だ。来月には、白鳥座のなんとかって星へ向けて、最初の有人調査船が飛び立つらしい。

 それもこれも、太陽系中の天才が汗水たらして頑張ったおかげだ。もちろん宇宙船のボルトを締める職人だって、汗水流して働いただろう。だが、俺のような一般市民はやはり、天才的な頭脳ってやつに感心してしまう。

 そういう奴らになら、俺の謎も解けるのだろうか。

 子供の頃から、俺は何度となく、そう考えていた。

 俺は昔から、不思議な夢を見る。いや、夢ではないのだが、夢だと思いたくなるようなものを見るのだ。

 詳しく話そう。

 最初に、その夢に気付いたのは五歳の時だ。まだ、小学校に上がる前だったと思う。

 夢は、やたらと鮮明だった。明晰夢なんてもんじゃない。どこか外国らしき場所を舞台に、俺は様々な人と話し、遊び、走り回っていたのだ。

 最初は、テレビで見た光景かなにかだろう、と思っていた。

 灰色や茶色の町並みも、抜けるような青空も、周囲の人々の風貌も、いつか見た外国の映画やドラマに、そっくりだったからだ。

 俺はそこで、日本人の子供ではなく、外国人の子供になっている。

 何度か鏡で見たところ、茶色い巻き毛に白い肌の、けっこうな美少年だった。小生意気そうに上を向いた鼻、緑色っぽい瞳。虫歯のある歯には、透明ワイヤーの矯正器具を付けている。もちろん、俺はそんなものを付けていない。今の俺がきれいな歯並びをしているのは、遠隔骨格なんたらという別の歯科医療のおかげだ。

 そんなことは、まあいい。

 ともかく俺は、夢の中では外国の子供だった。

 やたらにリアルで、恐ろしく正確な夢だ。最初の内は、夢を見るのが楽しくて仕方なかった。なにしろ、まったく知らない家で、まったく知らない家族と共に、まったく別の人生をつまみ食いしているのだ。子供にとって、これ以上の娯楽はない。

 やがて、俺は中学校に上がった。

 相変わらず、その夢を見ていた。夢は、深夜から朝の間によく見る。その頃、夢の中では、朝から昼にかけての時間帯だ。授業中にこっそり調べたところ、その時差は、だいたいアメリカの西海岸辺りに合致すると分かった。

 探索が始まった。

 俺は、学校の図書館に通いつめた。その当時はまだ、機能制限のある携帯端末しか持っていなかったのだ。膨大な量の画像や動画を見て、自分の夢と合致する風景を探した。探索は二ヶ月にも及び、はたして俺は、とある街に出会った。

 ロサンゼルスにある、イングルウッドという街だ。はっきり言って、かなりいかした都会である。

 それからは夢を見るのが、いっそう楽しくなった。

 世界地図を眺めてから眠りに就き、起きるとまた、地図を見て笑ったりする毎日だ。夢の中の俺は、ひょろりと背の高い、そばかす顔の少年に成長していた。スポーツが得意で、勉強はいまいち。ただし数学は得意だ。小説や漫画を読むのが大好きだが、なぜか友達には、それを内緒にしている。

 残念なことに俺は、アメリカ人になる夢を見ているくせに、英語がからきし駄目だった。いつも赤点ぎりぎりで、追試のお世話になりながら、なんとか中学を卒業した。

 高校に入ると、日本人の俺も、アメリカ人の俺も、ほぼ同時に彼女を獲得した。

 日本人の俺は、真理子という女の子と付き合った。背が低く、ほっそりとしていて、笑うとえくぼのできる素敵な子だ。

 夢の中でアメリカ人の俺は、ジェーンという女の子と付き合った。活発そうな赤毛の子で、アメリカ人の俺よりも、そばかすが多かった。

 ところがアメリカ人の俺は、すぐにジェーンと別れてしまった。理由は分からない。きっと、俺の知らない午後の時間に、なにか良くないことがあったのだろう。

 その後もアメリカ人の俺は、色々な女の子と付き合っては別れた。俺は、それが気に入らなかった。確かに夢の中の俺は、かなり格好いい青年だ。スポーツ万能で、背が高く、ギターなんかも弾いたりする。だからといって、女の子を取っ替え引っ替えしていいという法はない。

 俺は夢の中で、女の子たちに言ってやりたかった。

 そいつは勉強もろくにできないし、下らない小説なんかを読んでるし、アニメだって大好きなんだぞ。しかも、部屋のクローゼットには、日本製アニメのポスターが貼ってあるんだ。今度、こいつの部屋に行ったら、問答無用で開けてやれよ。

 空しい努力だった。

 この夢の弱点は、アメリカ人の俺を自分の意志では動かせない、というところにある。

 俺は悔しい思いをしながらも、アメリカ人の俺がよろしくやっている毎日を、ただ見守るしかなかった。



 そして、あの日がやって来た。

 アメリカ人の俺は、朝から上機嫌で、出かける支度をしていた。

 夏休みで、空は快晴。乾いた街に太陽が照りつけて、アスファルトは白く輝いている。彼はこれから、ガールフレンドのクロリスと一緒に、バスで海へと遊びに行くのだ。

 海岸には午前中に着いた。屋台でホットドックを買って、ぶらぶらと食べながら歩く。隣では、口にケチャップを付けたクロリスが、オレンジ色のパーカーをひらひらさせている。その下は、もちろん水着だ。花柄の大胆なビキニで、俺も、アメリカ人の俺も、その豊かな谷間に生つばを飲み込んだ。

 最高のデートだった。

 アメリカ人の俺は、体力や運動神経をひけらかしたりしない。根は真面目な奴なのだ。けっこうマメだったりもする。クロリスのバッグを防水シートに包んでやったし、波打ち際で走り回る退屈な遊びにも、笑顔で付き合った。

 だが、やはり若いのだろう。砂の山を崩したりしている内に、アメリカ人の俺は、海へ入って泳ぎたくなった。

 クロリスは泳ぎが苦手らしい。アメリカ人の俺は、彼女を置いて一人で泳ぎ始めた。

 力強いスクロールで、ぐんぐんと波をかき分ける。とても気持ちがいい。日本人の俺では、とてもかなわないスピードで、アメリカ人の俺は、あっという間に十メートルほどを泳いでしまった。

 波に揺られながら、ひと息入れる。真っ青な空に、白い千切れ雲が浮かんでいた。足の下は、どこまでも海水だ。何度かわざと沈んでは、額から顔を出して楽しむ。

 そのとき、背後から小さな悲鳴が聞こえた。

 振り返ると、クロリスだ。

 どうして、こんなところにいるのか。なぜ、彼女が溺れてかかっているのか。

 理由など全く分からないまま、アメリカ人の俺は、彼女を助けるために引き返そうとした。

 そして、急に足が吊った。

 アメリカ人の俺は、パニックになった。満足に動かない左足を無理に伸ばそうとするので、余計にバランスがとれなくなる。しまいには、ばたばたともがきながら海水を飲みはじめた。



 俺は不意に、アメリカ人の俺から離れた。



 意識が、二つに分断されたようだった。波にもがいている俺と、宙に浮かんでいるような俺が、二重に感じられる。なぜかは分からないが、俺は今なら、アメリカ人の俺に呼びかけられるような気がした。

『トニー、暴れちゃ駄目だ!』

 空中に響き渡るような大声で、もう一つの俺が叫んでいる。

『落ち着け! 体の力を抜いて、いったん浮き上がるんだ!』

 驚いたことに、トニーはそうした。トニーと一緒の俺も、左足を庇いながら、なんとか海面に顔を出すことに成功した。全身で息をして、両手を回して浮かびながらクロリスの姿を探す。

『そっちじゃない。右だ。ほら、黒っぽいものが見えるだろう? 彼女の髪だよ』

 空中の俺は、トニーに呼びかけた。

『仰向けにさせて、首に腕をかけるんだ。そう。そのまま、ゆっくり泳いで行こう。大丈夫。お前なら出来る』

 トニーは、意識を失っているクロリスを引っ張って、片手と片足だけで浜辺まで泳いだ。

 海岸では、騒ぎに気付いた人々が駆け付けていて、すぐにクロリスを引き上げてくれた。中の一人が、正確な手つきで彼女の胸を押し始める。

 そして、トニーも引き上げられた。

 まだ左足の感覚は戻っていなかったし、今にも倒れそうなほど疲れていたが、それでも彼は、クロリスの元へ這って行った。

 クロリスも無事だった。何度か水を吐いて、咳き込んでいる。

 ほっとして、トニーは砂浜に倒れた。

 そして、こうつぶやいたのだ。

「サンキュー、ケンイチ」



 目が覚めたが、俺はまだ夢を見ているような感覚を覚えていた。

 英語が赤点だろうが、頭が弱かろうが、サンキューの意味くらい分かる。

 勢いを付けてベッドから飛び下りると、俺は端末の電源を入れた。翻訳ソフトを使って、ロサンゼルス近郊のニュースを調べるが、どこにもトニーの名前はない。

 当たり前だ。ついさっき起きたばかりの、小さな事故なのだ。それに二人とも無事だった。ニュースになるような話題ではない。

 しかし、むやみやたらと検索した結果か、とあるニュースサイトから、一件の記事が呼び出された。

 3年前の、地方新聞の記事だ。

 トニー・グリーン。市の作文コンテストで、ジュニア部門の金賞を受賞。

 彼だ。

 俺は、そのときのことをはっきりと覚えている。

 学校の課題で、宇宙開発についての作文を書かなければならなかった。トニーは毎朝、端末を起動するのだが、エディタに一語も書かないまま、朝食前には電源を落としていた。トニーは結局、提出日直前まで一行も書けなかった。

 ところが、ある朝(俺にとっては、夢を見る夜中)トニーは、珍しく端末に向かっていた。ものすごい勢いでキーボードを打ち、作文用のエディタは、みるみると埋まっていった。おそらく、徹夜をしたのだと思う。作文は、提出日に間に合った。

 しばらくしてトニーの部屋に、金色の小さな置物が増えた。

 英語が分からなくても、彼の内面を探れなくても、俺には分かっていた。その置物は、作文のご褒美なのだ、と。



 そのことがあってから、俺は以前のように夢を楽しめなくなった。

 相変わらず、トニーと繋がることはある。そう。今ではもはや疑いの余地もなく、俺とトニーは、片方が寝ている間だけ、意識が繋がるのだ。

 トニーが夜の十時に寝て、朝の六時に目覚めるとしよう。

 日本では、午後三時から深夜零時になる計算だ。

 つまりトニーの夢の中では、俺の学校生活から、友達との馬鹿騒ぎ、彼女とのデート、そして親父にこっぴどく叱られる夕食まで、ばっちり見られていることになる。

 もちろん、もっと恥ずかしい場面も、彼は見ていることだろう。

 おかげで俺は、危うくインポになりかけた。

 悲しいことに、今でもきれいな体だったりする。

 なんたる人生の損失だ。

 そんなこんなで俺は、高校で別れた真理子以来、彼女も作れないまま二十六歳になってしまった。

 平凡なサラリーマン、平凡な人生。しかし、世界で最も不運な男として、俺は生きている。



 同僚との夕食は、十時過ぎにお開きとなった。

 千鳥足でアパートへ帰り、風呂にも入らず、そのままベッドに倒れ込む。今日で一週間は終わりだ。週休二日、万歳。明日は、朝から大いに楽しませてもらうとしよう。

 俺は、そのまま眠ってしまったらしい。寝ているのにおかしな話だが、気が付くと、またぞろトニーと繋がっていた。

 トニーは、やたらとめかしこんでいる。趣味の悪いピンストライプのスーツに、濃紺のシャツ。ネクタイは、なんと真っ赤な地に薔薇の刺繍だ。

 そのくせ、鏡を覗き込むトニーは、とんでもない色男に見えた。まるで、どこぞの映画俳優だ。上品な口髭を撫でて、ついでに乱れてもいない髪を撫で付ける。鼻歌まじりにバスルームを出ると、寝室のベッドが目に入った。シルクのシーツから、艶かしい素足が覗いている。

 俺は、奴を絞め殺したくなった。

 トニーは、ベッドの美女になにやら声をかけると、返事も聞かずに部屋を出る。

 ここは、どうやらホテルの一室らしい。豪奢なテーブルには花が飾られ、ソファに本革のブリーフケースが置かれている。トニーはそれを手に、この部屋も後にした。

 俺は、彼の職業をよく知らない。なにやら大変な肉体労働だということと、政府に関係しているらしいことは分かるのだが、詳しい部分は午後にあるらしく、謎のままだった。



 トニーとの接続が切れた。

 俺は、よろよろとベッドから起き上がり、トイレで用を済ませた。

 ついでに歯も磨き、部屋の電気を消すと、また眠った。



 今度もまた、トニーと繋がった。今日は、よくよく奴に縁があるらしい。

 トニーの視界を通して、俺は先ほどの推測が間違っていることに気付いた。ホテルではない。馬鹿でかい客船だ。何度か映画にもなった、沈没する豪華客船にそっくりで、贅沢な装飾があちこちに見受けられる。トニーは、大きなホールらしき場所へ入ると、行き交う人々と挨拶をした。

 周囲の誰もが、金持ちを絵に描いたような外見をしている。でっぷりと太った初老の男性や、上品だが神経質そうな女性の中に、俺の知っている顔があった。

 日本人だ。

 日本人なら、おそらく誰もが知っている顔だ。

 トニーは、その男とも挨拶をした。遠山首相と挨拶ができるとは、トニーもなかなか顔が広いらしい。

 しかし、俺はあることに気付いた。

 さっきから、彼の横に、もう一人の男性がいる。



 俺は、ぶったまげて飛び起きた。

 端末を起動して、うろ覚えの名前を検索する。間違いない。膨大な数の写真に、詳細なデータ。トニーの横にいた壮年の男性は、泣く子も黙る、アメリカ合衆国大統領その人だったのだ。

 いったい、なにが起きているのだろう。

 俺は、普段なら見向きもしないニュースサイトを片っ端から検索した。

 トニーが乗っているのは、復刻された蒸気船だ。といっても、蒸気船らしく煙を上げるだけで、推進力は宇宙船並の最新技術が使われている。

 その船では、今まさに各国の要人や著名人が集まって、来月出発する地球政府調査団と懇談会を開いているのだ。

 白鳥座へ向かう、技術者や、科学者を中心にした専門家たち。

 そんな大それた会に、トニーが出席している。

 しかも、真っ昼間から美女とお楽しみときた。

 俺は端末を消すと、携帯端末の電源まで切って、ひと風呂浴びることにした。

 何がなんでも最後まで見届けてやると、固く決意して。



 次に繋がった時には、パーティが最高潮に達していた。

 こ難しいスピーチなどは終わったらしく、楽団の奏でるクラシック音楽を聴きながら、人々は食事を楽しんでいる。いつも思うのだが、どうして人数の多いパーティほど立食にしたがるのだろう。

 経費の問題だろうか、と俺は考えた。

 トニーも、なにで作られているのか分からないパテや、こんがりとローストされた子羊に舌鼓を打っていた。俺も、これは存分に楽しませてもらった。本当に腹が膨らむわけではないが、美味いものはいつだって大歓迎だ。

 そこへ、誰かが声をかけてきた。黒いスーツにいかつい顔の、マフィアみたいな大男だ。

 トニーは、そいつを知っているらしい。黒スーツの言葉に軽くうなずくと、皿を置いて、その場で向きを変えた。黒スーツの手が、トニーの上着にさっと触れる。トニーは、その動きにまったく頓着せず、ホールをゆっくりと出て行く。

 少し、さり気なさが過ぎるくらいだ。

 トイレにでも行くのだろうか。そう思っていると、先ほど黒スーツに触られたポケットから、トニーが物騒なものを取り出した。

 俺も、スパイ映画で見たことがある。指に装着するタイプの小型銃で、数発のエネルギー弾を撃てる優れものだ。照準がないので、対象へ正確に当てるには、相当の技術が必要とされるらしい。しかし、彼はこんなものをどうするつもりなのか。

 いったん装着した銃を外すと、トニーは大きく息をついた。廊下の天井を睨み付け、また下を向く。今度は、しっかりと銃を装着して、宴もたけなわのホールへと戻った。

 俺は、息を殺して見守るしかなかった。

 トニーが笑顔で人波を縫って行く。しかし、俺には分かった。笑顔の裏で、彼は凄まじい緊張感と戦っている。標的が近いのだ。

 やがて、目の前に標的の姿が現れた。

 遠山首相だ。日本の総理大臣を、トニーは暗殺しようとしてる。

 俺は、手を出さなかった。いや、出せなかった。

 トニーの右手が、ゆっくりと腰の位置まで上がる。遠山首相との間には数人の男女が立っているというのに、トニーの手は揺らぎもしなかった。彼は、こうした仕事のために、並ならぬ訓練を受けて来たのだ。

 トニーの呼吸が、ぴたりと止まった。

 音は、映画で聞いたよりも、さらに小さかった。

 遠山首相の体が、ぐらりと揺れ、横向きに倒れる。

 周囲が一瞬だけしんとして、次いで何人かの悲鳴が上がった。

 トニーはそっと振り返ると、平然とした顔で歩き始めた。



 俺は、その光景にひどく衝撃を受けていたが、なぜか目覚めなかった。

 目覚めてはいけないのだと、無意識の内に悟っていたのかも知れない。



 ホールの出口は、もうすぐそこだ。

 トニーの歩みが、少し速くなる。ホールを出て、長い廊下を横切り、階段を上がった先にある手すりから海へと逃げるために。

 そのための準備は万全だ。スーツの下には、全身タイツのような衝撃吸収服を着込んでいるし、客船と並んで航行しているステルス・ボートでは、仲間が彼を回収するために待ち構えている。客船の左舷側には暴徒捕獲用の電磁ネットが張り巡らせてあり、彼がそれに引っかかりさえすれば、仲間が遠洋漁業よろしく引き上げてくれるのだ。

 急げ、トニー。お前なら出来る。

 明るい廊下を過ぎ、階段を上ると、遠い出口の向こうに星のまたたく空が見えた。

 アメリカとの時差ではない。客船は今、太平洋上にあるのだ。

 トニーは、ほとんど走り出す寸前だった。必死に冷静を保って手すりとの距離を測っているが、スーツの下では、恐怖の汗をかいている。

 あと、ほんの数メートル。

 しかし、トニーは急に立ち止まると、驚愕の眼差しでテラスを見た。

 警備ロボットだ。

 人間型ではない。巡回を行うだけの、武器も持たない飛行型のロボットだ。だが問題は、そいつのスキャナーにある。トニーの指には、まだ例の銃が装着されたままだというのに。

 トニーは、完全に舞い上がってしまったらしい。

 指先から銃を引き抜くと、それを廊下に放り出して、足早に引き返す。

 その唐突な動きが、警備ロボットの関心を引いてしまった。

 背後から警備ロボットが、合成音でなにか話しかけている。トニーはそれを無視して、船の反対側へと走り出した。

 全てが、間違った行動だった。

 警備ロボットのスキャナーが、廊下全体を舐める。当然、床に落ちた銃が発見され、耳を聾するような警告音が響き渡った。

 トニーは全速力で駆けたが、警備ロボットは宙を滑るように近付いて来る。このままでは、すぐに捕らえられてしまう。トニーが危ない。



 その瞬間、俺は、トニーと離れた。



 いつかの夏の日のように、トニーを感じながら、彼を見下ろしている。

 俺には、周囲の全てが理解できた。客船の構造、警備ロボットの配置、駆け付ける警備員が、どこに何人いるかまで。俺は全身で叫んだ。

『トニー! そっちじゃない!』

 空気を振るわせるような大声に、眼下の彼がびくりと反応した。

『次の角を左に曲がるんだ! 俺を信じろ!』

 トニーは、全速力で廊下を曲がった。

『突き当たりのドアから、下へ降りられる。ドアを閉め忘れるなよ』

 俺の指示で、トニーは客船を下へ、下へと降りて行った。一方で彼と繋がっている方の俺が、悲鳴を上げる体や、焼けるような肺を感じていたが、トニーは走り続けた。

 機関室を通り抜け、巨大な船を左舷に向けて横切り、今度は長い梯子を登る。腕が震え、何度か落ちそうになりながら、それでもトニーは梯子を登り切った。

『二番目のドアだ。そこから、整備用の廊下に出られる』

 トニーは力尽きる寸前だった。わななく両手で、ハッチの回転式ノブを回し、腰までの手すりしかない細長いキャットウォークに、転がるようにして倒れ込む。

 そこは、偽物の蒸気船だからこそ存在する、金属の廊下だった。

 複雑な機械を外部から調整するために、整備員がやっと通れるほどの金網が、細く続いているのだ。

 手すりの外は、海だ。

『早く飛び込め! お前なら出来る!』

 トニーは、しばらく立ち上がれなかった。

 身を切るような寒風にさらされ、酷使した筋肉を震わせながら、狭い金網の上でうずくまっている。

 俺は、もう駄目かと思った。

 しかし、やがて彼は手すりに頼って身を起こし、ゆっくりと波間へ転落した。

 トニーは無事、仲間に回収された。



 あれから、一週間が経った。

 ニュースでは連日、暗殺された遠山首相のことが、大きく取り上げられている。

 遠山首相が、精密に造られたロボットだったというニュースは、地球はおろか、太陽系全土を震撼させた。

 俺は、驚かなかった。

 トニーなら、悪事に手を染めることはないと信じていたからだ。

 星間宇宙連盟は、白鳥座への調査船派遣を延期すると発表した。

 大掛かりな調査が、あらゆる機関で行われているらしい。身分証明を所持した、人間そっくりの生体機械に関する、途方もない調査が。



「お前が、会社を辞めるとはなぁ」

 同僚が、ビールのジョッキを片手に、悲しそうな顔をした。

「しかも、引っ越すんだって? どこに行っちまうんだよ」

「とりあえず、アメリカだな」

「遠いな。火星並に遠いな」

 同僚は狭いカウンターに突っ伏すと、ごにょごにょとつぶやいてから顔を上げた。

「俺はなぁ、悲しいよ。お前のことは親友だと思ってたんだぜ? それがなんだ。アメリカだと? ふざけるのも、いい加減にしろ」

 俺は、同僚を真剣な顔で見返すと、声を落として言った。

「良く聞いてくれ」

「あん?」

「俺も、お前のことは、親友だと思っている」

「だろう? そりゃそうだよ。童貞仲間は、お前だけだもんな」

「だけどな、もっと大事な奴が、アメリカにいるんだよ」

「女か」

 同僚の目は、完全に座っていた。

「女だな。お前は、俺を裏切ったんだ。もういい、アメリカでもどこでも行っちまえ。二度と帰ってくるな」

「ああ、そうだな」

 俺は、すっかりぬるくなったビールを飲み干すと、ジョッキを置いた。

「もう、帰れないかも知れないんだ」



 俺が、在日アメリカ大使館に呼ばれたのは、トニーを救った二日後だった。

 それから、色々なことがあった。困ったことも、戸惑うこともあったが、嬉しいこともあった。

 トニーに会えたのだ。

 奴は、俺を一目見るなり抱きついてきた。

 かなり迷惑だったが、悪い気はしなかった。

 その後は、様々な訓練が俺を待ち構えていた。体力的なものは、どうにか乗り越えることができそうだが、語学訓練は悲惨を極めた。

 俺は苦手な英語を、数を数えるところからやり直している。教師がトニーだというのが問題な気もするが、まあ、わがままは言えない。

 やがて会社を辞め、アパートを解約し、渡航後は身分証明さえも消去された。

 数年後には、両親だけに真実が伝えられる約束だ。

 全てが上手くいけば、俺は来年、白鳥座への長い旅に出る。

 もちろんトニーのおまけとしてだが、俺にとっては、これが一番の朗報だった。考えてもみろ、とうとう俺とトニーの間には、時差が無くなったのだ。

 調査員の中には、独身女性がたくさんいる。

 楽しみな話じゃないか?

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The Trilogy 三六拾八 @round36

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