真理亜再び

@takagi1950

真理亜再び

 真理亜再び

                               織田 はじめ



中国、いや福清はもう勇次の故郷になっている。第二の故郷ではなく、まさに故郷そのものだった。全てが懐かしかった。あの街を一緒に歩いて、あの店でご飯を食べて、あそこで立ち話をして、輪タクに乗ったと次から次へと真理亜との思い出が甦った。

「5階建てで塀に囲まれた家がチラホラあるけど。地震が少ないんだろうか?」

勇次が聞くと真理亜が答えた。

「確かに地震は少ないネ。けど有れば大惨事になると思う。鉄筋が入っていないから」

地震の怖さを知らないのか無邪気に返事を返した。

「家の入口には、その家の謂われともっとうが書いてある」

真理亜が聞かないのに答えた。

良く見ると小さな石に石碑のように漢字が書かれている。

そして、自分の家の歴史を簡単に喋ったが、それでも説明に5分程度を要した。中国人は自分関連の歴史に関心が深く、また親は熱心に教える。


「街がブロックや柵で囲まれているのは昔、盗賊などの敵から守った名残なのかな」

「ピンポン正解。あなた頭良いね」

真理亜は答えて先頭に立って歩いた。真理亜はいつも勇次の一歩先を一人で、早足で歩いた。それが懐かしい。

各区画は柵によって囲まれ、場所によっては監視人のような人がいて、縁故のない人間にとっては通りにくい所もある。

中国では交通手段として鉄道は影が薄い。国道の整備が鉄道に先駆けて進んだため、バス輸送が発達し、コストパフォーマンスも良い。バスの場合、値段は日本の10分の1程度だ。それに比べて日本の駅に当たる火車場は影が薄い。鉄道はもっぱら長距離移動や石炭など工業材料などの貨物移送に利用される。


日本との行き来は勿論、飛行機だ。多分、中国人スチュワーデスと思うが機内アナウンスで「私達の飛行機は……」で始まり「ご協力ありがとうございました」で終わる案内が耳への響きが良かった。多分、英語の説明を日本語に変換しているのだろう。

時々、このアナウンスが無いと残念な飛行機移動となって旅行の興味が半減したように頼りなく思ってしまうから不思議だ。海外で聞く日本語アナウンスほど心強いものはない。日本語の無い英語のみのアナウンスは寂しい。

福清は土地柄、幸か不幸か日本語が分かる人が多く、日本語学校、日本留学と言う看板も見られる。

また、コンビニのことを便利屋と言う。機能を良く表した言葉だ。中国に来た当初、言葉が分からない勇次にはうって付けの存在だった。


更に、国際携帯電話はワンタッチで使用出来てトラブルも無くて勇次に安心と行動を促してくれるツールである。中国語に困った時は、日本語の分る中国人を呼び出して通訳してもらう。この役を真理亜がしてくれたので心強かった。

最初、驚いたのは真理亜の家には風呂が無く、ホテルにも多くは日本風の風呂が無い。この地では日本式のバスタブに入る習慣が無かった。

勿論、勇次の自宅には大きなバスタブ付きの風呂がある。真理亜も最初汚いと行って違和感を持ったが、最後のころは気持ち良いと行って好んで風呂に浸かった。


二人が喧嘩した時の仲直りにテレビは最高のツールだった。中国のテレビは表面上、自由にやっているように見える。内容は、ニュース、軍隊物語、恋愛、嫁姑、コメディ、などで日本よりどぎつい動きと語彙だ。

但し、当局の指導で人気番組が突然中止になったり有名女優が干されたりすることがあった。


勇次は市場、それも古い市場が好きで、特に真理亜と一緒に歩く市場は面白かった。そこで暮らす人々の生活の実態を見ることが出来る。また、高山、三山の海岸線を歩くのも好きだった。出来れば地図、航空写真、高度地図が欲しいと思った。勇次の論文作成のためフィールド調査と称して、知り合いの家を訪問して庭や居間で、移民、密航の話しを聞いて回った。この時の真理亜は輝いていた。


真理亜との街の散策方法としては、バス、タクシー、三輪車、バイクで街中を1時間程度走り回って街の概要を知って、面白かった所を再度、歩いて確認するのが楽しかった。 この方法は勇次が提案して真理亜が珍しく褒めてくれたものの一つだった。真理亜から中国語を学び、会話中心の一冊のわかりやすい本を用意してくれた。この本のお陰で勇次の中国語は格段に進歩した。今でもその時の本を大事に持っている。

またアンダーグラウンドの店は魅力的だった。真理亜が面白い所に連れて行くと言って、中華料理店のエレベータに乗って途中で降りて、長い廊下を歩き、更にエレベータを乗り継いで、インターホンで連絡して入った殺風景な部屋が、ボタン一つで高級ブランド店に変身し、ここでカルティエの時計とルイビトンのバックを夫々1万円で買った。紹介料として真理亜に1万円を取られたが、品質は中々の物で今でも使っているが、違和感は全く無い。技術は格段に上がった。


① 追憶

全てが追憶の中にあった。勇次の目には薄っすらと涙が滲んでいた。暫く歩いて冷静さを取り戻して、一年振りに街外れに有る真里亜の家を訪れ挨拶もそこそこに、真理亜の母親、王凛玉と輪タクに乗って思い出の地を回った。輪タクの中から、中国銀行の近くで真里亜の後ろ姿とよく似た女性を見かけ暫く目で追った。母親も見たが敢て関心のない振りをした。気持ちは乱れていた。

暫くすると町の雑踏に記憶は薄れると思ったが、時間とともに段々と思いが強くなっていった。

母親に聞きたいと思う気持ちを抑えて、

「もう真理亜さんが亡くなって2年になりますね。子供さんもお元気ですか」

「ええようやく2年だね。長かった。でも子供は順調に育っているよ、それが唯一の救いだね。子供は心を癒してくれるおかしな存在でね。娘が来ると言うと気持ちが晴れるね」

話を差し障りの無い会話に戻した。同じく亡くなって2年少したった父親のことは話題に上らなかった。

        

 この時、母親の頭でもさっきの女のことが気になっており、勇次の話はうわの空で聞いて返事していた。


翌日、勇次は高山公園に登って静かに真里亜との再開を楽しんでいると、昨日見かけた真里亜にそっくりな女性が不意に現れて後ろに立った。最初は躊躇したが、興味を抑える事が出来ずに恐る恐る中国語で名前を聞くと、その女性は凛々と名乗った。

偶然とは思えないほどの不思議だった。夢ではないかと頭を叩いたが痛かった。

それを見た凛々は、

「変わった人だな。どうしたんですか。私おかしいですか」

勇次に向かって言ったので、ちょっと間を取って気持ちを落ち着けて、

「綺麗な人なんで夢じゃ無いかと思って確かめていた。それに知っている人に良く似ていたんで」

勇次が返事すると凛々は呆れたような顔になり大きな声で、カラカラと笑った。その声がまた真理亜と瓜二つだった。

「私、誰かに似ていますの」

不思議そうに聞かれた。


勇次は、聞かれるままに真里亜のことを話すと、凛々は恐縮して真里亜に贈るはずだった指輪を埋めるのを手伝ってくれた。

指輪を埋めながら真理亜との思い出を語り、そして、

「貴方といると真理亜と一緒にいるようだ」

素直に言った。

「そうですか真理亜さんは御幸せですね。そんなにあなたに思われて。いい思い出が有るんでしょうね」

こんな返事が返って来て、気持ちを抑えることが出来ず、

「嬉しいですね、そう思っていただけると。これも何かの縁ですから、もし時間がありましたら明日一緒に街を歩いて頂けませんか」

単刀直入に聞き、不思議なことにそれに凛々が同意して明日の再会が決まった。

 真理亜と姿形が似た女性が思い出の地に突然現れた。タイミングが余りにも良く出来過ぎていて、何か罠に掛けられているのではと思ったが、魅力に負けて一歩前に進む事にした。


なお、高山公園は、高山鎮の中心地から歩いて10分程の高台に有る小さな公園で、夏場は小さな移動遊園地が出来、丘の頂には日中戦争や先の解放戦争で死亡した兵士を鎮魂する高さ10メートル一辺が1メール角の白亜の角錐が立っていて、勇次はそれを勝手に墓の無い真理亜の墓標と思っていた。高山に来ると必ず此処に寄って真理亜と話をする事にしていた。

ここはまだ真理亜が勇次と一緒に生きている事を実感できる場所だった。

真理亜は、ここから勇次が何処にいても見舞ってくれているように思った。近くの福州にいても、福清にいても、真理亜の家にいても遠く沖縄、名古屋にいても勇次の胸に掛けた翡翠を通して見守ってくれているのだった。


もう真理亜のことは忘れようと思っていたが、忘れられなかった。さっきまでは、もうこのまま真理亜の思い出と一緒に一生を送っても良いと思っていた。

若い真理亜は最も輝いている時に、オートバイの交通事故を装った殺人事件で若い有為な命を散らした。当時、勇次は真理亜の事を考えると、言葉では表現することが出来ない衝撃を受けたが、時間が少しは心を癒してくれたが、まだ思い出や現実の世界の中で、大きな位置を占めていた。

とは言え、今では思い出を胸に収めて、前向きに生きられるようになった。改めて時間の持つ偉大さを思い知った。真理亜を失った当初は、到底立ち直ることが出来ずに一生涯、真理亜を忘れることが出来ないと思ったが、いまは冷静に真理亜のことを考えることが出来るようになっていた。

ある種、人の心の軽さと、浅はかさを感じずにはいられなかった。しかし、これによって人は悲しみを乗り越えて、前に進むことが出来るのかも知れないと自己分析して、自分を正当化していた。


② 高山鎮に住む真理亜の母親

真里亜の死から2年、勇次は新しい論文“石巌當の成立と沖縄への伝播”を脱稿して一息付いていた。報告のための日本への一時帰国を2週間後に控え、早めに真里亜の母親への挨拶と論文の内容を少し変えて、一般読者向けに読みやすい本として出版されることを報告するつもりだった。

勿論、その本の最終ページには在りし日の真理亜と勇次の石巌當を背景にしたツーショット写真を載せるつもりだった。


先週、訪問を告げる電話を入れると、母親は元気な声で「分かった。久しぶりだね元気だったんだ。楽しみに待ってるよ」と返事してから「勇次と真理亜が世話になった人を集めておく」と言ってから「本当のマクドナルドで色んなハンバーグを買って来ておくれ」と勇次に注文した。

料理とアルコールは母親が準備すると言った。

勇次はハンバーグを福州で5千円分買い込んで、愛用のバイクに乗って出かけた。中国の交通事情にも慣れ、突然大きく響くクラクションにも驚かなくなった。

最近はクラクションで前の車を退かせるようにもなっていた。

「おい、いいかげんにしろよ若いの」

中国人に言われても、中国語が上手になった今は怯まなくなって、

「お前こそ古い車だからどけよ」

言い返すようになった。


勇次の家からバイクで1時間の距離だが真里亜の家を訪問するのは一年振りだった。

何回か近所には来たが家に寄るのは憚った。自分でその理由は巧く説明出来なかったが、何となくは分かっていた。しかし何故か避けて自分の心には答えたくなかった。


やはり家を訪ねるとなると心が踊った。真里亜の甘い香りが全身を包んでくれているように思えて、ほんわかした気持ちになった時、後ろの車からクラクションを3回鳴らされて我に帰って、しっかりハンドルを握り直してスピードを上げた。

汗に濡れた頬を渡る風が心地良かった。道路わきに新しいビルも立って教会の宿舎も完成していた。


何処かからか香辛料の香りが匂って来て、少し走ると真里亜の家に着いて、ベルを鳴らすと母親が飛んで来た。

まるで恋人か息子でも迎えるように。

「お母さん久しぶりです」

「勇次も元気そうだね」

勇次を抱きしめた。

冷静に考えると勇次と真里亜の母親とは赤の他人だが、二人とも本当の親子以上に気持ちは通じ合っていた。

他の人が見たら不思議に思うし、勇次の本当の母が知れば嫉妬し怒るかも知れないが、この気持ちが真実だった。すでに昔馴染みの人々が集まっており時間が静かにではなく、大きな声が行きかう喧騒の中、賑やかに過ぎて行った。

「良い男だ真理亜が嫉妬してるぞ」

「良い仕事して、真理亜を喜ばせてやってくれよ」

こんな暖かいエールが嬉しかった。


勇次はアルコールが余り強くなく、顔染みが集まったメンバーから盛んに酒を飲まされたので、途中からいつものように眠ってしまった。中国では酒は静かに飲むものでは無く、飲むつどに挨拶し、次の人を指名して全員で一緒に飲む。マイペースでは飲めない。

目が覚めた時は、ベッドの上だった。

時計を見るとまだ夜中の2時だった。うとうとしたまどろみの中で、真里亜との思い出が蘇って来て、涙を止めることが出来なかった。いつまでもこんな状況ではいけないと思ったが、プライベートになると真里亜に逃げてしまっていた。


ベッドサイドには、以前飾ってあった写真と入れ替わって真里亜と勇次のツーショット写真が飾られていた。正直、写真をみると気持ちも休まり心が温かくなった。

真里亜に包まれていると思うと、また深い眠りの中に入って行く事が出来た。


朝寝坊して、10時に食堂に降りて行くと、母親が素早く、お粥を出してくれた。

アルコールに疲れた身体には心地良かった。

「今日はどうするんだい」

「ちょと海でも見に行こうかなと思って」

真理亜に良く似た凛々に逢うとは言えなかった。今日は言わない方が良いと思った。

「何か良い事でも有ったんだね」

母親は勇次の明るい顔を見て聞いた。

「いいえ、何も・・・」

「本当にかい」

こんなやり取りがあったが、さすが母親の見る目は鋭かった。


これが大人の考え方と言えたが、素直には従えない自分の心を弱いと思った。

この思いを打ち崩すには十分な出来事、即ち、真理亜に良く似た女性と知り合ったことが、更に前に進むドライビングフォースとなる確証を得る必要が有ると思った。

待ち合わせの場所に予定より早く着いて早速、凛々を探して見たが、まだ来ていないのか見当たらなかった。それでも意味も無く必至になって探した。


その成果は、直ぐに現れた。勇次もよく使う青山の喫茶店から出てくる凛々を遠くに見つけた。

「凛々さん。おはようございます」

あとを追って声を掛けると、

「ああ、三宅さん、勇次さんでしたね。お待ちになりました」

直ぐに返事が返って来たので、マクドナルドに誘った。

凛々も既に勇次を一人の男として意識しているのか態度がぎこちなかった。

勇次が促すと街が見えるカウンターに座り、その横に勇次が座った。窓越しに人と車の動きが見えて飽きない。次の言葉を待つまで暫く二人は目でそれを追った。

      

「お早うございます。お待たせしました」

席に着くと、凛々と名乗る女性は、綺麗な日本語で挨拶した。昨日は中国語だったが、日本語の響きに親近感を持った。

「日本語、お上手ですね」

「ええ、大学で2年間ほど第二外国語として勉強しました」

分かり易い日本語だった。

「お腹すかれています」

凛々が聞くので勇次は驚いて、素っ頓狂な声で余りお腹は空いてなかったが、

「ええ空いています。宜しければ一緒に食べましょうか」

思わず返事した。

「ありがとうございます。昼食を一人でするのは寂しいと思って。それに昨日、聞こうかと思ったんですが、勿論、日本の方ですよね。東京ですか」

「ええ、名古屋出身の日本人です。もう中国に来て3年になります」

勇次が凛々に笑顔で答えた。

「そうでしょうね。中国語お上手ですものネ。それに勇次さんは日本人独特の柔らかい雰囲気を醸しだしていますから」

そしてお互いの立場を簡単に喋った。


この女性は郭凛々といい、28歳で上海の華僑系の日本企業で働いていると言った。日本語は会社で日常的に使っているとの事で、そして真理亜と同じ歳だった。

勇次も自分の事を話した。勇次の提案で昼間から飲んだ20元の日本ビール“一番絞り”の酔いも有って、食事が進むに連れて真理亜のことを更に喋り、真理亜と凛々が非常に似ていることも繰り返し喋った。最後は、涙目になっていた。凛々は勇次の話を真剣に頷きながら聞いた。


勇次は凛々の優しさにほだされて、これまで心の中に溜まっていたものを全て吐き出した。

「真理亜にもっと優しくしてやっていたら良かったと思っているんだ。何で素直にもっと早く逢って、気持ちを伝えなかったのか・・・・・。俺は薄情な男だ。俺に会わなかったら幸せな人生を歩めたと思うと・・・・。俺の存在は、真理亜の命を縮めただけではなかったかと思うんだ」

凛々の前でも憚ることなく気持が込み上げ目頭が濡れた。


凛々はそっとハンカチを出した。

「勇次さんは真理亜さんが本当に好きだったんですね。真理亜さんが羨ましい。私もそんな恋をしてみたい」

「あなたは綺麗で優しいから良い人と巡り合えると思いますよ」

「ありがとうございます」

「そして思うんです。人生をやり直せるんならやり直したいと。私の大きな判断ミスがあったから」

「それは残念ですけど、愛する人とずうっと一緒に居られるかは、誰にも分らないですから。余り自分を責めないで下さい」

「ありがとうございます。そうとしか言えないですからね。死んだ人は帰って来ないし」

二人の間で、こんな会話が有った。

「凛々さん。何回も言いますが、あなたは本当に本当に真理亜にそっくりなんです」

もう言わないと決心していたが、喉に溜まっていた言葉を思い切って発した。

「そうなんですよね。それで高山市街でも私をずうっと見られていたんですね!」

「そうですよ。それであなたを見ていた。気付かれていましたか?」

「ええ、目を固定して動かさず輝きが違っていましたもの。其れに一緒にいた年上の女性も、私を刺すような鋭い目で見られていて、怖いくらいでしたから。ところであの方はどなたですか」

決心したように凛々が聞いた。

「そう、あの人は真理亜のお母さんなんです。今は私の母親でも有りますけど」

「仲がよろしいんですね」

「あちらは迷惑と思いますが、ええ甘えています」

「そうですか。本当に真理亜さんが好きだったんですね」

二人の会話は弾んだ。


じつは昨日、凛々は二人を見て気になって後を付けて、母親の家を知り、そこから出て来た勇次の後を追って、高山公園に登ったのだった。そんなことをするそれだけの理由があった。

そんなことも知らずに、勇次は熱く歴史地理学を語り、凛々は上海の熱気とお洒落の話をした。2時間の食事が終わって近くの喫茶店に移り今度は、有名なウーロン茶である武夷岩茶を飲んで雑談した。最後は、二人とも雰囲気に酔って何を話したか覚えていなかったが、唯一勇次の、

「明日こそは本当のデートをして頂けません」

突然のこの問いかけに、

「明日も暇ですから私でよければ、いつでもお供させて頂きます」

凛々の歯切れの良い返事だけがお互いの心に残った。


凛々は保守的な女性で、初対面の男性の誘いに簡単に乗る女性ではないが、自分が興味を持っている事を確かめるには良い機会と捕らえた。他方、勇次は凛々に真理亜の優しさを重ねて、慕って心の安らぎを得たいと思った。

男としての邪心が全く無かったと言えば嘘になる。

凛々は真理亜と同じで、男心を激しくアタックする存在だった。

凛々は夕方から予定が有ると言うので、早めに別れて母親の待つ家に帰った。


③ 東壁島デート

翌日、バス停で待ち合わせして路線バスに乗って2人で東壁島に海を見に行った。季節外れの海はかぜが強かったが心地良く、凛々から発せられる香りは、心をたおやかにした。

東壁島は福建省福清市郊外にある。当地出身のインドネシア系華僑が開いたリゾート地で、浜辺で遊んだり、泳いだり、蟹を獲ったり出来る綺麗な海があるという触れ込みだった。 

最近、連絡橋が出来たので東壁島までの道のりは、福清から龍田まで路線バスで約25分、一人4元。そこから小型バスに乗り継いで龍田から東壁島までの5km、約25分で4元だった。

「路線バスで行きたい」

最初、輪タクで行こうと思ったが、凛々の一言で、バスで行く事になった。バスが好きなのも真理亜と同じだった。


バスの中でも日本語を使い最近、中国で人気のあるホームドラマについて話していると島に着いた。海の綺麗さは言うに及ばず、島にはコテージ風の建物がいくつもあり食事をする場所もあった。二人で海の方へ移動し浜辺で貝拾いをした。

少し先に大きな船があった。

「弁当持ってくればよかった。ここで弁当食べたら美味しいと思うよ」

何処かで聞いたようなことを言った。

「海はいいなあ」

「ほんとうに。風が気持ち良いね」

二人で喋りながら民家を通り抜け、船が停留している方へ行ってみた。

どんな魚が獲れるのか素手で挑戦したが駄目で代わりに、凛々が岩場で手の平大の蟹を捕まえた。

「これ食べたら美味しいと思うよ」

「可愛そうだから逃がしてあげたら」

勇次が言うと、

「代わりに食事奢る」

「奢る」

こんな真理亜ともした会話が有って素直に従った。


道端の民家では鴨や鶏、ヤギがのんびり日向ぼっこをしていた。

その脇を通りながら、

「今度は一緒に泳ぎに来ましょうか」

「ええ良いですけど。でも、今度って本当にあるんですかね」

「・・・・・」

凛々はそれには即答しなかった。

その気まずさを察した凛々は、

「暖かくなったらまた来たいですね水着持って」

こんな返事を返した。


海岸を二人で歩いた。勇次は、真理亜と一緒に歩いているような感触に捕らわれた。その心を見透かしたように、凛々が、

「真里亜さんと思って肩くらいなら抱いても良いよ」

中国語で言ったが聞えない振りをした。

抱きたい気持ちは有ったが、あまりにも浅はかに思われると思って堪えた。巧く表現出来ないが、周りから沢山の目で見られているように思えて、早く高山鎮に帰りたいと思ったが、凛々は二人で此処にいることを望んだ。また誰かに追い掛けられるかもしれないという思いが脳裏を過った。

「もう少し歩きましょう。風が気持ちいいね」

「そうですね。今日は空も綺麗だし」

中国語と日本語で話した。仕方なく暫く歩くと案内所と付近一帯の施設の見取り図があった。其れに従い管理棟にあるグリルで福建省製のグラスワインを飲みながら昼食を取った。

「これからどうされますの」

「あなたと一緒にいる」

「それじゃなくて仕事の方」

「ええ沖縄に帰って大学の教員になる予定です」

「そうですが琉球列島の先生ですか」

「そう琉球の・・・」

こんな会話があり、小型バスに乗り龍田経由で高山鎮に返った。因みに中国では沖縄のことを琉球と表現する事が多い。

「どうします。これから」

バス停に着いて、勇次が聞くと、

「お任せします。私、今日は超暇ですから」

凛々が答えたので喫茶店に誘った。

そこで、凛々は新聞に載っている中国女性の出身地別性格の話をした。

「浙江省は多芸多才で陽気。勘が鋭く、経済感覚としては倹約貯蓄型が多い。福建省は経済面では質素倹約型が多い。家庭と仕事を上手に両立できるタイプが多い。山東省は努力家でまじめなタイプだがやや浪費家が多い。男性に対しては外見重視の傾向がある。」

 

勇次は、これまでの経験というか真理亜の影響もあり中国女性は気が強く、美人という漠然としたイメージが頭の中に残り、一種の憧れを持っていた。背が高く気が強くて可愛い中国人妻と暮らしたいと思っていた。それは真理亜をイメージしていた。

また勇次は、上海人は商売上手で駆け引も上手だがプライドが高く、容姿やファッションにお金をかける。このように地方によって性格が色々異なり、全てではないが概ね当たっていると思っていた。民族学的考察としては気候、風土が性格を作っているのかも知れないと思うが、学者として発言することは問題であると厳に戒めていた。


この新聞記事は勇次の思いと合致するところも多くて面白かった。

「どうですか?何かのお役に立ちますか?一概には言えませんが、何かの物差しとしては興味を持っていただけるのではないでしょうか!」

こんな風に凛々から冷静に言われると頷かざるを得なかった。

「それで凛々さんはどんな性格ですか」

「福建生まれの上海育ちだから、経済面では質素倹約型で、家庭と仕事を上手に両立出来てやり繰り上手で駆け引き上手、プライドが高く、容姿やファッションにお金をかける。中国では嫌われるタイプかな」

「ちょっと自己矛盾が有ると思いません」

勇次が言えば素直に頷いた。

「あの、それで凛々さんは福建生まれなんですか」

「ええ多分、福建高山鎮の生まれだと思う」

「思うってどういうこと・・・ですか」

「ええ、ちょっとネ・・それは・・ちょっと」

ここまで聞いて、もしや真理亜の親戚ではと思ったが、今は聞けないと思い直した。もう少し親しくなれば聞かないわけには行かないと思った。


そして、凛々は一時、アルバイトで日本人向けの上海観光ガイドをしており結構人気が有ったと言った。国家認定1級ガイド資格も有ると形の良い胸を張った。

「解りやすい日本語を喋る若い女性で笑いのつかみも巧く、親切と評判だった」

自慢したが、勇次もそれには同感だった。

その時、日本語は今ほどには上手くなかったと思うが、日本人好みの端整な顔立ちをしているので納得した。

 

「最近、日本人は“すみません”と言わなくなって、段々と中国人みたいになった」

突然、凛々から言われた時には、直ぐに言葉を見出せなかったので仕方なく、

「日本語の中国化、欧米化かな」

「そうですか。大変ですね。日本の良さが失われる」

こんな会話になった。

「それはそうとして、中国は難しい国なんです」

 凛々が言って中国社会で一流になるには、コネが有って、一流大学を良い成績で卒業し、英語が出来て日本語も少しは分り、コンピューターが触れること、この6つの条件を全て満たさないとダメだそうだ。

「いや大変なハードルだね」

勇次が意識的に凛々の目を見て言った。


凛々は、日本語が上手で、食事をしながらダジャレを言ったり、日本の懐メロを歌ったりもした。その中で『日本人と違うなあ』と思ったのが何でも大きな声で断定的に話すことだった。また、一度、言い出すと決して引かないし決して謝らない。

凛々に次の様なことが有ったと話した。

以前、真理亜が、「今日の天気予報では曇りと言っていたので、傘はいりません。」と言うが、どう見ても雨が降り出しそうな空模様だった。

傘を用意するとそれでも「雨は降りません。傘はいりません。」と断言して怒った。

念のためにと思って折りたたみの傘を1本持って歩いていると、案の定、ポツリポツリと雨が降り始めた。

それでも真理亜は「これは雨じゃないです。大きな霧の球ですよ」と屁理屈を言い譲らなかった。

凛々との楽しい時間は矢の如く過ぎていった。


④ 凛々の目的

冬のリゾート地を楽しんで、高山に帰って馴染みの店に行って世間話をしながら、アルコール度1%の中国ビールでビーフンと野菜炒めを食べた。味は母親の方が良かった。昨日は気づかなかったが、凛々の顔が赤くなりリンゴのようになっていた。『真里亜と同じだ』と心の中でつぶやいた。無理して飲むところが可愛いと思った。

会話の中身は会社の愚痴話から段々と真理亜の母親のことが中心になり、凛々が余りにも母親のことを突っ込んで聞くので、最初は違和感も持ったが、勇次自身も凛々に話したいことだったので積極的に話した。

「そのお母さんてどんな人」

「日本から来た韓国人、いや北朝鮮の人かな。中国では肩身が狭いかな」

「そうでもないと思いますけど。中国人は少数民族を大事にしますから」

「そうですか。それは良かった。日本では少数者を苛めるんです」

勇次が答えると、話題が変わった。

「性格はどんな人ですか」  

「優しさと厳しさを持った人ですよ。信賞必罰を適切に出される人だと思います。自分の考えがしっかりしていて、それが振れないんです。そして決して、でしゃばらない。自分の領域をしっかり守る昔の日本の良妻賢母っていう感じですかね」

「理想的なお母さんですね。でもそんな人でも、間違った判断することがないのかな・・・・」

意味の分からないことを言うので、

「どういうこと」

少しムッとして聞き返すと、

「いいや一般的なことを聞いたの。余り気にしないで、真理亜さんと私が良く似ているって言われたけど、私とお母さんもよく似ているの」

凛々が聞くので、少し考えて、

「うん・・・ん。それが不思議に余りというか全く似ていないと思うな。それに失礼ですけど亡くなったお父さんとも。決して御両親は容姿端麗とは言えないと思う。若い時の写真も見たけど似てないと思った。両親は“鳶が鷹を産んだ”と言って自慢していましたけどね。

でも性格は全く同じ。特に母親とはね、父親は目立たずにじっと見守る理想的な夫婦に見えました。私はそんな夫婦を目指しているんです」

勇次が答えると凛々が笑いながら、

「まあ、勇次さんはそこまで、思っておられるんですか。それに、それって、真理亜さんいや、私に対するプロポーズではないんでしょうね」

凛々に返す言葉が無かった。

昔、真理亜に同じ様な言葉でプロポーズした事があった。


何か言ったあとに下を向きながら顔を覗き込む仕草が、真理亜とそっくりで可愛いのも同じだった。敢て違うところを探すと顔のホクロの位置が異なり、指は短くて太く厳ついところだった。また、怒った時に口が尖るのもちょっと気になった。真理亜には無かった。

少し間を取って、母親に興味があると言うので勇次が、

「どうよかったら、これから一緒に行こうか」

聞くと、直ぐに答えは無くて、真剣に考えている様子が見えた。

そこで助け舟を出した。

「そうだね急ぐ必要ないか。気が向いたらまた声掛けて」

勇次が言ってこの話題を変えた。

そして凛々が「今日、行った東壁島は自分の友達が関係しているプロジェクト」と言ったことが記憶に残った。


また今日の夜、高山鎮で実施される原発関連のパーティーにも出ると言ったので、勇次は『凛々ってどんなキャラクターの人間なんだろうと更に興味を持ち、不思議な女性だ』と思った。その根底には『この自分の目の前にいる綺麗な女性は只の女ではないな』という思いがあった。

思案している時に凛々から、

「今日は色々ありがとうございました。これからちょっと用事もありますので、早いですが今日はこれで帰ります。お母さんにも宜しくお伝え下さい。でも変なことは言わないでね。変な印象を持って欲しくないので。また、必ず連絡下さいね。待てますから。キリンにしないで下さいね」

「キリンって」

「余り待たせ過ぎると首が長くなってキリンになるってことです」

ウインクを返して一人で宿のホテルに向かった。

送ろうと言ったが、やんわり断わられた。

凛々は今日行われる夜のパーティーのために此処に来ていた。


もう十分親しくなったと思って、凛々に、一緒に真里亜の家に行こうと誘ったが、勇次も良く知っている近くのホテルに泊まると言ったのでがっかりした。

勇次は、もうこの時には、中国流に正式に付き合う前に早く凛々を紹介して、お母さんにも自分の気持ちを分かって欲しいと思った。何か隠し事をしているみたいで後ろめたい気持ちが有った。

でも紹介した所で母親から『まだ逢って3日目だろう変な娘だね・・・良いのかい』と言われたらどうしようかと考えて、これはこれで良かったと思った。

後で分かることだが、凛々には凛々の事情があった。


「今日は顔が焼けているね」

家に帰った勇次は母親から、言われて顔を更に赤らめた。

「ええちょっとワインとビールを飲んだのと日焼けして」

自然に返事した。

「誰と・・・何したの」

「ええちょっと」

この会話と雰囲気から母親は、勇次に新しい恋の始まりを感じ、嬉しいやら悲しいやら複雑な気持ちだった。さすがに母親は勇次に聞きたい気持ちを抑えた。お互いに喋りたい事が有ったが差し障りの無い会話に終始した。


勘の鋭い母親は相手の女性の詳細は分からないが、真理亜によく似たあの女性であることは感じ取ってはいたが、それが的中していないことを願って不安を広げていた。それにしても会話の中で、母親は勇次の表情の明るさに驚いた。

「ところで明日はどうするの」

「ええもう一日お世話になります。いいですかね」

「へんな子だね。自分の家にいるのにそんなこと聞く人がいますかね」

「ありがとうございます」

こんな会話があって、ちょっと冷えたビール2本を二人で飲んで、昔話に花を咲かせて、勇次は自分の部屋に消えた。母親が一人残されて片づけを進めたが背中が丸まって、老いが忍び寄っていることを感じさせた。

勇次には正直言うと、明日の予定は無かったが、ただ凛々の傍に居たいと思った。


同じ頃、凛々は修羅場を経験していた。福清に来た目的の一つである、原子力発電所の起工式に一人の中国人と出席していた。この中国人は有力華僑でこの原子力発電所にも多額の出資を行っていた。主賓として挨拶し、所内の4階にある自分の事務所に入った時に事件が起こった。

 二人で部屋に入ろうとした時に小柄な女が鞄を持って出て来た。

「お前は誰だ。待て・・・止まれ」

華僑に言われた女は、一喝しても停まる事無く走り去った。男がボタンを押すとベルが鳴り渡り警備員とボデーガードが出て来て手を広げて女を制止し、捕まえて部屋に戻した。

「この部屋で何をしていた」

聞いても無言でボデーガードが、

「正直に言わないと殺すぞ・・・」

凄んでも顔色一つ変えなかった。

窓を見ると少し空いており、ロープがぶら下がっていたので、凛々はここから女が入って来たと思い。

「ここから入ったの」

小さく頷いて。

「私は何もしていないから離して」

「誰に頼まれた」

中国人が聞いても答えなかった。その間、華僑はカバンの中身を調べ何も無くなっていないことを確認したのか、

「私は表の仕事しかしていなから探っても意味無いと思うけど。何が目的だった」

女に聞いても答えなかった。

華僑の指示で、小柄で身軽そうな25歳前後の女は、ボデーガードに引っ張られて部屋から出された。


 暫く沈黙の時間があり、

「これからどうなるの」

「何もないと思うよ。もう少し話を聞いてから警察に連れて行く」

「本当に、約束できる」

「出来る」

華僑は毅然と言ってから、凛々の腕を取って部屋を出て、運転手付きのベンツに乗って福州市内のホテルに向かって食事した。

 食事中も凛々は、女性のことが気になって、食事を味わう事は出来なかった。男も同じ思いで、二人で良い思い出を作る事は出来ないと覚悟を決めた。更に女は、何を探していたんだろと考えると尚更だった。華僑は予定をキャンセルして凛々を先に帰した。


⑤ 勇次と真理亜の母親との会話

朝、母親が起きて来た勇次に「昨日は何か良いこと有ったんだね。大きな字で顔に書いてあるよ」と思い切って聞くと、素直に「ええ良い人と知り合ったんです。お母さんにも喜んでもらえると思える人です」覚悟を決めて返事した。

「そうかい私の思ったとおりだね。是非とも一度、連れて来なさいな」

それからも、頻りに彼女のことを色々聞くので、

「まだ知り合ったばかりで余りよく知らないので・・・すみません」

「名前はなんて言うんだい。年は・・・幾つ」

矢継ぎ早に聞いた。

「名前は凛々、でも年は分からない。真里亜と同じ位。でも、真里亜ほど綺麗じゃないから」

自分と母に嘘をついた。

なぜ、嘘をついたのか理解出来なかった。

母親はここで直感した。この女性は輪タクから見た女性であることを。そして大きな胸騒ぎがするのを感じずにはいられなかった。

勇次がこの女性に興味を示したことは確認出来た。それは母親にとってはある種、寂しい事だったが、それ以上に真理亜を忘れて、仕事以外に興味を持てる存在が出来たのが嬉しかった。母親としてはこれでまた勇次が、大きな人間に成長出来るきっかけになると思うとたまらなく嬉しかった。

しかし、これから起るであろうことを考えると、心が曇ったが、これも一度は通らないといけないことだと決心すると心が安定した。


会話が途切れて母親と二人でテレビを見ていると今日、早朝に三山鎮の海岸で30歳位の女性の死体が発見されたことを告げていた。昨日、凛々と二人で行った海岸だった。新聞には書かれていなかったが銃殺だった。

「30歳か若いのに可愛そうだね」

母親は言ったが敢えてコメントしなかった。

凛々ではないかと胸騒ぎがした。詳しい情報か、凛々と逢いたいと思い携帯で、

【今、何してる。逢いたい】

【いまちょっと忙しい】

直ぐに返事が帰って来て死体が、凛々でないことが分かって安心したが、それでも逢いたくて、

【逢いたい。あなたと逢って話しがしたい。高山公園で持っています】

こんな内容を書いて送ったが、返事は無かった。

携帯メール以外に連絡を取る手段が無かった。お互いに他の連絡方法を確認していなかった。


仕方無く不安げな母親に送られて、家を出て、女性の変死体の件を頭の片隅に置きながら、凛々が来るであろう高山公園に向かった。携帯に連絡は無かったが、必ず来るという変で不思議な自信があった。

勇次にとって高山公園は、一番気持ちの落ち着く場所で、此処に来ると私信を捨てて虚心坦懐に自分の信じる所を語れて決心し、それを真理亜に聞いてもらえる場所のように思っていた。

しかし、もうこの時は真理亜の事は、気持ちの中に無かった。2時間が経過しても凛々は来なかったが、

【凛々、待っています】

 再度、送って待った。気持ちを紛らすために、今後、係わるであろう沖縄振興策を考えながら。振興策は沖縄県知事から委嘱されていた。塔にもたれて少しうとうとして眠ったのだろうか、頬の冷たさで目を覚ました。

 そこには凛々が居た。

「勝手な人だね。私の予定も聞かずに勝手に呼び出すなんて」

「ゴメン。でも凛々に逢いたかった。今日、三山で30歳くらいの女性の死体が発見されたって言うから」

「それが私だと・・・」

声が少し震えていた。

「そう、そう思った」

「なんでそんなこと考えるの。30歳位の女性は沢山いるよ。私ってそんなに危ない女、怪しい女に見えます」

「ええ残念ですが見える。見えます」

勇次が返事すると、怒ったのか山を下りようとするので、慌てて追い掛けて腕を取って、一緒に歩いて山を降りて、母親にバイクを預かってもらうように電話してバスに乗って福州市に向かった。


バスの中で、高山に来た本当の理由、住所を聞いてもはぐらかした。

再び三山で死体が見つかった話しをすると、今度はこの話は無視して昨日、ホテルで日本の支援で原子力発電所が増設されることを記念してパーティーが開かれたことを事細かに話した。ことさら女性のことを詮索されないように。

勇次は、話しをすり替えられたと思って不機嫌になった。

 不機嫌そうにしていると、凛々から一言、

「この話はこれで終わり。もう詮索しないでネ分った。」

無言でいると再度、

「分ったの」

心のど真ん中に釘を刺さされた。凛々の拘りが分らず疑惑が深まり、暫く会話が無くなった。

バスがアポロホテル前に到着した。

「これからどうする」

「任せる」

凛々が短く答えたので、自分の職場が有る福州博物院に案内することにした。


二人は、勇次が勤める福州西湖公園内の福州博物院に居た。福建省以外に他の省や外国の文化を紹介する展示も行われており、凛々は始めてだと言った。

雰囲気が重たかった。

「凛々さん、楽しいですか?退屈じゃないですか?」

「いいえ、刺激的です。創造性が掻きたてられますね。大変勉強になります。ありがとうございます」

凛々は勇次の腕を取った。

博物院には大理石で出来た大きなホールもあるが、訪れる人は少なく、ひっそりとしていた。興奮した二人の心を静めるには最適の場所だった。


大きな甕が展示されているが、今でも農家や地方に行くと、使われているのを目にする。凛々の家でも水道が来るまで使っていた。 博物院内には日本の茶室を模した部屋も作られている。確かに日本風に作られているが、どこか違和感が有った。

「この茶室ちょっとおかしいですよ」

「何処が」

「巧く説明できないですが、今度、日本にこられた時には案内しますよ」

「お願いします」

凛々の明るい声が帰って来た。

        

 また、福建省は木彫が有名で、精巧な木魚を至るところで見ることが出来た。

「これと同じものが京都宇治の万福寺にもあります。そこのお坊さんは福清市から約300年前に日本に来られた有名な坊さんなんです」

「へーそうなんですか。そちらも一度、行って見たい」

「ええ案内しますよ。近くに宇治川が流れていて桜の時は良い所ですからね」

説明してから凛々の求めに応じて指切りをした。

勇次は、この和尚隠元について色々面白い話を知っていたが、敢て此処では言わなかった。一緒に宇治に行く時まで取っておくことにした。


二人で食事をと思って、公園を出て街に向かって歩いていると、“沖縄料理鶏飯”という看板があった。

面白いと思って店に入った。

元々、鶏飯(けいはん)とは、鹿児島県奄美大島笠利町周辺で作られる郷土料理だ。煮出した鶏ガラスープは酒と薄口醤油・・・直前に好きな具を好きなだけ乗せ、熱々のだし汁をたっぷりと注いで食べる。

 勇次が説明すると凛々は感心して、勇次が言ったようにして食べた。

鶏飯と聞いて懐かしくなって店の店員に話を聞くと、主人が出て来た。

「福建省で奄美の鶏飯を食べれるなんて嬉しくなりました」

主人は雰囲気から日本人と思って、

「私は、奄美大島の笠利町の“ばしゃやま”で修行しましてね女房が此処の出身なんで、ここで開業したんです」

簡単に自己紹介した。勇次も学生時代からばしゃ山を良く知っており二人の会話は弾んだ。

 勇次は中国で奄美出身の人に逢えた偶然に驚き、凛々は人の世の巡り合せの不思議を思った。

「奄美でもこれを食べてみたい。きっと違うんでしょうね」

凛々が聞いたが、勇次は、

「これはこのまま」

返事を聞いて驚いた顔をした。その様子が面白くて笑うと怒った。味は勇次の期待したレベルだったが、凛々の表情は複雑だった。


 帰りがけに主人に挨拶すると、主人は「泉大輔です」と名乗ってから「今日はありがとうございました。あんまり客が入らないんで、もう店を閉めようと思っていたんだけど、貴方達に逢って、もうちょっと頑張ってみようと、気持ちを切り替えました」と言うので、

「無理せずに頑張って下さい。それに肝心の奥さんは・・・」と聞いた。

「それが昨日から帰ってないんですは。どこに行ったのかな・・・あいつ」

心配そうな顔になった。このやり取りを聞いていた凛々の表情が怖く強張った顔になっていくのを知って勇次は驚いてしまった。

「どうしたの」

「なにが・・・その顔」

短く返して鶏飯を食べた。

 店を出る時に勇次は大輔と握手をしたが、凛々は握手せずに中国語で、

「頑張って下さい。美味しかったです」

この言葉だけ言って別れた。


 この店を出た後、二人は別れて勇次は沖縄に凛々は上海に帰って行った。一見、二人には関係ないと思われる女性の不審死があったこともあって、お互いに相手に関心を持っていたが、もう一歩踏み出せなかった。


⑥ 沖縄振興計画

勇次は近いうちに沖縄に帰り、大学の准教授になる予定で、更に特命事項として沖縄経済特区構想に加わる事を要請されていた。

沖縄経済特区(Special Economic Zone in Okinawa)構想とは法律によって沖縄県に設置された経済活動の特別地域のことである。

2002年4月1日施行の沖縄振興特別措置法に基づき、日本で初めての経済特区が沖縄県に設けられることになった。沖縄県に金融機関や情報通信産業を誘致することが大きな狙いだった。


具体的には、金融業務特別地区(金融特区)と情報通信産業特別地区(情報IT特区)の2つが創設されることにだった。金融特区は、銀行などの金融機関をターゲットにして、進出してきた企業には、国に納める税金を安くするという特典を与えた。こうすることで、沖縄への進出をためらっていた金融機関の背中を後押ししようとするものだった。

また、勇次が係わる情報IT特区は、情報産業に埋立地を安価で提供し、そこで事業を行ってもらおうという構想だった。

金融特区は那覇市に簡単に決まった。アメリカ軍の普天間基地の移設を受け入れた名護市は、その見返りとして情報IT特区(IT特区)に指定されることを強く希望していたが、糸満市や恩納村など他の市町村も名乗りを上げて場所は中々特定出来なかった。


この沖縄経済特区構想について現地沖縄では、

「沖縄経済を活性化させるためにもっと沖縄経済特区を真剣に考えよう。これからはアジア諸国と日本をつなぐのは沖縄だ」

こんな発想が有る半面、懐疑的な意見も有った。

「人材育成、企業誘致よりも辺野古への米軍基地移転のためのアメという形で議論が終わっている気がするんですよ。沖縄が経済的に自立できる可能性の一つなのにもったいない」

「特区は沖縄支配の道具。日本政府のいうことは信じない。裏切られるだけ」

「特区より中国との連携強化。特区が無くても中国は来る」

具体的にはこんな意見があり、更に各地域との綱引きもあり計画は、進まず半ば頓挫していた。

沖縄県は、膠着状態を突破する起爆剤として、沖縄の将来を担う、色のついていない有能な若手を投入し計画に活を入れようとしていた。その一人に勇次が選ばれたのだった。


勇次は沖縄振興には「本土に利用されようがなんでも経済発展が必要で、誰が悪い、彼が悪いと排除するのではなく、沖縄県民が主体的に行動するべきで、沖縄県民はもっと経済特区なかでもIT特区を真剣に考えるべきである」と思っていた。

「そのためにはまずは、ソフトウェア会社に優遇税制が適用できるようにして直接投資を促す。具体的には、本土からマイクロソフト、アップル、IBMを筆頭に有名ソフトウェア会社を誘致する。これからの日本は“もの作り”だけじゃ駄目で、IT産業という頭を使ったものが産業の主体になる」と考えていた。

更に大事な事は、誰の考えも同じなのでより早く実施する必要があると思っていた。

日本本土との経済格差が有るので、これを克服するには、望むと望まざるとに係わり無く、より早く知識集約型の仕事を育成して、経済的に発展するしか道は無かった。経済的に劣っているというハングリー精神と本土への対抗心が反発バネになると勇次は思って期待していた。


そこで勇次は、この時代の波に乗り遅れないために、IT特区構想を利用して、IT産業を活性化させるのに必要な人材を大学で育成すると考えると、自然と力が湧いてくるのが実感できた。

まず手始めに、沖縄振興費用で大学のIT関連学部の学費を半額にする運動を始めたいと考えていた。また、可能なら優秀な人材は、防衛大学校や気象大学校のように給料または返還不要の奨学金を払って将来、沖縄県のために働く人材を育成するくらいの思い切ったいわゆる“えこひいき施策”も必要と考える様になった。


日本では最近、秀才や優等生を正当に評価しない傾向があるが、これは間違いでエリートを育て指導者として守り立てることが必要と考えていた。そして、そのエリートには何よりも心の鍛錬、即ち公に奉仕する滅私奉公の心を教えることも必須と思っていた。

この二つの両輪を上手く回して真に優秀な秀才エリート育成と実力主義の風土を育てることが経済的自立には、必要と結論付けると自然と心が燃えて来て力がペンに入った。


しかし、IT特区構想について多くの沖縄県人は今でも、冷ややかな反応だった。

「大学の学費を半額にしてエリート養成、さらに学生に給料払うんだったら、道路工事に使って欲しい」、「米百俵の精神で税金から出すのは不可能な気がします」、「エリートは信用出来ない。最後には弱者を切り捨てる」

否定的な意見や的外れの意見も多かった。


この状況で、情報IT特区を誘致したい糸満市の大町市長は民政党の幹事長で次期総裁の呼び声も有る岡本と組んで、日の出の勢いで経済発展する中国に狙いを定めて誘致活動を展開した。

そこでの売り文句は、“沖縄から情報革新を、ここを基点にアジアに新基盤ソフトを輸出しよう”と言うものだった。

県の自主財源が1400億円程度なので無駄で役に立たない道路工事は無くして、真のインフラである人材育成に投資する方が、県民のためになるのは間違いない。と確信していた。この市長の意欲に最終的に飛び付いたのが、日本の大学を卒業した華僑の林招薫だった。


糸満市の誘致に乗った招薫のビジネスモデルは、『まず優秀な一握りの人材を確保する。しかし、いきなりソフトを組ませるソフトウェア会社なんてない。日常生活で必要なパソコンのスキルとソフトウェア会社に必要なパソコンのスキルは全然違う。パソコンを毎日触っていればいいってもんじゃない。どんなソフトを作るかで、Javaで組むかCで組むか、あるいはVBかなどなど。トッププロとして働くなら、大学レベルでも通用しない。だから、はじめの1年は研修期間として全員寮に入れて、ソフト開発に必要なスキルと精神を寝る間を惜しませて徹底的に教育し優秀な人材のみを残す。沖縄の場合この研修を中国で行い、沖縄に戻って来てからバリバリ自主的に働く人材に育てる』というものだった。


この概要を雑誌で見た勇次は、招薫の言うとおり、中国で育成するのは、効率が良いかもしれないが、多くの人間の育成は出来ないので、エリートに続く人材は沖縄で育成する。 

だから裾野を広げる教育をもっと真剣に考えたほうが良いと思った。沖縄の情報教育基盤は極めて弱いことも理解していたので“えこひいき”とともに、当初は中国での育成と優秀な人材の投入も必要と思い招薫の発想に感服した。


更に、招薫はアジア諸国と日本をつなぐのは沖縄だと考えた。ハード面では同じ立地条件に上海や香港、シンガポールなどがライバルとしているため難しいかった。アジアの経済中心地という地理的特性も交通路があってこそ生きてくるものだが、沖縄は航空路の整備が圧倒的に遅れていた。

そこで、当面は情報通信で成果物を送れるソフト開発力の強化を進め、航空路が整備された所で可能であれば、IT特区を最大限に利用して最先端技術を駆使したローコストでの製造技術にも手を広げて行く戦略を立てた。そのためには何よりも日本、沖縄の政治家との人脈を作る事が必要だった。幸い既に米国、中国と東南アジアには強い人脈があった。


糸満市長はIT特区が決定しない中で、市への補助金を利用して自前での埋め立てを画策し企業誘致に奔走していた。誘致は失敗に次ぐ失敗の挙句にようやく林招薫に辿りついて一息ついた。


勇次と招薫は立場の違いも有って、これまでの沖縄振興策について独自に調べた。その結果、二人とも沖縄は本気で経済発展を考えているとは思えないという結論に至った。その理由は世界を相手に競争するという視点が無かった。卸売業が多い沖縄で、沖縄県内だけのシェア獲得を中心としているため視野が狭く、内需では生きていけないのは明白だった。経済学の基礎が全く考慮されていないというか、敢て係わらないようにしているように思えた。

世界で戦うためには政府に働きかけて、輸送費や関税を軽減すれば、琉球王朝以来のアジアのハブとなることが可能になる。そうすれば沖縄の地の利が生かせるし、企業誘致も可能になるし県民も潤うのである。


大町糸満市長と民政党の岡本幹事長は、東京の経団連ホールで、「アジアのハブを目指す沖縄経済特区~ようこそ、ビジネスの楽園へ~」というシンポジュームを開いた。内閣府の後援なので、岡本幹事長が来賓挨拶を行い、林招薫がシンガポールのIT立国話を交えて、立て板に水の名調子で沖縄のITハブ戦略を語っていた。

 この企画は、新しいものに意欲的な通産省出身の仲間沖縄県知事が、沖縄特区の活性化のための企業誘致・東京行脚の一貫としてシンポジュームを開催し、マスコミ大手の毎朝経済社が乗ったという構図だが、組み合わせが興味深く色々考えさせられた。

 結論から先に言えば、鐘や太鼓の鳴り物入りで宣伝して糸満市に情報IT特区を決めようとする前宣伝だったが、翌日の同じような会合には名護市の応援団として知事が参列していた。


心の底で林招薫は「構想と夢は壮大で素晴らしいが、もっと画期的な優遇条件で沖縄特区を推進すべきで、世界の企業が関心を示し、日本のトップ企業が触手を動かすような条件を整えない限り、“アジアの中心を目指す”などは夢の夢に終わってしまう」と思うと共に、中々決める事が出来ない日本の政治に辟易していた。

『和を持って尊しとなす』とはどういうことかと考えてしまった。これは結論を出さないための教えではない。積極的に議論して、意見の違う人を切るのではなく、説得して仲間に組み入れる。という思想であると思っていたので残念に思った。最近の日本には意見の違う人と積極的に逢って“説得する、あるいは納得させる”、という行為が圧倒的に不足していた。

そう最近の日本は“説得して仲間にする”という課程が、圧倒的に抜けていて機能していなかった。コミュニケーション不足で、語らず説得できない見栄えの良いマスコミ系政治家や評論家型政治家が政界を闊歩している構図が見てとれた。招薫はこのように思うことが多くなった。


勇次は、帰国を前に沖縄県への“沖縄IT特区の可能性について”という報告書に、鋭い指摘をする招薫の意見も踏まえて、これまでの思いをまとめた。その概要は次のようなものだった。

 経済のグローバリゼーションによって①選択と集中、②情報通信コストの大幅ダウン、③頭脳労働化、④日本企業独自の研究開発志向、が起こったが、この現象が沖縄の変化とその将来に貢献しIT特区発展の可能性を産んだ。

 これまで日本は、総合的組み立て産業(規格大量生産)が主体だったが、グローバリゼーションによるサプライチェーンの拡大により、アウトソーシングでITソフト作成、部品供給の需要が増大し環太平洋経済が活況を帯びている。

 更に、沖縄は、①現在人口は136万人だが、自然及び社会的増加で毎年1万人ずつ人口が増加していて、若年人口が多く、かつ、その平均的教育レベルは他の東南アジア諸国より充実している。②経済社会の発展と振興のためにIT特区の設立など特別措置法が施行されている。よって発展の仕掛けは出来た、今後はこの基盤の有効活用が重要と分析した。

 そして結論として、ITと観光で沖縄を活性化させ、ベンチャーとイノベーションを志向しつつも沖縄の地に足がついた“地道で泥臭いITソフトビジネス”を構築することが必要であると提言をまとめた。


⑦ 凛々への募る思い

勇次と凛々はお互いに関心を持ちながら、離れたために出来た心の隙間をメール交換で紛らした。最初に勇次が痺れを切らせて動いた。逢わなくなって1ヶ月が経っていた。

【凛々元気にしていますか?私は沖縄に帰って大学への赴任準備でばたばたですが、忙しさを楽しんでいます。貴方と知り合ったのも何かの縁ですネ。元気に頑張って下さい】

こんな内容を打って送ると直ぐに返信がありそこには、

【勇次さんご無沙汰しています。環境が変わって大変でしょうけど、無理せずにお過ごし下さい。私は、大学院に入って経済を勉強しようか、歴史を勉強しようかと迷っています。どちらが向いていると思いますか?】

こんなメール交換が有りお互いの現状を語り、そして勇次が次の様なメールを返した。

【経済と歴史は大分違いますね】

【私の中では両者は近いです。表裏一体と思います。経済が混乱した時に大きく歴史が動き。経済が安定すると歴史が落ち着くと思います】

【凛々さん面白い発想ですね。でも言えていますネ】

【ありがとうネ。それで歴史と経済どちらが良いと思います】

【貴方には、経済が向いていると思いますが。のめり込んで学問を金儲けの道具にしようと思う可能性が高いと思うので危険です。だから歴史を勉強するのが、良いかと思いますが】

【勇次さん。私は経済を勉強してお金儲けをしたいです。其れが危険ですか】

【危険です。貴方は熱くなって勝負に持ち込みます。勝負は負けることもあるし、勝つことも有ります。あなたは負けを認められない性格だから】

【良く分りますね。でも、金儲けしたいです】

【それが危険です】

何故か電話では無く、頻繁にメール交換があって、2日後に今度は凛々から意思を込めたメールが入った。

【勇次さん。ヤッパリ経済勉強します】

【そうですか。それは良かったですね】

【反対しないのですか。私が身を持ち崩して・・・・良いんですか】

【凛々。よく考えて貴方が決めたことだから】

【勇次。貴方に反対して欲しかったのに・・・・残念です】

凛々から帰って来たので、少し考えてから、

【やっぱり凛々は経済じゃなくて歴史を勉強した方が良いと思う。きっとそうして下さい】

【ありがとうございます。私も最近は勇次と同じように歴史を勉強した方が良いと思うようになっていました。あなたからそう言って欲しかった。だからちょっと意地悪をした】

こんな内容のやりとりで、気持ちがつながるとは思いもよらながった。勇次はたまらなく凛々が可愛いと思うようになった。


このメールのやり取りがあってから、約1ヵ月後に凛々と沖縄で再会した。

そこには凛々が待っていた。那覇国際空港の到着出口だった。赤の厚手のセーターに白の超ミニスカートだった。これは真里亜の好きな組み合わせだった。

 車が渋滞し30分遅れての到着だった。

目敏く勇次を見つけた凛々が近付いて来て、

「遅い。凛々、もう帰ろうかなと思った。私てそんなにランクが低いの一番じゃないの・・・」

拗ねたが、その格好がまた可愛くて笑うと、

「何がおかしいの」

クレームを付けた。

「すまん。俺が悪かったちょっと車が混んでた。今日のホテル代は俺が出すから」

現金なものでこの一言で機嫌が直った。


実は昨日のメールで【明日、沖縄に行く】と凛々から入り、ドタアポだった。勇次はスケジュールを調整して間に合わせた。まさに凛々は疾風のように現れて、去っていくという表現がぴったりだった。

車の中で、

「今度、琉球の大学に行く事になったので支援して欲しいの」

「驚いたな沖縄の大学ですか。なんで沖縄ですか?意味不明、でも可愛いから出来る範囲で支援するから」

「ありがとう。でもプラートニックだからね。約束できるの」

「勿論、凛々が誘惑しない限り私は自分で制御できるから」

「OK、何時も紳士で居て下さいネ。真理亜のためにもお願いします」

こんな会話から雑談になった。


 30分で凛々が予約している沖縄プリンスホテルに到着し、勇次がチエックインの手続きを行っていると凛々が寄って来て、

「勇次、悪いけどちょっと用事が出来たので、今から出かける。今日は一緒に食事も出来ない」

「なんで・・・どいうこと」

納得出来なかった。

「ちょっと急用」

勇次に言って、フロントの前に居る男の傍に行き一緒にホテルを出て行き、駐車場に止めた黒のベンツに乗って走り去った。

後を追った勇次に、車の中から凛々は「ありがとう。また会いましょう」と無言で言っているような口を作り、勇次を残して車で走り去った。

30歳位の男が運転していた。まさにここでも、風の如く現れて風の如く去って行った。残された勇次は呆気に取られて次の行動が出来なかった。


勇次の頭の中は、二人の関係を巡って錯綜していた。心に埋まり掛けたものが、ポッカリ抜けてしまたように思って沈んだ。

改めて勇次の気持ちの中での、凛々の存在の大きさを知り『何故、自分がそれを阻止しなかった』と後悔したが、その時の凛々の目も『ここは止めないで、私に任せて』と言っているように見えた。

それに従ったと自分の気持ちに言い訳した。今は、その凛々の目が勇次に嫉妬の心を起こさせて、心をかき砕いて熱くなった。

ここで勇次は『真理亜、許してくれ俺は、これから凛々を追いかける』と心に誓った。その心は清々しかった。


 そして何処かから『勇次さん、頑張って下さいね。貴方を見守っていますから』という声が空耳のように聞えた様に思えた。


2.凛々の謎

 

 凛々との出会いとほのかな恋心も凛々が、ホテルで勇次に行った仕打ちと日頃の忙しさにかまけて、いつしか心の中から消え去ったように思った。と言うより自分の気持ちをそのように仕向けていた。

 今一歩、勇次の行動を制御する最大のものとして、男がホテルで凛々を連れ去って、凛々がそれに素直に従ったことにあった。彼女が望まない行動を自分が取る事は避けたかった。自制することを誓った。でも求められたら全力を尽くして答えたいと思っていた。

 沖縄県庁からの指示で勇次が、沖縄県那覇市に戻って、そこでの生活に日常が戻った。沖縄の青い空と陽射しは、モヤモヤした勇次の心を癒すには十分だった。


 昼食時、学生とテレビを見ていると沖縄のIT特区に係わる報道があり、その中で糸満市を積極的に支援する華僑として、那覇国際空港で報道陣に囲まれる林招薫という人物を紹介していた。その男は、凛々を連れ去った男であることを知った。


① 凛々との思わぬ再会

帰国後、勇次は時間を割いて那覇市内久米で開かれる日中文化交流展での招待講演の準備をしていた。この講演会の前段は額面どおり日中の文化交流についての講演会であるが、後段はIT特区を糸満市に設置して新しい文化交流を行おうという内容だった。

糸満市長の尽力もあり有力華僑の進出も確定し、特区指定に一歩前進した感があった。

中国華僑の林招薫は、日本の大学で勉強したこともあり、日本に親近感があり関心を持っていた。

しかし既に、林招薫より前にある種の思惑を持った別の華僑が、このプロジェクトに進出していた過去が有った。

このプロジェクトにはいろんな思惑があり真偽交え、金まみれの匂いがぷんぷんしていた。即ち中央政界の有力政治家と沖縄選出の国会議員および沖縄の建築業界、投資ファンドを巻き込んだ話に発展し、単純な経済政策の域を越えてある種、詐欺事件のような趣を醸しだしていた時も有った。

そして予算も当初の100億円が沖縄振興を口実に200億円と規模が大きくなり、それに連動して嘘と真が巧みに織り込まれて、嘘から出た真になる可能性を含み蛇行しながら前に動いて段々と真実味が増していった。

紆余曲折をへて結局、最初に係わった華僑は活動資金が続かなくて途中で撤退し、その権利を招薫にノウハウ付きで売り渡したのだった。その時には勿論、華僑の好で表の世界が食べやすい形にした。

招薫の参加で質の良いプロジェクトに変化する予定だった。


招薫はこのような経緯と目論見でこのプロジェクトにかかわったが、それは2年前に遡る。

沖縄振興の為の特区構想が持ち上がり、埋め立て地を造成、販売するシンジケートがつくられたが、参加者が少なかった。

そこで、糸満市は沖縄県と友好関係を結んでおり、最初に係わった華僑の人脈もある福建省にキャラバンを出した。

この話にインドネシアで成功した華人で、中国に居を構えた華僑の息子、即ちもとの華僑から見た時の孫に当たる人物、招薫が食いついて来た。この華僑の孫は中国の大学を卒業後、東北大学の大学院を卒業し経済学博士の学位を取得、3年前からビジネスの世界で活動し、そこそこの成果を上げたがそれに満足していなかった。

ここらではっきりと成果と言えるものが欲しかった。

有力政治家が関わり、地域の協力もあることから資金回収も可能と判断してまず20億円の投資を行い、3年で60億円を回収する計画だった。


この資金と振興補助金で海面の埋め立ては順調に進んだが、特区認定がなかなか降りなかった。背景には、日本政界を二分する民政党と自公党という2つの政治勢力の争いと複雑な沖縄県政、経済界の確執が有った。正直、この構想に投資した林招薫は『何で早くきめられないんだ』と焦っていた。

資金回収を急がないといけないと思った。日本の意思決定の複雑さと時間のかかることに辟易していたが、最低でも投資した資金を回収しないと、自分の未来は無いと思っていた。


那覇市で「日中文化交流展」が開催される2週間前、福建省の福州に凛々がいた。そこへは林招薫からの会いたいと言う伝言に従って来ていた。あまり乗り気ではなかったが、凛々の悩みに、親身になって相談に乗ってくれた父親のような存在の男の指示もあり、仕方なく来たと言うのが本音だった。


中国福建省福州市の水上大酒店で、その招薫の使いの男と合い、男は切り出した。

「招薫さんと寄りを戻して下さい」

「何で本人がこないのこんな個人的なことに」

「急に仕事が入って忙しくて」

「私も忙しいから。もう帰って良いの」

凛々は席を立った。

招薫のプライベートなことに、自分が出向かずに部下に対応させるという態度に、自分が傷つきたくないという思惑が見て取れたからだった。出口に向かおうとする凛々に向かって、

「そんなことを言っていいのか」

「何を言うの」

「あなたのお父さんの汚職が表立っても良いんですか」

こう言われても思い当たることはなかつたが、男が、

「アメリカや日本旅行の順番を決めるにあたり、賄賂を貰った」

「それは、誰でもやっているよ」

「でも、権力者に逆らうと汚職になる」

「汚い!汚いね・・・それ」

「それが、現実と言うものだ」

「もうどうなっても良いは」

そう男が言っても凛々はその場を離れた。

この2人のやり取りをちょっと離れた所から見ていた男がいた。凛々が父と慕う男だった。


男は二人の様子を見て埒があかないと見たのか、急ぎ足で林招薫の側近に迫った。

2人には面識が有った。

「国嘉、汚いぞ揺すりなんかして」

「揺すりじやないです」

「揺すりだ。止めないとこの情報出すから」

ポケットから三枚の紙を出し、見せると顔色が変わった。

「陵道鐘さんこの情報はどうされました」

これまでの調子が変わり下手に出た。

ここで道鐘は凛々に先に帰るように言い、素直にその場を離れた。凛々は何かビジネス上の秘密が有るように思っての行動だった。この紙には凛々が想像する以上の秘密があった。


「この紙は凛々から聞いたことを書いた」

凛々がこの場を離れたことを確認して言ったが、内容はでまかせだった。

ここで相手も開き直ったのか、覚悟を決めたのか応じる様子は無く、

「本当に欲しければ、招薫が凛々に直接会って謝れ」

道鐘が捨て台詞を吐いて、その場を離れようとした時に、強引に腕を取って車に押し込んで、近くの海岸まで運んで海に捨てた。勿論、紙は回収した。

翌日、道鐘の死体が発見された。


この事件をテレビニュースで知って、大凡の事態を知っている凛々は、自分の犯した罪の大きさと招薫の取った態度に怒りを覚えた。もう人間が殺される様に係わりたくなかった。招薫に逢って、このことをはっきり自分の口から言わずには居られなかった。

中国は経済的には発展したが、重慶事件でも明らかなように権力者の権限が大きく超法規的な権限を持ち、有る程度警察をコントロール出来た。また、賄賂、口利きが通るのも事実で、“黒を取り締まるためという口実で白”を捕まえることや私腹を肥やし綺麗な女性を愛人にすることも出来た。


凛々は身近なところで色んな事件に遭って、早く中国を出たいと思った。さらに、招薫に逢って事情を聞くためにインターネットで調べると沖縄にいることが分り、急遽、沖縄行きを決めたのだった。

沖縄に着いて直ぐに空港からメールで招薫りに、

【凛々です。ご無沙汰しています。お忙しいのに恐縮ですが、是非とも逢ってお話をしたいと思います】

【分りました。宿舎に迎えに行きます】

招薫から返事が来たので、ホテル名と到着時間を知らせた。それを受けて招薫が凛々を迎えに来て勇次の前で凛々を連れ去ったのだった。招薫の行動は凛々の想定外だった。ホテルのロビーで話せば良いと思った。

車の中で凛々が、

「なぜ、女の人や私の恩人を殺したんですか。あなたのビジネスが大きいことは理解しますが、何故、私の大事な人を殺したのですか」

久し振りの再会とは思えない話を切り出した。

「私のビジネスはクリーンです。凛々の言うことが理解出来ない」

「嘘です。あなたはみんな知っています」

「知らない。私は何も知らない。凛々の考え過ぎです」

「そこまで恍けるのなら私をここで降ろして下さい。早く」

凛々は車の窓を開けて上着を投げ捨てた。それでも停まらないのを見て更にバックを投げた。対向車は驚いてクラックションを鳴らし、これに驚いた招薫は車を止めたと同時に、凛々はドアーを開けて道路を走りだっした。そのまま道路を逆に走って、たまたま来たタクシーに乗って予約したホテルに向かった。招薫は追ってこなかった。激しい雨が降って来て道路に水が溢れた。


昨日のことが嘘のように今日の天気は快晴だった。

そして「日中文化交流展」で、林招薫を筆頭とする華僑グループは特区指定を決めるべく、沖縄政財界の有力者を集めた。招薫は、主賓挨拶の中で更に5億円を投資してビルを建設し、映像デジタル化の会社を設立し、現地の人間を50人採用する計画を打ち出した。この計画で相手の機先を制して一気に優位に立ち特区指定を受ける予定だった。

招薫は背伸びした一杯一杯の状態だったが、この計画に掛けた。

このパーティーの途中、会場の隅で勇次は大人しく一人でワインを飲んでいると、ゆっくりと招薫が向かって来て、どこに行くのかなと思っていると、自分のまん前に来て停まった。

「三宅勇次さんですね」

声を掛けて来たので驚くと、

「これは失礼しました。貴方の事を友人の凛々に聞きましてね」

親しみを込めて言った。

「そうですか凛々の友達ですか」

「そうです。上海の同じ大学で学びました」

更に親しく話をしようとしている時に、秘書らしい人が寄って来て耳打ちをして、それを受けて、

「三宅さん。また、ゆっくりお話をしましょう。あなたとはこれからも色々有ると思うので、会えるのを楽しみにしています」

笑顔で言い残して、その場を離れた。

勇次は招薫が、自分と凛々の関係を知っていたことに胸騒ぎを覚え、あの時の男に間違いないと確信し心が乱れた。


こんは気持ちを紛らわせるためにワインを煽っていると「三宅先生、ちょっと飲みすぎじゃないですか」と言いながら親しそうに寄って来る女性がいた。

勇次は、でしゃばりとしか言えない女性を、まじまじと見たが見覚えは無かった。

「先生、思い出しません。私、東山大学で先生の後輩でしたの。手紙も一度、頂いた事が有りましたけど」

そう言われても思い出せなかった。

「それはどうもすみませんでした」

勇次が恐縮すると、

「勇次さん、そこが可愛いですね。私、ミス東山大学と言われてモデルもしていました」

此処まで言われて、勇次はやっと思い出した。

「そうか青田、あのう・・由美子さんですか」

「ピンポン、ぴんぽん、ピンポン。正解、先生、思い出されたところで昔の好で一緒に乾杯していただけません」

手際よく新しくワイングラスを持って来て、二人で乾杯して話に移った。パーティーから離れて、庭のテーブルに出て二人は盛り上がって携帯番号とメールアドレスを交換した。暫くして由美子の携帯に着信が有り二人の時間は終わることになった。

「先生、ちょっと用事が出来ましたので今日はこれで失礼します。楽しい時間を持つことが出来ました」

「この貸は大きいですよ」

有事が言うと笑顔を返した。


パーティー終了後、側近が用意したホテルのラウンジの個室で、招薫は有力政治家と地元選出の国会議員と密談していた。

挨拶もそこそこに本題に入った。

「民政党幹事長の岡本先生。本当に大丈夫なんですね」

まず招薫が切り出した。

「武士に二言はない」

「そんな抽象的な話では前に進まないと思いますけど」

「日本人は嘘つかない。日本ではあんまり細かい事を決めるより信頼関係で決めるんです」

威厳を持って言った。

「先生の思いを書面に残して頂けませんか」

それには憮然とした態度で答えず、更に招薫が、

「お願いします」

再度、迫っても答えず大きな声で、

「先生・・・お願いします」

招薫がある種、一喝するとやっと、

「そんなもの書けるか」

感情を露にした。

暫く時間が経過し、両者が冷静さを取り戻してからも、書く書かないのやり取りがあって、結局、岡本が根負けして書面に残す事になった。


まず、招薫が、[特区の決定を約束します]と書き、その横に2人の名前を書くように要求した。

「これでは書けないな“特区の決定に努力します”にしてくれ」

岡本が言うので、そのように書き直した。

それでもさすがに、岡本幹事長はサインするのに躊躇したが、事前に聞いた秘書からの『今回の大パーティーを聞いて相手は降りた』という確かな情報を聞いたのでサインしたが、微かに手が震えているのを招薫は見逃さなかった。

幹事長に促されて国会議員もサインし、その場で、招薫は更に1億円の現金による献金を行った。さすがに領収書は貰わなかった。


招薫は今回のやり取りにある仕掛けをしていたが、勿論その内容は明かさなかった。

話しが上手く進んだ事に気を良くした岡本幹事長は携帯電話で連絡して、

「良いところを設けましたので、私の友人と林先生と3人で一緒に飲み明かしましょうか」

笑顔で招薫に言ってロビーに出て、岡本が指定した場所に向かった。

其の場所は、車で10分の所にある会員制の高級クラブだった。

店に入ると、個室に通されそこには、かって一世を風靡した菊池桃子似の女性が待っていた。招薫の心に黄色い向日葵が咲いた。さっき勇次と別れた女性だった。

「林さん、青田由美子です。宜しくお願いします」

笑顔で言った。


林は由美子の癒し系の愛らしさが気に入った。目は切れ長で目頭には切れ込みがあった。また長い眉が目を優しくしていた。全てを優しく包んでくれそうな雰囲気があった。招薫が予想したように由美子は話しやすい女性で話は盛り上がった。

2時間があっという間に過ぎて、岡本が突然「今日はこれ位にしましょうか?」と言った時にはもっと一緒にいたいと思った。

「もう少し、このワイン瓶を飲み干してからお開きにしましょうか」

「ええ良いですよ時間は幾らでも有りますから」

「ありがとうございます」

こんな会話が有り、ワインが無くなり心を残しながら招薫は由美子と別れた。こんな思いを持ったことは久しくなかった。

いい感触で3人は分かれた。

招薫はこれまでの不満を吹き飛ばすことが出来て、少しは鬱積したものが取れた。


ホテルに帰って部屋に入って、岡本は招薫が満足した様子を思い出して含み笑いした。

「由美子、ありがとう。さすがだな。お前にデレデレだったな。これからも宜しく頼むよ」

由美子に言って次いで、

「これからは俺たちが楽しもうか」

手を取って二人で風呂場に消えた。

由美子も無言で素直に従った。


浴室は3畳程度と広くて窓もあり開放感があって、二人をリラックスさせた。二人はこれから起こるであろう大胆な行動を想像して体が燃えて来た。一緒にシャワーを浴びてシャンプーの原液を手に付けて、お互いの大事なところを互いに洗い合った。

シャンプーが手に解けて、相手の大事な所が、泡で隠される様が卑猥にもファンタジックにも見えて、手への絡みが心地良く、まず岡本のものが素直に反応し、次に由美子が声を上げてしなやかになった。ここで由美子が湯船に誘い、向かい合って座った。お互い自分の思い思いの思惑と算段で相手の体に触れた。マッサージされているようで心地良かった。

岡本がシャンプーの原液を湯船に入れて拡がり、泡が湯面を覆った。

「さー行こうか」

「OK」

交互に声を掛けあって戦闘開始である。岡本の膝に由美子が座るような形で挿入した。いつもの由美子のあれは固くて狭いが前義とシャンプー効果で案外簡単に入った。岡本が動くと擦れて由美子の中からシャボンが出て、動きに合わせて泡が湯面に更に出来た。

それを見て二人は笑った。そのままでキスして、岡本が両手で激しく収まりの良い乳房を掴み、最後に乳首を摘んで遊んだ。

興奮した声が発せられる事無く冷静に、

「私の大事なもので遊ばないで」

「これは俺のものだな。違うか」

「いやそれは私のものだよ」

言葉でじゃれあい。二人は段々と興奮してくるのが実感出来た。でも今日は二人とも普通にここで終りたくなかった。もっと刺激が欲しかった。


岡本は由美子を抱きかかえて体が濡れたまま浴室を出て、バスタオルを敷いてその上に由美子を置いた。最初、床の固さに違和感が有ったがそれにも慣れた。

岡本が首から胸、更に大事な所を舌でなめながら、指で乳首を弄った。数分も同じところを攻めると由美子から声が漏れ出した。

「あああ・・・そこそこそこ・・・いいい・・いいい」

「おおいいぞいいぞ、由美子その調子だ・・・いいか。いくぞ・・」

「あああ・・・あああ・・」

「いいぞいいぞ、そこを締めろもっともっと。いつものようによしよし」

岡本の声に由美子が反応した。

「おお良い感じだ、絡みついて締まってきた。ああ・・・・いきそう・・・いくいく」

「きたきた・・・きた・・・きた」

「まだだ・・・・まだだ・・・由美子頑張れ・・・・・もっと」

「ああ良い・・・きたきた来るくる・・・きた」

由美子からこの言葉が発せられた時、この余韻を楽しむため少しペースを落として留まってから身を解いた。


ここからが、岡本の得意技の発揮だった。まずは、膣の周りを舌で一周して、最後にクリトリスを十数回舌で転がし、皮膚が柔らかくなったのを確認して素早く右手の中指と人差指でクリトリスを剥いた。

これにはチョットした工夫が必要で、ここでも二人の相性は良かった。クリトリスを剥くと言っても、クリトリスの皮を単純に下げるのではなく、クリトリスの周りを指で少し摘み上に持ち上げてから自然に下げる。この塩梅が言葉では表現が難しい程に微妙で、言い換えればチャックを上げる時に、一度下に降ろして、その反動で上げれば上手く行くように、女性のクリトリスを剥く事が出来る。この按配は女性によっても独特の癖があり、勝手知ったる由美子の場合、それは案外容易だった。

このテクニックがマスター出来るか否かでセックスライフと相性が大きく異なる。いわゆる岡本と由美子は相性が良かった。

次に、岡本はクリトリスを舌で上下に連続して舐めまわすと小指程度に成長した。岡本は、舌を尖らせるようにして、早く動かすと、由美子は大きく体をのけぞらして左右に振り、声を出して反応した。

「ああん・・・そこそこそこ・・・・いい」

「あああ・・・・っききた・・・きた・・・・。もっと・・・きてきて」

こんなことを言っているかと思うと、

「ううう・・・・。あああ・・んん・・・。いいねいいいね・・こっこっこっ」

よがり声と共に音も出た。あの由美子の口から発せられているとは信じられなかった。それに構わず、岡本は冷静にクリトリスの右上あたり即ち、時計の12時から3時のあたりを集中して責めると更に声が大きくなった。もういわゆるイク寸前だった。

「由美子、いいか」

「いいい・・・いいいい・・・もっと続けて・・・・いい」

由美子のこの声に励まされた。

舌でクリトリスの同じ位置を根気良く愛撫した。岡本は経験的に、女の興奮を継続されるには、途中で方法を変えないことが大事な事を知っていた。由美子も途中で愛撫の方法を変えられるのが嫌で、それをされてしまうとせっかくイキそうだったのにイケなかった経験があった。その点でも二人の相性は良かったといえた。


あにはからんや由美子の動きは大きくなり、体をくねらせて口からは意味の分らない声を発し、自分で自分がコントロール出来ない状態になっていた。

「また来たまたきたきーたー。早くきて、そしてもっともっともっと突いて、突いて・・・いいよ良いよ」

岡本は催促され行動に移した。

一物を静かに深く挿入し、襞が絡まり付くのを待って、それを引き抜くように一気に上下運動を一定のリズムで開始した。それが不規則に三十数回に及んだ時、岡本の動きが早くなり、由美子の襞の収縮が最大に達し、岡本から由美子の中に精液が放出されて、弱々しく由美子の体に沈み込んだ。

直ぐに岡本が由美子から離れると、由美子の膣の中から岡本のものが勢い良く流れ出した。それを心地良く思うかのように、床の上で不連続な痙攣を繰り返して余韻を楽しんだいた。


岡本と由美子の官能的な情交を知る術も無く、由美子への思いを残し招薫は満足して沖縄を離れたが、事は招薫が思ったほどには上手く動かなかった。というのは、糸満市にIT特区が決定することは決定的と思われたが、「日中文化展」が開かれた1週間後に、沖縄の代表的新聞である“沖縄新報”がIT特区決定に対する黒い噂を伝えた。

黒い噂は、岡本幹事長、招薫陣営のものではなく、沖縄の地元事業家が特区認定を受けるために県会議員に賄賂を贈ったという内容だった。誰かが内部情報を漏らしたとしか思えない内容だった。

この県会議員は次回の選挙で引退すると思われていた議員で、裏に有力代議士がいると新聞には伝えられたが結局、有力代議士は特定されなかった。

その後、紆余曲折は有ったものの特区制定に関する最終決定は、特区を巡るこの黒い噂がマスコミ、雑誌にセンセーショナルに伝えられたことによって流れてしまった。

岡本は、この決定に『また金が引ける』とにんまりした。彼は事業の成否には関心が無かった。


招薫は上海の事務所への電話で岡本幹事長から決定が、反故になったことを聞かされた。表面上は岡本に責任は無いが、結果として招薫には最悪となった。

憤懣やるかたない招薫は、

《今後の方針を教えてくれ、それが出来ない場合はこれまで投資した30億円を返すように。それが出来ないと私にも考えがありますよ》

《俺を脅すのか》

《私も鬼になる時は鬼になりますよ》

想定以上の詰問に岡本は、適切な答えを用意することが出来なかったので、話はこじれたが苦し紛れに招薫へ《今後の対応を早急に話し合おう》と提案し《わかった。そうしましょう。いい答えを御願いします》と返事を返した。

岡本には、最初、強気だった招薫が簡単に了解したのが意外だった。何か裏が有りそうに思えて不安を覚えたが、直ぐに打ち消した。

岡本には『何か秘密の情報を、これまでの投資額である30億円で買い戻すことを迫って』いるように思えた。

着込まれ答えに窮した岡本は招薫の提案に乗り、2週間後に再度、招薫に沖縄訪問を促し、交渉することで、当面の窮地を切り抜けた。

その間に招薫が満足する答えを用意しようと考えた。


招薫が沖縄訪問を決意した背景には、ビジネスを立て直したいという思いもあったが、ここで凛々に再び逢いたいという淡い思いも有った。勿論、由美子にも興味が有った。

この電話の前に、凛々から“沖縄でなら逢っても良い”という返事を電子メールで貰っていたので、岡本が驚くほど簡単に沖縄で密会する事を了解したのだった。


【凛々、お元気ですか。この前の件、状況が分りましたので説明したいと思います。逢っていただけますか】

【了解しました。誠意を持って回答して頂けるのなら、沖縄でお会いしたいと思います。きっちり回答下さいね】

こんな経緯で二人の沖縄での再会が決まっていた。


かって凛々と招薫は誰もが認める相思相愛の関係だったが、招薫の両親に最終的に『凛々は、養女で素性が確かでない』と言われて、招薫の元を去った過去があった。この行為は自分が両親の本当の子供で無いことを知って、落ち込んでいた凛々に更に追い討ちを掛けた。


この時、凛々は気持ちを紛らせるために、ある程度のことは知っていたが、両親を責めて真実を聞いて、自分が福建省の福清から生まれて直ぐに1万元と金の指輪3個で交換されたことを知った。両親は買ったのではなく、お礼に渡したと言ったが素直には聞けなかった。

自分を買った親より売った親が憎らしかった。恨んだ。なんらかの形で仕返しをしてやりたいと思った。幸か不幸か本当の親の名前は言ってくれなかった。

そして、筋違いではあるが、この厳しい現実を知るきっかけを作った招薫を恨んだ。こんな過去が有った。過去と言うにはまだ年数が不足して醸成されていなかった。

今では、凛々は腹立ち紛れに両親に迫った事を恥じて、自分の幼さを知り恐れ入っていた。以後、自己研鑽と両親への孝行に励み、両親は自然体で凛々を受け入れた。


勇次は沖縄への復帰後、大学での生活にもリズムが出来て、やっと落ち着いて本格的に研究が出来る状態になったが、思わぬ出来事が起こった。

またしても凛々がアポイントも無く突然、大学に勇次を訪ねて驚かせ、予定していた大事な会議をキャンセルさせた。仕方なく同僚に代理出席を頼んで、凛々にはそのことは、おくびにも出さずに明るい声で、一緒に食事に行こうと誘った。

凛々の行動は全く、想定外の出来事だったが許した。

「何で来たの」

この問いかけに返って来た答えは、

「邪魔・・・私は」

「そんなことないけど」

「無性にあなたに逢いたかったから」

「本当に、ありがとう」

そして勇次が、抱き寄せると胸の中で、

「これから私は、沖縄で生活して勇次の大学に行く」

凛々が宣言した。

此のあたりのやり方が、真理亜が福州博物院に勇次を訪ねて来た様子と似ていることに驚いて、受入れざるを得ないと思った。というよりは余りにも、凛々に惚れていたから素直に受け入れる事が出来たというのが正解だった。

食事後、凛々は、

「じゃあこれで。また連絡します」

立ちあがって勇次に言って、後ろを振り向くこと無く、前を真っ直ぐに見て歩いて行った。残された勇次は気持ちが急速に萎えて行くのが実感出来た。この日は、凛々が招薫とメール交換をした日だった。


凛々と招薫の2人が会う日の朝、岡本幹事長と招薫の双方の代理人が、ホテルで事前交渉を行った。

なお、林側の代理人は福州で凛々の恩人を殺害した国嘉であるのも何かの因縁だった。

岡本は、此処は金でしか解決出来ないと考えた。

双方の思いを持って、前回の会談時の念書とICレコーダの記録と引き換えに2億円が招薫側に渡された。

 別れ際に岡本の代理人は「分かっていると思うが、これ以上の要求は組織が許さないから。分かってもらえますね」と念を押せば「分かっている。コピーは無いから安心してくれるように先方に伝えてくれ」と返した。


このようにして和解の交渉がもたれた。招薫側代理人の男すなわち国嘉は、招薫にはもう先はないと見限り、招薫を裏切り、この金を持ち逃げすることを考えていた。福建マフィアでは裏切りは考えられなかったが、心の箍が緩んでいた。それでもDNAでマフィアの恐ろしさを知っている男は岡本幹事長側からの襲撃事件のように工作するために相手側の男を殴って完全に気絶させて部屋の真ん中に置いた。


なお、国嘉は日本のヤクザを殺して金の持ち逃げを図るため事前に緻密な工作をしていた。即ち、国嘉は市内で浮浪者を捕まえ、拳銃で殺害し自分の指輪と竜の飾りのベルト、財布を持たせ、服を着替えさせ、ひげを剃って、死体を大きな洗濯物入れ用のカートに入れてホテルの階段下に置いた。


そして、事前に階段下に置いていた浮浪者の死体を自分の身代わりにして、ベランダに置きガソリンをかけ火炎瓶を投げて死体を焼き、完全に焼けたことを確認してから、先に気絶させたヤクザを中心に部屋にガソリンを撒き、容器を置いてドアの近くから火炎瓶を優しく投げて、火炎瓶の操作を誤ったように工作した。勿論、浮浪者を撃った拳銃をさっき殺害したヤクザに持たせ、証拠隠滅のため奪った金の半分を置く工作も行った。ガソリンへの着火を確認して、死体の異動に使ったカートを持って部屋の外に出て、階段で2段下の階に降りてカートを階段下の隅に、自然を装って置いて更に階段を徒歩で降りた。途中で火災を知らせる警報機が発砲して、ホテルのスタッフが走って現場確認に向かい、館内放送が繰り返され錯綜した雰囲気になった。

この騒ぎの中を国嘉は、悠然とホテルの出口から出て行き坂道を10分位歩いて大きな道路に出て、そこから更に20分歩きバス停に着いて来たバスに乗った。駅前で降りてタクシーに乗って市街地に入り、更にタクシーを乗り継いで那覇港に向かい、一時間後に出港する石垣島行きの船に乗った。

ここでやっと緊張を緩めた。敢て搭乗記録が残る飛行機を利用しなかった。


このようにして、国嘉は自分も殺害されたように工作して金を持て那覇港に向かい、定期航路の船に乗って石垣島経由で与那国島に向かった。この島から盗んだ漁船で親戚がいる台湾に向かい、整形後に偽の戸籍を入手して暮らす予定だった。

翌日の夕方、石垣島に着き、翌朝には与那国島に到着した。茂みに隠れて台湾に向かう為の船を物色した。

国嘉は漁師の家に育ち船員をしていたことも有り船の操縦には精通していた。皆が寝静まった朝4時に狙いを付けた船に乗り込んだ。この島では通常、船のキーは外さないか、外して近くの引き出しに無造作に入れていた。


国嘉が乗り込んだ船もあに図らんや、舵の右下に置いてある箱の中にキーが有った。

鍵をエンジンキーに入れて右にまわすとエンジンが掛かり、男の顔に微笑みが漏れた。唯一、燃料が半分しかないのが気掛かりだった。あとは巧みに船を操り、港を出て西に向かえば、5時間程度で台湾に着く。

 一息ついて安心したのもつかの間、段々と波が高くなって、自分の思う方向に進めなくなった。馴れない国で月も見えず、更に乗り慣れていない船だったので操作に気を取られて、途中で方向を見失って、更に波も高く全く思った方向に進めなくなった。男は焦ったが、燃料も少なくなったことから台湾に進む事を諦め、与那国島の明かりが見える方向に向かって進む事を選択した。

 これは正しい選択で前に進んでいたら強い低気圧に巻き込まれていて遭難するところだった。

 港に戻った男は、疲れて海岸で眠っているところを島の老婆に発見されて、日本語が分らないことを隠すために記憶喪失を装って老婆の優しさを利用する事にした。

凛々と招薫、凛々と勇次が逢った日の夜から長くない時期に、沖縄から遠く離れた離島でこのような事件が起きていた。


那覇市内での殺人事件を受けてトップ会談は中止になり、危機を察知した岡本幹事長は警察と地元ヤクザの厳重な護衛を受けて直ぐに島を去った。招薫も早く島を出たかったが、状況を見守りたいとの思いと共に凛々に逢って謝りたいと思ったので、それは出来なかった。


勇次と凛々は那覇市内の国際通りと牧志市場を楽しんだ。子供の頃に返っての立ち食いが面白かった。

「これ中国にもある」

「とんこつラーメン。最近、中国でも人気ある。ケイハンはないの・・・」

「鶏飯は奄美のものでここには無い」

「琉球と奄美は違うの・・・・違うね」

「ちょっと距離が離れている。こんど連れて行くから」

凛々から笑顔が返って来た。

「何かプレゼントが欲しい。ネックレスとか・・・良いかな」

突然、凛々に言われ躊躇したが、国際通りの宝石店に入って、沖縄黒真珠のネックレスを買った。3万円は痛かったが、凛々のほっぺへのキスは痛さを忘れさせてくれるのに十分だった。夕食を誘ったが、用事が有ると言って断わられて別れた。盛り上がった気持ちが急速に落ち込んだ。凛々には特別な用事が有った。


同じ日の夜、凛々は市内の沖縄グランドホテルの片隅で男性と会っていた。男は勿論、招薫だった。勇次と別れた凛々はその足で、このホテルに来た。招薫と逢う前に勇次と逢ってパワーを充電しておきたかった。

「元気」

「お陰様で」

「新しい恋人出来たの」

「ええお陰様でどうにか」

「良かった」

「ありがとう」

「あなたには幸せになって欲しいから」

招薫は日本語に堪能だったが、なぜか日本語と中国語で話し合った。

お互いに短い言葉のやり取りで中々、心の距離は縮まらなかった。もう凛々には全くその気が無かった。首に有るネックレスがそれを表現しており、招薫も理解した。昔、凛々に婚約祝いとしてダイヤのネックレスを贈ったことがあった。


暫く雑談した後に、凛々は今日逢った目的の一つである、福州での凛々の信頼する男の死について招薫に心当たりが無いかもう一度問いただした。

凛々の話を聞いた招薫は、一言、

「知らない。私の組織の行為ではない。でも、凛々の心の痛みには申し分けないと思う。俺に力が有ったらこんな事にはならなかったと思う。俺を怨んでくれて良い」

「嘘、知っているんでしょう。あなたに指図されたんでしょう」

「違う。私はそんな卑劣な手は使わない」

「信じられない」

「凛々には信じて欲しい」

「じゃあ聞きますけど、何故、自分で来なかったの」

「すまない。急用が入ってしまって」

これは事実で、この時、父親からの急な呼び出しが有り父からの呼び出しは断われなかった。

「忙しいのは分りますけど、寂しかった。女の子に取る態度じゃないと思いますけど。普通、そんな事します。そうだね、あなたは普通の人じゃないから。また昔を思い出して悲しかった」

凛々が言ってから涙するので、招薫がハンカチを渡すと、それで涙を拭いた。拭きながら、ちらっと見た招薫の眼にも、大粒の涙があったのを知って心が開いた。

更に招薫は凛々を見て、

「本当にすまない。これで許してくれないか。本当にすまない」

吐き出すように言った。

この時、凛々は招薫の心の痛みを知った。

招薫も出来れば、凛々に本当の事を話して、自分と一緒に居て欲しいと言おうと思ったが、背負っているものが多くて、気持ちを素直に切り出すことが出来なかった。

そして、凛々の雰囲気に新しい恋の芽生えを読み取ったのだった。

こんな時に自分が傷つくのを恐れて、一歩踏み込めないのが招薫の弱みだった。性格は変わっていなかった。


ここで、凛々が助け舟をだした。

「分った。もうこれ以上は話し合う事はないので」

招薫に言い残して、凛々は席を立って出て行こうとしたが、

「ちょっと待ってくれ。もう少し話し合おう」

招薫は立ち上がって手を取って、凛々を引き戻した。

椅子に座った時には、沖縄の空気と夕陽がそうさせたのかも知れないが、招薫の涙を見て凛々の怒りは幾分収まっていた。

それを受けて招薫は「もう俺たち駄目なのだろうか」と聞くと、凛々は無言で「・・・・・」

二人の関係はこれ以上に進まず、凛々との関係が修復出来ない事を悟った。

少しの時間が有って、吹っ切れた招薫は、別れ際は綺麗にしたいと思って、

「これを受け取ってくれないか」

ヴィトンのバックと一縷の望みを託して、宝石と金で出来た携帯電話を差し出した。

予想通り凛々は興味を示した。

「これ何なの・・・」

この言葉とは裏腹に次の言葉を待った。

「捨てないでくれよ友情の証として大事にしてほしい」

招薫が言った。

「これ貰っていいの本当に、何か思惑はないよネ」

「友情の証として」

屈託なく言うので、

「ありがとう。超嬉しい」

凛々は体一杯で嬉しさを表現して受取った。

実は、招薫はある思いを持って渡したこのカバンには秘密が有ったが、それが分るにはまだ時間が必要だった。


招薫は事業の失敗で気持ちは沈んでいた。しかし、凛々に直接逢って自分の気持ちを素直に伝えたことで、気持ちは軽やかになった。これでこれからも厳しい世界で生きて行くことが出来ると思った。

彼にはこれから厳しい現実が待っていた。多くの手持ち資金が回収出来なくなり、それにもまして当面、屈辱的なのは、かっての部下の下での活動が続くことだった。凛々への思いを伝え、心の整理が出来た事で、屈辱的な下働きも今は修行と考えて甘んじて受ける心の準備が出来た。


凛々はしっかりとプレゼントを持って「じゃあ私はこれで、お互いに道は違うけどしっかりやりましょう」と笑顔を返すと、招薫は抱き寄せたいという気持ちが高まったが、それも今の関係を考えると出来なかった。

去っていく凛々を静かに見送るしかなかった。分かれた昔の彼女と逢う事については色んな意見が有ると思うが、今日は逢って良かったと思った。

男は恋を連続の中で考える、いわゆる編年型であるが、女は紀年型、すなわち出来ごとで考えることを招薫は理解していなかった。


凛々は今の気持ちを断ち切りたいと、招薫と分かれて直ぐに、携帯で勇次に連絡して「逢いたいと」と告げると、最初は動転したが明るい声で「まだ、さっき逢って分かれたばかりなのに」と勇次が返して凛々が「私と合うのが嫌ですか。じゃあもう良いです・・・嫌い」と凛々が言うと即答で「分った。1時間後に沖縄プリンスホテルのロビーで逢おう」と元気で明るい声が凛々に返って来た。

声のトーンと1時間後に逢おうと言うところに、勇次の気持ちが現れていた。

もうこの時、凛々は、一目散に新しい恋に向かって突き進んでいた。


暫く後、沖縄プリンスホテルの喫茶室で凛々と勇次が、楽しそうに向かい会って話し会っている姿があった。

「急にどうしたの」

「貴方に今日、たまらなく逢いたくなってここに来た。私の気持ちどうしてくれる・・・・て嘘・・・・嘘だね」

凛々は言って一人で笑いながらじゃれた。

その仕草がたまらなく可愛かった。

「本当に不思議な人だね。あなたは真理亜の幽霊?」

「そう幽霊で・・・・す」

声色を作ってふざけ、苦笑して、勇次が行きつけにしている沖縄料理店「琉球料理乃山本」に行った。そこで琉球料理と伝統芸能、舞踊や民謡を聴きながら食べた。ちょっと落ちついた久米にある、この料理屋が勇次は好きだった。友人の評判も良かった。

まず、凛々が沖縄グラスに入った泡盛を持って「久米にカンペイ」と言って会食は始まった。肝心の料理は、ゴーヤーチャンプル懐石で、凛々は沖縄そば、沖縄豚を使った郷土料理、島豆腐を使った料理、その他には沖縄で取れた食材を使った料理としてヤシガニのボイルやセミエビの活け造を美味しそうに満面の笑みで食べた。

凛々は、満足したが相場より安いとはいえ一人1万円は正直痛かった。


二人は帰りに大きいサータアンダギー5個をお土産に持って帰った。

食事中にどんな会話をしたのか覚えていないが、時間が早く過ぎたので、楽しい一時だったことに間違いなかった。

歩きながら勇次は「明日も逢っていただけません」と聞くと「ええいいですよ。オジャマじゃなかったら。宜しくお願い致します。24時間いつでもOKです」と返事があって、勇次が微笑みを返して明日のデートが決まった。

「何故、笑うの・・・・・・」

凛々が聞くので、

「真理亜も同じことを言った。24時間いつでもOKとね」

これを聞いて今度は凛々が笑った。


その夜、勇次が自宅でテレビを見ていると「久米ホテルで二人の男の死体と現金が発見された」と報じていた。更に翌日のテレビでは、「一人は日本人で、ホテルの部屋で中国人らしい男と逢った後に殺された」と報じたが謎の多い事件だと締めくくった。続報として、日本と福建省のヤクザ同士の金銭を巡る何らかのトラブルによる仲間割れか・・・・。と考えられる報道をした。

夕刊には、『死んだ日本の男は、沖縄のヤクザで中国人に関する情報は、紙面によってコメントが別れていた。ある新聞は投資家と伝え、テレビ報道では福建マフィアの構成員と書いていた』  

このコメントは、どちらも正しかった。凛々も知るこの中国人は、二つの顔を持っていた。

新聞を読んだ勇次はこの記事を見て驚いた。心の片隅に『なんで凛々の近くでこんなに殺人事件が起こるのか不思議だ』という思いが雲のように広がり、段々とそれが胸一杯に満たされて、眠れなくなってしまい朝を迎えた。

 凛々本人も招薫の闇の大きさを改めて知った。


こんなこともあって翌日、勇次は親しさも有り、逢った時に挨拶もそこそこに凛々を激しく攻めた。

「何か知らないの。告白はないのか」

「何の事!」

「昨日の殺人事件。久米ホテルの・・・」

「それ何・・・」

凛々は惚けた。

「なぜ凛々の回りでは殺人ばかり起こるんですか」

「私にも分からない。もし分かったら教えて欲しい。なんで私を攻めるの。偶然かも知れないし」

「あんたは何か知っていないのか」

勇次に聞かれて、少し間を取って

「私は何も知らない」

凛々が答えたが不思議に思って、

「お前は絶対知っていると思う。さっき鼻の横が動いた」

真理亜が嘘をついた時と同じ癖を見抜いて迫ると、

「貴方にお前と言われる筋合いはないね。あんたの奥さんでも彼女でもないだからね」

凛々が強がったが、劣勢と見て堪らずに泣いた。

慌てた勇次は、

「すまん。ちょっと・・ちょっと言い過ぎた」

狼狽して謝ったが、もう凛々は聞く耳を持たなかった。暫くの沈黙があり、勇次が海に行こうかと誘っても、マクドでランチしようと言っても無言で、挙句の果ては、

「私、楽しくないからもう帰る。もう連絡しないで下さい。さようなら」

「分った。俺も帰る。これまでありがとう」

2人は喧嘩別れになった。


別れて直ぐに、勇次は少し強引だったと反省し、凛々も悩んでいた。気持ちの中では知っているすべてを明らかにしたい思いも有ったが、それを聞いた勇次の心の負担が心配だった。本当はもう逢わないほうが良いのではと思ったが、お互いに逢いたいと思う心を抑えることが出来なかった。


これの気持ちが動いたのは約2週間後だった。凛々は目敏く、沖縄との関係が深い那覇市内久米にある中国語の翻訳会社に就職して、来年の沖縄先端技術大学の大学院への入学を目指していた。

凛々から突然、

【福建に帰るので一緒に行って欲しい】

勇次にメールが入った。

気持ちとしては『なんで俺が一緒に行かないといけないの、俺も殺すつもりですか・・・・お前』と返したいと思ったが、さすがにそれは刺激的過ぎると考えて止めた。

俺ってそんなに暇と思われているのかなと考えたが、頼ってくれたのが嬉しかった。

【何しに帰るの】

【それは秘密、行ってからのお楽しみ。後悔させませんから期待して下さい】

【分った。楽しみです。調整します】

【ありがとう】

【覚悟して行きます】

福建では、ここでの言葉通りに殺される位の覚悟が必要だったことを知る事になるが、

【意味分らない。何で・・・】

凛々から返って来たが、この時は平凡に、

【分かった。詳細連絡下さい】

勇次が返して、5日後に上海経由で福建省に行くことになった。


時間の関係もあり上海で二人は待ち合わせた。最初は無言だったが、市内観光を楽しんだ頃から、ぎこちなかった会話が成立するようになった。特に上海タワーと豫園市場が面白かった。楽しそうな雑貨が日本の十分の一程度の値段で買えた。ついつい欲しいもの以外の物まで買ってしまった。買い物の途中から凛々に落ち着きが無くなった。

「どうしたの」

「どうもないよ。でも早く福州に行きたいな」

この場所を離れる事を望んだので其れに従った。

勇次も誰かに見張られているように思ったが、気のせいと意識して気にしないようにした。

そして思い出が甦った。凛々が少し距離を置いたので、気に障る事でもしたかと勘ぐった。


凛々の希望を入れて、上海から空路福州に入りレンタカーに乗った。福清市内に入った途端に、それを待っていたかのように知らない車に追いかけ回された。真理亜ともこんな事があったと鮮明に思い出した。

しかし、ここは道が広かった。その分スピードが出て迫力が有った。それでも車との接触、屋台との衝突があり人が、逃げ惑う中でのカーチエイスになった。不意を付かれてハンドリングを誤った車が仰向けにひっくり返り、単車が2台スリップして衝突した。通報でパトカーがサイレンを鳴らしてカーチエイスに加わったがハンドル操作を誤って信号機に衝突して離脱した。やっと市街を過ぎ遠くで複数のサイレンが鳴っていた。

しかし、勇次と追い掛ける車の両者には運転技術に格段の差があり、肝心の勇次にその気が無かったのでいくら凛々の、

「早く逃げて、逃げて・・・もっと早く」

必死の声援を受けても勝負は歴然だったが、凛々がバッグの中身を車に投げたことと、狭い迷路に入ったことで状況が変化したように思えた。追い掛け回されて少し逃げたが、車が追い越して勇次の車の前で止まり、もう駄目だと思った時に何処かから銃声がして、追いかけていた車の運転手の頭に銃弾が命中した。

まさか、ここで勇次の目の前で殺人が起こるとは、思っていなかっただけに衝撃を受けた。


「早く、車出して逃げて。早く動かして。早く逃げないと・・・ダメだからネ」

ここで、凛々が動転して動きが止まった勇次に、冷静に言ったが、

「警察に連絡しないと・・・・どうしよう」

勇次が躊躇した。

「早く私の言った通りにすれば良いの。早く、分った」

ピシャリと言ってのけて勇次を従わせた。

その言い方には反論する事を許さない厳しい響きがあった。

暫く走って追ってこないことを確信した二人は、公園の茂みの中に車を止めた。そして多分、運転手が殺害されたであろう場所を離れてホットすると同時に、殺人を見た興奮を抑えるために二人は、車の中で抱き合い長いキスをして気持ちを落ち着かせた。

興奮が収まってから勇次は、福清での定宿にしている君悦大酒店に向かった。一人だけチエックインして、後で凛々を招き入れた。今でもこのあたりは高級ホテルでも融通が利くのが中国流だった。


部屋に入ってから何も言わずに大きな硬いベッドで、抱き合い一瞬の高揚の後に、また一人、自分の目の前で凛々に関係して人が殺された事を勇次が迫った。

テレビを見ていた勇次が、

「凛々、お前の知っている人がまた殺された」

この言葉で凛々が躊躇しながらやって来た。例の運転手だった。警察は現場から走り去った車を捜していると言った。

「私じやないです」

「わかっている。今日は、俺と一緒だったから」

俺が証言してやるから警察に出頭しようと説得して、勇次が警察に携帯で電話を入れた。

警察が来る間も、

「お前、何か心当たりはないのか」

「また、お前て言った。心当たりは全く無い、無い、無い」

「いや知っている。知ってるだろう」

二人が言い合っている時に、警察がやって来て連行された。


しかし、警察も決め手が無いのか、少しの事情聴取の後に勇次は直ぐに、少し遅れて凛々が解放された。パトカーでホテルまで送って貰って、今日は警察が護衛するから部屋から出ないように言われた。

戻ったホテルの部屋の中で、凛々への勇次の聞き取りが行われた。このヒアリングは警察にも勝るとも劣らないと思われる執拗さを持って行われた。追求は、招薫との関係から行われた。

勇次の追及に、凛々は「凛々と林招薫はかって恋人同士で婚約したが、親の反対で破談になったことを告白し、沖縄で勇次と会う前に招薫とも逢って、別れの記念にルイビトンのバッグを貰った」と言って実物を見せた。

勇次は、バックになにか仕掛けがあると思って調べたが、何の変哲も無い普通のバックだった。そしてルイビトンのバックの良さが理解出来なかった。自分が持つ財布の良さは理解していた。

ここでも凛々は今使っている金地金に、宝石をちりばめた趣味の悪いアイフォンが招薫からのプレゼントである事は言わなかった。これは後に幸運の産物になる。


勇次は凛々を質問攻めにして傷口に塩を塗りこんで、過去を思い起こさせたことに罪悪感を持ったが、謝る適切な言葉を持っていなかった。時間が解決してくれのを待つしかないと、自分に言い聞かせた。凛々も勇次の心を理解した。


②幹事長の苦悩と明華の協力

勇次は、実家に帰る凛々と分かれ、福州のかっての職場に挨拶して、中国の友人と会ってリラックしている時に、凛々から携帯にメールが入った。

【勇次さん。迷惑かけてすみません。私、誰かに捕まった。秘密教えないと殺すて言うけど意味わからない。助けて、警察は駄目だからね。あなたのお母さんと明華さんに相談して】

こんな内容だったが、勇次は悪戯だと思って、電話を入れると暫くして本人が出た。

《凛々どうしたの。メールは本当》

《本当だからね。今縛られて男、3人に見張られている。お願い助けて》

泣きながら中国語で言った。

《いつまでに》

《明日には・・私を殺すて、・・・私かわいそう。秘密・・・を渡せて言うけど・・意味分らない》

日頃は強気の凛々が泣き出して会話にならなかった。

ここで男の声で、

《明日までだ、早くしないとこの女は死ぬぞ・・》

声高に存在感の有る声で言って電話を切った。

もうこれは脅しでない事が分かったので、まずお母さんに電話して、ことの詳細を話し、明華さんを呼んでもらうように頼んでから母親の家に向かった。何故、母親がそして明華に相談するのか分らなかった。


愛用のオートバイで走っている間も、凛々が何故誘拐されたのか考えていた。凛々の周りで起こる殺人事件と関係していることは、何と無く理解出来たが原因が分らなかった。 

もしかすると招薫が、かかわっているとも考えて、もう一度凛々に電話したが今度は誰も出なかった。今度は先送りすることなく、結果を恐れずにゆっくりと話をしないといけないと思った。

勇次がこんな事を考えながらバイクを走らせている間にも、勇次からの電話を受けて母親は直ぐに明華(ミンファ)に電話した。

「ミンファ、元気ですか」

「お母さん。ご無沙汰しています」

挨拶もそこそこに、

「ミンファ。大変なことになった。凛々を助けて欲しいんだ」

明華に言って勇次から聞いたことのあらましを伝えた。

暫くの沈黙が有り、

「伯母さん、私にそれをしろと言うことは、これまで築いた全てを捨てろと言うことですよ」

「お前の言う意味が分からないけど、私の命と引き換えに、あの娘を守っておくれ。お願いだ。お願いだから」

ここでも気の強い母が号泣した。

返事に困って、たまらず明華は途中で電話を切った。

母は口では厳しく責めたが、心の中では仕方ないと思っていた。人には言えない苦労をして来た明華の気持ちが痛いほど分かった。でも最後は必ず助けてくれると信じて疑わなかった。


連絡を受けた明華は、思案しながら、まずは母親の家をめざした。思考が結論を求めたが、上手い解を出すことが出来ずに空回りしたが家に着いた時には、もう覚悟を決めていた。

まず組織の幹部に電話した。

《梁さん、ミンファです。明日、凛々のことで逢ってくれませんか》

《いつものところで何時もの時間で、それにもう携帯では連絡しないように》

この会話でボスに明日逢う約束を取り付けた。ボスと連絡がついたことで、ある程度目途が付いたと少し安堵した。これで直ぐに事態は、悪い方には動かないと思った。


母親の家に着くと既に明華と母親が話し合っていた。

そこに勇次が加わった。改めて勇次が此れまでの事情を簡単に説明した。

聞いた明華は、

「それでその娘の名前は凛々って言うんだね。それで携帯番号は」

明華が聞くので教えると、すぐに電話を掛けた。でも出なかった。念のために携帯メールも出したが勿論、返事は無かった。

「勇次さん、あなたは何てことしてくれたの。皆が忘れていたことなのに」

明華が言えば更に、

「本当だね。あんたは真理亜だけでは物足りなくて凛々にも・・・」

母が言って絶句した。

沈黙の時間が流れた。

「今日は動かないから全ては明日だ」

明華が自信たっぷりに言い切った。

明華が余りにも必至に対応するのと母親が、凛々と違和感なく呼び捨てにしたのが気になった。言葉では言い表せない熱気と異様な雰囲気が周りを支配した。この場を逃げ出した勇次は3階の思い出の部屋で泊まる事になった。


翌日、明華は黒の品の良いベンツの中で、ボスと話していた。

「お願いします。此れと引き換えに私は引退します。組織の秘密は守りますから」

「本当にいいのか。今までの血を吐いて、泥水を飲む努力はなんなんだったんだ。ちょっと軽いんじやないか。お前を引き立てた俺の面子も丸つぶれだ。この件がそんなにお前に取って大事なことなのか」

「スミマセン」

「言いいたい事はそれだけか。お前にとってそんなに大事なことなのか。そこがよく理解出来ない。たかが知り合いじゃないか。これまでもっと大きな山を冷静に処理してきたじゃないか」

これ以降も種々、手を変え品を変え聞きただしたが、

「スミマセン。本当に・・・」

の一点張りで決心が固い事を知ってもう説得は諦めたのか、

「議長がなんて言うか。残念に思うよ・・・」

残念そうに言っても、

「すみません」

の一点張りで、もう埒が空かないと見たのか、

「分かった。また連絡する」

「こんなこと言える立場じやないんですが、なるべく早くお願いします。私の娘のような存在なんです。議長にも宜しくお願いします」

梁に言って、静かに車を降りた。

車が遠くに行って見えなくなるまで明華は深々と頭を下げていた。


ボスの梁と別れて、母親の家に戻った時、明華はもう勇次のために心配していると言う状況ではないことを勇次も理解していた。何かそう何かが有ると・・・・そこには。

そして、明華は独り言のように、

「自分自身が年を取ると共にね。過去が懐かしくなって、・・・何故か必死に命を掛けて娘を守りたいと言う思いを振り切ることは出来なかった」

明華が言うので、

「どうかしたんですか急に・・・娘さんがですか」

勇次が聞き返した。

母親は、事態が動かない事に不安を感じて、勇次が変な行動を起さないよう、

「お前は黙っとき、お前が騒いでも何にもなら無いからネ。それに警察は絶対駄目だからね。それをしたら全てが終わりだからね」

大きな声できつく念を押し勇次は頷いた。

明華はここに来て盛んに携帯で電話をしていた。

早口の中国語なのでなかなか聞き取れないが、断片的に、

《助けて下さい。・・・・お願いします。・・・・何でもします。携帯番号は・・・・・。お願いします》

こんな内容で、最後は涙声になった。例え親戚であっても、それほどの縁もない人間のする状況ではなかった。これは何か有ると思ったが、聞き正す事は出来なかった。


暫く沈黙が流れた。長い時間だった。誰もが沈黙する中で時間を過した。

突然、明華が、

「伯母さん、これで私が出来る事は全てやったからもう待つしかないね」

自分に言い聞かせるように言うと、母親は静かに明華の手を取って二人で泣いた。鼻が赤くなった。どちらかと言うと、母親が明華を慰めているような仕草だった実の母親のように。


時間は過ぎて、朝の3時になっていた。更に過ぎて、母親がみんなに無言でお茶を出した時に勇次の携帯に着信があった。

凛々からだった。

「凛々から」

二人に断わって電話に出た。

《勇次さん。釈放された、迎えに来てくれる。三山鎮の古い市場の2階隅にいる》

《分った15分で行くからそこにいるように》

勇次が言って、明華と一緒に外に出てバイクで三山に向かった。後ろで明華は盛んに電話をしていた。暫くすると古い市場に到着して、明華に従って道に迷う事無く2階に上がって、部屋に入るとそこの隅に足を縛られた凛々がいた。


足の縄を解きながら「凛々元気か・・・」と聞くと泣きながら「怖かった。殺されると思った」と言って勇次に抱きついて泣いた。

日頃の強気は全く陰を潜めていた。暫くして落ち着くと「この人は・・・」と聞くので

「明華さん」と勇次が言うと凛々の表情が曇って複雑な顔になったが「ありがとうございます」とぎこちなく挨拶すると「貴方が凛々さん。無事でよかったですネ」と明華がよそよそしくと言うか冷静に言った。


早速、バイクの3人乗り、即ち前に凛々が後ろに明華が乗って母親の待つ家に向かった。

運転しながら、勇次が凛々に、「明華さんには本当にお世話になったんだから、しっかり御礼を言わないといけないよ」と言ってもそれ以上の会話は無かった。安心するとお腹が空いているのが分った。

勇次を挟んでバイクの空間を重苦しい雰囲気が覆った。車は母親が待つ家に向い、出迎えを受けて無言で家に入った。

そこで、母親が作った水餃子とビーフンを4人で食べた。凛々の無事解放もあって、四人での食事はもっと弾むと思われたが、殆ど会話が無かった。勇次の提案で、ビールでも飲むと会話も弾むと思って出してもらったが、勇次以外は口にせず、勿論、会話は弾まなかった。

何かおかしな雰囲気だった。明華はあれだけ凛々のことを心配して、命と引き換えにしても良いと言ったのに・・・・本当に理解出来なかった。

 勇次は、食事しながら漠然と『何故、明華いやミンファなんだろう』と考えたが納得できる答えは見出せなかった。

凛々は表面上、冷静に料理を食べていた。不思議な世界だという思いだけが残った。勇次の思いとは裏腹に、凛々の気持ちは波立つ湖面に浮かぶ木の葉の如く揺れていた。それを勇次に知られないように意識して平静を装っていた。

当日、勇次と凛々は母親の家に泊まった。4人は泥のように眠って、翌日、朝食を食べて帰ることになったが、既に明華は母親に「疲れて、用事も有るから」と先に帰っていなかった。


朝食を食べ終えて、福州で逢うことを約束して、凛々が先に帰ってから、勇次は母親にこれまで聞いてはいけないと思って、聞けなかったことを思い切って聞いてみることにした。


「お母さんと明華さんは、凛々のことを前から知っていたの」

「それは知らないネ」

「赤の他人ですよね。それで、なんであんなに心配するの何か変じゃないですか」

重ねて聞いても無言で

「・・・・・・・・」

更に、

「どうなんです・・・・どうなってんですか。驚かないから本当のことを聞かせてくださいよ」

勇次が聞くと、ようやく重い口を開いて、

「知っていると言うか。知らないというか。不思議な関係だね。でもこの事は明華に聞かないと、言えないから私には聞かないでおくれ」

言及を避けた。

「何でなんです。なんで明華さんなんです」

明華について不思議に思っていることを素直に話すと、母は明華の事を話しだした。

母親の話によると、凛々が誘拐され殺されるところを明華、みんなは親しみを込めて“ミンファ”と呼ぶ、によって救われたが、その代わりに明華は組織から追放されて全てを失った。と言った。明華は地域の揉め事や相談を引き受ける互助組織の要素もある、いわゆる“福建マフィア”の末端組織のリーダーだったが、今回の事件でその地位を失ったのだった。

「今度の事件てそんなに大変なことだったの」

「そうだね私もあまり良くわからないけど、結構大きな事件だったみたいだよ。いったいあの女の子は何者だね」

母が聞くので、勇次が知っていることを全て話すと、

「そうか、林招薫の元彼女だったんかい。それだけかい。」

「私の知っているのはそれだ・け・・で。お母さん、招薫のこと知ってるの」

「お前との関係は・・・・」

勇次の質問に答えずに、勇次に答え難いことを聞くので口ごもっていると、

「もう本当の彼女になったんかね」

母が聞くので小さく頷きながら、

「いいや親しいだけです。一目惚れで付き合うのは大変な人だけど、でも彼女にしたいと心から思っているんです」

「それは良かった。大事にしてやるんだよ」


母親は優しく言って祝福して、自分と明華との関係などを話した。

「明華と真理亜とは歳の離れたいとこでね、明華は亡くなった義理の母の姉の子供,すなわち私の夫とは姉弟だったんだ。姉は明華を置いて好きな人のいるアメリカに渡り、残された明華を私と夫が育てた。

アメリカに渡った姉はやがて恋人に捨てられて身をもち崩して死んだ。

明華は私を母と思って育ったが、成功するとともに、私との関係が疎ましくなって疎遠になり、過去を捨てて姿を消した」

母はこのように説明したが、合点の行かないところもあったが、今日はこれ以上聞くのは控えた。


勇次に話した後に母親は、言葉には出さずに、今回の出来事で明華の青春を捧げて得たもの全てを失って、20数年前に戻り、これで一つの時代が終わったと悟った。

勇次はまだ言わなかったが、明華には取り返しの付かないことをしたと思い、真実を聞くべき時は、だんだんと近づいて来ていると感じた。というより自分が動く時だと決心していた。


凛々が開放された翌日、明華は福州市内の高級マンションに全ての財産を置いてどこかに消えた。

そして、いまでは母と慕うに王凛玉に【お母さん、暫く時間を下さい。生まれ変わって帰ってきます】と電子メールを入れた。

母は静かに明華が帰って来るのを持つことにした。


その頃、福州のホテルで再会した凛々と勇次は、自由を実感するかのように一つのベッドの上で抱き合っていた。

「凛々、俺のことどう思う」

地元の福建でも気持ちは変わらないか確認した。

「あんたと同じ」

「分からない」

「分からないの寂しい」

凛々が拗ねた。

「本当にあんたの気持ち分からない」

「何を求めているのかな」

「その言葉がなさけない。俺のこと信じてないんだ」

今度は勇次が拗ねた。

「あなた私の気持ちが判ってない。そんなこと言ったら泣きたくなる。悲しい」

「お前こそ俺の気持ちが分かってない」

「その言葉、そっくりあなたに返す」

二人は言い合って、とうとう凛々が泣き出してしまった。熱情が一気に引いていくのが実感できた。

泣かれて勇次は始めて悪いことをしたと思った。凛々が可愛いと思い大事にして来たのに気持ちが通じないのが悲しかった。やっぱりそれだけの女かとも思ったが、複雑な思いが錯綜した。


そう思って帰りかけた時に、

「勇次、私を置いて行くの。それは寂しい」

「お前がそうしむけたんだろう」

「そんなことないよ。一緒に連れて行って下さい。お願いします」

こう言って凛々は勇次の胸で泣いた。

凛々の気持ちが落ち着いたころを見計らって、

「凛々、あんたは悪く無いんだから、自信を持って生きて行けば良いと思う。あなたの回りで起こる事はあなたの責任じゃないから。本当は・・・・・」

勇次が優しく言うと、また、胸の中で泣き出した。不思議なことに強く抱き締めると涙は止まった。


 勇次は凛々を両手に抱えて、いわゆるお姫様抱っこをして、大きなベッドの中央に運んで置いた。首から唇にキスをして、ブラウスのボタンを外して胸を露にした。体をくねらせたが、元に戻して乳首を優しく口に含んで舌で転がした。

 小さく息が漏れたが、言葉にはなからなかった。まず自分の服を脱いで素裸になり、凛々を下着姿にした。ピンク系の下着が白い肌とマッチして、勇次を刺激した。次の瞬間には、凛々の上に跨り重なって胸、首、唇へのキスを繰り返していた。

小さな声が唇から漏れて、

「あ・・・いい・・あ・・・・・・あ・・いい」

こんな風に言っているように思えたので、

「良いの・・良いか・・」

凛々に聞いてから答えを待たず、次の瞬間に男と女になった。

二人は暫く、初めての経験を楽しんだ。

凛々は冷静に今の状態を理解すると共に、ある種演技して、感じているような仕草を取った。抱き合いながらの会話の中で、勇次の提案で明日もう一度、高山鎮に行って母と明華にお礼と気になっていることを聞く事になった。凛々も勇次の愛を確信して、もう中途半端にはしたくないと、心に決めたようだった。


 

翌日、母は二人を温かく迎え入れたが、凛々と母の関係はギクシャクしていて、まともに目を逢わさなかった。

「この度は本当にありがとうございました。何と言って感謝の気持ちを表現したら良いか分かりません」

凛々が普通にお礼を言うと、母親は勇次が思いもかけないことを言った。

「凛々さんには色々悪いこともしたし、私を恨んでいるだろう」

この言葉を勇次は全く理解出来なかった。

「正直、確かに複雑な気持ちは有りますが。もう気持ちの整理は出来ました」

凛々は母に握手を求め素直に応じたが、これも理解の範囲を越えていた。

二人には、まだモヤモヤした気持ちは残ったが、和解の一歩を踏み出した。今度の事件が両方の背中を押した。

正直に言うと勇次は、これまでの話と、まだこの先の読めない展開に戸惑っていたが、暫く様子を見る事にした。凛々が「ミンファさんは」と口火を切って聞くと「ミンファは今のところ行方知れず。あんたのことが有って、表と裏を結ぶ仕事から引退したみたいだ」と母が答え、心配そうに「そう私の事件が原因ですか」と聞くと「多分そうだと思う。でも凛々さん、あんたが責任感じることはないよ。ミンファも喜んでいると思うよ。あの道から抜け出せて」と言って笑った。さすがに切り替えが早かった。    

       

3.凛々の恋物語


ここで少し時計を戻して、招薫と凛々の出逢いと破局について簡単に振り返りたい。

二人の出会いは上海の大学だった。第二外国語として日本語を選択し、日本語弁論大会に参加したことによって親しくなった。招薫はこの大会に優勝し日本に行く機会を得た。

招薫の父親は本心では中国を離れて日本に行く事を望んでいなかった。出来が良くて期待の息子で有るが故に、後継者として早く自分の手元に置いて鍛えたかった。

父親は、日本へ行く事が決まると、もう反対することは出来なかった。それは国策だから立場上逆らえなかった。こんなことで国と摩擦を起こしたくなった。


弁論大会の後に簡単なパーティーが開かれた。

そこで凛々から招薫に声を掛けた。

「いい発表でしたね“歴史学の視点から見た日中交流史”聞いていて感激しました」

「ありがとうございます。ちょっとマニアックな話しかなと思って」

「いいえ分り易くて面白かったと思います。視点が斬新ですからね。歴史を勉強されているんですか」

「いいえ、主にコンピュータ技術を勉強しています。でも日本の大学院では経済学を勉強しようと思います」

「そうですか。それは素晴らしいですね」

こんな会話が有って、視野の広さと育ちの良さで、凛々は招薫に嵌ってしまった。

二人とも此れまで男女交際の経験は少なく、異性に積極的に声を掛けるタイプではなかった。特に招薫はそうだったが、日本留学が決まったことで気持ちに余裕が出来たこともあって、お互いに携帯番号とメールアドレスを交換して交際が始まった。

招薫も凛々の背が高かくて、理知的で物怖じしない行動力に轢かれていったが、この時はそんなに美人とは思わなかった。


また、凛々はこの時、招薫が裕福で国を代表する華僑の息子とは知らなかった。国費留学する位だから、ちょっと裕福な大学生と思っていた。二人はそれから毎日の様に逢った。凛々は招薫の隣で目をきらきらさせて、かわいらしく、うんうんとうなずきながら彼の話を聞いていた。それが絵になるカップルだった。


レストランを後にした二人は、タクシーに乗って、カラオケスナックへと向かった。カラオケ店に入ると、招薫は凛々のためにと言わんばかりにマイクを握った。そして日本の歌、福山雅治の“はつ恋”を甘い声で歌った。


この 想いが君を苦しめてしまうとしても

傷つけてしまうとしても 君が欲しくて

互いに手に入れた 新しい幸せ

今 この手で壊してしまいそう

帰るべき場所がある 守るべき人がいる

愚かすぎる 過ちと知っているから


一緒にこの店に入った時には、突然、招薫がプロポーズソングを大熱唱して…。日頃の彼の態度から予想できずに、驚いたこともあったが、凛々は嬉しかった。そして歌が佳境に入った。


ずっと探してた これが愛ならば

愛の謎はもう解き明かしてる

かなわぬけれど かけがえのない想いを

ひとり抱きしめて 生きるよ


友だちではいられないことも

恋人には戻れないこともわかってるよ

でもこの真心を 永遠のはつ恋と呼ばせて


せめてはつ恋と呼ばせて

永遠のはつ恋と呼ばせて


知ってか知らずか、未来を暗示するような歌を歌った。歌い終えた招薫をハグで凛々が向かえた。


①両親との面談

招薫の日本への留学前に男女の関係になった。二人は互いに始めての経験だった。二人だけの婚約をしてプロポーズも行った。

招薫は家族の反対も有り一度は分かれを決意した。しかし、いざ分かれてみると凛々の良さを知って、執念で元の関係に戻すことを考えて行動した。追い込まれないと力が発揮できない傾向があった。弱い自分を見せることが出来ないエリートの弱みとも言えた。


思い余って母親に凛々のことを話した時「一度、家に連れておいで」とは言われなかった。暗に否定されていると感じた。それでも、度重なる凛々の催促に抗しきれなくなって、必至に母親に迫ると根負けしたのかついに、

「分った。お前がそこまで言うなら日本に帰る迄に調整するから」

母親が招薫に言った。


この話を、招薫の部屋で待っていた凛々に伝え一緒にベッドに倒れこんだ。招薫の思いとは裏腹に、凛々は一時の熱気は醒めていて特に、招薫との結婚を焦っていたのでは無く、自分の気持ちにけじめをつけたいと思っていた。

この時には、招薫の後ろには凄い両親がいることは、自分でも何と無くは理解していたが、それは凛々の想像の範囲を超えていた。

此処を乗り切る自信は無かったが、自分に納得出来る結論を出す必要があると思っていた。


母親も息子を結婚させる時が来たと感じていた。そのためには今付き合っている女性との関係を清算する必要があると考えた。自慢の息子が選んだ娘だからきっと良い娘だとは思ったが、それだけでは家の嫁には駄目だと思っていた。辛亥革命を成就させた孫文でさえ、正式に結婚するまでに色んな女性に支えられ、女性は状況を敏感に感じ取って自然に去っていった。

息子にもそのあたりのことを学んで欲しかった。

「お前この前、付き合っている女性がいると言っていたね。今度、家に一度連れておいでよ。普段着で来て一緒にご飯を食べよう。1週間後の夜の7時でどうだい」

招薫の心を見透かしたように言ったのだった。

帰国が迫って中々日程を決められなくて焦っていた息子に母親は、渡り船を出して招薫はこの話に乗って、母の本心を知ることなく感謝の気持ち一杯で、

「お母さん、本当にありがとうございます。わかりました早速話してみますので宜しくお願いします」

母は本心を見せること無く満面、慈悲に満ちた笑顔を返した。息子はその笑顔に引き込まれてしまって暫く動けなかった。


約束通り、1週間後に母親との食事会が開催されることになった。普段着とは言われたが、フォーマルな紺のスーツを新調しこの日に備えた。招薫は今日の日を向かえられたことに満足していた。

凛々は大きな家とは聞いていたが、想定外に立派な家だった。丘の中腹に有る小さな城という雰囲気だった。勿論、門から玄関までは車で移動しないと歩くのはしんどい距離だった。当初は母親とだけ会うとのことだったが、急遽、父親も同席することになった。


形どおり最初、両親に挨拶して、雑談してから食事が始まった。所謂、昔の宮殿で出された料理と思われるものが出されて、食事時間は3時間に及んだ。正直、凛々は退屈だった。『これは大変なことになった』と思った。でももう逃げだすことは出来なかった。

食事後、雑談になったが話は弾まなかった。

 特に父親との会話は全く無かった。唯一、母親が会話をリードして、凛々へ配慮したのが救いだった。夫の両親との会話は元々から弾まないものだが、凛々は完全に気後れしていた。自分が目指す世界では無いと感じた。

もう逃げ出したい気持ちだったが、招薫に恥をかかせる事は出来ないと考えて必至に耐えた。その様子を知っても、招薫は積極的にサポートしなかった。

お茶の時間が終って解放されて、車に乗って邸宅を後にした時には、もう放心状態だった。


招薫との話もそこそこに、自宅に帰り、シャワーを浴びた凛々の心はもう決まっていた。『悪いけど、招薫にははっきり断わろう』と決心した。自分の考えの甘さを思い知らされた。自分の両親には今日の事を何も言っていないのが、せめてもの救いだった。

招薫から電話とメールが入っていたが、今日はもう考えたくなかったので、出なかったし出さなかった。

その日は、早く眠った。自分の不甲斐なさが眠りを浅くした。

翌日、朝5時に目が覚めて、それからも眠れなかった。

仕方なくメールを読むと、

【凛々、今日はご苦労様でした。緊張したのか口数がすくなかったですね。両親は大変喜んでいました。また、逢って話しをしましょう。招薫】

内容は、形式的で行間に勢いを感じなかった。


② 凛々の気持ち

事実、招薫は両親から『綺麗な頭の良い娘さんだけでは、今の林家の嫁は務まらないと思うけどね。もっと体格的に確りしていて固い血筋でないと親戚付き合いが大変だと思うけど』と賛成、反対のコメント以前の問題と言われてしまった。

招薫は必至に両親を説得したが、両親が受け入れられるレベルではなかった。この時、両親は女嫌いの息子が結婚する意志を示したことが嬉しかった。これを機会に息子に良い女性を紹介して一気呵成にメガネに適った嫁と結婚させようと良い面を捉えた。


しかし招薫は実績を着実に作って親に認めさせようと考えたが、この考え方は間違っていた。自分を今の地位に置いておいて事は進まなかった。全てを捨てて普通の中国人として生活する決心がないと無理な相談だった。そのあたりが金持ちの三代目の限界というか弱い所だった。


招薫が日本に帰国するまでの間、招薫の誘いで何回か逢ってセックスもしたが、燃え上がる事も無く惰性でやっているという状態だった。招薫もそのあたりを察して関係の改善を図ったが、もう動かなかった。

 帰国を延期して、招薫が母と正面から向かい合い自分の気持ちを素直に伝えようとする必至さと熱意が、凛々にも理解出来た。熱意に根負けして気持ちを切り替えてもう一度だけ、結婚に向けて頑張ろうと決意した。幸い一家を仕切る母親はこの時には凛々に少し好意を持っている素振りをしていた。


それが、凛々が本気で結婚したと思って一生懸命、結婚に動いたとたんに母親の気持ちは豹変した。

どこで調べたのか「嫁ぐ気持ちなら大学を辞めてなさい」、「なぜ実家に行く必要があるのか」とか「今の友達付き合いは切りなさい」と言って来た。

義母は自分が庶民的な生活をするのを嫌っているように思えた。自分のプライバシーが無くなる気がしたので嫌だったが、そこは思いなおして、招薫は気にするなと言ったが、摩擦は嫌だったので意識して義母の望まない交際を絶った。


長男の嫁候補として、母親とうまく付き合っていきたいと苦慮したが、そんな関係が若い二人に良い影響を及ぼさない事は明らかだった。

平行して姑の対応は段々と横暴に思えるようになって修復が不可能となった。

そのきっかけは

「凛々さんの両親はどんな方ですか」

「ええ普通の会社員で、今はもう年金暮らしです」

「随分お年が離れていますね」

言い方がやけに不遜な印象を持った。この時、両親と自分の秘密を知ったと思って結婚を断念する第一歩になった。しかし、この事を招薫に知らせる事は、両親を否定されることと思って言わないことを誓った。


招薫の両親はこの時、凛々が詳細を知らない本当の親の秘密を知っていた。

両親がこの内容を招薫に知らせたかどうかは分らないが、招薫に自分の最大の秘密を知らせていなかった負い目もあって招薫に合わせる顔が無いと思った。

この時ほど二人とも普通のサラリーマンの子供に生まれていればよかったと、自分たちの生まれの特異さを怨んだ。

いま、自分の前には此れまで経験したことの無い大きな壁があり、その登り方が分らない。更にその壁は、自分一人では克服出来ないものであり、更に育ちの違う男と協力して登らなくてはいけない。いつペアーを解消すると言いかねない男と・・・・。


別れを最終的に決心した時、凛々が招薫に自分の出自を知っているか聞いたことがあった。

その時の答は「知っていた。それほどショックでもなかった。でも両親はその点を鋭く攻めて精神的に参ってしまった。出自と今の凛々とは直接関係ないと思ったし、凛々がそれを自分に言わなかったことはそれほど違和感も持たなかった」と言った。

別れをすっきりしたいと思う、招薫の配慮もあったと思うので割り引いて考えても、凛々は「確かにそこまで分かっているなら、もっと恋人のために汗を流せよ」と思った。

今回の悩みと言うか気づきは、本当の大人の良い女になるための、選ばれた者だけが味わう第一歩の試練と思うと力が湧いてきた。


そしてついに運命の時が来た。

いつものようにセックスが始まって、フィニッシュの時を迎えたが、何時もと違っていた。それは十分な避妊、即ち、コンドームが装着されていなかったことだ。

「あれつけると雰囲気壊れるし、感じない。其れに最後は膣外に出すから」

招薫はそう言って凛々を納得させた。安心日との思い込みも有った。確かに最近では珍しく、何時もより二人とも燃えて感じたが、それが故に招薫は膣外に自分の物を出す事が出来なかった。この時、招薫は膣の中で凛々を感じて、その暖かさに満足して自分をコントロール出来なかった。これが最後という暗黙の了解が二人に有ったのかもしれない。

そう凛々もオーガスムスを感じたのか、半ば意識を失っていた。暫くすると凛々の襞に纏わりつかれたペニスは再び勢いを取り戻して、お互いのクライマックの中で果てたのだった。暫く二人は動けなかった。

これが二人の最後のセックスになった。


結果的にこの時に凛々は妊娠し、招薫にそのことを告げると、最後まで凛々を支え切ることが出来ずに逃げて、両親から何がしかの金銭的援助を受け、その金で全てを水に流し踏ん切りをつけ招薫との関係を清算した。今では、この展開を凛々自身が望んでいたのではと思っている。

そして男の勝手さと自分自身の無責任さを意識せずにはいられなかった。流した子供のことを考えると精神的に不安定になった。これを元に戻すのに約1年間の月日が必要だった。


③凛々の結婚に相手の親が反対した本当の理由

 招薫の両親は今では中国を代表する富裕層で名士であるが、その素性が所謂、成りあがりのため跡取りの嫁には名士の娘が必要だった。招薫が両親に付き合っている女性がいると話したところ「林家の嫁には向かない」と切り捨てた。

それでも交際を続けてきたが、凛々の妊娠を知った、両親はカンカンに怒り、母親とも面会したが「自分の行動は慎重にするように」と言って暗に中絶するように迫った。


その後、凛々の自宅に招薫の父親から手紙が届き、何がしかのお金とともに【息子と仲良くしてくれてありがとうございます。貴方はとても良い人だと思いますが、私達は貴方に幸福を与える事は出来ないと思います。この気持ちは貴方にも理解して頂けると思います。あなたの幸せを切に切に願っています。お幸せに!】とあった。両親は、家柄の良い女性を、息子の相手に望んでいるのは明白だった。


 大学の仲間から状況を聞いた凛々の両親も「最初は祝福してくれていた」が、結婚話が上手く進んでいないことを知ってからは「先方の両親が反対している結婚などさせたくない」と言って猛反対した。心配した凛々の親は最後には「もう結婚は諦らめたら」と娘を説得するようになった。

親なら、交際相手の両親が反対している結婚など、娘にはさせたくないという気持ちは、もっともだった。

 大学時代の凛々は少女時代の目立たない姿は消えて明るくて元気で、人の上に立つことが好きな女性に変身していた。先生や友達からは『良くも悪くも影響力のあるヤツだ』と言われ、そんな自分が好きだった。でも、この時、その性格に自信がなくなっていた。一種のうつ状態だった。


④林招薫という男

沖縄での仲間割れから2ヵ月後、諍いを起こした2つのグループはお互いの利益を守るため和解し、もう一度仲間を組んだ。その第一歩として東京で「日中民間交流を考える講演会」が開かれていた。この講演会には日中経済人の交流の場も用意されていたが、それは隠れ蓑で本当は沖縄IT特区を糸満市にという華僑と沖縄経済人の会だった。勿論、民政党の岡本幹事長がセットした。会の運営は、経済産業省の役人が取り仕切った。今度こそ失敗しないように万難を排して行われた。


一度、このプロジェクトに失敗して挫折し、シンガポールで下積みの生活を送っていた招薫に突然、父親から呼び出しがあった。母親の意向を受けた父親の温情だった。

「招薫、お前はまだ沖縄のプロジェクトを覚えているだろう。もう一度、係わってみないか、汚名挽回だ。ある程度は私が段取りするから報連相を密にして事にあたるんだぞ。出来るか」

父から聞かれて、今の場所を逃れたいと思っていた招薫は即座に、

「お父さん分りました。やらせてください」

引き受けたのだった。正直、曰く付きのプロジェクトなので本当は躊躇したがこれを逃すと、現役復帰はまた数年先になると思って受ける事にした。


ところで招薫を語るとき一族について語らない訳にはいかなかった。祖父と父には独特の雰囲気を持っカリスマの面持ちがあった。即ち、招薫の祖父は福清市出身の伝説の華僑である。リスク分散を図るために有能な子供を色んな国、地域、事業に分散させた。但し、持ち株会社としてのコントロール機能は手放さなかった。招薫は祖父には数回しか合った事がない、前回は2年前にシンガポールでの華僑総会の時に逢ったが90歳を過ぎたとは思えないほどに矍鑠としていたのが印象に残っていた。小学校しか出ていないが、中国語はもちろんインドネシア語、英語、オランダ語が堪能で毎日、英字新聞を読んでCNNを聞くのが日課になっていた。


父は、祖父の指示で中国に派遣されて1年の三分の二を中国国内で過ごし、残りを本拠地ブルネイで暮らす。中国に居る時は背広姿だが、本拠地であるブルネイでは民族服で過ごす。自分はインドネシア生まれのインドネシア人と思っているが、多くのインドネシア人はそうは思っておらず、自分たちの富を吸い取る華人と思っていた。

これからの実績次第だろうが招薫は一歩遅れを取っていた。この家系は一に血統、二に業績、三に人気だった。それにもまして祖父の意向、持ち株会社の社長。すなわち、一族の総師の決定が絶対的に重かった。


招薫はブルネイで生まれた。ブーゲンビリヤの花の薫りが、生まれた子供を包んだので“招薫”と父親によって名付けられた。

父親は、特定の子供を可愛がるでも鍛えるでもなく、出てくる子供を鍛えようというスタンスで事に当たっていた。その分、子供たちには親しみさがなく孤高の人と言うか、子供にとっても近寄りがたいカリスマという存在だった。意識して本人がそのスタンスを取った可能性もあった。

ブルネイで高校まで過ごした。高校は親の勧めでアメリカンスクールに通った。ブルネイは平均の国民所得は低いが石油資産をテコに金持ちも多く高所得層も多く欧米人も多かった。高校を卒業し、上海の大学に留学する頃には、両親の愛を信じられずに思春期に患った心身の不調は完全に癒えていた。更に、大学に入って、凛々と出会い恋に落ちた事が症状の改善を決定付けた。


ところで招薫の父は中国ビジネスを順調に発展させて、中国の経済的発展にも乗って長男が指揮する本家を凌ぐ勢いを持っていた。彼には優れたビジネスセンスがあった。

経営の近代化も行い「私の事業には、土地があり、水があり、太陽があり、そして政府がある」というのが口癖になっていた。

 残念ながら招薫には経験と泥にまみれていない分、そこまでの覚悟と器量は無かった。

 父、招福の考え方は非常にアメリカ的だ。事業は近代化したが、表の世界とは別に裏の仕事をこなす組織も存在し、祖父子飼いの人脈がいわゆる大番頭として裏の事業を支えていた。この組織が、将来的に凛々と勇次の回りに姿を現し二人に様々な難題を突きつけることになる。


4.凛々の行動力


 沖縄に夏の太陽が戻って来て、本土からの観光客が飛行場から吐き出されるように沖縄の各地に散らばっていった。

 この地で人々は日々の生活を営んでいた。勇次が出版した本は専門書としては珍しく1万部を売り上げ話題となり、夏は充電の時となった。


勇次はホテルのフロントからの電話で起こされた。

凛々は勇次が出て来るのを待てなくてフロントで巧みに勇次のルームナンバーを聞いて部屋をノックし準備中の勇次が出た。

「きちゃった」

「どうしたの」

「ただあなたに会いたくて、来ちった」

それだけ言って抱きついた。

「その顔、怒っているのか」

「怒ってない」

「じゃあ今日、どこかに連れて行って。そして記念に写真を撮って下さい」

愛嬌たっぷりにウインクを返した。

勇次には、今日、大事な予定を入っていたがキャンセルして凛々と付き合うことにした。彼女と付き合うには、これ、即ち突然の理不尽な出来事に耐えないといけないし、逆らってはいけないと最近は観念していた。そうもう怒りが消えて笑うしかない状況になっていた。このあたりは真理亜とそっくりで血を信じてしまう。

「準備遅い」

「お前がそこにいると着替えられない」

「いいからいいから早くしろ」

そこまで言われて、凛々の前でパンツを履き替えた。まさに今の状況は一種の“猟奇的な彼女”状態だった。


「お待たせしました。準備終わり。さあ行こうか」

「さあ行こう」

レンタカーで凛々の希望する所を回って、午後の7時にホテルに帰るとそこには招薫が居た。

招薫は東京の次に沖縄県那覇市で行われる「日中経済人の交流会」に出席するため、岡本幹事長達と一緒に飛行機で沖縄に入り、たまたまロビーで人を待っていた。岡本は所要で居なかったが、由美子が一緒だった。


招薫は勇次に目で合図して、凛々に向かったが、突然の出来事に凛々は避けて2階に上がったが、招薫が迫って捕まえて結局、二人は一緒に出て行った。凛々は意識して目を伏せて勇次と目を合わせなかった。

またしても勇次は自分の目前で凛々をこの男、招薫に連れて行かれてしまった。その屈辱感が勇次を襲った。


この勇次の虚しさを知ってか、由美子からメールが入った。

【何してるの。落ち込んでいるでしょう。私は暇ですが、逢いませんか】

【分りました。沖縄中央公園前の日航ホテルのロビーで2時間後に】

【了解。楽しみです】

【こころ大丈夫ですか】

【ちょっと大丈夫じゃあない】

【私が慰めてあげる】

こんなメールが帰ってきてデートが決まった。

風呂に入って、外出準備をして時間待ちをしている時、またメールが入った。由美子から断わりのメールと思って見ると、大学の同僚からだった。

論文を郵送で送ったので見ておいてくれというものだったが、最後に“与那国島に記憶喪失で言葉を忘れた男がいるが本当だろうか”という文言があった。この同僚は勇次が心理学を結構真面目に勉強した事を知っていての問いかけだったが、勇次には分らなかったので、【すみません。記憶喪失の病理のことは全く分りません】と返した。

由美子に会うために出かけようとした時に、タイミング良く由美子から電話が有って、急用が出来て逢えなくなったと言ってきた。そんな予感がしていて想定の範囲内だったので特にガッカリすることも無かった。


それでも心がまとまらずに時間を潰していると暫くして、凛々が帰って来た。フロントからの連絡でロビーに降りて、喫茶室に入ってホットコヒーを飲みながら、帰ってきた凛々を勇次が責めた。堪らず凛々は拗ねた。

「あの男とお前の関係はなんなんだ。それにお前が来ると人が死ぬ。これはなんなんだ。今度は誰が死ぬことになるのか?」

懲りずに答えの出ない事を聞いたが当然、何も語らず、

「・・・・・・・」

「今度は誰が死ぬと言われたのか。俺か・・・俺だろう」

「・・・・・・・」

「あの男が招薫だろう・・違うか」

「・・・・・・・」

黙ったままだったが、女に黙られると男は弱かった。

対応に困った勇次は仕方なく、一人で外に出て行った。


公園で鳩に餌をやりながら、二人の関係を色々と考えた。自分の与えるポテトチップを美味しそうに食べて、更にもっとくれとねだる鳩がたまらなく可愛いと思った。餌を忙しく楽しそうに啄ばむ鳩を見ていると自然と心が落ち着いた。良く見ると中に一羽、足輪の嵌った栗色の鳩が居て、与えるポテトチップに見向きもせずに、孤高を守っているのが逞しく思えた。

勇次は『自分もああありたい・・・・あの鳩のように』と思った。

それと同時にメールが入った。凛々からだった、最初は見る気持ちにならなかったが、葛藤のあと負けて5分で見てしまった。

【怒っているの】

返事に10分かかった。

【怒っているぞ!】

気持を素直に撃ち返した。

【ゴメンね。招薫とはもう終っているから】

【何が・・・二人の関係】

【私にはもう完全に過去だけど、招薫は継続していた。そんな彼を冷たく出来なかった。それに仕事が上手く行かなくて凄く落ち込んでいたし・・・・可哀想だから】

嫌味を込めて、

【彼には優しいね】

【凛々、部屋に行って良いですか】

心の揺れるメールを返して来た。

勇次は気持ちの整理が出来ずに素直に返事を返す気持ちになれなかった。


さっきまで一緒だった招薫とは高台のホテルのラウンジに行った。そこで凛々がバックと携帯を持ってくれていることに感謝の言葉が有った。

「それ使ってくれているんだ」

「ええ大事に使わせて頂いてます」

「ありがとう・・・」

雰囲気が良くなった所で、雑談の後に招薫から凛々の恩人、江道鐘の死についての説明があった。それは凛々の想定を超えるもので驚いた。道鐘の死について語ることは勇気のいる事だった。彼のビジネスの大きさと凄さを改めて知るには十分な内容だった。勇次に話すことは出来ないと思った。でも、心の安定のため勇次に逢って慰めて欲しかった。


凛々からまたメールが入った。

【連絡くれないの。寂しいです】

無視して、居酒屋に入った。

今度は、携帯電話に着信が有った。

凛々からだったが仕方なく出た。

《すみません》

《何が・・・・。冷たいね。怒ってるの・・・・あなた》

《話す気持ちになれないから切る》

電話を切った。

切ってから後悔が走った。もう少し気持ちを大きく持って話を聞くべきだと思った。


夕方、ホテルに帰って風呂から上がって海に沈む夕陽を見ていると、凛々のことが堪らなく愛しくなった。

気持ちが優しくなった。

丁度その時に、

【元気してますか。凛々は夕日を見ながら泣いています】

【それはそれはご苦労さまです】

【気持ち入ってないね】

【返事する気にならない】

【寂しい。あなたと一緒に旅行に出て夕日を見たい】

【あいつと行ったら】

腹立ちまみれで本心とは別のことを打ってしまった。

さすがに返事は無かった。


メール交換後、大人げ無さを悟って勇次の気持ちは更に沈んだ。テレビを見て気持ちを紛らわせたが、時間とともに余計に気持ちは沈んだ。

その葛藤に根負けして凛々に電話を入れた。

《凛々一緒に与那国島へ行こうか》

記憶喪失男のことが頭の片隅にあったのか、口から出任せで言うと、詳しく内容を聞くこと無く、

《行こう、行こう。いつ行くの》

此れまでの沈黙が嘘のように明るい声が返って来た。勇次は自分と同じで、凛々が無類の旅行好きである事を知っていての提案だった。

《今週、金曜日から2泊3日でどうだ。俺が準備する》

多分笑顔で明るい声で、

《了解。楽しみです》

勇次に満足感を与えるトーンで言った。

それから待ち合わせ時間と場所を決めた。

仕事や勉強の進み具合を聞いて、凛々は部屋に入る事無く帰って行った。勇次は寂しかったが何も言わなかった。これから招薫に会いに行くのではと妄想すると誘う気持ちにならなかった。こうしたギクシャクした関係を修復するために二人で旅行に出かけることは、良い気分転換になると自分に言い聞かせた。凛々も同じように気分転換になると思った。そして、二人とも出発までのハードワークを効率よくこなした。


丁度この時、昼間に勇次との約束をドタキャンした由美子は岡本幹事長から愛の調教を受けていた。勇次に連絡した時は、岡本と服を買う買わないでもめていたが、由美子の勝利に終わり、今はゆったりした気持ちで向かい合っていた。

由美子はベッドでは気取らず、歓喜を露にして男を感激させた。ひたむきでプラートニックラブ志向が強いが惚れた男にはとことん尽くす良妻賢母型の女性だった。だからセックスにも真面目さが出て、男のリードが上手くなければ面白みのないセックスになる可能性があった。


岡本とのセックスの相性は抜群に良くて、由美子は交わりの時は不思議に燃えた。それが岡本を更に燃えあがらせた。根が真面目な質だけに、一度信頼すると、とことん尽くすタイプで、いまでは耳元で卑猥な言葉を囁かれるだけで感じる体質になっていた。

感じた時の妖艶さが、日頃のそっけない淡白な素顔とのギャップが大きく岡本の男心を刺激した。岡本には自分が開発した女という自負があった。


由美子には自分の意思とは無関係に、男にセックスで強い刺激を与える特別な能力を持っていても、性欲にのみ溺れる女ではなくて、現実的で実利を優先させる女で、金のない男、権力の無い男には興味を示さなかった。ましてや彼女の金目当ての軽薄な誘いには容赦なく肘鉄を見舞った。

 由美子を岡本は手放せなくなっていた。心配なことは自分が総理大臣になる時にマスコミに気付かれてスキャンダルになることだった。その対策として、気のおける秘書上がりの県会議員の愛人と思わせるような工作、即ち、いま住んでいるマンションの家賃をこの男に払わせ、月々の手当ても払わせていた。全て記録を残すために銀行振り込みにしていた。


5.与那国島の男


二人が行く事になる与那国島は方言名“どぅなんちま”といわれる日本最西端の島である。台湾の北東に位置し、台湾の花蓮市と姉妹都市の関係を結んでいた。台湾が直ぐ前にあり天気が良ければ、年数回は目視で見える距離にあるが、見かけ以上に遠い島である。 

国境の島であるため、台湾有事や尖閣諸島問題など周辺地域の有事に巻き込まれる危険性もあり、最近は自衛隊の常駐も検討されている。勇次は学生時代にこの島を訪問して、島の民宿でアルバイトをした事があった。この時に大阪出身の民宿の女将さんと親しくなった。今は3人の子持ちで年賀状のやり取りをする仲だった。


①記憶喪失の男

那覇国際空港で待ち合わせして、石垣空港で琉球エアーコミューター(RAC)の小さなプロペラ機に乗りついだ。定員19人、席はなんと対面座席で、まるで空飛ぶ乗り合いバスだ。着陸前、小さな機体は山からの風にあおられ大きく揺れて、勇次が凛々の肩を両手で支えてバランスを取った。与那国島に到着したのは昼過ぎだった。

凛々の希望で早速、島内観光をすることになってレンタカーを借りて島を回ることにした。

「何処へ行こうか」

勇次が聞くと迷わずに一言、

「港に行こう」

凛々が言うので伊良部港に向かった。

この時は、凛々のこの言葉が理解出来なかった。20分で漁港に着いて港の回りを散歩した。

そこで、すれ違った“島人(島んちゅ)”に驚くべき行動に出た。

「記憶喪失の人はどこですか」

島民に聞いた。勇次は凛々がなぜこのことを知っているのか不思議だった。これが目的でこの島に来る事を簡単に了解したのだと理解した。

何人かに聞いたが、凛々を怪しく思って答えを渋る漁港の人に勇次が名刺を出して、

「私は沖縄先端技術大学の教員で怪しい者ではありませんから答えてあげて下さい」

島民に言った。すると素直に一人の女性が、

「じゃあ私が案内するよ」

勇次に向かって言うと、その男が生活している家に案内してくれる事になった。


5分ほど歩いて男が住む家に着いて、

「どあんさん。どあんさん。いるんかねえ・・」

女性が言うと男が出てきた。

凛々はその男を見た。その瞬間、男のコメカミがピクピクと2回小さく揺れたのを勇次は見逃さなかった。凛々はこの男が自分の探す男であることを知った。案内してくれた女性に丁重に礼を言って先に返し3人での会話になった。

まず、凛々が、

「国嘉さん、久しぶりです」

中国語で言うと、

「これはどうも変な所でお会いしますね」

男が返して会話が始まった。

「勇次さん、悪いけどちょっと外してくれない」

ここで凛々が、勇次に言ったので頭に来たが更に凛々が、

「貴方は聞かないほうがいい話だから。お願いします」

ここは素直に従った。

この行動を見ると、やはり凛々は素性のはっきりしない女だと思うしかなった。勇次が抜けた中で二人は話し合あい、暫くして出て来た。

「それじゃまた連絡するからそれまでもう暫く待っていて」

凛々が言って高台の家を離れた。

凛々が手に何か持っているので「それなに」と聞いても「なんでもない」と言って取り合わなかった。


勇次は車を運転して、今日の宿泊先で昔は民宿だった“よしまる旅館”に向かった。凛々はこの車の中でも盛んに携帯電話をしていた。勇次は与那国ではこの宿以外は泊まりたくなかった。大阪から来て此処に移住して子供3人を生んだ若女将の味は確かで、勇次とは入魂だった。

残念ながら今日は、沖縄本島に出かけていていなかった。やはり、連絡しておけば良かったと後悔した。若女将には凛々を是非とも紹介したかった。夕食に出された新鮮なカジキの刺身は格別で、部屋は新しくはないが隅々まで掃除が行き届き、寝具も暖かくて清潔だった。またテラスからみる灯台に沈む夕日は感動的で、凛々はこれを見て、この島に来て良かったと言った。

「この景色を切り取って持って帰りたい」

とも言ったが、少し眼を離すと、さっきまで傍にいた凛々がいないので探すと、テラスにつながる階段で盛んに携帯電話をしていた。

「おい、もういい加減にしろよ」

何回言っても、

「もうちょっと。もうちょっとだから」

勇次に言ってなかなか止めない。仕方なく勇次は一人で地酒のアルコール度40度の“どなん”をお湯割にして一人で飲んだ。季節が悪いのか残念ながら他に宿泊客はいなかった。孤島で、一人で飲む酒は寂しかった。凛々と一緒に飲みたかった。


酔いが回って来たと思った時、凛々が傍に来て「ねえ、ちょっと港まで車を出してくれない」と言うので嫌味を込めて「もう飲んだから駄目だね」と言っても、一緒に来てくれと言って聞かないので、宿のアルバイトに車を運転してもらって港まで出かけた。

港に着くと、ここで凛々はお金を渡して、大学生を帰し国嘉の住んでいる家に行って、呼び出した。彼は荷物を背負って、手には小さな鞄を大事そうに持っている。命より大事な持ち方だ。きっと中には金が入っていると類推した。

三人で歩いて港に行って、台湾行きの大きな船の近くで停まって、そこで凛々が携帯で電話した。暫くして船員と思われる男が降りて来て、凛々と話をしてから凛々が連れてきた男、即ち国嘉を伴って船に消え、直ぐに船は港を離れた。


勇次は『こんなことが許されるのかと不安になった』が、凛々と暫く見送ってから、その場を離れて二人は徒歩で民宿に戻った。

ムード満点の星が輝く夜道を帰りがてら、勇次は凛々に無粋な話しをした。

「あの男どういう人なの」

「招薫の元側近。でも裏切って金を持ち逃げした」

「それだけ。それだけじゃないけど今はここまでしか言えない」

そして黙った。

勇次はまたかと思ったが、此処では喧嘩をしたくなかったので堪えた。

「勇次、そうだよ聞きたくても聞かない勇気も大事だからね。我慢我慢」

腕を強く組んで、

「憎い男だけど人助けした。招薫のために」

凛々が言ったこの言葉が印象に残った。

国嘉から昨日、預かったものを招薫に返すべく既に宅急便で自宅に送っていた。


②与那国島散策

二人は別々の部屋に泊まる事になった。特に理由は無かったが流れでそうなった。凛々もあえて反対しなかった。根底には勇次の『凛々の行動が理解出来ない』との思いが蟠りとなっていた。それに『招薫のため』と言った言葉も引っ掛かった。

暫く食堂で時間を潰して気持ちをお落ち着けてから「凛々、やっぱり一緒に泊まろ」と聞くと「今日はあれだから止めとく」と言って自分の部屋に向かった。凛々にも釈然としない蟠りが有った。


翌日、朝の散歩と食事を兼ねて自転車で島を回った。女将さんがいないので朝食は宿から断わられていた。

島を周りながら凛々と話した。

「凛々、あの灯台ね。昔は夫婦二人で守ったんだよ」

「どうして」

「当時はそういう仕組みになっていたんだ」

「こんな孤島の辺鄙な場所で・・・本当に」

「それは大変な生活で、絶海の孤島で人里はなれて環境が厳しくて助け合いながら一緒に夫婦二人で守ったんだよ・・・・。寂しいところで不自由の多い生活だからね」

そして、木下恵介監督の映画“喜びも悲しみも幾歳月”の話をした。二人で子供を育て、苦労を乗り切って行った。でも最後は子供に裏切られた。

ここで勇次が映画張りに、

「灯台の光が沖の先まで輝いて見える。俺もお前もこの光を守るために生きているんだ」

「ええ、私も貴方と一緒に生きて行きます。宜しくお願いします。光よ永遠に届け・・」

凛々が言って笑って腕を取った。

「私たちも頼りにするのはお互い同士。色々と障害があっても労りあって、力を合わせて今を生きるしか方法はないからね」

こんな風に凛々が語ると灯台守のような思いになった。

「そうだねこれから二人で仲良く生きて行こう。何が有っても」

勇次が言うと、凛々が腕を強く握って意思を表現した。


話しが盛り上がった所で、自転車を漕ぎタイヤがアスファルトと馴染む感触を感じながら勇次が、話を現実に戻した。

「招薫との本当の関係は」

「同じこと何度聞くの大学の同級生で元婚約者。それだけだからね」

妊娠のことは言わなかった。

「それって大きけど」

「大きいけどね。お互いに良い経験をして人間的に成長出来た。今ではそう思える程に過去になった。それで納得ですか・あ・な・た」

これだけ言って、それ以上、今は話したくないと言う雰囲気だった。勇次は招薫にまつわる黒い影、すなわちダーティーなビジネスについても聞きたいと思う衝動を抑えた。


気まずい雰囲気が漂ったが、勇次の勧めで“光里そば食堂”に入った。店はそば以外にも、おから料理で有名だった。おからのサラダが美味しいと聞いていた。それは注文した島唐辛子付きの沖縄そばと一緒について来た。前評判通り歯ごたえが良くてとっても美味しかった。

「これってラッキーだね」

「真理亜に凛々も一緒に付いて来たみたいに」

上手いこと言うなと思うとともに気分がめげた。

他にもおからを使用したハンバーグ、島豆腐も注文したが豆腐系料理が美味しかった。ヤシガニもメニューに出ていたが、朝からさすがにそれを頼むことは出来なかった。


店を出て島の海岸からの潮風を受けながら走っていると、凛々が突然「招薫のこと話すね・・・良いですか」と言って自転車をゆっくりと漕ぎながら、招薫との事を詳しく語った。途中、海岸の岩に座って話を聞いた。凛々はダーティな部分を含めて本当の事を淡々と語った。

話を聞いた勇次は、

「凛々ありがとう。これからは二人で一緒に協力して灯台守のように歩んで、一緒に社会の役にたつような仕事をして行こう」

勇次が生真面目に言うと素直に頷いた。

良い雰囲気になった時に凛々に電話が入り、話しの途中で「悪いけど」と勇次に断わって、少し離れて距離を取った。帰って来た凛々は、「勇次、悪いけど直ぐに沖縄に帰ろう。ね、お願いだから」とまた突然の予定変更だった。逆らえなかった。さっきまでの良い雰囲気が一気に崩れて気分がめげた。 

 

宿に帰って時間待ちに、食堂でテレビを付けるとニュースで「招薫と岡本幹事長一行の車が交通事故を起こして、一人が重症で相手の車は逃走した」と告げていた。

このことを教えるために凛々に電話したが通じなかった。誰かと話しているようなので終ったら連絡くれるようにメッセージを入れた。

すぐに電話が掛かって来た。

「勇次、早くこの島を出よう。昨日、逃がした国嘉が台湾で殺されて、招薫が襲われた。早くここから出よう危ないよ」

凛々が言って、飛行場に急がせた。

幸い2時間後に石垣島行きの便があった。何か有ると思ったが詳細は聞かなかった。凛々が国嘉から貰った包みが気になった。

勇次には話し始めたら止まらない民族博物館の池島さんや比川に住み色鮮やかな糸を操り与那国花織の普及に努める東京出身の魔術師角山さんに逢って、凛々を紹介したいと思ったが、今回はそれも断念することにした。本当に残念な与那国島訪問だった。こんな気持ちを凛々は分かっていないと思ったが、凛々を捨てることは出来なった。それが彼女の個性だと思うようになっていた。


まさに“どなん”だった。そう与那国島のもうひとつの方言名「どなん」とは、与那国島は断崖に囲まれた島で、天候が不安定。そのため渡るのが難しいとこから「渡難」と呼ばれたことに起因しているという。その名前をつけた勇次も飲んだ酒「どなん」が良く知られているが、今回の出来事はまさに「どなん」に匹敵する出来事だった。

不思議な女、凛々のなせる業だった。こんなことで大学院に入って結婚して子育てする普通の生活が出来るのか不安になった。


車が空港に着いた。入れ替わりに那覇からの飛行機に乗った人が降りてきた。乗客の中にサングラスを掛けて、いかにもそれと分る怪しい男が数名いて、凛々を見て色めき立つのが分ったが、石垣島経由那覇行きの飛行機は全席満席なので、この飛行機に乗る事は出来なかった。

勇次は、ことの重大性を考えて那覇国際空港警察署に電話して空港での保護を求めた。最初、保護を渋っていた署長も、勇次が沖縄県の職員で沖縄先端技術大学の准教授であることが確認されると、勇次の要請を了解した。さすがに権威に弱い警察だったが、この時はありがたかった。石垣島で客と同時に護衛の警察官が乗り込んだ。当然、那覇国際空港に到着後に、警察の事情聴取を受けた後に、特別の配慮を得て二人は無事に那覇市内のそれぞれの自宅にパトカーで帰った。密かに凛々には警察の24時間張り込みが付くことになった。


「先生、自分の行動を慎重にされるように、あの中国女性は魅力的ですけど危険ですよ。先生の肩書きに傷が付きますよ。私は先生の本のフアンなんです」

帰りがけに署長が、言った言葉が印象に残った。

 丁寧に礼を言って署を出た。

一緒に受けた警察の事情聴取に勇次が分るだけでも、凛々は隠している点が数点あり、警察も不審に思ったが確証が無かったので、必要以上の詮索はしなかった。ここでも勇次の大学准教授という肩書きが役にたった。

それにしても凛々は不思議な女で、もう真理亜のおまけとは言えない存在だった。勇次は、与那国島に行く前は“石巌當”の伝播が、この島にあったのかを調査したいと思っていたが、出来なかったので次回に回した。その時は勿論、今回訪問できなかった人を訪ねる予定だ。文献によると与那国島には石巌當は無いと報告されているので確認したかった。


そんなことを漠然と考えていると突然携帯に電話が入った。

《凛々です。何してる》

《明日の仕事の準備》

《会いたい。今すぐ》

凛々が言った。

《さっき別れたところだよネ》

勇次が言っても言い出したら聞かない。

やっぱり一人で帰したのは間違いと反省して、車で凛々が住むマンションに迎えに行って那覇市内に出て食事した。後を警察の車が着いて来たが、これには安心感を持った。

自分勝手な自己中女とは思ったが一緒にいると楽しかった。

凛々の勇次を見る目は輝いていた。

自分でも何かが起こっていると思った。

「今日は泊まっていけよ」

何度も誘ったが「あすから、私も仕事が有るから駄目」と言った。

「就職したの」

凛々に聞くと小さく頷いて、

「大学も合格した」

「なら、一度位は俺の言う事聞いたらどうだ」

強く言ったが返事はなかった。一度決めたら動かない意固地とも言える頑固さがあった。

 後ろを走っていたパトカーがトラックに道を遮られて道を失った。代わりのパトカーが追ってガードしたが、車とカーチエイスになったことで、勇次の車との距離が段々と開いて行った。バックミラーで後ろの状態を確認し闇の深さを知ったが、凛々への思いを断ち切ることは出来なかった。

こうしてまた、ステージが一つ変わった。


6.高山鎮にて(凛々の秘密)


 与那国から帰って勇次は、凛々との結婚を真剣に考えるようになった。自分的にはタイミングは熟していると思ったが、凛々の心を測りかねていた。

勇次には『俺でないと凛々を幸せに出来ないし、俺以外男では耐えられない』という自負が有ったが、常識では推し量れないのが、凛々の凛々らしいところだった。大学は冬休みに入り、凛々も大学院での学生生活が始まっていた。


①親に反発する娘

 高校に入った頃から、凛々は自分が何者かを考えることが多くなった。自分が両親の本当の子供で無いことは、大学入試の願書を整える時に指導してくれた教師から、

「凛々の本当のお父さんは何処に住んでいるの」

自然に聞かれて、答えられずにドギマギしていると、

「悪かった。もう知っていると思っていた。こんなデリケートなことをこんな場で聞くもんではないな。すまん」

教師が言うので、無意識に、

「先生気にしないで下さい。福建省の福州市で漁師をしています」

冷静に答えてその場をつくろったが、これで決定的になった。

それまでにも自分が、本当の子供ではないことは雰囲気で分っていた。両親が何か遠慮しているのが分った。生真面目な人間で嘘や見栄を張ることが出来ない人だった。小さい時は喘息気味で良く熱を出して、鼻を啜っていて見栄えのしない少女だったが、成長とともに背も伸びて全快した。娘が頭脳明晰で更に容姿端麗で余りにも立派に育ったのが自慢でも有ったが、いくぶん萎縮していた。

中学を卒業するころから両親がひそひそ話をする回数が多くなって、不思議な思いをしたのがきっかけだった。

学校の教師から、

「両親との関係はどうなんだ」

「ええ仲良くやってますけど」

「そうだな良い両親だからな」

教師に言われて『両親が良いのは当たり前だろうに』と思って両親に、

「私たち仲いいよね。親子だもんね」

凛々が聞くと母親は、

「そうだね親子だもんね。当たり前だ」

いつものトーンで答えたが、日頃から無口な父親が席を外して逃げるように寝室に入る時の態度が、何と無くぎこちなかった。

それ以降も以前と同じようにしていたが、心の何処かにひっかかり、どんな話を聞いても両親は、大事にしないといけないとの思いを一層強めた。本当の親子ならこんなことは無くて自然に付き合えて、喧嘩も出来るのではと考えたこともあった。

年頃になると両親と顔かたちや体型も似ていないことが気になった。両親は小柄で丸々しているが自分は、すらっとしていて顔の形も卵形で、小さく体格も華奢で両親のしっかりした体格とは異なることに違和感を持った。


小さい時から両親は、凛々を必要以上に大事にして、凛々中心の生活を送っていた。両親との歳の差も40歳有って一般的な中国の子供と親との年齢差としては大きく、小学校に入った時は自分の親が歳を取っているのが嫌で、なるべく学校に来ないようにと言ったことを覚えている。

今思うと両親には申し訳ないことをしたと思える年頃になった。

凛々が7歳の時に盲腸が手遅れになり腹膜炎になった。高熱を出して近くに医者がいなくて困っている時に、母親が誰かに電話して医者を自宅まで寄こしてもらって、3日間手当てをしてもらったことがあった。その間、両親は寝ずに凛々の横で見守ってくれたのを今でも覚えている。

貧しい生活の中でさぞかし治療費は高額だったと見えて、1ヶ月くらいは両親の食事にはおかずがほとんど無かったのを覚えている。その時でも凛々には普段と同じものが出された。食べないと両親が悲しむと思って食べるというより飲み込んだ。

あまりにも自分中心の生活になるので、かえって親には何もいえなくなって遠慮するようになった。

また、親を喜ばすために勉強を一生懸命やった。

大学受験のとき母親から、

「出来る子供を持った親は嬉しいけれで、親元を離れて大学に行かれると寂しいね。それも奨学金をもらって」

このように言われた時は、自分が親元を離れたくて、大学に行くように思っているのではと思われて、申し訳ない気持ちで一杯だった。

凛々は両親に何の不満も無く自分のやりたいことが、思いきり出来たことに感謝していたが、最近はそれを普通に戻したいと思っていた。どうも育ての親を大事にしなくてはという思いが強過ぎて、不自然な仕草になってしまい、意識しないようにすればするほど意識してしまうことがあった。


そこで、出発点に戻るためには自分のルーツを知ることが必要と思い、招薫と別れ心の傷も癒え、自分の生活にも少し余裕が出来たことを受けて、心当たりを探って見ることにした。手始めとして、かねてから気になっていた電話帳に書かれている凛々の知らない電話番号に電話を掛けてみた。

その数は8件あった。そして会話の中から「蘇州省読谷村の凛々です」と言った時に相手が言葉に詰まったり、要領を得ない返事をしてニュアンスが変だった3件について実際に現地に行って調べて見ることにした。

この3件の中に真里亜の母と明華も入っていた。あと一人は、むかし父親から金を借りて返済が遅れている人だった。

勇次と母親が始めて凛々を見たのは、2回目の訪問時だった。


 しばし感傷に浸った後、意を決して凛々は、勇次を無理やり誘って、自分が誘拐されて拘束された時に助けてくれたお礼をしたいと言う口実で、母親の家に明華を呼んだ。翌日、勇次と一緒に昼ごろ母親の家を訪問した。もうこの時は明華も高山に戻っていた。


二人は、勇次と凛々の訪問を歓迎してハグで迎えてくれた。いつもと違う歓待なので戸惑ったが、凛々がいるからかなと理解した。挨拶もそこそこに早速食事が始まって、母親がせっせと料理を運んで来る。最初は差し障りの無い会話をしていたが、食事が半ばに進み、酔いも回ったところで、

「勇次さんと凛々さんの関係てどんな関係なの」

明華が聞いてから俄然、会話が弾んで核心に迫った。

「ええ仲の良い友達ですかね」

今度は勇次に向かって、

「もう真里亜のことは完全に忘れたの」

「まだ完全には忘れていませんが、もう前向きに生きないといけないと思っています」

正直に、勇次が答えると、母親が、

「私もそう思う。真里亜のためにもね。凛々さんもそう思うでしょう」

意識して凛々に振ると、ちょっと時間を置いて意思を込めて、

「ええ私もそう思います。でも勇次さんは、もう新しい道を歩んでおられると思います。私も仲良くしてもらっていますし。迷惑でしょうが」

「いいえ迷惑じゃないですよ。色々お互いに足らないところも補い合っています」

「それじゃ仲の良い夫婦と同じだね」

明華が言い、

「そうだ、そうだ」

母親も囃し、また料理を作るためにその場を離れた。

それから暫く、雑談が続いたがお互いに本題には中々入らないでタイミングを探っている様子だった。


ついにそのタイミングが訪れた。

「明華さんはおいくつですか」

凛々が聞いた。

「おはずかしいですが、もう48歳になりました」

「そうですか。でもそんな風に見えませんね。まだ30歳位かなって思っていました。お綺麗ですから昔から人気があったんでしょうね」

「いいえそんなことはありませんよ」

明華が言うと母親が話しを引き取って、

「ええ、明華は私の義理の姪ですが、昔から仲が良くてね。家では男が鉢合わせしないようにするのが大変だったんだよ。頭が痛かったよ」

本当か嘘か分らないように茶化して言った。

これで少し場が緩んだ。

「そうでしょうね。昔は携帯が無いから本当に大変だったと思いますね」

これに対する答えは無く、反対に明華から、

「ご両親はお元気なんですか」

「ええ元気にしています。でも、もう歳ですからあっちが痛い、こっちが痛いと言っていますが」

こう答えて凛々は女性二人に絡まれたが、大きな変化は無かった。母親は凛々の両親を知っているが、明華は全く両親のことを知らない。

「蘇州でしたよね」

「ええ蘇州の読谷村です」

「あそこの米は美味しくてね。いまでも知っている人に送ってもらっているよ」

「うちの両親からですか」

「ああそうですよ。いつも感謝しています」

遂に話しがつながり、話が膨らんで行った。


更に凛々が突っ込みを入れた。

「うちの母とは、どういう関係なんですか」

お母さんとは、昔一緒の工場で働いていて、お父さんとも知り合いで一時は家族ぐるみの付き合いをしていた事を話し、一緒に武威山観光にも行ったこともあると言った。

「そうですね、その写真見たことあります。あの写真がおばさんだったんですか。今とは体型がだいぶ違いますね」

「そうだねあの時は私も若かったからね」

「その直ぐ後に結婚されて、真里亜さんをお産みになったんですよね」

「あなた良く知っているね」

「だって歳から見たらそうでしょう。今生きておられたら私と同じ歳ですものね。真里亜さんお誕生日は何時でしたつけね」

母親は少し躊躇して、

「確か8月3日だと思うけど。熱い日でね本当に大変だったんだよ」

「やっぱり私と同じだ」

自分の考えどおりであったことで安心した。


ここまで聞いていて、勇次はこれからの展開を予想しながら、話を冷静に聞く事にした。但し、行き過ぎた展開になった時は止めなくてはいけないと思っていた。

「本当だね。誕生日も同じ顔も良く似ている。これは双子かもしれないね」

母が冗談とも本気とも取れるトーンで言った。

「お母さん、私もそう思うんですけど、双子じゃなかったんですか私達。真理亜さんと・・・わたしは」

母に聞いたが、

「・・・・・・・」

無言で答えなかった。

その様子を見て、

「やっぱり双子だったんだ。そうなんでしょう」

凛々が言ったので母親が、

「そうだね双子だった」

あっさりと認めた時には、勇次は驚いて血が頭に上って、手の震えを押さえることが出来なかった。周りを見ると明華の動揺が大きく顔は真っ青になっていて目は虚ろだった。

なぜ、明華がこのような表情になるのか、元を正せばなぜこの場にいるのか、この時は理解出来なかった。

「おばさん、私があなたの子供なんでしょう。違います」

凛々が母に向かって言って一気に核心を突いた。

それには躊躇無く、

「あなたの言う通り、私がお前の母親だよ。本当に迷惑掛けてすまなかった。明倫さんにはお前を立派に育ててもらって感謝している。感謝してもしつくせない」

そして回りをかまわずに泣き、つられて凛々も明華も泣いた。


少し時間が経過して気持ちが落ちついたのか、凛々が、

「おばさん、私の出生証明書を見せていただけません」

「それは何処かにあったと思うけど、今すぐにはどこに直したか思い出せない。これからもちょくちょくここには来るんだろう。その時に見せるようにするよ。探しておくから」

「今、見せて下さい。お願いします」

凛々が納得せず、食い下がったので、

「凛々、もう良いだろう。探してくれると言っているんだから」

勇次が言っても納得せず、

「何で真理亜さんと一緒に育ててくれなかったんですか?私が嫌いだったんですか。可愛くなかったんですか?」

執拗に聞いても答えず明華が、

「凛々さん、その当時は貧しくてね。それに双子を嫌う風習がこの土地にはあったんだよ。それでおばさんが・・・本当にすみません」

助け舟を出すと、

「そうだね。今じゃ考えられない程に貧しくてね。子供二人を一緒に育てられなかった。本当にすまない、本当にすまない。本当に許しておくれよ」

それでも納得せずに、

「私は許さないからね。本当に、何で一緒に育ててくれなかったんですか。明華さんもおかしいと思うでしょう」

ひっこく攻めた。ここで勇次が、割って入った。

「お母さんもこのように謝っているんだ。本当に良い人だよ。そんな良い人が子供を養子に出すんだ。その気持ちを少しは考えて欲しいな、凛々はそれが出来る人だと思うけど」

凛々を諭すと母親は、

「勇次さん、ありがとう。それは凛々も分っていると思う。思い切り言われた方が私も納得するから。それでいいんだよ」

そして泣きじゃくった。それを見てまた凛々が嗚咽しながら泣いた。何故かこの時、明華は冷静だった。

どれくらい時間が流れただろうか、窓に夕闇が刺す頃になると普通の食堂の雰囲気に戻っていて母親の、

「さあ、ここからは思い切ってビールでも飲んで、これまで積もりに積もったことを皆で、喋ろうじゃないか。いいだろう凛々。今日はお前も泊まってお行き。良いんだろう勇次」

母が言うので勇次は、

「是非そうお願いします、ビールもいいですね。興奮して喉が渇きました。でも部屋は別々で。それでいいだろう凛々」

笑顔で振るとピースサインをしたので早速、ビールが運ばれて来て母親の乾杯で夜の部が始まった。ビールが運ばれてくる間に、凛々と明華を見ると顔の形、中でも目の周りが瓜二つだった。更に体型も似ていて肌も白いが、母親と凛々は、失礼ながらまったくと言って良い程に似ていない。それに亡くなった父親も真理亜にどこか遠慮している雰囲気があった。勇次のコンピューターが、高速でデータ処理を始めて直ぐに答えを出した。その答えを心で検証しながら齟齬がない事を確信した時に手が震え出し、それが段々と大きくなったので、もう一方の手で力を入れて押さえた。


この話は今後、もう一揺れあることを覚悟し、今の心の動揺を抑えるのにビールはうってつけだった。最初の1杯目を素早く流しこんで気持ちを落ち着かせた。

「勇次、今日は飲みっぷりがいいね」

母親が茶化して言ったのを、

「濃い話で喉が異常反応しました」

皆の笑いを取った。


この言葉に続いて凛々が、

「小さい時に、嫌だったことは、耳の後ろをごしごしと無理矢理に石鹸で洗われたこと。そして“早く食べなさい”と朝、いつも言われたこと。そして同じ事を何回も繰り返し言われた事。それが嫌だった。

そして、嬉しかったことは、熱の時に、時々そっとおでこに手を当ててくれたこと。誰もいない時に好物の揚げパンをつまみ食いさせてくれたこと。等、しょうもないことばっかり思いだす」

「そうだね私も同じ事をしていた。真理亜の耳の後ろを必至に洗った記憶がある」

「でもね、そう言えばお茶碗割った時や、障子ガラスに突っ込んでしまった時には、母は怒りませんでした。逆に、“女の子なのに・・・どうするの”と涙ぐんでいました」

家族との出来事を走馬灯でも回す様に語った。母親と明華は凛々の知らない部分を知れて感慨深かったが、二人の眼には薄っすらと涙があった。


ここで、凛々の不規則発言が有った。

「でも嫌だったな。小学校時代、まったくセンスのない色やデザインの子供服を母親が手作りし、無理やり着せられていました。同級生のような服が着たかったです。髪も、高校に入学するまで母親が家で散髪していました。当然、友人たちにからかわれていました」

「お母さんも悪気は無かったと思うよ。お金がなかったのとセンスが違ったんだと思うよ。でも愛情だけが有った」

明華が育ての母をかばった。

「私も色んな人に迷惑を掛けてね。でも最近、人の情が少しは分るようになって来た。でもまだまだだね。でも今は回りの人のために頑張らないとと思っている」

こんな発言から脚色し生い立ちを語った。


②勇次の仲介

酔った勢いと照れ隠しもあって、皆が話に口を挟み行きっ戻りつしながらも、暫くは凛々がこれまで歩んだ人生のことを話し、母親がそれを冷静に聞いた。当然、勇次が初めて聞く内容で興味深かく、結果として凛々との仲も深まった。特に、凛々が盲腸を拗らせて命が危うかった時の両親の対応を聞いた時は皆、涙した。

「それでこれからどうするの」

勇次が、聞いた時には、勇次も驚く答えが返ってきた。

「私も中国で色々あって、この国を出て、日本に行って勉強しています。それも沖縄に行ってね。勇次さん迷惑じゃ無いですか?」

「全然迷惑じゃないですよ。楽しんでいますから」

「それで、大学院卒業後は、どうするの」

「結婚して働く」

皆はそれが良いと思うと頷いたが、母親は、

「両親は寂しいね。許してくれるんですか」

「許してくれると思います。結婚も早くして、孫を両親にプレゼントしたいんです」

こんな発言に、勇次を除いて二人が驚いた。

すかさず、

「誰と結婚するの」

母親が聞くと、少し照れながら、

「もし許してくれるのならここにいる勇次さんと・・・・お願いします」

恥ずかしそうに言って下を向いた。

「それで勇次お前はどうなんだい」

母から聞かれたので、勇次は、

「凛々の両親、お母さん、明華さん、それに私の両親が許してくれたら是非とも結婚したいと思います」

結婚を宣言すると凛々を含めて皆が拍手した。

暫く乾杯の嵐が巻き起こった。4人はそれから、我を忘れて飲んだ。まず最初に、凛々がダウンしたので、勇次が母親の指示に従って用意された部屋に連れて行った。

服を着たまま寝かせた。

「勇次、今日はこのまま寝かせるんだよ」

母親が言って、勇次を食堂に帰して、凛々の寝ている部屋に再び入った。

降りてきた母親は、

「服が窮屈だといけないと思って、緩めて脱がして来た」

優しく言った。

「さすがに母親だ優しいね」

勇次が言うと母親が、

「勇次、今日は良い機会だからお前に言って置くことがある。酔っていて聞きそびれたという話は無しだからね」

念を押してから話し出した内容は、昨日までの勇次の想定を超えていたが、今は納得出来る内容だった。


母親が明華に向かって、

「明華、お前このままで良んかい。もう全て言ったらどうかね」

母親が声を掛けると、明華が二人を見て思案顔になった。

「おばさん、私、もうどうしたら良いのか分らなくなった。皆が、私の子供を立派に育ててくれたんで、感謝してもしきれないと思うんです。おばさんどうしようか」

明華が言うと母親が続けた。

「明華、ここはもう全てを話して気持ちを軽くした方が良いと思うよ」

勇次はここまで聞いて全てを理解したが、話の流れをスムーズにするために意識して惚けて、これから先の話は何を言っているのか分らない、ひょっとしたら母親は、酔っているのではないかと思うように振舞う事にした。

「お母さん酔いました」

「私がこれくらいの酒で酔うはずが無いだろう。それにあんなに可愛い凛々と酒を飲んで酔うはずがないだろう」

勇次に食ってかかって来た。

「叔母さん分った。今から全て話します。勇次さん、私の話を少し聞いてください。お願いしますね」

そして話し出した。話し出す前にまず、バックから古い紙切れを出して見せた。

それは出生証明書で【この女性 郭 明華は2名の女の子供を1984年8月3日に福州市213解放軍病院で産んだことを証明する。】と書いてあった。勇次は内容を確認するために2回読んだ。

「勇次、内容は理解できたかね。難しい中国語じゃないからお前でも理解出来ただろう」

「分りますが。確認ですが、真里亜と凛々は双子で、そのお母さんはここにいる明華さんていうことですか」

「そうだね、その通りだ。よく分っている」

そして間を取った。

この不自然な間を破るように明華が喋った。

「そうなんです。私が本当の母親、おばさんや勇次さん、それに二人の子供には、言葉では言い表せないひどいことをした鬼のような母親なんです。本当にすみません。私は人間の顔をした鬼なんです。本当に許してください。すみません・・・ほんとに」

そして泣き崩れた。

暫く間合いを取って、

「明華さん。凛々にとっては大変なことだと思います。完全にお母さんを自分の母親と思っていますからね」

分ったようなことを言ったが母親に一蹴された。

「勇次お前はお人よしだね。育ちが良いというか、感が悪いというか。娘の旦那になる男としては頼りないね。凛々は全て知っていると思うよ。それが分らないのかねお前は・・本当に」

母親に叱責されて驚いていると、それに輪をかけて、明華が、

「私もそう思う。凛々が喋っている時には、私の反応を見て喋っていた。鋭い視線で、私はもう射抜かれぱなしだったね。心はづたづただよ」

そして手に持ったビールを飲み干した。

「さあ、もう一本飲もうか」

「明華、もうここらで止めとき、飲み過ぎだよ」

母親が、窘めながらも1本ビールを持って帰って来て、勇次と明華に注いで瓶に残った分を自分のグラスに注いだが、少し多かったのかグラスからこぼれそうになったので、あわててグラスを持って口に運んだ。


それに促されるように明華がことの顛末を話した。それによると、母が男とアメリカに去ってから、叔母の此処にいる王凛正に育てられた。母親に捨てられたとの思いが強く、罪のないどちらかと言うと恩のある親代わりの凛正さんに反発し、中学を卒業しバスの車掌をしていたが、18歳の時に家を出て不良と遊ぶようになった。お決まりのように20歳で、福建マフィア構成員の男の子供を妊娠した。男の愛情を信じていたのと教会の影響もあって人工流産する決断は出来なかった。

幸いその男は、幹部の息子だったので親が明華を福清の病院に入院させて子供を生ませた。しかし出産後、子供の世話は全くせずに叔母の凛正に預けぱなしになって、何時しか足を向けなくなった。子供が疎ましくて、その場から逃げ出したかったとも語った。

足を向けなくなった明華を捜して凛正は手を尽くしたが分らず、男の親の助けを借りるのも悔しかったので、一人の娘を養子に出した。この時の判断が正しかったか、今でも後悔することがある。経済的には男の親に頼ることが正解だったかも知れないが、身内をやくざの一員にするのは絶対に阻止したかった。

姉や姪のようにはしたくなかった。やくざに係わった人間の成れの果ては、中国でも日本でも多く見て来た。


結果的には、この母親の判断は正しくて娘たちは、裏の世界とは無縁に育ち、表の世界でのびのびと暮らすことが出来た。これは一重に母親のお陰だった。

母親の話しに明華は絡まなかった。一人で自分の犯した罪を後悔しているようだった。一人泣きじゃくっていた。

堪らずここで、母親が助け舟を出した。

「明華も後悔して、今は裏の世界とも関係を切ったんだから。それに凛々はもう2回命を助けられているんだ。昔、凛々が腹膜炎になった時に医者を派遣したのは明華だし金も出した。あの金が無かったら多分死んでいたと思うよ。それにこの前の誘拐騒動だ。これがいなかったら殺されていたと思う。凛々を助けたために明華は組織を辞めることになったんだからね」

「本当にですか」

「勇次、本当だよ」

明華が組織を辞めることになった詳しい経緯は、この話しだけでは勇次には理解出来なかったが、大きな金が動く裏の組織を跨った協力にはきっと口に言えないものがあるのだろうと勝手に理解した。


夜も更けて、午前3時になったので母が、

「今日はこれ位にしようか。明日、また話をして、この件はもう決着をつけようか。たまった膿は早く出した方が良いと思うよ。勇次、お前もそう思うだろう。凛々は、心底からお前に惚れてるよ。お前も嫁さんにしたいんだろう。それが良いと思うから、この二人に早く孫を抱かせておくれよ。そのためには・・・・・明日、全てを解決しよう」

締めて解散になった。

勇次が自分の寝室に帰ろうとすると、明華が寄って来て、

「今日は色々ありがとう。これからも親子ともども宜しくお願いしますね。それにしてもあなたって優しいですね。凛々が信頼するはずだ。本当は全て知っていたんでしょう」

自然に言って手を出したので、

「・・・・・・・・」

無言で握り返した。

やわらかくて綺麗だが力強い握手だった。その力に母親の気持ちが込められているように思って少し力を入れて握り返すと、明華も笑って握り返した。これで二人は心の底から分かりあえたように思った。

部屋の窓から見る星が今日はやけに綺麗だった。

 

ところで、勇次は明華との係わりで、図らずも沖縄と中国で裏世界の怖さを知る事になった。最近、日本でも中国マフイアが復権して恐怖だという話を聞く。なかでも凶暴かつ大胆な手口で知られる「福建マフィア」が台頭している。明華や招薫が係わる福建省の組織は、いわゆる固定型。即ち、地域に深く根を張るタイプで俗称「地頭蛇」と呼ばれる。


③明華との食事会

翌日、食堂に降りていくと、母親と凛々が食卓に座ってお茶を飲んでいた。挨拶もそこそこに椅子に座るとお茶が出てきた。アルコールの残る胃袋にはちょうど良い湯加減だった。

「凛々、もし良かったら街に出て一緒に散歩しようか」

飲み干して、勇次が言うと頷くので誘って街に出た。

家を出る時に、

「1時間もすれば皆が揃うのでそれまでには帰って来るように」

母親に言われた。

ゆっくり歩いて高山公園に向かい、真里亜に挨拶して海を見た。太陽に照り返されて海が光り輝いていた。

「海が綺麗だね。毎日新しい綺麗な朝が確実に訪れる。これって素晴らしいことだと思わない」

「当然でしょう。それって」

「当然のことが当たり前のように繰り返される。それって素晴らしいと思う。僕なんか怠け者だからついついサボってしまって。当たり前のことがあたり前のように出来ない」

「そう言えば私もそうだね。当たり前のことが当たり前のように出来ない」

「だろうだからこれって素晴らしいんだ」

一人で詩人の気分になった。

暫くして、

「無名詩人さん。昨日は本当にありがとう。助かった。」

「何が、僕は何もしていないけど。それを言うならお母さんに言ったら良いと思うけど」

「あなた本当のこと知っていたんでしょう」

凛々が聞くので、少し考えてから、ここはある程度は話したほうが良いと考えて、

「あなたの知っていることってどういうこと」

「明華のこと」

凛々が毅然と言うので用心して鎌を掛けて、

「誘拐された時に明華さんに命を助けてもらって感謝しているってこと」

「それは感謝しているけど。それはある程度当然だからね」

「どういうこと。意味わからないけど」

「本当に知らないの。それとも私に罠を掛けてる」

「どんな罠」

「私に全て言わせようとしてない」

「そう凛々に全て言わせようとしている」

「それって冷たいね。少しでも優しさが有るのなら、あなたが私の思っていることを言いなさいよ。私があなたの勘の良さを見てあげるから」

凛々が言うので、ここは一気に言うべきと考えて、

「凛々の本当のお母さんは明華だってことですか」

顔を見ながら言うと、

「なんだ勇次も知っていたなんだ。惚けるだけそんしちゃった」

そして勇次の肩を突いた。

「何時から知っていた」

「話の途中、あなたの出生証明をお母さんが分らないと言った時からかな。それに凛々の明華を見る目が鬼になっていたからピンと来た」

「そうかそうだったか・・・私、鬼ですか」

そして空を見た。

「でも良かった。あなたが私の全てを知っても、私を愛していることが分って」

嬉しそうに言って勇次の腕を取って、山を降りて市街地に出てメインロードの角に在る偽マクドナルドでドーナツを5個買って、勇次に金を出させて二人の母親が待つ自宅に帰った。


テーブルには既に明華も座っていた。

凛々は明華の横に座って、明華の顔を見ながら

「おはようございます。お母さん」

元気良く言った。皆が呆気に取られたが、それには気にかけずに、袋からドーナツを出す素振りをしたので慌てて母親が皿をだして、凛々がその中心にきっちりとドーナツを置いた。

そして「さーあ頂きましょうか」と言うとその声に促されて、皆が機械的にドーナツを口に運んで食べ、勇次が「これ美味しい」と言ってからはそれぞれが、思い思いに話し出して、普通の家庭の朝食風景になった。

母親が気を利かせてコーヒーを入れてそれを飲んだ。

食事が終わる時には皆の顔は明るく耀いていた。


「皆で街に出てお洒落な昼食を食べない」

ここで明華が、言うので勇次が賛成すると凛々も賛同した。唯一母親は、友達との約束があるからと言った。仕方無く、3人で明華の驕りで食事会に行くことになった。

多分、母親は意識して参加しないのだとは思ったが、誰もそれを察して言わなかった。食事会が決まると、またさっきの雰囲気が戻り、ここで明華が積極的に喋った。此れまで余り気にして無かったが、顔に似合わず甲高く大きな声で決して美声とはいえなかった。

日本の女優、工藤静香の声だった。其れに比べれば、凛々は綺麗な声で耳障りが良く滑るように喋った。

親子でも此れほど違うのかと思ったが、肌の白さは親譲りだった。言葉では表現できない位に白くて木目が細かい。太陽の強いこの地でどうすればこれほど白く保てるのか不思議だ。そして女性同士の会話は日中ともに屈託がない。


もう終ると思っては盛り上がって、食事と会話は中々終らなかった。ようやく10時にそれは終わり、化粧をして10時30分には家を出ることが出来た。

女性陣に圧倒されてもう勇次は家を出る前から疲れ果てていた。

「じゃあお母さんちょっと行ってきます」

明華が言って、3人で出掛けた。

「どこに行きましょうか」

車に乗って勇次が聞くと、

「福清の海口に行ってくれる」

明華が言うのでそこに向かった。

さすがにカーナビは無いので表示が頼りで、要所要所を明華が案内した。行き先は古い橋だった。此処は勇次も知っている思い出の場所で、橋の前で車を止めて歩いた。

「凛々ここだよ。私と死んだお父さんがよくバイクで遊びに来たところ。この先の海で泳いだり、海で遊んだり、魚を取って遊んだ」

懐かしそうに言った。

「そうですか楽しかったんですか」

「ええ楽しかった。天国にいるように思ったこともある」

そして空を見た。

空はどんよりとしていたが、この地方ではいつもこんなもんだった。

「伯母さん、それで父とはどうして知り合ったんですか?」

凛々が聞くと、明華が街でチンピラに絡まれた時に助けてくれたのが縁で知り合って、一緒に色んなところにバイクで行って遊んだ。もう全てを投げ捨てて、それがただただ楽しかった。 

言葉では言えないほどに楽しかった。今までの人生であんなに楽しいと思った事はないね。でも昨日から、ひょとするとそれ以上の楽しさを味わえるのではという予感がしている」

明華が嬉しそうに言うと凛々は冷たく、

「そうですかねえ・・・・それは」

短く答えて明華の醸しだす楽しそうな雰囲気を断ち切った。

「凛々、もっとお母さんに優しく出来ないのか」

勇次は凛々の耳元で、小さな声で言ったが答えは無かった。

通りかかった人に橋の袂にある石碑のところで、3人の集合写真を撮ってもらった。真理亜ともここで写真を撮った事を思い出した。


約500mの古い橋を渡って、またそこで写真を撮って、戻って来て橋の袂にある“海口兄弟魚菜”に入って食事をする事になった。既に予約していたみたいで予約席に座るとすぐに料理が出された。明華が2時間でお願いします。と言って白ワインを頼んだ。

「さーあ今日も多いに飲みましょね。勇次さんも飲んで良いよ。車で送ってもらうから」

明華が言うので笑顔になった。

「昼から飲む酒は美味しいからね」

「でも癖にならないようにね。酒に飲まれる人もいるから。凛々も確り管理してね」

「伯母さん、ありがとうございます。頑張りま~す」

凛々がふざけたが、意識してお母さんと言う言葉を出さないようにしていると思えて、それが不自然だった。


「それで貴方達はいつ頃、結婚するつもりなの」

明華が聞くと、凛々が、

「それはこちらに聞いて下さい。まだプロポーズもされてないからネ・・・」

「そうですね。僕はいつでもOKです。今からプロポーズしようか」

「お願いします」

凛々が言うと暫く間を取って、凛々の横に行って、

「凛々さん、もし僕が好きでしたらこれから私と一緒に、これからの人生を歩んで頂けますか」

少し真面目に勇次が聞くと、

「ありがとうございます。これから一緒に歩ませて下さい。宜しくお願いします」

凛々が言うが早いか、勇次が凛々の唇にキスをした。

見ていた明華はあっけに取られて、暫くして拍手をし、回りの人も驚いて拍手した。

「さあプロポーズも終ったことだから食事にしようか」

ワインで乾杯して食事が始まった。

出された料理は佛跳墻、酔糟鶏、酸辣爛魚、焼片糟鴨、太極明蝦、小糟鶏丁、白炒鮮竹蟶、生炒黄螺片、炒西施舌という料理だと明華が説明したが、勇次と凛々には理解出来なかったが、家庭料理と違ってさすがにプロの味だった。

      

 店は河べりにあり屋台に毛が生えた程度の店だが、料理の味は此れまで食べた中では一番に近いものだった。

料理が美味しいので話も弾み話題は、もっぱら父親の話だった。

「父親は、あなた達、双子が美人なように、ハンサムでいい男で、女の子にもよく持てた。でもシャイな性格で女子は苦手と言っていた。特に凛々の唇から鼻の辺りのラインが良く似ている。それに彼には父親コンプレックスがあって、その反動で何時も父親に逆らっていたの。それでも父親の影響力から逃れる事が出来なくて悩んでいた」

明華が懐かしそうに語った。

「そうなんですか。表面上は強いけど中身は弱い」

「そうそう、そんな男だった。それで、組織のトラブルに巻き込まれた仲間を一人で助けに行って、逆に返り討ちにあってあっけなく死んでしまった。本当にあっけなく。お前が生まれて6ヶ月目だった。凛々」

そこまで言って、凛々の顔を見た。

凛々の目にはうつすらと涙が浮かんでいた。

「お父さんの写真無いんですか」

「すみません。もう古いことなんで捨ててしまった。ゴメンなさいね」

「それじゃ。お父さんの家族は」

「それは今でも健在でね。でも逢わないほうが良いと思うよ」

「何故ですか」

「あなた達と全然違う世界の人だから。会いたいというなら逢わせるし、あっちも喜ぶと思うけど」

逢わしたくないような雰囲気で言ったので、凛々は、

「そうですか。私、いまは逢いたくないです」

この話を切った。これ以上、話は進まなかった。

「こうして一緒にいると心が和みますね」

「そうだね、これからゆつくり時間を埋めていこうネ」

優等生的な会話があってから、また食事タイムに入った。


さすがに昼間から飲む酒はよく回った。

「伯母さん、今一人ですか」

「凛々、あまりにもぶしつけじゃないの。質問には気を付けろよ。少し遠慮したら」

「良いじゃないの一番近い親戚なんだから」

「いいのよ勇次さん。もう男は卒業だから。でも勇次さんみたいな良い男なら考え直してもいいけどね。そしたら凛々が困るか・・・・そうでしょう」

冗談ぽっく言うと、この言葉を受けて、

「やっと本性発揮と来ましたか?」

凛々が返した。

「凛々、お前言葉に気をつけろ。一度、口から出た言葉はもう戻せないんだから、一度頭で考えてから口に出せば」

勇次が凛々の頭を軽く叩くと、

「アア痛たーあい」

甘えてふざけたので明華が笑って、凛々がフグになった。

「凛々さんて優等生的な見かけによらず面白い子供だね」

この言葉でまたフグになった。

勇次が、

「てつちりにして食べようかな」

トンチでふざけると、

「“てつちり”ってそれは何ですか」

マジで聞くので、説明すると大きな声で笑った。


二人の会話を楽しそうに聞いていた明華が、

「私ね、貴方のお父さんと知り合って、6ヶ月後に妊娠して、それから毎日喧嘩。そして子供が生まれてからは、喧嘩と仲直りの繰り返し、そして6ヵ月後に旦那が死んで、アメリカに行って母親の死に様を見て、泣いて、立ち直って組織に入ってリーダーになった。そして、この20年で得たもの全てを失くした」

人生を振り返って言った。

「伯母さん、私のために・・・本当に」

聞いても答えなかったが、それは事実だった。でも明華はこれまで、顧みることがなかった娘の役に立てた事に満足して、心は満たされていた。失ったものも大きいが得たものも大きかった。

でも現実の問題として、此れからの生活をどうするかが課題だった。


「明華さん、これからどうされるんですか」

勇次が聞くと、

「そうね。生活ちょっと考えないとネ。でも何をして良いのか良く分らないし。組織離れると本当に全てなくなってね。組織の大きさを知る、この頃てとこかな。此れまでの自分が全て否定されたようで寂しいね本当に・・・本当にどうしようかなと思って・・・淋しい」

明華が不雑な思い語って、そして静かになった。

「そんなに悲観しなくても、捨てる神あれば、拾う神ありと言いますから、もう少し頑張って下さい。私も応援しますから」

勇次が言うと、

「ありがとう勇次さんて、本当に優しいんですね。本当に凛々は幸せだね。嫉妬してしまう」

勇次を褒めたが、優しい言葉で明華を慰める事は出来なかった。勇次は凛々が明華に対して積極的に話をしないことに不満を感じていた。

それが押さえられなくなった。

「凛々、お前ちょっと優しさ不足していないか?」

言うが速いか、凛々の反論が返って来た。


凛々の複雑な心を勇次は、理解していなかったことを、思い知らされる事になった。

「勇次さん、あんたは私の気持ちを分かってないと思うよ。だって私は28年間も捨てられていたんだよ。自分勝手な親のために。これって余りにも可愛そうじゃないの。親に捨てられた子供の気持ち、あなたに分りかりますか。貴方に・・幸せな」

「でも育ての親には大事にされたんだろう」

「それはそれ、此れはこれなの」

「途中で出て来て、したり顔で私の心の中に土足で踏み込まれるのは嫌なの。この気持ちきっと分かってもらえると思うけど」

「その気持ちはわかるけど」

「嘘だね。あんたは本当のところが分かってない」

「分かってる」

「分かってない」

「もういい加減にしろよ」

二人が本音で言い合った所で明華が、

「お二人さん仲の良いのは分ったけど、お願いだから、私のことで喧嘩しないで。凛々さんの心の中に、どかどかと踏み込んで行くつもりはないから安心して頂戴。でもちょっと急ぎ過ぎたみたいで、私ももうこれ以上二人とは必要以上に、係わらないから仲良くしましょう。

凛々さんに私が言える立場じゃないのは重々承知していますが、十分とは言いませんが、気持ちも少し位は分りますから。二人が言い争う姿は頼もしいけどね・・・本当にほのぼのしていて良いね」

そこまで言って、また食事に入った。

出された食事はどれも食材の持ち味を活かしながら、料理人の拘りが感じられ記憶に残る料理だった。

「伯母さん、私、叔母のこと本当のところでは分らない。でも伯母さんが悪い人じゃない事は分かったから」

「ありがとうね。本当にありがとう。焦らずにこれから始めようね」

嬉しそうに納得顔で言った。


そして三人は、常識的な答えだが、結局は時間が解決するしかないとの思いに行き着いた。

帰り際に凛々は、

「伯母さん、本当はお母さんって言えれば良いけど、それは許して欲しいの。時間が欲しいの。時間が解決してくれると思っている。だから時間が欲しいのお母さん・・すみません」

そして、照れくさいのか、後ろを振り向いて歩き出した。

それを追って、明華が、

「凛々、今度逢う時は、また仲の良い友達として逢おうね」

凛々は笑顔を明華に返した。

勇次は凛々を腕に抱きながら明華に笑顔を返し、その場を離れた。明華はその後ろ姿をいつまでも見守ったがそれは、娘を思う母の姿だった。


幸か不幸かこの時から暫く、明華と凛々は逢う機会がなかったが、逢わない時間が二人を冷静にして、次に逢える時はこれまでとは、一味違った雰囲気で逢えるような予感がした。


勇次は明華と分かれてから凛々の育ての親に挨拶して、交際の許しを得て凛々を連れて沖縄に帰った。そのことを高山鎮のお母さんと福州の明華にメールで知らせた。

二人からは、

【これから二人で頑張って下さい】

奇しくも同じような内容の返事があった。

そのことを凛々に言うと大きな声で笑ってから二人に、

【これから二人で頑張ります】

悪戯半分で返事を入れると同時に、

【仲良くね】

今度も同じ内容が帰って来たので、また大きな声で笑った。何処までも仲の良い家族だった。



7.沖縄から奄美大島さらに名古屋へ

 

勇次は沖縄県庁に籍を置きながら沖縄先端技術大学の准教授としての活動が本格化した。主は大学で殆どそちらで仕事をした。

 凛々も逞しく沖縄に根を張ったが、勇次はその挙動に納得出来ないことも多かった。しかし、持ち前の行動力と愛嬌、更に明るさが多くの人に受け入れられていた。

さすが、華僑の血が流れていると納得させられた。遠くから凛々を見るのは良いが、近くで付き合うのは確かに大変だったが、それに余りある喜びがあった。


①凛々の沖縄生活

凛々の沖縄での生活が始まって、5ヶ月が過ぎ生活も安定した。久米に有る翻訳会社に就職して、中国語と英語の翻訳で金を稼ぎながら、日本語学校に通った。日本語は上手なのでその必要性はないと思ったが、もう一度基礎から学びたいという希望と、大学入試に有利だからという事だった。留学生枠で受験するので日本語能力検定試験の結果が重要と凛々は言った。

思いが実り秋の大学院試験に合格し、日中の交流史を学んでいた。

最近は、週に二回は逢ってドタアポやドタキャンは無くなって、ようやく名実ともに結婚を前提にした恋人のようになった。


ところで、凛々が学ぶ日中の交流史だが、沖縄と福州・福建省の関係について考えて見ると、主に次の様な事が言えた。

沖縄は歴史的にも、日本本土とより中国とのつながりが深い。地図を見ればわかるように、南西諸島を伝って南へ、そして西へ行くと、そこには台湾がその先に福建省がある。

 琉球と中国の交流の名残は、今の沖縄に数多く残っている。わかりやすいものの一つが、那覇市と中国福建省の国際友好都市10周年を記念して1992年に造られた福州園だ。その名の通り中国福建省福州地方の手法で造られた中国式庭園だ。

 琉球は中国と密接に貿易をしていた。日本(薩摩藩)に併合された形になっても中国に対しては独立国としての体裁を保っていた。

 そのような関係があったので、琉球人が今の中国福建省福州にも住んでいた。そのため、今でも福州には琉球人の墓がある。那覇と福州の交流は古く、琉球と明が貿易をしていた14世紀末には福州から“久米三十六姓”と呼ばれる人たちが那覇に渡来していた。

 仲田沖縄県知事もその人脈につながる人だ。


このように琉球と中国には長い交流の歴史があった。となると、疑問に思うことがある。

というのは当時の琉球王国は中国の明帝国の冊封下にあり、薩摩藩が琉球に侵攻することは、明を敵に回すことで、これは琉球にとっても重要なことだった。

勇次は、中世日中交流史を考える時、最大の疑問だと思った。「久米三十六姓」と称された中国系の人たちは、島津氏の琉球侵攻に対して本国の明や清へは何も伝えなかったのだろうか。朝鮮とちがい琉球へ中国が援軍をだすことは一度もなかった。

 当時の中国には琉球人も住んでいた。彼らは中国に対して琉球の窮状を伝えなかったのだろうか。

この薩摩支配下の琉球と明清の外交が気になるところだった。やはり海という障壁が大きく海軍力に自信がなかったのだろうか。沖縄の重要度が低かったのだろうか。と考えるが結論は出なかった。


勇次の助言もあり凛々は、この当たりの事を中心に大学院で勉強したいという野心を持っているようなので期待していた。

勇次は良いセンスを持っていると凛々には言っていた。それを聞いて凛々は更にヤル気を起こして勉強に励んでいた。


勇次は沖縄に帰って来る前に、凛々と一緒に蘇州の太湖近辺にある凛々の家を訪ねて、両親に凛々と結婚を前提に交際させて欲しいとお願いした。

そして父親から、

「凛々、お前は三宅さんの事をどう思っているんだ」

「お父さん、勇次さんは良い人で、生活力もあって何よりも、私を大事に一番に考えてくれている。お父さんも知っているように、凛々には色々と扱いにくいところも有るので、彼を大事にしたいし、して欲しいと思っています。それで将来は結婚したいと思っています。親孝行も十分出来ずに申しわかりませんが」

凛々が答えると母が、

「凛々、それで良いんだね。後悔しないね。もうやり直しは効かないからね」

「お母さん。色々考えて勇次さんと一緒に歩いて行きたいと決心しました」

「お母さん、私も凛々さんを大事にして一緒に幸せになりたいと思っています」

勇次が両親に答えた。

「分った。凛々がそこまで言う男なら間違いないだろう。中々手なずけるのが難しい娘だが、宜しく御願いしますよ。末永くネ・・三宅さん」

父親が満面の笑みで言うと母親も拍手して、両親の了解を得ることが出来た。

両親は最後に、

「凛々は私達が言うのもなんだが、私たち夫婦には出来すぎた娘なんだ。私達の生活は自分で成り立つので親の事はあまり気にせず、娘には勉強させて思うように生きさせてやりたいと思っているんだ。貴方は凛々の夢を実現できる人だと思うから娘を暖かく見守ってやって欲しいんだ。くれぐれも頼むよ」

勇次と凛々が見ながら言って凛々を勇次に託した。

「分りました。自分の全力を尽くして守って凛々の夢を実現させます」

返事を返すと、

「やっぱり私が思ったような人だったんで安心した。なかなか元気があって乗りこなすのは難しい娘だが上手く頼むよ」

真理亜の父親の言葉と同じだったのも何かの縁だった。

そしてこの会話に続いて勇次が、

「ええ苦労してますよ。でも切磋琢磨で勉強になります」

勇次が返事すると父親が握手を求めて来て、母親と握手する時は、

「高山鎮の王さんも貴方は良い人だって言っていたから安心していたんだが、イメージ通りの人で良かった。さすが凛々の見る目に間違いは無いからネ。でも、あなたは良い男だから心配だね」

この言葉に父親は、

「そうだな、でもわしよりはちょっと劣るけどな」

皆が思ってもいないことを言ってバランスを取った。


そして、食事して一緒に酒を飲んで、家に宿泊すること無く上海に出て、凛々とお母さんにティファニーで純金の指輪を買って沖縄に帰って来た。ところで中国で両親に挨拶して許されるということは婚約を超えて結婚に近い意味を持っことだった。


②招薫の死

 沖縄に定住した凛々を訪ねてではないが、招薫が沖縄に来ていることを新聞情報で知った。凛々、得意の突然訪問の上手を行って十八番を取られた格好だった。彼の焦りが見て取れた。凛々は勇次と婚約し、招薫のことはもう過去の出来事になっていた。招薫はその辺りのことは理解していて、もう凛々に逢うつもりは全く無かった。

 今では勇次への思いが強いので凛々は招薫のことを、余裕を持って見られた。また。惜しむらくは、むかし招薫が今の立場、感覚でいてくれれば違った世界が有ったと思うが、もう時代が変わって、過去になっていた。凛々は、時間は戻せない事を悟っていたが、招薫はもっと早く知るべきだと分かって欲しかった。今は、はっきりそのことを確信していた。 


日本政財界、沖縄政財界-建築業のスキャンダルを尻目に、招薫は必至にもがいたが完全な敗北だった。

招薫は自分の出来る事は総べてやったと思った。表でも裏でもプライドを捨てて動いた。自分なりに考えられるリスクヘッジも行ったが、今思うと勝つための、勝ち残るための思考が無かった様に思っていた。“勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし”という言葉が理解出来た。 

生真面目に人間は性善説で動くと考えて構想を構築して来た。しかし今では、人間は嘘をつき、自分の利益のために動くという事を軽視していた事を思い知らされていた。


もっと自分の近くに老練なスタッフを置いて、その人の考えを聞いて行動すれば良かったと反省したがもう遅すぎた。ここは覚悟を決めて、2回目の失敗故に、父親の支援を受けて下住みを何年もしないといけないと覚悟を決めていた。これはエリート街道を歩んできた人間にとっては耐え難い事ではあったが、ここは更にもう一回休みが必要な時と考えた。まだ、失敗が許されるだけ幸運だった。


2回電話をするのを躊躇したが、3回目に父親に電話して事情を話し、助けを請うた。

「お父さん、招薫です。お忙しい時にすみません。」

そして事業の粗筋を喋った。

父親は息子の話を黙って丁寧に聞き、招薫は思っていることを父に向かって素直に話した。この時の父は話し易かった。此れまでの父とは違う感触を持った。意地を張らずに素直にもっと早く話しておけば良かったと思った。その点からはまだ過去の失敗経験が活かせていなかったのかもしれない。


そんな息子の気持ちを悟ったのか父親は優しく諭すように、

「招薫、事情は分った。大きな損失だが私たちに取っては、まだ取り返しの出来る失敗だ。早く相談してくれてありがとう。前の失敗の経験が少し生きたな。詳細を報告するために早急に、上海の事務所に来てくれ、そこで善後策を協議しよう。でも今度は、本当に5年くらい下積みをして経験を積む覚悟が必要だぞ。分かっているな」

この問いかけには冷静に、

「お父さん。分かっています。宜しくお願い致します」

ここまで言うのが精一杯だった。

来週の月曜日の午後6時に、父親と会う約束をして電話を切った。煙たくて近寄りがたいと思っていた父親と、ほんの少しだけ心を通じ合うことが出来たので、心は満足感で覆われていた。


翌日、ホテルの非常ベルが館内に鳴り響き火災を全宿泊者に知らせた。現場検証の結果、焼け爛れた招薫の死体が発見された。この火災で他に死者が出なかったのは不幸中の幸いだったが、招薫の部屋は全焼し、部屋に有ったかもしれない物は完全に焼失していた。このニュースを聞いて、民政党の岡本幹事長はにんまりと微笑んだ。

この時、部屋に押し入った賊は、部屋から回収した全ての物を依頼者に渡して悠然と姿を消した。


③ 凛々が殺人事件の容疑者に

 招薫が殺された事件の捜査本部によって、本人の携帯との通信記録があり、沖縄でも親しく逢っていたことが確認されていた凛々が警察の事情聴取を受けた。この取調べに対して自分の判断で完全黙秘を貫いた。その不遜な態度が警察の心象を著しく悪くしたが、自分が喋る事によって色んな人に迷惑を掛けると思ったので、状況がいま少し明らかになるまで完全黙秘を貫くことにしたのだった。

 

 正直、警察も凛々が真犯人とは思っていなかったが、何か事情を知っていると思って、その供述を期待したが、全く有効な情報を得る事が出来なかった。このルートとは別に、警察も本線である政財界ルートを探り、岡本幹事長のラインを追っていたが、そちらの捜査を秘密裏に進めるためにも、マスコミの眼を凛々に向けて置く必要があると思っての事情聴取だった。マスコミは完全にこれに乗せられた。


 参考人としての事業聴取は3日間に及びマスコミは、テレビを中心に面白おかしく男女関係を伝え、二人の過去が炙り出された。その中で凛々には新しい彼氏がいるとの報道も有って、勇次は恐縮してしまった。よって勇次の所にも報道陣がつめかけ、大学関係者に迷惑を掛けた。

古参の教授からは、面と向かって、「三宅先生、“君子危うきに近づかず”とう言葉もありますので行動には注意下さい」とか「火の無いところに煙は立たない」や「君子、李下に冠を正さず」等の言葉を暗に言う人が善意、悪意の両方から有った。


事情聴取を終えて帰って来た凛々は、招薫が亡くなったことへの責任を感じ憔悴していたが、今の気持を聞いて欲しくて勇次にメールが送った。

【色々迷惑を掛けていると思いますけどスミマセン。今は何も言うことは出来ません】

【何も迷惑受けていません。自分の思い通りにして下さい。招薫さんのことは残念です。今度逢った時に、一緒に冥福を祈りましょう。余り自分を責めないで下さい】

このメールを見て勇次の優しさを再確認した。

【ありがとうございます。でも、勇次に逢いたい。今から行ってもいいですか?】

【凛々逢いたいけど。今は誤解うけるからやめとこう。今は耐える時です】

返事を送ると今度は電話が掛って来た。

《勇次、本当に逢えないの・・・・・・寂しい。逢って話しがしたい。こんなに逢いたいと思った事は今までないよ・・・・でも悔しい。招薫が死んだだけでも悲しいのに、何で私が苛められないといけないの・・・・もう嫌になった。招薫のこと聞いて欲しいの一緒に思い出を語りたいの》

《分かった覚えておくから。もう少し過ぎれば、マスコミも忘れるから今は辛抱だね。他に新しい事件が起こったらみんな忘れるから。でも凛々は綺麗でマスコミがほっておかないかな。疑惑の中国美女だもんね》

《なに馬鹿なこと言ってるのイケメン准教授は・・もこみちさん似は》

こんなことを言いながら笑った。

そのあと意味の無い事を喋って気分転換してから、

《福建マフィアと警察にダブルで盗聴されると拙いから切ろうか》

《それにもう一つも有るから大事なことは逢った時に話そうね》

突然、現実に返って意味深長なことを言って電話を切った。


二人が懸念した通り、福建マフィアともう一つの組織によってこの会話は中国国内で盗聴されており、凛々と明華にはこの後から、尾行が付く事になった。何故か明華にも得たいの知れない大きな黒い影が付きまとっていた。


それからもなお事情聴取は2日間。合計18時間に及んだ。勇次は自分が動けないので高山の母親に連絡して、沖縄に来て凛々を支援して欲しいとお願いしたが、自分が動くとまたマスコミが騒ぐと言って固辞して、誰か他の信頼出来る人を行かせると言ったが、誰とは言わなかった。

母親との電話の翌日、明華から電話があった。

《勇次さん、明華です。今、空港にいます。お母さんから連絡いただいて私が来ました》

急遽ホテルのロビーで逢って、話して勇次が部屋を用意した。それを凛々に連絡して二人がそこでゆっくり話せるようにした。張り込んでいるマスコミが怖いので、勇次は足早にそこを離れて自宅に帰った。

「勇次さん、このたびは有りがとうございます。良い機会を与えて頂いて」

別れ際に明華から言われ、後ろ向きに手を振って足早にホテルを出た。


④ 凛々の自宅に泥棒が

 取調べを終えた凛々は、その足でタクシーを乗り継いで、巧みにマスコミを振り払い、明華が待つホテルに向かい指定された部屋に入った。

まず明華が、

「ご苦労さんです。まずシャワーにする。それとも食事にします」

凛々の労をねぎらった。

「まず風呂に入ってから一緒に中華料理を食べようかな。部屋に臭い付いても良いですか」

「それ位は良いと思うよ」

予定が決まり、凛々は風呂に入って勢い良く湯を出した。その間に中華料理のフルコースを注文した。本当は外で食べたいと思ったが、今は仕方ないと思うことにした。


 明華が固定電話で状況を高山鎮の母親に報告していると、凛々が風呂から出て来たので、電話を変わった。凛々は、里心がついたのか泣きながら話をした。

「お母さん、悔しかった。でも蘇州の母にはこのことは内緒で御願いします。免疫が無いので」

「ええ、分かっているよ。それで、体は大丈夫かね。凛々まで失いたくないんだ。私は」

「お母さん、ありがとう。凛々頑張る。こんなことで根を上げたら真理亜に笑われるから」

「そうだねお前も私の子供だから、しっかりやって笑われるんじゃないよ。分ったかい」

「うん分った。お母さんと話していると元気が出て来た」

「負けるんじゃないよ。分ったか良いね」

そして雑談に移った。

明華は、自分はここまで出来ないと母の愛に敬服した。

食事をしながらあえて事件の話はしない事にしていたが、凛々の方から喋った。

「本当はね、すべて話したいと思ったんですが。色んな人に迷惑掛けると思って。でも喋らないのは疲れる。本当に疲れるね」

明華に甘えた。

それからは高山の母の事を中心に話しが弾んだ。このところ全く喋っていなかった凛々は思い切り喋った。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


凛々が楽しんでいる時、凛々の自宅に賊が入っていた。室内を物色した上に部屋に火をつけて立ち去った。凛々が大事にしていた、此処6ヶ月間の思い出の品は身につけている物を除いて総べてが灰になった。

警察はこの火事についても心当たりは無いかと聞いたが、ここでも完全黙秘を通した。此れによってまた一日事情聴取が追加になり、凛々への疑惑は更に深まった。

この頃になると沖縄では、基地関連の事件や政治家の汚職問題が起こり、本土では有名芸能人の宗教問題と人気政治家のスキャンダルが発生してマスコミは潮を引く様に、この事件から引き揚げて凛々にも日常が戻った。

ようやく静かな環境で3人が会えるようになり、勇次の自宅で鍋料理をして楽しむ事にした。


暖かい沖縄でも鍋料理は人気が有るが、勇次手作りのつくね塩鍋を楽しんだ。名古屋の勇次の母がよく作ってくれた。あったかい鍋を皆で囲んで、楽しいひと時を堪能した。

勇次の『つくね塩鍋』へこだわりは、「つくね」から出るダシが決め手だった。

一度口に入れると中華料理には無い極薄い塩味に驚き堪能すると共に、勇次の満足そうな顔を横目に見ながら、凛々と明華の親子は屈託なく笑って喋った。食事後、3人は狭い部屋に布団を、部屋一杯に敷いて、凛々を真ん中にして3人で川の字になって寝た。


翌日、勇次が凛々に、

「本当に家に泥棒が入って、放火された理由は分からないの」

「分らないな」

即答で答えた。

「本当に・・・・本当」

勇次が聞くと明華が、

「ひつこいね。凛々が知らないと言っているんだからそれで良いだろう」

きつく言って、この話を切った。

 勇次は、この時、もしかして明華が焼かせたのではと邪推した。


それを裏付ける様に、焼けた凛々の家の整理に全く興味を示さずに、早速新しい家を見つけて家具を明華が購入して揃え、二人で新生活を始めた。過去に執着せずに心機一転、出直す民族のDNAをそこに見た思いだった。


⑤ 奄美と福建省の関係

 事件も落ち着いたので、翌日から勇次は石巌當の本州への伝播経路の事前調査のため奄美へ行く準備を進めていた。明華と凛々を慰労するため一緒に連れて行く事にした。もちろん費用は勇次持ちだった。大学赴任後に始めてもらった賞与とIT特区関係の委員会の特別手当がこれに充てられた。

この計画に二人は喜んだ。

なかでも凛々は自分の研究分野の調査が出来るとはしゃいだ。3人とも新し物好きで、揃って旅行好きだった。

          

奄美大島は本土と沖縄の九州南方海上にある奄美群島の主要な島で、単に大島とも言った。奄美大島を含む奄美群島は、沖縄県と同様に琉球文化圏を構成する部分もあった。島を代表する生産品である黒砂糖や大島紬は中国大陸から、黒糖焼酎や奄美大島独自の太鼓であるチヂン、高倉は東南アジアから伝えられたと言われていた。

人口は群島で10万人、その半分が奄美市に住んでいる。人口は戦後の50年で三分の一に減少した。


奄美に流布する直川智伝説によれば、一人で旅立ち台風に遭い、福建省に流れ着き、救われ数年後に帰国した。

 名瀬市誌にはこのあたりの経緯が詳しい。薩摩藩時代の年表をみると、1610年(慶長15年)直川智、清国からキビ苗伝来(県史)とあった。彼は大和村大和浜の生まれで、漂着した中国の農家で竹のような植物から汁を搾り出し、砂糖を作っているのを見た川智は、主人に「この作り方を教えてくれ」と頼んだが、主人から「外国の者に教えるのは御法度で出来ない」と言われた。

そこで川智は、三年間まじめに働き、その間に砂糖の製法を盗み覚えたという。中国から奄美に帰る際に、農家の主人が川智の働きぶりに感謝して、旅行カバンを二重底にして土を入れてくれた。川智は主人の察するところを知り、畑から急いでサトウキビを2、3本切り取ってカバンに詰めて持ち帰った。

 それは、1609年の薩摩の奄美・琉球侵攻の翌年だった。

<参考文献>『与路島誌』屋崎一著、『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』大江修造著


「奄美大島は昔から台湾や中国と交流があります。そういう歴史が自分のDNAの中にもあり、それがシマ唄(うた)のスピリットと共に歌声に表れ、彼らの心に届いたのかもしれません」と島唄の唄者で歌手でもある中孝介が言った。

歴史地理学的には、奄美市内には唐浜(からはま)と呼ばれる海岸があり、この名称からも中国との交流を伺わせものがある。

 このように福建省-沖縄-奄美の関係は深く、石巌當も多数存在することから、今後も、勇次と凛々が新しい歴史を重ねて行く事になった。


島豚は、沖縄ではアグー。奄美大島では、キセウワー(喜瀬豚)と呼ばれている。コラーゲン豊富、低インシュリン食品という売り文句が3人を虜にした。奄美の美味しい料理と風向明媚な海岸観光は三人の心を洗濯し豊かにした。奄美大島には、丁寧に紡がれる大島紬に代表される沖縄にない優しさがあった。3人に起こった沖縄での出来事で傷ついた心は、奄美の沖縄とは異なる柔らかい太陽に照らされて癒されて、英気が養われ、これからの出来事に前向きに取り込める気力が湧いてきた。


3人は“ばしゃやま”に向かった。ばしゃやまとは、糸芭蕉の群生林の事で、昔、糸芭蕉の繊維から芭蕉布という高価な着物を作る事が出来たので、糸芭蕉を持つ事は金持ちの証だった。

不美人の娘を持った親がこのばしゃやまを持参金に娘に婿を貰ったということから“ばしゃやま”とは不美人の代名詞と言われるが、一説には“奄美なでしこ”即ち年頃の娘の謙譲語であったとも言われている。それほどに奄美では“ばしゃやま”は有名だった。多くの観光客はその意味を知ってか知らずが美しい海岸と珊瑚礁の海や空を楽しんでいた。


紬を見たいという明華を奄美市内に帰し、勇次が凛々と海岸を歩いていると、

「三宅さん」

勇次を呼ぶ声が聞こえた。直ぐにその男が寄って来て、

「泉大輔です」

挨拶したが思い出せなかった。

「あの福州の……」

この言葉で凛々が思い出して、勇次に耳打ちした。

「福州の鶏飯屋さん。失礼しました。うっかりしていました」

「いや逢ったのは1回。それも短時間ですから」

立ち話をしていると、

「三宅さんに泉君どうしたの」

後ろから声がした。声の主は“ばしややまホテル”のオーナー奥誠治さんだった。勇次はオーナーとは5年振りだった。

「ここも随分とビッグになったね」

「いや一杯一杯のその日暮らしです」

こんな会話が有っり、久しぶりだから座って、話でもしましょうかと言われて中に入った。


そこでは、泉の結婚と彼女の話しで盛り上がった。彼女は“ばしややまのホテル”の余興に出演するため奄美大島に3ヵ月いたのでオーナーも良く知っていた。

「小柄だけれど身体が柔らかくてバランス感覚も良くて、なんでもこなして、目が大きくて丸顔で可愛い顔をしていたから、ちよとした人気者で立ち見も出来たね」

「それはすごいね」

勇次が言った時の凛々の反応が、

「そうですか」

声に元気がなかった。顔の特徴が、原子力発電所で見た女性と重なったのだった。

乗りが悪くて愛想なかったので気になったが、話題が次に移って忘れてしまった。

「私、あの店でカキ氷を売ってた」

勇次が言うと、オーナーが、

「泉君もしてたよね」

泉を見て言ったが、返事がなかった。泉は怖い顔に変わっていた。


このホテルは、昔は小さなあばら家に近い建物で、海の綺麗さで売っていたが、巧みに経営して今は奄美の人気ホテルになり、そこには奄美観光の変遷を見ることが出来た。

その過程でスタッフ、客の海の事故も経験し挫折も有ったし、家族を失うという事もあった。それでもホテルのシンボルで有るガジュマルの木は昔と変わらなかった。また、ガジュマルいわゆる融樹のある風景は福建省の町と似ていた。


それにしても泉と逢ってから、凛々の表情が暗く無口になったのが気掛かりだった。こんな凛々を見たことがなかった。それを無視して、男三人は昔の仲間、海の話で盛り上がっていた。

「ところで三宅さん、今日はここに泊まるんですか」

泉が聞くので、

「ええ」

「新館ですか」

「623だから新館かな」

勇次が答えるとオーナーが、

「新館の6階、一番海が綺麗に見える部屋です」

補足しホテルを自慢した。

次ぎに、勇次に促されて凛々が大学の話しをして一区切りついた時に、

「明日、ちょっと仕事がありますんで」

不自然に泉が言って、立ちあがって携帯番号を互いに交換し、再開を約束して帰って行った。それからもオーナーとの話しは、酒を飲みながら2時間に及び最後は凛々の肩を借りて部屋に帰った。


部屋に入るなり凛々は「あぁあ、期待していたのに最悪」と言ってバスルームに消えた。

勇次は直ぐに眠りに落ちた。

翌朝、5時に目を覚まして、酔いを覚ましに風呂に入ったが、まだ頭がスッキリしないので海岸を散歩することにした。こんな時間でも、もうホテルは活動しておりスタッフが忙しく働いていた。


海岸を30分ほど走り一汗かいて、岩に腰を下ろして一息付いていると、一人の男が歩いて来た。

泉だった。

「元気ですね」

「いや昨日、奥さんとちょっと飲み過ぎましてネ」

こんな会話と昔話の後に、

「奥さん美人ですね。目立ちますよ」

「いや、まだ結婚して無いんです。婚約者てとこですかね」

「そうですか。一番良いところですかね」

「まあ苦労していますは。色々と」

「そうですか、なんでですか。美人だからかな」

意味あり気に言った。

「いや、猟奇的な彼女状態でして、口に出せない程に振り回されています」

「見かけ通り行動的な女性なんですね」

「進出奇抜。もう忍者かマタハリみたいですよ」

「奥さんとはどちらで」

「いや高山で・・・色々ありまして」

「福清の近くですよね」

ここまで言った所で、余りにも二人の出逢いを詳しく聞くので違和感を持って話題を変え、昔のアルバイトと客との会話で盛り上がった。


話しの途中で、泉が突然「福州の店に来られたあの前の日は」と聞くので「私は確か高山のお母さんの家にいました」と答えると「凛々さんは・・・どこに」と聞くので勇次は、答えるのに躊躇し、これからの展開に不安を持った。

「たしか、あの日の3日前に凛々と知り合って、あの日の前の日に三山の海に行って遊んだんです」

「その日の夜は」

「私はさっきも言ったように知り合いの家に泊まって、凛々は原子力発電所関係のパーティーに行くて言ってたかな」

「そうですか・・・・やっぱり」

「それが何か」

勇次が言って、泉を見ると顔を強ばらせていた。


ここで少し間を取った。

「彼女は何故、パーティーに……知り合いでも」

「知りません。なんせ謎の多い女性ですから。ところで泉さんの奥さんはどうしてますの」

「元気ですと言いたいけど。依然、行方不明ですね」

「本当に、それは心配ですね」

この勇次の言葉に返事を返さず泉は、時計を見て約束が有るからと言ってホテルの方向に行った。勇次は不自然さを感じ首を捻った。


部屋に帰ってシャワーをして、寝ている凛々を強引に起こして一緒に食堂に行ってバイキングの朝食を食べた。

凛々は一番に鶏飯を食べた。

「これよりも福州の方が美味しい」

「そうだね。泉さんの腕かな」

勇次が相槌を打った。

 それからは夜光貝と平アジの刺身、野生ヤギの肉すき焼き、ヤマタロウガニなどの一風変わった郷土料理を少しずつ食べて、一息ついた。

ここで、凛々が、

「なんか泉さんが怖い」

予期せぬことを言った。

勇次には全く心当たりがなかったので、凛々がそんな評価をしていたことに驚いた。

「どこが怖いの」

「分からない。でも怖い」

「分からないなら、軽はずみなことは言わないでほしいな。泉君が、可哀想だから」

強い言葉で言うと無言になって、怒ったのか凛々は一人で食堂を出て行った。


一人で出ていった凛々の後を男が追っていた。

そして、部屋に入った凛々の後に続いて男が入った。

男は泉で手にはナイフを持っていた。

泉は凛々を捕まえて、ナイフを首に突きつけて妻の死について迫った。

「俺の妻はお前達に殺された。妻は原発のパーティーに行って殺された。お前はそれを知っているだろう」

強硬に迫った。

凛々も最初は、強く否定したが問い詰められて苦境になって答えに窮した。膠着状態になったが、凛々にも心当たりがあった。


ここで勇次が帰って来た。異様な雰囲気を察知してフロントに電話して、警察を呼んでもらってから泉の説得に乗り出した。

「泉さん。貴方は良い人だと思う。本心から言うけど、こんな暴力的なことでは何の解決にもならない」

「三宅さん、あんたの言う事は分かる。でも、俺の妻はあんたの奥さんに殺されたんだ。きっと・・・この女が知ってる」

そして泣き出してナイフを下ろしたが、凛々は動かず泉の腕の中でじっとしていた。勇次も凛々の様子がおかしいことは察していたので、

「泉さん。俺が凛々に聞いて真実を教えるから。お願いだから・・・話してくれ」

「俺の妻は殺されたんだ・・・分かるか」

言いながら膝を着いた。

「必ず俺が真相を聞くから」

「信じられない」

「信じてくれ、この奄美の太陽を信じて欲しい」

勇次が説得すると、凛々は自由になったが、何故か不思議に動かなかった。勇次が歩み寄り説得に成功して一緒に外に出た時に、泉は警官の姿を見て、興奮して非常階段から逃げ出した。その後を警官が追ったが逃げられた。


それを尻目に、勇次が凛々を攻め立てた。

「お前は何か知っているのか」

「・・・・・・」

「本当にお前は何も知らないのか・・・何とか言ってくれよ」

「・・・・・」

何回も迫ったが、凛々はしぶとく粘り、勇次に疑念が湧いた。

「もうこれで最後にするけど、教えてくれ。でないと一緒になれない。俺はそこまで考えているから」

ここまで迫ると喋る気持ちになったのか、話そうとしていた。

「私は多分そこにいたと思う、でも・・・でも・・でも」

「でも・・・どうした」

「それは、今は・・・許して」

「なんで、なんでなんだ」

勇次が言った時、そこに“泉、逮捕”の報告が入り、別件の窃盗事件で拘留されたとのことだった。

凛々の発言にはそれ以上の進展はなかったが、勇次は時間が経てば凛々が真相を語ってくれると確信していたので時間を与えた。


その夜、何故か二人は燃えた。中でも凛々は何かから逃れて、何かを探すかのように乱れた。凛々は違った自分を見せようと思い意識して演技していた。

「感じたので驚いた。本当の貴方を知ったように思う」

「ありがとう。でも貴方は止めて欲しいな。冷たく聞えるから。いつもの様に凛々て言って」

こんな会話があってから、凛々は三山鎮の原発パーティーでの出来事を素直に話し勇次の疑念は氷解した。


翌日、奄美市の警察に泉を訪ねた。

面会室に出て来た泉に、まず凛々が、

「泉さん、本当にすみません。私、その時は分らなかったんですけど多分、奥さんが捕まるところを見ました。隠していて本当にすみません。でもあんな結果になるとは思っていませんでした」

素直に語った。

勇次は、面接に立ち会っている係員のことが気になったが、思っているより素直に凛々は語り、それを受けて泉は、

「ありがとうございます。妻にも問題は有ったし、そうさせたのは私の不甲斐なさだと思います。今は、冷静に妻の事を弔ってやりたいと思います」

「そこまで言って下さいって、有りがございます」

「ここでもう少し冷静に考えて見たいと思います。皆さんも頑張って下さい」

泉が言うので、勇次は、

「泉さんも再起して、また美味しい鶏飯食べさせて下さい。私が言うのも変ですけど。どこかで聞いた言葉ですが、私が気にいってる言葉があるんです。それは“境遇を選ぶことは出来ないが、生き方は選ぶことが出来る。つらい日々も、笑える日につながる。置かれたところこそが、居場所なのです”という言葉も有ります。これも何かの縁ですから私達が何かの役に立てばと思います」

勇次がゆっくりと言うと、明るい笑顔が帰って来て不思議な友情が芽生え、清々しい気持ちで面会を終えた。

面接後、立会い者から中国での出来事を聞かれたが、もちろん黙秘を貫いた。

 

 面会で泉は妻について、どこかの組織に頼まれて原子力発電所のセレモニーに出席した招薫の鞄を盗む事を依頼されたらしいこと。この女性は中国人民解放軍で特殊訓練を受けた精鋭で退職後は、この経験を活かして中国雑技団の真似事をして暮らしていたこと。この雑技団の興行で奄美大島に来た時に泉と知り合って恋に落ちたこと。を語った。

 中国の両親は日本人との結婚に賛成ではなかったので、中国に行って鶏飯屋を開いた。泉は盛んに自分の不甲斐なさが、妻を追い込んだと後悔していた。勇次は改めて凛々を大事にしないといけないと思い、凛々も軽率な行動を慎まないといけないと自戒した。


この状況をばしややまのオーナーに逢って報告すると「それは大変なことだったね。時間を見つけて泉君に逢いに行く」と言ってから「君達も頑張って下さい」と励ましてくれた。

そして、最後に思いを込めて「凛々さんも三宅君のこと宜しくお願いします。彼を鍛えて下さい」と言ってくれた。

勇次と凛々の胸には“さらば奄美”という思いと共に再訪問を誓っていた。


⑤更に名古屋に(凛々、明華と名古屋に・・・凛々との結婚が決まった日)

色々有って奄美での現地調査を全く行う事無く、3人は名古屋に向かった。というのは、勇次の東山大学での指導教官の退官講演のためだった。この教官は大学の勢力争いに敗れて教授になれずに准教授で退官し、同命祉大学の教授として赴任する道が約束されていた。

教え子が尽力した結果だった。この准教授は、自分は教授ではないため、最初は一人で静かに大学を去る予定だったが、勇次の同級生で大学に残った親友が、赴任を察知して急遽、退官記念講演を行う事になった。教授との折り合いが悪いため、準備を行う事無く突発で行うという体裁を作らざるを得なかった。

最初、聞いた時に勇次は、

《何でそんな大事なことを突然言うんだ。俺にも予定はあるんだぞ・・・ちなみに今は、お前と一緒に過したことも有る奄美に来ているんだ》

《懐かしいな。でも本当にすまん。研究が忙しくて忘れていた。これから人を集めて30人位は集めたいんで》

《それくらいなら周りにいる連中でいけるだろう》

《そうなんだが・・・・皆、色々と用事があったり・・・・出張だったり・・すまん》

《教授がいい顔しないのか・・そうだろう》

要領を得ないのでズバッと単刀直入に、聞くと暫くの時間を置いて、

《じつはそうなんだ。だから助けてくれよ。東山大学から離れた人を集めて欲しいんだ》

《分かってけど。お前は困らないのか・・・良いのか》

《それはどうにかなると思う》

同級生は申し訳なさそうに言って、電話を切った。

教育という場で有りながら、大学ほどパワハラのきついところは無かった。というのは一人の人間が教授になると、20年程度は自分を頂点とする組織が出来るので澱んでしまうためだった。


勇次が、構内で件の准教授を見つけて、

「先生おめでとうございます」

「ありがとう。君たちのお陰でやっと教授だからね。それにしても君も頑張っているね。インターネットで君の記事、見て喜んでいますよ」

「ありがとうございます。今の私があるのは先生のお陰です」

「いやあ君の力だね。出る杭は打たれるが、出過ぎる杭は打たれない。かな、でも足を引っ張られないようにね」

教授に言われると、自分の弱点を言われた様に思って、さすが恩師と恐縮した。

また、友人達からは、

「凄いね論文賞。勢いが違うな俺たちとは、発想というかセンスが違うな」

「期待してるよ。お前は貴公子だ。でも沖縄でのマスコミ攻勢はご苦労さんだったね」

冷やかし半分で、こんな会話があって自分の置かれている立場を知って、ファイトが湧いてきた。


プライベートでは凛々とはもう結婚は秒読みと思っていた。仕事も順調で、落ち着いた生活をしていた。今回の名古屋旅行には、両親や友人への紹介も兼ねて凛々を連れて来た。両親とは明日、凛々、明華と一緒に会う予定だった。


昨日、名古屋のリトルワールドで凛々、明華と一緒に遊んだ。サーカスを三度違った位置から見て夫々趣があった。当日は最後公演という事で、関係者での写真撮影が行われていた。花束をもらい出演者の多くが泣き、思い思いのポーズを取って、感動的なフイナーレで今日、来て良かったと思った。

その後で、三輪車というかジプニーのような乗り物で園内を一周し、アンデス展を見てその流れで、マチュピチュの大スクリーンの前で写真を撮った。大きなスクリーンの前での写真なので、本当に現地に行って写真を撮ったように見えた。

もっと上手く宣伝すれば多くの人が入ると思うので残念だった。


途中、明華はブータン占いをして“1-1-4”と出て“吉”の占いがもらった。そこには“このダイスの目を振り出したる人は、恵み深きため他人に尊敬を受く、心をもちいて善を積まば、その徳にて出世することを得べし”と書かれていて、最後に“子に縁あつし”というところを多いに喜んで、持って返ると言った。  

次にインドネシアやカンザスの建物で民族衣装に着替えて写真を撮った。最後に韓国のサイトに行って民族衣装に着替え一緒に写真を撮って帰ろうと、歩き始めた時に携帯のバイブレータが反応した。

勇次の母親からだった。

《明日、名古屋の河文を昼の1時に予約したけど、従兄妹の真由美も一緒に連れて行くから宜しく》

携帯に出ると事務的に言った。

勇次は真由美が来ることに驚いたので、

《何で真由美が来るの。何で・・》

食い下がったが、母は、

《名古屋に勤めていて時間が有ると言うし、今日も真由美の家に泊めってもらっているんだよ。良いマンションだよ》

屈託が無かった。

それで仕方なく《分った。お手柔らかにお願いします》と言って電話を切った。

心配した凛々が、

「お母さんが何か言っているの。凛々が嫌いだって」

心配して聞いた。

「違うよ。心配しなくて良いから。うちはそんなに名士でもないし普通の家だから。其れに俺は誰がなんと言おうが、自分の思ったように行動する男だから俺は」

それまで二人の会話を聞いていた明華は、

「勇次さんお願いしますね。凛々にとっては勇次さんが唯一の頼みだからね」

笑顔を返した。

「明華さん心配しないで私を信じて下さい。私は実行の男ですから何処かの鳩梨首相とはちがうから」

毅然と言うと知ってか知らずか安心した顔になった。

また、ここで凛々が、

「勇次、さっき従兄妹がどうのこうのって言ってたけど。どういうこと」

痛いところを攻めてきた。

さすが、戦略家だった。

「そう俺の従兄妹が名古屋にいるので明日、一緒について来るて言うの」

「従兄妹て若い女性のことですか」

「若い女性だけど、親戚の妹みたいな女性だから」

勇次が手短に答えると、

「その人は綺麗な人ですか」

凛々が聞くので、素直に

「ええ、俺の妹分だから綺麗で可愛い人だよ」

返事すると凛々は向きになって、

「私より可愛くて綺麗いの・・・・教えて」

「どちらも可愛くて綺麗」

この答えが、悪かったのか凛々が怒ってしまった。

ここで明華は、

「妹だから結婚できないんだ。だから安心しなさいな凛々」

娘に言って宥めて、勇次には、

「勇次さんも、もっと凛々のことを考えて発言して欲しいと思います。言い過ぎたらごめんなさい」

厳しく言って話を納めた。

 

ホテルに帰ると凛々はエステに向かった。従兄妹の真由美に負けたく無いという必至の思いからだった。3時間掛けて、身体の手入れをしてから眠りに就いた。明華は母心から出来れば新しい服も買いたいと思ったが、それは時間的に適わなかった。

もっと早く知っていればと思うと残念だった。

勇次を怨んだ。

凛々には相手の両親に合うことにトラウマがあった。でも今回は母親代わりの、いや本当の母親である明華が一緒だったので心強かった。二人は一緒に時間を過ごす事によって、親しみが段々と醸成されて親子関係が板に付いて来た。


⑥ 親への凛々の評判

家族の顔合わせは、名古屋の高級料亭「河文」で行われた。河文は名古屋ではもっとも伝統と格式がある店で、料理・サービスが良いのが評判だった。ただし、不躾な言い方だが、吉兆など京都の料亭と比べて質素だった。その分、リーズナブルな料金と言えた。

最近は、名古屋駅ビルに“なだ万”とか“吉兆”とかの一流店が入って、河文の名前をそれほど聞かなくなった。

さて、“河文”は外見がいまいちなので、期待が高かっただけに、凛々や明華はちょっとがっかりした風に見えたが、中に入ってこんなに広いんだと驚いた様が面白かった。


まず、控え室で両家の顔合わせがあり、勇次が両者を引き合わせた。久しぶりに会った真由美が綺麗になって垢抜けしているのには驚かされた。また、凛々は両親に気にいられたのか、話しが弾んでいる様子を見て安心した。

両親は、中国の女性と言うので、色が黒くて厳つい女性を連想していたが、見かけは日本の女性と殆ど変わらず、日本語も上手で話も上手いことに驚いていた。

父親は勇次の耳元で、

「勇次、なかなか可愛い女性じゃないか、お前も幸せ者だな」

その後に、

「一緒の女性も綺麗な人だな。まるで女優さん見たいだぞ。宝塚女優の壇れい見たいじゃないか」

真面目な父が言うので、勇次は含み笑いをしてしまった。

母は明華や凛々と盛んに話しをしていた。

それを見た真由美が勇次の傍に来て、

「勇次さん、綺麗な方ですね。これじゃもう私の出る幕はないか・・・いち降りた」

「真由美こそ綺麗になったね。彼氏が何人もいるんだろう」

「いいえ誰も、でも勇次さんに振られたから明日から頑張る。もう中学の時の約束は忘れたんだね」

嫌味を言ってピースサインをして傍を離れた。

「真由美のこの言葉にはつまされたが、もう後戻りは出来なかった」

暫く歓談のあと部屋に通されて食事になった。

食事の始めに凛々は突然、

「お父さん、お母さん、私は凛々と言いますが、パンダではありません。中国人ですが、勇次さんと仲良くさせてもらっていますので、末長く宜しく御願いします」

挨拶すると出席者全員が拍手し出足は上々だった。


美味しい料理は心を豊かにして笑顔を作った。参加したすべての人が料理と会話に満足していた。この様子に明華は嬉しさで心が一杯になった。実は昨日の夜、凛々は今日のことを心配して寝つきが悪かったという。

2時間に渡る食事と歓談は終わり、最後に全員で記念写真を撮って食事会は終わった。帰り道を歩きながら母が勇次の傍にやって来て、

「凛々さんは、中々良いお嬢さんじゃないか。これからも大事にしてやるんだよ」

親しみを込めて言ったのが、この会話が全てを物語っていた。

両親と真由美をタクシーで見送って、3人で街を歩いて宿に向かった。

この時、3人を遠くから見つめる一人の男がいることに明華は気付いていたが、二人には言わなかった。


そこで、歩いて帰りたいという勇次を説得して、それとなくタクシーに乗せて名古屋キャッスルホテルに向かった。そこに二部屋取っていた。

明華は、

「今日は勇次と凛々が一緒の部屋にするように」

二人に言ったが凛々は、

「嫌だね」

そう言って譲らなかった。

仕方ないので今日も勇次は、一人で眠ることになった。


明華はさっきの男が気になったのでロビーに出て、そこから外に出てまた中に入って階段を登ってみたが怪しい人はいなかった。

ラウンジで飲み直そうという勇次を制して、部屋でワインを飲んだ。女性二人は饒舌だった。

勇次が、

「うちの両親と従兄妹は凛々と明華さんが可愛いて言って喜んでいました。それに父親はミーハー丸出しで明華さんは女優みたいだって言ってた」

勇次が言えば凛々は、

「両親ともいい人だと思うよ、裏表がないからね、凛々も気にいられたと思う。さすがだね・・・頑張ったから」

「そう多いに気に入ってたよ。ありがとう」

勇次が誉めた。

「従兄妹さん綺麗で可愛い。勇次、何も無かったの」

「妹だから何も無い。でも真由美は綺麗になっていたんで驚いた」

「じゃあ換わろうか」

語気を強めて凛々が言ったが、最近、日本語を本格的に勉強している明華が、

「凛々、そんなこと言うと本当になっても知らないよ。油断大敵だからね。勝って兜の緒を締めよ。ていう言い伝えが日本にはあるからね。ねえ、勇次さん」

注意すると静かになった。

「勇次が悪いんだよ。凛々を嫉妬させるから」

また拗ねた。

「悪い悪い凛々、ちょっと言いすぎた。許して本当にゴメンね」

明華が謝ると、調子に乗って、

「いいの確かに私も調子に乗っていた。悪い時は叱って下さい」

神妙に言って、初めての親子喧嘩にならずに終わった。

そしてワイワイガヤガヤ言いながら夜は更けていった。深夜、両親から勇次に無事に家に帰ったと連絡があり、母親からの、

《これからもずーっと仲良くするんだよ。あんな良い娘は日本にも中々居ないからね》

この言葉は、此れまでに聞いた日本語の中で一番嬉しく、いい響きを持っていた。



8.そして神戸


名古屋での凛々のお披露目も無事に終って、沖縄に先に帰るという明華と分かれて、勇次と凛々は、挨拶を兼ねて神戸にいる凛々の叔父さんを訪ねることになった。もう夏休みは残り少なくなっていたが福建の母親のたっての希望だった。


① 神戸の福建省人脈

神戸には豊富な福建人脈がある。元を辿れば、江戸時代の長崎にあった唐通事という中国語の通訳の多くが福建省の人々であり、なかでも福清や福州出身の人々が多かった。日本に定住後も祖国との交流は途絶える事は無かった。明治に入って開国とともに、それまでも交流が密だった沖縄や経済振興地であり開港された神戸に福建省人脈の人々が移り住んだ。


神戸で活躍した中国人の人脈が、この時を基礎に形成された。この人脈の一人に呉錦堂がいる。彼は福建省の出身者ではなく上海近辺の寒村の生まれで、天秤棒1本を持って長崎に来て、下関でバナナの叩き売りをして財をなし、神戸にやって来て実業家に変身した。

彼は会社乗っ取りや株取引で財をなした。今流に言えば“ハゲタカ”の走りであるが、実業でも業績を残した。

福建の母親の叔父さんもこの流れに乗る人脈を持っていた。


② 二人は追いかけられる

二人は神戸の異人館を、腕を組んで散策していた。凛々はやはり中国娘で写真、なかでもコスプレが大好きだった。異人館で貸衣装が用意されている建物では、衣装を片っ端から着て写真を撮りまくった。

事件はオランダ館の二階で、貸衣装を借りて胸の大きく開いた赤いドレスを着て花嫁衣裳のような格好で、写真を撮っている時に、凛々と下の道路を歩く二人の男と目が合ったことにより始まった。

「勇次、まずい早く逃げよう」

言うが早いが、勇次の手を取って、花嫁衣裳のまま山手に向かって走り出した。オランダ館に行って、そこに凛々がいないことを確認した二人の男は、山手に向かって走った。そして、遠くに赤い服を認め、そちらに向かって走り出した。

「凛々、その格好では追いつかれるの・・・・も時間の問題だ・・・・と思うけど」

「分かってる。だから早く逃げるの・・・・分かった」

勇次が凛々の手を取って走り出した。


何時の間にか凛々は、靴を脱いで裸足で走っていた。観光客は、テレビのロケでも行っていると思ったのか、この光景を見て喜んでいた。これでは二人の男も手荒な真似は出来なかった。段々と近付いて来たので、二人は道路にあるワゴンを片っ端から坂道に転がした。男たちはそれを避けて追って来て、異人館のメインストリートは騒然となった。まだ事情が分らない観光客は、陽気にはしゃいでいる。多くは手を叩いて、4人にはやし掛けた。

騒ぎを聞きつけた3名の警察官が前から走って来た。男たちは警官を見て走るの止めて反対に走り、凛々の「助けて、助けて」という悲鳴と手での指示に押されて、警官が二人の男を追った。

やはり女性は得だ。特に美女は・・・・。

勇次と凛々はそのまま走り抜け、タクシーを見つけて乗り込んで、叔父さんの店に行ってくれるように頼んで、その場を離れた。


少し余裕が出来たので勇次が、

「凛々・・・・これってどういうこと、どういうことなの」

怒りながら聞いた。

「私に聞かないで、あの男たちに聞いて下さいよ」

「でも知っている男なんだろう。顔見て逃げただろう」

「良く覚えていません。何が起こったのか?日本っておかしなところですね。不思議の国、日本・・・そう思わないですか」

意味不明なことを言ってふざけた。


凛々は都合が悪くなると、ふざけることを最近知った。二人は笑ったが、心底から笑っていなかった。勇次は、凛々が嘘をついていることは明らかだと確信していた。

 自分の存在の小ささを思うとともに、分かっている嘘を付かれる自分が寂しかった。『そうか俺って、まだその程度の存在なのか』と考えると今まで持っていた熱気が一気に引いた。凛々は凛々で『勇次には本当にすまない。でもこの秘密は絶対に言えない』と心に誓っていた。


凛々は自分の気持ちを隠して、

「勇次さん私を信じて、もう少し待って下さい。しばらく時間を頂いたら全てをお話ししますから」

美女から言われると、単純なもので、これまでの心のモヤモヤは消え去った。と思う事にした。

「分った。もう今は全てを知りたいとは思わないから。その時が来たら必ず話してくれよ」

ここまで言うのが精一杯で、もう凛々を追求する気持ちにはならなかった。


③ 優しい夜

凛々は高山の母親が「神戸に義理の叔父さんがいるから、勇次と二人で行って挨拶しておいで。お母さんが色々お世話になったから」と言うので婚約旅行を兼ねてやって来た。

繁華街の中心地に福建会館や華僑総会神戸事務所が、山手には中国人墓地があり、下町には南京街という中華街もあった。凛々は中華街に義理の叔父さんを尋ねて此処に来た。 

二人に面識は無かったが、父親の名前と出身地を言えば当面、住むところと食べることには不自由しなかった。


そこで、凛々は亡くなった招薫から貰ったアイフォンを勇次に見せた。それは今まで迷惑をかけたお詫びと友情の証としてくれたもで、本体には本物のルビーが中央に付いていて、その回りを小さめのダイヤが取り囲んでいた。

宝石の大きさから、加工に100万円はかかったと思われる代物で、特にケースは圧巻だった。それは純金で出来ており、重さから考えて時価200万円はすると思われた。

凛々は素直にそれを見せることによって、自分の気持ちを表現したかった。

「招薫とのことは死ぬ前からきっちり清算していた。それに気持ちも清算したことの証として、これもらった。これは大きな誠意だよ。これで私は納得出来て、過去のすべてを忘れた」

「慰謝料みたいなもの」

「慰謝料じゃない。これで何も無かったことになった。出会いもないし何もなかった。私が付き合った人は透明人間になったんだ」

「そんなもんですか」

「そんなもんだね。女は執着もするけど切り替えも早いんだ」

話していると叔父さんが来て「食事に行こう」と言って神仙閣に連れて行ってくれた。


ここの料理は勇次の口に合った。食事後、叔父さん行きつけのスナックに行って話しが弾んだ。話題の中心は、凛々の携帯の装飾と純金のケースだった。

「凛々、これは大事にするんだよ、お前の宝だから。お前の成長の記録だ。これはお前の体を守ってくれるぞ、翡翠のように」

叔父さんが言うと素直に、

「私もそう思う」

そしてスカートのポケットに入れようとしたが、かさばってお尻が膨らむので、ジャケットの左胸のポケットに入れた。

ずっしりと重くて存在感があった。

「重たいなこれ」

「重く感じたの、嫌なら俺が持っても良いけど」

「それはお断りします」

再び胸に締まった。


ここでトランプゲームが始まった。「闘地主」だ。日本の大貧民に似ているが、似て非なるものというのが正しい。凛々は強くて店のスタッフに圧勝し、1時間の勝負で2万円を手にした。やっぱり凛々は賭け事に強く勝負強い。

叔父さんをその店に残して、勇次と凛々は店を出た。その後を怪しげな男が追っていた。それに気づいた凛々が、勇次の手を取って走った。すると男も走った。周りの人々は何が起こったか理解できなかった。

二人は狭い街角を周り、迷路に入ってごみ捨て用の容器の後ろに隠れた。男達は完全に見失ったのか、携帯で電話をして「前田、見失った。いま山田医院の近くにいるから皆んなここまで来てくれ。この近くに居ると思うから。此処でけりを付けるから」と言って切った時、勇次の携帯が鳴った。

それに少し反応したが、距離もあったので、そちらへの関心はすぐに途切れた。これで、安心したのがいけなかった。


ここで、勇次は鼻が無図かゆくなって我慢出来なくなって、くしゃみをした。さすがにこれは男に知られてしまって、男がそばに寄って来て、見つかりそうになった。男が回りこんで、傍に来るが早いか二人は一気に走り出した。

最初、不意をつかれた男達は一歩遅れたが、やがて追いつきそうになったが、ここでさっきのリプレイの様に騒ぎを知った警察官数名が走って来て、坂道で交差しそうになった。

これを見て、男達は逃げるように反転した。二人は引き返し警官の後を追うような形になったが、男達を見失った警官とやがて一緒になり、警官の中に取り囲まれた。

「どうしたんですか」

警官が聞くので、

「すみません」

勇次が、事情を話そうとした時、近くで銃声がして、凛々が胸を押さえて倒れた。

この銃声で辺りは蜂の巣を突付いた様に騒然となり、悲鳴と怒号が交差した。三名の警官が発砲した男達を追い、1名がその場に残って救急車を呼んだ。

その横で、勇次は倒れた凛々をじっと見つめることしか出来なった。

至近距離から銃撃されたことが分るだけに、最悪の事態が起こったことは理解できた。体はピクリとも動かなかった。

これまでにも色々なトラブルに巻き込まれたが、幸いにも怪我をすることもなく、自分達は特別で付いているんだと、思っていただけにショックだった。


倒れた凛々を見て恰幅の良い男が近づいて来て勇次に「どうしました」と聞くので事情を説明すると、倒れた凛々の耳元で大きな声で「聞こえますか」と3回聞き、反応が無いと見ると勇次に、観光案内所に有るAEDを持って来るように言ってから、マウス・ツ・マウスで人口呼吸を試みたが呼吸は回復せず、次に心臓マッサージに入った。

ちょうどその時、勇次が心肺蘇生装置(AED)を持って帰って来た。

男はそれを黙って受け取って、凛々のジャケットを脱がせシャツのボタンを外して胸を肌蹴た。さすがに、勇次は慌てて男の肩に手をかけると振り返り、手帳を見せた。それは消防手帳だった。

手際よく二つのパッドを胸の上と腹に貼り機械音が「通電します。離れてください」と言ってからボタンを押すと凛々の身体が少し上に跳ね、目が開いた。

男は脈をとり、勇次にも確認するように言ったが力強い脈拍を確認した。


 少し気持ちが落ち着いた勇次は、凛々を見て、出血がないことに違和感を持った。玉が当たったと思われるところを見ると、玉が携帯ケースにのめり込んでおり一部が残っていた。

これを裏付けるように、

「この人はラッキーな人だね。このケースが防弾チョッキになって命を守ったんだ。もうちょっとで正気を取り戻すかな」

自信を持って言う消防士の声が聞こえた。

冷静さを取り戻した勇次は、凛々の横に座って泣いている自分が居るのに気づき、救急車が来るのがあまりにも遅いと思った。その時間は6分程度だったが、勇次にとって、それは限りなく長い時間に思えた。


救急車を待つ間に、意識を取り戻し朦朧とした状態で、起き上がろうとした凛々を制して自分から抱きしめた。いっもと同じように暖かかった。時を同じくして取り囲んだ人々から拍手が起こり、救急車のサイレン音が聞え、近づくと更に大きくなった。到着し勇次と凛々を乗せて救急車が走りだすと一層大きな拍手が起こり、それを無視するかのように凛々を救助した消防士の男は静かに立ち去った。

救急車の中で、消防士の男にお礼を言うのを忘れたことを思い出し、気持ちが沈んだが前に横たわる凛々の横顔が癒やしてくれた。医師からは「完璧な応急処置だった」と言われた。普通なら99%助からない命が助かり、奇跡以上の奇跡だった。


予想通り、医者の手当てを受けた凛々は、暫くすると何事もなかったように完全に意識を取り戻した。

「私、なにしてたの・・・・・・・ここは何処。急に意識が無くなった」

「お前何も覚えていないのか・・呆れるな・・本当に」

「ええ覚えてない・・・・・本当に・・ここは」

急いで医者を呼び注射すると暫くして、また意識を無くした。

医者の話では、ショックを受けているので薬で、眠らせているとのことだった。明日になれば「普段通りになっていますから」と言い、勇次に「今日は側についていてやってください」と言ったのでそれに従った。

それにしても、良く追いかけられるなというのが、素直な思いだった。その日、勇次は凛々の横に簡易ベッドを置いて眠った。

そして、夢の中に真里亜が現れ『勇次さん凛々を優しくしてあげて私以上に、私はいつまでもあなた達を見守っているから、私をがっかりさせたら承知しないから』と言ってどこかに消えた。


翌日、朝早くベッドで目を覚ました凛々の横に入って、やさしく抱いた。凛々もそれに答えて二人で爽やかな明るい朝を迎えた。二人で高台にある病院の窓から見る神戸港の朝焼けは、これからの二人の未来を表現するように、海を光り輝やかせていた。

二人には、それは永遠に続くように思えたし、またそうであって欲しいと願った。

静かに暖かく深く抱きながら、

「凛々、あなたは私に取って掛け替えの無い人だから、もっともっと命を大切にしてほしい。お願いだから」

勇次が言うと素直に、

「分かった」

短く答えて笑顔を返した。


3日後に退院して関帝廟に言ってお礼を行った。

碑文に呉錦堂の名前を見つけて凛々が「この人が居なかったら辛亥革命は成功しなかった」

誇らしげに言った。

中国ではこのあたりはしっかりと教えると感心した。

 そして、勇次の気持の中で凛々への愛と疑惑が更に深まったが、その分だけ覚悟が決まった。沖縄へ帰る旅は二人の絆を強くした。



9.招薫が殺害される前夜の出来事


①メールアドレス交換

ここで時間を招薫が殺害される1週間前に巻き戻したい。沖縄で開催された日中企業人の交流パーティーに、招薫のたっての希望で凛々も動員されて参加していた。もうとっくに招薫との関係は終って灰になっていたが、招薫にはまだ僅かではあるが燻っていて、日本流にいえば接触を続けていれば“焼けぽっくり”に火がつくこともあると、僅かでは有るが思っていた。

凛々とは真剣に愛し合い、世界は一つに成ったが、家族という外圧に負けて別れてしまった。いまでは自分に都合の悪い外圧を、跳ね返すことが出来る力を少しは持ったと、自分の力を省みずに考えたが、それは大きな間違いだった。

それに反して凛々は、かって自分をずたずたにした男を許して、過去にしていた。それでも、昔の男のために一肌脱ぎたいと考える大和撫子的な心意気を凛々は持っていた。恋愛と行動を完全に分けていた。言い換えると実利、即ち、利益や金になれば動くと言う経済感覚が有った。兎にも角にも、生活には金が必要だった。


この感性の違いを招薫は分かっていなかった。更に呼び出せば必ず、凛々は来たので期待してしまった。自分の講演が終ると、招薫は真っ直ぐに凛々のところに向かった。

「今日は来てくれてありがとう。その特徴的なメガネとピンクのスーツよく似合いますね。今日は気合入れてくれたんだ、それだけで嬉しいです」

「今日は招待ありがとうございます。招薫さんと日本それも沖縄で何度も逢えるなんて、隔世の感がありますね。日本語勉強して良かったと思った事は、今日ほどには無いと思います」

お世辞を精一杯言うと冷えたワインで乾杯した。

「良いワインですね」

「ええ結構良いワインですよ」

招薫が言ってから、今の状況について話をした。

「そうですか大学に入り直すの」

「ええもう一度やり直したいと思うんです」

凛々が返すと、招薫がもう一杯ワインを持って来て「凛々さんの大学院入学を祝って乾杯」

と言ってまた乾杯した。

さすがに凛々は嬉しくて、満面の笑みを自然に作った。凛々はアルコールの影響もあって、顔が輝いて周りを照らしていた。


 これを目敏く捉えた岡本幹事長が招薫のところに近寄って来て、

「招薫さん、綺麗な女性の独占は日本では違反ですよ。私にも紹介して下さいよ」

それに素早く答えて自慢ぽく、

「岡本幹事長、私の友人で中国人の凛々さんです」

「凛々さん岡本です。宜しくお願いします」

初対面の挨拶をして、招薫が岡本との関係、即ちこれから行おうとしているビジネスの事を要約して説明した。

「そうですが。それは大きなビジネスですね。将来が楽しみですね」

卒なく返事すると、今度は岡本の発声で乾杯が始まった。

暫く3人の会話が有って、岡本は突飛な事を言い出した。

「私は美人の電話番号を聞くのを趣味にしていまして。番号と写真を撮らせていただけませか」

凛々は驚いて躊躇していると、招薫が「大学院での勉強や就職に役立つと思うよ」と言うので、招薫の顔を立て、携帯電話の番号とメールアドレスを交換して、岡本は写真を撮って新規登録画面に写真を貼り付けた。さすがに手慣れていた。

「これで一人、美人をゲット」

岡本が言って、すぐにメールを返して着信を確認して、遊び人らしくその場を離れた。

このような経緯で、幹事長は凛々を見て一目惚れし、電話番号、メルアドを交換することに成功した。


すぐに招薫が、

「凛々、すまなかったね。無理させて」

気配りをした。

「良いの心配御無用。あの時と違って私も強くなったから」

凛々が返事し招薫にサポートされて部屋を出て、ホテル自慢のローズガーデンに行った。

 凛々はここで、今日、一番の目的を果たした。

「招薫さん、私の周りの人が死ぬ事について教えていただけません」

単刀直入にど真ん中に直球を投げた。

「分らない。私にも・・・・分らない・・・すみません」

「信じられない」

「信じてもらえないことは理解出来るから。少し時間が欲しい。いいかな・・ちよっとだけ」

「わかった。どれ位・・・ですか」

「1週間位でどう。凛々のことも気になるし・・・・・どうい・・うこと」

「私の何処が・・・気に・・・・・何か」

凛々が聞いたが、少し考えてから、

「・・・・・いや・・・失礼。勘違いでした」

わざとらしく口を濁した。

その口調が気になったが、今日はこれ位にして次に期待しようと思って、軽くグラスを合わせて残っていたワインを飲み干し、含み笑いをしてお互いに次のグラスを取った。周りからは仲の良いカップルに見えた。


この様子を遠くから眺める、二人の人間がいた。

一人は、岡本の愛人の由美子、もう一人は、凛々に熱い思いを持っている勇次だった。昨日、勇次は凛々と食事をして週末に琉球村に行く事を約束していた。こんな話は聞かなかった。今日、このパーティーに凛々が来るとは夢にも思わなかった。

二、三回くらい眼も合ったが、無視してお互いに歩み寄る事も無かった。それが出来ない雰囲気とオーラがあった。その思いを反映するように、招薫と二人で庭に出て行った。嫉妬の心が湧きあがった。

そこを見越したように由美子が近寄って来て「勇次さん。お久し振り」と言うので声のした所に目をやると、そこに由美子がいた。

「ああ・・・あ。貴方もこのパーティーに来ていたの」

「まあ失礼ね。私のこと全く見えてないの。そしてつまらさそうなその態度。私はずっと、ずっと貴方を見ていたのに」

芝居げに言った。


 そう言われれば自分の講演が終って、凛々を見つけてからは、凛々ばかりを見ていたことに気付いた。

「そうですか。それは失礼しました。座って一緒にお話でもしましょうか」

勇次が誘うと由美子も其れに従った。

「振られた者同士で今日は仲良くしましょうか。それに以前の借りも有りますし」

椅子に誘った。

「それも面白いですね。今日は二人で飲みますか。それにしても、私が落ち込んだ時によく逢いますね」

「それじゃあ無くて、あなたを落ち込ませる人が居る時に私も居るという不思議」

「そうだね本当に」

そして、このパーティー会場を離れて、最上階にあるラウンジに向かった。

沖縄の海を眺めながら、

「良い景色ですね。其れに空気も綺麗ですから澄み切っていますね。街からちょっと離れると海も星も綺麗ですよ」

勇次が優しく語ると、由美子は、

「そうですか、それじゃ後で案内して頂いても良ろしいですか」

「ええ私で良ければ、いつでも24時間OKですよ」

勇次が言って二人で乾杯してワインを飲み出した。

大学時代の話や社会に出てからの出来事などを主に由美子が話して、もっぱら勇次が聞き役に回った。


政界の裏話や夜の世界の出来事など、勇次には異次元の話の様に思えたが、一生懸命語る由美子は可愛かった。肩を軽く抱くと、由美子も寄って来て自分から勇次の唇にキスをして、それに反応して勇次も周りを気にせずに強く抱きしめてキスを返した。周りの誰も二人の熱い関係に興味を示していなかった。

心のどこかで真理亜が『お前は何をしているんだ』と怒ったように思ったが、今此処で気持ちを抑える事は出来なかった。

「ねえ、このまま部屋に一緒にいかないこと。十分二人でもOKですよ」

耳元で言われた時に、さすがに我に返った。

「由美子さん。それはちょっと無理ですね。拙いですね」

この一言が精一杯で、ここで由美子から、またキスをされると心が揺れた。由美子は幹事長と一緒に沖縄に来ていたが、今日は自分の部屋には帰らない気持ちになっていた。最近、ちょっと調子に乗っていて、自分を大事にしないので、お灸を据えてやろうと思っていた。

「由美子さん。今日はちょっと酔ったからもう帰ります。帰らせて下さい。お願いします。終わりにしましょうか。間違いを起こしそうだから」

勇次がギブアップした。

「駄目、間違いしたい。でも今日、それでも帰りたかったら今週、金曜日に二人で食事する事を約束しなさいな。私も準備して行くから」

由美子に言われると、自分の不甲斐なさと後ろめたさもあって提案をOKしてしまった。暫く話して酔いを覚まして、アドレスと携帯番号を交換して、勇次は一人でラウンジを出ていった。残された由美子は仕方なく、一人で沖縄の夜空を見て心を落ち着け誰もいない部屋に帰って行った。予想通り岡本はその夜は帰って来なかった。


②勇次と由美子の2回目のデート

 約束通り、勇次と由美子は食事する事になったが、状況はちょっと変わっていた。勇次は罪の意識に耐えかねて、凛々にパーティーの夜の出来事を告白した。そして、勇次の問いかけに、凛々は招薫とはガーデンに出て、世間話をして直ぐに分かれたが、勇次が居ないので仕方なく「一人で自宅に帰った」と言った。

 勇次は自分の取った浅はかな行動を恥じた。

 ここで凛々が「私も予定を変えて、由美子さんと一緒に食事をしたい」と言ったので3人で食事をする事になった。

凛々は勇次の昔を知りたかったし、勇次が心を動かされた由美子という女性にも興味を持った。

勇次は、メールで

【由美子さん。今度の食事に凛々も連れて行っていいですか】

【それは残念だけど。貴方が良ければそれで良いです】

【すみませんが、一緒でお願いします】

【それじゃ二人だけで行かれたら】

【凛々が、貴方と話しがしたいって言っていますので、宜しくお願い致します】

【そうですか。それでは了解しました】

こんな、やり取りをして3人で食事をする事になった。勇次の浮気心は芽を摘まれてしまった。

会食当日の凛々は気合を入れて、大きな“まん丸メガネ”にピンクのツーピースのスタイルだった。所謂、勝負衣装だった。この格好に勇次は度肝を抜かれた。

「どうしたのその格好。そんな趣味あったの・・・この前も」

「印象に残そうと思って」

「理解出来ないな・・・・それ」

二人がやり合っていると由美子が来た。

 

 食事の時、由美子は、凛々のことをただ可愛いだけでなく、頭の良い女性と思った。そのきっかけは、中国で発生した女子高生の暴行事件だった。この事件で現地の警察官は、生きているのを知りながら対応が面倒なので、県境まで運んで女子高生を捨てて帰った、という事件についての、次のコメントだった。

「この事件は悲劇というより、民度の低さの問題ですよね。中国人の心がまだ経済発展に追いついてないと思うんです。それには、あと20年は係ると思います。その時、中国が世界でどのような地位を得ているか、興味があります。でも私は自分を磨いて頑張りますよ。自分で正しい判断出来るように」

これでは勇次の気持ちが傾くのも仕方がないと思った。気持ちの中では撤退態勢に入った。


また、中国で人口が一番多い都市、重慶で勃発した市長の更迭問題についても、

「まだ、中国では裏社会が結構、力を持っているんです。こことの接点をどの程度のスピードで解消し綺麗にしていくかの塩梅が中々、難しいと思います。これからも結構デコボコが有ると思いますが、マイナスの方向に行かないようにしないといけないと思います」

事も無げに言ってのけた。

最後に由美子が、

「凛々さんが、おばあちゃんに成った時の中国が楽しみですね」

すると大きな声で笑って、

「きっと日本の様な国になっていると思います」

躊躇なく言った。

「由美子さん、勇次さんの学生時代を教えて下さい」

今日一番関心のあることを聞いた。

「そうね、今と違って目立たなかった。でも良く勉強していて授業をリードして、一部の女子には人気が有ったね。私もその一人。女性には関心を持っていなかった。でも、彼女はいたと思う」

「どんな人。その彼女さんは・・・・可愛い」

「勇次さん話していないの」

「ああ関係ないから・・・・良いよ」

「それはちょっと問題だね・・・それは」

由美子が凛々を見ながら言った。

「その彼女さんどういう人ですか」

「勇次さん。言って良いの・・・良いの」

「それは適当な時に自分が話すから。それにその彼女は結婚していて、もう幸せな主婦だから」

勇次が言うとそれ以上の追求は無かった。

それからも若くて元気のある3人の会話は盛り上がった。楽しい時間はあっという間に過ぎて別れるのが辛くなった。

名残惜しいのか中々、席を立たなかったので勇次が、

「近いうちに、このメンバーでまた一緒に逢いましょうか」

再会を約束してお開きにした。



10.融け始めた糸 犯罪の構図


日本の政界は衆議院と参議院で多数党が異なり、相変わらず何も決められないモラトリアム状態が続いていた。それでも国民は飢える事も無く平和な時を過ごしていた。

この状況を嘲笑うかのように、文化は辺境すなわち大阪から立ち上がろうとしていた。大阪維新の会 橋下大阪府知事である。しかし、まだ大きな火にはならずにくすぶっている状況で、中央政界の重鎮は“田舎親父の遠吠え”、“一匹狼の悪あがき”、“怖いもの知らずの跳ね上がり”と嘲笑し、また有識者からは“ビジョンがない”、“国家感がない”、“基本理念がない”等と揶揄されていた。

そんな、2011年7月に勇次と凛々にも関係する出来事が、多くの人の見えないところで静かに進んでいた。


ホテルで林招薫が殺害される三日前、中国人華橋実業家 林招薫は民政党幹事長 岡本と国会議事堂近くのホテルの一室で面談していた。沖縄特区指定とそこでのビジネスの相談というか陳情、いやもっと切羽つまった詰問と言うのが正しい雰囲気だった。

招薫が、

「岡本幹事長さん、この前の約束はどうなっているんですか。私は困っています。約束を早く実行してくださいよ。これまで私がどの程度投資したかご存知ですか。もう30億円ですよ。上手く引っ張られて埋め立てに、ビル建設、ちょっと深入りし過ぎました。これは私にとっても半端なお金じゃないです。それにあなたにも5億円キャッシュで用意したと思いますが」

すると沈黙していた岡本がゆっくり話し出した。

「林さん、安心してください。明日、特区指定が決まると思いますから。菅野首相の了解も取ったし、実力者の小阪最高顧問の了解も取りました。あなたも小阪さんとのコネクションが有ると思うんで確認下さい。それにあの秘密の話・・・・いいんですか」

途中で口を濁して悠然とタバコを吸った。

それでも林の追求は止まずに、

「あの話は此処では言わないで下さい。傷が大きくなりますよ。特区、これで話は決定でいいでしょうね。公民党の石川党首の巻き返しは本当に無いでしょうね」

「それは大丈夫。総務部長の町田さんも納得していて、学会の方も了解済みと聞いています」

「そうですか。それでは沖縄の方はどうですか。また東京と沖縄で意見が違ってということはないんでしょうね」

「それは無いと思うけど、民政党、自由党、公民党、沖縄立志党も大丈夫なんでしょうね」

「大丈夫だと思いますが」

「それは私が持っている情報と違いますが、民政党の党首は盛んに名護市を押しているという情報ですが」

「それはポーズで自由党からどれだけ、利権を取れるかの駆け引きをしているんだと思いますが。安心して下さい。私を信用できませんか」

「いいや安心できませんね。これまでどれだけ、これで苦労させられたか。今すぐ電話で確認してください。私は此処で聞きますから」

強い口調で言うと、連絡先が分らないと言って渋った。

「先生、お願いします。先生の先祖は有名な武士なんでしょう。名誉が揺らぎますよ」

これを言われて顔色が変わり、招薫を睨み返して渋々電話したが、

「出ない見たいだ」

岡本が言って、そして出ましたと言い換えた。

《岡本ですが例の件。宜しく御願いしますね。今、林さんと一緒です。また時間の有る時に電話を御願いします。それでは・・・・また》

携帯に向かって言ったように見せたが、それは切られた携帯電話に対して独り言を言った芝居だった。

そして、そ知らぬ顔で、

「留守電に入れましたから安心下さい」

それでも林は納得せず、知ってか知らずか自分で民政党の党首に電話をかけた。

「岡本さん、この電話に出られていますから話して下さい」

岡本に携帯電話を渡した。

それは民政党の管野党首だった。

《ああ管野さん。いろいろご迷惑をお掛けしています》

暫く雑談してから、

《それはそうと、例の特区のことですがね、1本で良いですよね・・・・・・ええそれは・・・・・・・・ちょっと言い過ぎじゃないか。・・・・・・そこまで言うんだったら。こっちにも・・・・・話にならんな・・・切るぞ・》

険悪な状況になったが、暫く時間が経つと、

《ううん・・・・分った。お宅も色々なところと調整するのに先立つものもいるだろうから、2倍の2本でお願いしま・・・すは》

話は落ち着いた。

《分りました。お宅の秘書の岩崎さんに現金で渡しますから。それでいいですよね》

念押しをして電話を切った。

「これで良いでしょうか」

岡本は招薫に了解を取った。

「ありがとうございます。後は僅かに心配なのは、沖縄立志党ですね」

「あそこは動きがつかみ難いんですが、力は無いんで大丈夫でしょう」

「それは甘いと思いますよ。党首の金城隆二は本気で日本からの独立を模索していますから、彼は本部支援ですから心配ですね。それに中国にもコネクションが有って彼のファミリー企業に中国マネーが流れ込んでいるのは確かですからね。それに米軍との強いコネクションもあってCIAの影も見え隠れしているし。そしてなにより大衆動員力が凄いんですよ、沖縄は一度火が着くと中々難しい状況になるから」

「そうですか。そこまで情報の根を張っているんですか」

岡本は余裕の有る態度を取ったが早速、探って見る必要があると思った。

「林さんこれでいいですか」

招薫に言って帰ろうとした時に「岡本さん、ここでもう一度念書を作りましょか」と言った。

少し躊躇してから「どんな内容になるの」と聞いた。


「IT特区は糸満市に決定いたしました。2011年7月10日 民政党 幹事長 岡本 信一郎。ていうのがオーソドックスでしょうね」

「ちょっとどぎつい内容だね。もうちょっとマイルドに出来ませんかね」

「どういう風に・・・ですか」

「特区構想について努力いたします。2011年7月 民政党 幹事長 岡本 信一郎。てどうですか」

「それなんですか。何もしないってことじゃないですか。これまでの話は何だったんですかね。茶飲み話ですか。冗談じゃない」

と机を叩きながら強く迫った。

招薫は不満をぶつけた。

「林さん。日本の交渉ごとはですね、この程度の内容で全てを理解するんですがね」

今日は引かなかった。

「私は華僑だから日本人の行動パターンは理解出来ません。せめてこの内容でお願いします」

そして示したのが、

「特区構想は引き受けました。2011年7月10日 民政党 幹事長 岡本 信一郎。 この内容で是非お願い致します」

毅然とした態度で言うと、露骨に不満を顔に出して、

「血判でも押しますか」

岡本のその言葉を待っていたかのように、ぺティーナイフを取り出して岡本に渡した。

岡本は最初、躊躇したが、招薫の決意の固さを見て取って小指の先を軽く切って、血が溜まるのを待って念書に押印した。この血判でDNA鑑定が可能になり念書の価値が増した。


ここで招薫が「この念書が有名無実になるように願います」と言ったことが、この会議の性格を象徴していた。

招薫はこの会議を全く信用していなかった。岡本が恭しくもったいぶって状況を説明したが、それはもうどうでもよかった。実行あるのみ、結果が全てと思っていた。

岡本が部屋を出て行くのを待って、さっき名前があがった連中に独自に電話を入れて念を押した。更に確かなものにするために明日から沖縄に行って、現地で指揮を取ると取り巻きに言い、足早にその場を去った。

そこまで招薫は追い込まれていた。


表向きの電話が終ると今度は、奥に入って裏の世界の人間と話をした。

まず、名古屋の司組に電話を入れて沖縄の事を聞いた。

電話に出た大田若頭代理は表の世界との折衝役で、前職は朝鮮学校の教師だった。組での表面上の序列は低かったが、陰の組長秘書役と言われ組長から全幅の信頼を置かれ、金庫番の役割を果たしていた。戦争になった時、金と兵站を担った。

大田は招薫から事情を聞いて「また、今日、9時頃に電話しますんで」と言って一旦、電話を切った。


招薫は用意周到で、岡本との会話のやり取りをICレコーダに記録して、それを更にコピーして最後の切り札にするべく準備していた。これが役に立つ時には自分は破滅しており、勿論その時は岡本を道ずれにするつもりだった。

それほどの決意を持って臨んだ会談だった。

当然、岡本はこの事を知るよしもなかった。

招薫と面談したホテルを出て車の中で秘書の山下に、

「林も良く言うな。今度逢った時には思い知らせてやるからな。俺に手まで切らせやがって。それで沖縄は本当のところはどうなんだ。俺に恥をかかせるようなことはないんだろうな」

秘書に聞くと、顔を曇らせてた。

「それがですね。どうも怪しいんです。組織が割れてまして、統制がとれてないんですは」

「割れているのはバッジかそれとも此れか」

左手で頬の辺りを上から下になぞった。

そして、念を押すように「こちらの方です」と言って小指を出した。ヤクザの方ですという意味だった。


招薫が殺害される前にこのようなやり取りがあった。この時の記録が将来トラブルが発生した時に効果を発揮する事になる。


沖縄にはやくざ組織が二つ有るが旗手が鮮明でなく、バッジ組との関係も複雑で、どちらが味方でどちらが敵かが分らない場合もあった。

ここで大事な視点は、沖縄県内では対立している組であっても、内地に負けるなという視点では、損得なく協力出来るということを知らなくては、正しい判断が出来ないということだ。

政治家、組関係者に取って此処で唯一、信頼出来るのは、体を張って本土との抗争の調停役を担った司組の大田若頭補佐のみだった。招薫も全幅の信頼を置いていた。また信頼に耐える男だった。


それでも結局、表世界のバッジ組の裏切りによって招薫の投資した地区は、IT特区の指定を受ける事が出来なかった。その理由は、嘉手納基地の機能を移転するするためには、名護市の支持を受ける必要があるとの冷静に考えれば極当たり前の論理によって、招薫の人生を掛けた戦いは終ったのだった。

これで、招薫はこれまで投資した金を失い、沖縄に中国経済街を作るという表裏に跨る利権を失った。岡本が、中国政府が希望する中国経済街構想に協力するという内容は秘中の秘だった。

日本の政党間の軋轢もあって、民政党が最後の最後で折れた結果でもあった。此れと引き換えに2011年度の補正予算は成立し、管田内閣は命拾いして、次期総裁は岡本幹事長派の野口経済産業大臣に禅譲されることが決まった。岡本は野口総理の下で副総理になることが約束された。岡本には金銭に関する黒い噂があり、管田総裁の意向も有り総裁になることは憚られた。


IT特区が名護市に決まったことを、招薫は殺害される前日の新聞記事で知った。

自分は負けたと思った。

岡本に電話したが、岡本はのらりくらりと話をはぐらかし、次に埋め合わせをすると言ったが、次はもうない事を招薫は知っていた。

ここで招薫は、

《岡本さん、念書どうします》

《それは敗戦記念に取っておいて下さい。あれは一般的な内容で表沙汰になっても特に問題になる事はないと思いますから》

《それじゃICレコーダーはどうしましょうか?》

招薫が言うと、それまでの余裕のある態度とは打って変わって狼狽するのが電話でも感じられた。

それを見て取って《あれを2億円で買ってくれません》と言うと食い付いて来た。

招薫にとって、金はどうでも良く、岡本を呼び出して一杯泡を吹かせてやりたかった。2億円なら岡本も出せる金と思った。

《明日午後4時に恩納村の観光ホテルの海岸でお待ちしています》

強引にアポイントを取った。

岡本は招薫が宿泊しているホテルを聞きメモを取った。このとき、岡本にはもう算段は出来ていた。


翌日、招薫はホテルを出て岡本との待ち合わせの場所に向ったが、岡本は待ち合わせの場所には向かわず、基地視察のために宜野湾市に向かっていた。

1時間後、招薫は待ち合わせの場所で岡本を待っていたが当然来なかった。そこに一人の男が近付いて来て、招薫を抱きかかえて車の中に連れこんで走り去った。

招薫は形ばかりの抵抗をしたが、本気で抵抗しなかった。岡本の行動は有る程度織り込み済みで、こんな事もあると思っていたので想定の範囲だった。もう命は惜しいと思わなかったし諦めていた。有るのは岡本への復讐心のみだった。

招薫の計画ではこれから行われるであろう拷問で、念書とデジタルデータの在り処を簡単に白状して事件を終ったように思わせて、後でアット言わせて一泡吹かせるというものだった。


招薫は予想した通り男たちに拉致された。連れていかれた場所は、想定を越えていた。捜査撹乱も意識してかホテルの自室に連れ戻して、消音装置付きの銃をむけられて念書とICレコーダの場所を聞かれた。招薫は計画通り最初、抵抗したが案外簡単に念書とICレコーダの隠し場所を白状した。

襲撃犯は内容を確認し、銃で射殺することなく、新聞に書かれた方法、即ちナイフで刺殺し放火した。


①2回目の食事会

由美子と勇次は食事の約束はしたが、3人に色々なことが起こって、中々会う機会が無かった。ようやく2回目の三人での食事会が行われた時には、事態は大きく動いていた。即ち、招薫は殺害され、勇次と凛々は真犯人を探す活動を行っていたが、中々進展しなかった。

思いつくことは全て行っても真相究明には程遠く、警察も表面的には、動いていなように見えた。肝心の凛々は有力容疑者と思われており、例え犯人でなくても状況を知っていると見られていた。確かに、状況は良く把握していた。

「凄い活動を行っていますね」

由美子が言えば、

「ええでも中々巧くいかなくて。日本人の頭、中国人と同じくらいに情報管理をしている」

真面目な顔で言って、勇次と由美子が含み笑いをした。


 日頃の活動で疲れていたのか、凛々が立った時に誤ってテーブルクロスを引き、グラスを割ってしまった。更に慌てて割れたグラスを片付けようとして、手を切った。由美子は咄嗟にハンカチを出して血を拭き取った。結構出たが暫く抑えていると止まった。そのハンカチを素早く鞄に入れた。

 このようにして由美子は、凛々の血が付いたハンカチを自然に手に入れた。

 後片付けは、店の係員に任せて二人は、手洗いに向かった。

「大丈夫・・・痛くないの」

「ええ大丈夫。私の不注意で本当に迷惑をお掛けいたしました」

「それはいいの、でも本当に大丈夫」

「ええもうすっかり」

傷口を水で洗い流しバンドエイドを貼った。

凛々は気持ちを落ち着かせるのに、少し時間が欲しかったので、

「ちょっとすみませんがトイレに行きますので、ここで待っていていただけません」

由美子に言ってハンドバックを渡して個室に消えた。


 凛々のハンドバックを受取ると、少し開いたバックの口から携帯電話が見えた。悪戯心が湧いて来て、中身を見たい思いを抑えられなくなった。

 その思いと同時に手が動いていた。

 素早く取り出して、電子メールの受信欄を見ると、岡本からのものが数件有って驚いた。古いものから、

【メールありがとう。貴方のメール楽しみです。特にメールが入ると、貴方の綺麗な顔が見えるのでドキドキします】

【今度、逢って話しをしましょう。きっと貴方を満足させる・・・・・ことが出来る自信があります】

【期待しています。】

【あなたの提案。嬉しいです。土曜日の4時、赤坂グランドホテルの602号室で待っています。楽しみです。楽しみましょうね・・・・・・・しません・・・・・。他の人間は・・・・です。だから安心です】

際どい内容だった。また、岡本への発信欄には、

【岡本幹事長さん、覚えていただいていますか。凛々です。逢っていただけると・・・・・貴方を満足されることが出来ると思います】

【・・・楽しみです。期待して・・・・・。色々教えて下さい・・・楽しみです】

【ありがとうございます。・・・・その代わり・・・・・・で私を満足させて下さいね】

【私も勝負服を来ていきますから・・・期待に答えて・・・・満足させて下さいね。期待しています】

こちらはこんな内容で、凛々が出てこないかと思い、ヒヤヒヤしながら読んだので、自分勝手に読んで、凛々と幹事長の情事、すなわち不倫メールと思ったが、実際は、招薫の殺害に関する情報交換を行おうとの内容だった。


 気持ちが乱れている時は、真実の内容、文字が見えなくなる典型だった。

 由美子は凛々がこのようなこと、即ち岡本とメール交換を行っているとは、夢にも思わなかったので、余計に心が乱れた。

凛々は純粋に100%勇次の事を思っていると思っていたので、裏切られたという思いが大きかった。由美子の胸の中に『勇次さんが可愛そう』という思いが急速に大きく広がった。

 それにつけても許せないのは、岡本幹事長の態度だった。自分のもっとも輝いている10年を尽くして来たのに、輝きに衰えを感じ始めた時に捨てられると思うと悔しさが募った。

少し前に岡本から、

「お前とも結構長いな。これからのこと考えないとな」

「それってどういうこと。私を捨てるの。そういうことですか?」

「捨てるってことはないだろう。お互い様。自己責任だからな・・・そうだろう」

「かってな論理だね。でも私は、ただでは別れないからね。覚悟は出来ているの。私は高くつく女だからね・・・分かった」

「これくらいか」

岡本は言って手の平を擦って、その手をグーで殴りそして、

「じゃあこれでどうだ」

親指を1本、中指の下から出した。

由美子は呆れて無視した。


岡本とは以前にも、この手の出来事や会話が有ったが、知らないところで行うなら許せても、身近な人間と、こうも堂々と見せられてしまうと、許す事は出来なかった。以前は自分にも自信があって岡本と対等に渡り合えたが、さすがに今は弱気になっていた。

 そう思うと、よけいに血が頭に昇ってしまいそうだった。

 この興奮した状態で、由美子の心の中では、おぞましい計画が段々と形を形成するようになっていた。その計画がある程度まとまった。興味からバックの中に有る携帯電話の中身を見て岡本とのメール交換を知り、頭がパニックになった。しかし冷静に、今後行う計画の助けにと、口紅を一本抜き取って自分のバックに入れていた。この口紅は、今、話題の代物で女性羨望の品だった。ナノレベルという極微細な真珠が、化粧液の中に組み込まれていて、それが光に微妙に反応して陰陽を演出して、雰囲気を変え周りの人間をひきつけるというので話題だった。

但し、発売本数が限られているために、中々手に入らなかった。これは由美子の計画にとっては、絶好の産物だった。暫くすると凛々が出て来て、手を洗ってハンカチを使わずに乾燥機で乾かし、バックを受取り一緒にテーブルに戻って何に食わぬ顔で、3人で楽しく食事を継続した。


「手は大丈夫」

勇次が、凛々に心配そうに聞いた。

「ええ問題なし。由美子さんにも色々面倒見て貰って、ありがとうございます。謝謝」

「いいえ何も、これからも3人仲良くしましょうね。中国、沖縄、東京のトライアングルで」

「ええ楽しい時間を過しましょう」

由美子は最後まで本心を見せることなく別れた。凛々は由美子からの情報を期待していたが、今後に期待して深く突っ込まなかった。


勇次も凛々の気持ちを察して招薫殺害について調査を進めていたが進展は無かった。凛々に言われるまでも無く、岡本の線が有力と思って周辺を調べたが。所詮素人には限界があった。ギブアップを宣言して撤退する理由を考えていた。

疲労でうたた寝して、寝起きの疲れたもうろうとした眼で凛々が招薫からもらったバックを見るとバックの表装に字の様なものが見えた。凛々からバックを取り上げてもう一度眼の焦点をずらして見ると、更に鮮明に立体的に字が浮かんで見えた。

その文字を紙に書いた。

《FTB-TK8》

この様に読めた。

それを見た凛々は、

「これは富士東京銀行 そして確かTK8は・・分からないな」

「お前よく分かるな。これが銀行だって・・・・・本当か」

「女の感。中国3000年の神秘と言いたいけど。以前、銀行口座を作った時にカードにFTBと書いてあったように思う」

「するとTK8は支店名かな」

凛々の感には伏線が有った。勇次が富士東銀行に連絡して、FTB-TK8富士東京銀行の東京駅支店であることを確認した。

「これで一歩前進だ。ここに何か有る」

勇次が達成感に浸っていると、凛々は考え込んでしまった。

「如何した凛々、凛々おかしいか。また何かひらめいたのか」

何回聞いても無言で、何か独り言をブツブツ言っている。

そんな時間が1時間過ぎた。そして盛んに携帯電話をいじくっている。


「分った。ワカッタ。わ・か・っ・た」

段々と声を上げて言って勇次とハイタッチした。

「どうした・・・急に」

「わかった。この前に招薫からもらった最後のメールに変な数字が書いてあった。それが“0803-%08t”だった。今、確認した。前が私の誕生日で、後ろが・・・・・何だろうか?意味が分からない」

この言葉を受けて、

「凛々、何でもっと早く言わないんだ。言えば知恵も出るのに。お前の悪い癖だ。もっと人を信じろお前の悪い癖だ。注意しろよ。でもこの秘密分かった」

「なんなのこれは」

「多分、これは銀行の貸し金庫の番号とパスワードだ」

「きっとここには何かあるに違いない。これで勝利も見えて来た」

凛々と握手した。


実は、招薫が刺殺された翌日、凛々の携帯にメールが入っていたのだ。時間予約のパソコンからのメールだった。

「もし良かったらそのメールを見せてくれないか」

勇次に見せられたメールの中身は、

【凛々、元気ですか。私はこのメールが届いた時には、もうこの世には居ません。誰かに殺されていると思います。プレゼントを大事にして下さい。東京 “0803-%08t”ありがとう。あなたの幸せを祈っています】

こんな内容だった。

勇次が凛々を厳しく責めた。

「こんな大事なメールを俺に見せないなんて俺を信じてないんか」

「信じてるけど。勇次に心配かけたくなかったから。それでなくても凛々怪しい女だから」

「すまん。俺の心遣いが欠けていた。俺に甘えがあった」

「ゴメン。私が一番悪い」

ここまで聞いて、勇次は凛々を抱き寄せて涙をぬぐった。


なお、この携帯情報は盗聴されていて、結果的に二人が執拗に追いかけられる原因になった。

「そうか、これが原因で俺たちが追い掛け回されたり、凛々にも色んなことが起ったんだ」

「私の疑惑晴れましたか」

「半分は晴れたけど、他にも疑問は有るけどそれは今ちょっと置いこく」

「疑惑が二つか」

勇次もそう思った。疑惑は二つあって一つは招薫、もう一つは・・凛々の・・・」

そんなことを考えたが、今は招薫の方だと心を決めた。


 訪れた銀行からは身分確認について色々聞かれたが、ここでも勇次の公務員で大学准教授という資格が役立った。勿論、IDとパスワードが決め手になった。

凛々と勇次は銀行の貸金庫を開くとそこにはICレコーダだけが保管されていた。データを取り出しコピーした後に、凛々に持参させて警察に出頭させた。その間にも勇次はデータを解析し、レコーダの記録を文字に起こした。

凛々は警察にデータを提出したが、偽造を疑い警察の動きは悪かった。仕方なく、勇次は取得したデータをユーチューブで流す事にした。本来は映像主体であるが音声だけでも迫力があるので、それに文字起こしをしたデータを付けると瞬く間に世間に広まった。


これが広まったことによってマスコミに取り上げられ、もう隠す事が出来なくなった。岡本幹事長は急遽、釈明のための会見を開いたが、逆に集中砲火を浴びて火の車になって炎上した。

もう流れは戻せなかった。

警察もようやくICレコーダの記録を精査し、関係者を締め上げ、国民の支援も受けてヤクザ組織にも張り付いて経済活動を締め上げたために、ヤクザ組織は警察に泣きを入れ、招薫殺しの実行犯を出頭させた。これで凛凛は招薫への申し訳なさや罪の意識も幾分解消され、前向きな気持ちになった。

しかし出頭したヤクザは、依頼人は居ないと言って口を割らなかった。


警察情報や中国、招薫の元ブレインからの情報を収集すると、民政党の実力者である岡本幹事長を頂点として、日本のヤクザと中国のヤクザに連携があり、夫々が沖縄の2つのヤクザ組織と民間組織に影響力を行使し、事件を複雑にして見えにくくしていた。

その背景には、沖縄の特殊性があった。

即ち、本土の人間の理不尽な仕打ちに対して、沖縄はあらゆる階層が団結して事に当たるという習性があった。これがこの事件に限らず本土と沖縄の関係を複雑にすることになる。


また、中国当局の調査では、福清市で殺された二人は福建ヤクザの仲間割れが原因の単純な殺人事件だったことも分った、が勇次には納得出来ないものがあり、凛々は何となく理解した。

岡本は副総裁の目も無くなり、責任を取って幹事長を辞任し離党したが、国会議員の地位を堅持していた。勇次は、自分なりに納得出来る結論を得て、亡くなった招薫に報告出来ることを素直に喜んだが、凛々の気持ちの中には複雑な思いが有った

凛々の横で勇次が眠り、新しい朝が窓の外に有った。



11.幹事長殺害


①最後の食事

 由美子はある覚悟を持って幹事長いや元幹事長の岡本と食事をしていた。

岡本は、

「珍しいなお前から逢って、食事をしたいって言うなんて。でもあれはきょう駄目だぞ。大事な仕事が有るから。俺が陰の総理大臣に成れるか、成れないかのかを占う大きないイベントなんだ」

由美子は頭の中で、“凛々と逢って抱くことと、影の総理大臣に成ることが、なんの関係があるんだ”と笑っていた。

 別れる覚悟をすると、岡本が老けたセンスの悪い加齢臭の強いエロ親爺のように思えてくるのが不思議だった。由美子は今日、岡本の裏切りに嫉妬してナイフで刺し殺す計画を持って、それをおくびにも出さずに一緒に食事をしていたのだった。

 最初、逢った時に岡本は、

「なんだそのメガネと服は」

 由美子の姿に驚いたが、由美子の、

「たまにはこんな格好も良いかなと思って。新鮮でしょう。気持ち変わった」

返事するともう普段の態度になった。


 今日、岡本は凛々が招薫殺しの真相を聞きたくて、思わせぶりなメールを送って、面会を申し込んだ真意も知らずに逢う予定だった。勿論、いざとなれば体の関係を力ずくで迫る算段だ。

 時間が欲しいので由美子を怒らせて早く返そうと、岡本は悪趣味にも凛々とのメール交換の内容を由美子に見せて嫉妬心を煽った。

「おいこれ見てみろ」

メールの一部を見せた。

由美子は何を言っているのか理解できなかったが、再び、

「これを見てみろ」

無理やりメールを見させた。

そこには【今日楽しみです。食事の後に宜しく御願いします】、【あなたの力を見せて下さいね】、【私は本気で・・・・探しています】と書かれたいた。

更にメールを見せて、思わせぶりな言動をした。

「近いうちにこいつと逢う事になっているんだ」

自慢ポク言った。

その気満々だったが敢て無視した。

岡本は、由美子が反応しない事にガッカリするのが、それが傍目にも見て取れた。


 これを見せられて改めて由美子は、かって好意を抱いた勇次が信頼している凛々に騙されているのが可哀想になった。そこでこれまでの出来事を清算するために巧みに罪を凛々に被せる工作をする決心をより確かなものにした。この考え方は以前に勇次、凛々と一緒に食事をした時に考え付いたが、今日、決行する気持ちが固まった。

由美子の気持ちも知らずに、岡本は自分の作戦にも態度を変えない由美子に向かって、

「お前には1本やるから、今回はもう本気で別れよう。俺も浪人したことだし、お前には感謝しているけど、俺も結構苦労しているんだ。それでいいだろう」

「かってなもんだね。私の一番い良い時間を独占して飽きたら捨てる」

「捨てるか。でもお前も、結構いい思いもしただろうからお互い様だね。そう思わないか」

由美子の気持ちを逆なでする様なことを岡本が言うので、これからの事をスムーズに運ぶため、

「分った仕方ないか。別れよう。でも、ホテルの部屋に好きな口紅を1本置いてあるから取りに行かせて。取ればすぐに部屋を出るから」

「分った。約束だからな」

由美子が部屋に入る事を了解した。

岡本は、ホテルのこの部屋を年間契約し、宿舎代わりにしており、費用は懇意にしている企業が出していた。勿論、利用者名は変えていた。

部屋に入れたことで、心の中で、由美子は此れで作戦の95%は成功した。あとは落ち着いて実行するのみ。仕事は段取り八分と言うが、これが完璧に出来た。


 岡本は4時に凛々をホテルの部屋に呼んでいるが、このやり取りをメールで行ったのが命取りになった。これが電話だったら記録に残らないので、ここまで上手く由美子が事を進めることは出来なかった。更に由美子と凛々が懇意であるという事も幸運だった。ここまではすべてが由美子に味方した。

 計画通り由美子と岡本は2時に定宿にしているホテルに入った。フロントで部屋の鍵を受取る時には、意識して傍には寄らずにピンクの丸い伊達眼鏡とピンクのスーツをフロント係りの脳裏にしっかりと焼き付けた。由美子とフロント係は顔なじみだが、今日の格好がそれを連想させなかった。

 フロント係りの頭には、『趣味の悪い服の女と岡本が部屋に入った』という印象が強く残った。

この時、由美子は背を高く見せるために、何時もは履かないハイヒールを履いていた。

 エレベータの中でも由美子はわざと多くの人に自分の印象を持たせるように、場所を少しずつ横歩きで変えた。一緒にエレベータに乗っている人は服装とともにその行動に違和感を持った。


岡本の後に続いて部屋に入ってすぐに由美子は、後ろを向いて手袋を着け、素早く首にエプロンを掛け、白いハンカチを手に持って、ハンドバックから刃渡り15センチのナイフを取り出して、正面から岡本の腹をナイフで刺して下に降ろし、最後に小説で読んだ殺人を確実に行う極意であるという記述どおりに、ナイフを2回転させた。

不意を衝かれて、暴れる岡本の頭を、近くにあった大きな灰皿で殴り、大人しくなった岡本の心臓を刺して止めを刺した。なお、ナイフを回すのは、臓器の修復を難しくするためである。

冷静に死んだ事を確かめてから、以前一緒に食事をした時、凛々が指を切った時に、血を拭いたハンカチを、栓をした洗面器で水洗いして、そこに同じような材質と模様の別のハンカチを入れて、血を滲みこませてから、乾かすという事前工作をした血痕の付いた手に持ったハンカチに、岡本の血を付けて、それでナイフを摑んで、もう一度傷口に差し込んだ。


更に同じく以前、手に入れておいた凛々の口紅を部屋の床に置いた。勿論、指紋は拭き取った。此処まで冷静に工作してから、岡本の個人用の携帯電話を持って外に出た。

ここまで実行するのに15分係った。

エプロンを取り、服に返り血が無い事を確認して由美子は着替え、今まで着ていたエプロンと服、ハイヒールを紙袋に入れ、低い靴に履き変えて目立たないように徒歩で階段を下りて、裏出口からホテルを出て地下鉄に乗った。

そして紙袋を持ったままアリバイ工作のため、ここから15分掛かる六本木ヒルズの知り合いの会社を訪問した。


由美子の突然の訪問に、

「これはどうも、言って下さればこちらから訪問させて頂きますのに」

「いいえ今日は、ちょっと大事なお願いが有りまして」

由美子が言うと、これからの言葉を予想して相手の社長の顔が引きつった。

「じつは献金のお願いでして」

この言葉は想定の範囲内だったので、社長の顔は緩んだ。この会社は、取引の8割が岡本関連の仕事で、彼の一挙手一投足が会社の命運を左右していた。

由美子は此処で、

「すみませんが、ちょっと化粧室をお貸しいただけません」

社長に断わって、会話の途中でトイレに入って、岡本の携帯から自分の携帯電話への電話を、そしてその後に自分宛てにメールを入れた。そのメールの内容は【りんりんにやられた】だった。

すぐに社長のところに帰ってから、社長の前で携帯のバイブレーションが反応したように見せかけて、

「すみません。ちょっと電話ださせて頂きます」

社長に断わってから電話に出て、

《はいはい由美子です。先生、えー刺されたって本当ですか。すぐに帰ります。何時ものところですね》

一人芝居をして電話を切った。


 由美子と岡本元幹事長の関係を知っている社長に、

「この件はちょっと内緒にして欲しいんですが、幹事長が刺されました。傷は深くないみたいなのでこのことは当分、内密にお願いします」

悠然と言ってハイヤーを呼んでもらった。

再度、会社を後にする時にも、

「この件、くれぐれも秘密にお願いします」

この言葉を忘れなかった。

 社長は分ったという顔をして、次に、厳しい顔をして見送った。


社長に送ってもらって出口に着くと、既にハイヤーは着いていたので、ホテルに向かってくれるように冷静に告げた。由美子はここで、これからのことを冷静にシュミレーションした。10分でホテルに着いて、横口から素早く入りトイレに向かった。

そこで、紙袋から取り出したピンクの服を着て、メガネを掛け、高い靴に履き換えて変身し、其れまで着ていた服を紙袋の中に入れてロビーの椅子の上に無造作に置いてから、歩いて監視カメラのない階段を6階まであがって行った。

6階からは降りのエレベータに乗って、しっかり自分の姿をエレベータのカメラに写しておいてからフロントに向かい、フロント係りに軽く会釈して印象を脳裏に刻み、フロント係りが関心を持ったことを振り返って確認してから、素早くさっき椅子の上に置いた紙袋を持って外に出て公園のトイレに入って自分の服に着替えた。

多くの人は椅子に置かれた紙袋を見たが、興味を示さなかった。日本ではそれが自然だった。


由美子は着替えた服の入った袋を持って一度、ホテルの外に出で、地下鉄のコインロッカーに預けてから、再度、正面からホテルに入って顔なじみのフロント係を捕まえて、

「岡本、幹事長が大変なんです。早く部屋に入れて」

「分かりました」

フロント係が由美子と一緒に部屋に向かった。

ここで、由美子は、

「すみません、ちょっと電話みたいです」

係員に断ってから、

「先に部屋に向かって下さい」

この言葉で2名のフロント係りは、エレベータに走り、暫くしてフロント係がエレベータに乗ったのを見極めてから、少し遅れてエレベータに向かって、エレベータが帰って来るまで少し待ってから、来たエレベータに乗って部屋に向かった。


先に部屋に着いていたフロント係りは部屋をノックしても反応がないのを確認して、マスターキーで部屋に入って、岡本の死体を発見しフロント経由で警察に電話した。

部屋の外で様子を見て、一人のフロント係が慌ただしく岡本の死体に背を向けて、フロントに電話して事情を説明している時に、部屋に入って来た由美子は、もう一人のフロント係りは起こった出来事が正確に把握出来ずに、眼の焦点が合わずに呆然として立っていることを確認した。

由美子は非常ベルを押して呆然としているフロント係を部屋の外に誘き出し、それを確認してから、目立たないように素早く、倒れた岡本の横に行ってどさくさにまぎれて、ポケットに隠していた携帯電話を岡本殺害時の血を事前に付けておいたハンカチで摑んで、床を手で静かに滑らせて、岡本の死体から遠く離れたところに置いた。勿論、指紋は拭きとっておいた。

そして、静かに部屋を出た。

入れ替わりに非常ベルを停止させたフロント係が部屋に入った。由美子の計画通りだった。もしフロント係が部屋の外に出ない場合は、覚悟を決めて部屋に入り、分からないように同じことをする覚悟だった。想定以上に巧く行った。


すぐに慌ただしく二人のフロント係りに目立つように部屋に入って来て、

「何が有ったんですか・・・。何が」

フロント係に大袈裟に言って、由美子は死体にすがって泣いた。この様子が、二人のフロント係の脳裏に鮮明に記憶され焼き付いた。

一泣きすると、フロント係りに断わって、部屋を出てエレベータでフロントに降りて、関係者に自分が部屋に入って、工作した印象をイメージしないようにした。

この出来事でホテルは大混乱になった。

少し早めにと3時過ぎに目立つ勝負服姿の凛々がホテルに来た時には、すでに騒然としており約束の部屋に向かうことが出来ずにいると誰かの、

「岡本元幹事長が刺された」

この声を聞いて、雑踏に塗れて街の中に消えた。

しかし、由美子の事前工作の影響もあり、凛々の目立つ格好と不自然な様子を見ていたホテルマンと客が数名いて、その格好から“謎の女性”として捜査線上に浮かび上がる事になった。


まず警察は、秘密の場所を確保して参考人として由美子から状況を聞き、2時間後に解放した。由美子は大胆にもその足で地下鉄のコインロッカーに戻り紙袋を取って、トイレに入ってハンドバックの中からはさみを取り出して小さく切り刻み、めがねとハイヒールは潰して燃えるゴミ回収用の袋に何重にも梱包してから入れ翌日、回収される場所のゴミ捨て場に捨てた。繁華街なので既に何個かのゴミが置かれていて目立たなかった。

帰宅して風呂に入ってシャワーを浴びてから、湯船に入って体を温めて冷たい缶ビールを飲んだ。いつもより一段と渇いた喉に滲み込んだ。

念のためにこの日、着ていた服と持ち物も一まとめにして何重にも梱包して燃えるゴミ袋に入れた。


そのころ警察の鑑定係りは現場を検証し、ハンカチ、口紅、携帯電話の記録、目立った服などから凛々を有力容疑者として認定し緊急指名手配を行った。また、岡本の死体を発見した2名のフロント係りは、由美子が岡本元幹事長の携帯を部屋に置いた事を全く見ておらず、最初に部屋に入ったのは自分たち2名のフロント係のみで、自分たちが入った後に、由美子が泣きながら部屋に入って来て、直ぐに出たと証言した。

由美子の思惑通りに事が運んだ。


由美子は部屋に入ったが直ぐに出て、フロント係から由美子が部屋に入ったという印象を薄くする工作をしたとはいえ、警察の二人のフロント係りへの事情聴取に「由美子さんは泣いて直ぐに出て行きました」と頑なまでに主張した。ましてや、由美子が携帯電話を置いたことは、全く感知していなかったし想像も出来なかった。

「本当に由美子さんは一緒に入らなかったんだね」

「ええ遅れて入って来て、元幹事長の傍で泣いてからすぐに部屋を出て行った」

「本当に」

「本当です。私が嘘をつく理由有りますか。私って信用出来ない人間ですかね」

このやりとりから人間の記憶の危うさが如実に出た。


指名手配の情報をテレビニュースで知った凛々は、裏世界の事情を知ることも有って警察に出頭出来なくなって、中国人の知り合いを渡り歩いていた。凛々が出頭しないので疑惑が更に深まった。警察がリークした情報でマスコミが騒ぎ立てだした。凛々にはそれだけ疑われる要素が有った。

即ち、招薫の元恋人で、此れまでも警察沙汰を何度も起こし、招薫殺害犯人探しの行動からも、元幹事長に遺恨を持っていたことは明らかで、余りにも証拠が揃っていた。


勇次には何故か、凛々から連絡は無かった。勇次は高山鎮に帰った明華に連絡して至急、東京に来るように言った。明華にも連絡は無いと言う。きっと、携帯を使うとGPS機能が付いているので、裏組織に自分の居場所が知られるのと、勇次はじめ関係者に迷惑を掛けたくないと、思っているのかも知れないと考えたが、それにしても理解出来なかった。


翌日、由美子はゴミ袋を持って自宅を出て捨て、回収車が来るまで待って回収を確認してから、昨日捨てたゴミが回収されていることも確認して、証拠が合理的に隠匿された事を知って安心し、再度、家の近くまで戻って行きつけの店で朝食を取った。テレビも新聞も元幹事長殺害のニュースで持ちきりだった。 

テレビ、新聞等のメディアは凛々を犯人と決め付けたような報道をし、稀代の悪女のようなイメージを作り上げ、一日も早い自首を促す内容が多かった。この報道の中には日頃、日本人が持っている中国人への嫌悪感を投影している趣きも有った。


勇次が出頭せずに逃げ回る凛々を心配している頃、由美子はいち早く捜査の対象から逃れ、日頃の生活を取り戻していた。凛々からの情報は急いで来日した明華からもたらされた。この時、凛々は逃げ回る中で携帯電話は盗聴されることを恐れて、電源を切って利用しなかったために、勇次、明華や母親に連絡が出来なかった。メモリーに情報を入れていて、其れをベースに使っており、手元に紙の記録が無かったので全く連絡が取れなかった。携帯から連絡を入れないという対応は正解だったが、勇次は情報に飢えていたので、明華から連絡があった時は、言葉では言えない嬉しさが有った。


凛々は、公衆電話で唯一連絡先が分る蘇州の養父母に連絡し、高山鎮の母親経由で明華につなげた。なんとも凛々らしからぬ慎重な対応だった。数日後に明華が東京に着いた時には、既に凛々は日本の警察の目が届かない安全なところに保護されており、安心するようにと勇次に伝えて来た。勇次はこのような案件では、凛々には頼りにならない存在と思われていたことを知った。

“警察の手の届かないところ”という表現が理解出来なかった。明華の奥の深さをまた知ってしまった。すでに組織とは縁を切ったと、聞いていたのでショックだった。

『まだまだ奥は深いな』と思わずにはいられなかった。反動で凛々にも何か大きな秘密があるのでは、と考えてしまった。それは事実で確かに有ったが、知るにはまだ時間が必要だった。


勇次は明華と成田国際空港で待ち合わせして、双方に尾行がないことを確認した後に、念のためタクシーを意識的に乗り継いで尾行を巻く工作をして、千葉の田舎町に着いた時には、普通に来る時の時間の2倍を要していた。凛々は小さな居酒屋の2階の部屋に居た。

部屋に入ると凛々が、明華に抱きついて、

「お母さん、ありがとう本当にありがとうネ。心細かった。お母さん・・・・おかあさん」

初めて明華を心の底から母と呼んだ。

明華は静かに娘を赤子のように胸に抱いた。

暫くこの時間が有ってから、明華が口を開いて厳しく詰問した。

「それで、凛々どういうことなのこれは。説明しなさい」

これに答えて、凛々は、事件当日、岡本元幹事長とホテルで会う予定だった事を告げた。これを聞いた時、勇次は衝撃を受け、顔が硬直して手が震えた。

「自分一人で解決しようと思ったんだね。誰にも頼らす。でもそれは間違っているよ。なんで勇次さんに相談しないの信頼しているんでしょう」

明華が凛々の気持を代弁した。

「勇次さんにこれ以上迷惑を掛けたくなかった。嫌われたくなかった。負担を掛けたく無いと思った。これまでにも色々迷惑かけているし、これ以上迷惑をかけると、勇次が大学を辞めさせられると思った」

この言葉を受けて、

「分った。俺が悪かった。お前に変なプレッシャー掛けたな。すまない。本当にすまなかった」

勇次が素直に謝ると、暫くして凛々の涙は止まった。


冷静さを取り戻したのを確認してから、

「それで凛々は絶対にやっていないんだね」

「そう絶対にやっていない。貴方に信じてもらえないんだったら有罪でも良いよ」

力強く毅然と答えたので、二人は凛々の無罪を確信した。

3人で新聞や此れまでのテレビ情報を集め勇次が分析し、二人に説明した。

この説明を聞いて明華は、

「なんか話しが出来すぎているな。直感的に一番怪しいのは、勇次の後輩で元幹事長の愛人という由美子だね」

「私もそう思うけど、あの子にはそんな大胆なことは出来ないと思う。修羅場くぐってないから」

「そう・・・私もそう思う。私たちに優しくしてくれたからね」

凛々が言って、以前、一緒に食事をした時の出来事を話した。

「そう、そんなことも有ったんだ。優しい人だね。でもね、その時に凛々の血の付いたハンカチや口紅を手に入れることが出来る可能性があるからね」

冷静に明華が言うと二人は絶句した。

唖然とする二人に、分り易く事情を説明した。結果的には、この説明内容はほぼ真実だった。凛々は、由美子と食事した翌日には、大事にしていた口紅がない事を既に知っていて、今まで不注意で失くしたと思っていた。


「勇次さんは、由美子と接触して話を聞いて来て。そして、尾行に気を付けて此処に帰って来て」

此処で事情を悟った明華が言った。

それを聞いた勇次は最初、内容が理解出来なかったが暫くして、

「そうか。あなたの考えていることが分ったから、そうするけど。何か注意することあるの」

「有るね。情に流されないように。それに帰りにはくれぐれも尾行に注意するんだよ。必要以上にね。警察の他にやくざも・・ダメ・・だからね。分った。これは遊びじゃないよ、命が掛っているからね」

毅然とした態度で言ってのけ女ボスの風格が有った。

 結論が出るとお腹が空いているのが分った。下の店から中華料理を取って、ビールで乾杯して明日からの活躍を誓った。尖がった頭を丸くするにはアルコールが必要だった。

「私、他のところに行こうか」

明華が聞くので、

「いいですよ。一緒に此処に居て下さい」

勇次が言って、凛々を真ん中に3人が川の字になって寝る事になった。勇次は厄払いと言って布団の中で、凛々の胸を2回触って、3回下半身を撫でると男が反応した。


翌日、朝8時に起きてテレビを付けると、マスコミは3人のイメージ通りの報道を行って、視聴率をきっちり稼いでいた。インターネットには、凛々に自首を勧める内容と中国人なかでも福建人を誹謗する記事が氾濫していた。


勇次が一人で由美子に逢いに行っている間に、凛々と明華は有効な時間を過ごした。

まず、母親の明華が子供を養子に出した時の思いを語った。

「私はいい加減な女で凛々も知っての通り、私にはあなたを育てられない事情があったの。それで我が子の幸せを願い、仕方なく養子に出した。でも、手放してしまった後で、今までに無い深い悲しみに晒されてね、どうしようもない虚脱感があった。

悲しみに耐えられず、母親と同じように、その場を逃げ出してアメリカに行ってしまった。本当に勝手な行動だと反省しているの」

ここまで言ってから少し間を置いて、

「男は、本当に頼りになら無しね」

一言呟いてから、再び、

「一度、養子に出すと決めた後でも、心変わりして取りやめようと思ったことも何度も有ったんだ。こんないい加減な母親の私にもね。本当に、でも一度、我が子のように迎え入れてくれたであろう養父母のことを考えると、申し訳無い思いがして実行出来なかった」

そして、不甲斐ない自分の性格もあって、子供の将来を考え、結局、取り戻す事を辞めた。

こんな心の葛藤が有り、最終的には諦めたこともあって、アメリカに逃げてからも、

「仕方なく選んだ養子の道、果たして正解だったのか。」

異国で毎日考えてノイローゼのようになった。と感情を押し殺して語った。


そして、凛々は自分の気持ちを素直に語った。

「こんなことを私が言うのも明華さんには、辛い事だとは思うし奥がましいのですが、私は実の親が子供を心から愛し、育てるのが幸せで、一緒にいるべきだと思うんです」

それを受けて、明華は、

「すまない。何と言い訳しようが結果が全てだから。本当にすまない、本当に。言葉に出すのも申し訳ないです」

「最近、私思うんです。よく子供を養子に出した親に対して、子供を捨てた、などと言う人がいるけど、大抵の親は、自分では育てらない事情があって、どうしようもなく、悩み苦しんで出した結果なので、決して安易に出した結果でないのは分かっているんです。それでもやっぱり手放さざるを得ない事が有るけど、女性だけの責任じゃ無いと思います。弱い女を捨てる男が一番悪いと思うけど」

凛々は明華を弁護した。


暫く沈黙の時間が有ったが、明華は答えずに眼を腫らしていた。

そして声を振り絞って、

「でも凛々、これだけは分かって欲しいの、色々、理由はあると思うけど、実の親子は簡単に離れるべきではないと私も思うんです。でも子供の幸せを願ってという気持ちは本当だと分かって欲しいの」

此処まで言うと、今度は凛々の嗚咽が激しくなった。

凛々が嗚咽したのは、母親はこれまで冷静な人だと思っていたが『明華さんは此れまでの印象と違って感情豊かな人なんだ』と考え直したことに起因していた。


ここで凛々は心が安まる良い話をした。

「私も養子に出されて、他人から見れば“可哀そうな子”です。でも自分では“育ての親の愛情を一杯受けた幸せな子”です。本当の親に会いたい気持ちも有りましたが、育ての親への感謝の気持ちが一番で、それはある程度の所まで我慢していました。

そして、時間の経過とともに、触れ合いによって、本当の両親への感謝の気持ちも出来て来たんです。それが更に育ててくれた親への感謝の高まりに、結びつくと思うんです」

凛々は言い切った。

これを受けて、

「それはそれで良いと思うよ。幸せに育てられたから。凛々さんは本当に幸せだね良いお父さん、お母さんに恵まれて。でも凛々、私を受け入れてくれてありがとう。感謝としか言えないね、もう・・・ありがとう」

また泣きながら母が凛々に感謝の言葉を語った。

「お母さん。もうこのことは言わないで。私は今、幸せですから」

明華を労わった。

小さな部屋で、時間がゆっくりと過ぎて行った。二人の会話は親子というよりは歳の離れた姉妹という雰囲気だった。


②親の力

勇次は9時に凛々を匿う場所を出て由美子のマンションに向かった。思ったとおりマスコミが部屋を取り巻いていたので、仕方なく公衆電話から由美子の携帯に電話して、

「逢って話しをしたい」

単刀直入に言うと、

「分った。この前に食事したレストランで13時に」

「尾行に気を付けてくれよ。それとGPSを切って」

こんな会話をして切った。

 勇次は、由美子が簡単に了解したので、脈が有ると確信した。1時間前に待ち合わせの場所に着いて、人の動きを斜めのビルの2階から眺めた。15分前に由美子が店に入った。誰も尾行は付いていなかった。待ち合わせ時間を10分過ぎた時に由美子が待つレストランに電話を入れて、呼び出して駅中にある電車のモニュメントの前に行くように告げた。 

ここでも由美子に尾行が無い事を確認して、由美子に近付き紙切れを渡した。

そこには【電車に乗って新宿に向かえ】と書いてあった。


勇次は由美子と少し距離を取って後ろを歩いた。紙で渡したのは、由美子が携帯で誰かに連絡する事を恐れてのことだった。

怪しい素振りを見せなかったので、勇次は由美子に近付き、一緒に藤沢に向かった。

電車の中で、

「なんで凛々を嵌めたんだ」

「嵌めてなんかないよ。何でそんなこと言うの」

「だって全ての情報が、貴方が犯人と言っている。ピンクの服装にメガネ、血の付いたハンカチ、凛々の口紅・・・・偽装したんだろう・・・違う」

「それだけですか。私にはアリバイがあるよ。岡本が殺された時にアリバイがあるの。それって知ってるのかな」

「新聞情報で知ってるけど。何か工作したと思う。余りにも上手く出来ているから」

「それだけですか」

「今のところ、それだけ」

勇次の追求は一段落した。

「もし私が、犯人と思うのなら凛々は、警察に自首して私の事を訴えたら」

「そうしたいけど、今は出来ない。凛々には色々背負っているものが有って、心証真っ黒だから。それに証言すると周りの人間にも色々迷惑がかかるから。だから貴方の助けが欲しい。今はあなたの心に訴えるだけです」


そう今の勇次には、これ以上の追求の手段は持っていなかった。

「由美子さん。もう俺にはあんたを追及するネタを持っていないんだけど、凛々のこと考えて欲しいんだ。あいつは良い娘だよ。ちょっと行動には問題もあるけど純粋だからねその行動は・・・・そう思わない」

「何が純粋か・・・あのあばずれが・・・あなた知らないの」

「どこがあばずれなんだ。いい加減なこと言うと怒るぞ」

「いい加減じゃないよ。あの女が岡本と何しようとしてたと思う」

「逢って話をしたかったって言ってたけど」

「巧い事言うね。色仕掛けてあいつを誘ったんだよ。本当に。私は見たんだから。あんたは可愛そうな男だよ。全くね・・・可哀想だね」

由美子がつい口を滑らせたのを勇次は見逃がさなかった。

「由美子さん何を見たの・・・・・言って」

と聞くと、自分のミスを悟ったのか、

「・・・・・・・・・」

答えなかった。

「何を見たのか教えて」

何度聞いても答えなかった。

「ヤッパリ何かあるんだ。きっと、何を隠しているの・・・・教えて」

また勇次が聞いても答えなかった。

勇次の反論が効いているのか、由美子の顔から血の気が引いていった。


「由美子さん。どうか本当の事を言って下さい。凛々と私を助けて下さい。凛々を幸せにしたいんです。それが私の責任だから。これ以上、好きな女性を失いたくないです。もう既に一人失って、また凛々を失ったら生きていけない。俺は凛々を幸せにしたいんだ。それだけなんだ。どうか適えさせてくれないか。お願いですから」

懇願すると由美子の心は、少し動いたが、

「私は10年を捨てたんだからね。それ位の代償は払ってもらわないと」

毅然と言い残して、一人でその場を離れた。

驚いて、後ろを追って絡みついた時に、どさくさに紛れて由美子は、巧みに勇次の上着のポケットに小さな発信機を入れて逃げた。もちろん勇次はそのことが分からなかった。


尾行に注意しながら寄り道して、凛々の待つ隠れ場所に帰って来たのは、夜の7時を過ぎていた。駅前で買ってきた惣菜を3人で食べながら、今日の由美子との話の内容を伝えると、

「やっぱり由美子が怪しいね。何かトリックがある。きっと有る」

「俺もそう思う。でも証拠がないんだ。完全犯罪だ」

「なに弱音を吐いているんだね。勇次、何か智恵を出すんだ。お前は頭で考える担当だ」

「こんな時に期待されても・・・困る」

その時に、階段の下から数名の恰幅の良い男が上がり込んできた。乱闘の中で、勇次のポケットの中から小さなボタン大のものが零れ落ちた。

「これは小型通信機だ・・・」

目敏く其れを拾って手に取った明華は言った。


少しの乱闘の後、3人は警察に捕まって連行された。部屋になだれ込んで来たのが、裏の世界の人間でなかったのが不幸中の幸いだった。警察でなかったら多分3人の命は無かっただろう。大きな闇の力も絡んでいた。明華は一番良く、そのことを知っていた。

勇次は自分が警察に尾行されたことが原因で、凛々と明華が捕まった事を申し分けなく思って涙が流れ出て、止める事が出来なかった。

考えれば考える程に自分が情けなくなって、気持ちが沈んだ。少し時間が経過すると気持ちも治まって、考える余裕も出来て来た。

思考の中で、通信機器をポケットに入れたのは由美子に間違いない。それから由美子が、なぜポケットに入れたのかと考えた。そして、凛々を早く捕まえて、勇次に色々詮索させないためだった。という推論に到った。

次の瞬間に、

「やっぱり犯人は由美子だと・・・・・」

勇次は小さく口に出して自分に活を入れた。


幸い、勇次は逃亡の恐れが無いと判断されて3日間の拘留で釈放された。

釈放された翌日、迷わずに由美子の家を訪ねた。

会うのを断わられると思ったが、自宅に入れてくれた。

「通信機を私のポケットに入れたにはあなたですね。そして警察に教えたんですね居場所を」

「ええそうです」

「やっぱりそうですか。それを聞いて納得しました」

「どういうこと」

「それは貴方が一番分かっていることでしょう。貴方が岡本殺害の犯人だということを確信したからです。一生掛かっても貴方を追いかけるという、生き甲斐を見つけたからです。追っかけ組ですから」

「そうですか。貴方にそこまで思っていただけて幸せです」

見栄を切ったのは良かったが心は揺れていた。

「私の考え間違っています。あなたはそんなに心が固い人ですか」

「・・・・・・・・」

由美子は無言だった。


「本当に、自首して頂けませんか」

「それは出来ません」

由美子が言うので、

「じゃあ帰ります。これから戦闘開始です」

「これは戦線布告ですか。立派に受けて立ちます」

「そうもう失う物も無いから」

「そうですか・・・・ファイト湧きます」

勇次が言って部屋を出た。

暫く歩いて振り向くと勇次を追う由美子の姿があったので、歩み寄って、

「どうしました」

「すみません。許して下さい」

由美子がか細い声で言った。


勇次は、由美子の協力に掛けた。

由美子の心は揺れていると見た。

勇次はここで、

「貴方の気持ちが分るとは、私は敢て言いません。私もこれまで順調な人生を歩んできたんじゃないんです。大学院で苛められたことも有るし、信頼している人に裏切られた事も有ります。でも人間って最終的に人を信じないと生きていけないことを、中国にいる朝鮮人から教えられたんです。

 今回、捕まった2人の女性も実の親子ですが、28年間別れて暮らしていて、最近再会し親子の情をぶつけ合いながら、絆を作ろうとしているんです。その一人、凛々は人を愛し裏切られ子供を水子にして、心がづたづたになってから人生を立て直したんです。

 また、母親の明華は夫に裏切られ、子供を捨て裏社会で生きた人間です。でも表の世界で再生を図っています。みんな人生で一度は傷ついているんです。私も最愛の人を間違った判断で死なせてしまったんです。あなたも傷ついたと思いますが、私達の仲間になって一緒に生きて行きませんか?決して私達は裏切りませんよ。一緒に表の世界を歩みましょうよ」

勇次が思いを感情たっぷりに言ったが、心に響いたのか効かなかったのかは、分からないが、クルット後ろを向いて勇次から離れて行った。


③凛々の無罪確定

 翌日、由美子は警察に出頭し事の次第を事細かに話し逮捕された。当初、捜査担当者は由美子を真犯人と考えなかったが、供述を細かく検証し由美子の供述は真実と認めた。警察の決定を受けてマスコミは誤った情報を流した警察を批判し、犯人に間違われた凛々、明華親子の無罪を勝ち取る戦いを称賛し、其れをサポートした勇次を英雄のように取り扱った。

まさしくマスゴミの為せる業だった。


留置所の出所手続きに手間取って真犯人が確定してから更に2日間留置され、更にすぐに釈放される様子がない事を怒った、中国外交部の抗議によって、翌日、2人は釈放された。さすがに中国政府の力の強さを知るに十分な出来事だった。

警察は親子に対する重要な別情報を入手していたが、これが釈放を遅らせた。


勇次は、警察に自首して捕まった由美子を留置所に訪ねて、

「ありがとう。このお礼はきっとしますから。厳しいと思うけどお勤め頑張って下さい。一日も早く出所されることを願っております。凛々と明華の二人はあなたに大変感謝していますから、立派に更生されて社会で活躍して欲しいと言っていました。苦労をして清濁併せ呑んだ人だから、あなたの本心は十分理解されていると思いますよ。一歩間違えば二人とも犯罪者になったんですから。あなたは、まだ若いんですから、これからの人生を大事に歩んで欲しいと思います」

「ありがとうございます。そうですね、これからの人生のために刑務所での時間を大事に使いたい思います。小説でも書こうかな・・・。それはともあれ、お二人に宜しくお伝え下さい」

こんな会話で別れたが、別れ際にもう一度、

「お幸せになって下さい」

勇次が言うと、それに答える由美子の笑顔が眩しかった。この笑顔が全てを語っていた。由美子の清々しい笑顔が勇次の心を明るくした。


 それにしても凛々の影は、勇次の心を深い霧に包み込み、それが何時までも消えなかった。



12.新しい明日


勇次が凛々と巡り会ってから早いもので8ヵ月が経過していた。これまでの経験からは想像出来ない世界を見た。仕事とは直接関係ないが、人生の幅は広がった。この経験は、これからの研究活動に良い影響を及ぼすと確信した。


やっと二人だけの時間を持つことが出来た。

「凛々、これから食事行こうか」

横を見ると凛々は気持ち良さそうに寝っているので、ベッドに移した。

「疲れていたんだな凛々も。お疲れ様」

凛々に声を掛けた。少し口を開き加減に眠る姿が、可愛いと思った。しかし、真理亜はこんな無防備な態度は取らなかった。DNAが違うのでは?と感じてしまう。それとも育ちだろうか?

凛々が眠っている間に、福建までの旅券をインターネットで確保して旅行の準備をし、熱めの風呂に入って疲れを取った。


翌日、6時に起きて、那覇国際空港から上海に向かい、里帰りを兼ねて凛々の両親に正式に結婚の許しを得に行く予定だった。


①両親からの結婚の承諾確認

「福建のお母さんお元気されています。お逢いした時に宜しくお伝え下さい」

訪問して最初に父親から母親のことを言われたので、預かって来た岩茶を渡した。

「こんな高価なものを本当にありがとうございます」

「福建の母にお父さんお母さんの御好意をお伝えさせて頂きます」

型どおりの挨拶があった。福建の母親を大切にしてくれているのが嬉しかった。

そして勇次が父親に凛々との結婚の承諾もらうべく挨拶した。、

「それでお父さん。凛々さんを幸せにしますから、是非とも結婚させて下さい。福建の母もきっと喜んでくれると思います」

定番のお願いをすると、凛々から話を聞いていたのか、

「こちらこそよろしくお願いしますよ。私達も二人の結婚を望んでいます」

月並みな言葉だが素直に喜びを表現した。日本人に娘を嫁にやる親の気持ちには少し複雑な思いが有った。しかし、それは奥深くに隠して、力強く握手した。それに答えて勇次も強く握り返した。

そして続けた。

「あれの性格は分かっていると思うけど無鉄砲でね、私達はヒヤヒヤしているんですよ。昔は大人しくて、妻の後ろに隠れていつも手を握っていたんだけどね。中学くらいから俄然、積極的になってね。なにかのスイッチが入ったんだね」

凛々が自分の出生の秘密を知った時期ではと類推したが、

「成績が上がって自信を持ったんでしょうかね」

両親の気持ちを慮った。

「あなたのことを凛々が好きになって信頼する人間だと思いました。聡明で人の心を虜にする。今の答えで凛々をあなたに任せる決心がつきました。末永く切磋琢磨して幸せにしてやって下さい」

心と心の触れ合いがあり、此処にいる皆で共鳴していた。


父親と勇次のやり取りを、凛々はあっけらかんとした様子で聞きながし、母親と声高に上海で流行している化粧方法とオシャレ雑貨の話しに熱中していた。その屈託の無さが眩しかった。 

ご多分に漏れず古今東西、国籍に寄らず父親はこの輪に入れずに蚊帳の外だった。

訪問を終えて帰る時に母親から握手を求められたが、その手は小さくて硬く、小さな皺が沢山刻まれていて苦労が偲ばれた。

「三宅さん、凛々宜しくお願いしますね。あれでも結構気を使う子なので。それが行きすぎないように見守ってやってください」

「色々配慮ありがとうございます。注意して見守りたいと思います。そして必ず幸せにしますので」

「お願いしますね。くれぐれも無理をさせないようにお願いします」

最後に父親が、

「娘をお願いします。大事な掛け替えのない娘ですから」

自分に言い聞かせるように言った。

凛々を思う両親の愛を感じた訪問だった。次回は時間を取ってゆっくり滞在したと思った。


上海駅に向かうタクシーの中で勇次が、

「お前、大事な話しているのに人の話、聞かないね」

「私は聞いていたよ。勿論、母もね。でもそれを余りにも前に出すと息苦しいでしょう。こんな場所に慣れていない父が緊張すると思って。だから知らない素振りをした。だから本音で話しが出来たでしょう」

「そうですか。そこまで読めなかったな。さすが中国3000年の歴史ですね」

「勇次さんもまだまだ訓練が足らないね」

「勇次さんはやめろよ。でもありがとうね。その配慮これからもお願いします」

「任しとき、これからも全力で支えるから」

「心強いですね。お互いに相手を大事にしようね」

「了解しました」

こんな会話が有って気持ちが交わった。


②高山鎮の母

凛々の両親への結婚承諾の挨拶を終えて、上海から高速鉄道で福建の福州に入って、そこから、トヨタ製プリウスの白タクで高山公園に向かった。そして白い支柱の右脇に有る、目印の下に埋めた指輪を二人で掘り出した。

「これを本当に私にくれるの後悔しない。こんな凛々で良いの」

「こんな凛々で良い。これが良いの」

こんなやり取りがあり、掘り出した指輪を持って母親の家を目指した。

家の前でベルを押したが、迎えを待つ時間も惜しいので、自分から敷地の中に入り、家の玄関で出会って抱き合った。

「ご無沙汰しています。色々ありがとうございました。もう感謝の気持ちで一杯です。本当に感謝、感謝でこれ以外の言葉では表現出来ません」

再会の挨拶が一段落すると改めて傍らの凛々を結婚相手として正式に紹介した。二人は、ここでもけじめとして改めて、初対面の挨拶をした。

そして、普段の会話になった。

「お母さん。先日の件はありがとうございました」

「無事で良かったね」

「お母さんのおかげです」

感激の対面を期待したが、これ以上の会話はなかった。

娘にはまだ心の何処かに、母親に捨てられた思いが有り、余り親しくすると蘇州の母親に申し訳けないと思った。また母親には幾ら養母とは言え、養女に出した娘を顧みることなくこれまで、放っておいた負い目が有った。

その両者の思いが雰囲気を微妙にした。勇次から見れば性格的には良く似た親子で仲良しになれるが、30年近く離れて暮らしていたのだから仕方ない面も有った。明華はこの場にいなかった。

ぎこちない雰囲気を和らげようと凛々と二人でオールドマーケットに夕食の素材を買いに行くことになった。


家を出て、

「凛々なんとかならないの。気持ちわかるけど。お前が変わらないと。もう心の整理は出来ていると思うけど。俺が背中を押そうか・・・良いか」

「君も軽く言うね。私は真里亜じやないのと同じで、簡単にお母さんとは思えない。まして明華さんのことも有るしね」

「それはわかるけど」

「ここ、真里亜さんとも歩いたでしょう。二時間、真里亜の役するから許してやるよ」

凛々が言うので躊躇しながらも悪戯心で、

「今日の真里亜は超可愛いね。大きな心で俺を優しく包み込んでくれる」

すると拗ねて、

「馬鹿、馬鹿、馬鹿・・・・勇次の意地悪」

半ば笑いながら、腕を取って勇次を引っ張り出した。

凛々は二人の母とのことは、勇次がうまくとりなして欲しいと思った。が、勇次にはそれが無理なことは分かっていた。その器用さが勇次にはなかったが、それが魅力でもあった。

更に勇次が自分ではなく、真里亜と一緒にいて楽しんでいるよう思えて、少し憎らしかった。が、そんな素振りは見せないで、今を楽しんでいた。この件に関しては、その余裕が有った。


昔、真理亜が値切った店で、淡白に定価で鉢植えの胡蝶蘭を買い、料理の素材であるカキ、エビ、豚の顔や野菜類を買って、二人の手は一杯になった。まるで心の隙間を物で補っているようだった。

心に余裕が出来たのか、ここで、勇次は凛々にこれまでの出来事を問い詰めた。

勇次の誘い水を受けて、凛々はこれまでの事件について自分の知っている範囲で話した。その内容を要約すると次の様になる。


 最初に亡くなった陸道鐘は明華が凛々の行動を見守るために派遣した人物で、状況を定期的に明華に報告していた。両親は彼を通して金銭的な援助も受けていた。やはり母親は娘を捨てることが出来なかったのだった。しかし、まだ明華は全てを語っておらず真偽を吟味する必要があった。

今後、母と娘の信頼感が醸成されると共に本当の事を語るようになるが、その時はもう目前に迫っていると言った。


ところで道鐘は、招薫の動向を密かに探っていたことが露見して、中国裏組織の指示で殺された。この件について招薫は全く関与していなかった。

 また、泉の妻は招薫の鞄を盗む事を、岡本の意向を受けた日本のヤクザに頼まれ失敗した。この鞄の中には、岡本と交わした秘密の書類が入っていたが、それ以上に大事な情報がこの鞄に有り、それによって女は林家の息が掛かる裏組織によって殺された。

「それで大事な情報とは」

勇次が聞くと、

「それは秘密。絶対秘密」

答えることを拒否した。

勇次が拗ねて凛々に背を向けると

「それは琉球に中国人街を作ること。大きなチャイナタウン」

「なんのために」

「それは琉球と経済的に関係を深めて次に備える」

「次って」

「あなたが考えて」

この話は此処で止めた。多分、琉球独立を目指すのだろうと思ったが立場を考えて言葉を飲み込んだ。

「百年後が楽しみだね」

凛々が勇次が考えていることをぽっつんと言った。

 そして国嘉は勿論、招薫を裏切ったことによって、組織に殺害されたと言った。

「招薫はカバンを返せば許すて命を助けると言ったので私も頑張ったけど、結局組織は許さなかった。招薫でもそれを止めることが出来なかった」

「本当に」

「本当だよ。でも国嘉には希望を持たせて悪いことした」

凛々は残念さを涙で表現した。

勇次にはまだ、疑問な点もあったが今日は此処で止めたつもりだが言葉が滑った。


「さっきの琉球の話だけど」

「またその話ですか。一度に何もかも知ろうと思うと頭パニックになって禿げるよ」

「でも、凛々の周りで起こることや招薫がなんで執拗に狙われたのか」

ここで凛々も覚悟を決めた。

「それは、中国政府が画策する沖縄への中国経済街の建設・・・と思う」

言い切った凛々は言ってから慌てて口を手で覆った。

「招薫にそんなに利益あるとは思えないけど」

「それが有るの・・・何故かと・・いう・・と」

「何故かと言うと・・・」

勇次が聞くと、また言葉を切った。

「何故、隠すんですか・・・・お国の百年プロジェクトですか」

「それは時間が来たら私が話すから。今日はここまでにしようか」

「あなたが話すの」

「そう私が、あなたには刺激的な話だよ・・・本当に」

そして含み笑いをした後、

「此処は中国、凛々に何が有ってもおかしくないから」

「凛々に・・ほんとに。怖いな」

「だから大事にしてください」

勇次は思案顔だった。

「秘密・・・どんな秘密が・・・」

「それが秘密」

「何が、・・有るのかな・・・・・何が」

「そう凛々にネ。今日は此処まで、まず楽しみましょ。明日は明日の風が吹くってね・・・良い言葉だね。当面は平和だから私が約束する。でも明華には、この話は秘密だから」

強面で言ってから、間を取って満面の笑みを浮かべた。

最後に明華のことを言われたので気になったが、此処は覚悟を決めて福建の夜を楽しいものにしようと心に決めた。凛々と生活するにはこれ位のことは覚悟しないといけないことは、段々と身に滲みて来て違和感が無くなる自分が怖くなった。


勇次は凛々からこれまでの出来事を聞き、疑問点を投げ掛けて心の中を整理してスッキリした気持ちで家に帰った。

「たくさん買ってきたね。冷蔵庫にいれようか」

「あれ冷蔵庫有ったの」

「お前の仕送りで買った。安物だけどありがとうね」

母親は勇次に言って、凛々に向かって舌を出した。

凛々が笑った。

そして母が笑い、釣られて意味も分からずに勇次も笑った。


母親は鉢植えの胡蝶蘭を真里亜の写真の横に置いた。すかさず、凛々が真里亜の写真の前に立ち祈り出した。この時、凛々は、真里亜に“お母さんと勇次を生涯かけて幸せにします”と誓った。凛々が席につくと、今度は、勇次が立ち上がって真里亜の前に立った。不思議にも誓った内容は凛々と同じで“お母さんと勇次を大事にします”だった。

母親と凛々は一緒に料理を作り出した。勇次は「凛々、料理出来るの」と言うと「勿論…私は上手だよ」と返すので「真里…」 と言って口をつぐむと、母は「真里亜も峰観には良く料理を作っていた」と真理亜をフォローした。

母親が、遠目に凛々を見る眼は笑って輝き、幸せオーラが身体中から発散させていた。


3人で雑談していると、何処かで様子を探っていたかのように良いタイミングで明華が到着し、席に着いた。これでメンバーが揃った。明華は黒のツーピースで白のブラウスというフォーマルないでたちだった。服に意識を込めているのが実感出来た。

凛々が元気よく、

「お母さん。今日は来て頂いて本当にありがとうございます」

きっちり明華に真っ直ぐ向いて挨拶したことに、今の気持ちが現われていた。


カキのスープと伊勢エビの餡掛け、豚皮と野菜類の炒めものが出されて晩餐の準備が出来て、全員が席に着いた。全員が揃った所でグラスにワインを注いで、母親が挨拶した。

何時もと違い神妙な顔で、

「今日、ここに集う4人を引き合わせてくれた真里亜。本当にありがとう。みんなの活躍を見守っていて下さい。あなたの分まで幸せになります。素晴らしい出会いを与えてくれた真里亜に感謝してカンペイ」

中国語で挨拶して食事が始まった。

4人の目には涙が有ったが、その涙の意味は夫々に違っていた。


食事が進み、酔いが回ると母親が、

「私は本当に幸せ者だね。いっぺんに二人も子供が出来たんだから」

「それ以上に私は幸せだね。天使が子供を育てて、良い子にして返してくれた。無心論者の私に・・・至上の喜びだね。クリスチャンになろうかなと思う」

皆に言って、また泣いたので、凛々が手を取って、

「お母さん、真里亜さんの分まで私がお幸せにしますから。だって本当の娘ですもの。私には3人もお母さんがいて本当に幸せ。色んなお母さんの優しさをもらえるから」

「ありがとう。ありがとうね。そう思ってもらえたら私は嬉しい。幸せものだね」

涙が止まらなくなった。

勇次は母親の涙と背中に衰えを感じずにはいられなかったが、今日はそれを横に置いた。


ここで、さっき掘り起こした指輪の交換をした。

「凛々、あなたと一緒にいる時間を幸せだと実感しています。これからも二人で幸せな時間を共有したいと思います。その証としてこの指輪を受け取って下さい」

凛々の目をを見ながら言うと凛々が、

「ありがとうございます。これからも夫婦、二人三脚でもっともっと輝く明日を実現したいと思います。今まで色んな人に支えられて苦難を乗り越えて来ました。未熟な私ですが貴方の強い力で私を導いて下さい」

日頃の強気は消えて、神妙に素直に今の気持ちを語って、若い夫婦は幸せな未来を一緒に作り歩んで行くことを誓うとともに、お互いに感謝の気持ちを確認し合った。

「凛々よく似合うね。その指輪」

勇次が言うと母親に、

「これ真理亜さんの形見だから嬉しい。大事に使わせてもらいます」

凛々が答え明華が、

「二人は些細なことも話し合って蟠りを残さないように。輝き続けるために夫婦の何げない時間を大切にして、お互いへの思いやりと愛情を持ち続けて欲しいと願っています」

産みの母が言えば託された母は、

「強い絆で結ばれた二人だから心配してないから、今の気持ちを原点に、明日に向かって進んで行っておくれ。何事も未来志向だからね分った勇次」

二人を祝福し、それに勇次と凛々は頷いた。


その様子を見て母は、

「それから勇次、今日からもう真理亜と凛々を比べるのはお止め、凛々は凛々だからね。分った。」

「分りました。思い出の中には真理亜はいるけど。もう、真理亜と凛々を比べません。凛々と真理亜は違うから・・・本当に」

勇次が言うと母親と明華が拍手した。


「真里亜、ワインが無くなった。凛々と一緒に日本に買いに行っておくれ」

母親の王凛正が、言うと産みの母と娘は笑い、二人揃って勇次の前に立ち、

二人揃って同時に、

「どちらが、真里亜どちらが凛々」

勇次に聞いて顔を見合わせて笑った。

                                             

                                           完


終わりにあたり


 最近、益々日中間の関係は親密になっている。局所的には緊張する出来事も有るが、近所の移動できない大国として概ね良好な関係を維持している。今後とも良好なコミュケーションを維持して共に発展することを望む。



                                                             作成日:2018年1月25日 自宅にて

改定日:2021年5月 4日

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真理亜再び @takagi1950

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