奄美の森のケンムン物語

@takagi1950

 奄美の森のケンムン物語

奄美の森のケンムン物語

                               織田 はじめ

    目      次


1. 奄美大島             P 1

2. ネリヤカナヤの伝説        P 7

3. 奄美の海「須野物語り」      P 8 

4. ケンムンの祟り          P11

5. ルリカケスの恩返し        P14  

6. 奄美の森の物語          P18        

7. 愛される無法者「やちゃ坊」    P27              

8. 喜界島での出来事         P30     

9. 伝説の美女            P44         

10. ケンムンを探しに来てください   P52 


 主な登場人物


 〇山田那美 奄美所縁の小学生、成人後世界自遺産登録活動に尽力

 〇ケンムン 奄美の森の管理人、妖精

 〇やちゃ坊 奄美の森の番人

 〇オバァ 那美の祖母

 〇大島誠  奄美大島龍郷出身の医者であり郷土史家

 〇今井右近太夫 源氏の追跡を監視する今井崎の管理者

 〇カーサ姫 今井右近太夫の恋人

 〇ネリア 須野の漁師、加那耶の恋人、夫

 〇加那耶(カナヤ) 父を思う心優しい娘、ネリアの妻

 〇泉ゆかり 奄美の森、歴史が好きな小学校6年生

 〇山崎龍一 歴史好きの小学校6年生、ゆかりのライバル、島唄を習っている

 〇山田キクエ 佐念山に住むノロ神様

 〇山田亜里沙 奄美所縁の歌手


1.奄美大島

 鹿児島県の南の彼方の海に奄美大島という日本では、北方領土を除くと沖縄本島、佐渡島についで3番目に大きな島があります。鹿児島から飛行機で50分、船で11時間かかります。この島は、周囲461km、面積712平方キロあり険しい山林に覆われていますが、わずかな平地を巧みに利用しビルディングや家を建て6.8万人以上の人々が生活しています。


 沖縄と奄美は大きさや場所が近いのですが、まるで別物で、それぞれに魅力があります。ざっくりと表現すると、奄美は太陽光線がやさしくて、山と海が近く素朴で人口密度が低いことです。島はハブといわれる猛毒の蛇の皮を貼った三味線(三線:さんしん)で奏でられる島唄やハブ革の模様を参考にした大島紬、そして砂糖キビから作る黒糖焼酎が有名で、島人(しまんちゅう)の生活を豊かなものにしています。


 この様に自然が色濃く残る奄美に夏休み、小学校3年生の那美は奄美大島出身の母方の祖母を訪ねて初めて一人で里帰りしました。一人旅のストレスからかあいにく帰省一日目から体調を崩して熱を出してしまいました。

 朝飲んだ薬が効いているのか医者が駆け付けた時、那美は眠っていました。

「オバァこれは疲労と水当たりやと思うけど。環境が大きく変わりましたから体調を崩したと思うよ。ワンもそうだった。環境が大きく変わりました事も原因していると思う」

「そうかい。その言葉を聞いて安心した。初めての一人での里帰りだから緊張したのかい。かわいそうにネ」

「そうかも知れんね。元気娘も奄美の寂しさと暑さに負けたか。親と離れて寂しいのかな。目が覚めたらこの栄養剤を飲ませてくれれば明日には元気になると思うから」

「ハゲーありがとうよ。お前に見てもらうと安心するよ。ナンは島の自慢チバ―」

往診に来ました医者は大島誠と言って那美の叔父にあたり、この町の出身で町の支援を受け苦学して医者になりました。町の人の支援に報いるため町の診療所で勤務することになりました。最初、3年の予定がもう20年以上経過していました。

それからも黒糖をあてに知覧茶を飲みながら昔話に花が咲きました。

「この娘はお前を慕っていてね。大きくなりましたらお前と同じように故郷の役に立ちたいて言ってるチバ―。先は分からんけどね」

「それは有りがたいね是非ともワンの跡継ぎになって欲しいな。そうなるとワンも嬉しいな。奄美には若い人がもっともっと必要チバ―。ワンも負けないようにもうひと踏ん張りするチバ―」

「そこまでは無理でも何かやってくれると思うチバ―。これは奄美の夏が好きチバ―。なんかやってくれると思うチ―」

「それはオバァも楽しみチバ―。元気になりましたらワンの所にも来るように言ってくれチバ―。一度、ゆうくり話もしてみたいから。奄美の昔話もしたいと思うチー」

こんな茶飲み話をオバァと医者がして帰って行きました。


 夕方近くに那美は目を覚ましました。

「オバァ、心配かけてゴメンネ。でも体調は大分戻りました。明日からバリバリ手伝うから」

「ナンはそんなこと心配しなくていいチバ―。医者も直ぐに治るって言うチー安心しろ」

「分かった。先生がそう言いましたの」

「そうチー。お前の好きな先生がそう言いましたチバ―」

「それで安心した」

ここでオバァは薬を那美に飲ませました。

「オバァ悪いけどケンムンの話をしてくれんか。それを聞きながらもうちょっと眠りたいから」

那美は今年の夏休みは、ケンムンを調べる自由研究をしたいと思っていました。

「分かった良いチバー。オバァの話しを聞きながらゆっくりな眠れば良いチバ―」

「うん分かったそうする。良い考えが浮かぶかもしれんから」

オバァは那美を安心させてからゆっくりとケンムンの話を始めました。


ケンムンは森の妖精として多くの島人から愛嬌があり、親しみのある存在と見られていました。何千年も前から奄美の海やガジュマルの木の上に住んでいたと言われています。

「ハゲー、南から来ましたケンムンが俺の魚を取って食べた。ケンムンが俺の家の畑から砂糖キビを捕った。あのサルが俺の娘を追いかけて川に落とした。南の海から来ました時に、人間に意地悪したり、農地を荒らしたり、漁師を脅したりしたことから、ケンムンは人間と一緒に住めなくなりましたチバ―」

「オバァなんでお猿さんみたいになりましたの」

「ハゲー、それはな。もともとは人間だったんだが、奄美の神様のアマミコ様の人間と仲良くしなさいとの指示に従わなかったチバ―。それでケンムンにされたチバ―。でもこの話が本当か嘘かは分からんチー」

「そうなんだ。これも奄美の神秘かな」

「そうチバ―。それでケンムンは黒糖焼酎やアルコールに弱いチー、そんでもっぱらタンカンと魚を食べるチバー。これも詳しくは分からんチバー。ハゲーそれでも蛸が嫌いちゅうのは本当チバ―。ガジュマルの木を切る時は蛸を木に、1週間掲げてケンムンを追い出してから行うと祟りを逃れると言われるチバ―」

 話しを聞きながら那美が眠ったのか、ここで返事が無くなりました。まだまだケンムンの話は続きがありますがオバァは話を止めました。

 ところでケンムンが住むと言われるガジュマルの木はソテツと並び奄美大島の代表的な植物でした。学校の象徴や民家の生垣に利用される、クワ科の熱帯常緑性高木で潮風に強く、台風銀座である奄美では頼もしい「防風林」となります。数百年の風説に耐えたガジュマルの木は、老齢のアンマ(オバァさん)と孫の格好の語らいの場所になりました。

 ガジュマルのうねりとアンマの手のしわは良く似ているし、両方とも風雪に耐えた自負が有ります。

 そしてアンマは「昔、むかしよ、ガジュマルの木なんてよ、ケンムンのうたん・・一緒に遊ぼうとやちゃ坊がいうチバー・・本当かねハゲー・・そして生きたハブに出会って驚きましたチー・・こわかーネ」と孫に伝説を語ります。

 ケンムンはひょうきんな島の妖精で、風に耐え複雑に絡まった巨大なガジュマルの木はケンムンの根城にうってつけです。

 

 ちょっと前に、島人は森を守るケンムンに感謝して“ケンムン音頭”を作り新民謡として普及させることにしました。オバァは那美に子守唄代わりに歌いました。

 【ケンムン音頭】

 1.奄美の森の妖精で 島人に愛される 

   オーハゲ ハゲ ハゲ ハゲ

森の環境 ケンムンさん

2.奄美の海の妖精で 島人に幸せ配る 

   オーハゲ ハゲ ハゲ ハゲ

海の守りだ ケンムンさん

3.奄美の空の妖精で 島人に夢与え

   オーハゲ ハゲ ハゲ ハゲ

空の青さだ ケンムンさん


 オバァがこの歌を子守唄代わりに歌うと那美は寝息を立てて気持ちよさそうに眠りました。そして那美は熱に浮かされた夢の中で、不思議な出会いを経験することになります。


 ところで那美が里帰りした奄美には、絶滅危惧種で特別天然記念物でもあるアマミノクロウサギや沖縄で既に絶滅したリュウキュウアユが生息し、森には色彩鮮やかな天然記念物のルリカケスが舞っています。

街を歩けば、大島紬を織る時の「ギッタン・バッタン、ギッタン・バッタントントン」とう音と共に三線(さんしん)の伴奏で歌われる島唄が聞こえてきます。“島唄”と言えば、近年では奄美諸島の民謡と琉球民謡との総称として、あるいは、琉球民謡の別名としても使用されるようになっていますが、本来は、三線の伴奏とともに歌われることが多い奄美諸島の民謡のことです。


ところで、昨年亡くなりました那美のオジイは島唄の唄者(島唄が上手な人を呼ぶ言葉)と言われ集落の人から一目置かれていました。オジイは大島支庁(鹿児島県の出先機関の役所)から帰ると、決まって大島紬に着替え床の間に座ります。

 食事の前に一口ビールを飲んで、直ぐに奄美特産の黒糖焼酎を飲みだします。ちょっと変った黒糖焼酎の飲み方をします。即ち、牛乳に焼酎を入れて飲むのだ。割合は50対50と言う程度でした。

生前に那美の母親が理由を聞くと、

「ぼくが鹿児島の福祉関係の研修会に行きました時、牛乳は体に良いと聞いて、体に良い焼酎と牛乳を合わせて飲んだら、更に体に良いのではと思って始めたんだ」

オジイから説明がありました。

母親も試したが、好き好きと言う感想だった。

那美が、床の間に貼り絵が飾ってあるのを目ざとく見つけて、

「オジイこの絵はどうしたの」

「それは僕が、福祉をする様になって初めての仕事が、画家の山下清さんをこの島に呼んで貼り絵教室をすることでね。これまでいろんな仕事をして来て、人に言えないこともあったんだよ。終戦直後は密航船の取締もしたんだ。密航船は当時、奄美にとっては宝船で生活の糧を運んだ。これがないと餓死者が多数出たと思うよ。でも、職務上それを取り締まったんだ。でも適当にね。本土から来ました幹部には怒られたがネ」

幼い孫相手に本気で一気に喋り少し時間を取った。それだけ思い入れが強いことは小さい那美にも理解出来ました。

「それに比べたら福祉の仕事は嬉しかった。そこで、この絵を購入して日々この絵を見て、その時、思いました初心が変っていないことを確認しているんだ」

那美はオジイの仕事に取り組む姿勢に心を動かされました。

この言葉を受けて母が、

「オジイ、言えないことって密航船取り締まりのことだけ。他には無いのかい」

それには応えず那美が、

「オジイは、本当のところお酒は強いの」

「僕は弱いね。家で酒を飲み始めたのは50を超えてからで、それまでは飲まなかった。と言うより飲む金がなかったんだ。子供が8人いて金が掛かってね。十分な教育もさせてあげられなかったんだ」

しんみり言いました。


「でも那美、オジイは、それでも子供、皆を島一番の高校を卒業させて、本土で活躍させたんだよ」

母が投げかけると、

「もう少し余裕があれば、本土の大学にも行かせることも出来ましたんだ。それが一番の・・・心残りだ」

今でも気になるのか、

「それで子供は、本土に出ても苦労したんだ。金さえあれば国立は無理でも、大学に行ける力はあったんだ。一番上の兄は福岡で2年間浪人して国立大学を目指して、お前の母親が同居して支援したんだが無理だった。本当に苦労を掛けた」

残念そうに言いました。母が那美も良く知っている叔父さんの面倒を見たことを初めて聞きました。

「それで叔父さん、那美に優しいのかな」

「そうかも知れん。私は必死に支えたし兄も頑張ったからネ」

しんみりした雰囲気になりました。


此処で那美が話題を変えました。

「オジイあの亀にはどんな意味があるの」

指を指しながら聞きました。

「ここ奄美では海亀は長生きの象徴で、本土でも鶴は千年、亀は万年と言うだろう。そしてニライカナイの海から幸せを運んでくるんだ」

したり顔で明るい声で答えました。

少し酔いが回って来ましたのか床の間にあった三線を取り出しました。これはいつものことでした。

ここで講釈しました。

「奄美の新民謡は、殆どが"ヤマトグチ"で作られているんです。"ヤマトグチ"とは、標準語です。奄美の唄は、シマグチの島唄と新民謡の"ヤマトグチ"が両極に対峙し、その度ごとにスイッチが入れ替わります。いわば二重言語制なんです。律儀にも二つの言語を使い分けているのが、奄美文化の特質だといえるのです」

公務員らしく孫にもそつなく律儀に説明した。

「また、本土では裏声を逃げの声として禁止しているチバ―。奄美では裏声を正当として多用され、独特の哀調を表現しています。もう一つ特徴的なのは、奄美諸島の島唄は譜面を持たんチー、それで歌のリズムが唄者(歌手の尊称)の気分次第となります。よって、広く知られている唄でも、集落ごとに異なりました曲調や歌詞のバリエーションを持つていることが多くあります」

更に酔いが回ったのかますます説明が丁寧になりました。

此処で母親が、

「それは主に地勢の影響を色濃く受けていると言われてて、海岸沿いは荒々しく、農耕地は静かで、都会は洗練され、僻地は素朴であるといわれているんだよね。オジイ」

「お前、良く知ってるな。その通り。さすが俺の娘だけのことはある」


ここまで説明し暫くするとまた島唄を唄いだした。母に聞けばそれは“行きゅんにゃ加那節”と言う兄弟や恋人なでの愛しい人との別れを歌った唄で、

「この加那とは、恋人にも親しい肉親にもどちらにでも解釈でき。この歌は奄美民謡の代表曲と言っていいと思います」

律儀に孫に敬語で解説して唄い出しました。

               

「行(い)きゅんにゃ加那(かな)

吾(わ)きゃ事忘(くとわす)れて

行きゅんにゃ加那 打(う)っ発(た)ちゃ打っ発ちゃが 行き苦(ぐる)しや

ソラ行き苦しや(ソラ行き苦しや)」

「意味は、行ってしまうのですか、愛しい人。私のことを忘れて行ってしまうのですか。いや発とう発とうとするのですが、あなたのことを思うと行きがたいのです。という意味なんだ」

二人に解説しました。

そして続けました。

「今度はワンの後に続いてお前達も歌うチバ―」

「オジイ了解」

那美が答えました。

「阿母(あんま)と慈父(じゅう)

物憂(むぬめ)や考(かんげ)えんしょんな

阿母と慈父

布織(ぬぬう)て賃金取(ちんめと)て 召(み)しょらしゅんど

ソラ召しょらしゅんど(ソラ召しょらしゅんど)」

で切って母親と那実が唄い、意味を説明しました。


酔えばこのようなるのが常でした。

このように奄美群島では、島唄が生活の一つとなっており、各家庭には三線があり、唄の上手い親戚が居て生活に潤いをもたらしています。親族、仲間が集まれば島唄に合わせて踊りがあり六調が有り、場を盛り上げて明日への活力を養ないます。

ここで、オジイがまた解説しました。

「奄美における“しま(島)”と言う言葉は必ずしもアイランドを意味しないチバ―。ここではヤクザが言う“俺のシマに手を出すな”の“シマ”と概ね同じ意味でね、奄美大島ではふるさと、郷土、出身地などより小さな地域を指して言う場合が多いんチバ―」

「従って“しまうた(島唄)”と言う時、奄美の唄と言う総称の意味もあり、より比重が置かれるのは、自分の集落(村)の唄と言うことなんだよね。オジイ」

また母が酔った父親に代わって解説しました。

「そうチバー、つまり『しまじま(集落毎に)』に、その『しま(地域)』独特の唄があると言われているチバ―」

この説明を聞いて那美は、島唄は自分の素性、即ち、アイデンティティーを色濃く表現出来るものであると理解し大事にしたいと思いました。


 翌日、那美は医者の見立て通りに元気に覚めました。

起き出して来て直ぐにオバァに言いました。

「オバァ、昨日、変な夢見て朝、目が覚めると綺麗な籠が枕元に置いて有った」

「ハゲー、不思議な事もあるもんだ。どんな夢を見たんだい」

そう言いながら籠を那美から取りました。

「綺麗な籠だね。大事にとっておくチバ―。お前の守り神になるかもしれんよ」

「なんでこれを私にくれたんだろう。お姫さん、たしかソーケ姫て言いましたように思う・・・・多分、お前にあげるって言いましたように思うけど。ソーケ姫で誰のことかな」

この言葉を聞いてオバァは驚きましたが、それを顔には出さずに冷静に言いました。

「ハゲー、それはお前が大きくなりましたら分かるチー、今は此れ位にしておくチバ―。それが良いと思うチバー」

「分かった。でも気になるな。この籠・・」

那美は納得出来ませんでしたが、今日はオバァに従うことにしました。

「ところで那美、それ以外はどんな夢チバ―。言って見んかい」

那美に促したがソーケ姫の名前しか覚えていないと言いました。

「オバァ、ソーケ姫でどんな人。綺麗な人だった。やっぱり今知りたい」

ここまで言われてちょっとオバァの気持ちが変わりました。

「それは、奄美の龍郷に残る平家伝説の姫チバ―」

「どんな話し」

そしてオバァが話し出しました。


 オバァの話に依れば、源平の壇の浦合戦に敗れた平家の平行盛一族らは落延びて、龍郷の戸口に住むようになりました。源氏の侵攻を監視するため、龍郷の今井崎に見張りを配置して沖の船を見張らせました。今井崎の番人、今井右近太夫は、歩いて今井崎に向かう途中の久場でソーケ(奄美方言で籠のこと)加那(姫)を見て恋心を抱きました。そして親密になり、一晩だけソーケ加那の家に泊りました。運悪く、その時に源氏の船が奄美に攻めて来て、油断していた行盛はじめ平氏の一族は、源氏に負けて降伏しました。今井右近太夫は、「自分の不始末」と主人に詫びて許しを得て、命を長らえるため主人と共に攻めてきた源氏に仕えることになりました。

 一方、ソーケ加那は、男達と違い自分の取った行動を潔しとせず、久場の海に身を投げて死に、遺体を秋名のオデモリ山に埋めたという悲恋物語でした。

「かわいそうにソーケさん本当に可哀相だね」

「そうかね」

オバァは素っ気なく答えました。


この様に奄美は、歴史や伝説にも彩られていて、遣唐使の中継基地が有り、源氏や平家落人伝説、東南アジア・中国・沖縄・日本本土とも海を通した交流、などがあり日本史にも燦然と輝き島の存在を世間に知らしめています。


2.ネリヤカナヤの伝説

ところで海に囲まれた奄美には、ネリヤカナヤの伝説があります。沖縄で言うニライカナイに近いものです。沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地に伝わる他界概念のひとつで、理想郷の伝承です。

オバァから聞いた話しでは、遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる理想郷(竜宮城、楽園、ユートピア)です。

このようにネリヤカナヤとは竜宮という意味もあり、奄美のノロ(祝女)がうたう神歌に「シビ(宝貝)が陸にあがって、稲の実になる」というのがありますが、奄美地方ではサトウキビの伝来などもこれにあたるのかもしれません。またネリヤカナヤは自然の恵みがもたらされるというだけではありません。


龍郷の集落にも、嵐で行方不明になった漁師が、海亀に深い海の底に有る城に案内されて、手当てを受けて生還したと言う伝説や人魚に案内され嵐から逃れたという話しが伝わっています。

さすがに今では信じる人は殆どいませんが、戦前は結構信じられていました。

オバァから聞いた話しですが、

「ハゲー、船が嵐で壊れてワンがもう駄目だと思いました時に亀が現れて地底に連れて行きましたんだ。そこで、手当てをしてもらって海の上に上がって、この先の海まで送ってもらった」

と真面目に話す人が数人いたと言います。

 那美は俄かに信じることは出来ませんが、奄美の人は今でも豊穣や生命の源であり、神界としてネリヤカナヤを信じています。そして年初にはネリヤカナヤから神がやって来て豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされています。また、生者の魂もネリヤカナヤより来て、死者の魂もまたネリヤカナヤに去ると信じられています。

この様にネリヤカナヤからは、多くの自然の恵みがもたらされるといわれています。この名残が、奄美大島龍郷町の秋名で毎年、旧暦8月最初の丙に実施される“秋名(あきな)アラセツ行事”に痕跡として残しているのかもしれません。

この行事は、山と海から稲霊を招いて五穀豊穣に感謝し,来年の稲と海の豊作を祈願する祭りです。

この行事は、夜明けと共に片屋根を揺倒して稲の豊作を祈る「ショチョガマ」と,秋名湾西岸にある「神(カム)ヒラセ」と「女(め)童(らべ)ヒラセ」と呼ぶ2つの岩で、ノロ神様が海の豊作を祈る「平瀬マンカイ」で成り立っています。


この神秘的な行事を実際に見た那美はネリヤカナヤが有ってもおかしくないと思うようになりました。また、民族学を学んだ母は、「このように、ネリヤカナヤは複合的な観念を持った楽土であり、この概念は本土の常世国の信仰と酷似していて、柳田國男氏は、ネリヤカナヤを日本神話の根の国と同一のものとしてる。とも言われている」と言いましたが難しすぎて那美には理解出来ませんでした。

「ハゲー神秘の島、奄美チバ―」

那美が方言で言うと母が、

「本土で忘れられたものがこの島には残っているんだよ」

母が毅然と言いました。


日々の暮らしの中でも奄美大島には、島人の結(ユイ)の精神にふれ、包まれるような人々の心の深さを感じます。 結(ユイ)とは、人と人とのつながりを大切にし、うれしいことも悲しいこことも、まるで家族のように分かちあい助けあう精神のことです。

島での行事は旧暦で行われ、五穀豊穣、無病息災を祈願する「八月踊り」などのお祭りが催されます。 その様子は古き良き時代の日本を見ているようでなつかしい感覚になります。

このように島の人々は祖先を大切にし、自然の中に神々をみて尊び、いつも感謝の心で生活していて ユタ神様と呼ばれるシャーマンが、現在も存在していることはそれを象徴しているのかもしれません。

奄美の森の見られる島の力強い生命力にあふれた自然を見ていると、人間の力より圧倒的にすぐれていて、 我々人間はこの自然によって生かされていると感じ、謙虚な気持ちになります。

奄美大島は、いまもなお人と神と自然が共存する神秘的で奇跡の島なのです。



3.奄美の海「須野物語り」           

 奄美のニライカナイを語る時、忘れてはならない物語が有ります。これは海難事故で遭難した船員が家族愛と竜宮城から使わされた海亀によって救われる物語です。それは次のような内容です。


①海とケンムン

 ケンムンは森の精霊と言う位置付でそちらの話は多いのです海も守っています。もともとケンムンは奄美大島が形作られた昔に南の国からやってきました。奄美大島にやってきた当時、伝承によれば島の様子が分からず島の人々と色々トラブルが有ったことや奄美の神様の怒りに触れてケンムンにされて、人間とは一緒に住めなくなってしまいましたが、段々と島の人々に愛されるようになりました。

 そんなこともあり、ケンムンはガジュマルの木の上から南の星を見るのが好きです。


 ケンムンには、あっちの海、こっちの海から来て下さいと声が掛かりますが、海には一番嫌いな蛸がいるので注意が必要です。それでも漁師から望まれると出掛けて行きます。

 この話は、那美がオバァから聞いた話で一部記憶違いが有るかもしれませんが、その点はご容赦をお願い致します。


 日本本土が江戸時代と言われていた時代。笠利の近くの須野という集落の人が、

「ハゲー最近、海の魚が減って困っているチバ―」

「それは大変チバ―。一度ケンムンさんに頼んでみるチー」

「そうだね。その前に一度、山の神様にお願いしてみるチー」

「それからケンムンさんにお願いするチバー」

 龍郷の森で行われている話をルリカケスが聞いてケンムンに伝えました。

 早速、須野の山に入って様子をみると、沢山の倒木があり日当たりが悪くなって樹木の生長が損なわれていることを知りました。


 しかし、森の状況を良く見ると、親子と思われる男二人が倒木を一箇所に集めて燃やし薪にしている姿を見ました。

 夜になって、

「皆さん、ご苦労さんです。森を綺麗にされているんですね。ご苦労様です」

ケンムンは歳を取った方の男に話し掛けました。

「これは、これはケンムンさん。色々迷惑をお掛けいたします。森を綺麗にしないと魚が取れないんです。最近、忙しくて森の手当てが出来ませんでした。森を汚して申し訳ありません」

「いいえ、忙しいのに森に気を掛けていただいてありがとうございます」

そして、大きな握り飯を渡しました。


「ケンムンさん初めてお目にかかります。森に来て頂いてありがとうございます」

若者が言いました。

「ケンムンさん。この若者は“ネリヤ”といって心の優しい男なんです。これからも宜しくお願いします」

それを受けて、若者が頭を下げました。

「嘉平さん。これかも海と森を一緒に守って行きましょう」

「お互いにね。森に関心を持ちましょう」

そんなやり取りをしてケンムンは森に帰って行きました。


 森に残った二人は、

「あれがケンムンさんだ、大事にして森を守ってもらわないと行けないぞ」

「叔父さん、分かりました」

こんな会話をしながら、家から持参した黒糖焼酎を飲みながら炭造りを続けました。今日の出来事は“きょら”の心に深く刻み込まれました。


②須野の悲劇

 そして、海の物語ですが、奄美大島の北部、笠利の近くに須野という小さな漁村があります。集落の沖合いの、コバルトブルーの海には珊瑚礁と熱帯魚が泳ぐ豊かな漁場があります。

江戸時代の終わり頃、奄美は薩摩藩の厳しい支配を受けて居ましたが、皆で助け合い貧しいながらも豊かな生活を送って居ました。

 その須野集落には森でケンムンに逢った正直者の漁師、朝龍巳が居ました。妻を3年前に亡くし周囲が薦める再婚話を断って、亡き妻の冥福を祈りながら、一人娘の加那耶(カナヤ)と住んで居ました。

 娘は大きくなると評判の美女に成長し、親孝行娘として近所でも評判になりました。その噂を聞いて近隣の若者が嫁に欲しいと尋ねて来ることもありました。

  長者の若者は、「あなたの娘、加那耶と結婚させてください。結納金に牛3頭と羊、それに一反の田圃を差し上げます」と言い、村役人は「俺と結婚させてくれたら、お父さんを楽隠居させて、私が生活の面倒をみさせて頂きます」と言いましたが、父親は「ワンの娘は誰とも結婚させチバ―。ハゲーお前らは娘を本当に好いているチー。その証を示せチバ―」と厳しい言葉を返し、結婚を承諾しませんでした。

父親は、娘が、幼馴染で集落の貧しい青年ネリアと恋仲であることを知っていたのでした。

   

そんなことがあった数日後、父親は、いつものように漁に出かけて行きました。娘は、家で紬を織りながら夕飯の用意をして待って居ました。準備がひと段落し、浜辺に行くと空が黒い雲に覆われ、風も強く吹いていました。

 心配になった娘は、まんじりともせず、父が帰ってくるはずの海の方向を見つめて居ました。その間も段々と風雨が強くなり暗闇が迫って来て、回りは真っ黒になりました。それでも父親は帰って来ませんでした。

父親思いの娘は、真っ黒になった浜辺で大粒の雨と強い風を受けて父の帰りを持ち、時折、海に向かって、

「おとう、早よう帰って来んと。ワン(私)は此処に居るから帰って来かい」

有らん限りの声で叫びましたが、返事はなく、風の「ビュービュー」という音と、波の「ドーンドーン」という鈍い音のみが海から帰って来るのみでした。

 そして加那耶は涙にくれました。

この姿を見かねた村の青年、ネリアが悲観にくれる加那耶に歩み寄り、二人は手を取り必死に、父親の名前を呼びました。二人の喉が枯れて声が出来なくなった時に夜が明けて、一番鶏が鳴きました。


 それを合図にしたかのように、風は収まり空も明るくなって来ました。そして、村から3艘の捜索船が出され、村の青年ネリアは捜索の先頭に立ちました。


   捜索の間、加那耶は浜辺に出て海に向かって親を思いながら、

  【しゅみ下り石やかくれたり出じたり

     わんなさる親ぬ出じらんが

うとまらしや】

 と声を限りに“しゅみさがり節”を何度も何度も唄って、絶望と悲観にくれて家に帰って行きました。それを捜索から帰ったネリアが慰めました。

捜索が1週間続きましたが、加那耶の唄と願いも適わず、父親を見つけることは出来ませんでした。集落の取り決めで捜索は中止になりました。


悲観にくれる娘が、翌日、朝早く浜に行くと昨日、加那耶が声を限りに“しゅみさがり節”を歌った場所に父親の死体が打ち上げられていました。

それを見た娘は、変わり果てた父の遺体にしがみつき大きな声を上げて泣き、ネリアが加那耶を介抱しました。

 “ネリヤ”と一緒に家に帰ると、山から出てきたケンムンが、

「加那耶さん。お父さんは良い人で、僕らにも優しくしてくれたし、海のことを思って、森も大事にされていました。思っていても中々出来ないことです」

「ありがとうございます。父も喜ぶと思います」

「お父さんの気持ちは、海人にも村人にも受け継がれると思いますから、気持ちを強く持って頑張って下さい」

そして、やちゃ坊から貰った魚とルリカケスが採った穀物、それにケンムンが森で見つけました椎茸を仏壇に供えました。

 加那耶が台所でケンムンのためにグアバ茶を用意して戻ってくると、そこにケンムンの姿は有りませんでした。


村人は加那耶の父を思う心が、ネリアカナヤに届き竜宮からの使いによって父親の死体を娘の所に返しましたと言って、この不思議な出来事を脳裏に刻み、盛大な葬儀をして葬りました。以後、加那耶は毎日海に向かってネリアカナヤへのお礼の歌を唄うのが習慣になりました。


船ぬ高艫に【船の高い舳先に】

居ちゅる 白鳥(しるどぅり)ぐゎ【白い鳥が居る】

白鳥やあらぬ【白い鳥ではない】

姉妹神(うなりがみ) 加那志(がなし)【姉妹神様だ】


これは、よいすら節と言って兄弟または海に出た男性を守護する、姉妹に宿る霊“をなり神(姉妹神)信仰”に基づく唄でした。艫に止まった白い鳥を“をなり神”の象徴として捉え、吉兆とします。

 そして程なくして加那耶は、村の青年ネリアと結婚し所帯を持ちました。


③須野の海

それからも、ケンムンはそっと家族を見守りましたが、ネリアと加那耶の夫婦は仲良く暮らし、ケンムンの出番は有りませんでした。

父親の死を乗り越えた3年後に事件が起こりました。

ネリアが船長(ふなおさ)を務める砂糖キビ運搬船が、強い風に煽られました。更に状況が悪化し、船の帆は破れ舵も折れて、船は運命を天に任せて波間に漂うしかない状態になってしまいました。

 こんな状況を知る由もない加那耶は、胸騒ぎを覚えて浜辺に立ち、“しゅみさがり節”を唄いました。また、同じく加那耶の行動を知る由もないネリアも、船の舳先に立ち天に向かって同じく“しゅみさがり節”を歌いだしました。

【しゅみ下り石やかくれたり出じたり

 わんなさる親ぬ出じらんがうとまらしや】


 加那耶が唄う姿を家の影から涙を流しながら見つめるケンムンの姿がありました。そして、森で採取した穀物や山菜を台所にそっと置いて帰りました。

死を意識したネリアの魂を突き刺す歌声が天に通じたのか、ネリアカナヤから海亀が使わされました。目ざとく海亀を見つけましたネリアはその泳ぐ方向に海を導き、海亀は人間には聞こえない加那耶の唄う声を聞き分け進みました。ネリアの耳に妻が唄う歌がきこえるようになると、いつの間にか海亀は姿を消していました。船員からは見えない赤い糸で繋がるように、須野の港に導かれ無事帰り着くことが出来ましたように思えました。この赤い糸は海亀が結んでくれたとネリアは思いました。

そんなことを知らない村人はこの“しゅみさがり節”の霊験あらたかさに驚きました。

 そして、無事に帰って来ましたネリアは、加那耶との間に5人の子供を成して、父母の霊とネリアカナヤへの感謝を忘れず大切に奉り、幸せに暮らしたとの事です。


しかし、時代とともに、親孝行をする人が少なくなったこともあり、この唄は段々と歌われ無くなったとのことです。

本当に寂しい限りです。

ケンムンは人の世が平和で幸せに暮らせるように、一人で“しゅみさがり節”を唄いました。この伝説の名残が、笠利岬の灯台の下に竜宮伝説として祀られています。



4.ケンムンの祟り

このように奄美には神秘的信仰が残っています。この様に信仰心の強い土地柄において次の様なケンムンの祟りが今でも語り継がれています。里帰りした那美はオバァから次のような怖い話を聞きました。


 戦前のことですが奄美の大都会、名瀬市(今は奄美市)に住んでいた、この家の主人が、

「この大きなガジュマルがあると日陰になって、庭の日当たりが悪いので、切り倒せばこの辺りが明るくなり暮らしやすくなります」

近所の人に向かって言いました。

「この木にはケンムンが住んで居て、これを切り倒すと祟りがある」

こんな近所の人の制止する言葉も聞かずに斧とノコギリで切り倒しました。

 計画通り木は切り倒されて回りが明るくなりました。

「皆さんは、このガジュマルを切ると祟りが有ると言いましたが、この通り何もおこりません。迷信を信じるのはもうやめましょう。大島ももう科学の時代です」

主人は近所の人に大きな声で言って廻りました。

「蛸をかざして祟りをのがれたんですか」

隣の人が恐々聞くので、

「いいえ私は迷信など信じませんから何もしません」

自信タップリに言うと、

「今日の夜が心配ですね。何も起こらなければ良いがな」

意味ありげに言ってその場を去り、主人の胸にも一瞬不吉な思いがよぎりましたが、『科学文明が発達した現代でそんなことが有るはずない』と胸の中で打ち消しました。

 それでも夜が近づくと心配になり、遅まきながらこっそりと蛸を買って来て家の軒下に掲げました。

この様に本心では少し心配していましたが、その夜は何事も起こりませんでした。


 ここで主人は自信を持ったのか、

「ほうれ何も起こらなかったでしょう。俺の勝ちだ」

今度も周りの家を一軒ずつ廻って言って廻りました。それでも近所の人は何か怖いことが怒らなければいいと密かに思っていましたが、もう誰も口には出しませんでした。

そして平穏な数日が過ぎましたが、祟りを忘れた時に恐れた日がやってきました。


その夜、誰かが家の扉を叩くので主人が見に行くと誰もいません。

「誰だ、俺の家の戸を叩くのは。たちの悪い悪戯はやめろ」

怒った主人は大きな声で言いました。

そんなことが数回あり、不思議に思っていましたが、近所の子供達の悪戯と思う事にしました。こんなことが有ってから少しすると、天井の上でネズミが走っているのか「ガタガタ」「ガタガタ、ガタガタ」「ガタガタ、コトコト」という音が数回聞こえ、その音が段々と大きくなり、もう耐えられないと思われた時に静かになりしました。


安心したのも束の間、今度は子供部屋の天井裏で何かが騒ぎまわる音が聞こえました。小学生の二人の子供と父親の間で次のような会話がありました。

「お父さん、天井に誰かいる。誰かが俺を睨んでる」

「良い歳をして何を言っているんだ。バカバカしい」

「でも本当だから。一定のリズムで・・・おれがケンムンだケンムンだ・・と言っているようにも聞こえるから」

子供の必死の訴えに父親が子供部屋に行くと、父親の耳にも、

「お・・れ・は・・・ケン・ム・ンだ・・・ケン・ム・・ンだ・」

と言っているように聞こえ、怖くなりました。

「お前達も下に来て俺達と一緒にいろ。俺が皆を守るから」

威厳を持て子供に言い放ち安心させました。


 今度は母親が父親に訴えました。

「お父さん、家の周りから何か変な音が聞こえてくる。何かが周りを廻っている」

「お前までそんなことを言うのか」

父親は大きな声で言いましたが、心の底では段々と不安が広がっていました。

「みんなで見に行こう」

父親が言い、皆が従いました。

障子越しに、家の周りでも人が木の枝を持って走りまわるような影が見えました。

「お父さん、何か変だよ。何かが起っている。障子を開けて見ようか」

「駄目だ。ケンムンが入って来ましたらどうするんだ」

父親がケンムンの名前を上げて制しました。

「そうですよ障子を開けたら駄目だよ。これはケンムンの祟りですよ。祟り」

「そうだ。これはお父さんが木を切ったからだよ。ガジュマルの木を・・・」

口々に父親を責めました。

それを母親が必死に宥めました。


 暫くすると家の電気が消えて真っ暗になりましたが、窓越しに周りを見ると隣の家も前の家も電気がついていました。

「おかしいね、うちの家だけですよ停電は・・・・」

母親は不思議そうに言いながら声は震え顔は引きつっていました。

「ロウソクで明かりを取れ」

父が叫び母親がロウソクを探して手に持ってマッチで火をつけると周りが少し明るくなりました。

「良子、隣に電話して様子を聞け」

父親が母親に指示しました。

「お父さん、なんだか変だよ。通信出来ない。何回掛けても。誰かが邪魔してるみたい。ケンムンだろうか」

驚きの表情で言い皆がそれを確信しました。

「本当だ、通信出来ない。でもおかしいな、昨日は問題なく通話出来ましたのに。線はつながっているよ」

「やっぱり祟りだ。これは祟りだ」

娘が恐怖に耐えられず泣き出しそう声で言い、恐怖に耐えられず泣き出してしました。

「真知子、家の中でみんな一緒だから怖くないよ」

母親が娘を励ましました。

 想定外の出来事で父親はパニックになっていましたが、母親は冷静を取戻し皆をまとめました。

「みんな仏壇の前に集まって先祖にお願いしよう」

周りを見渡して母親が言い、それに従い恐怖心は少しおさまりました。


 それでも風が何処かから吹いてきて家の中を通り過ぎ、ロウソクの火が消えまた暗闇の世界になり、今度はマッチを擦っても火が付きませんでした。

「何回やってもマッチに火がつかない」

母親がむなしく言い、父親がやってもやっぱり駄目で真っ暗なままでした。4人は真っ暗な中に取り残されました。

 娘の鳴き声とそれを慰める母親の声だけが家の中を支配しました。


父親は自分が行きました行為、即ち、ガジュマルの木を切ったことを後悔していましたが、言葉に出すことは出来ませんでした。

 仏間に集まった4人は、誰が提案するまでもなく、必死に奄美の神様“アマミコ様”に、「ケンムン様が家の中に入ってきませんように」

皆で声を限りに必死に祈っていました。

ここで母親が、

「オバァに聞いた話ではケンムンは朝になればいなくなると聞いた」

「俺もそんなことを聞いたことがある」

父親が重ねました。

「やっぱり父さんがガジュマルを切ったからこんなことになるんだ」

「そうだ親父が悪い」

子供二人が父親を責めましたが、

「そんなこと言うんじゃない。お父さんはお前達のこと思って切ったんだから」

再び父親を擁護しました。


4人は肩を寄せ合い、身体をくっ付けてケンムンの怖さに耐えていました。

「お・・れは・・・ケンムンだ・・。木を・・切ったこと・・・を後悔し・・・ているか・・・」

風の音とも人間の声とも動物の鳴き声とも思えるようなものが聞こえました。

「嗚呼、お許しください。すみませんでした。私の考え違いでした」

「どうか許して下さい。あなたを信じますから」

「私もあなたを信じます」

「すみませんでした。本当にすみませんでした。お許し下さい」

口々に叫ぶと、さっきまで聞こえていた声とも風の音か鳴き声と思えるものが段々と小さくなりやがて聞こえなくなりました。


「俺がいらんことをしてお前達に迷惑かけた」

暫くして父が家族に謝ると、

「お父さんだけのせいじゃないから。私もあの木は切って欲しかった。きっちり話せばケンムンさんも分かってくれると思う。そうでしょうケンムンさん」

声を限りに天井に向かって叫びしました。

「な・・・ん・・・でその・・・言葉を・・・もっと・・は・や・く・・・」

そのように聞こえました。

 強い風が家の中を吹き抜け、仏壇の位牌が落ちました。それを合図に、もう一度仏壇に祈って、夜明けを告げる一番鶏の鳴く時を待ちました。


 長い、長い時間が過ぎて必死の願いが適ったのか、一番鶏が「コケコッコ」と鳴くと、これまでのことが無かった様に家の周りが静かになりました。

 普段の朝が訪れました。


 翌日、主人はお詫びのために、近くの森に10本のガジュマルを植えたとのことです。これでもうケンムンは現れなくなりました。今、このガジュマルは立派に成長し祟りの木と言われて島人に大事にされています。



5.ルリカケスの恩返し                    

 那美は始めて母親と離れて里帰りしたこともあり、体調が戻ってからも近所の友達と海に行っても何処かに寂しさが見られました。森に蝶々を見に行っても雨に見舞われたり、更に台風が来て外で遊べなかったりと退屈することが多くありました。

 「今年の夏は空振りで面白くないな」と思っている時、オジイの本棚から奄美の昔話を見つけました。

 それはルリカケスの恩返しの話でした。


①ヒョウシャとカラスとコーロ

昔々、鳥の羽の色は今とは違っていました。ヒョウシャ(ルリカケス)は黒、カラスは赤、コロ(アカショウビン)は瑠璃色だったそうです。コロはとても綺麗な瑠璃色の衣を身にまとい、得意になっていました。

「カラスさんの赤はとても綺麗ですね。一度着てみたいと思います」

ヒョウシャがカラスに言いました。

「それなら一度、衣を変えましょうか。赤い衣は目立って、猛禽類に狙われ易くて大変なんです。その点、ヒョウシャさんは黒くて目立たなくて楽だなあと思います」

「それなら一度交換してみましょうか」

「でも1週間でまた元に戻しましょうね」

二羽で話がまとまり、その証人をケンムンになってもらうことになりました。


 コロがこの話を木の陰から聞いていました。コロは日頃から『私もこの瑠璃色で人間から追いかけられて困っていえるんだ』と思っていました。

 そして、これはいいチャンスだ2羽が衣を脱いだ隙に、自分の衣と返ることを思いつきチャンスを持つことにしました。


 2日後の天気の良い午後に、山奥のせせらぎでケンムンが立ち会って衣の交換をすることになりましした。

「ケンムンさん、必ず、1週間で元も衣を返すように指導くださいね」

「カラスさん、ヒョウシャさん必ずや約束を守ってくださいね。いいですか」

カラスとヒョウシャはケンムンの言葉に頷きました。そして、2羽は衣を脱いで赤色と黒色の衣をガジュマルの木に掛け、2羽は身軽になってせせらぎに入って水浴を楽しみました。

 

 ガジュマルの木の上で衣を守っていたケンムンは余りにも良い天気なので眠くなって居眠りを始めました。

 この様子を森の影から見ていたコロは太陽のように輝く赤い衣が綺麗に見えたので、自分の瑠璃色の衣を脱いで、赤の衣を着て何処かに飛び去って行きました。水浴びをすませた、カラスとヒョウシャがガジュマルの木を見ると赤い綺麗な衣が無くて、黒色と瑠璃色の衣しかありませんでした。

「ケンムンさん、起きてください。赤い衣がないのですが、私達どうすればいいんですか」

カラスが言いました。

 困ってしまったケンムンは、

「カラスさんもヒョウシャさんも衣を変えたいという希望ですから、此処は、カラスさんが黒色、ヒョウシャさんが瑠璃色の衣を着て下さい。直ぐになくなった赤色の衣を探します」

 ケンムンは調停案を出しましたが、カラスは、「私はやっぱり赤い衣が言い」と言って2羽は中々納得しません。

 そこに天敵のノスギがやってきて2羽はあわてって衣を着ました。その時に、ヒョウシャは瑠璃色をカラスは黒色を着て、素早く飛び立ちました。

 ケンムンは責任を感じて必死に赤い衣を探し、1ヵ月後に赤い衣のコロを見つけて衣を返すように言いましたが、衣が身体に馴染んで脱ぐことが出来なくなっていました。


それで、今でもカラスは、アカショウビン(コロ)に向かって、「私の衣をかえせ ァカア ァカア」と鳴き、アカショウビンは申し訳なさそうに「オヨロロロロロ・・・」と鳴きます。また、ヒョウシャは綺麗な衣を取った変わりに泣き声は「グアー、グアー」と特徴のある悪声になりました。

そして、ヒョウシャは羽の色が瑠璃色であることから、何時しかルリカケスと呼ばれるようになりました。


②奄美のルリカケス

 この物語の主人公ルリカケスは、天然記念物(大正12年)に指定されているカラス科の鳥類で鹿児島県の県鳥です。奄美大島本島と徳之島に住み、大きさは40センチ弱で背中と腹は紫赤色、その他は濃い瑠璃色に覆われている綺麗な鳥です。奄美の森に住み、稲、木の実、昆虫、くも、爬虫類を好んで食べます。

 砂糖キビを原料とする奄美特産の黒糖焼酎でラム酒のように琥珀色をしたものがあり、その名称にも採用され地元の人に愛飲されています。また、地元の人が黒糖焼酎を飲むときには、自然に感謝して「天に太陽、地に砂糖キビ、人には黒糖焼酎」と言ってから飲むことが一部で流行しています。

 なお、黒糖焼酎は奄美で造られたもので無いと、この名称を付けることが出来ない奄美ブランドです。そして、製法は奄美産の砂糖キビから作られた黒砂糖を米麹と酵母で発酵させて造ります。独特の甘い香りを漂わせていますが、糖分は全くのゼロで島人からは百楽の長と親しまれています。


 

③出会い

 むかし昔、日本本土では戦国時代と言われていた時に、奄美大島北部の笠利という集落に、心の優しい一人の若者(きょら)が住んでいました。“きょら”は浜辺で亀を助けたり、池に落ちた虫を拾い上げたり、道端で弱っている、鳥や動物を家に持って帰って手当てして、元気にして森に還すことが良くありました。


そして、村人も知らない間に、いつの間にか綺麗な娘を娶り、村の人々は、

「心の優しい“きょら”も、良い嫁をもらって良かった。嫁はどこから来ましたんかい」

「さあ、どうも南の龍郷辺りから来ましたみたいだよ」

「働き者の“きょら”とは美男美女のカップルでお似合いだね」

こんな話が集落の女連中の間で交わされました。


 この嫁は名前をルリと言い、美人の上に身のこなしが軽やかで、働き者だったので二人の生活は段々と楽に成って行きました。

  やがて可愛いアオという子供が生まれました。


④別れ

 ある日、母親のルリは、生まれたばかりの子供を横に置いて、いつものように機で大島紬を織っていると、飛んできたイナゴを器用に手で捕まえて、自然に口に入れて”パクパク“と食べてしまいました。

ルリは、「ああ美味しかった。久し振りに食べたから」と思わず口に出すと、それを見ていた赤ん坊が「あああんん、あああんん」と大声で鳴き始めました。いくらあやしても、宥めても赤ん坊は泣き止まず、とうとう母親も「ああんあああん・・・」と泣き出してしまいました。

そこへ父親が帰って来て、

「ルリ、なんでアオが鳴いているんだ」

夫が聞いても妻は答えず、

「アオどうしたんだ」

夫が抱きかかえ話しかけると、やっとアオは安心したのか、泣き止みました。

「ルリ、いったい何が有ったんだ。教えてくれないか」

妻に強い口調で言いましたが無言で、沈黙の時間が流れましたが、それを妻が破りました。

夫の前に手を付いて涙ながらに言いました。

「旦那様、実は私は鳥でございます。1年前にあなた様に助けられたルリカケスでございます。ご恩返しをしようと女に化けて、貴方の妻になり子供まで授かりました。いつまでも、仲良く暮らしたいと一生懸命働きましたが、機織の時に飛んできたイナゴを鳥の癖が出て、ついつい食べてしまい、その姿をアオに見られてしまいました」

「そんな事が有ったのか。俺にお前のような綺麗な女が嫁に来るのはおかしいと思っていたんだ。そうか、お前はあの時に助けたルリカケスだったのか。もう俺はお前がいないと生きて行けない。今日のことは忘れて、これからも一緒に暮らそう。息子のアオも居ることだし」

「でも、イナゴを食べる姿を赤ん坊のアオに見られたからは、もう今の姿ではおられません。鳥の本性は隠すことが出来ません。素直なアオの心を傷付けたくないのです」

「ルリ、その気持ちは分かるが、アオには母親が必要だ」

「それでも貴方とアオの側に居ることは出来ません」

涙ながらに言うと、目の前から姿を消して、機に掛けられた織りはじめの大島紬の上に一羽のルリカケスが止まっていましたが、夫が捕まえようと手を出すと、森の方に飛んで行き、姿を見失ってしまいました。

 夫は赤ん坊のアオを抱いて、大きな声を上げて泣くばかりでした。それを家の外から森の妖精“ケンムン”が見ていました。


⑤ケンムン登場

月日が流れ、愛しい妻のルリに逃げられた夫は働く意欲を無くし、家に居ることが少なくなりました。置いてけぼりにされた赤子を可哀想に思いケンムンが世話をしました。

 やがて父親以上に馴染んで行きました。


父親の“きょら”が真面目に働かず、田圃は草ぼうぼうになりましたが、一晩で綺麗になったり、苗代にも種が撒かれて良い苗が出来ましたり、田植えもいつの間にか出来ていたり、周りの田圃の水が枯れたり、虫が付いたり肥やしが無くなっても“きゃら”の田圃は豊作でした。


⑥母親を思う息子アオ

 そして更に月日が流れて、アオは7歳になりました。

「ケンムンさん。友達にはみんなお母さんがいるのに何で、僕にはお母さんがいないの」

思いつめた顔でアオが聞きましたが、ケンムンは答えられませんでしが、たまたま此の時に、酔っ払って家に帰って来ました父親が、

「お前の母親は、山にマキを拾いに言いましたまま帰ってこないんだよ。どうしたのかな、もしかすると山の鳥になりましたのかもしれないな」  

酔った勢いも有って、憂いを伴った顔で冗談めかしに答えました。

 アオは不思議そうに聞いていましたが、

「それじゃ俺、森に行って鳥を探してみる」

父親とケンムンを見て言い放ちました。


 翌日、アオは森に一人で行き、一番大きな木に登って声を張り上げて、

「アンマー(おかあさん)アンマー」

森に何度も何度も叫ぶと、静かな森の奥から「アンマー、アンマー」とこだまが帰って来ました。

 それでもアオが、更に大きな声で叫ぶと、遠くから「グアウー、ガアウー」とかすかに鳥の声が聞こえ、それが更に大きくなって聞こえて来ました。

そして、木の下を見ると、

「坊や、私の坊や、私のアオ」

と言いながら一人の女が立って居ました。


アオが木から下りると、女はアオを抱きしめ息もつけないほどに、強く抱きしめて泣きじゃくりました。アオはこれが母親だと思い抱きついて、逃げられないように手足を女に絡めました。

「アンマー、一緒に家に帰ろう」

女はうな垂れていましたが、やがて首を横に振って、

「アオ、アンマーは遠くの山奥に帰らないといけないの。アオは良い子供だから早く家に帰って、もう二度と此処には来ないように」

強く言い聞かせて、木の実を沢山持たせ、背中には実が一杯付いた小枝を刺して、宥め透かして家に帰らせました。


⑦再度の母との別れ 

 翌日もアオはアンマーに逢いたくて森に来て「アンマー、アンマー」と叫び、それに答えて現れた母親は、「もう二度と来てはいけないと言うのに、何で来ましたの。そんな弱虫な子供は嫌いです」と泣きながら心を鬼にして強い言葉で言いました。

 そして、母親は着物を裂いて口と手で器用に紡ぐと、いつの間にか一尺程度の小さな瑠璃色の生地になり、それをアオに渡すと「アンマーに逢いたくなったらこれを見なさい」と言うと何処かに消えて、木の上には一羽のルリカケスが居て「グアウー、ガアウー」と悲しそうな声で鳴きながら、森の奥に飛んで行き、アオはその光景をいつまでも眺めていました。


 次の日もアオは森に来てアンマーを呼びましたが、もう母は姿を現さず仕方なく昨日、母からもらった布を木に掛けて、それに日が当たると母の顔が綺麗に浮かび上がって、それを見てアオは涙が枯れるまで泣きました。


 この様子を森の木陰から見ていた心優しいケンムンは、3年前の飢饉と一揆で子供と夫を亡くした女性をアオの父親に娶わせ、夫婦にしました。

 この出来事があってから、父親は気持ちを入れ替えて元の様に良く働くようになり、新しい母もアオに優しくしました。よって、アオはそれ以後、全く悲しい思いをすることも無くなり、ルリやケンムンとも逢わなくなって、何時しか忘れてしまいました。心の優しいケンムンはアオの姿を、既に亡くなったルリカケスのルリに代わって遠くから見守っていました。



6.奄美の森の物語

 更にオバァの話に依れば、この他にも奄美はワンダーランドと言われるに相応しい昔話や伝説が色濃く残っています。なかでも自然が残る奄美の森には、妖精はじめ多くの住人がいます。それは“やちゃ坊”、“ケンムン”、“ハブ”、“アマミノクロウサギ”、“マングース”、“野ネコ”などです。それぞれの立場と個性で奄美の森を守っていると言います。

 オバァは各々、次のような役割と自負を持っていると言います。


①住人の役割

やちゃ坊は森の番人として主に腕力で、人間が森を破壊することを阻止します。

「俺は奄美の暴れ者だけど、心は優しい妖精です。貴方の目で私を見て、本当の私の姿を確認してください」

ケンムンは森の妖精として、森に入って来ました人に森の大切さを教えます。

「奄美のことは何でも私にお聞き下さい。分かり易く説明させて頂きます。私はアイドルとして島の物語には頻繁に登場します」

そしてハブは毒蛇で、怖いというイメージで、無闇に人間が森に入ることを防止します。

「私は恐いですよ。ですから用事の無いときは極力森に入らないで下さい。また、水の有るところが好きですから、そこに近づく時は、特に注意下さい。皆さんに極力、逢わないようにお互いに注意しましょう」

アマミノクロウサギは特別天然記念物で森のスターとして、人間の活動を通して世界中に森の大切さを宣伝して、森の環境保護を訴えます。

 「最近、少し数が増えています。奄美の世界自然遺産の登録で更に森の環境を改善したいと思います」

そして、マングースはハブの天敵と期待され、人間の手で森に放されましたが、アマミノクロウサギを捕食し、人々に外来種対応の難しさを教えました。

「ハブ退治という皆さんのお役に立てなくてすみませんでした。でも私も生きていかないといけないので、私も人間に対して色々、言いたいことが有ります」

 更に人間に飼われていた猫も捨てられて、仕方なく森に入って、野ネコとして生活していますが、人間がペットを飼う責任を教えてくれます。

 「私も家で飼われていた時は、三食昼寝付で優雅な生活をしていました。森で生きるために必死に生活しています。皆さんも今後、どうすれば良いか一度、お考え下さい」

 そして森の上空には、色鮮やかで天然記念物のルリカケスが飛び回って、空から森の環境を俯瞰しています。

 「私は、空から全体を見渡して、問題が発生していないか確認して、結果をケンムンさんに連絡しています」

 このような森の住人達が、各々の立場で生活の場である森を守っています。今後、この様な人々と那美が出逢って物語を作ります。


②森の番人ケンムン

 これまでにも説明した様に奄美ではケンムンは本当に居ると信じられていますが、最近は森が開発され環境が破壊されたことと夜も照明で明るくなって、明るいところを嫌うケンムンと人間が出逢う機会が少なくなっています。

それでも、ガジュマルの木やアコウの木、ソテツの木、へゴの木、マングローブ、大きな葉っぱのクワズイモなど、奄美の奥深い静かな森を歩くと、島唄を奏でるサンシンの音に混じって、どこからともなくヒュールルシュー、ケッケ、カカカカ、クッカルル、ルルルと風の森を吹き抜ける音とも、小鳥のさえずる声ともにケンムンの声とも聞こえる音を聞く事が出来ます。

もしかすると、ケンムンが息を潜めてジイットこちらを見て、私達を観察し善良な人間かどうかを見ているのかもしれません。森を歩く時は最新の注意が必要です。


ところで皆さんはケンムンの話を聞いたことがあるでしょうか? この本で初めって知った、のでしょうね。そう奄美の島々にはケンムンという森の妖精が住んでいます。奄美は自然が豊富でアマミノクロウサギなどの貴重な動植物も沢山あります。ひんやり、うっそうとした奄美の森、オゾン、活性酸素を豊富に含んだ空気を、深呼吸で胸深く吸い込むと、体がリフレッシュ出来ると言われています。森の動物達も沢山のオゾンを吸って活発に活動しています。

そして妖精たちの空間も広がっています。神秘的で貴重な奄美の森を貴方にゆっくり訪ねてほしいと思います。


ただ注意が必要です。ケンムン達に会いたくて奥深い森を訪ねても、大人になって人を疑うことを覚えた人のところには、ケンムンはなかなか姿を見せてくれません。ケンムンは疑うことの知らない心を持った子供や、ケンムンの存在を信じ脅かしたりせず、日頃から裏表の無い生活をしている大人には安心して姿を見せてくれます。

  

ケンムンは森の精霊ですから怖がることはありません。ちょっとした悪さもしますが、良いこともたくさんするからです。奄美に住む老人から「子供の頃、ケンムンと相撲を取った」、「戦後の食糧難の時代に魚をもらった」、「道に迷った時に助けられた」、「草刈を手伝ってくれた」という話を良く聞き島人との関係は親密です。


ここで那美が奄美の友達から聞いた話しを紹介します。

腕白小僧、健太が山道を歩いているとケンムンが現れて「俺と相撲を取ってくれ」と言うので健太は「俺と相撲を取って怪我しても知らないぞ」と返すと「そんなに強いなら手加減してください」と言い返し「それなら止める」と言い放って先を急ぎました。

 少し進むと、また、ケンムンが現れて

「やっぱ相撲が取りたいから相手をしてくれないか」

もう一度お願いしました。

「そこまで言われましたら仕方ないな。それじゃ一丁やるか」

二人の話がまとまり相撲を取りましたが、健太は一度も勝つことが出来ませんでした。


 勝てなくて元気のない健太にケンムンが「もう弱いものイジメはしないようにするんだよ」と言うと「今日、ケンムンさんにコテンパンに負けて、負けた時の悔しい気持ちが分かったので、これからは弱い人とも仲良くします」と言って、家に帰って行きました。


また、ケンムンから助けられたとの話もあります。郵便局員が山の中にある家に郵便物を持って急いでいました。そのとき急に雨が降って来て「これはこまったチー。ワンが今日、出かける時に妻と喧嘩したからチバー。ハゲーきっと罰が当たったチー」と反省していました。

 反省の効果か雨が少し収まったので歩み出し無事、郵便物を配達して帰って来ると、山崩れがあり遠回りして帰ることになりましたが、途中で道に迷い夜中になってしまいました。

 暗い山の中でフクロウの泣き声や何かの遠吠えを聞き気弱になりました郵便局員は「ワンはもう二度と妻と喧嘩をしないチバー。許してくれチー」と森に叫ぶと、森の中から“ケンムン”が現れて道案内してくれて、無事に家に帰れたとのことです。

 もちろん、これ以降、郵便局員は誰と喧嘩していません。

このようにケンムンは奄美の島人と交わり馴染んでいます。


なお、奄美大島ではケンムンと呼ばれますが奄美大島本島から数百キロ南にある沖永良部島では、ヒーヌムンと(木の者)と呼ばれ、与論島ではイシャトー、沖縄ではキジムナーと呼ばれています。


民俗学を学んだ母親は次のように言っています。『ケンムンに関する歴史資料としては、江戸時代末期に、島流しにあった薩摩藩の侍、名越左源太という人が奄美大島の様々な文化、風習を詳細に書き留めた『南島雑話』という名著があり、それにケンムンは猿のような河童のようなモノとして描かれています。この話が現代に受け継がれています。

それによれば河童起源説の一つである陰陽師の河童説とも関係が有りそうだですし、更に金物嫌いか製鉄業と敵対関係にあった何らかの氏族のことを暗示しているのではと、創造は際限なく広がります。』

このようにケンムンは奄美大島の島人に広く知られて森の妖精ですが、詳しいことは分からず神秘のベールに包まれています。それが島人に神秘性と親しみを感じさせているのかも知れません。古い習慣が残り民俗学の宝庫と言われています。 

 さあ、それでは皆さん那美と一緒に、奄美の森と海と空の出来事を見に行きましょう。

                             

③アマミノクロウサギ“加那”との出会い

一人での里帰りから1年が経過し、小学校4年生になった那美は、夏休みになりいつものように奄美大島にやってきました。今年は母親とも一緒です。那美は海で遊ぶのも好きですが、太古から茂るヒカゲゴケ等のシダ類を観察するのも、蝶を見るのも好きでした。今年は、蝶なかでもアカボシマダラの生態を観察したいと思っていました。


ある日、那美は目的の蝶を追って森に入って道に迷い、スコールに襲われ茂みの中に逃げ込みました。周りが段々と薄暗くなって来て、不安になってきました。

その時、黒く小さなウサギ『娘さんそこはハブが出て危険だよ。私に付いて来てください』と那美に言いましたが、周りを見渡すと誰もいません。


再び、『此処ですよ。ここ』と声のする方を見ると那美はやっと黒いウサギを見つけることが出来ました。

ウサギの動きに合わせて右に出た時に、藪の中から棒が弓なりに飛びました。那美は直ぐに猛毒のハブだと思い、恐怖心が襲って来て動けませんでした。

「心配しなくて大丈夫ですから。ここに来て下さい」

那美を雨が防げる小さな洞穴に誘い、気持ちが落ち着きました。

「アリガッサマ リヨウタ【奄美の方言で、ありがとうございますの意味】」

黒いウサギに礼を言と、それに合わせてウサギがピョンと跳ねました。


この黒いウサギは“アマミノクロウサギ”という奄美固有の貴重な動物で名前を“加那”と言うことを知りました。    

そして加那は、オバァから聞いて居た様に奄美の森は番人で愛される無法者“やちゃ坊”、住人の優しい妖怪“ケンムン”、そして今日は那美を襲ったが、むやみに森に人間が入って自然を破壊するのを防ぐハブ、乾燥から豊かな森を守るシダ類等によって守られていることを語りました。


加那は、「ウウウキュキュ、ウウウキュキュ」と空に向かって鳴きました。那美は誰かを呼ぶ仕草のように思いました。予想通り洞穴に誰かがやって来ました。加那が“やちゃ坊”と“ケンムン”を紹介しました。代表してケンムンが那美に言いました。

「那美さん。この森では私達が信頼出来る仲間と判断すると人間の言葉で話しが出来ます。那美さんは私達の大事な仲間です」

「ありがとうございます。私に森のことを教えて下さい」

「良いですよ。一生懸命頑張ります」

次にやちゃ坊が森の状況を話しました。

「人間が山に入って来ることが多くなって荒れてる。この状態が続くと森が崩れてしまう。仲間になって森を守ってくれ」

「私も勉強して皆さんのお役に立ちたいと思います」

この様にして4人は奄美の森を守ることを誓いました。


また奄美には、“ケンムン”と呼ばれる妖精もいます。ガジュマルの樹に棲み、ガジュマルの樹を切り倒すと、ケンムンのたたりにあうとされ恐れられています。

この他にもケナガネズミ、さっき見た猛毒を持つハブ、小さな猛獣マングース、野ネコなどが森の住人で、空にはルリカケスなどの鳥類が舞い、太古から続くシダ類があり、これらが互いに闘い切磋琢磨(せっさたくま)しながら森を構成しています。


森の話を聞いていると、雨も止んだのでアマミノクロウサギいや“加那”の案内で街に戻ることになりました。

「加那さん。私は貴方のこの森を守りますから」

「ありがとうございます。私たちも頑張ります。豊かな森を守って下さい。お願いします。森は私たちだけでは守れませんから」

「ええ、私の人生で一番感動した今日の日に、森を守ることを約束します」

那美は加那を手で抱き上げて、赤い眼を見て優しく言いました。また、強い雨が降ってきました。

「早く帰って下さい」

この言葉を背に受けて道路を下って街に帰りました。


那美にとって長い長い一日が終わりました。

自宅に帰ると、オバァから、「どこに行っていたのそんなに濡れて。心配するだろう。早く風呂に入って」と強い言葉で言われました。

「オバァ、私、森を守る人になるから」

「どうしたの急に」

あっけに取られるオバァの言葉を背に風呂場に向かいました。心地良いお湯でした。森の住人達にも良い環境を提供したいと思いました。


④12年目の夏 

アマミノクロウサギの“加那”と逢った時から12年が経過しました。あの夏から初めての奄美大島でした。那美は森を守るために奄美にやって来ました。

 那美の仕事は、奄美を世界自然遺産に登録する活動の支援でした。

 

 1週間分の荷物を背負って、昔、“加那”が案内してくれた洞穴に向いました。洞穴に到着して2日目の夜、アマミノクロウサギがやって来ました。背中に白い2センチ程度の丸があり、『あの時の“加那”さん』と確信しました。

自信を持って、『加那さん』と聞くと、『私は加那の娘の“愛加那”です』と恥かしそうに言いました。二人の姿を見て、“やちゃ坊”と“ケンムン”もやってきました。


「最近、山が削られて環境が破壊されています。それに野ネコや、強敵のマングースに襲われる機会が増えました。あなたは、私の母に森を守ると誓いましたのに、何もしてくれないんですね」

親しみも有り期待を込めて愛加那が、那美を鋭く攻めました。

やちゃ坊は「最近は、俺を恐れる人間も少なくなって森を守れなくなりました」と嘆き、ケンムンも「優しい人間が少なくなって、森に関心を無くしてむやみに木を切る人も増えています。最近は誰も相撲を取ってくれない」と嘆きました。

「すみません。私の力不足です」   

那美が涙を流して皆に謝りました。

見かねてケンムンが「那美にも色々事情があるから」と慰めました。

「でも那美、早く行動しないと手遅れになるぞ。分かっているのか」

大きな声で森の番人“やちゃ坊”が怒りました。那美は答えに困ってしまいました。

「今日はもう遅いし、那美にも考える時間が必要だから解散しようか」

愛加那が助け舟を出してくれました。

 

那美は、山を降りて、むかし祖母が住んでいた家に帰って、森を守る方法を夜も寝ずに考えました。そして『森を開発する人に開発する部分と開発しない部分、に分けてもらうこと』を提案しようと思いました。

また、ケンムンに頼んで森の野ネコとマングースを集めてもらって、話し合うことにしました。

野ネコは『俺たちを山に捨てたのは人間だ』と言いましたが、那美の説得に応じて森を出る事になり、ペットや街ネコとして飼育される事になりました。


しかし、マングースは説得に応じませんでした。

「俺たちの行き場所はないんだ。人間のペットにもなれない。俺たちをハブ退治に森に放したのは人間だよ。かってだよ余りにも」

「私達、人間の知恵が浅はかでした。許して下さい」

「俺たちは野生で生きるよ、もう人間のかってにはならない」

那美にも、これ以上適切な解決策を見出せませんでした。無力感をヒシヒシと感じ、涙が出て止めることが出来ませんでした。

「すみません。本当に申し訳ありません」

「那美の涙を見ても、俺たちは森で生きるしかないんだ」

マングースは森に帰って行きました。那美は引き止める言葉がなく、後姿を見守るしか有りませんでした。

那美は森を出て、奄美から逃げ出しましたい気持ちになりました。


 それを知ったケンムンが森の雫を集めた先祖伝来の“精霊の水”を、那美に与えると、逃げ出しましたい気持ちが治まり瞬く間に元気になりました。


元気になった那美は、森を開発する建設会社の社長の説得に向いました。社長は突然の訪問にも係わらず気軽に逢ってくれました。話しをすると、気さくな人で、亡くなりました父親のイメージとも重なって安心し親しみを感じました。


那美は気を良くして、「ところで社長さん。アマミノクロウサギが生息しています。森の開発を止めていただく事は出来ないでしょうか」と社長の顔を真正面に見て、単刀直入に切り出しました。

少し時間を取って、「あなたは、自分が言っていることが分かっていますか」

と日焼けした顔を真っ赤にして、きつい口調で言い返しました。

那美は一方的で、軽はずみな自分の言葉を恥じました。

「すみません。私の言い方が悪かったです。人間の生活を豊かにする開発は良いんですが、地域を限定して頂きたいと思うのですが、いかがでしょうか」

「それは、俺も分かっています。それで苦労しています。俺は世界で一番、奄美の森が好きだし、大事にしたいと思っています」

話はかみ合いませんでした。

「私もアマミノクロウサギの“加那”と出逢った、12年前から奄美の森のことを考えてきました」

社長の表情が少し変わりましたが、お互いの思いが巡って沈黙が流れました。

「社長さん。この本を読んで頂けませんでしようか」

那美は、“加那”との出会いをまとめた本を社長に手渡しました。

社長は少し目を通してかから、「分かった。これを読ませてもらって、またこちらから連絡するから」と冷静に言いました。

「ありがとうございます」

本が二人の間合いを調整し、お互いの顔に笑顔が戻りました。


⑤奄美の森にて

那美が活動の拠点にしている奄美市住用にあるマングローブパークで、リュウキュウアユの生態に関する報告書をまとめていると小学生が尋ねて来ました。

「すみませんが山田那美さんいらっしゃいますか?」

「はい私ですが。何か御用ですか」

「あの、アマミノクロウサギのことで相談したいのですが」

「小学生の方ですか」

那美の質問に答えて、

「奄美北小学校6年生の泉かおりです」

と言いました。

「私、先生の新聞に載ったアマミノクロウサギの記事を読んで、これを持って来ました」

「ちょっと見せて下さい」

那美は手に取って資料を見て驚きました。

 それは今後、奄美が世界自然遺産に登録された時の展示に関する提案でした。

それは、概ね次の様な内容だった。

【マングローブパークは世界自然遺産登録時には中心施設になると思われます。残念ですが、自然遺産登録の対象となる動物は、めったに見られないし、見栄えがしないので、展示には工夫が必要です。

私は奄美でこれまで、生きたアマミノクロウサギを見たことがありません。暗視野での飼育と、他の種類の兎との違いを明確にする展示が望まれます。

そして各個体には、電波発信機をつけて居場所を追跡出来るようにして、観光客が自分の目で、居場所を確認出来るようにして欲しいと思います。

展示場の広さは直径30メートル程度のドーム型にして、奄美の森の自然環境を再現して欲しいと思います。即ち、小川、山、池とリュウキュウアユやタナガ、コウガン、森にはシダ類、ヘゲ類、空にはルリカケス、そして夜の空には星座がある。可能な限り自然を人口的に再現するのです】

 概ねこのような内容で良く考えられていました。


「これをあなた一人で考えたの」

「ええ考えました」

「驚いた。小学6年の貴方にここまで考えられたら、私たちの役割はないな」

「先生、そんなことないです」

那美は昔の自分を思い出して、この少女に重ねていました。

「お姉さんも貴方位の時から、アマミノクロウサギに関わって来ましたけど此処までは出来なかった。本当に驚きました。良い提案ありがとう」

那美のこの言葉を聞いて、泉ゆかりは満面の笑顔を返しました。


 この笑顔で一気に親しみがまして、那美はこれまで撮った写真や資料を見せて話が弾みました。一緒に食事をして更に話しました。

「私、山にも行きたいんですけど、一緒に連れて行ってください。お願いします」

ゆかりは思いつめたように言いました。

「それはちょっとね」

「何で、ですか」

「危険だし、貴方が驚くような色んな住人がいます。それにご両親の了解も」

「それは大丈夫です。うちには母しか居ませんが、私は信頼されています。」

「分かりました。でも少し考えさせてください。お母さんとも相談するから。もし良かったらこの本読んで」

「ありがとうございます。読ませて頂きます。それと是非一緒に連れて行ってくださいネ。宜しくお願いします。私もこんな本が書きたいから」

和泉はきっちりと挨拶して帰って行きました。

 那美はゆかりの熱意に負けていつか希望を適えてやりたいと思いました。


この出来事か更に2週間後、社長から連絡があり、愛加那の生活する山に一緒に行く事になりました。那美は泉ゆかりを誘う事も考えましたが夜が遅くなることも考慮して今回は断念しました。

社長は本を読んで、那美が森を思う気持ちを理解してくれました。

「ワン(私)は、この山については良く知っています。チー(んだ)。ワンの家は貧しくてね。山に入って山菜や果実の実を取って食べたチー」

「何も知らずに失礼なこと言ってすみませんでした」

「ナン(君)の言葉で自分も初心に戻れたチー。この森がワンの原点チー」

「私もこの山での出来事で、奄美の森を守ることを誓いました」

山を登り、汗を流しながら話しています。と気持ちが通じ合い、やがて那美の活動基地である洞穴に着きました。

「那美さんあなたもこの場所を知っています。チー。ワンもよくここに来て遊んだチー。ここに木と枯れ葉を並べて寝たこともあるチー」

昔を思い出し懐かしそうに言いました。


夜も更けたので、那美は懐中電灯をつけ、ケンムンに教えられた指笛を吹きました。『ピー、ピー』と森に高い音が響く指笛に社長は『那美さんやるね』と驚きの声の上げましたが、それを合図に先ず、“愛加那”が現われました。

「社長さん今晩は、宜しくお願いしますチー」

愛加那が言いましたが、何故か社長は驚きませんでした。やちゃ坊、ケンムンも集まって来て、社長が持参した黒糖焼酎で酒盛りが始まりました。


社長が、『やちゃ坊さん、ナンとは以前にどこかで逢った様な気がするチー』と昔を思い出しながら聞きました。

「ワンもどこかで逢った様に思ってたチー。ひょっとして、住用池の横の家」

「そうだ。俺の昔の家チー。そうか、毎日、魚を届けてくれた人チー」

やちゃ坊が『クスクス』と笑いました。

「社長さんワンも覚えてないですか。神社で一緒に遊んだチー」

今度は、ケンムンが言うと、『そうか高千穂神社の森で相撲を取って負けたチー。その時の傷が・・・』と社長が頭に手を当てました。

「なんだ、みんな知り合いなんですか」

「ハゲー(本当に)驚きました」

那美と加那が驚きの表情を見せました。


 昔話で盛り上がりました。頃合を見計らっていた那美が、『それで社長さん。開発の件ですけど』と恐る恐る声を掛けました。

それを聞いて社長の表情が変わりました。酔いによる赤と怒りの赤が加わって燃える釜(かま)のような赤い顔になりました。

「今日は難しい話はやめて、良い焼酎を飲ましてくれよ」

懇願(こんがん)しましたが、森の管理人やちゃ坊が厳しい口調で言いました。

「社長、この森の開発はやめてくれよ。他の環境破壊の少ない森の開発は応援するチー」

「住民の説得は出来るチー」

「出来ると思うチー。俺は結構、島の人間には貸しがあるチー、弱みを知っています。チー。それに“森の魔法”も有るチー」

皆が含み笑をし、それから少しの沈黙が有りしまた。

「信じられんチー。人間って裏表があって、金や利害にこだわるチー」

「俺を信じてくれチー。人間を金の執着(しゅうちゃく)から解きほぐす術を知っています。チー」

「どうするチー」

「ワンは心の底に沈めた奄美、故郷を思う心を“奄美の深海から取った魔法の塩”を飲ませて、奄美の太陽と空の力と・・・で表面に浮き上がらせるチー」

やちゃ坊が、日頃の態度からは考えられないキリットとした表情で、決意を込めて社長を見て言いました。


社長の表情が厳しくなって、やがて優しくなりました。

「分かったチー。ナンが約束するなら、此処の森は開発しないチー。昔の借りも有るチー。悪人を改心させたり、災害を防いだり、悪い薩摩の役人を懲らしめたり、噂は色々聞いています。チー。ワンはナンを信じることにするチー」

自分に言い聞かせるようにゆっくりと言いました。

「社長さんありがとうございます。環境への影響が少なく、より多くの人に利益をもたらす開発の場所を早急に探しますから」

眼に涙を一杯に溜めて那美が言いました。

「宜しくお願いしますよ」

社長が分厚くて大きな手を出すと那美が握り返し、やちゃ坊、ケンムンがそれに加わり、全員の手の上に愛加那が乗って、『これにて一件落着。お手を拝借』

と言うと全員が笑いました。それを合図に愛加那が手の上で大きく一回転し全員が、また笑いました。


 ここで那美が三味線を取り出して、みんなで島唄 “行きゅんにゃ加那節”をオジイを思い出しながら唄いました。唄っていると段々と気持ちが一つになりました。この夜は一晩中、唄い語り合って、翌日、皆帰って行きました。この日から、森を崩すダイナマイトの爆発音が消えました。

愛加那は、昨日の話合いと、日頃の育児で疲れていて警戒心が薄れていました。子供に授乳し穴に入れて入り口を粘土で閉じて、一安心した時、後ろに迫っていた猛毒のハブに食いつかれてしまいました。

 段々と毒が回って来て意識が薄れました。那美の笑顔が浮かんだので『那美さん、森を宜しくお願いします』と言うと同時に意識を失いました。


アマミノクロウサギの“愛加那”がハブに噛まれるのを森の中から見ていたケンムンは直ぐに愛加那のところに水を持って行って、小さな目に掛けると、眼が開き意識も戻りました。

「愛加那さん、大丈夫ですか」

「ケンムンさん。私はもう駄目です。どうか娘をかげながら見守って居て下さい。お願いします。注意力が育っていないので心配です」

「分かりました。私がそれとなく見守ります」

「宜しく、本当に宜しく、宜しくお願いいたします。あの娘はお腹が弱いので少し硬いものを食べると下痢になるんです。それが、それが本当に心配なんです」

「愛加那さん、わかりました」

「お腹が心配でそれに注意力がなくて・・・・」

愛加那は何度も何度もケンムンにお願いしました。

「愛加那さん。分かりました。私が全力で守ります」

この言葉を聞いて、愛加那は安らかに眠りにつきました。

死を見届けたケンムンは、小さな穴を掘って、埋めその上にガジュマルの木を差し、水を掛けて冥福を祈りました。

 気持ちが落ち着くと森に消えました。


 ケンムンが去った2日後に愛加那の娘は、自力で穴から出て来て、森の奥に消えました。こうして奄美の森に新しい命が受け継がれました。

 この娘を森の木陰からケンムンは静かに見守っています。


 自宅に帰って那美はケンムンに感謝して“ケンムン音頭”を普及させることにしました。この歌は、昔、オバァが子守唄代わりに良く歌ってくれた思い出の歌でした。

 那美はリズミカルに口ずさみました。


 最近、那美は自然保護活動と共に奄美図書館で小学生を対象に歴史クラブを開き、次の世代の若者に島の歴史と自然保護の大事さを教え始めました。世界自然遺産登録を担う若い世代の育成が目的でした。


7.愛される無法者「やちゃ坊」

 次に、奄美のもう一方のスター“やちゃ坊”について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。

①やちゃ坊の優しさ

奄美大島には悲しい話が多い中で、「やちゃ坊(野茶坊)」は型破りな人物で、義賊的な人物とも言われ島人に元気を与えます。

やちゃ坊は沖縄から来た石工夫婦の子供でしたが、小さい時から奄美の子供に「おきなわ、おきなわ」と言って苛められました。昔から、日本には異質なものを受け入れない考え方がありましたが奄美も例外ではありませんでした。

「おかあさん。何で俺が苛められるの。沖縄生まれだからか」

「そんはことはないよ。お前は身体が大きくて目立つからだよ。辛抱していつか見返してやるんだ良いかい」

「分かった。俺、頑張る」

「お前は体が大きいんだから喧嘩もせずに皆と仲良くするんだよ」

「俺は喧嘩しない。約束する」

そして母に抱きついて泣きました。


 そんなことが有った3日目に山崩れで、父が下敷きになって亡くなり、それを悲観して寝込んだ母親も暫くして病気で亡くなりました。

幼くして一人ぽっちになった子供は暫く、近所の人の世話になりましたが、段々と居づらくなって活動的な性格も有って10歳を過ぎた頃、家を飛び出し一人で山に入って生活するようになりました。土だらけのからだに樫の木の皮の褌を締め、昼間は海の近くにある岩窟や深い山林の中に隠れ、夜になると人家を荒らしまわっていました。

それでも夜になると、星に向かって、

「おとう、おかあ、ワンを空の上から見守って下さい。寂しいです。此処に来てもう一度抱き締めて下さい」

大きな声で空に向かって言い、涙にくれて眠りにつきました。こんな生活が長く続き、可愛そうに思いましたケンムンが生活するのに適した場所を教え、そこで生活するようになったと言われています。

「ケンムンさん、ありがとうございます。このご恩は忘れません。何か私に出来る事が有る時は連絡下さい」

「ありがとう。お前も、あんまりやんちゃせずに村の人に迷惑掛けずに暮らすんだぞ」

「わかりましたケンムンさん。俺も迷惑を掛けないようにします」

子供は手を取って、ケンムンに誓い森に消えました。


また、この子供には名前の謂れになったこんな逸話があります。ある時、漁から帰ってきた漁師たちが、舟を浜に揚げるのに困っていると坊を見つけて手伝ってもらことにしました。

「坊やちょっと力、貸し手くれないか困っているんだ」

「ああいいよ。手伝わせてください」

「じゃあ頼む」

話がまとまり一緒に汗を流して、舟を無事、浜に引き揚げて魚を分けようとすると、一番大きなヤチャ(カワハギ)が見当たりません。実は坊が舟を揚げるのを手伝っている時に、ヤチャを盗み取り、すばやく砂の中に隠し、舟を引き揚げた後で、密かに戻って来て、取り出し持ち去ったのでした。

「あの坊にやられた。油断もすきも無いやつだ」

「金輪際、もうあいつには頼まない。今度、会ったら許さないからな」

「あの“やちゃ”を盗った坊ずめ」

悔しそうに言いました。それからというもの、坊は「やちゃ坊」と呼ばれるようになりました。


このように食べ物を盗んだりすることが頻繁に起こったので、役人たちは「やちゃ坊狩り」をすることになりました。青年たちを集め、大掛かりな山狩りでやちゃ坊の住みかを見つけましたが、すでにやちゃ坊は逃げたあとでした。

 役人は悔しくて、

「ここにある酒でも飲んでやちゃ坊を困らしてやろう」

住みかにあった酒を見つけ、役人たちは酒を飲み、唄い、踊り、疲れ果てていつの間にか寝込んでしまいました。

しばらくして帰って来ましたやちゃ坊はこの様子を見て

「俺が苦労して集めた酒を勝手に飲みやがって承知しねえぞ。ここは思い切り懲らしめてやる」

やちゃ坊は顔を真っ赤にして怒り、役人たちの持ち物を全て奪い、身ぐるみ剥いで、文字通り裸にした上で役人たちを縄でくくって身動きできないようにしてしまいました。そして奪い取った品を貧しい人の庭に放り投げでて与え、残ったものは金に替えて酒を買いました。


無法者とされる、やちゃ坊ですが金持ちの家から食べ物を盗み、貧乏な人の家に放り込んだり、道端で泣いています。子どもに頭よりも大きな握り飯を与えたりもしました。

「坊ず、腹減ってるだろう、これでも食えや」

「ありがとうございます。やちゃ坊さん、もう2日間何も食べていないんで助かりました。やちゃ坊さんも役人に気をつけて下さい」

「ありがとう。また、困ったらガジュマルの木を叩いて連絡しろよ」

そして、子供は残った半分の握りを、妹に挙げると言って、自分の家に持って帰って行きました。

また身寄りお金がなくて、還暦や70の祝いが出来ない老人には、大きな猪をかついで来て庭に投げ込たとも言われています。

「ああワシの家にもやちゃ坊が来ました。やちゃ坊が来ました」

嬉しくて老人は村中に触れ歩き、集まった村人で猪を食べました。そこで村人はやちゃ坊の偉さを盛んに話しました。

やちゃ坊は、金持ちから盗みはしても人を殴ったり、傷つけることなどはしませんでした。島の人々にとってやちゃ坊は、強気を挫き、弱きを助ける憎めない愛される存在なのです。


②ケンムンとやちゃ坊とルリカケス

ケンムンが夜の森を歩いているとルリカケスが羽を痛めて、地べたに横たわっていました。

「ルリカケスさんどうしました」

「ケンムンさん、ハブに噛まれてしまいました」

「それはいけませんね。早く手当てしないと。やちゃ坊に血清を持って来てもらうようにしよう」

と言うと同時に森の木を小さな小枝でリズム良く叩きました。

すると、暫くすると、やちゃ坊が現れて手には小さな瓶を持っていました。

「ケンムン。これが、さっき連絡があったハブの血清だ」

やちゃ坊はぶっきら棒に言いました。

「ありがとうございます。やちゃ坊さん」

ケンムンはそれを受け取って、ルリカケスに飲ませました。暫くするとルリカケスは元気を取り戻し、立て歩き、そして羽ばたきました。そして、更に羽を羽ばたかせて木の上に飛び乗りました。

「やちゃ坊さん、ケンムンさんありがとうございます。このご恩は一生忘れません。いつか恩返しさせていただきます」

「そんなことより元気になって良かった」

「そうだ良かった。よかった」

皆で、喜びました。

朝があけて、3人は別れました。この出来事以降、ルリカケスはやちゃ坊とケンムンに森の情報を教えるようになりました。


③再び、やちゃ坊と役人

島の北側の笠利や龍郷には、やちゃ坊が住んでいたといわれるところが数ヶ所あります。古仁屋の近くにも「やちゃ坊ごもり」というところがあります。

やちゃ坊は、住用村の山中で役人に殺されたとも、瀬戸内町の阿鉄川の上流の洞穴で死んだともいわれていますが、暫くすると復活する不思議な存在ですが、それにケンムンが深く関わっています。


やちゃ坊が行われという情報をルリカケスが掴み、それをケンムンに伝えて役人が来る前に逃がします。そして、ケンムンが役人を森の中で迷子にして疲れさせ、深夜に洞窟に着くようしました。そして喉が渇いています。ので、そこに置いてある酒を飲ませ、寝込んだ役人を裸にして、服や金品を持ち去り貧しい人に分け与えました。

ですから役人のやちゃ坊りは島の貧しい人達にとっては良い事でした。


やちゃ坊に逃げられた役人は上司に本当のことは、言えずに、やちゃ坊を海に追い詰め退治しましたと嘘の報告をして取り繕いました。この言い訳で、裸になりました理由とやちゃ坊を退治したことが納得してもらえました。

 このように相当な悪さもしたようですが役人への鬱憤と不満を解消させるアンチ・ヒーロと言える存在でした。


 島人はやちゃ坊への感謝の気持ちを込めて、やちゃ坊節の唄を作って、人々の間で伝承させました。この唄は正月や目出度い時に歌われ、両親の「やんちゃな子」に育って欲しいとの思いが有るかも知れません。


【や ち ゃ 坊 節】

やちゃ坊ちばやちゃ坊 むぞな生れやちゃ坊 やちゃ坊きもちゃげさ 山ぬ育ち

 (やちゃ坊といえばやちゃ坊、可哀想な生れのやちゃ坊。やちゃ坊可哀想。山の育ちだ。)


    【新民謡 やちゃ坊哀歌】

(1) ヤチャボー あわれさ 穴ぐらし 樫(カン)のふんどし 山かずら  

    足の早さは 風のこと 山ん神さえ 目をまわす

    わきゃヤチャボー あゝ 島の山(あと繰り返し)

(2) ヤチャボー 女にゃ縁がない 今日は北へと 明日は西 山の尾根又 シシを追い 

    森の生物(イキモノ) つかみ取り    

(3) ヤチャボー 山ん坊 山育ち 淋しかないか 山ぐらし 

きんむん(けんむん) 山ん神いてござる  山鳥泣く声 木霊(こだま)する

    足の早さは 風のこと 山ん神さえ 目をまわす    

(4) ヤチャボー お山の 御大将 ヤチャボー心は 島ごころ 

    おいらの胸の その奥にや 今もさやかに 生きています。

        

ケンムンが言うには、このやちゃ坊の唄を唄う時には、「やちゃ坊」の「や」と「ちゃ」の間に、軽く「ん」を入れて「やんちゃ坊」と歌うクセのある人がいるとの事です。

更にケンムンによれば、島人の中には、一般名詞の「やんちゃ坊主」が固有名詞「やちゃ坊」に変化したと考える人もいると言います。

  

8.喜界島での出来事

 12年振りに島に帰って来た那美は奄美の島起こしに係わりたいと思っています。そんな思いもあって那美は世界遺産登録によって増える観光客のための観光資源として喜界島の平家落人伝説を加えることが出来ないかを調査することにしました。


①オオゴマダラの誘惑

 那美は歴史クラブの仲間と一緒に奄美大島から喜界島に飛行機で向かいました。飛行時間は20分でした。那美は平家の落人が“お宝”を持って喜界島へ逃げて来ましたといわれていて、その“お宝”に興味を持っていました。

 その“お宝”と俊寛というお坊さんとは深い関係があるといわれており、まず俊寛のことを調べることにしました。俊寛は平家物語という歴史資料では、“鬼界ガ島”に流刑になったと言われています。喜界島がこれにあたると言う説があります。

喜界島における俊寛ゆかりの遺跡としては「俊寛の墓」があり、この墓の発掘調査では平安末期の人骨が出ています。


喜界島空港に着いて、ホテルに入ることなく調査を行う予定でした。なお、調査メンバーは那美、那美が奄美図書館で実施している小学生歴史クラブ員である泉かおりと青山龍一、そして那美の叔父で医者であり郷土史家である大島誠の4名です。この4人で島の探索を行う予定です。なお、泉かおりは先日、那美にアマミノクロウサギの飼育方法を提案してくれた人です。これが縁で親しくなり那美が歴史クラブに誘いました。二人は感性が良く似ていました。


 空港出口に全員が集合し、ここで那美が今回の調査の目的を話しました。

「地元の人の話しではこの島には「俊寛の足摺(あしずり:足踏みをする)石」もあったといいます。

喜界島が平安末期に大陸との貿易の経由地、あるいは拠点として利用されていたとすれば平家との関わりも考えられます。15世紀の史料には「鬼界島」と書かれたものもあります。

これを踏まえて、平家落人伝説を掘り起こして観光スポットにしたいと思いますから、奄美で育った皆さんの若者の視点で調査してください。くれぐれも安全に注意して調査をお願い致します。先生、他に何か」

指名されて大島先生が前に出た。

「那美先生の話に付け加えて、この島は古代には大宰府と密接につながっていたことが、文献にも記録されています。『日本紀略(にほんきりゃく)長徳4年(998年)』の記述として、大宰府(だざいふ:九州にある政府の役所)が喜界島に対して、暴れ回っています。南蛮人を捕えるように命じています。

ここで記述されています。「南蛮人(なんばんじん)」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと考えられ、喜界島には、当時の政府機関や勢力が存在していたと考えられています。

そして、幕末ペリーが日本に到来した際に喜界島を「バンガロー・アイランド」と名付けていたことも判明しています。このように歴史の宝庫です。平家伝説に関わらず幅広く調査をお願いします。狭い島ですが単独行動は慎み事故の無い様に楽しく調査しましょう」

挨拶後に参加者が自己紹介して早速、調査に向かいました。

那美は密かに、平家が隠したという”お宝”を見つけることを考えていましたが、この場でも心の奥に仕舞い込んでメンバーには言いませんでした。


なお、喜界島(きかいじま、きかいがしま)は奄美群島の北東部に位置する島で、奄美市から69キロメートルの洋上にあります。喜界島は南南西から北東に長く14キロメートル、南北の最長7.8キロメートル、周囲48.6キロメートルの小さな島です。

集落は海岸線に沿って展開し各集落の背部は農耕地となり、東南から南北に走る百之台丘陵に連なっています。概して平坦な島で河川という河川はなく、島の大半は隆起サンゴ礁になっています。

 特筆すべきは喜界島には「南の島の貴婦人」と言われるオオゴマダラの生息地で、喜界島が北限とされています。那美は昔から関心を持っています。蝶についても調査したいと密かに思っていました。また、長距離を移動することで知られる「渡り蝶」のアサギマダラも、喜界島で数多く見ることが出来るので、蝶の島としても有名です。


 暫く歩くと大島先生が、

「この先、食堂もないしこの集落で食事でもしていきましょうか」

那実に提案した。那美は、この島は初めてだったので従う事にしました。

 集落の中央辺りにある朝日食堂に入りました。

「この島の伝統的な肉料理ではヤギが重要な位置を占めています。海岸周辺で放牧されており、臭みが少ないのが特徴です。塩味の山羊汁、野菜とヤギモツと血を炒めた「カラジュウリ(唐料理)」、イッチャーシー(すき焼き風炒め物)、刺身などの料理があります。好きな料理を注文下さい」

島を知る大島先生が説明しました。

メニュを見た那美は、沖縄・奄美料理と共通するものも多く、揚げ菓子、油そうめん、油うどん、型菓子(落雁)、ゲットウの葉で包んだ黒いよもぎ餅などがあった。那美を除きメンバーは判で押しましたように油そうめんを注文した。食べながら町を見ると台風の被害を避けるためか、珊瑚礁の石を使った石垣が民家の周りに作られていました。

また、奄美大島と違ってガジュマルに代わってアカテツの木も暴風垣として集落に植えてありました。


 那美の感想としては、奄美大島とちょっと風土や環境が異なるように思えました。那美が食べたヤギ料理には、始めて見るものが多くありました。但し、食堂の主人に聞くと日常食べている普通の食事は奄美大島、いや日本全国と概ね変わらない料理とのことでした。



腹ごしらえが終わってまず、百之台国定公園展望台に向かいました。ここからの眺望は 奄美十景の1つで、展望台から島の南東側海岸を一望できます。近くに七島鼻があり、ここは朝日と夕日の名所であります。標高212mの島内最高地点があり、旧日本軍の通信施設跡もあります。

 次に、平家上陸の地に向かいました。

喜界島北部の志戸桶ビーチには、壇ノ浦で滅亡した平家の残党が流れ着いたという伝承があり、石碑が建っています。


偶然流れ着いたと云うよりは、当時の日本人にとって「喜界」、即ち最果てであったと思われます。喜界島は今でいう流刑地みたいな感覚だったのでしょう。日宋貿易で財を成した平家は、もしかすると喜界島に商業的な拠点もしくは縁があったのかもしれないと発想は広がります。

なお、喜界は方言では「ききや」と発言しますが、この意味は、「き」は土台、「や」は珊瑚(さんご)の岩という意味から、原訳は「珊瑚の岩が土台、土台」ということから「珊瑚の岩が段々」になりました島という事になります。


那美達は島をざっと見て概要を理解し、午後5時を過ぎたので“平家の森”近くのホテルに入りました。


②そして平家の森へ

 歴史クラブ員の泉かおりは、平家伝説の真相を早く知りたいと、何故か気持ちが焦っていました。たまらずにホテルの近所にある平家の森と言われる場所に向かいました。少し足を踏み込むと、それまで出ていた太陽が消えて、一点、俄(にわか:直ぐに)に掻き曇り、周りが真っ黒になりました。

 仕方なく、大きな木の下で雨宿りをしています。と、何処からか・・・。

「泉よ、お前が早くお宝を見つけないと、那美さんに災いが及ぶぞ・・・早くせよ・・」

と男とも女とも判断出来ない篭(こも)った声が聞えて来ましたように思いました。

「那美さんそしてお宝ってなんですか」

泉が聞いたが答えは有りませんでした。

 なぜ、お宝、那美さんかが分からなかったが、このことは誰にも言わないようにしようと思いました。予想外の出来事と怖さもあって宿に帰ると平家の森での出来事は、意識して忘れて振る舞いました。


翌日、全員で俊寛の墓に向かいました。俊寛の墓は喜界空港の南、喜界町体育館のとなり、ヤシの木陰にあり座像もありました。地元の人が言うには俊寛の墓には、いつも花が供えられているそうで、島の人たちの温かい思いが伝わって来ます。叔父も花を供えて、皆にも祈るように言いました。

泉は、昨日のこともあるので、

【那美さんの無事をお願い致します】

他の3人は、

【調査の成功と全員の無事】

を同じように願いました。


俊寛座像に書かれている説明文には、俊寛が喜界島に来た原因などが簡潔に書かれていました。内容はこれまでの調査と同じでした。

この碑文を読んでいる時に叔父の大島に携帯が入りました。

何か難しい話しが有るのか段々と表情が厳しくなりました。

「君達、ちょっと失礼。急な仕事が入って来ましたので席を外します。私が帰って来るまでここで待っていて下さい」

言い残して叔父が慌しくその場を離れて、10分経過しても帰って来ませんでした。

「叔父さんは何しているんだろ。本当に・・・もう遅いな・・貴重な時間を無駄にするのか」

青山が那美をなじりました。


③那美が道に迷い怪獣に救われる

 20分待っても帰ってこなかったので、3人は大島が帰って来るまで待てなくて森に入って、探検することにしました。

最初に泉が、

「そんなに深い森じゃないし、道も舗装されているから先に進みませんか」

と言って、この言葉が他の2人の背中を押しました。那美は叔父との約束を破りたくなかったが、叔父が帰ってこないことで、小さな二人に顔向けできないと思い進むことにしました。

暫く進むと犬が盛んに吼えて(ほえて:鳴くこと)いました。近付いて行くと、大きな木の上を見て鳴いています。

よく見ると木の上に大きな猿が居るみたいだった。

 那美が寄っていって、犬をおとなしくさせました。

「ワンちゃん。泣いたら駄目、静かにしなさい。分かったよね。お落ち着いて下さい」

優しく犬をなだめて大人しくなりました。

更に那美が、犬の頭を撫でると納得したのかホテルの方に向かって歩いて行きました。

「ここにも猿が居るんだ」

泉さんが那美と青山に言って森に静寂が戻りました。


更に3人で探検を進めました。さっきの騒動が大島、即ち叔父の存在を完全に忘れさせました。

暫く進むと、運悪く道が3本に分かれていました。

地図によると400メートル先で合流するみたいでした。

「このまま3人で探しても、時間の無駄だ。ここに地図があるから、ここにある3つの道を夫々登って、頂上で会うことにしよう」

泉がこんな提案をして決まりました。


那美は少し不安でしたが、天気も良く標高200メートル足らずで道も踏み固められて足場が良いことから了解しました。登りなので徒歩で15分ちょっとの工程でした。

 分かれて歩き出すと急に天気が悪くなり、激しいスコールのような雨が降ってきました。那美は雨具を持っていなかったので、道を外れて大きな草の下に入って雨を防ぎました。暫くすると、小雨になったので元の道に戻ろうとした時に白い大きな蝶が現れました。

 那美は魅入られるように蝶の後を追って、森の中に入ってしまい、そして道を失ってしまいました。那美は蝶の一種であるオオゴマダラ(大胡麻斑)に誘われて迷子になって、森の中へ迷い込んだのでした。


 この蝶は、白黒のまだら模様が特徴的な大型のマダラチョウで、羽には白地に黒い放射状の筋と斑点があります。ゆっくりと羽ばたきフワフワと滑空するような飛び方をします。その飛び方と羽の模様が、新聞紙が風に舞っているように見えることから、『新聞蝶』と呼ばれることもあります。

東南アジアに広く分布し、日本では喜界島、与論島以南の南西諸島に分布します。

この蝶はフェロモンを分泌し、これが人を引き寄せる道を迷わせるとの噂があります。


この様な経緯で那美は蝶、即ちオオゴマダラに誘われて、森の中で道に迷い歩き回りました。やっとの思いで平家の森の一角にある旧日本軍が作った洞窟に辿りつきました。安心したのかこの洞窟で、疲労と恐怖から気を失って倒れてしまいました。暫くして後を追うように猿が現れ、那美の額に湧き水を持って来て掛けました。

すると那美が目を覚ましました。

「私どうしたのかしら。どんなことが有ったのかしら」

周りを見渡して言いました。完全に意識が戻っていないようでした。

「あなたは誰・・・・・れ。誰ですか?」

か細い声で猿に訪ねました。

「さっきはありがとうございます。助かりました。私は蛸と犬が大の苦手で、旨く逃げることが出来ませんでした」

意識もうろうの中で言われて、那美もやっと、さっきの猿と様子が似ています。ことに気付いて、

「ああ、さっきの・・・猿さんですよね」

申し訳なさそそうに返事しました。

「僕は猿ではなくて、森の妖精、みんなは“ケンムン”て言ってる」

那美はケンムンと聞いてこれまでのイメージと違って驚き身体に電気が走りました。

「そうですかケンムンさんですか。私はケンムンさんとは親しくしていて、奄美大島のケンムンはカッパさんの様だったですけど」

親しみを込めて返すと、二人で話し始めました。

「そうだね、ケンムンは島とか人によって見え方が違うんだ。僕は喜界島のケンムンです」

喜界島のケンムンも大人や犬、それに海にいます。タコや貝類が嫌いで、とっ組み合いが好き、と言って奄美大島と同じでした。

「それだけ聞けば、大島のケンムンさんと余り変わらないんだけど」

不思議そうに言いました。そして、那美はこの島に来ました理由を簡単に話しました。

話を聞いてから、

「助けてくれたお礼に良いこと教えてあげるけど」

「なにそれは・・・」

答えに躊躇したのかケンムンは少し時間を取りました。

「だから、この島にはお宝は無いと聞いた。この島に来る前にどこかに置いてきた。と長老から聞いたことがある」

那美が驚くようなことを言って、窪地に溜まった水をもう一度、手に取って、那美の頭と額に落として、洞窟の外に出て行きました。

 これと前後して遠くで那美を探す声が微かに聞こえました。

「那美さんどこにいますか」

「那美さんどこにいるんですか。早く出て来て下さい」

「どこにいるんだ那美。返事してくれ」

こんな声が微かに聞こえました。


 那美が居なくなったことを知って、大騒ぎになり、島の駐在さんを先頭に懐中電灯を手に山に捜索に入りました。

 泉は、森で聞いた言葉が気になり、自責の念に捕らわれていました。「私が秘密にしたからこんなことになってしまった」と心の中で呟きました。

それにもまして、

「皆、本当にすまない。私の不注意だ・・・。許してくれ。すまん」

叔父さんはこの言葉を何回も繰返していました。

「皆、本当にすまない。私の不注意だ・・・。許してくれ」

探し出して30分が経過して、夜の5時を過ぎて不安が最高点に達し、あと10分探して見つからない時には、全島上げての捜索と奄美市の大島支庁への連絡が必要と駐在さんが思いました時、山の上の方からふらふらと歩いてくる人影があり、良く見ると那美でした。

 4人は那美が元気なことを知って手を取り合って泣きました。

「那美すまなかった。私が、電話に動転して、この場所を離れたのが悪かったんだ。本当にすまないことをした」

まず叔父が言いました。

叔父は孫が、交通事故に遭ったと聞いて、冷静さを失ったことを皆に説明しました。

那美は幸い軽い怪我で、消毒程度ですんだとのことだった。

 その話しが落ち着くと、

「那美、すまん私が分かれて行こう・・・・・と言いましたから」

「いいえ私が悪いの綺麗なチョウチョに誘われて森に入りましたから」

「俺も、もうちょっと考えたら別れなかった。つい泉に対抗して・・・」

夫々、反省の言葉を口にしました。

「よかった、良かった無事でよかった。きっちり守ってやれなかったのは全て僕の責任だから許してくれ。お前たち3人に責任は全く無い。全て私の責任だ」

 毅然と言って、叔父が会話を切って集落に向かいました。

疲れていたが、那美が無事だったこともあり充実感が有りました。

駐在所についてから、今度は駐在さんから30分余り、こんこんと説教されて漸く(ようやく)解放されました。

叔父が盛んに駐在さんに謝っていました。

「一番年長者ですから慎重な行動をお願いしますよ」

言われている間中ずっと頭を下げていました。

「迷惑お掛けました」

最後に4人が一斉に言って頭を下げました。ここでやっと全員から笑顔がもれました。


「駐在さんこの島に猿は居ます」

帰り際に、那美が恐縮しながら聞くと、駐在さんは、

「どうかしました。何かありましたか」

不思議そうに聞き返すので、

「あの、実は私、猿に助けられたんです」

即座に返事しました。

「そうお嬢さん、それは多分“ケンムン”だな。逢ったのかケンムンに」

自然に言って、特に驚く事も無くその場を離れたので、それ以上聞けませんでした。

 那美は想定外の対応にあっけに取らこの島の人もケンムンに馴染んでいるんだと思いました。


 宿に帰って、風呂に入って食事中に那美が、警察官にも言っていない洞窟での出来事を詳しく喋りました。

「ほう猿いや“ケンムン”が出て来て、ここに宝は無いと・・・・前の島に有ると言いましたのか・・・」

叔父は不思議そうに言って考え込んでしまいました。

「前の島ってどこだろう」

「知らない。ケンムンも言っていなかった」

「そうか・・・・」

「それは面白いな」

更に話しが進んだ所で、何故かAKBの話しに話題が移った。話しが盛り上ったところで、食事が終わりました。

 この話に続いて、父親が奄美大島の嘉徳出身の歌手、山田亜里沙の奄美公演のことが話題になりました。1週間後に奄美市の郷土会館で行われるといいます。奄美出身の歌手という事で島は盛り上がっていました。勿論、那美も行く予定でした。

「今度の山田亜里沙の公演楽しみだね」

那美が話題を提供した。

「高校の時に島唄選手権で全国優勝したからね。“奄美有情”は良い歌だからね」

この話に泉が乗って来ました。更に島唄を習っている青山も言いました。

「100年に一人の逸材って親父が言っていた。俺もそう思うチバ―」

更にこの方面にあまり関心が無いと思われた叔父が絡んできました。

「ワンも期待してるチバー、亜里沙の親父とは幼馴染だから。紅白には是非とも出て欲しいと思っとる」

熱く語りました。

 この話では最近あまり聞かれなくなった方言を交えて盛り上りました。


 この話が一段落すると、ここで叔父の大島が、

「ちょっと考えたいことが有るので先に部屋に帰る。君達も9時には寝るように、明日は朝10時に出発するゾ」

皆に告げて、自分の部屋に戻りました。何か気になることでも有るようでした。

 

 残された、3人はこれからのことを話し合いました。

「ここまで来たんだ。もうちょっと捜してみたい・・・」

「私もそう思う。このまま諦めるのはいやだ・・・。絶対嫌だ・・まだなにも見つけていない」

「何か見つけないもっと探したい。自分の失敗も取り返さないと・・それが必要だ」

夫々の決意を述べ、奄美大島での宝探しの継続を誓いました。一人になって那美は子供達をその気にさせたことを少し後悔していました。

 泉は、森で聞いた、

「早くしないと那美に災いが起こるぞ・・・」

この言葉を現実の問題として考えるようになり、それが自分でも想定外の次の行動へと押し進めました。まだ、皆に話す気持ちにはならなかった。


④悲劇の美女

 翌日、全員で小さな公園に行きました。そこで郷土史家である叔父が奄美の美女の悲恋を語りました。

それは、ムチャ加那物語でした。

「薩摩藩時代、瀬戸内町生間(いけんま)にウラトミという村一番の美人がいました。薩摩から来ました島役人は、ウラトミを妻にしようとしたが彼女は拒み続けていました。

怒った役人は生間集落に年貢を重くするなど、さまざまなしめつけをしてきたので、たまりかねたウラトミの両親は彼女を小舟に乗せて生間から流しました。漂流の末、たどりついたところが喜界島の小野津付近でした。

ウラトミはその地で結婚し、ムチャ加那を生みましだがムチャ加那も親に勝る美人だったといいます」

「今も昔も美人は大変だな」

青山が茶々を入れました。

「綺麗で人気があることを嫉んだ(ねたんだ:うらやましく思う)娘達に苛められて、海苔採りの最中に海に突き落とされて溺れ死んでしまたんですよね」

歴史好きの泉が続けました。

「そうなんです。あまりにも美しく生まれたばかりに悲しい 死をとげた『ウラトミ、ムチャ加那親子』の物語は民謡でも謡われ奄美民謡(島唄)の代表のひとつとなっています」

叔父がまとめようとした時、

「先人たちが厳しい生活の中で謡い継いできた島歌は貴重な地域文化であり、後世に伝えていかなければならないんです」

父親から島唄を習っている青山が言いました。

 

小野津集落を一望する高台にあるムチャ加那公園には、島唄『ムチャ加那節』にも歌われているウラトミ、ムチャ加那を偲んで、ムチャ加那の碑が建立されています。。

大島は、近くのお土産屋さんから借りたサンシン(奄美の三味線)を手に、哀調たっぷりに歌い出しました。それは、青山によれば、喜界島に残る「ムチャ加那」にちなんだ『むちゃ加那節(うらとみ節)』と言いました。

      

ハレイー喜界(ききゃ)やィ小野津(うのでぃ)ぬョ

       ヤーレー十柱(とぅばや)

       (囃子)スラヨイヨイ

     十柱(とぅばや)むちゃ加那ヨイ

       (囃子)スラヨイヨイ

     ハーレー十柱(とぅばや)~むちゃ加那ヨイ

       (囃子)ハーレー十柱

           むちゃ加那ヨイ

    【要約:喜界は小野津十柱のムチャ加那】   

ハレイー青海苔(あおさぬり)はぎが

       ヤーレー行(い)もろ

       (囃子)スラヨイヨイ

     行もろやむちゃ加那ヨイ

       (囃子)スラヨイヨイ

     ハーレー行もろや

          むちゃ加那ヨイ

    【要約:海苔を採りに行こうよ】


現地の方言で歌われたので、那美には殆ど理解出来ませんでしたが、裏声で歌う唄から感じられる哀調は心に伝わりました。4人はグラディエーションが醸しだす、海の青さと空の青さと柔らかい日差しに癒されて、元気を取り戻しました。

 2時間後に、色んな出来事があった喜界島を離れて飛行機に乗って、奄美大島に向かいました。


④奄美の平家伝説

 大島に帰った1週間後、喜界島での調査の続きとして叔父の案内で奄美大島観光も兼ねて平家の伝説地を巡りました。

叔父は、

「これから奄美にある平家伝説の地を回ります。この前の様な事故を起こさないように私も注意しますが皆様も宜しくお願い致します」

皆なに注意しました。

最初に行った奄美市浦上には、有盛を祀った平有盛神社がありました。有盛が築いた浦上城跡とも言われています。

次は、加計呂麻島の瀬戸内町諸鈍(ちょどん)、資盛を祀(ま)った大屯(おおちょん)神社に行きました。資盛がもたらしたと言われ、重要無形民俗文化財に指定されている「諸鈍シバヤ」などの風習も残っています。

そして最後は、奄美大島に戻って龍郷町戸口、行盛が築いた戸口城跡に行きました。ここには行盛を祀った平行盛神社もありますが、城跡とは離れています。

また、龍郷町今井崎には、行盛により今井右近太夫が源氏警戒のため配置された、今井権現が建っています。。

 叔父は、

「ここ蒲生崎には、有盛により蒲生佐衛門が源氏警戒のため配置された。蒲生佐衛門にはカーサ姫との伝説も有ります」

と説明してくれた。

那美は、カーサ姫と聞いて心が騒ぎましだ。カーサ姫の事をもっと聞きたいと思いましたが、聞く勇気が有りませんでした。


 叔父は、蒲生崎で海を見ながら、大島が奄美大島の平家伝説について自分が思っていることを語りました。

「平行盛の主君は安徳天皇で、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男である平基盛の長男。父基盛が早世した後、その菩提を弔いながら過ごしていたが、これを憐れんだ伯父の重盛によって養育され、平家一門の栄達にともない正五位下に昇叙し播磨守、左馬頭になりました。

藤原定家に師事し歌人としても名を上げた。都落ちの際に自身の惜別歌を定家に託し、包み紙に書かれた和歌は後に新勅撰和歌集に入っています」

驚いたことに、ここから歴史に詳しい青山が話を続けました。

「源氏との戦いに置いては、三草山の戦い、藤戸の戦い、屋島の戦いなどに参加。特に藤戸の戦いにおいては、大将軍として佐々木盛綱率います。源氏方と対戦した。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いにおいて最終的に敗北を喫し、従兄弟の資盛、有盛とともに入水自殺、または討死しました」

これに負けじと泉が、

「と言われていますが、奄美群島に伝わる平家落人伝説では、壇ノ浦の戦いから落ち延びて従兄弟の平資盛、平有盛や彼等の配下と共に島民に文化を教え、島を統治したと言われています。

 ところで、平行盛は官位では右近衛権中将、蔵人頭、従三位 の資盛。有盛は四位下、右近衛権少将より低いが、武勇に優れ奄美では指導者だった。と言われています」

二人の説明に叔父は驚き、那美は、

「二人とも一端の郷土史家だね。語り部になってもらおうか。観光客相手の」

「良いですよ。僕それやりたいな」

「私も是非ともやりたいな」

この言葉を受けて那美が、

「分かった考えとく。奄美観光の目玉になるかもしれない」

「那美は面白いこと考えるな。それも良いかもしれない」

叔父が半ばあきれながらも褒めました。


「なお、奄美には、かって平家に破れた源為朝が来島し、更に沖縄に渡って、息子の舜天(尚王)が国王に成ったという言い伝えもある。約30年後に、偶然にも敵である平家の武将が同じ島に来ました事になる。

平家の武将と家来総勢約300名が、平行盛を総大将とし、従弟の資盛、有盛が北九州の壇ノ浦を脱出し、九州東海岸沿いに南下。まず、鹿児島県の屋久島に近い、俊寛いわれの硫黄島に上陸した」

と言うのも何かの因縁だと叔父が、感慨深く語りましたが歴史の機縁とは言え、那美には不思議でした。那美は、この不思議さが観光資源になることを確信しまし売り出し方を考えました


そんな思いもあり那美が発言しました。

「叔父さん。平家はここに来る前に硫黄島に上陸したんですよね」

「そうだね。そう伝えられていますが」

「何か書いたものが有るんですか」

「それは無いね。だから伝説とか伝承と言うんです」

那美に聞かれても、それ以上は言えられなかった。

大島は、昨日、那美が言った「前の島に置いてきた」という言葉が気になって調べたが、これを記録した書類や文献を見つけることは出来ませんでした。


叔父が説明を続けました。

「そして、鎌倉幕府の追求から逃れるために硫黄島から更に南に向かい、先日行きました奄美群島の喜界島に上陸し、七門(ななじょう)。すなわち今の平家の森、当たりに城を構えた。

 更に進めて、西方に浮かぶ奄美大島本島も攻略した。

即ち、有盛は北東側の浦上から、行盛は南部の戸口から、資盛は南西部即ち、瀬戸内の加計呂麻島の諸鈍から攻め入り、島全体を手中に収めた。

彼らは島を攻略後、城を築き、遠見番所を設け、鎌倉幕府(源氏)の見張りを怠らなかった」

「その名残が、今井岬と蒲生岬の神社ですか」

「そうです。当時の源氏による平家の落武者狩りは凄かったことが想像できる」

「というのは三種の神器の一つである宝剣の奪還が目的だったんですよね」

泉が重ねると、

「泉君は良く勉強しているんだ」

そして叔父は、説明を続けた。

「行盛達は硫黄島に残してきた安徳天皇に毎年、米穀の奉納を忘れなかったという。

安徳天皇陵は山口県の赤間神宮近くや他府県の数カ所にもあると言われています。が、私は硫黄島説を支持したいと思います」

「硫黄島に安徳天皇が残ったんですか」

ここで那美が聞いた。

「伝承ではそうだね・・・・」

叔父が答えました。


 更に、次のような説明を行いました。奄美に伝わる島唄の中には、平家因縁の事柄が歌いこまれているものが多くあります。

例えば、平資盛を祀ってある加計呂麻島の諸鈍の伝統舞踊である「諸鈍しばや」の一節。

 「ここはどこかと船頭衆に問えば、須磨の泊り青山盛様よ」

名瀬市の浦上に伝わる島唄には、

 「浦上なべかなや上殿内(うんとぅぬち)ぐらし平家ぬ手びきまうさてぃば」

  なべかな=平有盛の妻で高貴なお屋敷暮らしをしています。ので、平家の教えの手びきになってくれる、という意味である。


叔父の大島は更に面白いことを言いました。

「有盛と行盛は、家臣たちが今井岬と蒲生岬で見張りをおろそかにしたため、島に敵軍が攻め入ったのではないかというデマが飛び交ったため、自ら責任を感じ、自決したという。一方、資盛は、瀬戸内加計呂麻島の諸鈍で余生を送り、子孫も栄えたという」

「そうなんですか。」

泉が相槌を打った。

「と言うことは、平家の武将たちによる奄美群島の統治は短期間に終わったんですね」

「終りました。私は平家内部の分裂、下克上(げこくじょう:身分が下の者が上の者を滅ぼすこと)的なことも有ったんではと思っています」

「僕も「島に敵軍が攻め入って・・・デマが飛び交い・・」を聞いてそう思いました。平家幹部とそれに仕えていた地元民では対応に差異があったのではと思います。龍郷の伝承のように今井右近太夫など生き残った地元民は多数いたと思いますよ」

「そうなんです。泉さん。彼らの残した伝統文化、農耕法、人生観などは、子孫たちに引き継がれた。もし、平家一門による統治が長期にわたっていたら、琉球や薩摩に支配されることがなく、歴史は変わっていたかも知れないな」

叔父が感慨深そうに言いました。


 この時、那美はもし叔父の話しが本当なら、島を統治した平家の武将たちは、源氏軍が北側から攻めて来るのではないかと危惧していたが、まさか南隣の琉球王が、清和源氏の血を引く源氏一族であるとは思いもつかなかった。那美は、歴史の偶然性に驚くばかりだと思いましたが、今日は自分の意見を言うのは控えました。


⑤ケンムンのお告げ

 翌日、叔父の話しに刺激を受けて那美は、自分達だけで、奄美で平家のことを調査してみたくなりました。

2週間程度、手が離せない大事な仕事があるという叔父から、

「喜界島のこともあるし決して、危ないことをしない事。いつも3人一緒で行動するんだよ。そして、携帯電話を渡すから何かあればこれで連絡するように。那美頼むぞ」

 決意を込めて言って那美に渡し、基本的な操作方法を教えました。

次に青山が、大方の計画を大島に伝えました。


なお宝探しは地元のことを知る青山と泉の提案で、島の中央部にある龍郷町戸口の行盛が築いた戸口城跡から始めました。次に行盛を祀った平行盛神社。更に、龍郷町今井崎、ここには今井権現が建っていますが、自分たちの目で探索することにしました。

 陽射しは強かったが、額の汗を風が冷やしてくれて心地良かった。自然と笑顔になり快活になりました。

今井崎にある今井権現まで来んだ時、それまで大人しくしていた泉が口を開きました。

「これまで見て来ましたけど、みんな海の近くにあるのに海から見えないように巧に細工されています。海に生きた平家が海を見ないで、祀られるのは寂しかったんじゃないでしょうか」

「私もそう思う。きっと源氏の探索を恐れたんだ。神器を探しに船で来る・・・・」

「俺もそう思う」

このような語らいをしながら、神社の前で弁当を食べました。


 この時、青山の弁当箱が突然の風で飛ばされたので追いかけました。その時、猿のような動物が現れて青山の前に立ちました。それと同時に長さ1メートル程度の紐というか棒が青山に向かって横から飛んできました。

猿は、それを手で払いました。

青山が、

「あれは猛毒のハブという大島の蛇だ」

「俺も聞いたことがある。噛まれたら死ぬこともあると聞いた」

皆が口々に言いました。

 ここで那美が、

「あの動物、いや“ケンムン”が青山君を守ってくれた。私が喜界島で逢ったのと同じケンムンさんです」

那美が興奮気味に言いました。

「そうか、那美さんに続いて青山も助けてくれたんだ」

「ケンムンさん。助けてくれてありがとうございます」

感謝を込めて青山がお礼を言うとケンムンは照れたように手で顔を覆いました。

 

 ここで3人が声を揃えて、

「ケンムンさん。ありがとう」

大きな声で言うと、照れたのか後ろ向きに飛び跳ねて回転しました。暫く、ガジュマルの木に登ったり、カクレンボをしたり相撲をして遊びました。

ケンムンは小さかったが相撲に強くて勝った印に那美が、飴をケンムンに渡しました。笑顔が自然に零れ落ちました。

 そして、ケンムンが先頭に立ち、3人を岬の神社内に誘いました。

そこで、ケンムンは3人に、

「僕を怖がらずに一緒に遊んでくれたお礼に、君達に教えてあげる。

この島にも、お宝は無いって長老から聞いた。

もうこの島に来た時は無かったって。それまで王様がいた島に椿に守られるようにして置いてきたそうだよ・・・それ・・・」

 更に言葉を続けようとした時に、

「おおい青山君、大丈夫か・・・・。泉さん、那美も大丈夫か・・・」

大島の声が神社の下から聞こえたので、ケンムンは未練を残しながら森の中に消えました。

3人は感謝の気持ちを込めて静かに見守りました。

3人ともケンムンは大人に見られてはいけないものだと感じていたので、このような対応を取りました。


 ぼんやりと森を見つめる3人を見てお叔父さんは、

「やっぱり、来て良かった。お前達、ケンムンに逢ったんだな・・・」

確信するように言いました。

 3人は、同時に

「ケンムンて何・・それは誰ですか」

惚(とぼ)けて言いました。

「お前たち、ふざけています。な」

「お叔父さん、お願いです。ケンムンのこともっと教えて下さい。お願いします」

那美が叔父にお願いした。

それを受けて叔父さんが説明した。

説明を聞いて、

「それって怖いもの」

青山がわざとらしく言うと、大島さんは笑いながら、

「それは人、其々だろうね。人によるよ・・・」

含み笑いをしました。

 大島の説明によると、

「姿は5~6歳の小さな子供のようで、顔つきは犬、猫、猿に似ています。目は赤く鋭い目つきで、臭くて体から燐をだすため青く光っています。。髪は黒または赤のおかっぱ頭で、頭には河童のように皿があり、その皿には油または水が入っています」

 ここまで言った時に、

「僕たちが逢ったケンムンとは全然ちがうな・・・」

「そうよ」

「そうだね」

口ぐちに言ったのを受けて、

「やっぱり君達、ケンムンに逢ったんだな」

「知らないな。僕たちは・・・そうだよね」

皆で顔を見合わせて笑いました。

那美は何でケンムンは見る人によって印象が違うのか不思議に思いました。見る人の心の問題だろうか?と漠然と思いましたが結論は出ませんでした。


那美のこんな思いを知ることもなく叔父が話を続けました。

「肌は赤みがかった色で、全身に猿のような体毛がある。左右の腕が体内で繋がっており、片方の腕を引っ張ると、そのままもう1本の腕ごと抜けてしまうというか、これは河童と同じであり、河童の伝承が影響したものといわれる。

体と不釣合いに脚が細長く、膝を立てて座ると頭より膝の方が高くなるほど。体臭は山芋の匂いに似ています」

郷土史家らしく学術的に説明しました。

「たしかに猿には良く似ていたけど・・・」

昔の記憶を語りました。

「それ以外は違う。可愛いくて匂いもなかった」

「超、愛嬌あった」

口々に言いました。


「ガジュマルの木に住んでいるので、木の精霊とも言われます。この木を切ると、復讐として目に汁が入って腫れ上がってしまうこともあります。それで相撲が大好き」

と言った時に、

「それで相撲が強かったんだ。話に聞いていた通りだ」

周りを見渡して同意を得ながら言いました。

「那美も相撲を取ったのか」

那美の顔を見て聞くので頷くと、少し顔が曇りました。

「何故か海にいます。蛸が苦手で河童同様に皿の油が抜けると力を失う」

叔父が言ったので、この様に伝聞で話す人が多いので、段々とイメージが異なってくる、という様に那美は理解しました。


ケンムンは本来、優しい性格で、人に危害を与えることはしません。薪を運んでいる人間をケンムンが手伝った話や、蛸にいじめられているケンムンを助けた漁師が、そのお礼に豊漁になる宝物をもらったという話もあります。

「叔父さん。イメージはもう何でもありて感じですね」

大島はこの言葉を笑いながら聞いていた。

「そうかそれで、ケンムンが那美さんに宝の話をしたんだ」

この言葉に叔父の大島が鋭く反応した。

「宝って・・」

不思議そうに言うので、那美が、

「叔父さんの家にある黒糖焼酎のこと。叔父さんの宝でしょう。それを飲ませてくれって・・・・」

「ケンムンがか・・・。そんなことも言ったのか」

そんなことは無いだろうと思いながら呆れて笑いました。

それに続いて3人も不自然に笑いました。

叔父さんは、その笑いを遮るようにケンムンについて話しましたが、3人の持つケンムンのイメージとは大きく異なっていました。


「それでお叔父さんはケンムンに逢ったことは有るの」

「私は生真面目な人間だから逢ったことはない」

「嘘だ、子供の時に遊んだって聞いたことがあるよ」

那美が言うと、

「大人になるとケンムンのことは忘れるんだ・・・そうなってる。大人になって逢ったていうのは恥ずかしい」

苦し紛れで言って皆が笑い転げました。


ケンムンの話を聞いた後、叔父さん家に帰って奥さんが作った鶏飯(けいはん)を食べました。鶏飯とは、笠利町周辺が発祥の奄美の郷土料理です。

江戸時代に島津(薩摩)藩の支配下であった頃に、北大島で藩の役人をもてなす為に用いるようになりました。現在の鹿児島県では、奄美大島以外の地域でも定番の郷土料理として親しまれています。


 那美はこれまで食べた“鶏飯”の中でも美味い部類で、口当たりが良いので、叔母さんに作り方を聞きました。

「煮出した鶏ガラスープは酒と薄口醤油で味を調える。 醤油や酒で下味をつけた鶏肉(胸肉かささ身)は蒸し、細かく割く。 干ししいたけは戻し汁と共に甘辛く煮、刻んでおく。 卵は錦糸玉子にする。 漬物は、地域によりパパイヤの漬物、紅しょうが、沢庵(たくあん)と異なるを、みじん切りにする。 薬味として刻み海苔(のり)と小口切りにしたネギとみじん切りにした島蜜柑(しまみかん)の皮をそえる。

ご飯は茶碗の半分ほどよそい、食べる直前に好きな具を好きなだけ乗せ、熱々のだし汁をたっぷりと注いで食べる」

と教えてくれて、那美がレシピに書いた。亡くなった祖母の作り方と特に違ったことをしているようには思えなかったが、隠し味が有るように思いました。

「自分で作って見ますが大阪に帰ったら、お母さんにも一度、作ってもらいます」

叔母さんに言いました。すると叔母さんの大きな笑顔が帰って来ました。そして、まずは具を乗せて汁を掛けずに食べ、次に具に汁を掛け、最後は汁だけを飲むのが、通の食べ方だと教えてくれました。


 那美は叔父の案内で平家伝説の地である喜界島と奄美各地を回って、奄美大島のもつキャパシティーの大きさを知り、ケンムンが奄美群島で広く活動しており。その活動を許す大きな森と自然があることを知って、世界自然遺産登録活動に活かせると思いました。

 可能性の大きさを確認し、暖かい風呂に入って気持ちをリラックスさせました。

 そして明日は、待ちに待った山田亜里沙の公演がある日です。


9.伝説の美女

 那美は車を運転しながら、昨日、奄美市の郷土会館で3000人の観衆を集めて行われた、嘉徳出身の歌手、山田亜里沙のステージの興奮に酔っていました。そのなかで紹介された新曲“奄美有情”は奄美所縁の那美の心にすとんと落ちて心地良かった。

 亜里沙がラストステージで着た衣装に、那美の家の家紋である“籠に鳩紋”があることを不思議に思いました。更に小さい時から気になっていた“籠”についても心が騒ぎました。

「大きくなれば自然に分かる」

昔、オバァが言いた言葉が蘇りました。一度、歴史に詳しい叔父に聞いて見たいと思いました。

 そんな気持ちを紛らわせるかのように、那美は運転しながら奄美有情を自然と口ずさんでいました。


      【奄  美  有  情】

  夕闇迫る 佐念山 カンツメ願う 永久の愛

  仲間の 情けに導かれ 海に 旅立つ

     あ~あ ナ(習)ロワイ シ(知)ロワイ ハレハレハレ晴れ

     ナ(習)ロワイ シ(知)ロワイ  あ~あ ハレハレハレ晴れ

  嫉妬に泣いた ウラトミ親子 奄美の海に悲劇あり

  娘見る 母の眼に 二度の恨みの 涙一筋

     あ~あ ハレーイ スラヨイヨイ ハレハレハレ晴れ

     ハレーイ スラヨイヨイ あ~あ ハレハレハレ晴れ

  神の使いに身を変えて 悲劇を見守る 湯湾岳

  記憶の底に 蒼い海 白い砂 青い空

     あ~あ 嘉徳浜先(はまさき) ほえる美麗(いちゅ) ハレハレハレ晴れ

     加計呂麻 喜界(きら)島 あまみんちゅ あ~あ ハレハレハレ晴れ

   

  ハーレ踊り好きなら はよでて踊れ 唄ぬさまれば 踊ららぬ ヨイヤナー

       ああ晴れハレハレ晴れ  ああ晴れハレハレ晴れ

  加那はいくつか 二十二か三か いつも変わらぬ二十二三

       ああ晴れハレハレ晴れ  ああ晴れハレハレ晴れ

  わたしゃ お前さんに 七惚れ ハ惚れ こんど惚れたら 命がけ

       ああ晴れハレハレ晴れ  ああ晴れレハレハレ晴れ


今日、那美はアマミノクロウサギのフィールド調査のために久慈から枝手久島に車で向かっていました。佐念山の頂上付近に、“かんつめの墓”という表示がり、車を降りて案内に従いました。

 カンツメの話は、島人には知らない人は居ないといわれ、奄美大島にあった実際に有った有名な悲恋物語で、島唄にもなっています。

江戸末期にヤンチュ(家人)といわれる奄美独特の奴隷となりました“カンツメ”という美女と村役場に勤める青年との身分違いの恋に関する物語です。

 しかし、有名な話でもあり、色々な逸話があって枝葉に分かれて、事実は時代とともに段々と分からなくなって来ています。


①オバァの家での出会い

 少し山道を下るとそれは有りましたが、一人の老婆が墓の前で倒れていました。

「オバァさん。オバァさん。どうしました」

身体を揺すって聞きました。

「ああ、墓の前で眠ってしまった」

老婆の言葉を不思議に思いました。

「どうしました」

「ああ、カンツメさんと話していて眠ってしまった」

老婆はあっけらかんと自然に言いました。


 老婆の話では、今日の朝早く此処に来て、カンツメの墓、性格にはカンツメ節の碑の前でお願いしていると、回りが突然暗くなって来て、カンツメが現れたので話していたとのことでした。

「オバァさん大丈夫ですか」

那美はオバァさんが痴呆症になったと思って心配に成りました。

「オバァさん、家はどっちですか」

「こっちです」

「それでは送って行きます」

「ありがとうございます」

そして、老婆を車に乗せて、自宅向かいました。

車の中で、オバァは自分の名前は、山田キクエであると名乗りました。

 10分でキクエさんの自宅に着きました。早速、冷えた知覧茶で持て成してくれました。なんでも娘さんが鹿児島県の知覧に嫁に行っているとのことでした。

 お茶を飲みながら、早速、カンツメの話しを始めました。その内容は、事前にインターネットで調べた内容とほぼ同じだったので、ガッカリしたしイメージも膨らみませんでした。

「オバァ、カンツメさんの隠れた話し、地元にだけ伝わる秘話という類のものは無いんですか。それが聞きたいんですが」

話しに痺れを切らして聞きました。


 少し思案して、『それなら・・・』と話し掛けた時に、男が部屋に入って来て、

「キクエオバァ、今日の夕飯はどうなりましたかな」

中年の男が聞くと、

「ハゲー(ああ)忘れてたチバー。直ぐに準備するチー」

「忙しいのにすまんね」

“那美”は恐縮して、

「すみませんね。叔父さん直ぐに用意しますから」

と言って、オバァの後を追いました。

「分かった。出来るまで少し散歩してくる・・・」

男は下駄を履いて外に出ました。


1時間もすると夕食の準備は出来て、下駄を履いた男も帰って来ました。三人での夕食が始まりました。

「三人の夕食は良いね。この男がふらっと2週間前に此処に来てネ、それからあんたが来て三人になりました」

「本当ですね。もうそんなになるか」

男が相槌を打ちました。

「ご旅行ですか」

「・・・・・・」

那美が聞いたが、男は答えませんでした。

 すると、オバァが郷土料理の説明を始めた。

「那美さん、それが、豚の骨付き肉の煮付けのワンフネ、これが油ソーメンと島豆腐、これが雑炊チバー」

内地にも有る刺身等の説明は省略しました。

「鶏飯(けいはん)は無いんですか」

那美が聞きました。

「このあたりでは余り馴染みが無いんだ。あれは島北部の料理だね」

意外な答えでした。

「オバァ、この油ソーメン美味しいよ天下逸品だ。俺がこれまで食った中で一番美味い」

下駄さんと呼ばれる男が満足そうに言いました。

「下駄さん。そんなに油ソーメン食べたこと有るの」

「本当だ。何処で食べたチー」

那美とオバァが同時に聞きました。

「それは秘密だね」

「そうチー、早く本心を言わんチバー」

この問い掛けに男は無言でした。


 3人で黒糖焼酎を飲み酔いが回ったところで那美が、再び話を切り出しました。

「オバァ、カンツメさんの隠れた話し、本当に地元にだけ伝わる秘話という類のものは無いんですか」

 さっきの話を蒸し返したのでした。

オバァは、少し思案してから、

「ナン(あなた)もくどいね。色々、聞いてるけどワンは巧く喋れないし、ちょっと考える時間も必要チバー。それに先祖に聞かないといけないし」

「先祖にですか」

「そう先祖にチバー・・・」

「なんで先祖、何ですか」

那美は納得出来なくて露骨に嫌な顔を作りました。

   

この一言でオバァが無口になり、気まずい雰囲気になったので、オバァは気を利かせてテレビをつけました。夜も更けたので那美は寝床に指定された仏間移りました。暫くすると黒糖焼酎が心地よく回ってきて眠りに落ちました。そして、直ぐに不思議な夢を見ました。


②オバァのカンツメ話

夢の中でオバァ即ちキクエが立ち上がり、“ノロ神様”の様に振舞い語りました。那美と大阪に居る父親、歌手の山田亜里沙、下駄男とその前に知らない初老の男が座って聞いていた。不思議な光景だった。


ノロ神様(キクエ)が語った話を整理すると、概ね次のような内容になります。


カンツメは死んだのでは無く、主人夫妻には死んだと思わせてヤンチュ頭で、カンツメの親戚である、嘉一の才覚でカンツメと岩加那を逃がした。

「カンツメ、ケンムンの案内で久慈の港に出て加計呂麻島に行くんだ」

嘉一はカンツメに命令口調で言いました。

「ケンムンさん、この二人を宜しくお願い致します」

そしてケンムンには、優しく言いました。

ケンムンの案内で二人は、夜半に山を降りて、久慈に出てそこから、ケンムンは何処かから漁船を見つけて来て、それに乗って加計呂麻島に向かい、生馬(いけんま)に定住し静かに暮らしました。


生活が安定するまでケンムンとやちゃ坊が食べ物を運びました。3ヶ月もすると岩加那も猟師の仕事に慣れ、すぐに娘に恵まれウラトミと名付けた。

もちろんケンムンが岩加那に魚が沢山います。場所を教えて、支援して早く一人立ちを出来るように手配しました。

回りの漁師は、

「なんで、よそ者のあいつだけが何時も豊漁なんだ」

「なにか御まじないでもあるのかな」

「餌や仕掛けがが俺たちと違うにかな」

口々に噂しましたが理由は分かりませんでした。肝心の岩加那自身も豊漁の原因を把握していませんでした。


その娘ウラトミも綺麗に育った。但し、カンツメ夫妻は娘に島唄を教える事は無かった。


その時、島津藩の統治下にあった奄美諸島には竿入り奉行が来て、盛んに検地がおこなわれた。奄美では、この奉行のことを竿入殿(そちどん)と言い、年貢の額を決めることが出来るので、その権力は大変なものだった。

美しいウラトミはすぐに竿入殿の目にとまった。奉行はさっそくウラトミを自分のアンゴ、いわゆる現地妻として差し出すよう命令した。

両親が拒否すると集落に重い税をかけるなど陰湿な仕打ちをおこなりました。


両親は集落の長老から、『ウラトミを奉行に差し出さないと、更に重い税金をかけられる』と説得された。そこには、薩摩の権威に隠れて、美しい娘を持って、豊かな生活が期待出来る親への嫉妬と羨望もあった。

過去に悲惨な経験を持つ両親、すなわちカンツメと岩加那は、集落に迷惑が掛かってはいけないと思い悩んで、ウラトミを小舟に乗せ、身の回りの品や食料、飲み水、三味線を乗せ『何処かで生きながらえてくれ』と一身に祈りながら、海に押し流した。

「ウタトミよ新しい土地で幸せになるんだよ。力のないこんや弱い親を許しておくれ、苦しくて明日が信じて頑張るんだよ。決して諦めてはいかないよ。そして、いつの日か自分の力で立ち上がるんだ。粘りつ強くな」

「おとう、おかあ。何でワンは海に出されるの。少し他の人と変わっています。からと言って、なんで私がこんな仕打ちにあわないと行けないの」

そして船の中で泣き崩れました。

 

  うらとみ節

1.喜界(ききゃ)や小野津 トゥバヤむちゃ加那

アオサ海苔(ぬり)剥ぎに 行(い)きょやむら

【訳】喜界島の小野津のトバヤ(という家の)むちゃ加那よ、アオサ(青)海苔を

剥ぎに (採りに)行かないか?むちゃ加那さん。


2.うらとみやうらとみ 戻らめやうらとみ うらとみ戻しゅすや 島のふりむん

【訳】うらとみようらとみよ、戻らないか、うらとみ。うらとみを戻そうとするのは、島のばか者だよ。


3.潮(しゅ)や満ちゃがりゅり 太陽(てぃだ)や申刻(さんとき)なりゅり トゥバヤむちゃ加那や 潮尻(しゅじり)かち引きゃってぃ

【訳】潮は満ちてくる。太陽は午後4時頃になって、トバヤのみちゃ加那は潮の流れに流されてしまった。


4.きょらさ生まれれば 友達(どぅし)に憎まれて きもちゃけぬ加那や 潮波(しゅなみ)に引きゃれて

【訳】美しく生まれたら、(女)友達に憎まれて、可哀想なむちゃ加那は 潮の流れに引き流されえてしまって。


 母は自分の涙を振り払う様に、力いっぱい船を押し出しました。

「ウラトミよ元気で生き抜くんだよ」

声を限りに叫び、岬を曲がって見えなくんるまで見送っていました。いちどは、納得しましたが、ウラトミが居ないことを実感して涙が際限なく流れてきました。

 それからも母は毎日、毎日、海に出てウラトミが消えて岬を眺めていました。


親子の別れの様子を大きなガジュマルの木の上からケンムンが見て、一人悲しくて涙を流していました。


海に出て3日後、食べる物が無くなりましたウラトミは

「おかあ・・、おとう、ワンを何で海に流したチー、ワンは怨みますよ。ワンはこんなに怖い目に逢っていますが助けにも来てくれないチバー。私が可愛くないチバー」

海に向って叫んだが勿論、返事はありません。

ウラトミは両親から島唄を教えられていなかったが、心が寂しくなって声を出していると、自然と耳に馴染んだ島唄を口ずさんでいた。

喜界島の島役人国吉が竿入りを行っていると、沖の方から三味線と美しい歌声が聞こえて来ました。


それは“行きゅんにゃ加那節”でした。


【行きゅんにゃ加那節】


「行(い)きゅんにゃ加那(かな) 吾(わ)きゃ事忘(くとわす)れて

行きゅんにゃ加那 打(う)っ発(た)ちゃ打っ発ちゃが 行き苦(ぐる)しや

ソラ行き苦しや(ソラ行き苦しや)」


 ここで歌われた“行きゅんにゃ加那節”はオジイが歌うイメージとは大きく異なり命をつなぐ歌の様相を帯びていました。

     

ケンムンはウラトミが少しでも早く、役人に発見してもらうように気心を知る島役人の国吉を船の方に案内しました。

「役人さん。こっちですよ、こっち」

「こっちか。でも音の方向が違うみたいだけど」

「それは風のせいですからこっちに速く来てください」

役人はケンムンに腕を引かれて唄声のする方を見ると、小さな舟が岸の方に近づいて来ました。

加計呂麻島からウラトミを乗せ流された小舟は、南風(ハエ)と黒潮に乗って、喜界島の北端小野津の十柱(とばや)という海岸に流れ着いたのでした。

浜辺に流れ着いた舟から降りてきたのは、国吉が、今まで見た事もないような美しい女性でした。この女性の噂は島中に広がりました。

島の役人はみんなこの女性と結婚したいといいましたが、

「私は、最初に私を見つけて下さった国吉さんと一緒になりたいと思います」

多くの求婚者にウラトミは何回も何回もこの言葉を繰り返しました。


 それでも諦めない役人が一人居ましたが、ケンムンは役人の家に忍んで行って、夜中に眠ている役人の枕元に立って、

「あの女はハブが変身したものです。結婚すると、その日のうちに噛まれて毒で殺される。早く諦めるんだ」

怖い顔をして夢の中で告げました。

すると役人は、

「あんな綺麗な顔していますがハブとは恐ろしやお恐ろしや。どうか私があの女を思う心を取り除いてください」

必死にケンムンに頼みました。

「分かった。お前に今からおまじないを掛ける」

「お願いします」

「えーいエーイ、アマミコの霊よ、この男の気持ちを清めたまえ」

役人にこの言葉を3回掛けました。

 翌日、目を醒ました役人は完全にウラトミのことを忘れていました。


その後、ウラトミは島役人国吉と結ばれたが、美女を妻にしたことで薩摩の役人に疎まれて役人を辞めさせられ、神宮の海岸に群生するアダンの山を切り開いて、山羊小屋のようなそまつな家で暮らし始めました。

二人の生活はとても貧しかったのですが、“むちゃ加那”という娘も出来、平和な日々が過ぎていきました。


年月が経ち、むちゃ加那は年頃になると、母にも劣らぬ美女に成長しました。村の女達はむちゃ加那の評判が余りにも良いので嫉妬しました。


そして、

「むちゃ加那はちょと良い気になって、偉そうにしているから海に突き落として脅かしてやとう」

「そうだ、そうだ、いい気になっているからそれが良い」

「それが良い」

と話がまとまりました。


むちゃ加那の美貌は他の集落でも評判となり、彼女を嫁にしようと多くの男達が集まりました。これを見た村の女達は面白くなく、嫉妬に燃えむちゃ加那をアオサ(海苔)摘みに誘い、脅かすために海に突き落とすことにしました。


 言葉巧みにむちゃ加那を岩場に誘い、5人の女が同時にむちゃ加那の肩を押して海に突き落としましたが力が入り過ぎて、岩から遠く離れたところに落ちて、むちゃ加那は溺れて、姿が見えなくなりました。

 怖くなりました5人は口裏を合わせて、

「むちゃ加那は大きな波にさらわれたことにしよう」

「それが良い。それが・・・」

「今日のことは絶対に秘密だからね」

そして、指きりゲンマンをして別れました。


夕暮れになっても帰ってこないむちゃ加那を心配して、両親は家々を訪ね回りましたが、誰も知らないと白を切りました。母、ウラトミは狂ったように海辺を探し回ると、海岸で気を失った娘を発見しました。

ウラトミは、“カンツメ秘伝の水”をむちゃ加那の口に注ぐと、暫くして意識を取り戻しました。ウラトミは、このまま村に連れて帰っても、また不幸な出来事が起こると考え、『お父(国吉)さん、家に早く帰って鍋に水と御飯を一杯入れて持って来て』と言い放ちました。

その間に娘に事の次第を言い含め、かって自分が乗って来た船に、むちゃ加那と鍋に入った水と御飯を、乗せて沖に流しました。

「むちゃ加那、お前はもう此処ででは生きていけない。お前が居ると村の娘が驚かすから、お前は私と同じように新しい土地で新しい人生を歩んで、お前の時代が来るまで辛抱強く待つんだ。決して投げだしてはいけないよ。自分の人生を。分かったかい」

「でも、何で私だけがこんな仕打ちに会わないといけないんですか」

「それはお前が人より少し綺麗に生まれた定めだから。それを妬まれたんだ。辛抱して、自分の力が発揮出来る時まで辛抱するんだ。いいかい」

「お母さん、私にはその自信がありません」

「そんなことで島の娘は務まらない。先祖の苦労を思えばお前の苦労は苦労とは言わない。新しい時代まで、どんなことがあっても生き抜くんだ。分かったかい。分かったらワンがこの船を海に押し出す」

長い沈黙がありました。

「おっか。分かりました。私を沖に突き出してください」

このむちゃ加那の言葉を受けて、ウタトミが乗った船を力一杯海に押し出しました。


 母のカンツメがしたと同じように、ウラトミもむちゃ加那の乗った船が沖に出て見えなくなるまで海を眺めていました。海を眺めていると昔、母のカンツメが自分を海に突き出した時の気持ちが分かってまた一層、涙が出てきました。


両親は、むちゃ加那と思って海岸にガジュマルの木を植えました。やがてこのガジュマルは大樹となり“トバヤ(十柱)ガジュマル”と呼ばれるようになりました。

また、ウラトミは、娘を忘れないように、更に娘を苛めた女性への戒めを込めて、むちゃ加那節を海に向って歌って、娘の無事と幸福を祈りました。

 ケンムンもウラトミに合わせてむちゃ加那を忍びながら一緒に歌いました。そして、奄美の美女に付きまとう災難をアマミコ様に訴えました。


       『ウラトミが唄うむちゃ加那節』

        

   ハレイー喜界(ききゃ)やィ小野津(うのでぃ)ぬョヤーレー十柱(とぅばや)

       (囃子)スラヨイヨイ

   十柱(とぅばや)むちゃ加那ヨイ

       (囃子)スラヨイヨイ

   ハーレー十柱(とぅばや)~むちゃ加那ヨイ

       (囃子)ハーレー十柱

   むちゃ加那ヨイ

 

   ハレイー青海苔(あおさぬり)はぎが ヤーレー行(い)もろ

       (囃子)スラヨイヨイ

   行もろやむちゃ加那ヨイ

       (囃子)スラヨイヨイ

   ハーレー行もろや むちゃ加那ヨイ


そして、カンツメ、ウラトミ、むちゃ加那の美の系譜は、嘉徳のナベ(鍋)加那に引き継がれることになります。

むちゃ加那の乗った船は、強い風と大きな波に任せて大海を漂い、水も食べ物も無くなりました。恐怖から、空に向って『アマミコ様、どうかこの可愛そうな娘を助けて下さい。助けて頂けたら、貴方に一生奉仕致します。私はもう3回も波に呑まれて死にそうになりました』と何回も叫びましたが何事も起こらず、悲観にくれました。


この様子を大きなガジュマルの木の上から見ていたケンムンは、

「アマミコよこんなに必死にお願いしています。娘を助けないとは余りにも白状というものだ。お前が、この娘を助けない時は、俺はもう森の妖精を止める」

むちゃ加那のことを思って強い言葉で奄美の神様アマミコにお願いしました。

それでも海では何の変化も有りませんでした。


必至に願っても叶えられないむちゃ加那は『もうワンは神様も信じないチバー。神様、綺麗に生まれたわたしが憎いのですか』と死を意識した時に気を失いました。それから3日後、雨で目覚めまだ生きていることを知り無意識にひたすら、海の安全を願う島唄を歌っていました。


  【よ い す ら 節】

船ぬ高艫に 居ちゅる白鳥(しるどぅり) 

白鳥やあらぬ 姉妹神(うねりがみ)加那志(がなし)

【対訳】

船の高い舳先(艫)に白い鳥が居る 白い鳥ではでない 姉妹神だ


 この願いがかなったのか船は風に吹き戻されて奄美大島の龍郷を経て嘉徳集落に流れ着きいました。その時、むちゃ加那は、漂流の恐怖と飢えで記憶を喪失していました。

それでも、高く裏声が冴え渡る声で、母ウラトミ直伝の島唄“行きゅんにゃ加那節”を歌っていました。

集落の人々はむちゃ加那を奄美に伝わる“ネリヤカナヤ”の使いと思い、乗っていた船に空になっていた鍋があったことから、この女性を“ナベ(鍋)加那”と名付け有力者の養女にし、高貴な“ノロ”として崇め奉っりました。


森の妖精ケンムンはアマミコに言ったキツイ言葉を反省しました。

「アマミコさん。先日の言葉はお許し下さい」

必死に天に祈りました。

すると何処からかアマミコが現れて、

「ケンムンよお前がむちゃ加那を思う気持ちを思って、今回は命を助けた。しかるにむちゃ加那いやなべ加那の行いは村人から評判が悪い。お前が少し注意して欲しい。分かったか」

強い口調でケンムンに言いました。

「分かりました。私が諭してみます」

「分かったそれでは宜しくお願いする」

この言葉を残して煙の様にとこかに消えました。


数日後、ケンムンはなべ加那を村はずれの大きなガジュマルの木の前に呼び出しました。

「むちゃ加那、いやなべ加那。元気でよかったな」

「ありがとうございます。ケンムンさんがアマミコ様にお願いして下さったお陰です」

「それはもういいんだけど、なべ加那、お前の評判がすこぶる悪い。どうにかならないのか。厳しい人生を歩んだから仕方ないと思いますが」

「それは分かっているんですが、村人の信仰心を試すために敢えて厳しくしています。もう少し時間を下さい」

「それも分かるが、理屈と情を巧く使い分けて人々を巧く導いてくださいよ」

「分かりました。少し時間を下さい」

此処まで言うとなべ加那はスッと後ろを向いて早足で村に帰って行きました。

 ケンムンはこの態度が心配に成ったが、少し時間を置くことにした。


暫くして、ナベ加那すなわちむちゃ加那は、ケンムンに見守られて身近で世話をする男と密かに結ばれ、一人の女の子を産みました。そしてその系譜は、現在まで続いています。

 この子供の末裔が今、日本本土で絶大な人気を誇る歌手、山田亜里沙です。カンツメから何代も厳しい世界を生き抜いて、2015年になって自分の実力を開花させことが出来るようになりました。


ナベ(鍋)加那には優れた霊感は有りましたが、過酷な運命から気難しい面もあり扱い難いノロ神様でした。集落の人々は“ナベ(鍋)加那”の死後に、畏敬の念と自慢、皮肉を込めて島唄として唄いました。


    嘉 徳 な べ 加 那 節    

【島唄】

1、嘉徳なべ加那や如何(いきゃ)しゃる生まれしちが、

親に水汲まち、いちゅて浴めろ。

2、嘉徳なべ加那が、死じゃる声聞けば、

三日(みきゃ)や白酒(みき)造て七日遊ぼ。

3、嘉徳浜先(はまさき)に、はえる美麗(いちゅ)かずら、

はえ先やねらん、もとにかえろ。


【対訳】

1、嘉徳なべ加那という女は何と親不孝な生まれをしたのだろう、

大切な親に水を汲ませて平気で浴びるとは。

2、親不孝者のなべ加那が死んだという声を聞いたなら、

三日間は白酒を作ってお祝いをし、一週間は歌三味線で喜んでやろう。

3、嘉徳の浜に、這っています。磯かずらはあたり1面にはびこって、

もう這い先もなく、もとに帰るよりほかはない。


そして、最後にオバァ即ちキクエは自分と那美と歌手の山田亜里沙、そして下駄男は親戚だと言ったことから皆が驚きましたが、それぞれの家の家紋が“籠に鳩紋”てあることを言い当てて皆が腰を抜かしました。

この様子を見ていたケンムンは森の薬草で作ったシップ薬を持ってきて手当てをしました。


「オバァもう一つ聞いても良いですか。籠に鳩紋は一族の証であることは分かったんですが、籠にはどういう意味が有るんですか」

気になっていることを聞いた。

「それは、お前も知っているカーサ姫が、男たちの不実を知って身を投げた時に今井右近太夫が自分の罪を詫びて、竹に大島紬を貼って大きな籠を編んで姫の一族に渡そうと思っていました。籠の枠組みが完成したので引き締めるために籠に水を掛けて乾していました。その時に2羽の鳩が飛んで来て籠に留まりました。右近太夫がいくら追っても逃げません。そればかりか自分から籠の中に入ったチバ―」

「ハゲー不思議なこともあるチバ―」

それで右近太夫は、これは姫の生まれ変わりと思ってこの籠で飼うことにしたんだ」

「それでどうなりましたの」

「右近太夫はもう一つ籠を作って姫の所に持って行くと、姫は死ぬ前に子供を一人生んでいたことを知ったんだ」

「それって今井右近太夫の子供」

「そうチバー」

「これを聞いて右近太夫は男泣きしたチバ―。そしてその子供を大切に育てたチ―」

「それで一族は籠と鳩を大事にしていたの」

「そうチバ―」


この鳩には更に物語があり、鷹狩の経験がある今井右近太夫は鳩が飼育している場所に帰って来る習性を知って、戦争に使えるのでは思いました。具体的には鳩に伝言を託したり、籠城戦になった時に伝書鳩に文書を託したりする役割を果たして大きな戦果を上げました。この手法が琉球の統一に貢献し、今井右近太夫は琉球王から奄美を統治する大親に指名されました。

右近太夫はこの鳩の技術を絶やさないように3人の孫を、龍郷、宇検、嘉徳に置いて飛翔訓練をして技術を磨きました。


 那美にとっては夢の様な話でしたが、小さい時から気になっていた綺麗な姫から貰った籠の謂れを知って気持ちが落ち着きました。


10.ケンムンを探しに来てください

 この様に奄美では森の精霊 “ケンムン”は本当に居ると島人に信じられています。

 ケンムンは、相撲が大好きで、島人の中には神社で相撲を取ったという人もいます。相撲では色んなことが起ります。    

            

今でもガジュマルの木やアコウの木、ソテツの木、へゴの木、マングローブ、大きな葉っぱのクワズイモなどが茂る、奄美の奥深い静かな森を歩くと、麓の集落から聞こえる島唄を奏でるサンシンの音に混じって、どこからともなくヒュールルシュー、ケッケ、カカカカ、クッカルル、ルルルと風が森を吹き抜ける音とも、小鳥のさえずる声などに、混じって「ケケケケ、ムンムンムンムン」とも聞(き)こえなくもないケンムンの声とも聞こえる音を聞く事が出来ます。


もしかすると、ケンムンが息を潜めて、目凝らしてこちらを見て、私達を観察し善良で心の優しい人間かどうかを見ています。のかもしれません。

そこでお願いです。このように奄美には不思議と驚きがあります。あなたも一度訪問頂いて自分の目と感性で確認して頂きたいと思います。


 そして、森でケンムンの気配を感じたら、「ケンムンさん。もしもおられたら出て来て私とお話して下さい」と呼びかけて下さい。あなたが優しい心の持ち主ならきっとあなたの前に現れます。

 もし幸運にもケンムンが現れた時に、ケンムンから「私と相撲を取って下さい」と言われても決して相撲を取らないようにして下さい。

 これだけはくれぐれも守って下さい。私から心優しいあなたへの切実な忠告です。決して興味本位では行動しないでください。ひょっとすると自己責任ではすまされない事態が起るかもしれません。相撲については島人の意見も分かれています。

               

これまで見て来ようにケンムンは、心は優しいのですが、カッパや猿の様に見えて、見栄えが悪く人間と中々仲良くなれずに、淋しい思いをすることが多いのですが、友達には親切でした。例えば、魚が釣れない猟師に魚のいる場所を教えたり、重い荷物を持てなくて困っている人の荷物を持ってあげたり、道に迷った人を助けたりしました。

 自分を見て驚いて逃げたり、無視されたり、見てみない振りをされると寂しくなりますが、信頼されると心を開き友達になることが出来ました。

 こんな話もあります。この前、相撲を取った良太とは親友になり、良太は心が優しくなり、ケンムンの気持ちも暖かくなりました。

 二人は今日も今井権現で相撲を30番取って、汗を流し友情を温めました。


 そして、今、島人が望んでいます。世界自然遺産登録活動にも参画しています。ケンムンです。

 それではまた遭える日を楽しみにしています。



参考資料:ふるさとの伝説・民話「奄美今昔 よもやま話」奄美グラフ50号発刊記念 平成5年発行を参照

                                    完


                       2021年5月5日 一部編集

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奄美の森のケンムン物語 @takagi1950

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