第16話 初バイトの苦悩
3日後、僕は大学で絵を描いていた。大学で絵を描いていた僕は、篠崎さんにメッセージを送る。あと少しで約束の15時になる。
大学でサークルに入るつもりはなかったけれど、ある先生の講義を聞いて、またその先生の描く作品を見て、僕はこの先生のそばで絵を描きたいと思った。先生は公式のサークルの顧問でもなく、仕方なく個人的に話を聞いてみると、先生は自分のアトリエを特別に大学に用意されており、そこで基本的に絵を描いているらしい。そこを自由に使っていいということだったので、僕は今そこで絵を描いている。部屋には先生はいなかった。
6月にコンクールがある。そのコンクールは日本美術コンクールの中では一番大きいもので、そこで受賞すれば海外留学の推薦も受けることができ、一気に僕の夢の実現に近づくことができる。それに向けてもう一度緒を締めて絵を描いていた。
「あ、校門の前にいるよ」 と返信が来たのを確認して、僕は急いで校門に向かう。
校門に彼女はいた。すごく遠慮がちに立っている。彼女は僕に気づくと、少しだけ背筋を伸ばした。
「こ、こんにちは」
「行こっか、もっとラフで大丈夫だよ」 彼女はまた少しぎこちなくなっていた。どうすればリラックスしてもらえるのか、僕は気がつくとそれを考えることが癖になっていた。それほど彼女の態度は心もとなく、触れば倒れてしまいそうな儚さがあった。
彼女に色々と質問していくうちに、彼女のぎこちなさは再び取れていくようだった。彼女はただ音楽が好きで、ヴィオリンを続けているらしい。特にずっと音楽携わろうとは思っておらず、大学卒業後は普通に就職するかもしれないと言った。音楽が好きな理由は、何故か音楽を演奏している時は自分らしくできるらから、だった。
昔から引っ込み思案だった彼女は、何をするにも人の後ろをついて回るような子どもだった。けれど、テレビでたまたまクラシックの演奏を聴き、それに惹かれ音楽教室に通い始める。親も自発的に行きたいという彼女の発言を喜び、すぐに通わせてくれた。
そして、演奏している時は自分を表現できた。堂々と演奏する彼女に先生も褒めてくれたし、友達もできた。それでも、音楽がない場所だとからっきしダメで、その音楽教室の友達とですら普通に遊びにいくと途端に自分らしく振舞えなくなってしまう。
彼女が彼女として表現できるのは音楽しかなかった。しかし、彼女の中でもそれを良しとしているわけではなく、常日頃から自分らしく行動したいという思いは年々積もり、大学で思い切ってアルバイトをしようと思った、と。
それをおどおどしながらも一生懸命話してくれる彼女を、僕はそこまで引っ込み思案だとは思わなかった。誰しも人と話すのはどこかで怖いものだ。自分らしく振る舞える人の方が少ないと思う。それは、本当にちょっとの勇気なんだ、と思う。そしてそのちょっとした勇気を自分だけでは保てない時に、それに手を差し伸べてあげること、それが優しさであり、友情であり、愛情であると、僕はそれを結菜から教えてもらった。
結菜は僕が一人の時に、手を差し伸べてくれた。多分僕はあのまま一人だったら、恋愛を怖いものとして、忌み嫌うものとして、それを避けて生きるようになったかもしれない。結菜がいたから僕はまた、人との繋がりを持とうと思えた。繋がりを持つことの幸せを、その時初めて知った。
だけど、皮肉にもその繋がりを、僕たちは保つことができなかった。一度できた繋がりがなくなることは、もともとそれがない時よりも、辛い。もう僕は一度できた繋がりを断ち切りたくなかった。そんな責任感のような思いからか、僕は彼女の、篠崎さんのことを他人事のようには思えない。彼女が楽しく笑えるように、いつしか僕はそのために行動することが増えていた。
「乙坂、くん?」 そう言われると、彼女の顔が僕を下から覗いているのが見える。その顔は少し不安そうだった。気がつけば、黙り込んで考えてしまっていた。
「ごめん、ちょっと考えごと、あ、ついたね」目の前にお店が見えてくる。僕たちは裏口から入る。休憩室に入ると、玉木店長がパソコンを打っている。僕たちに気づくとにっこり笑って「やあ、こんにちは、15時になったら今日二人につく人が来るから、それまでちょと待ってて。あと、これが制服ね、着替えておいて、更衣室はこの奥にあるからさ」と言うと、僕たちの前に、アイロンがかけられてパリッとした感じの制服が二つ置かれた。
いかにもいイタリアンレストランの制服らしいそれは、自分には少し大人っぽすぎるようで、少しためらいがちに服を着替えていく。更衣室を抜けると、篠崎さんもちょうど出て来る。彼女はとても恥ずかしそうにしているが、結構似合っていた。
「似合ってるよ」
「乙坂くんも」そう言うと、あからさまに恥ずかしそうに顔を赤くしている彼女を見て、僕も急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「二人とも似合ってるね、準備大丈夫?」 店長が顔を覗かせている。僕と彼女は「はい」と少し声が裏返る。
休憩室に戻ると、女の人が一人立っている。
「初めまして、曽根って言います。今日は二人の導入教育担当するので、よろしくね」 曽根さんは大人っぽい笑顔をする、そして実際に大人びていて、アルバイトというよりは社員のような安心感が漂っていた。
「そうそう、この前話してた、君たちと同じ大学三年生の子だよ。じゃあお願いね」玉木店長はすでにパソコンに向かっていて、椅子をくるっと周りこちらを向きながらそう言う。
曽根さんに自己紹介を済ませ、まずは場所の案内や、物の場所など、基本的なことを教えてもらった。僕たちは基本的にホールを任されるらしく、ホールの基本的な仕事内容や動き方も教わる。難しい作業はなかったけど、ピーク時には人が混む、特に夕方からの時間は料理がメインになるし、アルコール類の注文も増える。その関係で少しバタつくと言われた。ただ、客層も良いし、キッチンの人も優秀な人が多いから問題ないだろうと言われ、ほっと胸をなでおろす彼女を横目で見て、僕も安心した。
僕は忘れそうなことや重要そうな場所だけメモにとっていたが、彼女は逐一メモを取っているようだった。大変そうにメモを取っている。
次にメニューの説明だった。ほとんど変わらないグランドメニューと季節や週で変わるメニューがあること、また名前と料理は一致させておいてほしいということで、一通りのメニューは厨房から料理が運ばれてくる段階でこれはこれといった感じで教えてくれた。
最後に、注文を取る時のルールや、言葉遣いなども少し練習をする。彼女は声が小さくて、何回かやり直しをさせられていたが、次第に良くなっていき、5回目でようやく練習が終わる。全体的にしっかりした教育だった。
今日は特にホールに出ての実践はしないようだった。3時間くらいの説明で今日は終わりになる。今月のバイト希望日を玉木店長に聞かれ、僕はあらかじめ決めておいた日程を伝える。全体のバランスを踏まえて、そこから削ることもあるとは伝えられたが、今は四年生がごっそり抜けて人手が足りていないから基本的には提出した日程で入るだろうと伝えられる。
彼女はシフトを出す日程に迷っていて、結局僕とほとんど同じ日程で出す。「大丈夫なの?」と聞くと、「うん、最初は一人じゃ不安だし」と小さい声で答える。
「乙坂くんはすごいね。私一気に色々言われて、戸惑っちゃった。ちゃんとできるかな......」 彼女は肩を落としながら歩いている。
「いや、僕も同じだよ。でも曽根さんも優しそうだったし、一緒に頑張ろう」
「うん、頑張る」 彼女はまたその少し小さい背を頑張って伸ばしている。
✳︎ ✳︎ ✳︎
バイトは思ったより大変であった。ゆったりした雰囲気の店内とは打って変わって、厨房は修羅場の時が多かったし、休むことなく注文を取り、料理を運ぶ。運んでいる最中も声をかけられる。ただ、なんとか回せていた。大変なのは、僕ではない、彼女の方であった。
オーダー間違い、レジのお会計ミス、ミスをすればするほど彼女自身が焦っていくようで、ミスがミスを呼んでいるようだった。声も次第に小さくなっていくので、お客様がそれを聞き取れなくて、聞き返されることもある。聞き返されると彼女は顔を真っ赤にしてさらに声が小さくなる。
その度に僕はなるべく彼女のフォローに入った。もちろん他のホールの人も優しい人ばかりでフォローはしてくれていたけど、僕は彼女が心配で、しきりにチラチラと彼女を目で追っていた。
そうこうしていると、バイトの時間が終わる。玉木店長も考慮してくれているのか、しばらく僕たちは同じ時間に入れてもらえることになった。バイトを上がる前に簡単に曽根さんから良かったところと、改善点を伝えられた。
裏口から出ると、消えて無くなりそうな彼女がそこにいた。黙って歩き出す彼女の横をついていくようにして僕も歩く。少し肌寒い。彼女の気持ちを表しているかのように、それは言葉を奪う。
「結構大変だったね」 彼女は返事をしない。
「見た? 厨房の忙しさ、すごかったよね。僕のテンパっちゃったよ」 僕はははっと笑うも、彼女はうつむいてて返事をしてくれない。
「ねえ、大丈夫?」 僕が彼女の顔を除くと彼女の目には涙が溜まっていた。見てはいけないような気がしてすぐに顔を遠ざける。
「私、やっぱり、ダメなのかな?」 彼女は風にすぐに飛ばされてしまいそうな声でそう言った。
「そんなことないよ」
「でも、全然ダメだった」 彼女は震える声でそう言った。
「篠崎さん、頑張ってたよ、一回目なんてそんなもんだと思うけどな」
「乙坂くんはできてたもん、私のフォローまでしてくれて、でも私は全然ダメだった。やっぱり私はバイトやめた方がいいのかな......」
「そんなことないって」 僕は思わず少し前を歩く彼女の腕を掴む。彼女はビクッとして、恐る恐る僕の顔を見る。僕は慌てて掴んだ手を離す。
「ごめん」
「ううん」
僕は彼女に自信を持ってもらいたかった。彼女がバイトをきちんとできるようになったら、彼女も自信が持てるかもしれない。彼女がどうすれば自信を持って、行動できるのかに頭を巡らし、ある一つの案がふと思いついた。
「今度さ、演奏聞かせてくれない?」
「え?」 彼女は唐突な僕の言葉を理解するのに少し時間を要しているようだ。
「その、篠崎さんが自信を持って演奏しているところが見てみたい、ダメかな?」
「じゃあ、明日、大学で、多分誰も使ってないところ、あると思うから」彼女は少し悩むそぶりを見せると、そう言ってくれた。
「わかった、じゃあ明日、聞かせて」僕は微笑んだ。
今日も僕は彼女とフリックで繋がる イッセー @kumchan
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