第9話「偽姫の国」
Ⅰ
『第一軍は敗走、ヴェルドーツ王子がアトラミケル王子を殺害』その報告は、監視を行っていた山岳兵団によって翌朝マイテザール商館にもたらされた。
リンツ第一軍については戦死者数まで詳細に数えられていた。隊長以下二十八名が戦死、負傷者が約百名、沼で溺死した兵が十八名。
「ヴェルドーツの罪状がまたひとつ増えたな」
ヤーンスがお茶をかき混ぜながら言った。
「本当に殺しやがったのか……」
俺はまた腹の中が重苦しくなった。リンツ家に関わってからというもの、気持ちが晴れることがない。
「しかし、以外と戦死者が少なく済んだな」
「イッスリマ軍はたった四百で迎え撃ったんだろ? どうやったんだろ?」
俺もヤーンスも首をひねった。できることなら戦闘の詳細を聞いてみたかった。
だがこの報告は、当然王宮の館にいるヴェルイシアにも行くだろう。またタァンドルシアに心労が重なる。
「これじゃもう、タァンドルシアも危ないかも知れないぞ。あいつ、いかれてる」
俺が言うと、ヤーンスは渋い顔で頷いた。
「アトラミケルの死体を、何とかしてこっちへ運べないか頼んでみてくれ」
ヤーンスが言うと、カルレイタムが頭を下げて部屋を出ていった。
ヴェルイシアの代わりにやって来たのは彼女の弟だった。十六歳で、山岳兵団の訓練を受けはじめたばかりだと言う。彼は明らかにイシュルを怖がっている。
「三人だけにしても危険か……二段三段の備えがあった方がいいな」
「いま……ここの、中庭で対面の予定ですよね?」
イシュルが聞いた。
「そうだ。もしヴェルドーツが何人か引き連れて来たら、館の前で俺達が止める」
「もしぃ……何十人って来たら?」
タナデュールが言ったので、俺とヤーンスは考えこんだ。
「城の護衛兵を無理やり連れて来た場合も……考えるか……」
考えるにしても、どうしたってこっちは四人だ。アデルバスの加勢があっても五人。さらに戦力と呼べるのは俺とヤーンスだけだ。山岳兵団は使えるかどうか、今のところわからない。
「仮に……十人から二十人引き連れてきたら、お前どうやっつける?」
ヤーンスが聞いたので、俺は腕を組んだ。
「外の……道路と敷地の間にある門か、屋敷に入る門のところで王子と兵隊を何とかして切り離す。何人か入ったらヴェルイシアが倒す」
「当たり前な作戦だけど、そんなやり方しかないか……切り離した奴らを、どうやっておとなしくさせておくかな?」
「屋敷に入ったら。中庭に出る手前で、二階から石落としてやれば?」
イシュルが言った。
「一人ずつ狙って落とすのか? 何十個もいっぺんに落とさないと、避けられたら終わりだぞ」
「だったらあ!」
タナデュールが大きな声を出した。
「二階ごと落としちゃえばいいですぅ!」
全員が、意味がわからずタナデュールを見た。
「あのぉ、中庭の手前で下が空いている場所に足止めしてぇ。二階の床ごと石とか一気に落とせば逃げられないですぅ」
「お前、マイテザール商館を壊す気か?」
「床が抜けるだけだからぁ、仕掛けも修理も簡単ですぅ!」
全員が顔を見合わせた。センテルバスが咳払いをした。
「タァンドルシア様のためでしたら、この建物をどう使っていただいても構いません」
昼前に、ハンマを立ったオンボロ旅客機が十四日分の郵便と外交文書をリンドラに運び込んできた。マイテザール商館宛てにも膨大な郵便と書類が届けられた。
「ハンマでは、もうリンツ7世が崩御したらしいと報道されているよ」
センテルバスが新聞の記事を指して言った。新聞の発行日は崩御の翌々日だ、どうやって知ったのだろう。記事には継承者が公布されていないこと、国葬の日程も未定であることまで書かれている。
「この国で、わざわざ新聞を取り寄せて読む人が他にいますか?」
ヤーンスが聞くとセンテルバスが首を傾げた。
「宰相と……行政府の中では読むだろうな」
すると、情報がどこからかだだ漏れになっていることが露見する。
「まあ今までも、リンドラ政府が発表する前にハンマ政府がその内容を全部知っていることはあったからね。今さらだよ」
金槌とノコギリの音が伝わってくる。タナデュールが早速仕掛けの工事を始めたのだ。リンツ国軍の第二第三軍は昨夜遅くに出発したのでそろそろ向こうに到着したはずだ。ヴェルドーツのうろたえっぷりを見られないのが残念だった。
ヴェルミエ湖畔の離宮廃墟周辺は、リンツの軍兵で埋め尽くされていた。敗退してきた第一軍の残りに加えて二千人もの兵がやって来てしまったのだ。その報告を受けたヴェルドーツはしばらくの間呆然としていた。
「誰が……その指示を、出したのだ?」
「伝令が、ハラームデンの占領が終わって進撃を続けるために、援軍がいると」
第二軍隊長が川の向こうでしどろもどろの説明をすると、ヴェルドーツのこめかみに青筋が立った。
「だから、それは誰の命令だったのかと聞いているのだ!」
「伝令は……ヴェルドーツ様の命令と……」
「私はそんな命令を出していない! ハラームデンの占領はまだだし、兵糧がないのだ!」
「はあ?」
「もういい! 命令だ! この川をたどって、上流に池がある! その土手が決壊したので増水している! 土手の修復をしろ! すぐにかかれ!」
「御意!」
橋をかけるのは資材が必要だが、土手の復旧は人手さえあれば何とかなる。そうしているうちに、ハラームデンを迂回してグーンドラ州のイッスリマ家に出していた使者が戻ってきた。
「申し上げまーす! ダダルート将軍より。無断でハイデン州への侵攻を行ったことは許しがたい。即時の中止と、ハイデン州外への引上げを要求するとのお返事です!」
「何……だと……」
ヴェルドーツは立ちすくみ、しばらくの間身動きもしなかった。
「それからー!」
使者を務めた兵が言いよどんだ。
「今回の侵攻に関して……殿下の、釈明を求めると……」
「説明に来いと言うのか! 私に!」
こちらの兵を介さなくてもヴェルドーツの怒声が聞こえたらしい、対岸の兵が再度直立した。その後ろを、土手の復旧作業に向かう兵がぞろぞろと上流に向かって歩いて行く。
「なぜ……こんなことになった……」
ヴェルドーツはよろめくように村へと戻り、小屋に入って崩れ落ちるように腰を下ろした。向こうの小屋の中にはアトラミケルの死体がまだ放置されたままだった。
「手が空いている者は、上流へ行って作業を手伝え!」
ヴェルドーツが大声を出すと、小屋の前にいた兵が走って命令を伝えに向かった。少しして穴を掘り終えたのだろうか、兵が二人来てアトラミケルの死体を運んで行った。
その兵たちは畑に掘った穴を通り過ぎ、村からかなり離れた場所までアトラミケルの死体を運んだ。
川の間にロープが張り渡してある場所で、アトラミケルを網に入れてロープで渡した。そこで第三王子であった死体は粗末な棺に納められ、男たちが牽く荷車で街道を運ばれた。
リンツ軍団が所在なく立ち尽くしている街道を通ろうとすると、隊長に止められた。
「それは?」
「ご覧の通り、棺でございます」
付き添っている男が答えた。
「そんなことは見ればわかる! なぜこんなところを運んでいるのだ」
「生地がバイトンメイロでございましたので、死んだら故郷に葬ってほしいと故人が申しておりました」
男はそう言いながら、隊長の手にそっと銀貨を押し込んだ。
「見てわかるように、今は軍の出動中である。本当ならば街道の通過は許されないが、特別に許可する。おい! こいつらを通してやれ!」
棺を乗せた荷車は街道を塞ぐ兵士の中をのろのろと通り抜け、兵から見えないところまで来るといきなり速度を上げた。道の脇から山岳兵が出てきて次々に牽き手を交代した。荷車が弾み、棺の中でも死体が跳ねる音がしたが男たちは気にもしなかった。
決壊した土手の修復は鉱山から砕石を運ぶことで迅速に進み、夜半には目に見えて川の水かさが減ってきた。
「明日、明るくなったら川を渡るぞ!」
川の状態を見て、ヴェルドーツは対岸の第二軍隊長に伝えた。
「全軍でハラームデンまで押し出して町を包囲するのだ。イッスリマ軍がどう出てくるかを見てやる。進軍の準備をしておけ!」
それを対岸に伝えている兵は昨日までとは違う者だった。よく通るその声は第二軍隊長以外の者にも聞こえていた。
翌朝無事に川をわたり終えたヴェルドーツの元に、リンツヒラーからの伝令が駆け付けてきた。その報せを聞いたヴェルドーツのこめかみに青筋が浮いた。
「タァンドルシアが……勝手に、政務を?」
落ち着いて考えればそんな伝令を誰が何の意味があって出しす必要があったのか、あれこれ不自然さに気がついたはずだ。だがヴェルドーツはあっさり逆上して、何も考えずに馬に鞭を入れてしまった。
置いて行かれた数千の兵は、進むことも戻ることもできなくなった。指揮官を集めて相談した結果、伝令にヴェルドーツを追いかけさせて指示を仰ぐことにした。もう兵糧は乏しく、明日中にどうするかを決めないと進むにしろ帰るにしろ途中で尽きてしまう。
しかしヴェルドーツを追うように出発した伝令はすぐに引き返してきた。後方二マイルの街道上を、軍勢が塞いでいると言うのだ。
「どこの軍だ、どれくらい出てきている!」
「わかりません。左右に、森の中まで展開しているので数も確認できません」
第二軍の隊長が百人ほどの兵を率いて向かうと、街道は丸太を組んだ柵で封鎖されていた。そして柵の向こうには旗が押し立てられていた。
「グーンドラ州、イッスリマの軍団だ。なぜ……こんな所に……」
第二軍隊長が絶望的なつぶやきを漏らした。その場にリンツ軍はしばらく留まり、やがて隊長以下の五人だけが旗を立てて柵に向かった。
「リンツ国軍第二軍団、隊長のヤールンハムだ! そちらの指揮官と話したい!」
二重になった柵の隙間を縫って、将官らしい男が出てきた。
「ハイデン州代行警備隊、第二大隊のバルデンルート・イッスリマだ」
「なぜイッスリマ家の軍がハイデン州にいるのだ、なぜここを閉鎖するのか!」
「ハイデン州知事の依頼だ。正体不明の軍団が侵入してきたので、ハイデン・グーンドラ州間相互防衛条約によって救援を依頼されたのだ」
リンツ第二軍隊長は絶句した。国の中にある州が、国軍に対して防衛行動を取った。もうわけがわからない。
「バカな! こっちは国軍だぞ!」
思わず隊長はうろたえて大声を出した。
「バカはどっちだ。理由あっての国軍の移動だとしても、事前の通知が必要だろう。防衛条約は当事者州以外の全方向に対して発動される。本営から司令官であるアージュタンテューカに、今回の説明を求めているはずだぞ」
『国軍だろうが何だろうが知るものか』と言われ、第二軍隊長はまた絶句した。彼は能力があって隊長に昇進したのではなかった、ヴァルヴァンデに賄賂で取り入った結果の昇進だったのだ。まさにヴェルドーツが憎む無能者の見本だった。
「それは……国軍に。対する。反抗……と見なされるぞ!」
「国軍だったら何をやってもいいのか! 早く司令官を本営に向かわせろ、ここで話し合っても時間の無駄だ!」
そう要求されても、司令官であるヴェルドーツは単身でリンツヒラーに行ってしまったのだ。
ヴェルドーツが通った後を追った伝令が通れなかった。つまりこの軍団はヴェルドーツが通るのを待ってから街道を塞いだと気付くはずだが、そんなことにも気付かないほどリンツ軍は疲弊して混乱していた。そして気がついたところでどうにもできない状態だった。
「予定通り、ハラームデンの攻囲に向かう」
再び長く不毛な相談した後、リンツ軍指揮官たちは最悪の決断を下した。勝手に退却すればヴェルドーツの怒りを買うことは間違いない、ハラームデン占領の命令は既に発せられているし兵糧を確保するにはそれしか方法がなかった。
そして後方への備えのために第一軍の残りをこの場に待機させ、第二第三軍二千名がハラームデンに向かった。戻ってきた第一軍の兵は意外と多かったが、武器を失った者も多く戦力にはならなかった、
街道を進撃し、漁師村を過ぎたところで湖に大量の船が現れた。数十艘の船にはそれぞれ弓兵が乗り込んでいて、湖の上から矢の雨を降らせてきた。
「弓兵隊! 弓兵隊を!」
隊長が叫んだが、リンツ軍の弓兵は隊列の後方にあって麦畑方向から現れるかも知れない敵に備えていた。全長千メートルを超す密集隊列をかき分けて前に出るだけでもかなりの時間を要した。
リンツ弓兵がまばらな応射を開始した。だが舟には木の盾が取り付けてあり、百メートル近く離れた距離からでは貫通できなかった。逆に姿を晒して矢を射るリンツ弓兵は次々と狙い撃たれた。
舟の上にいる敵に対して有効な反撃もできず、生き残りの先頭集団は湖から離れるために麦畑に逃げ込んだ。すると土の中に埋め込まれていた無数のロープが足に絡みついて兵の動きを封じた。
そのうちようやく矢が尽きたらしく、舟の敵は沖へと離脱して行った。ここで次の攻撃があることを警戒するべきだったが、その指示を出すべき隊長は麦畑の中で身動きができなくなっていた。
生き残りのリンツ軍先頭集団が街道に這い上がるのを待っていたかのように、今度はハラームデン方面から騎馬隊が突撃してきた。防御の陣形を組む間も与えずに騎馬隊はリンツ軍の中に突入してきた。
先頭集団が押しつぶされ蹴散らされ、後方にいた兵たちは以前の第一軍と同じく武器を捨てて沼地に逃げ込むしかなかった。
「逃げるな! 密集隊形!」
後方にいた第三軍隊長はそう叫びながら、自分は麦畑の中を街道から離れて逃げ出した。
「あ……ああ……」
だが粘つく土の上を百ヤードも行かないうちに、前方を塞ぐ軍団が目に入った。
「うわわ……」
うろたえながらまた街道方向へ逃げ戻ると、漁村から弓兵が走り出てきた。
「向こうから来るぞ!」
走ってくる弓兵にそう叫んでから、それがリンツ軍兵ではないことに気がついた。舟に乗った弓兵は引上げたのではなく、後ろに回って漁村に上陸したのだ。
弓兵が二段に並んで矢をつがえた。それは全て街道上のリンツ軍に向けられていた。
Ⅱ
「アトラミケル王子の死体はこちらに向かっています。ヴェルドーツは再度ハラームデンの占領を命令したので、タァンドルシア様の件を伝えさせます」
カルレイタムが朝食の席に現れて、山岳兵団からの伝言を伝えた。
「カルー、ここおいで。一緒にゴハンしよ?」
イシュルが自分の膝を指先で叩きながら言った。カルレイタムが顔を強張らせて首を振った。カルレイタムに怖がられているのを知って、からかっているのだ。
「すると……今頃馬を飛ばしているか、無視してハラームデンに向かうか……」
ヤーンスが腕を組んで言った。
「もしヴェルドーツがハラームデンに向かったら、何とぶつかる?」
「え?」
俺が聞くとカルレイタムは意味がわからない様子で聞き返した。この辺、ヴェルイシアには全然及ばない。
「ハラームデンに向かってくる二千のリンツ軍に対して、イッスリマ軍はどう防御を行うのかという質問だ」
ヤーンスが説明してくれた。
「あ……あの、聞いてきます!」
カルレイタムは姿の消し方もまだ上手くない。まだ修行途中の身だ。
「ハラームデンに向かったら、ヴェルドーツは死ぬんじゃないか?」
俺が言うとヤーンスも頷いた。
「その方が、面倒がなくて良いかも知れない」
タァンドルシアは誰と一緒にどんな朝食をとっているのか、俺は何となくそんなことを考えていた。彼女がいないと、何となく全員が気抜けしたような雰囲気だった。
「申し上げます」
ドアが開いてカルレイタムが入ってきた。足音だけは消して動けるようだ。
「町の手前に歩兵一大隊、水上に弓兵中隊を配置。リンツヒラー方面の街道に一大隊を配置して挟撃の体制です。ヴェルドーツだけは通します」
リンツ軍はどっちに進んでもイッスリマ軍の一個大隊にぶつかるのだ。二千対一千五百の勝負だが、やはりリンツ軍に勝ち目はないだろう。
「水上に弓兵?」
ヤーンスが聞いた。
「舟に弓兵を乗せて、水上から攻撃します」
カルレイタムは報告を負えると部屋を出ようとした、イシュルに構われたくないのだろう。
「あそこを朝に馬で出て……ここへはいつ着くだろう?」
ヤーンスに声をかけられて、カルレイタムは慌てて直立した。
「途中で馬を休ませなくてはいけませんから、早くても日暮れに着くかどうかです」
その答えを聞いて、ヤーンスは少し考えて言った。
「急いでタァンドルシアと話しをしなくてはならない。お姉さんに連絡を付けてくれ」
カルレイタムが直立して、音もなく出て行った。しかしまだ気配を消すことはできていない。
「イシュルぅー。あの子、食べちゃだめだよぉー」
タナデュールが横目でイシュルを見ながら言った。
「えー? からかってるだけだよー」
「うえぇ? 頭から食べそうな目で見てたよぉ」
ヤーンスがスプーンを置いた。
「奴が夜に着くとして……時間を置くか、余裕を与えずたたみかけるか……」
そう言ってヤーンスは全員に視線を向けた。
「夜中に来られたら、何もできませんね。お互いに」
イシュルが言って肩をすくめた。
「お城に入れないようにして、いじめてやれ」
俺がそう言うと全員が苦笑いした。
「タナデュール、仕掛けはどんな具合だ?」
「お昼にはできますよぉ。でも試験はできないからぁ、ぶっつけ本番ですぅ」
そう聞いてヤーンスは頷いた。
「日のあるうちに奴が着いたらそのまま決行、夜になったら締め出しだな」
タァンドルシアからいつでも構わないと返事が来たので、俺達は食事を終えるとすぐに王宮に向かった。
執務室の中はさらに凄まじい状態になっていて、タァンドルシアは書類に埋もれているような有様だった。壁にあったタペストリーは引っぺがされて、貼り継いで作った大きな紙にいくつもの案件の名称と、遂行状況と期限日が書き込まれている。
隣の休憩室は会議室に改造されていて、いくつもの会議が同時に行われている様子だ。
タァンドルシアは俺達の姿を見ると席を立って、役人にいくつかの指示を与えて執務室から出てきた。
「もお。頭がおかしくなりそう!」
挨拶も何もなしで彼女はそう言って歩き出した。
「イシュル、ちょっと力入れて」
歩きながらタァンドルシアはイシュルの『手当て』を受けた。
「恐らく夕方、もしくは以降だ」
ヤーンスが、ヴェルドーツの件を省略して言った。
王宮の中は騒がしい。書類を抱えた役人が行き来して、まるで王宮全体が行政府になってしまったような状態だ。変な話しは役人に聞かせられない。
「聞いたわ」
「夕方なら決行。日が暮れたら締め出しがいいと思う」
「燈油とかを節約したいから、暗くなったらみんな帰らせてる。夜は役人も女官もいなくて館の人たちだけ。門は閉めちゃえば、早番が来るまで外から開けられない」
話しながらタァンドルシアは王宮を出て、自分の館に向かった。移動のお付きはヴェルイシアだけだ。
「第三のこと、まだイリュースに話してないの」
タァンドルシアが沈んだ声で言った。
「第三の、妹さん?」
俺が聞くとタァンドルシアは頷いた。
「イリュースは……そんなこと聞いたら生きる気力無くしてしまうわ。あ! イシュル」
「はい?」
「イリュースを一度診てあげてほしいの。胸の病……結核なの」
「わかって、どれくらい経ってますか?」
「お姉様が亡くなった後だから……四年かしら?」
相変わらずタァンドルシアの背に手をあてながら、イシュルが難しい顔をした。
「リンドラの医術ではどうにもできないから、かなり進んでいると思います。抗生物質を使えば進行は止められますけど、元には戻らないし再発は起こりますよ」
「それでもいい、イリュースには生きていてほしいの」
足早にタァンドルシアの館に入り、お母さんを交えての相談を始めた。
「王子を怒らせて……黙っていても怒るだろけど、王宮から逃げ出す。お母様と一緒にマイテザール商館に逃げ込んでくれ」
ヤーンスが説明するとタナデュールが紙に描いたスケッチを拡げた。
「中庭のぉ、一番奥にベンチを置きますからぁ。そこから動かないでくださいね。もし、あー。お兄様がぁ、兵隊連れてきたらここで食い止めますから」
「邪魔者は俺達が止める、ヴェルイシアは最後の守りだ。ヴェルドーツがとち狂って斬りかかる危険がある」
俺が言うとヴェルイシアが頷いた。
「後は……タァンドルシア、あなたと母上様。それとヴェルドーツの勝負です」
ヤーンスが重々しい口調で言った。
「私どものためにいろいろお手を煩わせてしまいまして、申し訳ございません。感謝いたします」
スリルシアがそう言って頭を下げた。
「いえ、お礼には及びません。リンドラの国と国民にとって最も望ましい道が、これしかなかったのです」
ヤーンスの口調はやはり重々しい。もし俺が真似したらみんな笑うだろう。
「義援士の皆様は……この国が、どうあるべきだとお考えですか?」
スリルシアが聞いた。
「全ての国民が飢えない、苦しまない。明日のことを楽しみにしながら暖かいベッドで眠ることができる……それだけです。そこから先は、リンドラの国民一人一人が決めて行くしかありません」
ヤーンスが言うと、スリルシアが静かに頷いた。
「人間の命は全て同じです。でも人が物事に感じる価値は国それぞれ、人それぞれです」
イシュルがそんなことを言い出したので俺は少なからず驚いた。やっぱり頭が良いのだ。
「私たちの考えている価値を押しつけるのではなく、皆さんが満足できる生活の中で物事の価値を考える。それが人のあるべき姿です」
イシュルが言っていることが胸に納まると、俺は何だか恥ずかしくなった。俺は人助けとは言え、ぶった切って殺すしか能がないのだ。これからどうしたらいいのか。
「義援士の皆様はまだお若いのに、立派な方々ですね。この国にもあなた方のような若い人が増えてくれると良いのですけど……」
スリルシアがため息をつきながら言った。
「全部……教育ですよ。タァンドルシア姫だって、ハンマで勉強したからもの凄く仕事ができています。役人を怒鳴りつけるくらい」
俺が言うとタァンドルシアがちょっと不快そうに額にしわを寄せた。
「怒鳴りつける、だけ余計よ」
「ご無礼いたしました。こいつだけは立派な方々から外してください」
ヤーンスが苦笑しながら言った。
「さあ、タァンドルシアの仕事の邪魔だ。俺達は引上げてもう一度計画を見直しだ」
マイテザール商館に戻ると、アトラミケルの死体が到着していると山岳兵団からの報せがあった。もう商館裏の倉庫に運び込まれていて、俺達は一応検分することにした。どう見ても死んでいることに違いはないのだが。
「これを戦死って言うのは無理があるよな」
俺は胸をひと突きされた傷を見て言った。傷はそれだけでとても戦闘中に受けた状態には見えない。
「放置されていたのを、農民が発見したことにします」
荷車を押してきた山岳兵が言った。
「宰相……お爺さんにこっそり来てもらって、確認してもらおう。カルレイタム! お姉さんに連絡!」
宰相トラゼントムールは一時間も経たないうちに倉庫へやってきて、険しい表情で孫のアトラミケルであることを確認した。
「皆様……シシルターリアム様は、これからどうなさるのですか?」
トラゼントムールは顔を両手で拭い、ため息をついて言った。俺は、バールグート爺さんの口からトラゼントムールの名前が出たことを思い出した。
「宰相、あなたは……ヴェルドーツ王子を、アトラミケル王子殺害の罪で咎める気はありますか?」
ヤーンスにそう聞かれて、トラゼントムールは口を引き結んで少しの間考えていた。
「アトラミケル様は、王としての資質には欠けておられた……だが。このように、殺される、何らかの罪を犯していたとは思えない」
ヤーンスは頷いて言った。
「タァンドルシア姫は、ヴェルドーツ王子を告発します。罪状はハイデン州への不法な軍事侵攻、エルミハルム王子及びリリンドルシア姫の謀殺容疑、そしてアトラミケル王子の殺害が加わりました」
トラゼントムールはもう一度両手で顔を覆った。
「ヴェルドーツ、王子は……王位継承を行っていない。7世様の崩御を隠しているから……従って、ヴェルドーツ王子は自分自身の罪を不問にすることはできない」
ヤーンスはもう一度頷いた。
「では……ヴェルドーツ王子がここへ到着してから、タァンドルシア姫と私たちで考えている計画に加わっていただけますか?」
トラゼントムールは少しの間俯いて、顔を上げた。
「協力しよう。ヴェルドーツ王子では、国が滅びる」
ヴェルドーツの到着は早かった。アトラミケルが乗ってきた馬を予備で曳いて、馬が疲れる前に乗り換えて走ってきたのだ。まだ夕方にも早く、執務室はごった返していた。
「これは、何だ! タァンドルシア! お前は何をやっている!」
ヴェルドーツが城に入った時に知らせを受けていたので、タァンドルシアは驚きもしなかった。凍り付いている役人など気にした様子もなく、書類越しに一度だけ兄に視線を向けすぐに書類に戻した。
「兄上が放り出した仕事を片付けております」
ヴェルドーツを見もしないでタァンドルシアが言った。
「何の権利があって、お前が政務をやっている!」
「権利ではありません! 義務で勤めております!」
タァンドルシアの声が、ヴェルドーツの声を圧倒した。
「7世様がお隠れになっているとは言え、なぜこのように何もかもご政務が滞っていたのですか!」
「お前のような者が手を出すことではない!」
「私がやらなければ誰もやらないではありませんか!」
二人でこめかみに青筋を立てての怒鳴り合いだった。ヴェルドーツは変わり果ててしまった執務室を呆然と見回し、再び怒りの表情を浮かべた。
「父上の……部屋を、よくもこんなに……」
「仕事ができなければどんな部屋にいても意味などありません!」
「私を……馬鹿にするのか……」
「政務を放り出して内戦を始めようとする人間が賢いのですか!」
ヴェルドーツを怒らせるのが目的なので、タァンドルシアは容赦なかった。
「しかも全軍で州の制圧に向かうなど、もうリンドラ国に対する犯罪です!」
ヴェルドーツは足音も荒くタァンドルシアに歩み寄った。派手な音がしてタァンドルシアが一歩よろめいた。
「出て行け……お前はもう、城から出て行け」
震えながらも静かな口調で言ったヴェルドーツは、体を起したタァンドルシアの視線に刺されて体を引いた。
執務室にいる役人たちはしばらく立ち尽くしていたが、タァンドルシアが手を動かすとそれぞれの仕事を再開した。
タァンドルシアは机から分厚いノートを取り上げ、積み上がった書類に手をかけた。数秒の間震える手でそれを押さえていたが、手を引くと足早に部屋を出て行った。
振り返ったヴェルドーツは、無表情なヴェルイシアと対面してしまった。ヴェルドーツの手が剣の柄に向かって動きかけたが、剣は鞍に挿したままだった。
ヴェルドーツから視線を外さずにヴェルイシアは軽く一礼し、音も立てずにタァンドルシアの後を追って部屋を出ていった。
「誰か……説明しろ」
ヴェルドーツは執務室を見回しながら誰にともなく言った。
「何から説明いたしますか?」
役人が執務席の前に立って聞いた。
「いま……何を、やっているところなのか」
「全てでございます」
役人が無表情に答えた。
タァンドルシアは館に駆け込むと、スリルシアの胸にすがってしばらく泣いた。生まれて初めて殴られたのだ、怒りが少し鎮まると涙が止まらなくなった。
「スリルシア様、姫様。参りましょう」
ヴェルイシアに促されて、頬を腫らせたタァンドルシアは母と一緒に館を出た。スリルシアも目立たない衣服に着替え、目立つ馬車は使わずに徒歩で城を後にした。城の門には衛士もいない、タァンドルシアが廃止してしまったのだ。
門から出てすぐに、母娘の前後左右を囲むようにして人が歩き始めた。普通の市民を装っているが全員が山岳兵団の男女だった。
何事もなく二人がマイテザール商館に入ると、すぐにヴェルイシアは城に引き返して館で待機していた女官に合図を送った。
女官は執務室に向かい、ヴェルドーツにスリルシアの出奔を伝えた。
「何だと?」
役人による難解な業務説明を聞いていたヴェルドーツは、その知らせを聞いて立ち上がった。
「どこへ向かったのだ、二人は!」
女官は二人の行き先までは知らなかったが、タァンドルシアがここ最近マイテザール商館に出入りしていたことを聞かされた。ヴェルドーツは女官に命じて私兵として使っていた男たちを呼び寄せ、マイテザール商館を探らせた。
Ⅲ
「来たな……」
ヤーンスがつぶやいた。俺も、商館の門から中を窺っている男の姿を見た。
「タァンドルシア」
俺が合図すると、タァンドルシアが窓のカーテンを半分開けて外を眺める仕草をした。見張りにわざと姿を見せるためだ。すぐに男が王宮の方向に走って行くのが見えた。
「よし。やるぞ! 位置につけ!」
俺とヤーンスは中庭に立つ、タナデュールとイシュルは二階、アデルバスは館の大扉横に隠れた、そしてタァンドルシアは、母上とヴェルイシアと一緒に中庭の奥だ。二人はベンチに座ってヴェルドーツを待つ手はずだったが、直前に少し変更した。
「それで……どうしてもこれか?」
俺は手にした木の棒を見てぼやいた。
「仕方ないだろう? これ以上死人を出すなってお達しだ」
ヤーンスが棒で肩を叩きながら言った。
「タナデュールの仕掛けの方が、もっと死人出そうな気がするぜ」
「不可抗力だ」
それほど待たなかった。男が六人、門の中に駆け込んできた。商館の大扉は開いていて、中庭にいるタァンドルシアたちはすぐに目に入るはずだ。その後からヴェルドーツがさらに十人の男を連れてやって来た。
「タァンドルシア!」
大扉の所でヴェルドーツが叫んだ。
「出て行くのはお前一人だ!」
「勝手なことをおっしゃらないでください!」
タァンドルシアが叫び返した。ヴェルドーツが大扉から中庭に入ってくる。そこで俺とヤーンスが左右から出て真ん中あたりに立ちふさがる。ヴェルドーツが連れてきた男たちは全員剣を差していた。
「心強い棒だぜ」
俺は苦々しくつぶやいた。
「何だお前ら、邪魔をするな」
俺達を見回して、横柄な口調でヴェルドーツが言った。
「兄上、お話があります。お供の方々はそこでお止めいただいて、兄上だけおいでいただけますでしょうか?」
「うるさい! お前と話すことなどない!」
「私にはございます」
スリルシアが立ち上がって言った。
「エルミハルムとリリンドルシアのことでございます。ヴァルヴァンデ様もご存じだったと聞いておりますが、ヴェルドーツ様の口から説明を聞きとうございます」
ヴェルドーツは嫌な表情でスリルシアを睨み、背後の男たちに何か言って一人だけで前に出た。俺とヤーンスに憎々しげな視線をよこしながらタァンドルシアたちの前に立った。
「聞こう。だがヴェルイシアは向こうへ行け」
俺達はヴェルドーツが連れてきた奴らから目を離せないので、タァンドルシアたちの話しは背中で聞くしかなかった。ここから先は状況しだい、出たとこ勝負なのだ。
「その前に、兄上に聞きたいことがございます」
「何だ?」
「アトラミケル様はどうなさいましたか?」
タァンドルシアの質問に、ヴェルドーツは一瞬答えに詰まったようだった。
「アトラミケルが、いま何の関係がある」
「あります」
棒を握っている俺の手が汗ばんできた。裏の扉がきしむ音、俺達が見張っている男たちがわずかに動いた。
「おい、あれは……誰だ」
「兄上がよくご存じの方です」
タァンドルシアの声があくまで冷静なのが救いだった。こちらもあまり焦らずにいられる。だがヴェルドーツの顔を見ることができないのが残念だった。
「ヴェルドーツ様!」
「トラゼントムール、ここで何をしている!」
「ヴェルドーツ様。なぜ、アトラミケルを殺してしまわれたのですか?」
俺は呼吸を詰めた。ここでしくじったら真っ先に死ぬのは俺達だ。
「待て! なぜだ!」
ヴェルドーツの悲鳴のような声が聞こえた。タァンドルシアとスリルシアの脇に置かれた物は、アトラミケルを納めた棺に布を被せたものだった。俺達の背後でそれが開かれて、ヴェルドーツがアトラミケルの死体と対面させられたのだ。
男たちが一歩動きかけた。俺とヤーンスは逆に一歩下がって二人同時に棒をさし上げた。館の二階で何かを叩く大きな音がした。
男たちが頭上を見上げた瞬間に、二階の床板が一度に床板が外れて何十個もの紙の束が落ちてきた
紙束と言ってもひとつが四十ポンド(五十キロ)もある。喰らったら痛いなんてものではないだろう。轟音とホコリが収まると、男たちは一人残らず下敷きになってうめき声だけが聞こえていた。
「アデルバス! 開けろ!」
声をかけると待機していたアデルバスが館の大扉と門扉を開いた。轟音を聞いた市民たちが何事かと集まってきている。
「アデルバス、そいつら見張ってろよ!」
俺とヤーンスは後を任せて、タァンドルシアたちの対面を見守ることにした。ヴェルドーツが口を開けて惨状を見つめている。
「これでもう邪魔は入らないな。おいヴェルドーツ、タァンドルシアの話しを聞きな」
ヴェルドーツがぎくしゃくした動きでタァンドルシアたちに向き直った。館の中にざわめきが満ちてきた。
ヴェルイシアの連絡を受けた女官が、城にいた役人たちもマイテザール商館へ集まるように伝えているはずだ。大勢の人がこの場面に立ち会う。
「ヴェルドーツ王子! あなたをハイデン州への不法な軍の侵攻、およびアトラミケル王子殺害の容疑で告発します!」
もの凄く通るタァンドルシアの声に、人々のざわめきがぴたりと止まった。
「なん……だと……?」
ヴェルドーツの手が、震えながら剣にかかった。ヴェルイシアがその前に立ちふさがる。
「加えて! 私の兄と姉の謀殺容疑! ヴァルヴァンデが死に際に証言いたしました! またスリルシア后もその罪であなたを告発すると言っています! 何か申し開きはありますか!」
俺達の背後がざわめいた。
「私は……」
ヴェルドーツの声は虚ろになっていた。
「王位継承者だ……」
「裁判が終わるまで、その権利は認めません!」
「なぜお前が……そんな……」
「もうひとつ罪状を申し上げましょうか! 証人と証拠は私自身です!」
「うわ、すげえ……」
ヤーンスが唸るように言った。タァンドルシアは自分の出生について、いつの間にか吹っ切ってしまったらしい。
「お前は……」
ヴェルドーツが剣を抜いた。ヴェルイシアが体を僅かに横にした。
「そこを、どけ」
ヴェルイシアはヴェルドーツの言葉を無視したように動かなかった。ヴェルドーツが唸るような声をあげてヴェルイシアに斬りかかった。二度三度とヴェルドーツの剣が空を斬ったがヴェルイシアは体でかわすだけで一歩も動かなかった。
六度目の斬撃がヴェルイシアの左腕をかすめた、そのときヴェルイシアの目が俺達に何かを伝えた。
「おらあ!」
俺とヤーンスは同時に気合いを入れて棒を振るった。俺はヴェルドーツの利き腕を狙い、ヤーンスは脚を狙った。鈍い音がして、骨が砕ける感触が伝わってきた。
ヴェルドーツの体はその場で横に半回転して地面に叩きつけられた。右腕と左脚が変なぐあいに曲がっている。
「ヴェルイシア!」
タァンドルシアの悲鳴が上がった。ヴェルイシアが押さえている袖に血の染みが拡がって行く。
「ご心配なく、たいした傷ではありません」
「ヴェルイシア! ヴェルイシア!」
ヴェルイシアの声が聞こえなかったように、タァンドルシアは泣き叫ぶような悲鳴を上げて縋りついた。それから震える手で、ヴェルドーツの剣を拾い上げた。
「ああ……」
俺達の足元でヴェルドーツがうめき声を上げた。その喉元にタァンドルシアが剣を突きつけた。
「ヴェルイシアを、傷つけましたね」
タァンドルシアが恐ろしく低い声を出した。俺は背筋が寒くなり、同時に体が締め付けられるように感じた。
「タァンドルシア……やめろ……」
弱々しい声でヴェルドーツが言った。
「お前は……」
「何か……言い残すことでもありますか?」
「お前は……父親を、殺すのか……」
タァンドルシアの口元や目元がばらばらに動いた。
「あなたは。私を……娘と、認めるのですか?」
ヴェルドーツが頭を動かした。頷いたのか痛みのためか、よくわからなかった。
「私は……お前の、父親だぞ……」
ヴェルイシアがタァンドルシアの手から剣を取り上げて、ヤーンスに渡した。タァンドルシアは何度か肩で息をしてから顔を上げた。
中庭に集まった群衆が、声もなくタァンドルシアに向かって頭を下げた。
俺は公社の公用制服に着替えて、いつかのように五王並立公社の廊下にあるベンチに座っていた。俺とヤーンスでヴェルドーツをぶっ飛ばしてから五日が経っていた。
廊下の向こうから女官ではなく秘書がやってきて俺を呼んだ。前にここへ来たのは、一ヶ月も経たない前だった。
「お疲れ様でした、レジメンダー・シド。いま報告を読みました」
主管は眼鏡を置いて、十数枚に及ぶ報告書を揃えて机に置いた。あれを書き上げるのに俺は二日もかけてしまった。
任期の途中ではあるが、俺達がかかわった出来事が大きすぎるので一度報告を行った方がいいとヤーンスが判断したのだ。
ついでにタァンドルシアから王女様宛の手紙も託された。親書にあたるからダメだと断ったのだが、タァンドルシアに私信だと断言されて押しつけられた。
「ヴェルドーツ王子は政務に復帰するにしても三か月は後。リンツ7世の国葬は来月、しばらく新王の即位はなく当面リンツ8世は空位。実務はタァンドルシア王女が代行」
主管はそう声に出して表紙の記載を読んだ。
「ヴェルドーツ王子がリンツ8世を継ぐ可能性について、あたなはどう考えますか?」
主管に聞かれて俺はちょっと困った。
「個人の……考えで、いいのですか?」
「当然ですよ」
俺は頭の中を整理した。
「ヴェルドーツの……彼が行った犯罪行為については、役人と、リンツヒラー市民の多くが直接聞いて知ってしまいました。市民と……それと役人の信頼なんかは圧倒的にタァンドルシアです。もし、女王が認められるならタァンドルシアが王位を継いだ方が国のためになります」
主管は満足そうに頷いた。
「そうですね、あの子はとても聡明です。為政者としての資質は充分です」
そう言いながら主管はもう一度報告書を取り上げた。
「しかし……タァンドルシア姫は、本当にリンツ7世の娘ではないと公言なさってしまったの?」
「はい……彼女はそれを隠す気はなくて、もう気にもしていないようです。自分は偽物の姫だったって、平然と言ってます」
「先に本人が言い切ってしまったら、誰も文句は言えませんね」
主管は感心したように息をついた。
「それと……」
主管は報告書を何枚かめくった。
「『ハイデン州とグーンドラ州、イッスリマ家がリンツ州への物資流通を意図的に減らしている疑い』これについて証拠はありますか?」
「証拠やデータはありませんが。事実としてハイデン州とグーンドラ州では食糧や物資が多く流通しているのに、リンツ州では食糧が不足しています」
「この、意図的という部分については?」
「街道の整備が遅れています。ハイデンとグーンドラ間については道路の整備や保安が行き届いていますが、ハイデンとリンツ間は何もしていません。それに排除できるはずの鬼病患者集落についても放置されていました」
主管はわずかに頷いた。お茶のワゴンが入ってきた、お茶は上品で香りが高く透明だ。
「ああ……あなたが持ってきた、医療義援士イシュルからの報告ですが。非常に有用な発見があったようですね」
俺はヤーンスと、イシュルとタナデュールの報告書も預かってきたのだった。
「複数の血液サンプル中に同じ型の原虫が発見できたと……鬼病が、寄生虫が原因で起こる病気である疑いだそうですよ。しかもそれと同じ原虫は、魚や小動物の血液中にも寄生しているそうです」
「原虫って……何ですか?」
「まあ……病原性の微生物という意味ですね」
主管はもう一度報告書の束を整えて机に置いた。
「老練な義援士ではなく。若い、意欲的な人間を送り込んだことは非常な成功だったと思います。犠牲者は多く出てしまいましたが。内戦となればこの何十倍もの犠牲者が、しかも市民に発生していたでしょう。それを考えればこの程度で済んだと考えることもできます。でも、恐ろしい速さで事態が進行しましたね」
ここでも人間の命は軽いのだ。犠牲者はほぼ軍人で、リンツ国軍の戦死者は八百人に達していた。それに対してイッスリマ軍が受けた損害はたった負傷者十数名。
リンドラにとっては国が揺れるほどの戦争だったが、たった三千の軍どうしがぶつかり合って片方がボロ負けしただけだった。
その程度の戦闘は義援戦士隊がかかわる民族紛争でも起こる。リンドラは、まだそんな程度の国でしかないのだ。
俺は不意に、今回の件が主管とバールグート爺さんが仕組んだことではないのかと考えてしまった。特にバールグート爺さんは、リンツ家にスリルシアを嫁がせたことで内部崩壊を引き起こしたようなものだ。
『リンツ家など片手でひねり潰す』と公言して、実際にやって見せた。できるのだったらどうして今まで何もしなかったのだろう。
「主管。あの……ご意見を伺いたいことが、あります」
「どうぞ。ご遠慮なく」
俺は一度深呼吸しなくてはならなかった。
「グーンドラ州イッスリマ家のことです」
主管は俺に視線を据えて、小さく頷いた。
「あそこは……リンツ国軍を上回る戦力を持ちながら、二十年前の動乱でも動きませんでした。バールグート氏は……以前から、リンツ軍は恐るに足らないと言っていて。今回それを証明なさいました……なぜイッスリマ家はリンツ家を倒して、リンドラ全土を制覇しなかったのでしょうか?」
主管は俺をじっと見つめていた。タァンドルシアに凝視されるほどには、もう圧迫感を感じなかった。
「シド、あなたはあのリンツヒラーに魅力を感じますか?」
主管が聞いた。
「魅力……人が暮らす土地としては、あまり……でも、空だけはきれいでした」
主管が頷いてさらに聞いた。
「 空の美しさは、あなたにとってあそこを征服する理由になりますか?」
『王女様もあの空を見たのだ』そう知って俺は、ちょっとだけ王女様に親近感を抱いた。
「いいえ……経済や、そのほかいろいろなことを併せても。あの土地には……犠牲を払う価値がありません」
主管は深く頷いた。バカな俺でも、もう自分で出した質問に自分で答えてしまったとわかってしまった。だが俺にとって、あそこは価値のある場所だった。タァンドルシアが必死に働いている場所なのだ。
「リンツ家は、どうしてあそこにしがみついていたのでしょうか?」
俺が聞くと主管は目を閉じて、椅子の背にもたれた。
「わかりません。空が美しかったから、あそこを離れたくなかった……そんな理由かも知れませんね」
いきなり現実離れしたことを王女様に言われて、俺はどう答えていいのかわからなくなった。
「主管。もうひとつ、質問して……よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「ヤーンス・グリッグゼルですが……主管は彼の、あの……」
「彼が何物であるのかは承知していました、その上で彼を送り込みました。何かが起こるかも知れない、それも承知していましたよ」
「なぜ……」
「ヤーンスの養父が義援士として登録する際に説明したからですよ。このような事情で名を隠して、事情のある子供を養子としていると」
ウーデラクスンは生真面目な剣士であったのだ。だからイッスリマ家の剣士からも尊敬されていたのだ。
「ヤーンスは、リンドラ国の戸籍を回復したいそうです」
主管は頷いた。
「それはリンドラ内の手続きです、戸籍の変更は公社では特に手続き……ああ、名前が変わるのでしたら必要になりますね」
「いえ、あの……ヤーンスは、退職を希望しています」
主管は目を閉じ、すぐに開いた。
「義援剣士隊は、実はリンドラ国内で起こる動乱に備えて残していました。言ってみれば昔のレジムが行う任務です」
主管はカップを取り上げてひと口大きくお茶を飲んだ。
「もし今後リンドラ国内に動乱が起こらず、そしてリンドラが現在の技術的封鎖を解いていくのであれば、剣士隊は必要なくなります」
「あ……」
俺は初めて気がついた。俺の頭の中を見たように、主管が頷いた。
「どのような形であれ、タァンドルシアが国を動かすのであれば。もう、現在のようなリンツ・リンドラではなくなって行くでしょう。そしてこの先リンドラを支えていくのはタァンドルシアしかいません。現にもう、ここのリンドラ公使館に増員と電信回線の増設を行いたいと申請されています」
リンツ7世とヴェルドーツが使っていた古風で優雅な執務室は、タァンドルシアが入ったとたんにただの事務室になってしまった。彼女はそうやって触れる物全てを変えてしまうのだ。リンドラ国民にとって、彼女は魔法使いかも知れない。
「すると剣士の俺は……失業ですか?」
冗談で聞いてみたが、主管はまじめな表情で頷いた。
「あくまで警護隊に所属したいのなら、そのうちライフル隊になります」
あんな殺伐とした戦いはやりたくなかった。数百メートル向こうにいる人間を殺すのだ。
「またリンドラに戻りますか?」
主管が聞いた。
「はい。イシュルとタナデュールの仕事はまだ始まったばかりですから、しばらくは手が足りないと思います」
「この報告書を王様にも読んでいただきます。公社の文書と、私からタァンドルシア姫宛ての手紙を持って行って頂きますので明日もう一度おいでください」
俺は考えすぎて何だか頭がぼーっとなって、公社を出てから手近のバゥル(カフェ)に入った。
午後も早い時間だったがリケル(ハーブリキュール)の水割りを頼んで少しずつ飲んだ。
大通りを行き交う路面電車や自動車、途切れない人の波。ここは本当にリンドラと同じ世界なのだろうか。空を見上げれば薄い灰色に染まっている。空気は濃いけど濁っている。
俺はリンドラの透明な空と静けさが恋しくなった。剣士隊がなくなるのなら、剣を差してリンドラを旅していた方がまだ自分らしく思える。俺はハンマには何も持っていなかった。
「母さんに、会おう……」
きっとひどく怒られるだろう。五年もほぼ音信不通だったのだ、会ってくれないかも知れない。
考えてみればおかしな話しだった。母のことをずっと忘れようと努めていたのに、今は「忘れていない」と告げに行こうとしている。
「そうか……」
俺はグラスの中につぶやいた。タァンドルシアと行動を共にして彼女に見せつけられたものは親子の強い絆、人と人との強い繋がりだった。そのタァンドルシアが俺を友と呼んでくれた。
俺もタァンドルシアに、リンドラという不思議な国に引き寄せられて、繋ぎ止められてしまったのだ。俺は目を閉じ、この町の喧噪を無視しようと努めた。氷がグラスの中で音を立てた。
『王立義援公社』END
王立義援公社「姫のお国を助けます。でも、できないこともあります」 黒井 創人 @kumaoyabun
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
我が子をたずねて三千世界 最新/カルムナ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます