第8話「簒奪の偽姫」


 雨が降り出していた。ヴェルドーツは薪が尽きかけて心細くなった火を睨みながら、小屋の中でいらいらとした様子で伝令を待っていた。

 全身から水をしたたらせた兵が走ってきてヴェルドーツの前に直立した。

「ダグドーレン隊長がおいでになりました!」

 ヴェルドーツはアトラミケルを促して、面倒そうに立ち上がった。昨日は土の上に寝るしかなかったのだ、川の音もうるさくてろくに眠っていなかった。

 濁流となっている川の向こうに、リンツ国軍第一隊長ダグドーレンの姿があった。ヴェルドーツの姿を認めるとダグドーレンが直立した。

「急いで、仮の橋をかけろと伝えろ」

 傍の兵に伝えると、兵がヴェルドーツの命令をダグドーレンに向かって叫んだ。ダグドーレンの返答は川の音と雨に遮られて良く聞こえない。

「何と言っているのだ!」

「作業隊をリンツヒラーから呼ぶと」

「そんな悠長なことはやっておれん! 兵を使って何とかしろ!」

 叫び合いが何度か繰り返された。

「資材も、道具もないと……」

「だったらハラームデンまで侵攻して職人と工夫を連れてこい!」

 叫び合いが繰り返され、結局軍団は王子たちをここへ残して急いでハラームデンの占拠を実施することになった。

「なぜこんなことになったんだ!」

 小屋に戻るとアトラミケルがヴェルドーツを詰った。

「俺に聞くな! 恐らくタァンドルシアの計略だ!」

「タァンドルシアがどうして俺たちをこんな目に遭わせるんだ!」

「知るか! ハンマへ行って頭がおかしくなった奴の考えなど、私にわかるか!」

 兵たちがどこからか乾いた木材を見つけてきて、ようやく火が大きくなった。


 朝食の席に、タァンドルシアが姿を見せなかった。

「どうしましょうか?」

 ヴェルイシアが困った表情で食道にやって来た。タァンドルシアがベッドから起き上がれないと言うのだ。

「寝かせておけよ。夕べの飲み方じゃ、昼まで残ってるだろう」

 ヤーンスが言った。昨日の夜、タァンドルシアはぶっ倒れるまでぶどう酒を飲んでしまったのだ。

「どうせ今のところ、タァンドルシアにやることはない」

 朝食はいつもの黒いパンとミルクティ、固いチーズ、豆のスープ。ハイデン州やグーンドラ州と比べて首都のリンツヒラーがあるリンツ州の食材は少ない。

 しばらくの間静かな食事が続いた、みんな懸命に考えているのだ。どうやってタァンドルシアとお母さんだけでヴェルドーツに対決させるかを。

「今日……残りの全軍が、引っ張り出されるんだよな?」

 俺は黙って考えるのが苦手なので口に出した。

「恐らく、午前中に偽の伝令が着きます。二千の出撃ですと進発は夜になるかも知れません」

 ヴェルイシアが皿からチーズの薄切りを取りながら答えた。彼女がタァンドルシアの傍を離れることはめったにないが、タァンドルシアはただの二日酔いなので放っておいた方がいいのだ。

「軍が動くのに、宰相はどうしたんだ? もう諦めたのか?」

 ヤーンスが聞くと、ヴェルイシアは小さく首を振った。

「アトラミケル様がヴァルヴァンデ様捕縛の妨害をしたと、もう王宮の中は信じてしまっています。宰相は出仕を控えて私邸からの指示だけなので、軍に目は届きません」

 ヤーンスがスプーンをスープ皿にさし入れたまま何か考えていた。

「だったら……タァンドルシアを王宮に入れて、緊急の事態だから執務の代行をさせるのはどうだろう?」

「王宮を乗っ取るのか?」

 俺が聞くとヤーンスは首を振った。

「いまはただ王宮にいるだけでもいい。だがヴェルドーツにはタァンドルシアが勝手に政務に手をつけ始めたと伝える」

「怒って、飛んで帰ってくるぞ」

 俺がそう言うとヤーンスはにやっと笑った。

「最小の手勢でな、軍なんか連れて来られるはずがない」

「あー。それなら可能性ありますねぇ」

 タナデュールが大きな声を出した。

「でも王宮じゃなくてぇ……ヴェルドーツさんが慣れてない場所に連れて行ってぇ、話した方がいいですよぉ」

「何でだ?」

「んー。王宮だとぉ、ほらぁ。ヴェルドーツさんが支配している場所じゃないですかぁ。自分の縄張りだからぁヴェルドーツさんに絶対有利ですぅ」

 何となく、タナデュールの言っている意味は理解できた。動物のケンカは、自分の縄張りにいる方がだいたい強い。

「そしたら……」

 イシュルがパンを噛みながら言った。

「ヴェルドーツが戻ってきたら、タァンドルシアはわざと追い出されて。どこかにヴェルドーツを……おびき出す?」

「そうできればいいが、どうやっておびき出す?」

 ヤーンスに聞かれてイシュルは肩をすくめた。

「そんなの簡単じゃないか」

 俺が言うと全員がこっちを向いた。

「ヴェルドーツは……タァンドルシアのお母さんをお后にする気みたいだから、タァンドルシアがお母さんと一緒に逃げたら追ってくるだろ」

「あ。その手、良いですぅ。お母さんも安全になるしぃ」

「場所はどうする? ちょっと待てその前に、最終的な落としどころを何種類か決めておかないと、まずいぞ」

 ヤーンスが言った。

「何種類かの落としどころって……どんなだ?」

「一番いいのは……」

 ヤーンスは白い髪の中を指先で何度か梳いた。

「タァンドルシアとお母さんが王宮と縁を切って、この国で静かに暮らせることだ。次が……」

 ヤーンスが口をつぐむと、イシュルが後を引き取った。

「お二人とも、国外で暮らす?」

「……まあ、そうだな」

「まだあるだろ」

 俺が言うと、また全員の注目を浴びた。

「それだと……リンドラの、国はゴタゴタなまんまだぜ。ヴェルドーツが王じゃきっとまた内戦になる」

「だったらどうする?」

 ヤーンスに聞かれて俺はちょっと考えた。

「別に……女王様にならなくてもいい。政務代行のままで、タァンドルシアが国を動かせば良い」

「ええ?」

 声を上げたのはヴェルイシアだった。

「王族の中で一番まともなの、タァンドルシアだろ。優秀なのも」

「言う順番が逆ですぅ」

「うるせえ! 自分たちのこと考えるので精一杯の奴らに比べたら、タァンドルシアの方がまだ立派な為政者になれるよ!」

「それは……確かだ」

 ヤーンスが言ったのでみんなが黙り込んだ。

「この国にとっては、反乱か革命のようなものになるだろうけど……国民にとっては、タァンドルシアが国を動かした方がよほどいい。ヴェルイシアもそう思わないか?」

 ヴェルイシアは呆然としていて、ヤーンスに声をかけられてようやく正気に戻ったらしい。

「すみません……」

 そこで言葉を切って、怯えたような目で俺たちを見回した。

「私には……判断できません」

「今はただ、みんな勝手に理想を話しているだけだよヴェルイシア。タァンドルシアもお母さんも、リンドラの国民も幸せに生きていける方法を……」


 降り続ける雨の中を、リンツ第一軍は行軍を開始した。だがひと晩野天で濡れそぼり、指揮官の王子もいないのだから士気が上がるはずもなかった。戦ってもいないのに敗残のような軍勢は、ぬかるみと化した街道をのろのろと進んだ。

 やがて遠くにハラームデンの町並みが霞んで見えるようになると、ようやく兵の間に気力が戻り始めた。暖かい食事と雨に濡れない寝場所が得られるだけでも有り難い。

 左手は刈り取りが終わった麦畑、右手には湖に繋がる沼地がある見通しの良い場所に出たとき、軍団は急停止した。

「第一集団、散開!」

 隊長の指示で兵たちはぬかるみの中から麦畑に足を踏み入れた。だが麦畑の中も雨で土が緩んでいる。あちこちに段差もあって、散開はひどくもたもたとした動きになった。

道の前方から騎馬の集団が近づいてくる。兵が並んで槍を構えていると、集団の中から二騎の騎馬兵が出てゆっくりと近づいてきた。

「我々はハイデン州代行警備隊だ! お前たちはどこの軍か!」

 馬の上から男が叫んでよこした。

「リンツ国軍第一軍団である! ハイデン州の不穏分子を取り締まるために派遣された! 代行警備隊とは何物だ、聞いたことがないぞ」

「警備隊は警備隊だ! 不穏分子の排除でリンツ軍が来るなど聞いていないぞ! ハイデン州の治安なら、ハイデンに任せるのが普通だろう!」

「リンツ王……代、ヴェルドーツ様の、命である!」

「この軍団による越境はハイデン州知事に通知されているのか!」

「それは私の知るところではない!」

「そんな重要なことを知らずにこんな数の軍団を越境させたのか! たとえ王子の命令であってもハイデン州としては認めないぞ。帰れ!」

「何だと! リンツ国軍に対して無礼だぞ」

 隊長は手で前進の合図を送った。槍を構えた兵が壁となって進み始める。

「あくまで侵攻を続けるなら戦闘の意思があると見なす!」

「抵抗する者は排除する! お前たちこそ帰れ!」

 騎馬隊は走り去り、リンツ国軍はそのまま進撃を再開した。だが百ヤードも進まないうちに、右の麦畑から軍勢が現れた。

「戦闘準備! 方陣!」

 五百人の兵が密集して、歩兵がふたつの正方形集団を組む攻防両用陣形を取った。騎馬隊が戻ってくるのを警戒しての陣形だったが、道路はぬかるみで畑は一段低く兵の動きがひどく遅い。もたもたとしている間に町の方向から騎馬隊が突撃してきて兵の中を突っ切り、方陣は完成しないうちに後方から崩れ始めた。

 麦畑から敵が突撃してきた、何本もの長い丸太を抱えている。それが前衛の槍が届かない距離から次々に兵の中に投げ込まれた。兵は突き倒され足を取られて陣形はさらに崩れた、そこへもう一度騎馬隊が突入してきた。

「密集隊形! 密……」

 後方で叫んでいた隊長の首が飛んだ。騎馬隊が駆け去った後には、陣形は総崩れになっていた。指揮を継承する兵がいないのだ。

 敵が横一列で突撃を始めると指揮者を失ったリンツ軍は簡単に押し込まれ、街道のぬかるみから沼の中に追い落とされた。




 お昼近くになってようやくベッドから出てきたタァンドルシアは、砂糖がたっぷり入ったお茶を飲まされてやっとまともに頭が働くようになったらしい。

 だがこれからの計画案を聞いているうちに、再び気分が悪くなった様子だった。

「私が……ですか?」

 まだ冴えない顔色で充血している目を見開いて、彼女が呆然と言った。

「ずっと王の代わりをやるわけじゃない、宰相が仕事を再開できるようになるまでたぶん数日のことだ」

「無理です……私、何も知りません」

 ヤーンスに言われて、彼女がふるふると首を振った。

「君は、国にとって何が重要であるかを知っている。事実を事実として見て、理解する能力がある。法律や経済をある程度学んでいる。今いるリンツ一族の中で一番優秀だ」

 そう言われても、タァンドルシアは呆然とカップの中をのぞき込んでいるだけだった。

「目的はヴェルドーツを慌てさせて、あんたがお母さんと一緒に王宮から逃げ出すことだ。ただ座っているだけでも良いんだよ」

 俺が言うと、タァンドルシアは途方に暮れたような顔を上げた。姫様ではなく、無防備な若い女性にしか見えない。

「逃げ出して……ここで、ですか?」

「そう、ヴェルドーツに付いてきた奴らは俺たちで何とかする。あんたはお母さんと……ヴェルイシアが一緒でもいい、とにかくヴェルドーツを締め上げて、あんたが娘だと認めさせる」

 当然と言えば当然だが、俺が言ってもまだタァンドルシアは不安そうだった。

「それだけで……あの人が引き下がるでしょうか?」

「不安なら、一緒にあなたのご兄姉を殺めたことも自白させる」

 ヤーンスがそう言うと、タァンドルシアの表情が強張った。

「やると決まったら、ほとんどのことはこちらでやる。君は王宮に入って。できたら執務にかかって、滞っている政務を少しでも片付けて欲しい。たぶん行政はぜんぜん機能していないと思うから」

「私が……」

 そう言いかけて、タァンドルシアは口をつぐんでしまった。カップの中を睨んで眉がぴくぴくと震えている。俺は何か言おうと思ったが、『何も言うな!』とヤーンスに目で止められた。

 数分の沈黙が続いた後、タァンドルシアが顔を上げてセンテルバスを見た。

「いま……私が、ご政務に手を触れても。いいのでしょうか?」

 センテルバスは一度咳払いをして言った。

「タァンドルシア様は。リンツ7世の崩御が公式になっていないために、現在のところ第7正姫の公式身分は変わっておりません。王のご不列にも関わらず王子及び姉姫の方々が執務に従事できない場合、王宮にいる成年王族が執務を代行することが習わしと聞いております。なお成年であることが条件で、性別は問われておりません。従いまして……」

 そこでセンテルバスはもう一度咳払いをした。

「王宮におられますのは現在第五姫のイリュース様とタァンドルシア様だけです。しかしイリュース様は胸の病でお館を出られない以上、タァンドルシア様以外に政務代行をなさる方がいらっしゃいません」

「タァンドルシアは……何歳だったっけ?」

 イシュルが聞いた。

「ハンマの数えだと十九ですけど、リンドラでは二十……ここでは十六で成年です」

 するとタァンドルシアは、リンドラではとっくに結婚して子供がいるような年齢なのだ。

「じゃぁ、もういい歳じゃないか」

 そう言ってしまった俺は全員に睨まれた。タァンドルシアにまで睨まれた。

「そうですね……逃げ隠れが許される年齢ではありませんね」

 タァンドルシアがカップから手を離し、背を延ばして膝に手を置いた。無防備な十九歳の女性が姫様になった。

「最初に……王の元に、聖遺をお返しします。次に、何から始めたらいいでしょうか?」

「まず最初に、宰相の謹慎を解いて出仕させることです」

 タァンドルシアの質問にセンテルバスが答えた。

「スリルシア様の軟禁もやめさせまず。それから宰相と相談して危急の案件を処理する。一番の問題はハイデン州に侵攻している国軍をどうやって止めるかですが、これは手に余ります」

「ヴェルドーツが引き返してくれば、そこで一度止まらないか?」

 俺が言うとヤーンスが首を振った。

「それは確実とは言えないぞ。いくら何でもヴェルドーツの下に指揮官がいないなんてあり得ない。軍だけは侵攻を続けると思った方がいい」

「もしヴェルドーツが死んだら、誰が最高司令官になるんだ?」

「成年王族のどなたかが引き継ぐしかありませんな」

 俺の質問にセンテルバスが答えて、タァンドルシアが怯えたような表情を浮かべた。

「こっちの手に余る問題だし、あっちはもう始めちまってるからどうにもならないぞ。こっちは自分でできることを進めるしかない」

 ヤーンスが言うとセンテルバスが頷いた。

「理由が明らかになっていませんがハンマとの国境が閉鎖されています、それは即時解除する必要があるでしょう。一日長引くとその分だけ様々な損失が発生しますし、こうなるとハンマ政府との連絡も重要になってきます」

 センテルバスはそこで息をついた。

「ハイデン州の件を除いてそこまでを最優先で片付けて、後は止まってしまっている案件を確認して優先順位を決めていく。そだけで二日や三日はかかると思いますよ」

 タァンドルシアが怯たような表情を引きしめ、大きく息をして眉を寄せて言った。

「そうしないと……止まるものも止まりませんね」

「そうだ。機会を失わないうちに、できるだけ早く始た方がいい。その間に俺たちは準備を始める」

「酒が抜けたら」

 俺はまた余計なことを言ってしまい、イシュルに睨まれた。

 タァンドルシアは数秒固まって、息をひとつついてから頷いた。

「わかりました。今から行きます。お酒は、もう醒めました」

「私は姫様に付いて行きますので、こちらにも連絡の者を一人付けます」

 ヴェルイシアが立ち上がりながら言った。

「ああ……それは助かる」

 かくして。二日酔いのお姫様は臨時お雇い剣士二人を従えて王宮へ入り、最初に式部所と言う女官ばかりがいる部屋に行って最初の大騒ぎを起こした。

「あああ!シシルターリアム様! い、い、い、いつ、お帰りで!」

 女官の長らしい女が、凄まじい取り乱しっぷりで悲鳴を上げた。

「今よ。聖遺を持って帰ったの! 箱がないから何か出して!」

「あ……あの、あの……陛下は……」

「知ってる。お返しして礼拝するから、支度して」

「あ、あ、あ……お湿しと、お召しが……」 

「兵が付いてて館に入れないの! だから省略!」

 そこからぞろぞろと女官を引き連れて、まだ公式には死んでいないリンツ7世の遺体に聖遺を供えて礼拝を行った。さすがに俺たちは立ち会うことを許されなかったが、リンツ7世はもう死んでいるから大騒ぎはしなかっただろう。

 それから行政府に押し入った。王宮内はまばらに衛士がいる程度のスカスカで、タァンドルシアを遮る者などいない。衛士はタァンドルシアが通ると直立した。

「どうして誰もいないの!」

 タァンドルシアの一喝で、居眠りしていたような行政府はひっくり返った。

「宰相を呼んで!」

「宰相は……出仕せず私邸での……」

「呼んで! 誰もいないんだから、政務が滞るでしょ!」

 リンツ7世の遺体に対面して本当に腹をくくったのか、タァンドルシアはもの凄い迫力だった。やっと完全に酒が抜けたのかも知れない。

「承認決済待ちの書類があったら持ってきて! 執務室にいるから!」

「あ……執務室は……いま、施錠されて……」

「だったら開けなさい! それと、どうして私の館に兵が付いてるのよ!」

「あ、あ……それは……それは……」

「もういいわ! 後で宰相に聞く!」

 役人がおろおろと走り回り、静まり返っていたお城の中は一気に活気が戻ってきた。王の執務室に入ってタァンドルシアはヴェルイシアと二人で全ての窓を開け放ち、席について一度大きく息をついた。それから机の上にある不要な物を全て片付けさせた。

 しばらくして役人が三人、豪華なお盆のような物に書類を載せてしずしずと入室してきた。連中は執務机の上に何もなくなっていることにかなり驚いた様子だった。

 タァンドルシアの前に三人が並び深々とお辞儀をした。それから一人が恭しく書類を取り上げた。

「お東白館の修繕と改修についてで、ございます」

 タァンドルシアの額に不機嫌のしわが寄ったのが見えた。

「ちょっと待って」

 いきなりタァンドルシアに遮られて、役人たちが凍り付いた。

「そんなことしかないの?」

「は? あの……何と、おっしゃいましたか?」

 タァンドルシアの質問が理解できなかったのか、一人が激しくうろたえた様子で聞き返した。

「あなたたち。王の決裁がないと、そんなことも決められないの?」

「いえ……しかし……」

「そんなことは修繕の予算額と相談して決めればいいことでしょ! くだらない書類を持ってこないで! 国に関すること、連合とか州や市に関すること、すぐに決めて手を打たないといけないことがあるはずでしょ! そっちが先!」

 役人たちが震え上がった。すぐに青ざめた役人が列をなして書類を運んできた。

「裁判とかに関わることは後! まず国務と民政、財務で止まってるものから出して! それから、説明聞くから部署の責任者を全部集めて!」

「すげえ……」

 ヤーンスが感に堪えたようにつぶやいた。ものの数十分でタァンドルシアは行政府を制圧してしまったらしい。

 そのうちに謹慎状態だった宰相が登庁してきた。ここでは出仕と呼ぶのだろうか。

「姫様……これは……」

 執務室は外の廊下にまで役人が並び、執務室の中には新たに何本もの机が新たに運び込まれていた。そのあたりの力仕事なら俺たちでもできた。

「宰相、何なのこの仕事の停まりかたは! あんたたち何やってたのよ!」

「申し訳ございません。一日の公務決裁の数に限りを設けられてしまわれたので、難しい案件は後に送りされ続けになってしまいました」

「どうでもいい案件ばっかり先に片付けて満足していたのね。この、連合から出たベヤレン川の整備と共同開発提案! 何で一年近くも放っておくのよ!こーゆうの放っておくと自動廃案になるかも知れないのよ!」

「しかし、他国との事業となりますと。その、慎重な検討が……」

「それ、誰が検討しているの?」

「いや、あの……」

「誰も検討なんてしてないから放置になってるんでしょ!」

 そう言ってタァンドルシアは書類にサインを書き入れ、指輪の印を捺してしまった。

「はいこれ、次の便でハンマの公使に送って! どこかにそれの計画案とか、文書があるはずでしょ! 後でいいから探してここに持ってきて!」

「あ……はあ……しかし、ハンマとの国境は。航空便も、現在止めております」

「あ、そうだった。どうして止めたの?」

「あの、アージュタンテューカ様のご指示で……」

「どんな理由があるの? 指示書見せて!」

「口頭でのご指示でしたので……」

「だったら私の権限で撤回! 今すぐ再開しなさい!」

 有無を言わせない、爽快なまでの命令だった。

「それから! どうして私のお母様は禁足になってるの?」

 壁際にいる俺たちからでも宰相が顔色を失い、役人たちがそわそわとするのがわかった。

「それは……アージュターテュンカ様の、ご指示で……」

「どうして母上の館の前だけ兵隊がいるの? 落ち着かないからやめて!」

「かしこまり……まして……ございます」

「あ……航空便って何日止まってたの?」

「あの……姫様が、ご帰国あそばされた日以降です」

 タァンドルシアが一瞬止まった。

「十四日経っています」

 ヴェルイシアに言われてタァンドルシアは呆然となったようだ。それからこめかみに青筋が立った。

「あんたたちバカなの! 何でそんなに止めておくのよ! ハンマにまで迷惑かかるじゃないの!」

 俺たちまで震え上がるほどの声だった。

「電信で、臨時便を出せるならあっちで止まってるもの全部運んでもらって! 書類は外交関係が先!」

 青い顔を通り越して、死人のような表情になった役人たちがばたばたと動くのを見ながらタァンドルシアは席を立った。

「母上の所に行ってくるから、戻るまでに書類を全部出しておくのよ!」

 タァンドルシアとヴェルイシアに付き添って、俺たちはようやく本来の仕事に戻った。護衛だ。




 建物は『東の白』と呼ばれているそうだが、建物自体は白くなかった。ヴェルイシアが扉を叩くと女官が出てきて睨み合いになった。

「どなたですか?」

 顔を強張らせて女官が言った。

「お前こそ何物だ」

 ヴェルイシアが聞き返した。タァンドルシアは黙っている、ヴェルイシアに任せるつもりらしい。

「こちらは……第五お后様の……」

「そんなことは知っている。そこにいるお前がなぜ私を知らないのだ」

 女官が一歩後ろに退いた。ヴェルイシアが動いたと見えた瞬間、女官が崩れるように倒れた。ヴェルイシアが何をやったのか全く見えなかった。

「ヴェルドーツ様が入れた見張りですが、どうしましょうか?」

 ヴェルイシアが聞いた。

「縛って、どこかに放り込めば?」

「そうします」

 どう見てもタァンドルシアの機嫌は最悪なので、俺たちは下手に話しかけないほうが良さそうだった。

 母上様はタァンドルシアが入って行くと、大きく息をついて長椅子から立ち上がった。

「一年よりも長く感じましたよ」

「申し訳ありませんでした。聖遺を取り戻して……7世様の枕元へお戻しいたしました。兵がいたのでここに入れなくて、こんな姿でしたけど」

 母上様は目を閉じ、何か祈りの言葉を口にした。

 『こんな女性じゃ誰だって迷う』俺は母上様を見た瞬間にそう感じた。タァンドルシアの姉だと言われても全く疑わないだろう。そして年齢を重ねた分、妖艶と言ってもいい危ない魅力に包まれている。

「義援剣士のヤーンス……デイデルキュアン様、シド・ヨギュルバス様です。旅の間ずっと助けていただきました……お爺さまにもお会いになりました」

 母上様は俺とヤーンスに深々と頭を下げた。

「娘をお助けいただき、感謝に堪えません。スリルシア・イッスリマでございます。7世様ご逝去にございますので、后名はなくなりました」

 スリルシアが顔を上げてこちらへ向いてきた視線で、俺は全身に鳥肌が立った。

「失礼とは存じますが……ヤーンス様は、あのデイデルキュアン家にご縁をお持ちでいらっしゃるのでしょうか?」

「はい。唯一の生き残りのようです」

 ヤーンスの返事を聞いたスリルシアの顔に、微かな感情が浮かんで消えた。

「母上。もうこの方たちは全てをご存じです。それにこれから私はヴェルドーツ様の執務を代行します、時間がないのでこの場で申し上げます。昨日申し上げました通り、ヴァルヴァンデ様は亡くなっておられます。ヴェルドーツ様とアトラミケル様はあと数日お戻りになれません、ハイデン州の討伐はたぶん失敗します。イッスリマ軍に止められます」

 そこまで一気に言って、タァンドルシアは息をついた。

「これ以上道を誤ったまま進めば、リンツ家は滅びます」

 うっすらと笑みを浮かべていたスリルシアの表情が固くなった。目を閉じて、大きく息をついた。

「ええ……あなたがおっしゃる通り、リンツは滅びの道に入っています」

「それで母上が、ヴェルドーツ様を……お手にかければ、どうなりますか?」

 スリルシアは目を閉じて顔をうつむけたまま、何度か息をついた。そんな姿にも妖艶さが漂っていて、視線が離せなくなる。

「リンドラは、国の形を変えなくてはならないかも知れません。タァンドルシア、その間はあなたが執政になる。国を動かしていく。私が考えていた……その先をもうあなたは進んでいます」

 タァンドルシアがどんな表情で母を見ているのか、俺たちに見えるのは長い髪を垂らした後ろ姿だけだ。

「それは……いつ、お考えになったことでしょう?」

 スリルシアが目を開け、タァンドルシアを見つめた。

「あなたが、私の手に負えなくなったと感じ始めたとき……そしてハンマ王にお目通りいただいて、是非にハンマの大学へと王女様に請われたときから。あなたはいつか……何か新しいことを、この国に運んでくるのだと思っていました」

 タァンドルシアの肩が何度か上下した。

「ヴェルドーツ様は、私が執務を代行することを許さないと思います。ヴェルドーツ様は私が執務に入っていることを、わざと知らされます。急いでここへ戻るために、軍を連れずお一人で引き返してくることになるでしょう」

 またタァンドルシアが肩で息をした。

「そして……どうなるのですか?」

 スリルシアが静かに聞いた。

「義援士の方が、ヴェルドーツ様と母上と私。三人だけで話し合う機会を設けていただけるそうです。そこで……私が……」

 タァンドルシアが言葉を出せなくなったらしい、俯いている。荒い息の音だけが聞こえた。

「おやめなさい」

 スリルシアが少しの間厳しい表情でタァンドルシアを見つめ、静かに言った。

「あなたが恥をかくことはありません。それは私が決着を付けなくてはならないことです」

「私は……」

 タァンドルシアがしゃくりあげるような声を出した。

「母上に、もしものことがあって……ヴェルドーツが、いたら……もう、生きていたく、ありません」

 スリルシアが俺たちに視線を向けた。遠慮してほしいと目で言われたのだと思い、俺たちが動きかけるとタァンドルシアが大きな声で言った。

「行かないで、お願い」

 そして一度俺たちを振り返って頷き、スリルシアに向き直った。

「母上。この方たちは私が倒れかけたり、心が折れそうになったり……そんなときに、何度も助けてくれました。今も、義援士の務めではないと、承知の上で……私に最後まで、寄り添ってくれているのです。もう……離れられない、友です」

 そう断言されて俺はかなり動揺した、同時に感動した。

「だから、母上……どちらか、選んでください。私と一緒に死ぬか、それとも。一緒に……生きるか」

 スリルシアが目を閉じてため息をつき、空を仰いだ。

「もう……私などが及びも付かないほどに、成長なさったのですね。タァンドルシア」

 そしてスリルシアはタァンドルシアに顔を向け、優しく手招いた。タァンドルシアが傍に行くと体に腕を回して抱いた。

「あなたにお任せします。一緒に、どこへでも……」

 俺たちの後ろで変な音がした。ヴェルイシアが両手で口を押さえ、涙を溢れさせていた。


 雨は弱まってはきたが、降り止まないまま薄暗くなり始めた。ヴェルドーツの元に兵が駆け込んできた。

「軍団よりの伝令と思われます!」

 ヴェルドーツが早足で向かうと、川の対岸には二人の兵がいた。泥にまみれている。

「ハイデン警備隊と戦闘になりました」

 雨の音が弱くなったので、兵の声は微かに聞こえた。

「そんな物があったのか……ハラームデンの占拠はできたのかを聞け!」

「隊長は戦死、軍は半数ほどで退却」

 こちらの兵が聞くと、対岸からの返事はそう聞こえた。

「半数だと? 千人いたのだぞ! 敵はどれほどの数だったのだ!」

「およそ歩兵三百、騎馬百」

 対岸からの返事にヴェルドーツは呆然とした。

「なぜ……そんな程度の敵に負けるのだ?」

 ヴェルドーツの呻きを、側の兵は対岸に投げかけることはしなかった。

「第二軍を……」

 そう命令を出しかけてヴェルドーツは唇を噛んだ。兵糧(食糧)がないのだ。リンツヒラーからは第一軍の一週間分を持ち出すのが限界だった、第二軍の一千が増援に来てもその分の食料がない。

「離宮の跡まで退かせろ! そこで指示を待て!」

 そう命令してヴェルドーツは頭を抱えて小屋に駆け込んだ。

「どうした」

 アトラミケルが聞いた。

「第一軍が敗走した!」

 ヴェルドーツはそう叫んで小屋の壁を殴った。小屋全体が揺れて、屋根板の隙間から雨水がしたたり落ちた。

「一千を率いていながら、どんな間抜けな指揮をとったのだ!」

「第二第三を呼べばいいじゃないか」

 呑気な声で言ったアトラミケルを、ヴェルドーツは睨んだ。

「その分の兵糧はないんだ!」

「兵糧……つまり、食い物がないのか?」

「そうだ。今動かせる軍の分は全部こっちに運んできた。第二軍を呼んだらここの兵糧は保って三日分になる。しかも第二軍が移動中の兵糧は、兵が自分で運ばなくてはならない」

「……それが、何か問題なのか?」

「お前はそんな事もわからないのか! 兵が自分で持って行ける兵糧は緊急用の堅パンくらいしかないんだぞ! 軍の穀物はもうない! 市中から穀物を二千人分も徴発したら、リンツヒラーから穀物がなくなるんだ!」

 アトラミケルはしばらくの間絶句していた。

「そんなに……食料がなかったのか?」

「穀物の値段は上がる一方だ。それに地方役人と軍の役人が物資の抜き取りをやるから、購入した量の半分くらいしか軍に納入されてこない。銀はあるのに物が来ないのだ!」

「そんなバカな、なぜもっとしっかり管理させない!」

「管理のための役人を送っても、そいつがまた結託して抜きをやるから余計にひどくなる! ハイデンではそうして抜かれた分が独立派に流れている!」

「……ヴァルヴァンデは。本当に、独立派から金を受け取っていたのか?」

 アトラミケルが聞くと、ヴェルドーツのこめかみに青筋が浮いた。

「その上軍人から賄賂を受け取って、将官の人事に口出しをした。おかげで優秀な者が追い出されて、実力もないのに賄賂を使う奴しか残らなかった! あいつは国を食い物にしたのだ!」

「そんなだから第一軍が敵にやられたのか? 僕に任せてくれたら、そんな奴ら全部首にしてやる!」

「お前だって式部の物品や経費の水増しを見逃して、式部の女官を片っ端から館に連れ込んでいるだろう! 式部の弛みを放置したしたあげくがシントラハーネ(4姫)の毒殺だ!」

 言われてアトラミケルは顔を真っ赤にした。

「それじゃまるで……僕が共犯みたいじゃ、ないか」

 ヴェルドーツは怒りの表情を浮かべてアトラミケルに顔を向けた。

「お前の妹は公務にも顔を出さず、館で毎日何をやっている?」

「何って……胸の病なのだから、療養して毎日お祈りをしているだけだ」

「毎日香を炊いて祈りを捧げていると言うが、あれは邪法だろう! しかも怪しげな者たちを館に入れて呪法にまで手を染めている。女官が恐れて、式部でなく俺に報告してきたぞ!」

 アトラミケルの顔が、焚き火の明りでも青ざめたのがわかった。

「お前の母親は残してもいいが。イリュースはおとなしく館を出るか、さもなければ神官の査問を受けてもらわなくてはならんぞ」

「何だと? そんな……だめだ! そんなこと……」

「俺が直接尋問してもいいぞ、イリュースが邪神に何を祈祷していたのか。それとも……ヴァルヴァンデを捕らえたら、罪一等を減じることにしてあいつに尋問させるか? あいつなら一晩かけてイリュースを責め抜くぞ」

 アトラミケルの顔が引き吊って、おかしな叫び声と共に腰の短剣を抜いて立ち上がろうとした。しかし立ち上がる寸前にヴェルドーツの剣がその胸に突き刺さっていた。

「錯乱して俺を襲おうとした。第一軍を指揮中の戦死として扱う、遺骸はここで葬れ」

 駆け付けてきた兵に、ヴェルドーツは平然とした様子で命じた。

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