第4話 おやすみ元カノ、いい夢を
「菜穂ちゃん、今日寝るまで私の恋人になって」
私の家まであと数分のところで、美雨が不意にそんなことを言った。聞き返す間もなく軽く肘でつつかれる。晩ご飯の刺身がナナメになったのでそっと水平に戻した。
「ダメかねえ。菜穂ちゃん彼氏いるし」
ちょっと困ったように笑って美雨がこちらを見つめる。こういう突発的に変なことを言う時は何か考えている時もあればなんとなくの時もあり……つまり意図はよくわからない。ただの悪ふざけかと思っていたら後で結構真面目に考えていたとか、その逆もしかり。
しかし特に反対する理由も見当たらなかったので、私はそっと美雨の手を握った。二つだった影が一つになって長く長く伸びる。
「いいよ。じゃあ今日は私たち恋人ね」
そう言うとパッと彼女の表情が明るくなる。勢いよく頷くのに合わせて、茶色に染まったボブの髪が夏の夕焼けにきらめいた。素直な表情が可愛くってついつい私も大学の友達も甘やかしてしまうのだ。
「おじゃまします」
嬉しそうな彼女に急かされるがままに家の鍵を開けて招き入れる。手を洗って部屋着に着替えてお米を温めてボウルに入れて海苔を切って。
美雨はたまにうちに泊まりに来るし、やってることはいつもと変わらない。いつも通りの女友達だ。でもなんだかちょっと楽しいから、たまにはこういうのもいいかもしれないと思わされる。
「お吸い物できたよー。酢飯はどう?」
キッチンからリビングを覗くと、真面目な顔でうちわを扇いで酢飯を混ぜ込む美雨が目に入った。職人みたいな表情に思わず笑いがこみ上げる。もう一回声をかけるとOKサインが飛んできたので晩ご飯を机に運び込んだ。
「じゃ、食べよっか」
手巻き寿司と白和えとお吸い物。それからビールが二缶。刺身の種類は少ないけどちょっとした贅沢気分。美雨は大葉食べないから私の方に、カイワレ大根は彼女の方に多めに。納豆は半分こ。
「これ試してみて」
美雨が私の方にイカを差し向ける。納豆と大葉と一緒に巻くと納豆の濃厚さとイカの淡白な甘み、大葉のさわやかな風味がよく合った。
「これ美味しいよ」
わさび醤油に少々漬けておいたサーモンを贅沢に二枚使ってイクラと共に手巻き寿司にして食べさせると、見る見るうちに美雨の目じりが下がっていった。こんな風に二人で喋りながらひたすら巻いて食べ進めていると、だいぶお腹もいっぱいになる。残ったネタをゆっくりと消化していると不意に美雨が話を始めた。
「菜穂ちゃんってさ、私のどういうところが好き?」
ちょっと照れくさそうに、でも真剣な色を目に映して彼女がカップルみたいな質問をする。その様子を見てなんとなく「これが聞きたかったんだろうな」と思った。
「まあ、明るくて元気なのは良いとこだよね。あとちょっとした気遣いできるとことか、なんだかんだ礼儀正しいとこか好きだと思う……それでどうしたの?なんかあった?」
彼女と同じくらい真面目に答えると、目の前の彼女はやっぱり恥ずかしそうに笑っている。照れ隠しのためか美雨は一気にビールを煽った後で話を続けた。
「いや、大したことじゃないんだけどね。なんでみんな私に良くしてくれるんだろうなーって思って。私別に可愛いわけじゃないし話がめちゃくちゃ面白いわけでもないし、菜穂ちゃんにもなんかしてあげられてるわけでもないしさぁ」
自分でもうまくまとまらないのだろう。だんだん語尾が小さくなっていってかき消えていく。少しの間沈黙が流れて、私がキュウリをポリポリと噛んでいる音だけが部屋に響いた。
「別に菜穂ちゃんが利益で友人を選ぶわけじゃないってわかってはいるんだけど、私普通なのにすっごく優しくしてくれるから不思議だなって……でもそう言ってもらえると嬉しいな。ありがと」
そう言うや否や彼女がひきわり納豆とキュウリと酢飯を海苔でくるくる巻いて口に放り込んだ。ほおばって咀嚼しているのを見計らって私は口を開く。
「あのさあ、さっき挙げたのもそうだけどさ、美雨はこうやってよく遊びに来てくれるじゃん。私が一人暮らしだから寂しくないように。そういうの嬉しいし、有難いよ」
まだ口がいっぱいで、声に出さずに美雨がもごもごしながら首を縦に振った。私はまだ話を続ける。酒の勢いに任せて好意を示すのは普段より簡単で、だからこそ口から次いで出た。
「まあだから好きなのかって言われると違う気もするけど。気づいたら友達になってて、後で良いとこ自覚したっていうか……別に美雨だって私といると得だからいるわけじゃないでしょ?」
海苔が口にはっついたのだろうか。水を勢いよく飲みつつ、また美雨が頷く。何か言いたげだけど突っ込まれると恥ずかしいから私は言葉を続けた。
「私も美雨と一緒だよ。一緒にいて楽しいし、喜んでくれたら嬉しいし、好きだから優しくすんの。好きなのに理由はいらないでしょ」
ようやく全部食べ終わって、美雨の喉が嚥下で揺れる。口元に微笑みを浮かべて彼女が言葉を発した。
「なんか、菜穂ちゃん彼氏みたい」
「美雨が言いだしたんじゃん」
何を今更、と私が軽く唇を尖らせて拗ねてみせると彼女が声をあげて笑う。二人で笑いながら残った酢飯を各々食べ終わって、今日の晩ごはんはおしまいになった。
「なんか結構お腹いっぱいになったね」
お腹をゆっくりさすりながら美雨がうめき声を上げる。ちょっと張り切りすぎたみたいだ。満腹感でお腹が苦しい。
「そうだね。布団だけ先敷いちゃう? 寝るのはもうちょっと後にするとしてもさ」
そう言った瞬間大きなあくびをしてしまってまた笑われる。さっきのビールも悪かった。私はそんなに弱くもないが多いと少し眠くなるタイプだ。満腹感も相まって今日は早寝になりそうだな、と考えていると後ろから優しく肩を叩かれる。
「私お皿とか洗っちゃうから、菜穂ちゃんお布団敷いといて。そしたらデザート食べよ」
そのままゆっくりと背中を撫でられると思わず瞼が重くなる。ほら、そういうところだ。何気なく優しいから、皆何か返したくなって優しくしたくなる。本人が分かってなくても結局皆何かしら良いところがあるのだ。眠気覚ましにピンと背筋を伸ばしてから私は彼女に言葉を返した。
「うん、ありがとね。よろしく」
そう言って机を折り畳んで片して代わりに布団を二組敷く。夏用のタオルケットを用意しておいて良かった。これで二人とも気持ちよく寝ることができるだろう。お皿を洗い流す水の音が耳に心地よい。気づいたころには私は布団へと顔をうずめてしまっていた。
「あ、菜穂ちゃんズルい。私もー」
布団を通して彼女が布団へ身を投げ出した衝撃が伝わる。寝返りを打って顔を横に向けるとぱちりと目が合った。どちらともなく足で突っつきあう。
それでもやっぱり眠気は醒めなくてだんだん視界がぼんやりとし始めた。せっかく美雨がいるのにちょっともったいない気もするし、こんな風になんでもない穏やかな時間を過ごすのがなんだか嬉しい気もする。
「なんか、ほんとにカップルみたいだね。私たち」
思わずそう呟くと、もう一度優しい蹴りが飛んできた。
「だから、今日寝るまではカップルなんだってば」
ごめんごめん、と特に悪びれもせず謝ると芝居がかった口調で「いいけどー」と返事が返ってくる。美雨はそのままちょっと意地悪っぽい笑顔で部屋の明かりを一段階暗くした。暗くなると本格的に眠気が襲ってきて、目をつむったまま美雨と言葉を交わし続ける。
「菜穂ちゃん、どうでした? 初めての彼女は」
視界が奪われているせいか、いつもよりなんだか音がよく聞こえる。
「……なんかいつもとあんま変わんなかった気がする」
正直に答えてやると「やっぱり?」との返事が返ってきた。そんな反応するってことは美雨も同じように感じていたのだろう。そもそも美雨の話を聞くための「カップル」なんだからいつもと変わらなくて当然なんだけど。
それでも美雨の声はとっても嬉しそうで、私はそれだけでなんだか「今日はいい日だな」と感じた。けど大事なことを思い出して一瞬気分が落ちる。
「……ケーキ食べてない」
せっかくティラミス風味の美味しそうなのを買ったのに、すっかり忘れていた。
「あ、じゃあ明日の朝ごはんにしよ」
さぞ名案と言わんばかりの声が隣から聞こえてくる。ティラミスだけじゃちょっと足りないだろうから、サラダもつけたらいいかもしれない。明日、という言葉で気が付いた。
「明日になったらまた友達だね」
「うん、元カノになっちゃうねえ」
一日付き合っただけで元カノだなんてちょっとおかしいけど。
「でも楽しかったね」
「まあ、元カノなんて早々できないしね。良い思い出になるんじゃないかなあ」
段々美雨の声も眠たげになってきた。目を開くと薄明かりに照らされた美雨の顔が嬉しそうで、ちょっと寂し気だった。普段だったら恥ずかしかったり照れ臭かったりするんだけれど、今なら言える気がする。
「……一日だけだけどありがとうございました。明日からもよろしくね」
妙に改まった口調でそう呟くと小さな笑い声が耳をくすぐった。波みたいに脳内に広がって私を眠りにいざなう。
「こっちこそありがとね、菜穂ちゃん。また明日」
声が頭の中でぼやけて音となって響く。おぼつかない思考の中で、私は明日の朝元カノと食べるティラミスの味を思い描きながら眠りについた。
あなたの隣町にいる人々 折原ひつじ @sanonotigami
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