第3話 私は女神になれない

金木犀の季節に、あの人は逝ってしまった。

肩で切った風に混じった甘い香りが鼻を掠め、ヒヤリとしたものを胸に感じる。一瞬バランスを崩して私は慌てて体勢を立て直した。

ああ、今年もこの季節が来てしまった。一年で一番好きな秋の、唯一好ましくない時期である。甘く芳しい匂いがあっという間に頭の中に充満して、その代わりに過去の思い出を引き摺りだした。

これからも一緒にいれると思っていた。頼りになるかっこいい先輩だった。大学で染める予定の黒髪が眩しく見える人だった。他でもないその人に、私は強い憧れの念を抱いていたのだった。

あの人が交通事故に遭ったと知ったあの時、周りの部員のすすり泣きや「どうして」という声に混じって、確かに私は失恋というものを身を持って知ったのだった。先輩はトラックに轢かれて即死だったという。

固いアスファルトの上に散り散りになった橙色の弱弱しい花が目の前で他の自転車に潰される。黒にこびり付いたオレンジが瞬間ノスタルジックな香りを放って、そのまま華を失った。

それを静かに見守った後、私はまた歩き始めた。




先輩がいなくなってからもう二度目の秋がきて、私は大学一年生になった。先輩が進学する予定だった大学にも少し慣れ、サークルの同輩や先輩、友人とも毎日楽しくやっている。先輩方も優しいし、授業の課題も大変だけれど興味のある分野をきちんと学べている。順風満帆というやつだ。

だからこそ、この場に先輩がいないことを不意に思い出す瞬間がたまらなく寂しかった。考え事を邪魔する様にポケットの中のスマホが震えて、ジャケットが揺れる。取り出して画面を見ると丁度「今授業終わった」という連絡が入っていた。一号館ベンチの前で待ってるね、と打ち込んでから「まってるね」とカラフルな声で呟くクマのスタンプを送った。

約束通りベンチに腰掛けてスマホの情報アプリを開いた頃、不意にまた甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐる。見上げるとこぢんまりとした塊の金木犀が目に入った。小さな花が集まっている様子は幼い子供たちが集まってヒソヒソと内緒話をしているみたいでとても可愛い。だんだん緑が枯れて茶色や赤に色づく町の中でパッと華やぐおひさまの色は確かにあの時まで私のお気に入りだったんだ。

見たこともない事故現場の様子と今朝の潰れた金木犀が重なって思えて無意識に眉間にしわが寄る。金木犀は悪くない。分かっている。けれど小指の先ほどの花が肺にじわじわと積っていって、確実に私を窒息させようとするのだ。

「香苗」軽く上を向いたまま思いを巡らせていると真上から声が降ってくる。「飛鳥」まだ半分夢の中にいるような心地で名前を呼び返すと「行こう」と腕を引かれた。慌てて横に放置してたリュックサックをひっつかむ。

飛鳥は前を歩きつつも「遅くなってごめん」と謝罪の言葉を口にしている。手に持った紙袋が擦れて音を立てる。

「別にいいよ、私が早かっただけだし」会話するたびに口の中に金木犀の香りが滑り込んできて、またそれを排出する。金木犀の海の中にいるようだ。

「昼は?」「終わってからでいいでしょ。そこまでお腹すいてないや」時計を見ると十二時半。けれど不思議と空腹感はなかった。頭の片隅でなんとなく、このまま飢死か金木犀の海で溺死してしまいたい、と考える。そしたらきっと、先輩のように……

「あ、花買わなきゃだ」飛鳥の言葉に急に現実に引き戻された。そうだね、って答えながら前を歩く友人の後ろ姿をじっと見つめる。形の良い丸い頭。高校生の頃と変わらない黒い癖っ毛の髪。「前髪少し伸びたし切りたい」と言っていたことを不意に思いだした。下り坂に差しかかると微妙に飛鳥のつむじが見える。なんだか可愛く見えて小さく笑いを零した。私も今度美容院に行かなくちゃ。自慢の黒髪だ。

「ごめんください」見慣れたくすんだ屋根のお花屋さんでコスモスの花束を買う。いきいきとしたベビーピンクとショッキングピンク、そしてそれと対をなすような純白のコスモスがラッピングにくるまれ、黒いリボンが引きしめるように結ばれていた。

「今年も来てくれたのね」店主のおばさんは去年より少し腰が曲がったように思える。顔に小じわも増えたようで、笑うとますます顔がくしゃりと歪んだ。じわじわと老いに蝕まれていくその様子がなんだか酷く醜く眼に映って、私はいつもよりおざなりに彼女にお礼を言った。

「……暑い」お会計を済ました頃どちらともなく声を漏らし、私達は外に設置してあった自動販売機で飲物を買った。私は緑茶、飛鳥はミックスジュース。秋になったとはいえ時々まだ暑さの残るこの季節にはのど越しの良い清涼飲料が身体に嬉しかった。二人で同時に液体を喉に流し入れ、喉を鳴らす。ひんやりとした感覚が食道を滑り落ちていくのが肉を隔てて伝わった。

きっと、ずっと外にいる人はもっと暑いだろうな。不意にそんなことを考えてしまって、足が止まる。けれど飛鳥も同じことを思っていたようで「もうそろそろ行こう」と言うや否や急ぎ足で先を急ぎ始めた。いつも以上に無口な私達はただひたすらゴールを目指す。私と飛鳥の靴音だけがあまり人気のない坂道に響く。

 会話の無い私達。見覚えのあるアスファルトのヒビが目に入る。呪いのヒビだ。

これを見ると私は毎回泣きそうになって「もういい。帰ろうよ」と叫びたくなる。けれど叫ぶために息を吸い込むと金木犀が肺を圧迫して、私は結局何も言えない。

結局抵抗する術も正当な理由もなく、私達は予定より少し遅れて褪せた赤レンガの門を通ることとなった目に飛び込むのは一面の灰、灰、灰。生を感じさせない物言わぬ石の箱の群れに私は未だに気味悪さを解消できないでいる。まだ私が死の概念をうまく理解できないくらい幼かった頃、よく遊んでくれた祖父の兄がこの下に埋められているのだと勘違いして以来どうも苦手なのだ。

その場所だけ色が変わって見えるかのように迷うことなく歩を進めていく飛鳥とは対照的に、私は管理事務所に軽く挨拶を交わして手桶と柄杓を借りるために別方向へ向かう。

水の入った手桶を手に「さあ掃除するぞ」と墓石に急ぐが、そこでは飛鳥が何をするでもなくぼんやりと立っていた。ずいぶんと寂しそうな背中に胸が痛む。

目の前まで来て足を止めてしまったのだろうか。代わりに私が一歩前へ出て合掌した。「先輩、お久しぶりです」私が挨拶する頃になってつられたように飛鳥ものろのろと手を合わせた。そして小さく息を吸って、吐き出す。

「瀬奈、久しぶり」その恋人に対する愛情のこもった眼差しは、私なんかではなく先輩に向けられていた。




 瀬奈先輩が亡くなったあの日、私たちは写真部の部室でお互いの写真の品評会を行っていた。穏やかな午後に先生から知らされた訃報はあまりにも突拍子が無かった。

誰一人冷静に事態を受け入れられない状況の中飛鳥が小さく「瀬奈」と呟く声が耳にこだまして、その時初めて二人が隠し続けていた「飛鳥は先輩と付き合っている」という事実を知ったのだった。

 先輩は死んでもう手の届かない高嶺の花に、それでいて理想を詰め込んだ神様になってしまった。神になった恋人を求め続ける男と横恋慕する惨めな女。言葉にしてみれば使い古されたなチープな筋書きで、悲しみを排除するにはうってつけだった。

 先輩と一緒に死に損ねてしまった、そんな私達は、古ぼけた中華料理店で同じ皿をつついていた。年季の入った扇風機が軋む音のけたたましさが残暑を煮詰める。それでも何かに駆り立てられるように私も飛鳥も固い皮の餃子を黙々と食らい続けた。

 喉奥にへばりついたニラを蹴り落とすように水を飲み干して、一息つく。見ると丁度飛鳥も水を飲むためこちらに喉仏を見せていた。

「今日も暑かったね」私が口にすると飛鳥も「ほんとに」と同意する。

「毎年この日はなんでか暑くなるね。困っちゃう」

「……瀬奈、夏が好きだったからかな」醤油に混じったラー油の油分を箸で繋ぎ合せながら飛鳥が言葉を漏らす。瞬間空気が重くなるのが感じられて息が詰まった。

 飛鳥はここにいるのに、どうしても先輩の方しか見えない。私を見ない。どうしたら私を、今を見てくれるんだろう?

歩みを止めた先輩につられるようにその場に取り残される飛鳥の未来が見えたような気がして、私は思わず口を開いた。

「先輩は飛鳥のこと好きだったんだよね」あまりに直球な質問に少々面食らいつつも飛鳥は首を縦に振る。

「だったらさ、死んだのが昨日のことみたいにずっと悲しんでたら先輩も心苦しいんじゃないかな?」いつのことだったか、先輩が飛鳥に「笑顔がいいね!」と冗談めかして笑っていたことを思い出す。今となっては本気だったのかどうかはわからないけれど、いずれにせよその言葉に嘘偽りはないように感じられた。

「笑ってくれなきゃ、きっと寂しがるよ。飛鳥も辛いだけだし……あんまり過去に囚われ過ぎちゃ駄目だよ」笑顔が減ったことを一番寂しがっているのは私だった。先輩に肩代わりさせるのは悪いけど、きっとその方が効果があるだろう。

 けれど飛鳥はすぐには頷かず、その代わりに私の顔をじっと見つめていた。静寂が降りた二人の間にチャーハンとラーメンが運ばれてくる。さっさと麺をすすり始めた飛鳥に急かされるように私もチャーハンにレンゲを滑らせた。

「お互い様だよ」目線は動かさないまま飛鳥が言葉を発した。「香苗だってずっと瀬奈の真似みたいなことしてるじゃん」熱気のこもる木造の家屋で言葉がナイフみたいに冷たくて。私は間の抜けた声を口にしてしまった。「私、そんな……」

「瀬奈が死んでからずっと髪伸ばし続けてるだろ?昔は短かったのに、代わりになるみたいに……もうどこにもいないって、俺達理解するべきだよ」黒くて重い前髪に隠れた目が私を射抜く。秋の優しい日差しみたいな光が宿っていた。

「ごめん。香苗だって悲しかったのに、俺だけみたいな顔して」

 清水が谷をするりと流れ落ちるように腑に落ちたような気がした。もうすぐ大学生になるから、色んなアレンジが出来るから、可愛いから。そんな言い訳をしながらも懸命に髪を伸ばしていた理由がやっと分かった。

 私は「飛鳥の恋人」になりたかったんじゃなくて、「飛鳥の恋人である先輩」になりたかったんだ。だって飛鳥の隣にいるべきなのは先輩みたいな黒髪の女性だって思い込んでいたから。けれど今なら何の根拠もないけれど「違う」って言える、そんな気分だった。

 のろのろとした動きですっかりべたついたチャーハンを口に運ぶ。食べて、嚥下して、血と肉にする。生にしがみつき続けるように私は咀嚼し続けた。

 私は神様にはなれない。先輩には一生叶わないかもしれない。それでも先輩に並び立とうと足掻くことならきっと出来るはずだから。先輩の真似ごとじゃない、私は私として飛鳥に微笑みかけてほしいんだ。

 心の中でそう願って最後の一粒を口にする。目の前で満足そうに笑う彼を見ながら、「手始めに髪の色でも変えてみようかな?」なんて思って私は笑った。







「あれ?今日お墓参り行ってきたの?」お線香の匂いがする、と続けられて思わず俺は苦笑した。隠すことではないにせよ隠し事は出来ないな。

「うん、久しぶりに。遅くなってごめんな」そう言いながらスリッパを履いてリビングへ向かう。買ってきたシュークリームの箱を手渡す際に指輪に触れて、鈍い冷たさが指に伝わった。

「なんかすることある?」「じゃあ、ビールとコップ出しといて」こげ茶色のウェーブがかった髪がキッチンの明かりに透けるのを見て、ふと昔のことを思い出す。

『あんまり過去に囚われ過ぎちゃ駄目だよ』昨日のように耳によみがえる香苗の言葉。ハッキリ言ってくれたからきっと今の暮らしがあるのだろう。だからこそ、本人に直接礼が言えないのが何より歯がゆかった。


 橋本香苗は大学二年生の秋に、通学途中の交通事故で亡くなった。偶然にも妻を恋人として紹介しようとした、夏休み明けの日のことだった。寝不足による不注意によるものだったという。

 葬式会場で久しぶりに見た彼女は宣言通り髪を栗色のふんわりとしたボブに染めていて、「似合ってるな」と涙交じりに声をかけたことをよく覚えている。仲の良かった友人を亡くしてしばらく立ち直れなかった俺を見捨てずに励まし、支えてくれたのが妻だった。

「大丈夫?いつもの笑顔が台無しだよ?」豚肉の焼ける良い匂いと共に降って来た台詞に聞き覚えがあって思わず机につっぷしたまま笑いを零した。過去をひきずり過ぎるのは良くないから、今晩だけ。

秋の闇にまぎれた金木犀がまた、懐かしさを乗せて強く香った。

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