第2話 その箱を開けたならきっと
「シュレディンガーの猫ってなんで猫じゃなくちゃいけなかったんだろうね?」
しゅれでぃんがー。聞きなれない単語を受け入れられる程まだ頭はしゃっきりとしていない日曜のブランチタイム。コーヒーを一口飲んで、ようやく私は口を開いた。
「どうしたの? いきなり」
そもそもこういう理系関係のことは潤ちゃんの方が断然詳しいはずだし、この話題について熱弁を振るう彼女の姿はおぼろげながら頭の隅に残っていた。その答えを知らない訳じゃないだろう。
「だって、実験の結果によっては猫死んじゃうでしょ? 可哀想じゃない。だからそれ以外で何か実際にするまでわからない物ってないのかなって思って」
珍しく要領を得ない話題振りに少々面喰いつつもぼんやりとした頭を少しずつ働かせていく。潤ちゃんがこういう変な話を持ち出すときは決まって行き着く先に大事な話があるのだった。
「あ、ゆでたまごとかは? 切るまで固ゆでか半熟かわかんなくない?」
サラダに乗っかったスライスされた玉子を突っつきながら呟くと、正面から素直な感嘆の声が上がる。どうやら彼女の御眼鏡にかなったようで、嬉しくなった私は他にもないかと考えを巡らせた。
「あと初めて使う通販も実際に届くまでわかんないよね。結構イメージとは違ったりして困る」
「雛、この前のワンピースちょっとだけ大きかったもんね」
痛いところをつかれた私は、からかうような視線から逃げるようにトーストを齧る。対照的に潤ちゃんは嬉しそうにコーヒーをすすった。動きに合わせてポニーテールが楽しげに揺れる。今日初めて彼女の笑顔を見たような気がした。
「いいよ、その分潤ちゃんにピッタリだったもん。可愛い系だからデートに着てったらいいよ」
そう口にしてから失言だったかな、とちらりと視線を上にずらす。潤ちゃんはと言えば、困ったように笑みを浮かべたままだった。少しの間沈黙が下りて、雨音だけが空間を支配する。じっとりした空気を打破するかのように彼女が必要以上に明るい声を上げた。
「そういえば、この前食べたサクランボも甘いか酸っぱいか見た目じゃわからなかったじゃない。あれもシュレディンガーの猫と一緒だよ」
初物のサクランボ。駅の地下に韓国料理屋さんが新しくできた時仕事帰りに一緒に行って、その帰りに買ったはずだから確か四月のことだったと思う。確か去年も、ついでに言えばおととしもその前も似たようなことをやっては見た目の赤さに騙されて、二人でビール片手に文句を言っていた気がする。もはや恒例行事となっているやりとりだった。
お互いにサクランボが一番好きだと知ったのは高校の頃。そんなに仲良くなかったはずなのに食べ物一つでびっくりするくらい意気投合したのは良い思い出だ。
「それで、他には?」
意気投合して仲良くなってルームシェアまでして、良いところも悪いところもお互い見てきた私たち。潤ちゃんの悪いところはいまいち踏ん切りがつかないところだから、私が背中を押してあげなくちゃいけない時がまれにあった。私に急かされた潤ちゃんはしばらく口をもごもごさせていたが、不意に小さく声を漏らした。
「他には……『大事な話がある』っていう時の大事な話が良い話か悪い話か、とか」
聞き覚えのある単語が過去の記憶を否応なしに引っ張り出してきて思わず息を呑む。
「いつ言われたの? 昨日?」
気を紛らわすためか落ち着くためか、コーヒーのおかわりを注ぎつつ潤ちゃんが頷いた。少しうつむいた彼女のなめらかな肌がいつも以上に青白く見えて胸が痛む。
潤ちゃんに初めて恋人ができたのは大学一年生の頃だった。違う大学に通いつつも頻繁に連絡を取っていた私は、潤ちゃんの彼氏との進展の話を聞くのがいつも楽しみだった。
彼氏ができてもすぐに別れてしまう私と比べて、潤ちゃんとその恋人は付き合い始めた頃からすごく落ち着いた、穏やかな関係だった。ついには同棲までこぎつけた彼女をすごく羨ましく思っていたことをよく覚えている。
「彼氏から大事な話があるって言われたんだけど、どう思う?」
ショートカットを揺らしながら頬を真っ赤にして潤ちゃんがそう相談してくれた時、私は自分のことのように喜んだし、ちょうどその頃就活も一段落した頃で浮かれており、頭には最高の未来しか浮かんでなかった。今思うとなんて浅はかだったのだろう。
数日後の夜にかかってきた電話口の潤ちゃんはいつもの落ち着いた潤ちゃんじゃなかった。
彼が地方に就職するからそれを機に別れようと言われたこと。一緒に暮らしてた部屋は任せると言われたこと。けれど今まで家賃を折半してたからいきなり一人じゃ払えないこと。慰めつつ少しずつ彼女から話を引き出す。
「だったら私と一緒に住もうよ、潤ちゃん。ちょっと家から職場まで距離もあるし、部屋探してたんだあ」
気づけば言葉が口を衝いて出ていた。真っ赤な嘘ではないけれど、実を言えばもう住むところは他に目星をつけていたし、潤ちゃんの部屋は住む予定だった部屋より少しばかり家賃が高い。けれどどうしても潤ちゃんを独りにしたくなかったから、今でも私はあの言葉に後悔はない。
その一件以来私と潤ちゃんの間では「大事な話」というフレーズは禁句となり、そして今再び彼女の二人目の恋人によってそのパンドラの箱が紐解かれたのだった。
正直今の彼がいきなり何処か遠くに出張に行くとも、潤ちゃんに別れを言い出すとも思えない。けれどあの時だって急な話だったのだ。可能性が無いとは言い切れない。
潤ちゃんは何て言ったら分からないのか、迷子のような眼をして下唇を噛んでいた。件の彼と別れてすぐの頃の、まさに「生きていながら死んでいた」彼女と咄嗟に重ね合わせて胸が切なさに軋む。
「その話っていつなの?」
「今日の夜。有楽町で逢おうだって」
急だね、と思わず笑みをこぼすと潤ちゃんもつられて笑った。久しぶりに空間に笑いが戻って内心でホッと息をつく。
「大丈夫、別に最近喧嘩したとかじゃないんでしょ?きっと良い話だよ」
そう、きっと良い話。その話を受けたら潤ちゃんはそう遠くない未来にこの部屋を出ていくんだろう。そしたら私は誰かと毎日朝ごはんを食べることも、外から自宅の明かりを見ることも、睡魔と闘いながら話を聞く面倒くささを感じることもしばらくはないんだなぁ……
そこまで考えてちょっと視界がにじんだけど、不自然な瞬きを繰り返して誤魔化した。今の潤ちゃんに余計な心配をかけたくなかった。
男の子は、ずるい。優しくてかっこいいけれどずるい。
恋人であることを盾にして、当たり前みたいに女の子たちの手を取って行ってしまうから。どんなに女の子同士で楽しい時を過ごしても、最後に幸せにするのは自分だって顔をしているから。
お気に入りのパジャマでワインとおつまみ片手にワイワイ騒ぐだけじゃ足りない何かを持っているのが羨ましくて、悔しい。
「雛?雛子?」
黙り込んでしまった私の姿に不安を覚えたのか潤ちゃんが目の前で手のひらをひらめかせる。彼女が首を傾けた拍子に結び損ねた髪が一房、耳からこぼれた。
「……寂しくなるなって考えてたの。潤ちゃん前はお料理へたっぴだったのに今じゃすっごく美味しくて、だからもう食べられなくなるのやだなって……」
自分で言ってて自己中心的な考えに嫌気がさす。それなのに潤ちゃんはポカンとした後、くつくつと喉を鳴らして笑い始めてしまった。
「雛、気が早いよ。まだそうなるって決まったわけじゃないから」
潤ちゃんはしばらく笑った後また気分を落ち着かせるためにコーヒーを煽って、ふと真面目な顔つきになる。
「話したらきっとお通夜みたいになっちゃうんじゃないかって思ってたんだけど、そんなことなかった。話すまでわからないものだね」
そう呟いてまた微笑む潤ちゃんはなんだかとっても綺麗で大人っぽくて、だからこそ自分の幼い独占欲が浮き彫りになった気がした。中学生みたいな思考回路だ。
分かってる。友情は恋愛には劣らないけれど、恋愛に譲るべき時もある。幸せに続く道に向けてそっと背中を押す瞬間もある。それで、今がきっとその時なんだ。
正直置いて行かれるみたいで寂しくて、行ってほしくない気もする。でもそれで大事な友達が欲しがっている幸せを奪うのは本意じゃないから。
「潤ちゃん、さっき話したワンピース今日着ていってよ。絶対似合うもん」
「でもまだ雛も着てったことないでしょ? ちょっと大きいくらいで別に変じゃないって」
「いいの。今日は記念すべき日になるかもしれないんだから。もし別れ話でも、可愛くしてった潤ちゃん見たら考え直してくれるかもよ?」
今までずっと意識的に避けてきた「別れ話」という単語は口に出してみたら案外なんてこと無くって、なんだか拍子抜けしてしまった。一度開いてしまったパンドラの箱のネガティブを全部取りだしたら、後に残るのは希望だけだ。
「あ、今日帰り雨降るかもだって。折り畳み傘持ってかなきゃだよ」
電源をつけたテレビ画面に偶然天気予報が映って、私は大きな声を上げる。でも肝心の潤ちゃんはお皿を流し台に置きに行ったせいで画面を見ていなかった。
「え?ほんとに?降水確率何パーセントだった?」
テレビに映し出されていた数字は30パーセントだけど……
「……わかんない」
この後雨が降るか槍が降るかなんて、本当は誰にもわからない。降らないって言っても降るときは降るんだもの。天気でさえ分からないんだから、未来なんかよっぽどわからなくて不確かなんだ。でもこれだけは私も自信を持って言える。
「潤ちゃん。おめでとうは私に最初に言わせてね」
箱をあけたらきっと中には、プラチナのリングが輝いているはずだよって。
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