あなたの隣町にいる人々

折原ひつじ

第1話 私の腹が空いている

「残念ですが、今回は諦めた方が……」


 そう言って沈痛な面持ちをした知らない人が私の手から小ぶりのツヤツヤとしたレモンをそっと取り上げた。ちょうど今食べようとしていたのになんてことだ。


「このレモンは土に埋めておきましょう。きっと綺麗な花を咲かせてくれますよ」


 そう聞こえるや否や、眼前に大きな穴が現れた。かなり深いそれにポイとレモンが放り込まれると見る見るうちに穴はふさがっていく。


 けれど穴が埋まって平らになったのを見届けた瞬間、なんだか無性に地中のレモンがひどく恋しくなってしまった。だって本当は私のだったのに。私の腹にあるべきだったのに。たまらなくなってしゃがみこんで土を掘ろうとする。


 瞬間、目が覚めた。


 夢の跡は跡形もなく、視界に広がるのは見慣れた天井。包まれているのはいつもの布団。ちょっとずつクリアになっていく思考回路とは反対に、夢の内容は霧散してみるみる内に消え行ってしまった。


 二度寝する時間でもないので起き上がってそのまま布団から這い出る。一気に冷気が体を包み込んで、思わず布団に戻りたくなった。


 自分を律して台所に行き朝食の準備を始めたが、ふとここで一つの問題にぶち当たる。なんだかあんまりお腹が空いていないのだ。普段は寝起きでもパンかシリアルくらいはお腹に入るのに、不思議となんだか欲しくない。


 作っている間に食べたくなるだろうと食パンを一枚オーブンにセットしたあと、油をひいたフライパンに玉子を一つ落とす。水を差して蓋を閉じるとジュワジュワと小気味いい音が耳に届いた。その間にささっとカップやらお箸やらをテーブルに並べる。


 少ししてから蓋を開けると目玉が綺麗な桃色に色づいていたので急いで皿に上げた。適当にプチトマトとレタスも盛り付けて、既に焼きあがっていたトーストもお皿に乗せて。


「……ダメだ」


 普段だったらきちんと食べてる。別にダイエット中でもない。体調が悪いわけでもない。それなのに本当に食べる気がしなかった。こんなに美味しそうなのに。

 仕方がないからラップを掛けて冷蔵庫へとしまう。お腹が空いたら食べたらいいし、明日の朝ごはんにでもしてしまってもいい。


 時計を見ればもうすぐ九時になろうとしているところだった。今日は休日。待ち合わせは十一時。洗濯物を干して食器を洗っても十分間に合う時間だ。

 せめて、とコップ一杯分の牛乳を飲み干して私は勢いよく立ち上がった。




「……天変地異の前触れだ」


 時刻は十時五十二分、渋谷駅前にて。予想はしていたことだけれど、やっぱりからかわれたので私は目の前の男の腕を強めに小突いた。少しよろめきながらも敬が笑い交じりに謝罪を口にする。


「ごめんって。櫻子にも珍しいことがあるもんだ、とつい」


 そんなの私が一番驚いている。美味しいものは何でも食べたい私が、だ。好き嫌いのなさには自信があるし、食べるのも日々の楽しみだというのに。


「大丈夫? 今日は家帰るか?」


 先ほどとはうって変わって少し心配そうな声色に今度は私の方が少し笑ってしまった。一回からかわないとこの人はモノが言えないんだ。


「ううん、体調悪いわけじゃないし大丈夫。ありがとう」


 昨日の夜だって胃もたれするものを食べたわけじゃないし、ただただ食べる気が起きないだけだ。腹八分目の時に料理を勧められたときに似ている。食べられないわけじゃないけれど今はいい。


 まだ少し心配そうにしている敬の手を取って手袋越しに指と指とを絡ませる。進行方向に軽く引っ張ると観念したように笑って私の前を歩き始めた。


 細い路地に面する雑貨屋さんに入って変な箸置きを見つけたり、靴屋で出勤用の新しい靴を探したり。一つ一つ目的をこなしながら私たちは渋谷の街をねり歩く。だいぶ頬が冷えて鼻の頭も赤らんできた頃、敬が私の顔を覗き込んで言った。


「櫻子、腹の調子どうだ?」


 時刻は既に一時半。少し遅めの昼食にはうってつけの時間だけれど残念ながら私のお腹はまだ万全ではなかった。


「まだ空いてないけどそろそろ行こうか。寒いし紅茶飲みたいな」


 そう言うと敬が心配半分喜び半分みたいな変な顔をする。きっと腹ぺこだったけど私のお腹が空くのを待ってくれるつもりだったのだろう。ちょっと申し訳なさを感じつつも、私たちはカフェに向かうことにした。


 坂を越えたところにひっそり建っているアイリッシュパブ風の喫茶店は何度も足を運んだお気に入りのお店だ。入るなり焼きたてのスコーンの甘い香りが出迎えてくれる。私はアプリコットティーのホット。敬はスモークサーモンのサンドとフィッシュアンドチップス、アールグレイのホットをそれぞれ注文した。


 席についてコートとマフラーを脱いで一息ついて、店内の暖房に徐々に身体を馴染ませていく。木目がそのままのあたたかみのある木製の家具はくつろぐには丁度よかった。ちょっと話したところで注文の品が運ばれてきた。


 みずみずしいレタスと共にバンズにこれでもかと挟まれたサーモンが目に鮮やかに映る。燻製された香ばしさが鼻をくすぐって、私はついつい目で追いつつ紅茶の甘やかさに舌を濡らした。アレはまだ食べたことがないし、いつか食べたいなと前来た時に思ったのを覚えている。


 フィッシュアンドチップスの方は前に友人とシェアしたことがある。ケチャップソースと芋の塩気のバランスが良かったし、白身魚の淡白な味ともよく合っていたと思う。思い出すだけでちょっと頬が緩むくらい。


 それでもまだ食欲は湧かなかった。胃に収めたいのはこれじゃない気がするのだ。


 両方を交互に食べ進めつつ、敬が私の方にちらりと視線を向ける。その視線が少し真面目な色を孕んでいて、私は話を一度打ち切った。


「どうかした?」


 そう切り出すと敬がフ、と小さく笑いを零す。そうして今度はからかいの意図をもって口を開いた。


「このまま食わなきゃ、明日にはものすごく痩せてるかもしれない、と思ってさ」

「そんなすぐ痩せるわけないじゃない。一日にどれだけ食べてると思ってるのさ」


 不満の声をあげるとやっぱり嬉しそうに喉で笑って、また少し真剣な声音で私に言う。


「でも食わなきゃ体に良くないと思うからさ、食べれる物あったら食べろよ」


 いつもよく食べる人が食べないだけでこんなにも心配されるものなんだろうか。私そんなに食い意地張ってるって思われてる?と新たな悩みに頭を悩ませつつ、差し出されたメニューに目を通す。


 これじゃない、これでもないなあと思いつつ目を滑らせていったが、ある一点でピタリと吸い寄せられてしまった。そんな私に気づいたのだろう。敬も反対側から私の目線の先を読む。そうして辿った先には「ウィークエンドシトロン」とケーキの名前が書かれていた。


「へえ、こんなのあったか。柑橘系だし食べやすそうだな」


 そう呟く敬をよそに私は穴が開くほどその名前をじっと見つめる。シトロン、レモン。ああそうだ。今日の夢。散り散りになった夢のピースがパチリとはまる。


「これなら食べられるかも」


 いや、ずっとこれが食べたかったのかもしれない。そうと決まれば話は早い。財布を持ってレジに注文しに立ち上がる。昼時からおやつ時に移り変わる時間帯で少し混んでいたけれど、売り切れでもなく難なく注文することができた。


 ケーキと共に席に戻ると、敬はだいぶ昼食を片付けてしまっていた。残りわずかとなったポテトフライを大事そうにちびちび齧りながらメニューのデザートの欄に目を配らせている。


「甘いものもなんか頼めばよかった。スコーン一個くらい食うかな」

「いいんじゃないかな。ここの美味しいし」


 そう言って私は手元のケーキに目を向けた。ウィークエンドシトロンはアイシングでコーティングされたレモンのパウンドケーキだ。厚めにカットされた三切れが嬉しい。


 固い砂糖の膜にフォークを入れると、サクリと割れる感触が手に伝わった。続いて柔らかい生地がふんわりとたわむ。小さく切って口に運ぶと爽やかなレモンの甘みと酸味が口いっぱいに広がった。


 そうだ。この味だ。この味がずっと欲しかったんだ。空っぽだった胃にレモンの優しい酸っぱさが染みていく。空いてた腹にすとんと落ちて、そのまま綺麗におさまったような感覚に陥った。


 あっという間に綺麗にペロリとたいらげて、最後にすっかりぬるくなった紅茶を飲み干す。カップをソーサラーに戻した後、前を見やるとそこにはあきれた笑みを浮かべている敬がいた。


「……食べれないんじゃなかったのか」


 おっしゃることはごもっとも。チクチクと刺さる視線が痛くって目を明後日の方向へと向ける。


「さっきまでは食べられないと思ってたの。本当に。……でも心配かけてごめん。もう大丈夫」


 心の底からの大丈夫にホッとしたのか敬がフーっと大きく安堵の息を吐いた。


「でもなんでまたいきなり食べられなくなってたんだろうな。原因とかは分かってるのか?」


 ふと、不思議に思ったのだろう。当然と言えば当然の疑問を敬が口にする。私はといえばそれに見合う答えがうまく見つからず、しばらく口をもごもごさせた後に小さな声で答えた。


「……よく分かんないな」


 目の前の彼はいまいち腑に落ちないようで首を傾げていたが、「まあ元気になったんならいいか」と言ってカップを傾けた。


「なんかあったら言えよ」


 お気遣いは有り難いが、流石に「夢で見たことを実はすごい引きずってました」というのは恥ずかしい。子供じゃないんだから。


 例えどんなによくあることでも、夢だとしても簡単に人の心は傷がつく。人に言うには些細なこと過ぎるけど、心配されたらちょっと見当違いでも悪い気はしない。……それこそ目の前の彼がしてくれたように。そう思って目をやると丁度ポットからお代わりを注いでいるところで、視線に気づくと口元だけで笑いかけてきた。


 もう一度お礼を言ったらきっと「大した事してないんだけど」と返すのだろう。私もそんな風にして少しずつの優しさを手渡していけたらいい。


 とりあえず今日の迷惑料もかねて、ここの支払いから。

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