In church

@eliinchurch

第1話 In church

山奥、濡れた藍色の紫陽花がいつまで経っても私の中で咲き誇っているからなにも消えない。


「わたしの骨を一片、拾いあげたら、あなたの名前を彫って。それから、あんな狭苦しいところなんかじゃなくてもっと、美しい、限りなく美しい梅雨の時期の山奥、紫陽花の株の根元に埋めてほしいの」

今思い返せば、それは切実な願いごとだったのだろう。けれど、どことなくおざなりに彼女が言ったから、私は大して気にも留めないまま空返事した。それを少し悔やんでいる。

これを書いている今も、私は、実際に鬱蒼と生い茂る夕露滴る夏草を掻き分け山奥へ赴き埋葬してやろうなどということは、考えていない。彼女の言った山奥はここにあるのだから。私の脳内の左隅に。誰も行き交わないスクランブル交差点を照らす煌々たる太陽の光を一身に浴びながら、かぐわしい花々の香りを四肢に纏い、少し歩くと都会は消失し、直に自然の摂理が眼前に曝けだされる。私は静謐な山奥に向かって潜りこみ、無人の山小屋で少し眠り、一陣の風に撓る木々の枝に頬を打たれながら、仄暗い沼地を通り過ぎた先に、彼女の言っていた山奥、紫陽花が十株ほど植えられている場所へ辿り着いた。

「はやくおやすみって言ってよ」

私の手中にある白い彼女が嘆くように囁いた。わかっているよ、という言葉を込めて握りしめる力を強めた。

シャベルはではなく手で土を掘った。土は雨に降られたお陰で軟いので掘りやすく、またひんやりと心地よかった。一心不乱に穴を掘っているつもりだったが、あの日、もう息をしなくなった彼女の肢体をふと思い出した。死後硬直がはじまるまえに触れた所為か、熟れた果実のように隅々まで柔らかく、膣に差しこんだ指はまだ温かい粘液に触れることが出来た。さみしいという気持ちを教えてくれたのは彼女だった。けれど、そうするには彼女は死ななければならなかった。自分自身の死で以て私にそれを教えた。私は、他にどういった方法があったのだろう、もしなにか別の方法があったなら彼女は今も私の背に凭れていただろうか、と少し考えたが、なにも思いつかなかった。

ふっとため息を零してから、十分も経たないうちにできた小さな穴に彼女を放り込んだ。カラン、カラン。私のイニシャルを彫った骨が、誰の手も触れない、誰の声も届かない、誰も知らない底に落ちていくのを待った。


カラン・・・カランカラン・・・。音がいつまで経ってもやまないことに、茫と突っ立っていた私はしばらく気がつかなかった。頭上に被さるように、弓なりに曲がっている枝先から滴った雨雫が頬を伝い、意識を取り戻した私はようやく異変に気づき、首を擡げて穴を覗き込んだ。そして息を呑んだ。


底がみえなかった。というより、底がなかった。試しに腕を差し込んでみたものの、指先はなににも届かない。不意に、穴の奥から沸騰するような音がきこえて、顔を引っ込めた。数秒後、底無しの穴からぬばたまの闇が噴き出した。頭上高く昇っていた太陽は墨に塗り潰され、澄み渡っていた蒼穹は雨の予感を抱かせる薄墨色に侵蝕され、つい先ほどまで聞こえていた鳥の囀りも、爽やかな風の音も、全てが息絶えてしまった。夜がきたのだ。


ふと思った。この私はどこに埋葬されるのだろうか。この私の骨は誰に委ねられるのだろうか。不味い病院食を廃棄するようにおざなりに、宛先のない埃を被った遺書が踏み躙られるように、私の骨も拾われることなくゴミ収集車に運ばれる定めなのだろうか。私の死をすくう人はいないのだろうか。それならいっそ、ここで終わろうか。

刹那、誰かが、果てぬ暗闇へと落ちていった彼女が、囁いた。

「今よ。今」

私はすっくと立ちあがると、森の最奥へ全速力で駆けていった。なにかが壊れる音がした。それは今にも砕けそうだった、亀裂ばかりの私の心が完全に瓦解した音だった。


駆けて、駆けて、駆けぬけて。いつしか一つひとつの風景がコマではなく映像のように連なり、私は風になったのだということに気づいた。犇めきあう木々の隙間を縫って吹く風と合流し、ざあっと体が押しあげられ、私は宵空へ吸い込まれた。空を覆う暗がりに星は黙り込んでいるが、すれ違いざまに触れるとまだ確かな熱を秘めていた。


あなたが地底世界へ赴くのなら、私は天上へ赴こう。あなたが奈落の底へ落ちるのなら、私はきっと在るはずの楽園ですこし眠ろう。きっと疲れきってしまった私たちへ、生きるならとなり同士で、眠るのなら隔たれた場所で。

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