クマとマスカラ

牛屋鈴子

クマとマスカラ

 ブラウンはその昔、可愛い女の子の子熊だった。

 オジョーサマと呼ばれる人間の下で飼われていた、飼い熊だった。

「こっちへおいで。あたしの可愛いブラウン」

 ブラウンは、そう呼ばれて、そのままオジョーサマの胸の中へすっぽり抱かれるのが大好きだった。

 暖かくて、幸せだった。

 けれど、ブラウンの体が大きく成長していくに連れ、オジョーサマはブラウンの名前を呼ぶことが少なくなった。



 ブラウンの体が、オジョーサマの身長を越えたあたりの頃だった。

 ある日、オジョーサマが久しぶりにブラウンの名を呼んだ。ブラウンは大喜びで、シャンデリアの下、赤い絨毯の上、オジョーサマの胸へ駆け寄った。しかし、勢い余ってオジョーサマを押し倒してしまった。

「きゃあっ」

 どたり、と鈍い音がした。

「ご、ごめんなさい」

 ブラウンはそう言いながら、オジョーサマの顔を舌で優しく舐めた。

 昔はこうすれば、困ったように笑いながらも、許してくれた。

「牙……ギザギザだね。後、獣臭さも強くなった」

 けれど、オジョーサマは笑いも怒りもせず、冷たい声を放ちながら、淡々とブラウンを体から剥がした。

「大きくなったねー……あなた」

 オジョーサマは、そう言った。

 今までも、オジョーサマに『あなた』という二人称で呼ばれたことはいくらでもあった。でも、この『あなた』は、自分の名前を呼ぶ事を意図的に避けられたようだと、ブラウンは感じた。

 そして、オジョーサマは表情を変えないままブラウンを抱きしめた。

 けれど、体の横に回されたその腕には、昔のような暖かみはまるでなかった。

「昔は、この腕にすっぽり収まったんだけどなー……」

 オジョーサマは、つまらなさそうに眼を伏せた後こう言った。

「可愛くない」

 ブラウンは、その日の内にどこかの森へ捨てられた。

 煌びやかなシャンデリアとは違う、寂しい月を背中に負いながら、絨毯とは違う、枝や葉のザラザラした感触を踏みしめながら。ブラウンは突き刺さるように理解した。

 可愛い。とは、体が幼く小さい事であり、その可愛さ以外、自分には価値がなかったのだと。

 成長し、醜くなった自分は、もう誰にも愛されないのだと。



 それから、ブラウンは一人で過ごした。その森には他の熊も居たが、誰が話しかけてきてもブラウンは無視するか突き飛ばした。どんな熊も、どんな生き物も、どうせいつか理由をつけて自分を見捨てるのだと決めつけ、誰とも仲良くしようとしなかった。

 とにかく、自分一人で生きていこうとした。捨てられたあの日から、そうしなければいけないと思い込んでいた。

 狩りや餌場も、誰にも頼らず一人で覚えた。

 初めて自分一人で捕まえた魚を殺して食べた時、ブラウンは少し泣いた。血の味が苦くて、命を殺して生きているのだと再認識して、自分が醜い生き物だと再三突き付けられたように感じた。

 やけくそみたいにガツガツ食べて、気を紛らわせた。



 捨てられて半年ほど経ったある日、ブラウンは自分の寝床に一匹の虫が迷い込み、枝に足を取られ抜け出せないでいるのを見つけた。

 その虫は、お世辞にも可愛いとは言えない姿をしていて、醜悪だった。

 ブラウンは不快で、その虫を潰そうとしたが、寸での所で留まった。

「醜いから。という理由で殺しては、あのオジョーサマと一緒ではないか」

 ブラウンはそう考えた。

 けれどすぐに、その逆の事を考えた。

「では、あたしはどんな存在でありたいのだろう。別にあのオジョーサマと同じで構わないではないか。あたしはどうせ醜いのだ。それを理由に酷い事をされたのだ。同じ事をこの虫けらにして何が悪い。それに、ここでこの虫を生かしては、今朝殺した魚が浮かばれないだろう」

 ブラウンの頭は、その醜悪な虫を殺すと決まった。しかし、依然としてその分厚い爪は動かなかった。

 結局、ブラウンはその虫の足を下敷きにしている枝を拾い上げた。

 そうするとすぐに、その虫はぴゅうと森の奥へと逃げ帰っていった。

 ブラウンは、何故だかオジョーサマの隣に居ることを許されていた頃を思い出して、無性に寂しくなった。



 次の日、ブラウンの下に大きな鞄を持った一匹のリスが訪れた。

「こんにちは。私はキト」

 キトはその小さな体で精一杯背伸びしてブラウンの顔を見上げていた。

 ブラウンは、キトを見下ろした。

 小さな体。柔らかな茶色い毛。まぁるいモフモフした尻尾。どれもこれも可愛らしかった。

 昔の自分を見せられているようで、今の自分にはもう無い物を見せつけられているようで、ブラウンは心底腹が立った。

「何をしに来たの」

 ブラウンはわざと低い、恐ろしい声でキトに言った。あざとい小さな体をすくませて、どこかへ退かせるつもりだった。

 しかし、キトは少しも怯えなかった。

 そして、持って来た大きな鞄をブラウンに向かってしっかりと掲げた。大きな。と言っても、それはキトと比べた時の物であり、ブラウンにとっては手のひらぐらいの物だったが。

「マスカラを売りに来たの」

 キトはそう言った。

「マスカラ……?」

 それは、ブラウンが初めて聞く物だった。

「そう。マスカラ。人間がこの森に落とした物で、まつ毛に塗ると瞳がパッチリしてとっても可愛くなれるのよ」

 キトは自信満々にそう言った。

 私が可愛くなれる?しかも人間の道具で?ブラウンはそう思った。そして苛立った。コンプレックスを、二つ同時に刺激されたからだ。

 足元で、キトのまつ毛がわずかに輝いているのが見えると、ブラウンはたまらず、側の木をガツンと殴った。

「馬鹿にしないで。早く失せて。じゃなきゃあなたを殺すわ」

 木には荒々と爪が刺さり、繊維に沿って中身が抉れ、露出していた。

 ブラウンが本気で自分を殺す気なら、自分の最期はあれ以上にむごたらしくなるだろうと、キトは十分に理解した。

 その上で、キトはさっきと同じ顔をした。

「あなたはあの醜悪な虫でさえも逃がしたのに、私を殺すはずがないわ」

 キトは、ブラウンのそういう所を、前もってあの虫に教えてもらっていた。

「私、あの虫さんとお友達なの。昨日一匹のクマに見逃してもらったと言っていたわ」

 違う。あれは見逃してやったんじゃない。

 そう言おうとしてもブラウンは、真っ直ぐに言い返せなかった。殺すことを恐れたなど、見逃す事より情けない事だったからだ。それにこのリスを殺そうとしても、自分の手はまた留まり震えると思った。

 言葉に困ったブラウンは、関係ない言葉を言って、目の前のリスを否定してやろうと思った。

「あなたは自分の友達に、平然と醜悪だなんて言うのね。酷いわ」

「だって醜いんですもの。むしろあの見た目を我慢してあげている私は優しいわ」

 それはひどく傲慢な言葉だったが、キトの口調は穏やかで楽し気な物だった。それはブラウンには奇怪に映った。ブラウンは、軽口を叩き合う。というコミュニケーションを知らなかった。

 そんな得体の知れない態度では、ブラウンの気は済まなかった。

「じゃあ、何でそんな虫と、友達なんて」

「あら、簡単よ。あの虫さんが優しいからよ」

 ブラウンには、その言葉も理解できなかった。『優しい』という言葉を聞いたことはある。意味も知っている。だが、このリスの言う『優しい』は、自分の知っている『優しい』という言葉とは決定的な違いを持った物だという事だけ、ブラウンは理解した。

 ブラウンにとって優しいという事は、友達になる理由にならなかった。

「……眠るわ。もうどこかへ行って」

 ブラウンは、それ以上何かを考えたくなくて、考えてはいけない気がして、考える事ができない気がして。無造作に体を横たわらせた。

「あら。じゃあさようなら」

 キトはマスカラが入った鞄を背負いながら、また来るわ。と言った。ブラウンは何も答えなかった。

 その夜、ブラウンは何も食べなかった。その日は血の味を思い出したくなかったのかもしれない。自分を嫌いたくなかったのかもしれない。



 別の日の朝、ブラウンは魚を取るために行った川で、別の雄熊に出会った。

 雄熊はブラウンに気付くと、手を緩やかに挙げた。

「……やぁ」

 雄熊がブラウンに挨拶したが、ブラウンはそれを無視した。

 今までも、こういう餌場や森の小道で他の熊に出会う事が何度もあったが、ブラウンはずっと冷たい態度を取り続けていた。

 次第に、他の熊達は呆れるか諦めるかしてブラウンに話しかける事はなくなったのだが、今挨拶してきた雄熊だけは何故か、ずっとブラウンに声をかけ続けている。

 しかし、そういう暖かな雰囲気こそ、オジョーサマを思い出させるような、ブラウンを警戒させる態度だった。

「なぁ、少し話……」

 雄熊が何かを言い終える前に、ブラウンの右手が雄熊を川へ突き飛ばした。ばちゃんと飛沫が上がり、魚がそれに驚いている内に、何匹かするりと掬い上げた。そしてそのまま黙って自分の寝床へ帰る。ブラウンはこの雄熊と出会う度、こんな風に別れた。

 寝床に帰る時、後ろから困ったような視線を向けられているのを背中で感じ取ってはいたけれど、ブラウンはそれに振り返った事はなかった。

「あの雄熊と喧嘩しているの?」

 いつの間にかブラウンの足元にキトが居た。昨日と同じ鞄を持っている。

「何でここに居るの?」

「え?また来るわって言ったじゃない」

 ブラウンは少し決まりの悪い顔をした後、特に何も言わず、黙って歩いた。

「ねぇ、他の熊にもああいう事してるの?」

「……そうよ」

 ブラウンの答えに、キトは小さな首を傾げた。

「うーん、噓っぽいわね。さっきあの熊、あなたに挨拶していたわ。自分を日頃から突き飛ばすような熊に、そんな事するかしら」

 あれはあいつだけよ。とブラウンが言う前に、キトが付け加えた。

「それに、あなた優しいもの」

「……馬鹿にしてるの?」

 ブラウンは歩みを止め、足元のキトを睨みつけた。やっぱり、キトには効いていない。

「してないわ。あなたは優しい。だって私もあの虫も殺さないんだもの。どんなに冷たい態度を取っても、絶対に殺さない」

 ブラウンは手にある、さっき取った魚をキトに見せつけた。

「あたしだって、何かを殺すわ」

「それは生きるためだもの、当たり前じゃない。そんな殺しも気にするなんて、やっぱり根が優しいのね」

 キトにが優しく微笑むと、マスカラを塗られたまつ毛が淡く輝き、ブラウンはそれを可愛らしいと感じた。

 そう感じて、癒されるのと苛立つのが同時で、ブラウンは戸惑った。

 ブラウンはその戸惑いを隠すように、喋った。可愛らしいと感じた事も、苛立ってしまった事も、両方隠したかった。どちらも恥ずかしかった。

「……とにかく、あたしは誰とも仲良くする気はないわ。話しかけてくるのはあいつだけよ」

 これでこの話は終わりだと言わんばかりに、ブラウンはもう一度足を動かし始めた。さっきよりも少し急いでいた。

 けれど、キトもせっせとそれに付いていった。

「へぇー。じゃあ、あの雄熊はきっとあなたの事が好きなのね」

「……そんな訳ないでしょう」

 可愛くない自分は、誰にも愛されない。ブラウンはそう考えている。

「じゃあ、何であの雄熊はあなたに話しかけるのかしら」

「知らないわよ」

 ブラウンはその理由を改めて考えようとしたことはなかった。意識的に他の熊の事を考える事を避けていた。

 半年、この森の中で生きてきたが、他の熊の名前も覚えないようにしていた。

「そう言えば、あなた、名前は?」

 キトが出し抜けに聞いた。

 ブラウンはその問いを無視した。名前を知りあうような間柄を作りたくなかったし、改めてブラウンという名を口にするのは、呼ばれるのは、オジョーサマに飼われていた頃を思い出すからだ。

「もしかして、名前が無いの?」

 ブラウンは無視を貫いた。

「よーし、じゃあ私が名付け親になってあげる。そうね……『ホワイト』何てどうかしら。優しい感じがするでしょう?」

「……なら、『ブラック』と呼んで」

 自分の事で、キトに何かを決められる事が嫌で、ブラウンは真逆の名前を提案した。

「ええー。ブラックじゃ可愛くないわよ。似合わないわ」

 キトは頬を膨らませて抗議したが、ブラウンは再び無視した。

 やがて、キトは諦めて息を吐いた。

「もう。ブラックでいいわ。それじゃあよろしくね。ブラック」

 不満そうな声を出しながらも、キトは弾むようにブラウンの新しい名を呼んだ。

「……よろしくするつもりはないわ」

 ブラウンは苛立って、さらに足を早めた。

 ブラウンにとっては早歩き程度のつもりだったけれど、キトの小さい体で、しかも鞄を持った状態では全力疾走でも追いつけないスピードだった。

「また明日も来るわねー」

 自分を置き去りにしていくブラウンの背中へ、キトは小さな体を振り絞って大きな声を出した。

 その声は確かにブラウンの耳へ届いていたけれど、ブラウンは昨日と同じようにそれを無視した。

 そしてブラウンは寝床に帰ると、自分の名前について考え始めた。

 キトに自分の本当の名前を教えなかったのは、『ブラウン』という名を、オジョーサマ以外に呼ばれたくなかったという思いもあったかもしれない。

 自分はまだ、オジョーサマに未練が有るのかも知れないと思うと、ブラウンは苛立って仕方がなかった。

 そんな苛立ちを収める方法も、消す方法もないと分かっていながら、オジョーサマの事を考えずにはいられなかった。

 オジョーサマに呼ばれ、抱かれた日々を忘れるには、あまりに日が薄かった。



「おはよう、ブラック」

 ブラウンが振り返った先には、キトがいつも通り鞄を持ってそこに居た。

「あら、すぐに振り返ってくれるのね。二人で名前を決めた甲斐があったという物ね」

 キトが満足そうにうんうんと頷くのを見て、ブラウンは無視しなかった事を少し後悔した。どうせ無視したところで、よりしつこく呼びかけられるだけだろうが。

 よく見るとキトは、マスカラを付けていなかった。

「今日はね。実際にマスカラを付ける所をあなたに見せようと思うの。そうすれば、これがどれだけすごい物か分かってもらえるはずよ」

 そう言うとキトは例の鞄からマスカラを取り出した。

 あんな形状をしているのか。と、初めて見るマスカラに目を見張りつつも、ブラウンはすぐにそれを拒んだ。

「不快だわ。早くそれをしまって」

 ブラウンがぴしゃりと言い放つと、キトはしゅんとしながら、すごすごとマスカラを鞄の中にしまった。

 そんなキトを見て、ブラウンは少し罪悪感を感じた。それを忘れるように頭をぶんぶんと振った。

「私にはそんな物いらないわ」

「マスカラが無くても十分可愛いっていう事?」

「……違うわ。そんな物付けても、私は可愛くなんてならないって事。よく見なさい」

 暗い茶色のざわざわした毛。鋭い爪。そして、ギザギザした牙。獣臭い、大きな体。

「目が多少きらきらしたって、不気味になるだけだわ」

 ブラウンはキトに爪を突き付けながら、自分の醜さを語った。

 しかしキトは、ブラウンの言っている事がいまいち分からないという顔で首を傾げた。

「そうかしら……」

 キトは純粋にブラウンが可愛くなれると本気で思っているだけだったけれど、ブラウンはその態度を、とぼけたような、自分を馬鹿にしているように感じて苛立った。

「とにかく、私はそんな物付けない。それに、買う方法もないわ。どんぐりでもあげればいいの?」

「ええ。そうよ」

 ブラウンは適当に言っただけだったが、キトはこくりと頷いた。そして、森の奥を見た。

「あっちにある、どんぐりの木を揺らして欲しいの。きっとぼとぼと落ちてくるわ」

 もうすぐ、いっぱい必要になるし。とキトは付け加えたが、ブラウンはそれを聞き流した。

「あなたは、どんぐりが欲しいから私に近付くのね?」

 ブラウンはキトと同じ方向を向いて、そう尋ねた。キトは質問の意図が分からず、首を傾げた。

「案内して。そのどんぐりの木に」

 ブラウンはキトが向いている方に歩き始めた。

「ど、どうしたの急に」

 キトがブラウンを追いかけながら尋ねた。ずっとつんつんした態度を取っていたブラウンが急に協力的になった事に、驚いていた。

「あなたが私に求めているのはどんぐりなんでしょう。じゃあ、お望み通りにどんぐりを落としてあげるから、もう私に近付かないで」

 ブラウンは、正直ホッとしていた。キトが何故自分にすり寄って来るのかが分からなくて不気味だった。それが分かってホッとした。

 このリスは、あたし自身に価値を感じているのではなくて、ただどんぐりが欲しいだけなのだ。何もおかしな事はない。ブラウンはそう考えた。

 ただ、そうして安心を覚えると同時に、ブラウンはもう一つ、言い知れない感情を胸に抱えた。

「じゃあ、だめーっ!」

 キトは唐突にそう叫んで、ブラウンの足に体当たりした。

 ブラウンの足は大きくて、キトは逆にごろんと弾かれてしまった。

「……何をしているの?」

 ブラウンは地面に転がるキトを怪訝な瞳で見下ろした。

「やだーっ!だめーっ!」

 キトは地面に背中を付けたまま、鞄も地面に放り出して、ばたばたと手足を動かしながらそう叫んだ。

 大きな声を出してブラウンに届けようというよりは、叫びたいから叫んでいるというようだった。

 そして、勢いよくがばっと起き上がると、ブラウンの瞳を見て、また大きな声を出した。

「私、今分かったわ!最初は、優しい熊さんに、どんぐりを落として欲しいと思ってあなたに話しかけたわ!でも今は私、あなたと友達になりたいと思ってるの!」

「友達……?」

 今度は、ブラウンが首を傾げる番だった。

 オジョーサマの家に居た頃を思い出す。あの頃のあたしは、オジョーサマと友達だった。と思う。でも、あれはあたしが可愛かった頃の話だ。

 ブラウンはまた、キトを不思議に思った。

「もっとあなたとお喋りしたいの!あなたが仲良くしてる相手にはどんな笑顔を見せるか知りたいの!」

 キトは腕をぶんぶん振って、自分の思いを伝えようとした。

「あなたのような優しい熊が、あんな寂しそうな声を出しちゃ駄目なのよ!」

 寂しそうな声?さっき感じた、得体の知れない感情は、『寂しさ』だったのか?キトが自分に価値を感じていないと知った時、あたしは寂しかったのか?

 ブラウンには分からなかった。自分の感情を捉える心が、少し麻痺していた。

「友達になりましょう、ブラック!」

 キトが、二人で決めた名前でブラウンを呼んだ。

 一瞬だけ、ブラウンは、その名を受け入れてもいいかと思った。

 けれどすぐに、ブラウンの中のオジョーサマに捨てられた時の心が、それは絶対に受け入れてはならない物だと大きな警鐘を鳴らした。

 いつまでも続くのだと信じて疑わなかった日々が、跡形もなくなってしまう辛さ。

 初めて外に出た時の感触が、思い出が、ブラウンの脳裏に刻みついて離れなかった。思い出すと、冷や汗が滲んだ。

「……嫌よ。友達なんか作らないわ」

 ブラウンは暗い目でそう呟いて、自分の寝床に帰った。

 キトは何も言わず、何も言えず、その背中を見送った。

 ブラウンは次の日まで、冷や汗が引かなかった。



 ある日、ブラウンは寝床に帰ると、一匹の虫を見つけた。それはいつの日か見逃した、あの醜悪な虫だった。

 しかし、あの時とは違い、枝に引っかかっている所はなく、ブラウンの寝床に迷い込んだ訳ではなさそうだった。

「あなたが……ブラックさんですか?」

 その虫は丁寧な喋り方で、キトと決めたブラウンの名を呼んだ。

「……何しに来たの」

 この虫の目的が何であれ、おそらくキトの差し金だろうと考えながら、尋ねた。

「僕は、カイドって言います。『あなたは私より友達作りが上手いから。私とブラックの間を取り持って』とキトさんに言われて……」

 ブラウンの予想通りだった。ブラウンは、キトに接する時と同じようにこの虫にも接してやろうと思った。キトよりもいくらか気の弱そうな虫だ、少し凄めばあの日と同じようにここから逃げ帰るだろうと踏んだのだ。

「でも、僕としては、違う目的でここに来たんです。謝りたくて、それから、お礼が言いたくて」

 ブラウンが考えている内に、カイドは喋り続けた。

「あの時は、僕を助けてくれてありがとうございました。それから、助けてくれたのに、何も言わず帰ってしまってすいませんでした」

 そう言って、カイドは頭を下げた。

 キトより小さな体をしているので、ブラウンから見ればほとんどないような動きだったけれど、ブラウンには確かに伝わった。

 しかし、ブラウンはまだ、誰とも仲良くする気はなかった。

「謝る必要はないわ。だって、あたしはあの時あなたを殺そうとしたんだもの。助けたのはただの気まぐれ」

 ブラウンはしゃがんで、鋭い爪をカイドに突き付けながら話した。初めてキトと出会った時に横の木にできた傷も、まだ荒々しく残っている。その爪がいかに恐ろしい物か、誰でも分かるはずだった。

 けれど、カイドは何も言わずにただじっとその爪を見るだけだった。

 怖くて体が動かない、何も言えない。そういう物ではなかった。

「……早くどこかへ行きなさい。でないと、あなたにとって悪い気まぐれを起こすかもしれないわ」

「どうして、そんな嘘を吐くんですか?」

 ブラウンがいくら凄んでも、カイドはキトと同じように、少しも動じる事はなかった。

 ならばもう凄むのはやめだ。実際に殺してやる。ブラウンはそう思って突き付けた爪をカイドに近づけた。

「あんなにも、心優しいあなたなのに」

 爪の先が、カイドの体に触れた。あと少しでも力を入れれば、カイドの体は引き裂かれる。

 けれど、どうしても、ブラウンは爪をそれ以上動かすことができなかった。

「ふふ、こんな醜い体を撫でてもらったのは久しぶりです」

 爪を突き付けているブラウンは顔を真っ青にして、突き付けられているカイドは笑顔だった。

 カイドはブラウンを信用していた。

「……何なのよ。あなた達は」

 ブラウンは、カイドを潰さないように、腕を力なく降ろした。

 そうだ。あたしは誰かを殺そう、殺したいなんて思った事が無い。

 ブラウンは心の中で、さっきの言葉が嘘である事を認めた。

 でも、どう振る舞えば良いのか分からないのだ。最愛の人には可愛くないと言われた。だから恐ろしく振る舞おうとしたけれど、あのリスもこの虫も、私を怖がらない。それどころか、友達になろうと言ってくる。

「何なのよ。あたしは」

 ブラウンは、自分が一体どういう存在なのか、どう振る舞って生きていけばいいのか、分からなくなっていた。

「そうですよね。どうしたらいいのか分からなくなって、不安で、つい強がって周りを遠ざけてしまう。分かります。僕もそうだったから」

 ブラウンがちらりとカイドを見ると、カイドは睨まれたのかと勘違いして、身を竦ませた。

「す、すいません。分かったような口を聞いて」

 カイドは、さっきとは裏腹におどおどした態度で謝った。

「……別に、そういうつもりで見たんじゃないわ」

 カイドは醜悪な見た目をしている。それは間違いない。ブラウンは改めてそう感じた。けれど、初めて見た時のような不快な感情はもう抱かなかった。

 それどころか、彼の丁寧にあたしに向けられた言葉は、嫌いじゃないと感じていた。キトの事も思い出して、同じように感じた。

 カイドは可愛くない。それでも、ブラウンはカイドともっと話したかった。

 ブラウンは顎で、続きを話すようにカイドを促した。

「でも、強がっていても、キトさんが友達になってくれた。それで僕は本当に救われた。本当は、あの子の方が僕の何倍も友達を作るのが上手いんです」

 カイドは感慨深そうにそう話した。

「……あの子は、あなたの事を醜悪だと笑っていたわ」

 ブラウンは、何かを試すようにそう言った。

「あはは。手厳しいなぁ、キトさんは」

 カイドは、一つも傷付いた素振りを見せず、むしろ上機嫌で笑った。

 ブラウンは、オジョーサマに『可愛くない』と言われた時の事を思い出していた。あの時は、背筋を氷の刃で裂かれたような気分だった。

 けれど、また『可愛くない』と言われても、その相手がキトやカイドだったら、今のカイドのように笑えるんじゃないだろうか。ブラウンは、何となくそう思った。

「あたしも、あなた達みたいになれるかしら」

 ブラウンは、ボーっとした目で、うわ言のように呟いた。

「なれますよ。きっと」

 カイドは、ブラウンが言って欲しい言葉を、言って欲しい強さで伝えた。

「……あたし、もう眠るわ」

 ブラウンが、カイドを視界に入れたまま寝床に横たわった。

「はい。では、また今度」

 別れの言葉を告げ、カイドは森の奥へ帰っていった。

「また今度……」

 その姿が見えなくなった頃、ブラウンはカイドの言葉を小さく、一度だけ繰り返した。

 ブラウンはその日、オジョーサマの事を忘れた。



 次の日の朝、ブラウンは川のほとりであの雄熊に出会った。冷たい態度をとるブラウンに、何故か話しかけてくる雄熊である。

「やぁ」

 その雄熊はめげずに、今日もブラウンに話しかけた。

 ブラウンもいつものように、無視して魚を取った。

「なぁ……その、最近どうだい?」

 なるべく警戒させないように、雄熊がにこやかな声色で世間話を振る。今まではそのにこやかな態度が裏目に出ていたが、今日のブラウンは特に機嫌を悪くはしなかった。それでも話に応じはしなかったけれど。

 ブラウンが仏頂面で雄熊の脇を通り抜けて行く。雄熊はその姿を、今日も駄目だったなという顔で見ていた。

 そして同時に、今日は突き飛ばされなかったな。もしかして、彼女も少しづつ心を開いてくれているのかも知れない。とも考えた。

「また今度」

 しばらく会えなくなるだろう。という理由で、雄熊は別れの言葉を投げかけた。

そうするとブラウンは歩みを止め、ゆっくりと振り返った。

 ブラウンが初めて、雄熊の言葉に反応を返した瞬間だった。

「……名前」

「……名前?」

 それがあまりに珍しいことだったので、雄熊は思わずそのまま返してしまった。

「……あなたの名前は?」

「ザブラ、僕の名前は、ザブラ」

「……そう」

 ブラウンはそれだけ聞いて、また寝床へ帰って行った。

「さ、さようなら、また今度」

 二度目の別れの言葉に、ブラウンの反応はなかった。けれど、今日は良い気分で眠れそうだと、ザブラは感じた。

「ようやくあの熊の想いにに応える気持ちになったのね」

 いつの間にか、ブラウンの足元にキトが居た。

「……別に。名前くらいは聞いておこうと思っただけよ」

 ブラウンはぶっきらぼうに答えたが、今までのような、拒絶を内包した雰囲気はなかった。

「うんうん。名前は大事よね。毎日呼ばれて、耳にする物だもの」

 ブラウンはキトを一瞥するだけで、特に何も言わなかった。

 毎日呼ばれて、耳にする物。森に来てからキトに出会う前のブラウンなら、あたしにとってはそうではないと否定していただろう。

「そんな大事な名前、あなたの名前の名付け親になれて、私嬉しいわ」

「……そう」

 ブラウンは素っ気ない相槌を返した。キトは、前のままだったらこの相槌すら聞けなかっただろうと思って、嬉しくなった。

「あなた、なんだか雰囲気が柔らかくなったわ。やっぱり、カイド君とお話したのが良かったのかしら。カイド君と話していると、とっても落ち着くから」

 ……違う。彼はあくまできっかけだ。本当はずっと前から、あたしはあなたに……。

 ブラウンはそう言おうとして、やめた。自分の心の内をさらけ出して、誰かと向き合う事が怖かったからだ。また誰かに拒絶されるのが、裏切られるのが怖かった。

 未だオジョーサマの暖かみのない腕が、ブラウンの心と口をふさぐようにまとわりついている。

 ブラウンは黙って足元のキトを見た。キトは今日も、マスカラが入った鞄を持っていた。

「ねぇ、あなたのそれ、貸してくれないかしら」

 瞳を彩る物。あれを使えば、あたしはもっと可愛くなれるとキトは言った。あれを使えば、価値が有った頃の自分に戻ることができる。そうすれば、もっと堂々とキトと向き合い、さっき言えなかった言葉も言えるのではないか。ブラウンはそう考えた。

「ぶーっ」

 けれど、キトは腕で×を作った。

「ちゃんと対価は払うわ。どんぐりを落とせばいいんでしょう。それとも、もう自分で落としたの?」

「ええ。それもあるけれど……もっと大きな理由が有るわ」

 戸惑うブラウンを諭すように、キトは優しく言った。

「これはね。そんな後ろ向きな物ではないの。もっと素敵で、前向きな物なのよ」

 ブラウンは、キトの輝く瞳を見ながら、その言葉がどういった意味なのか、理解した。

「大丈夫よ。きっとすぐに、あなたは前向きになれるわ」

「……そうかしら」

 ブラウンは、否定とも希望とも取れる言葉を呟いた。

「じゃあね、ブラック!また春に会いましょう!」

 そうして二人は別れた。ブラウンから別れを切り出さなかったのは、今日が初めてだった。

 少しずつ、自分も変わりつつある。それを恐ろしいと思う気持ちも、少しずつ減っていった。それを嬉しいと思う気持ちは、大きくなっていった。

 だからだろうか。ブラウンはとある違和感に気付くのが遅れた。

 キトは別れ際に、また春に会いましょうと言った。何故、春なのだろう?そう言えば、カイドもザブラも、『また今度』と、遠くの事を言っていた気がする。



 その冬は、ブラウンが捨てられてから初めての冬だった。

 ブラウンはお腹が減って仕方なかった。川に行っても、思うように魚が取れなかった。何故か川を泳ぐ魚の量が減っているのだ。

 それから、冬の寒さが厳しくなるにつれて、ブラウンは眠気を昼でも感じるようになった。そのせいで体の動きが鈍った。これも魚を思うように取れない理由の一つだった。

 お腹が減ると、すぐに疲れて上手く魚が取れない。魚が取れないと、お腹が減ってすぐに疲れる。そんな悪循環が、ブラウンの中に延々と続いている。

 その内、ブラウンは眠気と疲労に耐えられなくなって、そこら中で気絶するように眠った。だがそれも、空腹感のせいですぐに目が覚めるのだった。

 そうして倒れては目覚め、倒れては目覚めを繰り返して川へ行っても、取れる魚は雀の涙ほどだった。

 一体、何だこれは。

 腹を抉られるような空腹感と泥の中に埋められたような疲労感の中、ブラウンの頭では漠然とした疑問がループしていた。

 何だ。何だ。何だこれは。

 これはあたしにだけ起きている病気なのか?あんなに川の魚が少ないのは、今年だけなのか?

 誰かに聞こうとしても、何故か自分以外の動物は、森の中から姿を消していた。

 ブラウンはまた、一人きりになっていた。

 この孤独感を人間に伝えるなら、『移動教室の連絡を寝過ごして、一人だけ教室に残されたよう』。と言った所だろうか。

 ブラウンはキト達の言葉を思い返す。多分、また春に会いましょうという言葉は、この事を言っていた。

 これは毎年、全ての生物に起こる事で、皆何らかの方法で森から姿を消して、この冬をやり過ごしているのだ。

 でもあたしは、オジョーサマのに飼われていたからその方法を知らない。情けない。結局あたしはあの人に守ってもらえなければ何もできないのか。

 ああ、それとも、人間に飼われていたので、森での生活が分からない。と、もっと早く誰かに打ち明けていれば、こうはならなかっただろうか。

 そんな悔しさや後悔の中、ブラウンの体は段々と生気を無くしていった。倒れては目覚めを繰り返している内に、倒れている時間の方が長くなっていった。

 そしてついにブラウンは、目が覚めても起き上がることができなかった。

 ブラウンは、下の地面との境目が分からないほど、体が冷たいと感じた。心臓の音も、呼吸の音も、今やキトのようなリスよりも小さくなっている。自分はこんなに静かな生き物だったかと、ブラウンは耳を疑った。

 他の動物が居ないから、森も静かだ。ブラウンは久しぶりに一人きりの時間を味わった。

 あたしがこのまま死んだら、キト達はどう思うだろう。ブラウンは自分の終わりが近い事を悟りながら、ぼんやりとそんな事を考えた。

 ブラウンは、もうまぶたを持ち上げている事すら辛くなっていた。今見ている景色が、最期の景色になるだろうと思いながら、ゆっくりと目を閉じる。

 丁度その時、木陰から子熊が飛び出して来た。

 ブラウンは、久しぶりに自分以外の熊を見た。

 その子熊はブラウンを見つけるなり、ブラウンの背中に隠れた。何かに怯えているようだ。

 何かから逃げて来たのだろうか。ブラウンは、背中の子熊が飛び出してきた方角へ向き直した。

 すると木陰から、猟銃を持った二人の男と、オジョーサマが現れた。

「オジョーサマ」

 ブラウンの口は、自然とそう動いていた。先程までまぶたを持ち上げるのも難しかったのに。

 けれど、オジョーサマは特にその声に反応する事はなかった。ただの鳴き声として聞き流した。

 大人になる途中で捨てたのだから、今のブラウンの体や声を覚えていないのも、当たり前と言えば当たり前だろう。しかし、例えブラウンが大人に成り切ってから捨てられたとしても、オジョーサマが思い出すことはなかっただろう。

「あら、まだ熊が居たの」

「冬眠に失敗したみたいだな」

「大分弱ってる。あの様子じゃあ、こちらが襲われる事もないでしょうが……」

 オジョーサマとその両脇の男が話し合う。

 何故ここにオジョーサマが居るのかは分からない。でもとりあえず、これで助かったと、ブラウンは考えた。

「お腹が、減っているの。助けて、オジョーサマ」

 オジョーサマの家には、食べ物がいっぱいあった。もう飼ってもらう事はできなくても、それを少し分けてもらう事くらいはできるはずだ。

 それに人間は賢いから、今あたしの身に何が起こってるかもちゃんと分かって、あたしにどうしたらいいか教えてくれるはずだ。ブラウンはそう考えたのだ。

「後ろに隠れてるみたいですね……撃ちますか?」

「やだ。もし私のブラウンが怪我したらどうするの。こういうのは話し合いで分かってもらうの」

 ああ、ほら。またブラウンと呼んでくれた。両手を広げて、こっちに歩いて来てくれる。ずっと昔に見た、あの優しい笑顔で。

 もう一度オジョーサマと抱きしめ合うために、ブラウンは疲れ果てた体で、立ち上がろうとした。

 そんなブラウンを踏みつけて、オジョーサマは後ろの子熊に話しかけた。

「さぁ、私のお家で暮らそう?家族になろう?私の新しいブラウン」

 ブラウン。オジョーサマはその名で、後ろの子熊を呼んだ。

 オジョーサマの高そうな、綺麗な靴に踏みつけられながら、は突き刺さるように理解した。

 ブラウンという名に未練を感じていたのは自分だけだったのだと。

 そしてその未練にはもう、すがるほどの希望すらないのだと。

 ブラックは、自分を踏みつけるオジョーサマを吹き飛ばすように立ち上がった。

「きゃあっ」

 オジョーサマが、地面の上に転がる。

「ああ、酷い!酷い!ずるい汚い醜い!そんな醜いあなたが、『可愛くない』という理由であたしを捨てたの!?」

 ブラックの怒号が、森の中に響いた。

 オジョーサマは訳が分からないといった顔で、這いずって逃げた。オジョーサマは今まで一度もブラウンの言葉を理解しようとはしなかった。

 男たちが銃を構えるより早く、ブラックの鋭い爪が銃を弾き飛ばす。逃げるオジョーサマも、大きな体を覆いかぶせて捕らえた。どす黒いエネルギーが、さっきまで死にかけていた体を強く動かした。

「ああ、ならばいいわ。あなたが言う通り、私はもっと醜い存在になってやるわ。あなたという醜い人間を喰らい、生き延びて、世界で一番醜い存在になってやる!」

 ブラックが、そのギザギザした牙をオジョーサマに突き立てようとしたその時だった。

「ダメよ!」

 後ろからキトが、ブラックに負けない大きな声で語りかけた。

「そうしたらあなたは、二度とその人を忘れられなくなるわ」

 ブラックの動きが、止まった。その隙にオジョーサマと男達は、森から逃げ帰って行った。

「キト……どうしてここに?」

 ブラックが、振り返って尋ねた。

「あなたの大きな声が聞こえて、冬眠から目が覚めちゃって……あなたこそどうしたの?そんなにやつれて……」

「トーミン……?あいつらも言ってたわね。もしかしてそれが、冬を越える方法なのかしら」

 ブラックは空を見上げながら、そんな事をぼやいた。

「あなた、もしかして……!?ちょっと待ってて、今何か、食べる物を……」

「別にいいわ……それより、あなたの寝床に案内してもらえるかしら」

「………………うん」

 キトはいっぱい黙った後、自分の寝床へ歩き始めた。

 ブラックは歩き始める前に、足元の子熊に一言話した。

「あなたは、あたしみたいになっちゃ駄目よ。もっと皆と仲良くして、助け合って、生きていくの」

 子熊は言葉を理解できる年齢ではなかったけれど、しっかりと頷いて、森のどこかへ帰って行った。

 それを見送ってから、ブラックはキトの背中へ付いて行った。

 ブラックの足取りはとても弱くて、以前はキトに合わせてゆっくり歩いていたのに、今ではキトの方がゆっくり歩かないと、差が出来てしまうほどだった。

 それでも時間をかけて、二人はその場所へ辿り着いた。

「ここが私達、リスの暮らす場所よ」

 ブラックは、辺りで一番大きな木を見上げた。

「これが……あなたの言っていたどんぐりの木かしら」

「ええ、そうだけど……?」

 ブラックはその木を掴んで、思い切り揺らした。

 すると、丸くてつやつやしたどんぐりがいっぱい落ちて来て、地面や木に当たり、とても優しい音を奏でた。

 そして、それが最後の力だったのか、ブラックはその場に倒れた。

「ブラック!」

 キトがブラックの名を呼びながら、駆け寄った。

 ブラックは、息絶え絶えになりながら、口を開いた。

「これは、あなたのためよ、キト。あなたと友達になりたいから、したことなの」

「バカ……もう、友達でしょう?私達……」

「そう……?なら、嬉しいわ」

 そう言って、ブラックはニコリと微笑んだ。それは、キトがずっと見たかった、仲良くしている相手に見せる笑顔だった。

「ブラック……ブラック!」

 キトがブラックを呼び続ける。そう呼ばれる度に、ブラックは自分の中に何か暖かい物が込み上げて来るのを感じた。

「お、おい!どうなってるんだい、これは」

 その時そこに、ザブラと一匹の子熊が現れた。

「ザブラ……?」

「息子に起こされて、付いて来たら、君が倒れてるじゃないか。もしかして冬眠できなかったのか?待ってて、すぐに僕の分の食べ物を持ってくるから」

「本当!?良かったわね!これできっと助かるわ!」

 キトが潤んだ瞳を輝かせて喜んだ。

「ねぇ……ザブラ。あなたはどうして、そんなに私に優しくしてくれるの?いっぱい、突き飛ばしたのに……」

 ブラックが、ザブラに尋ねた。

「君は似てるんだ……昔、人間に攫われて、生き別れになった妹に」

「それって……」

「もしかして、君は本当に、僕の……」

 ブラックが、かもしれない。と答えると、ザブラはブラックを強く抱きしめた。自分より大きな存在に抱きしめられるのは、とても久しぶりだった。

「ああ、あの時守れなくてごめんよ。これからは君を離さないよ。ホワイト」

「……ホワイト?」

「君の名前さ。……もしかして、もう他に名前が有るのかい?」

 ブラックがキトの方を見ると、キトは自信満々に頷いた。

「……ないわ。ホワイト。私の名前はホワイトよ」




「これ、本当に塗れてるの?」

「ええ、任せて。今とっても綺麗に塗っているから。まだ鏡は見ちゃダメよ。全部完璧に塗り終わってから」

「それに、何だかくすぐったいわ」

「あら、あんまり瞬きしちゃ危ないわよ……」




 ホワイトはその昔、可愛い女の子の熊だった。

 そして、今も。

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クマとマスカラ 牛屋鈴子 @0423

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