シュニッツラー「アメリカ」
磯山煙
シュニッツラー「アメリカ」
船が着岸する。僕は新たな大陸に足を踏み入れる……。
秋の朝の灰色が陸と海を暗く覆っている。僕の足元では未だあらゆるものが揺らいでいる。まだ今も波が不安定に動いているのを感じる……。霧の中から都市は立ち上がってくる……。眼を見開いた僕の側で、活気に満ちた群衆がむやみに先を急いでいる。他人を彼らは気にしない。彼らの意識に現れるのは新しいものだけだ。あちらこちらから誰ともなく囁いているのが聞こえてくる。アメリカ――この国ときたら、今ここに本当に自分があることをひたすら正確に刻みつけようとでもしているかのように、あまりにも広大なのだ……!
僕はひとりきりで岸辺に立っている。頭にあるのは、真新しいアメリカではない、幸せを追い求め、故郷としては借りを残したままのアメリカでもない。僕が思い浮かべているアメリカはそれらとはまったく別物だ……。
あの小さな部屋が僕にはあまりにはっきりと、昨日もそこにいたみたいに思い浮かべられ、そこを去って何年も経つのだとはとても思えない。机の上には緑のシェード付きのランプ、部屋の隅には刺繍の施された安楽椅子。壁には銅版画が掛けられているが、それらの絵は影の中に溶けてしまっている。僕の側にはアンナがいる。僕の足元に横になり、くせっ毛を私の膝にもたれかけている。彼女の眼を見るために、僕は身を屈めなくてはならなかった。
僕たちはおしゃべりをやめていた。夕方は宵へと移りつつあるが、部屋は静かだ。外では雨が降り始め、雫がいくつもゆっくりと重苦しく窓ガラスを叩くのを僕たちは聞いていた。彼女が微笑み、僕も口の端を持ち上げてみせる。僕は彼女の唇に口づけし、それからおでこに、閉じたまぶたの上にもキスをする。僕の指は彼女の耳の後ろで波打っている艶やかなブロンドの髪と遊んでいる。押し戻して、耳のすぐ後ろの白く愛らしい肌にもキスをする。彼女は再び目をこちらに上げると、にっこりと笑う。「新しいもの」と彼女は驚いた調子で囁く。じっと僕は唇を彼女の耳の後ろにしっかりと圧しつける。それから微笑んで言った。「そう、新しいものを僕は見つけたんだよ!」彼女は大笑いし、子供みたく無邪気に大声を張り上げる。「アメリカ!」
あの時のおかしなことといったら!あまりにもバカみたいだった!僕は目の前の彼女の顔を見たのだが、僕には彼女の目つきはいたずらっぽく、彼女の赤い唇には大きな「アメリカ!」が響いているように思えた。その時僕たちはなんて笑っていたのだろう、なんてそこに匂っている香りに酔っていたのだろう。彼女のくせっ毛から匂ってきた香りが、僕たちのアメリカの上へと流れてきた……。
そしてこの立派の名前のそばにもその香りは残っていた。最初の頃、数えきれないほどのキスが耳の後ろへと迷い込んだときには僕たちは決まってその言葉を叫んだものだった。そうして囁くようになって――ある時からはもう考えるだけですませるようになったが、いつも頭に浮かびはした。
大量の思い出が僕の中に立ち昇ってくる。大きな船が一艘描かれたポスターが柱に貼ってあるのを見て、彼女と二人そこに近づいて行って読んだこともあった。「リバプール発――ニューヨーク着――ブレーメン発――ニューヨーク着」……。僕たちは通りの真ん中で大笑いして、それから、人々が取り囲んでいるなか、彼女は声高らかに宣言したのだ。「ねえみんな、私たち、今日アメリカに旅立つの!」人々は彼女をとても不思議そうに眺めていた。あるブロンドの口ひげの青年など彼女を嘲け笑いさえしていた。僕はそのことに腹が立ってたまらなかったが、こう考えることにしていた、そうだよ、あいつだって僕たちと一緒に旅立ちたいに決まってるんだから……。
そしてあの時僕たちは劇場に座っていた、どんな芝居がかけられていたかはもう覚えていないが、舞台の上では誰かがコロンブスのことを物語っていた。ヤンブス〔1〕の芝居だった。その一節が記憶に残っている。「――そしてコロンブスが橋に足をかけたとき……」アンナは自分の腕を僕の腕に軽く圧しつけた。僕は彼女を見つめ、そしてその蔑むような眼差しのわけを知った。かわいそうなコロンブス……。彼が本当のアメリカを発見してさえいれば! 劇場から出たあとはワイン酒場に寄り、僕たちはあの善良な男のことをたくさん話した。彼は不十分なアメリカの上であまりにも多くの思い込みを抱いていた。本当に僕たちは彼が気の毒だったのだ。僕はずいぶん長いこと、自分の新大陸の海岸に悲しみに満ちた眼差しで立っているコロンブスしか思い浮かべることが出来なかった。おかしなことに彼はシルクハットに流行りの形のコートを着、絶望に頭を振っていた。かつて、僕たちは一緒に彼を喫茶店のテーブルの大理石の天板の上に描いたものだが、描くたびごとに新たな細部が見つかった。彼女はコロンブスが煙草を吸っていることにこだわった。僕たちの絵の中の偉大な発見者は雨傘を持っていたり、シルクハットが潰れていたりした――これはもちろん反乱した原住民がやったのだ。そんなわけで僕たちにとってコロンブスは世界史の中でもいちばん滑稽な登場人物になったのだった。なんてアホなんだ! なんてバカなんだ!……
そして今、僕はこの大きく冷たい都市の真ん中に立っている。偽のアメリカにいながら、向こう岸にある僕の甘やかで香り立つアメリカを夢見ている……。なんという長い時間だろう! あれから何年も、何年も過ぎた。ひとつの苦痛とひとつの狂気が僕に覆いかぶさり、何かが失われて二度と戻って来なかった。僕はお客がどこにいるのか、一通の手紙がいったいどこでお客に行きつくのか分からないのだ――彼女については、もう、何も、全く何も分からない……。
僕の行く道は都市のさらに内部へと続いており、僕の後ろには荷台がある。一瞬立ち止まり、眼を閉じると、奇妙な見せかけの感覚の遊びの中、あの時と同じ香りが僕を包む。あの晩にアンナのくせっ毛から匂って来て、僕の上へと流れてきたあの香り、あの時、僕たちはアメリカを発見したんだ……。
〔1〕西欧文学における韻の踏み方の一種。英語やドイツ語の韻文の場合は行の末尾(韻脚)の音が「強弱」で終わるものを言う。原文の»– und da Kolumbus auf die Brücke trat...«の場合はBrücke(橋)のüが強韻でtrat(足を踏み入れた)のaが弱韻。ギリシャ語ではイアンボス、英語ではアイアンブ。
シュニッツラー「アメリカ」 磯山煙 @isoyama_en
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