第1話 都市伝説の男
私は近所に小さな病院を開業しようと奔走していた。収入もままならない今の状況では、部屋を貸してくれているエリスン夫人に申し訳が立たないし、いつまでもフラフラしていられない。
運良くちょうど良い不動産を見つけたので駆け込みで業者と打ち合わせた。物件を見る事もできたし、何とそのまま一気に契約までこぎ着ける事が出来た。その後、私は物件の契約書類を小脇に抱え、物件に合わせた開業に必要な部材や器機などを急いで見て回るなどして、夕方になって帰宅した。
今日は昼飯を食べる暇も無いほど走り回ったので、早い所美味しい夕食にありつきたい。エリスン夫人の料理は最高だ。夕食にはまだちょっと早い時間だが、お腹がすいて仕方ない。
安い家賃で朝食と夕食まで付くとは、なんとも申し訳ない。今回の話がこのまま上手く進めば、自主的に家賃を上げなければならないだろう。
部屋ではジョームズが窓側に向けた回転式のリクライニングチェアに腰掛け、新聞とにらめっこしていた。朝と変わらない光景だ。
1日中このようにしていて、一体どう生計を立てているのか。全く不思議な男だ。
「その顔は上手く行っているという顔だね」
ジョームズがこちらを振り返ることもなく言うので、ちょっとからかってやろうと思った。
「顔も何も、マスクをしている私の表情などうかがい知れないだろう?」
実際はマスクなどしていないが、ジョームズからは見えないはずだ。
町では今インフルエンザが流行の兆しを見せている。医者である私がマスクをして歩いていても不思議ではない。さぁ、どう返す?
するとジョームズは相変わらずこちらを向こうともせず、笑ってこう返した。
「その声はマスクをしている声じゃないよ」
しまった、と思った。
しかし、やはりジョームズは私の顔を見ていない。表情などは分からないはずだ。
「さすがに引っかからないか。しかし私の表情は、そちらを向いていたのでは分からないだろ?」
そもそも『上手く行っている表情』って何だ。ニヤニヤしていたとでも言うのか。
いや、私は間違いなく普通の表情、いわゆる『無表情』で部屋に入ってきたはずである。そこは譲れない。
「きみが階段を上がってくる足音は一定のリズムで、躊躇が無かった。さすがに今回の開業の話が上手く行っていなければ、ねちねちと色々聞きだそうとする私をどう躱そうかと思案しながら階段を上がるはずだ。その心の乱れが足音に現れていなかった」
時折彼は本当に侮れない事を言う。この点が、私が彼の事について「本当はとてつもない名探偵なのではないか」と疑念をぬぐい切れない原因の一つなのだ。
「し、しかしきみは『その顔は』と言ったじゃないか。足音で分かったのならそう言えばいいだろう?」
ここでジョームズのテンションが明らかに変わった。『待ってました!』と言わんばかりに畳み掛けてくる。声もうわずっている。しかし相変わらずこちらを見ようとはしない。
「そこが『駆け引き』というやつだよワトソー君!きみは私が『きみの顔を見ていない』という事に気づいたから、『マスクをしている』などという嘘をついただろう?しかしその後私はその声にこもった感じが全くなかったことから『マスクはしていない』という一つの事実に辿り着くことが出来たんだよ」
たたみかけるジョームズに若干気押しされながらも、私は反論を試みた。
「そんなの、こちらを振り向いて実際に見てみれば一目りょう然じゃないか。なぜそうしないんだい?」
ジョームズはあからさまにため息をつきながらこう言った。きみは何もわかっていないんだな、と言うように。
「思考実験だよ。言い換えれば『ゲーム』さ。私はきみの姿を一つも見ることなくどこまで『今日のきみの成果』を知ることができるか試しているんだ」
私は息を飲んだ。何も言い返す隙が無い。
ジョームズは後ろ向きで天井に視点を合わせたまま語り出した。
「きみの足音でまず最初に『成果は上々だろう』という仮説を立てた。そこで私はきみを見ていないことを暗に強調しながら『上手く行っている顔だ』とカマをかけてみた。するときみは私をからかおうという余裕すら見せた。この時点で仮説は80%事実と確信したね。次にきみが『マスクをしていない』という事に気づいた。そうだ、マスクを『していない』んだよ。まぁこれはきみの浅はかな罠があっての事ではあるが」
私は憮然として反論した。
「マスクをしていないから何なんだい?全く意味をなさない事実じゃないか」
ジョームズは向こうを向いたまま手で遮るようなジェスチャーをして答えた。
「意味のない事実など存在しないのだよワトソー君。新聞にはこう書かれていたよ。ベーカリー街ではインフルエンザの流行が危険レベルに達しそうだと」
私は迂闊にもハッとして動揺してしまった。
「医者のきみがそこに敏感に反応しないわけがない。なのになぜマスクをしていなかったのか。きみは私に重大なヒントを与えてしまったのだよ」
何なんだこの追い詰められている感じは…話自体は大した話ではないのだが、完全にジョームズの術中にハマっているような、絶望感すら感じさせるこの異様な空気は…しかも彼はこちらを一瞥もしていないのに、だ。
「恐らく外ではしっかりマスクをしていたんだろう。医者ならそうする。しかし家に着いてからこの部屋に来るまでにそれを外している。この部屋に入ってから外せばよいにも関わらず、だ。そこから導き出される結論は…」
「な、何だと言うんだい…?」
「きみはかなり空腹なんだよ。まだ夕食にはちょっと早い時間にも関わらずね」
「は?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが、いや、合ってはいる。昼飯を食わなかったから、ちょっと早いがもうお腹がペコペコなのだ。
「空腹という事はそれなりに精神が安定しているという証明でもあるんだ。これだけで『上手く行っている』を導くのは無理があるが、一つの手がかりになる。先ほどの80%が100%になったわけだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、精神が安定しているというのは分からなくもないが、なぜ私が『かなり空腹だ』と分かったんだ?」
ジョームズは『そこまで説明が必要なのか…』とでも言いたげに、ため息混じりに説明を始めた。
「階下では今まさにエリスン夫人が美味しいシチューを作っているんだよ。きみはその光景を遠めに見て、ついその香ばしい匂いを確かめたくなってマスクを外したんだろう。もしかしたら夕食について2、3エリスン夫人と会話したかもしれない」
図星だ…という気持ちが思わず顔に出ている自分に気づいてまたハッとしてしまった。
「家賃の事でエリスン夫人に引け目を多少なりとも感じている男が、今度の話が上手く行ってもいないのに彼女と悠々夕食の話などするわけがない。これで間違いなく今回の話は150%上手く行っていると断言しても良いだろう」
ジョームズは満足そうに再び新聞に目を通し始めた。お前は引け目を感じてないんかい。
しかしながら私は茫然としてしまった。
いやよくよく考えたらそんなに複雑怪奇な話でもないような気がするが、そんな事でもたった今私はジョームズに激しく追い詰められた。これが犯罪者だったらどうだろうか。ジョームズの魔術のような追及に身も心もボロボロにされるのではないか。
しかも彼は私の事をいまだに一度も見ていないのだ。
「ちなみに」
ジョームズは突然続けた。
「マスクをしていない事はきみが私をからかおうとしなくても何らかの会話さえすればわかる事だけどね。ただ私に『マスク』という着目点を早々に与えたのはきみのお手柄だよ。恐らくきみの浅はかな罠がなければ仮説を確信に変えるまで5手くらい遅れたかもしれない」
しばし沈黙。
「しかしジョームズ、単に私の話が『上手く行っている』くらいの事を知るにしてはちょっとオーバー過ぎやしないか?知り得た事実がちょっと抽象的すぎるよ」
私は何となく抵抗してみたくて、ちょっとジョームズを煽ってみた。
「もしかしてきみは、私が今回知り得た事実が『上手く行っている』なんていう抽象的な事に留まっていると思っているのかい?ある意味純粋な男だな」
相変わらず向こうを向いたまま、笑いを交えて語るジョームズ。
「え?あとは何がわかるって言うんだい?」
「じゃあ当ててみようか」
ジョームズは向こうを向いて座ったまま、吸っていたパイプを高らかと掲げて話し始めた。
「今日きみはたまたま開業に最適な不動産を見つけたので、早速不動産屋を訪れた。そして運の良いことにその物件を実際に見ることができ、なんと契約までこぎ着けることができた。そこまで行くとは想定外だったはずだ。そしてその足で開業に必要な物品を物色して回り、ある程度の目鼻を付けて、悠々と帰宅したわけだ。相当に腹をすかしてね。昼飯を食う時間もなかったんだろう」
ジョームズは見ていないだろうが、私は口をあんぐりと大きく開けて、二の句が継げない状態になっていた。
「ジ、ジョームズも人が悪いな…今日1日私をつけ回していたのかい?」
「私がそんなに暇そうに見えるかね?」
見える。それは見える。
「わざわざついて歩かなくとも、さらに今のきみの姿を見ることすら必要とせず、それくらいの事はわかる。でなければ私の仕事は成り立たないからね」
戦地にいた時、兵隊たちとかわしていた雑談でこんな話があった。
世界には、部屋から一歩も出ることなく、様々な難事件を解決してしまう名探偵がいるという話。単なる都市伝説だとばかり思っていたが、意外と実在するのかもしれない。
「ちょっと待ってくれジョームズ、気持ち悪いな。なぜそんな事が分かるんだい?きみは今日何をしていた?ここにずっといたのか?」
思わず都市伝説の真相を確認するような質問をしてしまった。
するとジョームズは初めて回転式のリクライニングチェアをこちらに向けて話し始めた。
「私は今日、ずっとここにいたよ。ここで新聞や資料にずっと目を通していた」
「なら何で今日の私の動きが手に取るようにわかるんだい?いくら何でも、見もしないでそんなことまで分かるはずがない。ありえないよ」
「頭を柔らかくすることさ。まずは『分かるはずがない』という先入観を捨てること。私の仕事に一番邪魔なのは先入観なんだよ」
私は完全に彼の講義を聞く学生のようになっていた。
「例えば今日のこの新聞、毎日のように入っている不動産のチラシだけが無くなっていた。ここには私ときみしかいないから、誰かが持って行ったとしたらきみしかいないわけだ」
「今日、たまたま業者が入れなかったのかもしれないじゃないか」
「今朝一番に私が新聞を読んだ時にはあったのだがね」
見られていたのか…。そりゃそうか、ジョームズは朝早くから一番に新聞に目を通しているからな。
「可能性は一つ。今朝、私の後に新聞に目を通したきみがそれを発見して持ち去った。私はきみが開業のために不動産を探していることは知っていたから、間違いなくそうだと思ったがね」
「ま、まぁ確かにそう考えるかな」
「きみは午前中にここを出た時は特に何も手に持っていなかったから、恐らくそのチラシは今でもその背広のポケットかどこかに丁寧に折りたたまれてしまわれているだろう」
図星だった。捨てる間も場所も無かった、というより捨てるのを忘れていた。
「多分捨てる間も場所もなかったんだろう。いやむしろ捨てるのを忘れていたか」
怖いなこの男。全て見透かされているのか。
「チラシを持って慌てて出ていったという事は、目ぼしい物件が見つかったということだ。そして身軽な出で立ちで出ていったという事はそれほど深い話になるとは予測していなかったのだろう。話を聞いてみようか、くらいの気持ちだったかもしれない。しかし話はトントンと進み、物件を見ることまでできてしまった」
「それはなぜ分かるんだよ。もしかしたら上手く行かなかったかもしれないじゃないか」
「そこで最初の分析が役に立つんだよ。今日のきみは『上手く行った』と結論したろ?チラシを持って出かけて行って『上手く行った』のだから、話がまとまった以外に何かあるかい?」
「物件を見ることになった、というのも『上手く行った』という結論から導いたのか?」
「まぁそういう事になるよね。不動産の話がまとまるには、実際の物件を確認することが必須だからだ」
「しかし契約まで行ったかどうかは分からないだろう。『上手く行った』のは事実でも、契約だけは後回しかもしれない」
「もちろんその可能性は大いにある。しかしきみが午前中ここを出て行った時と違う点が一つだけあるんだよ。それはその小脇に抱えた書類だ。この流れで帰りだけに突如出現する書類は『契約書類』しかないだろう」
「確かにそうだな…」
いや、待てよ?
「いやいやいや!きみがそれを言い当てた時はまだきみは私を一度も見ていなかった。ゲームだとか何とか言ってね。小脇に書類を抱えているなんてどうしてわかるんだよ!」
思わず声がうわずってしまった。
「そこが今回の事件の山場だな」
事件…?
「きみがこの部屋に入ってきた時、ドアが開く音の直後に小さく『パンッ!』とドアを軽く叩くような音がしたんだ。その後また少しドアの開く音…それらの音が一体何を示すものだったのか最初は分からず難儀したが、その他の色々な話を総合して考えたら合点がいった」
「そんな音したかな?全く気付かなかったが」
これは本心だった。
「きみは無意識だったろうね。だから全く印象に残っていないのだ」
「何なんだよ、気になるなぁ、もったいぶらずに教えてくれよ」
「きみは右利きだよね。それは知ってる。だからその利き手を自由にするために契約書類を左の小脇に抱えているね」
「あぁ、恐らくそれも無意識にそうしてしまっている」
「この部屋のドアは廊下に向って開くようになっている。つまり外から部屋に入るには『ドアを引く』ことになる」
だから何なんだ、という気持ちが抑えきれない。
「きみはいつもどちらの手でドアを開けてこの部屋に入ってくるんだい?」
「そりゃあ左手だよ。ドアを開けてそのままスムーズに部屋に入れるからね」
と言ったところで思わず『はっ』としてしまった。
「では聞こう、今日はどちらの手でドアを開けたのかな?」
そうか!と思わず心の中でおでこをスパン!と叩いた。
今日は左の脇に書類を抱えていたので、右手で開けたのだ。右手で開けると、ノブを持った手や腕が邪魔で部屋に入ることが出来ない。だから勢いよくドアを開けて一旦ノブから右手を離し、閉まろうとするドアを改めて自由になった右手で受け止めてまた少し開けた上、体を滑り込ませる…。その時に確かに音を立てたかもしれない。
「そう、それが『パンッ』という音と再び少しドアの開いた音の正体さ。きみの左手が書類で塞がっているという事を示す証拠だな」
なるほど確かにそうかもしれない。
しかしここまで来たら意地になって反論してしまう。まるでジョームズに導かれているかのように。
「しかしだよ、左手が何かで塞がっていることはわかるかもしれないが、それが『契約書類』だと断定するのは無理があるんじゃないか?」
「無理がある?どう無理があるんだい?その他の可能性を挙げてみてごらんよ、『契約書類』よりも無理がないものが挙げられるというのかい?」
「た、例えば近所のパン屋でパンを買ってきたかもしれないじゃないか」
「ちょっと早いとはいえエリスン夫人の夕食を心待ちにしている男がパンを買ってくるかね?いつ食べるんだ?私はきみが間食をほぼしないことを知っている。それにね、きみが帰ってきた時、荷物を抱えている、もしくはぶら下げている事を示す音、例えば商品を入れる紙袋やビニール袋の類のガサガサする音は一切しなかった。これはつまり所持しているものが薄っぺらくて脇に挟めるものであることを意味しているんだよ」
だめだ、これ以上私のような素人が反論しても綺麗に言い返されてしまうだけだろう。白旗を上げるしかない。なんて男だ。こいつは本当に都市伝説の男なのかもしれない。
「あぁ、降参だよ。負けた。私がもし犯罪者なら、大人しく捕まることにするよ」
ただ帰ってきただけなのにとことん打ちのめされた気分だ。
「ははは、まぁきみが犯罪を犯せるようなタマではないことも分かっているがね」
と言うとジョームズはまた窓側の方に椅子を回転させてしまった。
もう消化試合ではあるが、最後の疑問をぶつけてみよう。
「ジョームズ、最後に一つだけ教えてくれ。私が契約を済ませた後に開業に必要な物品を探して回ったというのはなぜわかったんだ?」
「きみがこの部屋を出たのが11時前くらい…おそらく不動産屋が開くのが11時だったのだろう。それから打ち合わせをして、予想外のことに物件を見学でき、さらに契約までこなしたとすると、恐らくかかった時間は2~3時間。13時か14時なら充分遅い昼食を取れる時間だ」
余計な事は言わず、黙って聞くことにした。
「しかしそれをすることもせずにここに帰ってきたのは16時頃…では空白の2~3時間はメシも食わずに何をしていたのか」
「全然別の事をしていたかもしれないじゃないか。ゴルフの打ちっぱなしとかさ」
つい口を出してしまい、『しまった』と思った。
「きみは腹ペコの状態で食事も取らずに熱中するほどゴルフの打ちっぱなしが好きなのかい?」
ジョームズは笑った。
確かにそれならメシを食うだろう。
「物件の内容が肌感覚でよくわかっているうちに急いでその物件に合った品々を見て回る必要があると思ったのだろう。まさかポラロイドキャメラをきみが持っているとは思えないしね」
なるほどその通りだ。この目で物件を確かめた記憶が鮮明なうちに部材や器機を見て回ったのだ。この男にごまかしは通用しない。悔しいほどにスラスラと答えを出す。
「ふう、いい気分で帰ってきたのに何だか疲れちまったな」
「私は楽しかったけどね。今日は依頼の案件が一つもなく退屈だったから、いい暇つぶしになったよ」
次はその『依頼の案件』とやらにどう対応しているのか是非見てみたくなった。
『都市伝説の男らしき男』の仕事ぶりとはどのようなものなのだろう。
伝説の探偵は口先だけでまるで手品のように事件を解決してしまうという。手品…うむ。彼にしっくりくる言葉ではないか。
「都市伝説の男」終
引きこもり探偵ジョームズ 四畳 半平太 @HED
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