雨上がりのプロローグ

 この世界の創造主は、失敗した。

 神は、知恵ある種族を、複数作るべきではなかった。

 お陰で、僕らは互いにいがみ合い、命をすり減らすことしかしない。折角作り出した生命だというのに、これでは失敗だろう。

 勿論、人族のみに溢れる世界にも争いは絶えないだろうが、少なくともこれほど凄惨を極めたりはしなかっただろうと考える。

 甘い考えだろうか。


 『ボード』と呼ばれるこの世界には、大きく分けて3つの種族が存在している。

 1つは、我らが人族。世界最強の2足歩行動物を自負する。

 体内には、「魔素」と呼ばれる強力な奇跡を宿していて、その活用において最も優れた種族だった。


 1つは、憎き魔族。彼らもまた、世界最強を自称する誇り高き種族らしい。しかし、なんでも口から汚らしい汁を垂らしていたり、鼻が曲がるほどの体臭を放っていたりして、とにかく不潔だという。実際に見たことがないので、真偽のほどは定かでない。

 魔素を秘めているのは、人族と同じであるが、身体能力は人族のそれを遥かに上回るものだった。


 1つは、亜人族。彼らが一体何を自負するのか、また何足歩行であるのかを、僕は知らない。魔族同様、まだ1度も出会ったことがないからだ。

 彼らは、他の種族と違って、魔素をその身に宿さない。しかしながら、彼らの身体能力は、他の全てを圧倒するものらしい。噂では、空を飛ぶハエを食器で挟み、捕まえることが出来るのだという。要するに行儀が悪いのだろうと、僕は想像する。


 そして、もう1つ。僕としては、最近台頭してきた貴族などという種族が気になる。なんでも世界最低の2足歩行動物を名乗り、他者を見下さないと死んでしまうというひ弱な種族であるらしい。

 彼らが新たな種族として認められるのは、そう遠くない未来の事であろう。


 冗談はさておき、そうした種族構成が主だった。他にも、蚊やバッタなどの昆虫、鹿や熊などの動物、ゴブリンやトロールなどの魔物が存在しているが、先述の3つこそが特に知性に秀でた生物として区別される。


 そしてそれらは、ときに種族間での殺し合いの有無でも区別される。

 そう。僕らは、他種族相手の戦争に夢中だった。他種族のはらわたを引っ張り出して、首元を掻っ切って、血をすすって。

 それを僕らはやめない。


 その中でも、特別激しく対立しているのが、人族と魔族だ。何の因縁があるのか知らないが、昔から犬猿の仲。古来よりわんわんキャーキャーやってきたという訳だった。


 喧嘩するほど仲がいい。そんな諺が悪い冗談になってしまうほどの彼らに挟まれた、もう1つの種族があった。哀れなるその種族とは、お察しの通り、亜人族である。

 地形的にも人族と魔族の間に腰を据えていた彼らは、度々戦地として住居を荒らされ、多くの部族に分裂してしまったという。

 大陸中に散らばった彼らは、それぞれの土地で繁栄をした。その内、絶えてしまった部族もいるそうだが、危機に瀕したそれらの多くは、大抵近くの種族に援助を頼み込む。つまりは、人族か魔族である。

 そうして彼らは、援助の代償としてその身体能力を戦争に利用されることになった。その為、戦場では同じ種族とも殺しあわなければならないのだった。

 やはりどこまでも悲しい種族である。


 さて。ここまでを聞いた貴方は満腹だ。

 しかし、最後に1つだけ、重要な決まり事がこの世界には存在していた。


 争いあう僕らを見て、さすがに何か思うところがあったのだろう。神は、無秩序に殺しあう僕らに、あるルールを課した。それは、秩序を好むと言われる神らしいものだ。


 どうやら、領土をかけての争いでは、常に決まった陣形が同じ陣形に対して向かい合わなければならないらしい。そうして争わなくてはならないらしい。


 その陣形というのは、先ず『ポーン』と呼ばれる騎士を最前列に8人並ばせる。そしてその後ろに、両端から順に『ルーク』、『ナイト』、『ビショップ』を配置。それらが中央の『クイーン』と『キング』を挟むようにするものだった。


 加えて神は、人族と魔族の国土を8か所に区分したそうだ。そして、それぞれに1つの陣形を配置させた。無論、自らの領土を守らせるためだろう。


 そうして、その地に駐留する陣形を破れば、攻め手がその領土を占領できる。

 また、攻め手の陣形を負かしたのなら、守り手は神の祝福という更なる力を得るとともに、領土を守れる。

 ドロー、つまり決着がつけられなくなった場合は、ただ攻め手が引き返すことになる。


 そんなルールが定められたのだった。


 互いの陣形は、『キング』の命令によって、1手毎にその形を変える。

 騎士とはすなわち、『キング』の命令に従い、相手勢力の兵士を、ひいては『キング』を討ち取る者のことだった。


 神は、まるでゲームのようなこの仕組みを、こう呼んだ。

 『チェス』と。


 ♯


「おう!来たかよ屑のリジッド」

「・・・ああ、来たさ」


 遂にこの時間がやってきた。昨日と同じような数式に頭を悩ませて、今こうして剣術の授業を迎えた。

 目的の貴族たちはいつもの場所に集まっていたので、見つけやすかった。

 彼らは、昨日苛めていた下流貴族を背中に隠して、にやにやと笑っている。僕と対戦するという貴族も、昨日の自信無さげな顔と打って変わって、妙に清々しく笑みを作っていた。

 僕は彼らに、剣先を突き付ける。


「ほら、さっさと始めよう。お前らの数々の暴挙、今日を限りにやめてもらうぞ!」

「はいはい。カッコつけちゃってまあ」

「おっと、緊張してるのかあ?ごみ屑さんよ」

「今から泣いて謝ったら、許してやるぜー」


 相も変わらず、雑な挑発で僕を煽ってくる。完全に馬鹿にし切ったその態度に、大量の血液が頭に上った。

 そこで、兄ジークフリードが初めて口を開く。


「謝っても許してやんねえよ・・・」


 低く抑えた声に怯えたのか、子分たちは一斉に振り返ると、兄に愛想笑いを向ける。


「で、ですよねー」

「はい。こいつを痛めつけてやりましょう!」


 そんな言葉で、兄の機嫌を取ろうとする。

 今更だが、彼らはそれでいいのだろうか。兄に隷属しているだけで満足なのだろうか。本来プライドが高いはずの貴族が、こうして他の貴族に遜るなんて、おかしく思える。

 いや、逆かもしれないな。立場の高い人間を敬わなければならないからこそ、身分の低い人間にはとことん高慢な態度をとるのかもしれない。


 やがて、兄は機嫌をよくしたようで、口笛を勢いよく吹いた。その音は大きく、僕の背後の何人かが打ち合いをやめる。そしてどうやら興味を持ったらしく、僕らに近寄ってきた。

 兄は既に勝つつもりなのだろう。そうして負けた僕をさらし者にするつもりだった。


「ほら。観客も増えたことだし、とっとと負けてくれ。屑」

「そうはいくか。僕は、勝つしかないんだ!」


 そう言って、木製の剣を構える。いつの間にか、野次馬が増えていて、教師までもが遠くから見守っていた。

 相手の貴族に向かい合う。彼も幾許か緊張しているようで、何度も剣の柄を握り直していた。額には、汗が浮かんでいた。

 僕の対戦相手が兄ではなく目の前の貴族であるのには、何か理由があるはずだ。ただの挑発や、侮りとは違うだろうと考える。

 しかし構わない。不正も踏まえて、僕が勝利してやる。


 僕は、本格的に剣を構えた。目前の相手だけを睨みつける。

 じりじりと歩を進めて、相手との間を調節していく。

 息を吐き出した。息を鼻から吸い込んだ。

 次の瞬間、僕は相手の懐に飛び込む。


「うおおおああ!」

「くっ」


 僕が放った横なぎの斬撃を、相手の貴族は、剣で受け止めた。

 次いで、相手も攻撃を仕掛けてくる。

 素早く斜めに振り下ろされる鈍器を、僕は横に飛んで避けた。


「ちっ」


 僕は、相手に構え直す時間を与えずに、真上から剣を振り下ろそうとする。相手が剣を振り切っているので、その隙を狙ったのだった。

 しかし、僕は驚いて身を引いてしまう。下がっていた剣が、下から上に振り上げられたのだ。

 相手に叩きつけるはずの剣を、防御へと切り替える。

 ――カコン。

 木の棒と木の棒がぶつかり合い、軽い音を立てる。しかし、手に伝わってくる衝撃は重いものだ。

 僕も彼も、態勢を整えるために、一旦距離を置くのだった。

 既に2人とも、息が乱れている。


「へえ、はあっ、やるじゃねえの屑の割には」

「そっちこそ、ふうっ」


 この状況を、果たして兄はどう思っているだろうか。そう思って、ちらりと兄の方を向いた。不正をしないかどうかの確認でもあった。


 その行為は、僕を救うことになる。なんと丁度その時、相手の貴族が僕の顔目がけ、砂を振りまいたのだ。目つぶしである。

 しかし、幸い兄の方を向いていたために、砂のほとんどは僕の顔側面に当たっただけで、目には入らなかった。恐れず目を見開き、相手を凝視する。


 作戦の失敗に動揺したのか、相手は態勢を崩していた。あの状態では、上手く剣をさばけまい。

 ふとしたこの僥倖を神の助力に感じて、僕は剣を力一杯振り上げた。

 人生においてもっとも力と気持ちを込めた剣を、ここぞとばかりに、振り下ろす。


「あああああ!」

「うわあ」


 決闘においての勝敗の決定は、相手が続行不可能な状態に陥るか、相手が負けを認めて降参するか、急所に剣を突き付けられるかで決まる。だから僕は、相手の頭目がけて、剣を振り下ろした。

 振り下ろしたのだが。


「なっ!?」


 途端に足を取られて、僕は無様に転んでしまう。そんな様子に、誰かが吹き出した。

 笑ってしまうのも無理はないだろう。あり得ないことだからだ。決闘中に転んでしまう剣士などいない。そしてまた、僕も真実を受け入れられない。本当にあり得てはならないことだった。

 呆然としていると、態勢を立て直した貴族が剣先を僕の頭に突き付けた。

 そして言う。


「よっしゃあ!はあはあ、勝ったぜええ!」


 勝利を宣言する言葉だった。

 加えて、僕の敗北を意味する台詞でもあった。


「おおおお!すげえ!よくやったなお前」

「ああ、まあごみ屑だしな。手ごたえなかったわー」


 相手をしていた貴族は、仲間の元へ駆けていくと、賞賛の言葉をもらった。

 そうして、仲間と共に、未だ倒れこんだままの僕を嘲笑する。下卑た笑みで、見下した。


「それに比べて、なんだよ、ごみ屑!お前はよお!」

「滅茶苦茶面白かったなあ。カッコつけてたのに格好悪く転んじゃってよ」

「ドジっ子かよ!ははは」


 そこで僕は、思い出したように、足元に目を向ける。

 すると、地面の土が不自然に盛り上がっているではないか。まるで僕を躓かせるために作ったような山だった。そしてそれは、魔術が行使されたという証拠でもあった。


 次第に隆起していた土は、証拠隠滅を図るように、元に戻っていく。それを見ながら、僕は考える。

こうした不正も予期していたので、兄には注意を向けていたはずなのに、なぜ。魔術の発動には呪文の詠唱が必要なので、耳をそばだてていたのだ。しかし、兄はそんな素振りを一切見せなかった。であれば何か、仕掛けがあるはずだと思考する。

 考えろ。不正の指摘は、充分勝利条件になるはずだ。


 そうして兄を見た僕は絶望する。正確には、兄の後ろに怯えながら立っているある生徒をみて、絶望したのだった。今にも泣きそうな顔を向ける彼は、昨日僕が助けた下流貴族の少年だった。


 そこで僕は、全てを悟った。

 つまり、兄は彼を脅して、いざという時に僕を転ばせるように魔術を行使させたのである。そう言えば、下流貴族の彼は土魔術が得意だと話していたではないか。


 そして彼の裏切りは、周囲にいくら訴えたところで、皆信じまい。助けようとしていた相手に裏切られたなんて馬鹿馬鹿しいし、優等生のジークフリードがそれをそそのかしたなんて、彼らにはあり得ないことであるからだ。


 一体どんな言葉で脅されたのか。それはどうでもよかった。

 全てがもう、どうでもよかった。

 唯、僕は下流貴族の少年に、言いようのない腹立ちを覚える。

 それは、僕を裏切ったことや、魔術で妨害をしたことに対してではない。彼がそうした行動に逃げたことに対して、僕は怒っていた。

 彼は結局、いつまでたっても弱者でしかないということだった。


 そうして僕は、敗者でしかない。

 それが、全くもって腹立たしい。


 僕は、うつ伏せの体をひねって、仰向けになった。

 見えた空はぼんやりとだけ広がっていて、薄い雲が太陽光を少しだけ遮ってくれる。自然界におけるカーテンのようだ。

 うるさい周囲に構わずに瞬きをすると、目にたまった塩水に瞼が濡れる。


 下唇を強く噛みながら、一言だけ絞り出した。


「くそ・・・」


 ♯


 以上で、回想を終える。

 それから先を詳しく話す必要はないだろう。大方お察しの通りだ。


 学び舎を後にして家に帰った僕は、父に呼びつけられる。何事かと怯えたが、やはりもらったものは賛辞などではなく、鉄拳だった。これは予想だが、恐らく兄が僕の敗北を父に告げたのだ。そうして僕は、勘当を言い渡されて、外に放り出されたのだった。


 今考えれば、兄はここまでを計画していたのだ。僕に対する勝利後の要求というのは、僕の勘当だったという訳だ。


 父がここまで赫怒したのには理由がある。それは、僕の相手をしたあの子分が、そこまで身分の高い貴族でなかったからだ。また、剣術にも秀でていないと聞く貴族だったからだ。

 そんな相手に負けた僕は、やはりさぞ恥ずかしい存在だろう。それも勘当を言い渡したくなるほどに。

 兄が彼を対戦相手として指名したのは、それが目的だったという訳である。


 僕がクラデリー家からいなくなれば、成人した兄は多くの資産と利権を独り占めできる。なるほど、追い出したくて当然だった。


 僕は、地面から立ち上がると、目前の扉を睨んだ。木製のそれはとても分厚く、手で強く押しても、びくともしない。掌で激しく叩くと、鈍い音が空気中に浸透して、やがて闇に吸い込まれていく。

 世界を灰色一色に塗りつぶすのは、僕を押しつぶさんばかりの重厚な雲だ。曇天は、遂に限界を感じたのか、その所々から水滴を落下させる。僕の頭部に当たって弾けるそれは、酷く冷たかった。


 いくら扉を叩き続けても状況は変化しない。雨は激しくなる一方だったし、父は僕を許してくれない。

 辺りには僕以外の人影はなく、ふと孤独を感じる。屋敷内の灯りをみて、疎外感を感じる。


 ああ、僕は何をやっているんだろう。


「はは。もう、嫌になっちゃうな」


 勘当され全てを失って、初めて気づいた。

 結局僕は、初めから何も持っていなかったのだ。

 誇れる剣術の才能も、財力も。そして今、血統をも失った。

 何者でもない自分が、やはり嫌になりそうだった。


 ――ダチャ。

 再び膝をついた僕は、地面に拳を強く打ち付けた。まだ降り始めたばかりだというのに、地面は既にぬかるんでいる。そうして手に多くの土がこびりついたが、僕は気にしないで、何度も地面を殴り続ける。


「このっ、糞っ、野郎っ、このっ、このおおっ」


 雨は段々と激しさを増して、今ではもう立派な豪雨に成長していた。肥えた水滴は、草木に体当たりをして、タツタツと涼しい音を立てる。


 ふと、扉が開く音が聞こえた。


「ライアスさんのところへ、行ってください。このままでは本当に風邪をひいてしまいます」


 その声に素早く顔を上げたが、扉はもう閉じられていた。そして、なんとその近くに、丁寧にたたまれた毛布が置いてあるではないか。

 聞こえた声からは、あの使用人が思い浮かんだ。


「・・・ロザリア。・・・ありがとう、ありがとう」


 僕はそう呟いて、自身の肩を握りしめる。最後に彼女の優しさが感じられて、嬉しかった。心なし、体も暖かくなったように感じる。


 毛布を拾おうと近づくと、突風が吹くので、体を縮める。濡れた衣服が体に厳しく突き刺さった。

 毛布に手を伸ばしたが、中々つかめない。

 顔を上げて位置を確認すると、それは風に飛ばされて、道を這うように進んでいた。僕は慌てて逃げる毛布を捕まえる。


 汚れてしまった毛布で体を包み込むと、急な温もりに震えてしまう。

 そうして足を踏み出して、ロザリアの言った通りにライアスの小屋へと向かうのだった。


 ♯


 ライアス。

 森の中に住居を持つ初老の男である。彼はライアスとだけ呼ばれていて、どうやら家名は無い。つまり彼は、貴族ではなく、庶民の生まれだ。それとも、僕のように勘当されてしまったのかもしれない。

 僕は彼のことを、ライおじさんと呼んでいる。


 彼と知り合ったのは1年前のことだ。休日の家に居心地の悪さを感じる僕は、よく裏手の山に遊びに行っていたのだが、ある日そこで彼と出会った。小屋で飲ませてもらった紅茶の味を、僕は今でも覚えている。

 その日を境に、僕は頻繁に彼の家を訪ねるようになる。というのも、日々蓄積していく鬱憤を、愚痴という手段で解消できるからだった。嫌なことがあれば彼に報告して、そうして返ってくる慰めの言葉に、いつも励まされていた。


 それにしても、ロザリアが彼を知っていたのには、驚いた。昔からの知り合いだったのだろうか。


「ふうっ、はあ、着いた」


 雨の降りしきる中を登山するのは想像以上に厳しく、途中で足を滑らせて転んだりもした。しかし、遂に目的の場所についた。


 古びたその小屋は、煙突から煙を漂わせていて、いい匂いも漂ってくる。甘いその香りに、僕のお腹がぐうと鳴った。

 それは丸太を組み合わせたような見た目で、所々に獣の爪痕が見られる。一か所しかない窓ガラスにはひびが入っていて、曇ってもいる。何年も取り替えていないそうだ。


 僕は扉に近づいて、ノックしようとする。

 すると急に扉が開くので、僕は声を上げて驚いた。


「うあっ」

「ん・・・おお、リジッドか。何があった?」


 現れた男は、そう声をかけた。

 彼の身長は僕の父よりも低い。けれど筋肉質な体をしている。若いころは、随分と体格がよかったに違いない。よれよれの茶色い衣服を着て、その上から動物の毛皮で作られた上着を羽織っている。

 そんな彼は、僕の身なりを見て、言葉を続ける。


「・・・いや、説明はあとだ。なんとなく予想はつくしな。とにかく入れ」

「はい、ありがとうござ――」

「いや待て。悪いがそこのバケツを取ってくれ」


 彼が指したのは、雨水のたまった金属製のバケツだった。飲み水の為にためているのだろう。

 僕はそれを持ち上げて、暖かい部屋へと足を踏み入れた。


 僕がバケツを運び入れると、ライアスは持ってきたタオルで、体を拭いてくれる。濡れて顔に張り付く髪を、乱暴にかき混ぜる。寒さに痛かった耳が、温まっていく。髪が乾いて、頭皮も温もりを取り戻す。

 その暖かさに、僕は目頭を熱くしてしまう。そんな目元を隠すように、僕は俯いた。


 ライアスは、タオルを僕の頭にかぶせると、バケツに近づいた。そして、掌を雨水に向ける。


「『神よ、我に力を。我はこの世の穢れを打ち払うものなり。浄化せよ、ピュアーライ』」


 それは、呪文の詠唱だった。バケツにたまっている雨水は、魔法の効果により不純物を取り除かれ、飲み水へと変わる。遠目からでも、澄んでいくのが分かった。

 彼は、そうして出来た綺麗な水を近くのタンクに注ぎ込む。残った空のバケツは、屋根から漏れ落ちてくる水滴を受ける為、床に置いた。

 次いで、僕を椅子に座らせると、椀にスープをよそい始める。机には既にライアスの分があったので、僕の分だろうと思い至った。優しい人だった。


「人参は食べられるか?」

「はい」

「ジャガイモ」

「大丈夫です」

「玉ねぎ」

「問題ありません」


 彼は少し黙って、こちらを見ると、再び口を開いた。


「・・・苦手なものはあるか?」

「ふっ。最初からそう聞いてください。無いですよ」

「・・・そうか」


 彼はスープをよそい終えると、運んできてくれる。冷たい手で受け取ると、食器越しに伝わる熱が痛かった。

 湯気を漂わせるそれは、具材がたくさん入ったシチューである。見たところ牛肉も入っているので、僕は力なく喜んだ。

 口に運ぶと、舌を火傷しそうになる。そこで今度は、息を吹きかけながら、慎重に口に入れた。


 途端、まろやかなミルクの香りが口中に広がる。ほんのりと甘い味付けは、1口で僕の脳を魅了した。素晴らしい料理に舌鼓を打った僕は、唸りながら次々と具を口内に放り込んでいく。人参は舌の上で崩れるほど柔らかく、ジャガイモは優しい土の香りを運び、玉ねぎは溶けて甘く広がる。牛肉は、歯ごたえを残しつつも、周囲の自然に溶け込んでいた。

 父親に家を追い出されたからこそ、人生で最も美味しい食事を楽しめているなんて、何だか皮肉なものである。


 大分落ち着いた頃を見計らって、ライアスは切り出した。


「で?一体どうした」


 その一言に、今の状況を思い出した僕は、表情を暗く沈ませる。木製のスプーンを椀の淵に立てかけると、息を吐き出した。

 そうして少しずつ事の経緯を説明し始める。


 話をしている間、ライアスは何も言わなかった。話し終えた後も、何も言わずに、唯黙って僕を見ていた。


 説明している途中で、僕は遂に涙腺を崩壊させてしまった。今まで泣かないように耐えていた分、その反動は大きく、僕は気づけば声を抑えて泣きじゃくっていた。手元のタオルに目元を押し付けながら、嗚咽した。


「うっ。くそっ、あいつら。うう」


 それも暫くすると治まって、僕は鼻をすする。

 顔を上げてライアスを見ると、彼は僕を強い眼差しで見つめていた。

 やがて僕に尋ねる。


「悔しいか?」


 たったそれだけの言葉だったが、僕の今の気持ちを的確に表していたので、僕はライアスと目線をぶつけてしまう。

 兄に受けた虐めが、辛かった。

 父に勘当を言い渡されて、悲しかった。

 そんな兄と父が、憎らしかった。


 そして何よりも僕は、悔しかったのである。


「はい」

「ほう、悔しいか」

「はい。これ以上になく、悔しいです」

「・・・そうか」


 すると彼は急に立ち上がる。そして、腰に付けていた真剣を僕に投げてよこした。本当に唐突だったので、僕はそれを受け止められず、取り落としてしまう。

 慌てて椅子から臀部を離すと、床から剣を拾いあげた。学び舎で振っていたものと違い、随分と重かったので、僕は驚く。


「悔しいのなら、剣を振れ」

「・・・え」

「悔しいんだろう?」


 確かにそれはそうだが、ここで剣を振って、何が変わるというのか。

 そんな諦めにも似た投げやりな感情を抱いて黙ったままでいると、ライアスは足を開き、腰を落とし、まるで剣を構えるような格好になった。顔つきも、先ほどまでとは違って、凛として見える。

 それはさながら、騎士のような立派な構えであった。


「実はな。俺は昔、騎士の『ナイト』を務めたことがある」

「え!?そうなんですか?」


 僕は驚愕を隠さずに、かすれた声で質問をした。ライアスはというと、静かにかぶりを振った。


「お前には話さなかったが、あの屋敷の使用人にも知り合いがいる。・・・それでさっきそいつから『念話』をもらったんだ。なんでも、お前が訪ねてきたら、面倒を見てくれってな」


 恐らく、ロザリアの事だろう。


「お前の母さんが、心配しているとも言っていたぜ」

「・・・母さん」


 僕が下を向くと、ライアスは、腕を振りかぶって、一気に振り下ろした。すると、とんでもなく強い風が巻き起こり、僕はその衝撃にしりもちをついて驚いてしまう。剣を持っていたなら、相当強い威力の剣戟だっただろう。

 彼は僕を見下ろして、再度語り掛ける。


「リジッド。・・・悔しいのなら、剣を抜け。自分の非力さが悔しいのなら、唯剣を振れ」


 恐らくは、僕を騎士として鍛えると言っているのだ。そうして僕に力を与えようと考えているのだ。


 ロザリアは、そうした意味で面倒を見ろと言ったのか。まあ、少しズレたところのある使用人だったからな。

 仕方がないか。


 頷く。

 そうだ、強くなりたい。

 負けて惨めな思いをしないように、強くなりたかった。


 僕は、力強く返事を返す。


「はい」


 そして僕は、特に何を考えるでもなく、手元の剣を抜き、唯強く振った。


 それは、いままでと何ら変わらない、弱々しい1振りだった。

 しかし、これからの僕を大きく変える。

 そんな1振り。

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