1手 王都「言わない言葉」

 3年が経った。


 そう一口に言ってしまうと何とも味気ないが、実際の時間というのは、長かった。来る日も来る日も唯剣を振り続けた3年であれ、そこには確かな努力があったからだ。

 だから俺は、過ぎた歳月を惜しむようなことを言わない。


「さてと。・・・どうするかなあ」


 成長して16歳になった俺はというと今、山を下りて町に来ている。ライアスの頼みで、甘い菓子の類を買いに来たのだ。


 3年前から知っていた事だが、ライアスは甘いものが大好きだった。

 俺に剣術の稽古をつける時にだって、ケーキを優雅に頬張りながら難癖をつけてくる始末だ。当然、何を言っているのか聞き取れないことも多々あった。

 他にも彼は、朝食の後に菓子を食べ、昼のおやつに菓子を食べ、夕食のデザートに菓子を食べる。

 俺が怪我をしても、風邪をひいても、変わらぬ様子で菓子を食べ続けた。


 そうして極度に甘いものが好きなライアス。

 とはいえ、こうして俺が菓子を買いに出かけること自体は珍しい。いつもは自分で調達するのに、何故今日は俺に頼んだのか。そう髪を掻き荒らす。


 それでも気を取り直して、ケーキを買おうと考えていた。ところが、店の位置を俺は知らず、そこで呟いたわけだった。どうするかと。


「あっ。・・・こんにちは」


 後ろから声をかけられた。振り返って、俺は驚く。

 なんと買い物袋を腕にかけるその女性は、あの使用人、ロザリアだったのだ。俺も言葉を返す。


「うお。・・・やあ、実に3年ぶりだね」

「はい、本当にお久しぶりです。それにしても・・・立派に成長されましたね。最初の内は、誰だか分かりませんでしたよ」

「そういう貴方は変わらないね」

「そのお世辞・・・ライアスさんの影響ですか」


 確かに、ライアスなら言いそうな言葉だが、今の俺の言葉は世辞ではなかった。本当に、彼女は3年前から何も変わっていない。

 栗色の頭髪を頭頂部にまとめていて、使用人の制服を身にまとっている。そんな彼女は口を開く。


「3年間も会えなかったなんて。・・・山籠もりでもしていたのですか?」

「はは、まさか」


 まさかそんな訳がない。

 この地域で商いが行われている場所と言えば、この町だけである。だから必然的に、俺もライアスもよくここに訪れていた。決して山に籠って仙人を目指していたわけではない。

 よって、買い出しに出かけるロザリアと今まで出くわさなかったのは、単なる偶然だと考える。


「折角ですし、話をしましょう」

「そうだね。あれからのことを話してくれ。・・・まあ、母さんの事だけでいいよ」

「ふふ。承知しました」


 ロザリアと言えば俺を屋敷からつまみ出した張本人である。しかし、それが主人の命令とあっては逆らいようがなかったと分かっているので、特に怒りはない。


 そうして俺とロザリアは噴水近くのベンチに腰掛け、他愛ない会話に花を咲かせた。


 ♯


「――という訳で、ここにケーキを買いに来たんだ」

「なるほど」


 俺は、3年間の出来事を大まかに説明した。とはいっても、殆どの時間を剣を振って過ごしていたので、大して報告すべきことはなかった。ロザリアはというと、俺の剣術に対するその入れ込みように感心する。


 また、彼女からは母の話を聞いた。俺の勘当を止められなかったことを悔やんで、母はその後大分やつれてしまったようだが、今は元気そうなので安心した。


「それにしても、僅か3年ばかりで・・・凄いですね」

「何がだ?」

「たった3年でお使いを頼まれるまでになるなんて、凄いですね」

「・・・何がだ?」


 馬鹿にされているようで、少しばかりムッとする。お使いくらい、3年前のあの時にもこなせた。

 ロザリアは小さく首を振って、頭を掻いた。その仕草は、彼女が一女性であることを俺に認識させる。


「私の時には、貴方の2倍は時間をかけました」

「ん?私の時にはって・・・」

「ええ。私は昔、ライアスさんに師事していたのです」

「ええ!?」


 2人が古い友人であることは知っていたが、そんな過去があったとは。俺は驚きの声を上げてしまう。


 話を聞くと、どうやらロザリアは昔、騎士を目指していたようだ。そして出会ったライアスという優秀な騎士に、教えを乞うたのだそうだ。今の清楚な様子からは、とても想像できない活発さである。


 しかしその後紆余曲折があって、こうして使用人をやっているのだとか。

 彼女はそのあたりを詳しく語りたがらない。だから俺は言及しないで、唯静かに頷く。誰しも、挫折に至るまでの経緯などしゃべりたくはないだろう。


 彼女は急に立ち上がると、再び口を開く。


「もう時間のようです。私は行かなくては」

「え。・・・残念だな。・・・来週もこの場所で会えないか?」

「・・・いいえ、もう当分会えないでしょう」


 ロザリアのその言葉がやけに確信を含んでいたので、俺は首を傾げて彼女を見上げる。彼女の髪は、太陽光に照らされて薄まって見えた。


 当分会えないとは一体どういうことか。貴方はこの地を離れるつもりなのか。

 そう質問しても、ロザリアは首を振るだけで、真実を明かさない。直ぐに分かります、とだけ言った。

 次いで彼女は、噴水の向こうに広がる大通りを指す。


「この道をまっすぐ進んで、3つ目の角を右に曲がれば、目的の店に辿り着けるでしょう。王都から美味しいケーキを取り寄せたと言って、店主がご機嫌でしたよ」

「・・・ああ、ありがとう」


 俺は彼女の言葉を反芻して、店までの道のりを暗記する。

 ロザリアは、俺がきちんと理解したことを確認すると、頭を下げて別れを告げた。そのまま踵を返して、歩き出す。


 その後ろ姿を見て、ふと母の姿が頭をよぎったので、俺は彼女の背中に言葉をかけてしまう。


「待って。くれないか」

「・・・はい」


 数歩進んだあたりで、彼女はこちらに向き直る。

 しかし、勿論彼女は俺の母ではなく、だからかける言葉は出てこなかった。

 少しだけまごつくと、こう頼むことにした。


「・・・母さんに。伝言を頼みたい」

「はい」

「・・・えと、その・・・」


 そうして何事かを言いかけて、しかし空気を含むようにして再び口をつぐんでしまう。

 先ほどロザリアを母だと錯覚した時も、特に考えのないまま声をかけた。だから、実際に言うべき場になっても、こうして直ぐには言葉が出ない。


 言いたいことならば、沢山ある。ロザリアに話した以上のことを母には伝えたかったし、出来ることなら互いのことを語り合いたかった。


 しかしそれは叶わない。


 では、何を言うべきか。俺をいつも守ってくれた母に対して、俺は何を伝えるべきか。


「・・・いや、いい」

「よろしい、のですか?」

「ああ。伝言は必要ない」


 言いたいことは沢山あった。俺の為にケーキを焼いてくれた母に、俺が泣いているときには慈愛に満ちた抱擁をくれた母に、言いたいことが沢山あった。


 しかし、それらを要約すると、全てがある一言に変わってしまう。感謝を述べるありきたりでつまらない言葉に、還元されてしまう。

 それが嫌だった。


「本当に、母さんには感謝している。それこそ、言葉にできないくらいに、というやつだ。・・・だから、言いたいことは、いつか母さんに会って直接言うよ。一言にしないで、言いたいことは全部言う」

「・・・そうですか。・・・そうですね」


 ロザリアは俺の言葉を聞いて、目を細める。

 そうして暖かい笑みを浮かべながら、彼女はスカートの裾を手でつまんで僅かに持ち上げる。次いで、ゆっくりと膝を曲げて、頭を下げた。丁寧なお辞儀だった。


 やがて彼女は、遂に屋敷へと引き返す。

俺にはまだ、彼女の言っていたお使いがどうのという話に疑問があった。しかしその質問は、折角の俺たちの別れ際を汚すように思えたので、何も言わずに見送ることにした。


 彼女の歩く速度は速く、だから直ぐに見えなくなる。

 そうしてようやく俺は目的の店に足を向けた。


 ♯


 王都から取り寄せたというケーキは、美味だった。

 今までのものと比較しよう。


 先ずは、土台となる焼き上げられた生地の部分についてだ。今まではというと、まるでパンのような歯ごたえがあったのだが、今回のものはそれがスポンジ状になっていて、心地よい食感が僕らを楽しませる。噛み締めるたびに、仄かなバターの香り、卵の甘みが広がった。


 そしてまた、今までの付け合わせがシナモンと砂糖、果物が少々だったのに対し、ふんだんにかけられた白くてふわふわした甘いソースは、口内で柔らかく溶けて、生地に優しく寄り添うものだった。初めて見るそれを気味悪く思っていたが、口に入れた途端、そんな感情も消え失せる。


 天国も随分近くなったものだと思う。


 勿論値が張った。通常のケーキの約3倍もの高さだったので、俺は思わず目を剥いた。しかし、嬉しそうに笑う店主の顔を見ているうちに、気づけば買ってしまっていたのだ。

 まあ、当の出資者が喜んでいるのならいいか。などと、ライアスを見て、そう思う。


「美味しいな」

「・・・ああ。美味い」


 あっという間に自分の分を食べ終えたライアスが、ものほしそうにこちらを見ているので、俺は渋々残りを差し出す。皿の底が木製の机を擦って、音を立てた。


 俺は、一口ごとに息を吐き出しながら紅茶を飲む。

遂にケーキを食べ終えたライアスは、満足したのか、不快なげっぷを吐き出して腹をさすった。次いで、言葉を発する。


「美味かった。礼を言おう」

「それは良かった」


 本心を口にする。わざわざ町に下りた甲斐があったというものだ。

 するとそこでライアスは急に立ち上がり、自室に向かう。


 俺が鼻から抜けるハーブの香りを堪能していると、幾許もなくしてライアスが部屋から戻ってくる。手には、なめし革で作られた巾着があった。

 やがて机に近づいたライアスは、それを投げてよこすではないか。重く鋭いその衝突音は、俺に金属製のものを連想させた。


「これは・・・」

「開けてみろ」


 もしかして少し遅い誕生日プレゼントだろうかと考える。この3年間で一度も祝ってもらったこともないのに、そんな期待を胸にして、中身をのぞいた。

 そして絶句する。

 中身はというと、通貨だった。それも、大量の金貨。正に金一封である。

 誕生日プレゼントではなくとも、その大金には、やはり驚かざるを得ない。


「なんでこれを俺に?そもそも、こんな大金、なんであんたが持ってるんだ?」

「おいおい忘れたか。俺は、昔騎士だったんだぜ。国からそれなりの金は受け取っている」

「そうかい。そう言う割には、誕生日プレゼントも貰えたことなかったけどな」

「・・・だからそれをやろうってんだ」


 ライアスはそう言って、口を尖らせた。視線を落として、長い爪をいじり始める。

 俺は、そんな彼を暫く見つめた後、溜息を吐いて巾着をひっくり返す。チギチギと金貨が机に積み重なっていく。確認すると、銀貨も混じっていた。

 俺はそれらを並べて、合計金額を計算する。


 金貨、銀貨、銅貨、半銅貨。価値の高い順に並べると、そうなる。

 半銅貨10枚で、銅貨1枚分にあたる。

 銅貨30枚で、銀貨1枚と同等の価値を持つ。

 また銀貨25枚で、金貨1枚と等価だった。


 分かりやすいように仕分けすると、金貨が20枚、銀貨が5枚が入っていたことになる。

 ちなみに、銅貨約5枚で一食分が買える。

 これらが大金であることが理解できるだろう。


 そこでライアスが再び言葉を発する。


「ま、勿論唯のプレゼントじゃない」

「だろうね。今度はどんな菓子を俺に買わせるつもりだ?」

「いいや。そうじゃない」


 俺の冗談に真面目に答えたライアスは、続ける。

 それは、俺の度肝を抜く台詞だった。


「お前それ持って、ポーン国立騎士学園に入学してこい」

「は」


 俺は思わず息を漏らして、その場で体を固める。

 我ながら、間抜けな動揺だと思う。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺があんたに師事してから3年しかたってないんだぜ?だいたい、『剣技』だって、3つしか習得してないし・・・」

「それだけ出来れば十分だ。入学試験も余裕だろうよ」


 俺は彼の楽観的な性分を知っているので、訝しんで目を細める。

 別に学園に入学しなくても、今までのようにライアスの元で剣士としての腕を磨けていればいいのだが。そう思ったので、疑問を口にする。


「しかし、なんでまた急に?入学する必要なんてあるか?」

「あるだろ。・・・お前、これから先どうするつもりだよ?」

「これからって・・・」


 このままライアスの元で剣を振り続ける。

 そう考えて、俺は鼻柱に人差し指を当てて、口元を覆い隠してしまう。その先を全く考えていない自分に気づいたからだ。

 恋人同士でもあるまいし、ライアスと一生を共にするつもりはない。であれば、経済的な独立の為にも、仕事に就かなければならない。

 でもどんな仕事に。どうやって。


 俺がそうして唸っていると、ライアスが口を開く。


「ま、そういうことだ。折角剣士としての腕を上げたんだ。入学して騎士にでもなれ。そう、年齢も丁度いいしな」


 確か俺の元兄、ジークフリードがその学園に入学したのは、この年齢の時だった。入学に年齢の上限はないが、最低年齢は16歳だと決められているのだ。だとすれば、俺は今年から入学が出来るわけで、やはり丁度いいのかもしれない。


 折角の機会でもあるので、甘ようと考える。


「はあ。まあ、そう言うなら」


 そんなくたびれた言葉で、俺は入学を決意した。


 次いで目前の男は、俺の気の抜けた返事に自信を無くしたのか、眉を頼りなく歪めて、後頭部をガシガシと掻いた。癖毛がわっさわっさと揺れた。

 そして言う。


「・・・お前には、剣術や『剣技』以外に、騎士としての心構えを教えたつもりだ」


 確かに、教えられた覚えがある。


「しっかし、この十数年全く世情に触れてなかったからなあー。ぶっちゃけ、今の騎士がどうなってんのかさっぱりだ」


 おいおい。


「だから行ってこい。剣術だけじゃなくて、色々学んで来いってことだな」

「・・・はあん」


 ああだこうだと駄々をこねるのが億劫だったので、再度腑抜けた返事で納得を報告した。

 まあ、成るように成るだろう。成らないようには成らないだろうな。

 なんて他力本願な心構えだった。


 そうしたやり取りの後、俺とライアスは紅茶をすすって、温かい息を吐き出す。さっぱりとした風味を追いかける香りが、余韻となって口内に響き渡った。

 俺の向かい側の壁に掛かる振り子時計が、タクタクと一定のリズムを刻み続ける。俺は目の焦点わざとずらして、その音だけを朦朧と聞いていた。

 平和な午後だった。


 ぽつりと、ライアスが漏らす。


「後は、そう。その肩直してもらえ。ここじゃどうにもならんが、王都には優秀な回復専門の魔法師がいるみたいだからな」

「・・・ああ、そうか。それもあって、こんな大金」


 俺はそう言って、右肩に左手を添える。そこには、痛々しい傷跡があった。

 何を隠そう、この傷はあの憎きジークフリードが付けた傷である。9歳の弟を丘から突き落とすなんて、やはり奴は常軌を逸している。そう思えば、あの日俺が勘当されて奴と離れられたのは、幸いだったかもしれない。


 転げ落ちた先で、肩の異常な形を目にしたときは、死を覚悟したものだ。その後、這いずりながら必死に移動して、通行人に助けを求めたことは、懐かしくも嫌な思い出だった。

 また、ちゃんとした治療を受けられなかったのは、父が出費を渋ったからである。なんでも、将来のない人間には金をかける価値も無いのだとか。


 そうして、今の今までこのままだったのだが、どうやら遂にこの傷ともおさらばである。たまに疼いて困っていたので、俺は密かに喜ぶ。


「俺もその傷をつい1週間前に知ったからなあ。もっと早く治療しておくべきだったろうが」

「いや、まあ。お陰で『剣技』も習得できたわけだし、結果オーライだよ。俺もまさか、これが剣術の不得手に影響してるなんて、考えなかったしな」


 剣とは振りかぶって振り下ろすものであるのだから、肩の傷が影響するなんてことは、考えれば直ぐに分かることだった。また、ライアスにしても、3年もの間俺の傷に気づかないなんて可笑しな話だ。

 結局、2人して間抜けということだった。

 同時にやれやれと溜息を吐いた。


「という訳で、ほれ、さあ」

「ん?なんだよ?」


 残りの紅茶を飲みほしたライアスは、なぜか俺を急かすような仕草をした。

 俺が戸惑っていると、彼は立ち上がり、カップを水洗いで綺麗にする。続いて、白い布巾でそれを磨き始めた。

 目を細めながら陶磁器の光沢具合を確認して、彼は話を続ける。


「試験日は明日だ。今日中にここを出ないと間に合わないぜ?」

「・・・はあ?ってええ!?間に合う訳ないだろ!」

「いや。実は、ある行商人と話を付けてある」


 俺の動揺を馬鹿にするように、ライアスはふんすと鼻を鳴らし、すかした笑みを浮かべる。

 俺はというと、そんな彼を睨みながら、浮かせた腰を再び椅子に落ち着かせた。負けじと偉そうな姿勢を取って、続きを促す。

 そうして聞いたのは、行商人との待ち合わせ場所だった。


「分かるか?あの大きな噴水があるとこ」


 分かる。この近くで大きな噴水と言えば、あの場所しかない。先ほどロザリアと会話を楽しんだあの場所だった。


 そしてまた、ライアスの告げる待ち合わせ時間までは、あと30分程だった。どうやら彼の言う通り、そろそろここを出るべきだろう。

 そう考え至った俺は、慌てて身支度を始める。騒がしい音を立ててと家中を走り回った。


 さて。そうしてまとめた荷物はというと、慌ただしく騒ぎ立てた割に、とても少ない。日用品ならば王都で買いそろえればいいし、元々俺の私物は少ないからだ。

 結局、もらった大金と、護身用の短剣だけを持つことにした。


「・・・よし」


 呟いた俺は、玄関へと向かう。古く黒ずんだ床は俺の移動に悲鳴をあげた。


 幾度となく開けた玄関前の扉が、今日はいつもと違って見える。振り返って、部屋全体を眺めれば、今までは気にならなかった場所に目が行く。


 形の歪んだ大きな棚は、白い埃に覆われていて汚い。また、壁のにはしみが広がっていて、巨大な蜘蛛の巣がかかっていた。

 見回せば見回すほどその不潔さが際立つようだったので、俺は一刻も早い出発を考える。


 しかし最後に俺は、机に立てかけられた剣を見つけて、暫しその場を動かないでいる。

 「俺」がまだ「僕」だった頃、ライアスに握らされた思い出深い長剣だ。以来それを毎日振り続け、何度も掌にまめを作った。手入れを怠らなかったので、刀身は今でも3年前の輝きを失っていない。

 次いでライアスを見ると、彼は柔らかいソファーに寝転がり、砂糖の塊を奥歯で噛みつぶしている。そうして心地のいい音を立てている。


 俺は、ライアスに言うべきだ。

 今日あの時あの場所で言わなかった感謝の言葉を、彼には言うべきだ。

 俺に剣士としての力を与えてくれた彼に、そうして俺を助けてくれた彼に。


 視線に気づいたライアスが、先に口を開く。


「なんだよ?早く行けよ。間に合わないぜ?」

「・・・」

「おいおい。それとも、なんだ?ここはひとつ、格好のいい台詞で免許皆伝を言い渡した方がいいってか?言っておくが、俺は当たり前の事しか言えないぜ?」


 そうだ。ライアスは、当たり前の事しか言わない。


 彼は、咳払いをして、手を組み、それを頭の後ろに敷いた。格好のいい台詞で弟子を見送る男の姿勢ではない。


「リジッド。お前が持っている力ってのは、色んなものになる。金にもなるし?女性を寄せ付ける魅力の一つにもなるだろう」


 そこでライアスは、鼻に指を突っ込んでほじり始める。


「ま勿論、お前の行動に俺は一切口を出さねえよ。お前がその力で、道行く人を何人殺そうが?どれだけの大金を強奪しようが?俺は何も言わない」


 彼は目的のものをほじりあてたようで、鼻を醜く歪めて、何とか取り出そうとする。


 けれど。そう彼は言う。


「けど、上手くやれ。何をやるんでも、上手くやれ」


 自分の言った台詞を誇りに思ったのか、それとも取り出した糞の塊を自慢に思ったのか、彼はそこで鼻を膨らませる。次いで、指先にくっつく塊を俺に向かって投げつけてくる。それは、ここまではたどり着かずに、途中で失速し、床に墜落した。

 俺は不快に思って首を縮めた。


「分かるよな?」

「・・・ん、ああ。なんとなく」


 彼の指の動きに気を取られて、ほとんど話を聞いていなかったというのは秘密だ。なんとなく重要そうでいて、実はそうでもないことを話していたのは分った。


 彼は、当たり前の事しか言わないのだ。


「そら、さっさと出ていけ。お前はもう免許皆伝、ででんででん」


 遂にボケ始めたか57歳。


「次は当てるぞ?」


 そう言ったライアスが指を鼻に差し入れるので、俺は逃げるように背を向ける。


 次いでドアノブに手を掛けると、それを強く下に下げた。ガチャリという感触に続いて、固く抵抗のある扉が苦しそうに呻いた。

 そうして見えた小屋の外は、どうしようもなく当たり前でいて、けれどいつもとは違う光景だった。


「ありがとう。世話になったよライアス。王都からの土産を楽しみにしておけ」


 ライアスは楽しそうに笑って、砂糖の塊を嚙み砕く。

 心地いい音を立てた。

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