盤上のナイトは必殺を歌おう

@ballet

灰色に咲くプロローグ

 様々な花が咲き乱れる庭園がある。手入れが行き届いているので、雑草とよべる植物は生えていない。見ていて心穏やかになるものばかりだ。美しいだろう。

 その中央を横断する石造りの道。その上を歩んで庭園を出れば、大きな屋敷が見えてくるはずだ。

 目前に大きくそびえるその建造物は、所々の装飾が凝っていて、住む人間の位の高さを物語っている。

 玄関に足を踏み入れて、そのまま階段を上ると、踊り場が広がっている。

 その場に立つ僕の父、ダニエル・クラデリーは、拳を振り上げた。


「恥さらしが!」

「うっ」


 頬が熱い。焼けるように熱い。


 誠に受け入れがたい事実ではあるが、なよなよしい声を上げて無様に倒れこむこの人物こそが、僕だった。

 父の殴打に、三千世界が眼下にちらつく。赤い絨毯に爪を食い込ませた。


 頭を強打された僕は、ふと自分が何者であるのか分からなくなる。

 リジッド・クラデリー。13歳。クラデリー家の次男坊。

 それらの情報を思い起こして、ようやく僕は自分を取り戻す。しかしいっそのこと忘れてしまいたかった。


「旦那様!おやめください!」


 倒れ伏す僕をかばったこの女性は、僕の母親である。気品ある佇まいを常に崩さない彼女は、家庭に居場所のない僕にとって、唯一の理解者だった。

 そんな彼女は、父親に平手打ちを受けてしまう。

 僕の目の前で。


「貴様!女の分際で、この私に盾つくか!」

「ああっ!」

「母さん。母さん!・・・よくも。よくもよくも!」


 弁護の余地もない酷い行為ではなかろうか。

 僕は当然憤る。


「よくも!母さんを!」

「よくも?よくも、だと?お前のような才能もない人間が、そんな台詞を吐けると思うなよ!」


 必死の形相で拳を振り回すも、父に軽くあしらわれてしまう。しまいには、太くたくましい足が、僕の鳩尾に食い込んだ。まるで棍棒で殴られたような衝撃だった。

 これがかつて『ルーク』を務めた男の蹴りかとしみじみ思い知らされた。続いて、自身の至らなさも実感した。

 吹き飛ばされた僕は、壁に叩きつけられる。吐き気がこみ上げ、息も苦しい。


「使用人!」

「はい、ここにおります」

「こいつを追い出せ!そして二度とこの建物には入れるな!」


 父の言葉に、時間が止まったように感じる。実際に固まったのは僕だったが。

 二度と。二度と、と言ったかこの男は。

 それは、つまり。


「リジッド。今日この日をもって、お前から家名を取り消す!」

「そんな!」

「・・・よろしいのですか?」


 使用人が当主に尋ねる。父は即答した。


「構わん!早くその汚物を捨てに行け!」

「嫌だ!嫌だ!待ってよ!・・・ねえ止めて!放してよ!放して、ロザリア!」

「ああ!リジッド!」


 僕の必死の抵抗空しく、使用人のロザリアは、びくともしないで僕を担ぎ上げ、運んでいく。そんな僕を見て叫ぶ母は、他の使用人に取り押さえられていた。

 ロザリアが屋外に出た辺りから、僕は喚きだした。途中からは、自分でも何を言っているのか分からなかった。唯叫びたかっただけかもしれない。


 叫び疲れて息を切らした僕は、優しく地面に下ろされる。力なく土の香りを嗅ぐ僕に、ロザリアは語り掛けた。


「私も・・・心苦しいです。リジッド様、どうか風邪をひかないようご自愛くださいませ」


 今のこの状況で、風邪の心配をするのか。ふざけるな。そう悪態をつこうにも、声が出なかった。

 思い返せば、昔からロザリアには、そうしたズレたところがあった。そんな他愛ない記憶さえも今のこの状況に汚されてしまうようで、胸が締め付けられる。


 僕が顔を上げると、もう既に彼女は見えず、目前には、もの寂しい大きな扉が広がっているだけだ。背の高いそれは、まるで僕を拒絶するように見えた。

 急な展開に今更衝撃を覚えて、僕はその場で嘔吐してしまう。先ほど受けた父の蹴りも原因だろう。

 ふと吹いた夜風に、身を震わせた。そうして体を丸めて、僕は頭を抱える。


 僕がここで何を思ったところで、現実は何の慈悲もなく、冷酷な事実のみを僕に突き付けるだけだ。

 かくして僕は、13歳という若さで勘当を言い渡されてしまったのだった。

 あんな家、こっちから願い下げだ。などと言うのは簡単だが、子供の身一つで外に放り出されるなんて、要するに死刑宣告を受けたようなものである。開き直るも何も、僕の人生は折り目も糞もなく、唯握りつぶされてしまったのだった。


 ここで僕は、これまでの経緯について、語るべきだろう。僕は決して悪くないのだと、そう自分を慰めるためにも。

 父が言うには、僕に才能がない事こそが悪いのだそうだ。それが全ての原因なのだと。ともすれば、リジッド・クラデリーの生誕まで遡る必要がありそうだが、面倒この上ない。

 そこで、昨日の出来事から話し始めるのでどうだろう。僕の理不尽なこれまでを説明するのには、それだけで事足りる。


 涙をふくハンカチの用意は済ませただろうか。鼻をかむちり紙はどうだろう。

 今の僕には、同情が必要だった。


 ♯


 僕は、目前の羊皮紙を睨みながら唸っていた。というのも、教師の出した問いが、僕を虐めるからだった。

 こんな問題すら解答できないだなんて、お前は本当に出来損ないだ。そう言われているようで、だから唸った。


 ここは、多くの子供に一般教養を教え込む場所。いわゆる学び舎である。1学年から7学年まである中で、僕は3学年に所属していた。

 また、多くの子供に知識を与える場所だと紹介したが、入学にかかる費用は莫大である。よって、全ての生徒が貴族と言ってよかった。時折商人の息子だか娘だかを目にするが、貴族達の高慢な態度に耐えきれなくなってか、直ぐに退学を選ぶ。

 貴族という毒に侵されて、神聖な学び舎さえもが腐敗しているという訳だった。


 僕は溜息を吐いて、手元の羊皮紙を丸める。そのまま紐で縛り上げると、荷物袋にしまい込んだ。

 何故数字と数字の間にバツ印が位置しているのか、さっぱり分からん。

 そう呟いた。


 続いて行われる授業は、剣術に関するものだった。

 庭に集められた生徒たちは、先ず2人組になる。次いで、重い木製の剣を必死に操りながら、なんとか相手を倒そうと躍起になる。時々教師に教えを受けながら、そうして自らを鍛錬する。

 いつもの光景だった。


 ところで貴族の優劣というものは、単に家の財力と血統だけで決まるものだ。剣術の実力などお構いなしに、そうして生まれながらにして、なんとなく偉い。それが貴族だった。


 しかしながら、その呆気ない事実を受け容れ難い貴族が多い様で、いつしか優秀な「騎士」としての功績こそが、彼らにとっての威厳を保つ手段になっていた。

 要するに彼らは、自身の地位に「強さ」という理由を求めたのだ。自分の偉さに確固たる自信が欲しいのだった。


 これらをまとめると、強さを理由に貴族が成り立つというわけだが、それは同時に、貴族であるためには強さが要求されるという事でもあった。それが上流階級の貴族ともなれば、権威ある家名を背負う身でもあるので、尚更である。


 かくして剣術の授業は、僕を含める貴族達が最も重要視するものだった。


 暖かい風が優しく吹き抜ける。周りの草木がそれに揺れて、さわさわと穏やかに騒いだ。木漏れ日がちかちかと眩い。


 ぶつかり合う木製の剣は、あちこちで軽い音を立てる。そのうちの1つが鳴り止むのを多くの生徒が気にしない。

 僕が対戦相手に敗北したのだった。首元に剣先を突き付けられ、僕は渋々降参を認めた。


「・・・参った」


 実に鮮やかな敗北だった。僕のあらゆる攻撃が、いなされ、かわされた。対する相手の攻撃はというと、ほとんどをこの身で受けることになった。

 相手から受けた数々の打撃に痣ができて、痛い。荒くなった呼吸が胸を圧迫するので、四つ這いになって息をする。


 だって仕方がないだろう。才能がないのだから。そう自分に言い聞かせる。

 どれだけ勝ちたいと、強くありたいと願っても、僕の限界がそれを許してくれない。

 生まれながらに秀でた人間が居るのなら、その逆もまた然り。それが僕だというわけだった。


「くそうう」


 しかしそう分かっていても、やはり悔しかった。

 どうにも認められない。何故僕が非才の身に生まれなくてはならなかったのか。何故僕なのか。

 地面を爪で引っ掻く。爪の間に土が入り込んだ。


 息が整ったので、上体を起こして、次の対戦相手を探す。

 そこで声が聞こえる。


「おいおい、なんだこいつ泣いてやがるぜ!」

「うわあ、だっせえ!」

「ぎゃははは!次は俺の番だかんな!」


 目を向けると、貴族達が1人の生徒を取り囲むようにして嘲笑しているではないか。輪の中心にうずくまって泣き続ける生徒は、下流の貴族だった。

 周りの男たちは、恐らく圧倒的な力量差での対戦を強要することで、うずくまる下流貴族に一方的な攻撃を行い、ストレスを発散させているのだ。つまりは、弱い者いじめ、身分の低い者いじめだった。

 酷いものだと顔を顰める。


 またそれを注意するべき教師は、しかし貴族の権力が怖くて何もしないでいた。触らぬ神に祟りなしとでもいうように、遠くから眺めることしかしていない。


 全く、何処までも腐っていやがる。

 見ていられずに、僕は声を出した。


「おい、お前ら!やめろよ!」

「・・・なんだよ。お前」

「おっ、出来損ないの次男坊かよ」

「なんだ?お前も俺たちに相手してほしいのかよ」


 生徒をコケにしていた貴族たちは、僕を見ると口々にそう言った。

 するとそこで、彼らの背後からある男が顔を出した。


 男の顔を見て、僕は眉をひそめる。

 仮にも僕は上流貴族の血をひく人間である。だというのにこうして見下されるのには、奥から姿を現したこの人物が関係していた。

 その男は、僕よりも3つ歳が上で、派手な衣服に身を包む、如何にも高慢な貴族である。

 その名もジークフリード・クラデリー。

 僕の兄だった。


「あ、ジークフリード様!」

「今日も男前ですね!」


 子分達の言葉を、我が兄は右手で制した。

 その偉ぶった態度に腹が立つ。また、実際に顔だけは男前なので、それを褒める子分の言葉にますます腹が立つ。

 兄は口を開いた。


「ははは。使えない屑じゃないか」


 そう吐き捨てる。

 お聞きいただけただろうか。実の弟に向かってこの挨拶。万死に値する。

 また、彼のこの態度こそが、他の貴族が僕を馬鹿にする理由だった。親分たるジークフリード様が馬鹿にするのなら、上流貴族であっても見下していい。などという道理がまかり通っているわけだった。


 とは言え、馬鹿にできるほどの実力差があるのも事実なのである。

 曰く、


「さっさと消え失せろ。俺とお前とじゃ、神とウジ虫の差がある」


 らしい。いくら何でもウジ虫はないだろうと憤る。せめてもう少し愛らしい生き物を思いつかないものか。

 卑屈な考えを振り払う様に、拳を握った。そして、言い返す。


「いいさ、ウジ虫だって。けれど人を傷つけるような神なんて、誰も信仰しないだろうよ!消滅しろ!この屑神が!」

「なんだとこの!ジークフリート様は凄いんだぞ!」

「ああそうさ。なんて言ったって、あのポーン国立騎士学園に入学できたのだからな!お前とは格が違うんだよ!」


 子分達が、自分の功績でもない事をえらく自慢げに言う。


 ポーン国立騎士学園。そこは、才能ある若者だけを集めて、教育し、毎年多くの騎士を排出する学園だ。知らない人間などいないほどの、名門の学園だった。

 そこへ入学したというのだから、確かに僕の兄は凄い。性格さえ狂っていなければ、あるいは尊敬していたかもしれない。


 ちなみに、我がクラデリー家は、代々の当主が騎士を務めるという誇り高き騎士の血族である。そして勿論僕の父も、若かりし頃は騎士であった。その中でも位の高い騎士『ルーク』を担っていたそうである。

 そうしてだから、そんな父が長男の入学を喜ばないはずもなく、その結果、僕はますます家庭での肩身が狭くなった。

 当然、本心から兄を祝うことなど出来ない。

 なんでもいいから、入学したのなら早く何処へなりとも行ってしまえ。僕はというと、そんな心境だった。


「兎に角、そこの生徒を解放しろよ!どれだけ偉くたって、そんなことしちゃ駄目だろ!父上に言いつけるぞ!」

「・・・ふん。お前の言葉に父上が耳を傾けるわけがないだろう?」


 その通りだった。父は才能のない僕のことなど眼中に置いていない。

 そうして今までも、兄の悪行を認めようとしなかった。


 うずくまっていた少年は、やがて涙を拭うと起き上がろうとする。

 しかし、なんと我が兄ジークフリートは、木製の剣で彼の背中を強く打ち付けた。殺意の込められたその強打に少年はうめき声をあげて、再び倒れこむ。続いて兄は、その頭を踏みつけるではないか。

 僕は我慢できない。拳を振り上げながら兄に近寄る。


「この野郎!口で言って分からないならっ――」

「で?どうするんだよ、屑の分際で」

「ぐううっ」


 兄の持つ木製の剣が、僕の鼻先に触れたので、思わず怯んでしまう。こんな性格をしていても、彼は国立の騎士学園に入学するほどの実力を持っているのだ。

 冷静に考えれば、勝てるはずもない。

 しかし、目前の生徒を見捨てる気にもなれない。


 僕の頬を、汗が伝い落ちた。妙にはっきりと意識できるそれは、鬱陶しくてかなわない。半歩下がって、それを拭い取った。


 ぱん。

 急に兄が思いついたように手を叩いたので、僕は驚く。次いで兄は、いつになくいい笑顔で話し始める。


「よし!じゃあこうしよう!明日のこの時間、こいつと決闘してもらう」


 そうして彼が指名したのは、子分の内の一人だった。その貴族はというと、突然の命令に驚いたのか、しきりに辺りを見回した。そして躊躇いがちに口を開く。


「・・・なんで俺なの?」

「俺がそうしろって言ってるんだ!素直に従え!大丈夫だ。あいつごとき、お前でも楽に倒せる。・・・どうする、リジッド。決闘を受けるか?そしたら、この下流貴族と遊ぶのは勘弁してやるぜ!まあ、腰抜けのお前にはそんな度胸無いか!?あっははは」


 分かりやすい挑発である。構わずに、僕は落ち着いて考えていく。


 最後に、苛めを受けている生徒を見やる。彼は、潤んだ瞳で僕に何事かを訴えていた。

 この出来損ないの僕に、救いを求めているのだ。

 ならば、是非もない提案だと頷く。


「いいだろう。そうしよう」

「そうそう。そうこなくっちゃなあ?」

「ただし!・・・もし僕が勝ったら、彼だけじゃなくて、他の生徒にも一切同じことをしないと誓え!人を寄ってたかって殴り倒すなんて卑劣だ!」

「あ?俺に命令するのか!?・・・まあ、いい。それでいいだろう」


 兄の承諾に、しかし僕は首を横に振る。


「駄目だ!我がクラデリー家の当主である父に誓え!」

「なんだと?」


 やはり兄の言葉は信用ならない。兄と交わす口約束など、初めから無いに等しい契約だ。効力など皆無である。散々約束を守ると豪語して、しかし次の日には当たり前のようにしらを切るに違いない。


 そこで、父に誓わせる。貴族内では、自分の家の当主に誓うということが最上の約束の証になるからだ。これで、嘘は付けまいと考えたのだった。

 兄は、渋々顎を引いた。


「・・・ああ。我が父ダニエル・クラデリーに誓おう。その代わり、もしお前が負けたら・・・」


 兄はそう言って、意地の悪い笑みを浮かべた。

 そう。どれだけ威勢を良くしても、僕の敗色が濃厚であることを忘れてはならない。先ずはともあれ、相手の貴族に勝たなければならないのだった。

 兄の要求に、気を引き締める。しかし彼は言葉を続けなかった。


「いや、いい。どうせすぐに分かるんだからなー」

「・・・ふん!」


 僕が鼻を鳴らすと、彼らはその場を去っていった。その後ろ姿は、やはり偉そうでいて、気に食わないものだった。


 僕は倒れこむ少年を立たせてあげる。すると、彼は声を発した。


「・・・ごめん。うっ、ごめんね。僕のせいでっ、こんなことになっちゃって・・・」

「いいさ。僕の判断だ」


 思い返せば、最近の上流貴族はというと、身分の低い者を一層馬鹿にするようになっていた。

 更にジークフリードはというと、それだけでは飽き足らず、よってたかって暴力を振るい、生徒を退学にまで追いやることもしばしば。

 とある女子生徒など、気に入らないという理由だけで悪辣な虐めを受け、二度と家を出ない。

 それをかばった男子生徒は翌日、全身に酷い打撲を受け、山の麓で気絶して転がっていたそうだ。

 最早、悪戯などで事は済まない。ジークフリードは、本当に狂っている。頭がおかしい。

 しかし、当の犯人はというと、質の悪いことに国立騎士学校に入学した上流貴族である。そうして優等生という認識をされているため、彼が怪しまれることはなく、悲劇は繰り返されるばかりだった。いや、知っていてなお、大人はそれを認めようとしなかった。


 この腐った階級社会で大人が何もしてくれないのなら、僕がどうにかするしかない。どうにかするしかないのである。


 僕に担がれて歩く下流貴族の少年は、苦しげに、そして不安げに質問をする。それは、僕が考えた兄の狂った性格どうこうではなく、問題の核心を突くものだった。


「勝てる?」

「・・・勝つさ」


 僕は強く、そう言葉を返した。

 そうだ。勝つしかないのである。


 ♯


 夕食を終えた僕は、自室にこもっていた。

 ふかふかと柔らかなベッドに仰向けに寝転がり、白く清潔な天井を眺めている。隣の窓に目を向ければ、山の谷間に沈み込む眩しい太陽が見えた。空は茜色に染まっていて、美しい。僕の心中には、そぐわない美しさであった。


 明日の決闘に、果たして僕は勝てるのか。

 そうして、下流貴族への苛めをやめさせることはできるのか。

 それらが不安で仕方がなかった。


 そこへ、丁寧なノックが聞こえる。物を叩く行為であるのに、聞こえるその音は優しさに満ち溢れているので、不思議な心地になる。

 聞き慣れたその音に、母だろうと考えて、笑顔で返事をする。


「こんばんは、リジッド」

「はい。こんばんは、母さん」


 入室した人物がやはり母だったので、安心する。

 そして不安を吹き飛ばすように、彼女の懐に飛び込んだ。母は暖かく抱きしめてくれる。彼女の体温に、両手が冷えていたことに初めて気づいた。


「リジッド、よくお聞きなさい」


 母はそう言って、僕の頭をゆっくりと撫でてくれる。途端に冷たい不安は溶けだした。

 そうして心は安らぎ、自らの母への愛が形となって浮かび上がる。

 そのまま、耳を傾ける。


「旦那様は貴方を見てくれませんが、私は貴方をしっかりと見ています。そして貴方がどれだけ優しい人間であるか。勇敢な人間であるか。それを私は知っています」


 僕は、心地のいい言葉と感触に眠たくなっていく。


「だから、迷わず、強く生きなさい。貴方は貴方を貫き通せばいいのですよ」

「はい」

「他の誰が何を言おうとも、私だけは貴方の味方で、母でいますからね」

「・・・はい」

「良い子ですよ」


 眠たげな僕を思ってか、彼女は声を抑え、囁くようにした。


 額に接吻をもらうと、僕はベッドに寝転がる。母はそんな僕に、布団をかぶせてくれた。

 太陽は随分と急いでいたようで、既に山向こうに逃げてしまっていた。空は暗黒に支配されている。しかし、今の僕には、それが全く恐くなかった。


 母が蠟燭の火を消して、いよいよ部屋全体が暗くなる。その瞬間と、僕が眠りに落ちた瞬間は、同時だったように思う。


 僕は夢を見ない。

 母の愛情を前にして、夢への逃避は不要だった。

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