第3話 龍馬、再来

 峰吉は、居室が一気に白い光りに包まれたことに気づかずに、「嘉永かえい六年六月三日」まで書いた。それだけ、この第一筆だいいっぴつに集中していたとも言える。


(・・・!)

 居室の白い光りが、黒くなったり、また白くなったりして明滅しているようだ。峰吉は、やっと気づき、辺りを見回した。


 すると、峰吉の手から力が抜け落ちていくのを感じた。手だけではない、身体からだ全体が脱力していくようだ。峰吉は、その手を見た。みるみる手が小さくなっていく。そして、肌が透けるように白くなっていく。また、それまで正座してへその辺りの高さにあった文机ふづくえの天板が徐々に上に上がってきた。いや、峰吉が低くなっているのだ。ついに、文机の天板の高さと峰吉のあごの高さが並んだ。


(こんなことがあり得るのか!?)

 そう思って呆然ぼうぜんとしていると、光りの明滅はんだ。峰吉は、さらに仰天した。

 居室の天井がこの異変前より2倍ほど高くなり、また書架しょかも大きな壁がそびえ立つように高くなっている。着ていた衣服もぶかぶかになっていた。


 峰吉は、だらりと垂れたそでから手を出し、ほおにあててみた。肌のつやが織られたばかりのきぬの衣に触れているようにつややかだ。


(文机の中に鏡があったはずだ。)


 鏡を取り出して顔を見た。


(・・・! ・・・わらべになっている!しかも、幼童ようどう!)

 鏡を手から取り落とした。2歳か3歳ぐらいだろう。峰吉は、脳天を落雷で撃ち抜かれたような衝撃を受けた。こんな衝撃は、龍馬が暗殺された日以来のものだ。


 峰吉は、居室を見回した。見たこともない調度品が置いてある。また、書架も異変がある前は、峰吉が集めた大量の書籍や史料を並べていたのに、それとは比べものにならないくらいの少なさでまばらに並べられている。

 変わっていないのは、文机の上においてある例の三点の書道具、峰吉がまとめた幕末史の本、歴史を書き直すために用意した大量の半紙は残っている。さっきの鏡といい、この文机の上や中にあった物品や着ていた衣類に関しては、明治のままになっている。


 この部屋は長い間、空き部屋になっていた。維新前は、峰吉は手習いの練習をするときぐらいしか、ここに入ったことがなかった。維新後、峰吉が実家の本屋・菊屋を手伝うことになったので、この部屋をもらい受けたのだ。つまり、峰吉がこの部屋を使用する前に戻ってしまっていると考えられた。


(おれが「嘉永六年六月三日」と書いた瞬間に異変が起きた。おれは幼童に戻った。部屋の様子も変わり、おれが使い始める前に戻ったようだ。つまり、ここは嘉永六年六月三日の菊屋か!)


 峰吉は、卒倒そっとうしそうになった。


(・・・峰やん。・・・峰やん。)

 声。頭の片隅から聞こえてくるような小さな声。それは徐々に大きくなってくる。「峰やん。」と親しげに呼ぶ、この声の響き。10年前の龍馬の顔や姿がよみがえってきた。


(・・龍馬さん!どこです!?)

 峰吉は、小さくなってしまったかぶりを四方八方に振り、龍馬を探した。


(わしは、おまんが見えちょるが、おまんからは、わしを見えんと思う。わしは今、わしの思念しねんをおまんに送って話しておるようだ。理屈は分からんが、おまんが使ったこの筆に思念の源があるようじゃ。)


(筆に・・・。)

 峰吉は、筆を見つめた。やはり、この筆で書いた途端、嘉永六年に戻ったらしい。峰吉は、2歳の頃の自分に戻った。そして、筆に思念を残していた龍馬は実体はないとはいえ再来した。わけのわからないことが立て続けで起きたが、また龍馬と接することができて、峰吉は涙が出そうになった。


(どうやら、嘉永六年に戻ったようです。あのしん国人の言っていたことも、この諸道具の力も本当なのかもしれない。)

 峰吉は、もう一度、筆、すずりすみを見つめた。


(ははは。峰やん、おまんは、かわいい(※)に戻ったな。)(※坊や)


身体からだは、幼童になったとはいえ、頭は明治10年の27歳のままのようです。記憶は消えとりません。)


(明治?そんな元号は知らんちゃ。)


慶応けいおうという元号は、龍馬さんが亡くなって十月とつきのちに明治に改まりました。)


(そうか。わしは、あの慶応3年(1867年)の11月15日に殺されて以来じゃ。そのあとの日本がどうなったか何も分からん。教えてくれんか。あの後、日本は、どうなった?)


 龍馬は、峰吉が筆を使った瞬間、冬の間、長く凍らされていたものが、春に息を吹き返すようにして、その思念をよみがえらせることができたようだ。


「慶応3年からの日本は・・・。」

 と、峰吉は筆を置き、自分が幕末史についてまとめてつづった本をった。龍馬亡き後の日本を説明しようと思っていたが、不意に龍馬の声が全く聞こえなくなった。


(龍馬さん!龍馬さん!)

 必死に頭の中で呼んでも返事はない。狼狽ろうばいしながら理由を考えていると、筆が目に入った。


(これかもしれん。)

 筆を持った。


(・・・峰やん。どれだけ思念を送っても返事がないからあせったわい。)


(龍馬さん、どうやら、筆を持っているときだけ、龍馬さんと思念を送り合うことができるのかもしれません。)


(面倒じゃが、そういうことかい。)


(そのようですね。では、伝えますよ。龍馬さん亡き後の日本を。)


 峰吉は、今度は筆を持ったまま伝えた。薩長(※)は、大政奉還により政権を返上した徳川家を許さず、その官位や領地を朝廷に差し出すように命じ、激昂げっこうした旧幕府軍と新政府軍との間に戊辰ぼしん戦争が起こったこと。倒幕の密勅みっちょくが下ったことにより、新政府軍は官軍となり、旧幕府軍は賊軍ぞくぐんとなったこと。新政府軍が江戸で彰義隊しょうぎたいを壊滅させたこと。会津あいづ戦争では会津の士民の徹底抗戦があり、数々の悲劇が生まれたこと。そして、箱館はこだて戦争をもって旧幕府軍の降伏で戊辰戦争が終わったことを伝えた。(※ 薩摩藩、長州藩)


(・・・。やはり、日本人はお互い戦い、殺し合ったんじゃな。本当なら流さんくてもいい多くの人の血が、あちこちで流れた。)


(そうです。その後、明治になっても士族の反乱がありました。士族というのは、明治政府が決めた武士身分の呼び方です。西郷隆盛公を担いだ鹿児島士族の大反乱が政府軍に潰され、西郷公は自刃じじんしました。そのときが明治10年です。これで、もう士族はち上がることはないと思います。)


(西郷さんが反乱?あれほどの人物や。自らの意志でったんやないやろうが、反乱のかしらにならんとならんまでに追い詰められたんやな。)


(龍馬さんが亡くなるとき言ったとおりの日本になってしまいました。死んでいった人たちは、ほんとは死ななくてもよかったかもしれない。)


(じゃから、この筆で歴史を書き直そうや。幕末の歴史が変われば、きっと明治になって非業ひごうたおれたもんも、そうならんで済むき。幕末に斃れたもんを救うことは、明治に斃れたもんも救うことになる!)


「はい!」

 峰吉は、力が入って、つい大きな声が出てしまった。とても子どもっぽい甲高い声だった。

(子どもだから、こんなに高いのか。)

 自分でもこんな声になってしまっていることに驚いた。


(はっはっは。まっことおもろい、峰やんは。)


(笑わないでください。)

 峰吉の白くて柔らかい顔が紅潮こうちょうした。


 と、その声を聴いたのか、誰かが階段を上ってくる足音がする。


「峰ーーー!峰吉ーーー!」


(この声。・・・母だ!)

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峰吉の筆 ー幕末史書き換え 誰も傷つかない幕末ー 青木 @minonokuni

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