第2話 峰吉の書き換え始め
近江屋事件の後の峰吉は、自分がどこでどういう行動をしたのか、はっきり記憶がない。龍馬の死によって取り乱していたのだろう。かすかな記憶をたぐりよせて考えると、とにかくも、この事件を陸援隊へ報せようと京の北白河の彼らの駐屯地に走ったことは覚えている。
また、近江屋主人・新助も土佐藩邸へ駆けて報せたので、近江屋へは、土佐藩士や陸援隊士らが多くやって来た。龍馬の変わり果てた姿を見て、場をはばかることなく、号泣している藩士もいた。そして、近江屋の従業員と同じく、峰吉も土佐藩士から事情聴取を受けた。
近江屋事件から5日経た今、実家である本屋・菊屋の一室に
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明治10年(1877年)、峰吉は西南戦争から帰還した。近江屋事件を契機として親しくなった土佐藩出身の熊本鎮台司令長官・
菊屋は、父の音吉が数年前に隠居し、兄の
峰吉は、
明治10年9月24日、この大規模反乱は、西郷隆盛の鹿児島・城山での自害によって終焉を迎えた。この反乱で約7ヵ月のうちに薩軍、官軍、双方合わせて1万人以上の戦死者を出した。戦地で働いていた峰吉は、10年前に龍馬が言っていた、誰も傷つかない歴史からは程遠いことを身にしみて実感していた。
軍務を終えて京都の実家に戻った峰吉は、
(もう、いいだろう。)
と、心に期するものがあった。
多くの幕末維新に関する書籍、史料、回顧録などが
(龍馬さんが亡くなってから10年か。長かったな。)
峰吉が龍馬の死(慶応3年・1867年)の後、すぐに歴史を書き直さず、10年待っていたのには理由が二つある。
一つは、幕末史の発端とも言える
もう一つは、維新が成り、新政府ができたが、世の中から武士が消えたわけではない。新政府は改革をする中で、武士の不満がたまるようなことを次々にやった。それが士族反乱というかたちで各地で暴発した。峰吉は、維新後の世の中の動静を観ていたと言ってよい。熊本へ行き、西南戦争の
(案の定、龍馬さん亡き後の世になっても、日本人同士が血で血を洗う戦いをしたわけだ。龍馬さんの言ったとおりになったな。)
だから、この明治の世の士族反乱などで流された無数の人々の血も、幕末史を書き換えることで歴史の推移・方向を変え、流さずに済むようになると峰吉は思った。
峰吉は、10年にわたって収集した幕末史の書籍や史料、回顧録などを時をかけて読みあさり、ペリー来航から箱館戦争の終結までの歴史を紙に書き記して1冊の本として
そしてついに、10年前、龍馬から託された麻の袋の中の書道具を取り出した。西南戦争のときも家族に発見されないために実家に置いたままにせず、戦地まで持っていくほど、肌身離さず所持していたのだ。
筆、
峰吉は、硯に水を垂らし、墨を
(龍馬さんの思念か。宿っている感じもする。だが、これが何の効力もない書道具だったら、おれの10年は何だったのか。とんだ笑いぐさになるな。)
しかし、峰吉は、そんな想いは打ち消した。龍馬を信じている。龍馬がこれらに歴史書き換えの力があると信じていた以上、自分も信じるしかない。それが龍馬を信じる者のあるべき姿だ。
筆を手にとる。峰吉は、この筆が非常に軽く、書きやすそうで、自分の手に合っていることに驚いた。まるで、自分を待っていてくれたかのように筆の方から自分の手になじんできてくれているような感触だった。
(では、書き始めます。龍馬さん。)
この日は、明治政府が採用した太陽暦(新暦)の日付で、1877年12月10日。龍馬が亡くなった旧暦1867年11月15日は、新暦のこの12月10日にあたる。つまり、今日は、龍馬が亡くなってから、ちょうど10年目にあたる。峰吉は、あえてこの日を選んだ。この日をもって、歴史は書き直されるのだ。峰吉は、身震いした。
まず、ペリー来航について書くため、「嘉永6年」の「嘉」をまっさらな紙に書いた。瞬間、部屋全体が真っ白な光に包まれた。
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