第5話

金沢

駐車場に車を止めて釣り用の餌を買いに駐車場の外れに有る売店に向かい、今何が釣れるか聞いた。

店員に俺を覚えて貰う為だ。夕方まで釣りをしたところ思った寄り釣れ。今夜はこれで一杯飲む事にした。、サクラ島で釣つた魚の捌きは慣れていた。今夜は此処で過ごし明日は、巴会、の偵察に行くのだ。気候はすっかり夏らしくなり車の中で寝ても寒さを感じられない季節になつていた。車の椅子を倒し寝る所を作り胡座をひいて金沢の地酒を飲み釣った魚の刺身を食べた。酒を飲み終え何もする事が無いので横に成り又ベトナム戦争の事を思い出していた。1968年1月29日旧正月の日、俺達小隊はダナンの基地に居た、北ベトナム軍と、ベトナム解放民族戦線が、旧正月の休戦を申し込んで来たと言うので基地の中は、のんびり、した空気がしていた。幹部の間ではアメリカ軍、と南ベトナム軍が敵に休勢を立て直す時間を与えると否定したと伝えられていた。俺達小隊は休みなので、シャワーを浴び、下着を変え散髪をし、午後からビールを飲みくつろいだ。俺もマルも夕食を食べると酔っているので寝た。夜中に突然、迫撃弾の爆発音とベッドが揺れ、飛び起きた、何発もの爆発音が基地の至る所で起きていた。靴を履き銃と弾薬帯を持ちテントから飛び出した。基地の至る所から照明弾が打ち上げられ基地の至る所で機関銃の発射音、小銃音がしていた。俺達小隊は決められている場所に走って行き飛び込んだ。「どうなつているんだ」

「分かるわけ無いだろう、敵が攻めてきた、基地が包囲されている、凄い人数だ、撃って撃って撃ちまくれ」ダナンの基地に居た兵士達は実戦の経験者が殆どで30分程で不意打ちされたが態勢を立て直していた。

着ている服がまちまちなので北ベトナム軍の正規軍では無く、ベトナム解放民族戦線の奴らと分かった

敵も倒したが味方も至る所で迫撃砲にやられ衛生兵を呼ぶ声がしていた。薄明るくなり要約「ヘリコプター」(ベルエアクラフト製UH-1)が飛んで来て機銃掃射やロケット砲などで攻撃したため敵が逃げ出した。健一は塹壕から出て見て驚いた、建物は全て破壊され、至る所に兵士達が倒れており衛生兵士を呼ぶ声、まるきり動かない者、まるで、地獄絵図、を見るようだった。健一の小隊も戦死者4名、重傷者3名を出していた。「健、怪我無いか無いか良かった」

「マル肩から血が出ている大丈夫か」

「迫撃砲の破片が、かすめた大したこと無い、とんだ旧正月だ。この戦いは歴史に残る、北ベトナム軍の正規軍でなくて良かった」

その日1日は遺体をポンチヨ(死体を入れる袋)に入れたり負傷者を後方に送る為ヘリコプターに積んだりした。健一は汗をびっしょりかいて目が覚めた。

「詰まんない事思い出すからこの様だベトナムで一番思い出したく無いことだ」

汗をかいた下着を取り替えて居ると明るくなつたので釣りに行くことにした今日は下見に行くことにした、10時頃まで釣り、釣った魚を塩焼きにして朝ご飯のおかずにした。

バスに乗り金沢市に向かった。 時間が早いのでサウナで汗を流す事にし夜をまつた。

巴会の事務所は此花町の路地の奥にあり車が一台やつと通れるようなところにあつた。

「事務所ではまずいな平屋だし窓が右側も、左側も隣りの建物に遮られている。正面じゃあー俺の姿が丸見えだ逃げるのも難しい、奴の住まいに行って見るか」

巴会会長の家は、尾山町に有り金沢城公園の側に有りマンションと言う事だった。

「新しくは無いが良い所にある此の12階か、ワンフロワーに一軒か、兼六園が一望か家族は別に住んで居て女と住んで居る、良い身分だ」

何処を見渡しても狙撃の出来る場所が見つからなかった、管理人が居らず古い建物なのでオートロツクには成って居らず、防犯カメラだけが付いていた。

録画機材は管理人室が無い為エレベーター横の非常階段の壁に付いているようだつた。俺は色々確かめて奴の住んで居る12階の廊下でやることにした。

其の夜11時頃酔って帰って帰って来た、若い衆はマンションの住人とのトラブルを避けるためマンションの中には入らず車で去って行った。

今夜はこのまま帰り明日の夜、帰って来たとこをやることにした。途中スクーターを失敬して乗って帰り3キロ殆ど手前で降りマンションの駐車場の隅に置き帰った。薄明るくなり寝不足だが釣りをする事にした。釣り客相手の売店の親父に疑われるのお避ける為だ釣り客は朝が早い。

10時頃釣りをやめ遅い朝ご飯を食べ、昼寝して夜を待つことにした。

9時頃に成り釣り公園の駐車場を出た。置いて有ったスクーターに乗り市内に向かい奴のマンションの1キロ殆どの所に止めて夕飯を食う事にした。中華屋に入り、チヤハーン、と餃子を頼んだが半分でやめた、万が一、撃ち合いになり腹などに当たったら腹膜炎に成るからだ。俺はマンションの住人のような振る舞いでマンションの中に入り録画機材の入った、ボックスの前に立ち、焼きを入れ先の曲がった針金を鍵穴に入れ直ぐに扉を開けた、閉め直し、非常階段で12階に上がった。まだ階段が有るので上がって見ると屋上に出る扉が有った。扉は鍵がかかつてなくあいた。屋上に出て下を見ると入り口前の広場が見えた。

「こいつは助かる此処で奴を帰るのをまとう」

2時間殆ど待つて奴が帰って来た。若い衆も車も昨夜と同じように帰って行った。非常階段の壁に体を付け待つているとエレベーターが止まり奴が出て来た。

「斉藤連合会の巴会の会長かい」

「誰だてめーわーそれがどうしだ」

俺は問答無用で、ベレツタを撃った、胸に2発、頭に1発、素早く薬莢を拾い非常階段を駆け降り、録画機材の入ったボックスを開けテープを抜き取り人影の無いのを確かめマンションを出た。、

スクーターに乗り途中で捨て物陰に隠れて付けていないか30分程確かめて車にもどった。

車で2時間殆ど横になつたが明るくなったので体はきついが釣りをする事にした。売店の釣り客相手の親父が朝早いので疑われ無いためだ。

又釣った魚で朝食を食べ。此処を去ることにした、売店の親父に新潟県に行く道を聞き俺は反対の福井県に向かった、北陸自動車を通り福井北インターで降り福井市に向かった。福井市に有る。「神谷組」の神谷幸三、組長をやるためだ。事務所は北陸本線の森田駅の栄町に有ると貰った資料に書いて有った。6階建てのビルになつており。5階から上は神谷幸三の住まいになつていた。場所を確かめ2~3日休む事にした。

越前海岸に行き旨い物を食べ温泉に入るのだ。季節は夏にちかずき越前海岸に向かう、山々は緑一色に成り田んぼは緑の絨毯を敷き積めたようになつていた。

駐車場が旅館と一体になつている旅館を見つけ泊まる事にした。旅館に入り部屋に置いて有る新聞を見ると金沢市の事件が大きくのつていた、朝10時頃、ゴミを出しに出た女性が発見し殺されてから10時間以上たって要ると警察が発表していた。何故か組同士の抗争事件となつていた。真鍋健一にわどうでもいい事だつた。2日程温泉に入り、気が充実した。

組事務所の周りを回ったが大きな建物も無くどうしょうと考えて要る内に腹が減ったので、食堂には入り焼き肉定食を食べて居ると、その筋のマークを付けたような3人が入って来た。、

「親父も随分びびっているな当分事務所から出る気が無いらしい」

「何せ敵が、さっぱり分からないらしい」

「八つ当たりでたまらんよ此から体をほぐすため屋上でゴルフをやるらしい。今日屋上に目隠しのプラスチックネットを張るそうだ」健一はきずかれ無い用に金を払い食堂を出た。

「奴の居所がわかった、引きこもりは困るどうするか」

坂の上にコンクリートで出来た建物が有るのでいつてみた2階建てぐらいの建物で屋上に大きな高い鉄塔が立っていた。

「携帯電話のアンテナだ此方の方が高い奴の事務所が良く見える、だが遠い今夜計測してみよう」

その夜金網で囲って有る建物の梯子で屋上に出た。

「まずいな20100メートル有る此の銃なら何とかなるが自信が無い」その時組事務所の屋上に灯りが付き3人の男が出てきた神谷幸三と若い衆だ。俺は迷ったこんなに早く標的と遭遇するとは思って居なかった。

バイク、かスクーターを失敬仕様と思ったが良いのが無くママチャリできたのだ勿論荷台にクーラーボツクスを積み釣り竿ケースには本物の釣り竿が入って要る。健一はやる事にした。無風で湿度が余り無いからだ、此から先こんな無風が続く保証が無いからだ。

俺は距離が有るので標的の30センチ上を狙う事にした距離が有るので弾がドロップするからだ。

薬室に弾を送り熱式暗視スコープと特殊レーザサイトを操作し標的を捉えた、静かに引き金を絞った、

標的が倒れるのを確認し立ち去った。結果は明日の新聞で確認するしか無かった。

途中でママチャリを捨て車に戻り此から、名古屋に向かうのだ一般道(158)おとうり永平寺などを見、気ままに名古屋に向かった。新聞では病院に運ばれて6時間後に死亡したと出ていた、弾が思った寄りドロップしたためだろう。途中、岐阜県の道後温泉でゆっくりする事にした。温泉に浸かり酒を飲み心地よく酔いが周り何もする事が無いので又ベトナム戦争の事を思い出していた1970年3月にベトナムの隣りの国カンボジアでクーデターがおき「クメール共和国」となつた。アメリカが支援してクーデターを起こしたと兵士達の間で噂が飛んでいた。早くも4月26日にわ中国とソビエトからの軍事支援物資ルートである。ホーチミンルートとシアヌークルートを遮断すると言うことで南ベトナム軍とアメリカ軍がクメール共和国の了解の元カンボジア東部領内に侵攻した。その中に俺とマルもいた、俺達の小隊は俺とマル以外は戦死したか負傷して本国に送り返されたかのどちらかだった。2カ月程で、南ベトナム軍もアメリカ軍もカンボジアから撤退した。10カ月後の1971年の1月末ラオス東南にある「ホーチミンルート」の遮断と兵站基地の破壊を目的として南ベトナム軍、とアメリカ軍がラオス領内に侵攻した。俺もマルも居た、俺はその頃、古参の狙撃兵として大隊では名が通って居た。

侵攻後アメリカ軍はヘリコブター輸送してラオスに3つの基地を作ったがラオス領内に潜んで居た、北ベトナム軍の重火器と戦車などの攻撃を受け、南ベトナム軍が多大な損害を受け、アメリカ軍も損害を受けていた。俺もマルも上等兵だったが下士官(軍曹)が足りなく古参上等兵として小隊を引率するようになった。こんな所にも人事差別があるようだつた、俺もマルも普通だつたら少なくとも軍曹にはなれたはずだ。

ラオスで、チュポンと言う町を占拠していた時、北ベトナム軍の大攻撃にあい、チュポンを放棄して濡れた野良犬のように南ベトナムに撤退した。そのけつかアメリカ空軍による戦略爆撃が北ベトナムを爆撃した

そんな時俺とマルが司令部に呼ばれた。

「君達やって貰いたい事が有る」といつて地図の前に立ち「この地点に行き1人の将軍を狙撃してくれ場所は10キロ殆どカンボジア領内に入った此処だ、物資の集結所だ、物資が集まり次第に攻撃して来る可能性が有る、将軍が死ねば攻撃が遅れる、正確な緯度も教えてくれ将軍の狙撃と同時に爆撃する」

「将軍は毎日居るのですか、それとどれぐらいの兵士が居ますか」

「兵士は中隊規模だ後はベトコンと物資を運んで来た男女だ彼らは担いで運ぶ途中までヘリで行け」

俺は狙撃手、マルは観測手でいくことになつた。

夜行くことにした、携帯食9食、水、カモフラジーヨの網、衛生キット、無線機、など積めたリツクは30キロにもなつた、ヘリを降りコンパスを頼りに国境を越えた。

「健、2時間程で明るく成る目的地まではそんなに遠く無い明るく成るのをまとう」

「そうしようカンボジア領内に3キロは入った」

2人は「シダ」の茂っている中に入り無言で明るくなるのをまつた。

「方向は間違って無い2時間位で目的地に着くはずだ行こう」密林の中を枝や名も知らない背の高い草を音のしない用に掻き分けて2時間程進んだ。さらに20分程進んだ時、先頭を歩いて居たマルが手で、しゃがめ、の合図をした。前の方には細長い谷間になつていた。航空機による爆撃に備えて見つけにくい谷間に作ったのだ。テントで覆った木箱がかなり有り真ん中に大きなテントがたつていた。

「健一あの真ん中のテントに将軍が居ると思う」

「俺もそう思うだが此処は遠すぎる700は有るテントの入り口の前に行こう出来れば400メートル位ちかずきたい。マル、テントの前に兵士達が整列し出した。朝礼だ、将軍が出てきた、マル双眼鏡で確認してくれ。俺達付いている。明日の朝帰れる」

テントの見える600メートル位近すぎ明日の朝明るくなったら400メートル位近ずく事にした。

カモフラジーヨ用の網を被り交代で見張りをし翌朝を待つことにした、無線で緯度を教え明日の朝8時に狙撃する事を伝えた、翌朝、前の日に兵士達が整列する時間を確認しているので健一とマルは明るくなるのを待つて朝食を食べ狙撃の出来る距離までちかずいた。「健一絶好のコンディションだ。風が無い太陽光が後ろだ、朝だ「陽炎」何か無い。兵士達が整列しだした。いよいよ、将軍様のお出ましだ」

俺は音を立てない用に弾丸を薬室に送り込んだ。

将軍が台の上に乗りもう直ぐ我々の勝利は近いアメリカ軍を追い出すと演説していた。俺は静かに引き金を引いた。将軍は額から血を飛ばし後ろ向きに倒れた。「マル、ヒットした。走るぞ」基地を無線で呼び出し狙撃の成功を伝えた、狙撃の時間を教えていたので戦闘機のフワントムが飛来し爆弾を投下しおまけに置いて有る弾薬が誘発して凄まじい爆発音と風圧で2人とも前のめりに倒れそうになつた、俺とマルは道の無いジャングルを走りに走った、途中爆撃機の音が何度も聞こえた基地を出て4日後に原隊の有る基地に戻った。

着ている服は至る所が裂けていた木の枝や、とげの有るツタで破れたのだ。シャワーを浴びたときは全身が傷だらけでシミて飛び上がった。

「さーあ体力も気力も充実した明日は名古屋に行こう」

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