第6話 エピローグ

 人々が眠っている間に誰かが来て、毒麦を蒔いて行った。

 ならば、真に悪であるのは毒のあった麦ではなく、それを蒔いて言った者だと、かつて誰かが言った。

 


■/

 翌日の内には、軍用車に積み込んでいた予備電源と設備でディックスがネットワークを復旧させた。アーサー・ノースの言葉通りに災禍が吹き荒れていた。上層部の意図がどこまでアーサー・ノースの意識に及んでいたのかはついぞおれには知り得ないことだったが、ギリコ・E・唐科は行方をくらませたことになっていた。……少しの間は猶予をくれたのかもしれない。だが、どこの報道を聞いても災禍の首謀者として延々自分の名前が流れてくるのは、嫌が応にも、いよいよやってしまったかという感覚になる。


 自分でも危ういところにあったという自覚はある。胸先三寸で死ぬところにあった。もしくは、ほんのはずみで自己を喪失してしまいそうなほどの憎悪にかられる自分というものを、自覚してしまった。おれの情動が発火しなかったのはひとえにレシピエントでなかったということ。そこへ至る過程の道筋を、ひたすらにヨハンが塞いでいてくれたということにほかならなかった。

 自律した状態のサーバ技術とはいえど、決定的な瞬間まで治療用のナノマシンを身体に入れるのに妙な抵抗感が働いてしまったので、点滴をしながら、おれは最後の調整作業を進めている。予備処置だけはここで済ませておきたいと思って、保全室に降りて来た。……あれから数日が経ち、そこら酷い臭いがしていたが、ディックスに換気扇を事前に動かしてもらっておいたお蔭でなんとかここにいることができている。


 ディックスは電気設備だけでなく医療にも長けているようで、傷の深かった背中やあちこちに付いた防御創を手際よく縫合してくれた。数日は化膿に気をつけなければならないが、傷で命を落とすことはないらしい。彼に、なぜおれを助けたのか尋ねたら、罪悪感だと答えた。曰く、ディックスの潜入初日、機関の食堂の旧型オートサーバの使い方が分からず狼狽えていたところにおれが声をかけたらしい。……全く身に覚えがないのだが。人間、したことは案外覚えていないものだからそんなことがあったのだろう。そんなことで? と尋ねたら、そんなことでも自分にとっては十分だったのだと澄んだ目を細めて笑っていた。おれには理解しがたい境地だったがディックスがそう言うのならわからなくてもいいと思った。




 ヘムロックにも連絡が取れて、久しぶりに日本に戻ることにもなった。ヘムロックは機関を離れた後、日本のVFと呼ばれる民間組織に籍を置いていた。破壊工作でズタズタになった機関のラボは電力にもネットワークにも負荷のかかる大掛かりな作業を行うことは不可能という判断でヘムロックのもとへ場所を移すことにした。ヘムロックもディックスもおれが作業に専念できるよう山を下りてからの安全なルートの割り出しやVFお抱えの民間軍事会社などを手際よく指揮してくれている。本当に、良くも悪くもディックスは優秀だった。


 ヘムロックは案の定、勝手にバックアップデータを送りつけたことにお怒りだった。丁寧に謝罪したら、もっと早く頼れと叱られてしまったが。それでも、自分を信じて頼ってくれたことが嬉しいと、彼女は言ってくれた。


 日本は、棄民だった唐科ギリコが幼少期を過ごした場所でもあるが、博士号取得後フランスを発ち、ギリコ・E・唐科――おれが研究者として最初に過ごした場所という印象が強い。生まれ育った場所という実感は今のおれにはそれほどない。VFという民間組織は、調べたところ過去におれが所属していた民間組織を前身に設立された、比較的新設の組織らしい。……まだしぶとく残っていたのかとうんざりすると同時に、アーサー・ノースは随分とおれのことを調べ上げたものだと思う。最終的に古巣に帰ることになったが、果たして生きていられるのか、なかなかにぞっとしない話だ。災禍の首謀者として祭り上げられている以前に、あそこではとんでもない厄介者として話が広まっていそうで困る。……逃げるように日本を抜け出してきたから余計に不安だが、それは未来の話だ。


 過去のこと……自分のしてきたことには自覚的なつもりだ。少なくとも、養父に拾われてからのことははっきりとしている。どれほど過去が薄らごうと、またはそれを捨てようと、なにを思いどう行動すべきかをひねり出してきた今の自分には意思というものが、行為の後には必ずついてきている。アーサー・ノースだってそうだった。だから、最後にディックスを自由にしたのだと思う。最終的に彼の良心でディックスとおれが生かされたことは、腹立たしくもあり、悔しいが認めざるを得なかった。


 事実の積み重ねが曇って歪んだ像を結んだとしても、自分が正しくなかったことは自分が何よりも知っている。悪意をもって、自覚して生きて来た。それが形となって他人から指摘されることを恐れてはいたし、だから他人に無関心でいようとした。深淵を覗くからには深淵からも覗かれる。うっかり信用されておれが正しくなかったことを悟られ、他人を落胆させたくなった。売られたことで棄民だった過去が抜け落ちたおれと、棄民である過去を自ら葬ったアーサー・ノースは、もしかすると同じ苦痛で噛み合ったのかもしれない。


 正しく在ろうとはしても、正しくも善くもなれない。矛盾した人間性で他人の幸福どころか、人間社会を愛せよということは、おれたちには酷く難しかった。だからおれは人間の中身を暴こうと研究者になったし、彼は軍部を目指したのかもしれない。自分の善意がいかに希薄なものであるかをおれは知っていた。傍らの誰かが掲げた篝火が心底眩しく、恨めしく、温かで、心地よかったから――いつしか焔に飛び込み自らを焼くことが救いであると。憶測の域を出ないが、彼は最後にロディア・ディックスの善意を信じることにしたのだろう。おれが、ヨハンを信じたように。


 自分の信じた他人の姿に、理解したいと思った善性に、殉じることにしたのだろう。




 大尉の遺体は、ディックスと二人で埋葬した。




 煙草と一緒に手渡されたメモには、16桁の英数字が書かれていた。何かのパスワードがIDだろうと察しはついた。ディックスにはデータ抽出の際に扉を開けてもらっておいたため、おれでも自由に出入りはできた。発火時にサーバを停止させ、意識提供者全員を死に至らしめたガスも綺麗に抜かれて、いまや、目の覚めることがなくなった意識提供者たちは冷凍状態にあった。室温はそのままに、保全槽の中だけが白く煙ったように霜が張っていた。


 メモに記された16桁の数字は、おれにもディックスにも権限が与えられていなかった、延髄サーバのログとデータベースへのアクセス用のパスに近しいものだった。種々の記録を解析すれば上層部の持つサーバの喉笛にも十分手が届くと、ディックスは言っていた。……ノース大尉は、最後の最後に機関を裏切ることを選んだらしい。遡って記録を確認すると、ヨハンをはじめとした数名が、上層部の別サーバに並行してアクセスされていたことがわかった。その中には、ヨハンだけではなくジェニファー・マッケンジーの名前もあった。


 これらの記録はヨハン・P・スミスの死を確認する材料としては十二分だっただろう。保全室を満たしたガスは等しく、ヨハンの命も奪っていった。


 だが、奇妙なログが見つかった。


 こちらのサーバに残ったバイタルサインの途切れた時間と、ヨハンの意識信号の生存を示す時間にラグがあったのだ。

 具体的に言えば、240時間ほどのラグだ。


 あの日。サーバが落ちて10日目の日。大尉がなぜか延髄サーバにアクセスしている形跡が見られた。それを、ディックスは不思議そうにしていた。施設の外でおれの連行を待ち構えていた大尉があの時まで何をしていたのかはディックスも知らされていなかったと言う。そして、大尉が亡くなった時刻を最後におれたちが再アクセスを試みるまで延髄サーバへの外部からのアクセスは一度完全に閉じられていた。追跡を振り切るようにして閉鎖された延髄サーバ内では、初期段階で組み込まれていた削除プロセスのいくつかが作動していた。ディックスによると、この削除プロセスは連動して別サーバに飛ばしてあった意識データも道連れにしているらしい。それが誰のデータなのかを探るには、上層部の保有するサーバへのアクセスが必要だから現時点ではわからない、と言われたが。


 ……そもそも、アーサー・ノースという個人にどの程度上層部の意識と呼べるものが混在していたのか。混線状態にあった延髄サーバとアーサー・ノースの存在していたサーバに、どれくらいヨハンの意識は吸い上げられていたのか。延髄サーバの熾り火の中、燃え落ちることのなかったヨハンの意識は上層部のサーバ内でどの時点まで残っていたのか。灰を混ぜるように、曖昧だった。


 明確に言えることは、上層部のサーバに吸い上げられたヨハンの意識データも綺麗になくなっているということだった。綺麗さっぱり。何度データの海を攫ってもヨハンの意識は欠片も残っていなかった。


 今ならわかる。

 誰の苦痛も自分以外では取り除けないから、10年前、ヨハンはおれを連れていかなかったのだと。


 アーサー・ノースもヨハンも、自分の手で終わらせようと決めて、ここへ来たのだと。





 日本に渡る前に出来ることは済ませておきたかった。おれが生きて五体満足な状態でたどり着ける保障が十全とも言えない。保全室で最後の作業をしていた。ディックスには作業が終わったことを伝えたから、もうじき担架を持って下りてきてくれるだろう。万が一の時の保険となるコードを残しておきたかった。――意識層に対する、致命的な一刺しを。工程は把握していたし、機関に入る前には似たような研究をしていたためそれなりに知識はある。準備は自分でも驚くほどすんなりとできた。パターンコードは短くまとめた。事前にヘムロックに渡しておけば、おれが命を落としても悪いようにはされないだろう。


 これが、毒麦の種となる。ただし、『災禍による滅びを望む』今の社会にとっての毒麦だ。

 延髄サーバの中にみっちりと詰まっていた苦痛が焔となって社会を焼いた。ばらばらだった人間性をくっつけても均しても消えることのなかった、おれたちの苦痛。先日の経験を経てもおれという人間が別段変化することもなく、悪意も憎悪も等量にしっかりとおれの中に根付いている。けれど、ここで人類が終わるのは惜しいと思えている。憎みながらも人間の存続を切に願った者がいたから。彼は、真に人類を愛していたから。そして、おれはどうしようもなく彼の眩しさに惹かれてしまった。誰にも興味を持てないと思っていたおれは、悔しいがそれを認めるしかなかった。


 唐科ギリコは毒麦を蒔く者だ。


 どのような悪人であっても最後の日に許しがあって然るべきと説く者はもう、地上にはいないから。悪意あるおれたちは許されないし、残らず焼却される。


 ヨハンは。――あいつは、その犠牲者の1人として計上されるだろう。時代の趨勢でうっかり災禍を望んでしまった、ただの善良な人間だ。これからは、本来そうあるべきだったところに戻るだけだ。次の時代に芽吹く落穂を残していったヨハンの姿が、どうか正しく理解されるように。なんて期待を寄せてしまっては、おれは終わらない苦しみをまたひとつ余計に背負い込んでしまうだろうか。そこまでするな、と。叱ってくれるだろうか。真剣そのものの、決して賢明ではなかった、まっすぐな態度で。


 保全槽を撫でた。つるりとして冷えた触り心地。中に眠る者の命が喪われたものであると刻み付けるようだ。


 ここを去る前にヨハンも埋葬したかった。ディックスに担架を頼んだのはそのためだ。


 最後の保険の準備も。


 もし。もしも。おれが辿り着く前に死んだとしても。この先見る風景で人類を諦めそうになっても。ギリコ・E・唐科がパターン化されたコードだけになったとしても、目的を見失うことなく災禍を封じるにはおれ一人では足りない。もちろん、ヨハンだけでも足りない。アーサー・ノースに告げたように、できる限り多くの人間の手でこの先を決めて欲しい。


 植えついた悪意も溶けきらない苦痛もたっぷりと持ち合わせたおれたちは、なんであれ滅びと同等に近いだけの願いがあったはずだ。ヨハンが共通理解を求めて人類を愛そうとしたように。おれが、信じて託してくれたヨハンを裏切りたくないと思ったように。


 だから、開かれた延髄サーバから拾い上げられるだけの落穂を拾った。苦痛の裏返しを。毒より出でた希望を。斯く在れと願った意思を。



 苦痛は連れていけなくても、願いなら連れていけるだろうから。






 この毒より出でた落穂が、どうか、地続きの社会で芽吹きますように。

 その麦が毒のないものとして繁茂する頃、どうか、わたしたちの苦痛が、わたしたちの手で終わりますように。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

毒麦に火を 日由 了 @ryoh_144

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説