第5話 落穂

 山肌から吹き降りて来た風が、背を伝う嫌な汗を撫でた。拘束された手足はまるで使い物にならず、雪上で身をにじると滴った血が汚い染みを作っていく。呼吸が、滲むように震えた。崩れた前髪が血と汗で額に張り付いた。殴られたはずみに口腔内を噛み切ってしまったようで、やおら血の味が広がる。


 今のおれにあるのは気力ぐらいのもので、血を吐き出してノース大尉を睨みあげた。眼鏡が落ちたが構うものか。もとから伊達だ。視界はこの上なく明瞭で、全ての神経が研がれたように脳へ訴える。


 考えろ。考えろ。どうすればいい。

 どうすれば、ヨハンとの約束を果たすことができる?


 否定が通用するとも思えないが、主張しないことには何も始まらない。

「筋書きなどありません。私やスミス技官が人類を滅ぼすために災禍を起こしたとおっしゃるのであれば、それは誤解です」

 ……ここで死を逃れられなければ、全て無意味だ。大尉に説得が通用するだろうか。……勝算はどれくらいだ。おそらく大尉の部下はこれが軍の上層部の意図で行われているのだと知らされていない。そうでなければ隠そうとする意味がない。依然、大尉の部下たちは揃って銃口をおれに向けているが数で勝つしかない。たしか、ディックスといっただろうか。外へ連れられる途中に聞いた名前だ。……少しはこの任務に疑念を持っている人間もいるようではある。そこを、突破口にする。


「直接確かめたいことがおありだから私をここへ連れて来たのではありませんか。私の死が必要ならば、その死体だけでよろしいでしょう」

 ここで納得されて撃たれたらお笑い種だが。ノース大尉は冷め切った目を僅かに細め、おとがいを上げた。

「随分な思い上がりのようだが、唐科技官。確実性以外に理由はない」

「大尉の目で私の死を直接ご覧にならなければ納得がいかないほど、ご自分の部下を信用なさっておられないのですか。……それとも、伝えられないようなことがらでも?」

 努めて軽く尋ねた。

「作戦においてはそのような事柄もある。特殊な任務を帯びている場合は開示するする必要はない。部下へもまたその限りではない」


 揺さぶりは通用しないらしい。であれば、アプローチを変えるまで。

 喋るのを止めたら死ぬと言い聞かせるようにおれは続けた。シェヘラザードもここまで必死になったろうか。


「私を確実に殺す理由とは何です? 疑念のせいでしょうか。仮に私とスミス技官が災禍を起こしたとしましょう。混乱をもたらすような人間が、互いを排除しあうよう仕向けたとしましょう。必要以上の被害が出ることなど考えるに容易い。生存者による社会の再構築があったとて、生存できたからとて、その全てが災禍によるストレスに耐性があるとも思えません。事前シミュレーションがまるで足りていない。人類の存続を旨とする機関の技術管理官として、言わせていただきましょう。災禍を意図的に発生させてまで今の社会を粉砕し、再建を図るのは、とても現実的ではありません。メリットがないのです。人類全体に。もちろん私にもスミス技官にとってもメリットはない」


 もっとも、とおれは一呼吸挟んで、言葉を継ぐ。


「今回の災禍が人類の自滅を望んだものであれば、大尉のおっしゃる『次の時代』とは何を指すのでしょうか」

 私にはわからない、と首を振った。

「スミス技官は既におらず、私はモニタリングのみで稼働直前とそれ以降に延髄サーバに関わることは不可能でした。積極的に関与できなかったのです。私やスミス技官にどのような意図があろうとも、災禍の発生をたった一人の被験者の行動が引き金となるよう操作することなど、不可能です」


 おれを信じてもらうことができなくていい。そんな資格などない。こんな時でもおれは変わらない。

 人間など滅びてしまえ、が、口癖のヨハンも。

 それでも人類を愛していたヨハンも。

 どちらも本当であることは、おれが分かっているのだから。


「唐科技官、はっきり言えばいい」

 業を煮やしたのか、大尉が口を挟んだ。

 好機だ。


「関与した第三者の存在を疑います」

「例えば?」

「稼働前であれば、検証課のジェニファー・マッケンジー、シエラ・ディンバー。稼働後は、どうでしょうね。……私の関われた人間が少なすぎて、なんとも。そもそも、箱庭試験の許可を出した検証課上部、ひいては……機関及び軍部の上層部の作為的な操作を疑います」


 おそらくは、ヘムロックも関係していたはずだ。レシピエントの選定者として残り続けたのは、機関による監視がついたということ。彼女の名前を挙げることは憚られた。彼女はおれの協力者だ。退避させたバックアップデータの解除コードの一つは、ヘムロックのもとにある。差し出すわけにはいかない。

 それを悟られないように、おれは続ける。


「……実に多くの人間が箱庭を構成していた。箱庭の実環境に100名、基底意識提供者100名、レシピエントを含むとなると膨大な人数です。参加者自体になんらかの偏りがあるとすれば検証課総員にも責任を追及します」


 流動的なデータを提供するドナーでもあり、均され安定した精神を受容することのできるレシピエント。『優良である』とされた多くの人たち――レシピエントを後天的に必要としたのは、平均化した100人の共通意識こそがごく少数のマイノリティとして、世間から乖離してしてしまうの危惧してのことだった。ただ純粋な思想を平均的に育んでも、10年という時間の経過が大きな差異になる。

 その選出は、元を正せば上の判断に直結するはずだ。関わり合いの中で変化に耐え外界へ良好な影響を与えてこそ、理想の形成は成り立つ。その過程で外界の異物から免疫を獲得するはずだった箱庭は、しかし、外側への逆干渉については考慮していなかったのだろう。

 レシピエントたちは、いわゆる共感能力に優れた人たちだった。誰もが、いい人だった、と太鼓判を押すような人たちだったのだろう。計器が伝えた数値の上ではそうだった。基準を難なくクリアしてみせた『善人』の皆さん。

 システムが敷設されるよりも前におれたちは『共通意識』の薄い層を形成していたのだろう。うっすらと滅びを希求していた意識層。優良そのものの判定を受けながら、おれや世間の大多数と同じように遠まわしな社会の自殺を望んでいた人たちに、箱庭からもたらされた異常は、おれたちが持ちえた『共通意識』に綺麗に作用した。

 おれたちのグラウンドゼロ。滅びを避けようとするあまり、その根幹から腐り落ちた箱庭。

 サーバの落ちた日。ある少年が、ある少女の目を潰した、あの日。

 蒲公英の綿毛を噴いて飛ばすように。

 舞いあがった火の粉が、世界中で吹き荒れていた。

 隣人への不信感。怒り。憎悪。嫉妬。

 レシピエントから発火したそれらは、不快の情動は、苦しみは、バックドラフトとなった。社会への希死念慮も、計器が保証した善意の判定も、誰かの設定した精神の基準値も。その全てを焼き尽くそうとしていた。


「……それを交渉材料に自らが逃れられるとでも?」

「これが10年越しの計画だったのなら、スミス技官については不問にしていただきたい。彼の建てた骨子にレシピエントは不在だった。10年前の青写真には……こんな光景は、なかったのですから」


 ふと。脳裏によぎったのは、こうなればいいと、希望を何かに希望を託そうとしていた10年前の日々だった。ラボで、ラウンジで、食堂で、互いの自室で。シミュレーションを重ね、議論した。身近なところの人間関係に絶望して疲労の色をにじませても、これから先の人類が生きていくのに何ができるかを考えていたヨハンは本当に、楽しそうだった。

 ああ。本当に。

 なんでこんなことになったのだろう。

 滅びて欲しかったからこそ、おれたちは希望に縋った。


「彼の証明したかったものは――基盤となる、善意の在り処だった」


 善意、と。誰かが返した。大尉ではなく、武装した部隊員の内の誰かだ。

 おれはそれに、首肯する。


「……100人の人間がいれば、100人分のものの考え方があるでしょう。善いと思う物事にも当然差異はあってしかるべきです。どんな人間にも悪い面があるのと同じようにどんな人間にだって良い部分はある。均等に辛いことや苦しいことを分かち合うことができれば、どんな人間にもあるだろう好い面を見ることができる。……そうして苦痛への不理解を排除すれば、善性を明確に共有できるようになれば――わずかながらでも良い社会を築くことがでるのではないか、と。隔てることなく努力義務もなく、他者と共通して分かりあうことができれば災禍を避けることができる、と」


 まるでヨハンが語るようにおれは説明した。あの痩せぎすの上等技術管理官は、なんと言うだろうかと。

 おれの言葉よりもずっと他人に響くと思ったから。


「『溶け落ちることのなかった善性は燃え残る』んですよ、大尉殿。やがて善性がすっかり標準化するころには……そこまで人類が、人類同士を均等に水準を上げていくことができれば、災禍なんてなくなってしまうでしょう」


 ヨハンの願った先の、災禍のない世界。

 不機嫌そうな面をしながら人類など絶えてしまえばいいと言っていた男の願い。

 そう。

 本当は、それが実現するよりも先に人類が自滅するだろうことをヨハン分かっていた。思い描いた社会への遠さゆえに、淘汰を望んですらいた。だが、敬虔なまでに、ヨハンという男は人類を信じていた。人類を愛していた。


「一定層の受け入れられない悪性を、排除しながらか? 結果をみたところヨハン・スミスの箱庭で溶け残ったのは、悪性のようだが。……貴様の言葉で聞かせてもらおう。ギリコ・E・唐科」

「私の、ですか」


 見透かされたような心地に、皮肉に口元が、歪む。


「貴様からは、まるで理想を否定する根拠があるかのように聞こえるが」


 おれたちの青写真は、愛憎でできている。


。私はそう思いますがね。……100通りの考え方が個々人にあるように基本的な思考が均質になったところで、他人の受け入れられない部分があるのはごく自然なことです。人間など元が多様である生き物ですから。蟻の中で働かない蟻を除いても除いても一定数働かないものが新たに現れるのと同じように。だから、人間から悪性がなくなることはない。彼とは反対に性悪説に準拠したものの考え方をするのが私なので」


 おれは理想主義にはなりきれなかった。

 我が意を得たり、とノース大尉が口を開く前に俺は続けた。


「ですが、スミス技官の描いた社会をぶち壊そうとは思えませんでした。むしろ、そんな私だったから彼の信じた社会に協力したかった」


 語り終わった後で、長く息を吐き出した。

 寿命が擦り切れていきそうだった。

 崩れた髪の間からふと鈍い色の空を見上げると、風雪が止み始め、雲間から日が差し始めていた。

 とても静かな世界。

 この間にも何人もの人たちが世界中で殺し合っている。そのことを、忘れそうになる。


「大尉」


 静寂を破った声があった。部下の中からだ。装甲服のヘルメット越しのくぐもった声は怖じることなく続けた。

「発言の許可を」

「シックル・ツー。何だ」

 大尉はおれへ銃口を向けたまま、発言を促した。


「ギリコ・E・唐科の治療および本部への移送を提案します。……彼はここで死ぬべきではないと、小官は愚考します」

 沈黙を落とした大尉へと、部下は朗々と告げる。随分と、腹の決まった声音をしているものだと思った。


「現状を打開するには、対象を生存した状態で連れ帰ることに意味があるかと。我々は人類を存続させるための機関です。……唐科技官、策はあるのですね?」

 問いかけに対し、おれは大尉から視線を外し視線のみで部下を見て首肯する。

 発言をしたのは彼だった。ディックスと言った、あの青年だ。

 周囲の部下たちは、緊張した様子で彼を見ていた。だが、誰も同意も反論もしない。


「唐科技官の処分命令が変わることはない。スミス技官、唐科技官、本案件2名の、死亡を確認するまでは任務は終了しない」

「ならば任務そのものに疑問があります。私たちはこんな時に、何をしているんですか」

「災禍を招いた絶対悪の処刑だ。シックル・ツー」

「一刻も早い治療が彼には必要です。この低温下での失血状態は遠からず死に至ります。山を下り、唐科技官の知恵を借りてでも災禍を止めるべきです。私たちには唐科技官の知恵が必要です。技官への尋問は災禍が収束した後でもよろしいかと」

「……シックル・ツー」

 大尉が冷えた声で彼を呼ぶが、ディックスは構わず続けた。

「唐科技官には明確な手立てがあるのに、大尉はそれを放棄するとおっしゃるのですか」


 彼は僅かな逡巡の後、銃を抜いた。手が震えているのは寒さが原因ではないだろう。

 すかさず、部隊のリーダーらしき例の男はディックスへと銃を向けた。迷いのない行動だ。


「……銃を下ろせ、シックル・ツー。自分が何をしているか分かっているのか。明確な悪を排さねば次の時代に遺恨を残す」

「理解しております。彼が、明確な悪でないことも」

「貴様の判断は不要だ。情に絆されて目的を見失うな」

「正義に悖るのです、大尉。……我々の行いが正義でなければ、これは災禍と同義の一方的な虐殺です。ギリコ・E・唐科の拘束と連行を再度提案いたします」


 自分へ向けられた銃口を一度だけちらと見遣り、それでも自分の銃を大尉へ向けたままディックスは告げた。ディックス以外の大尉の部下たちは、ディックスへ銃口を向ける者、おれに銃口を向けたままのもの、そして、誰を撃つべきか迷っている者にわかれた。


「下山しましょう。大尉。彼を連れて、山を下りましょう。災禍の終結には間に合わないかもしれませんが、彼の技術管理官としての能力は有用であると言えます。『次の時代』に唐科技官は必要な人材です」


 我がことながら茫然とするしかなかった。ディックスがおれを庇う事情はどうあれ、おれを生かそうとしてくれているらしい。


「処罰であれば後でいくらでも受ける所存であります。このラボの生存者は、彼しかいません。唐科技官の処刑を、連行に変えていただけないでしょうか。」


 どうか。

 どうか、今一度考えなおしていただけませんか。

 彼の訴えは痛切でさえあった。ここまで肩入れされるとも思っていなかった。予想外だ。ヘルメットをしていないのは大尉のみのため、ディックスがどんな面持ちで発言しているのかも読めない。

 更には予想外のことに、誰を撃つべきか迷っていた2、3名が大尉へと銃を向けた。


 雲間が割れて差し込んだ陽光が、大尉を射るように照らした。大尉が、ディックスへと呼びかける。

 ディックスの短い応答の後、は、と大尉から息の漏れる音がした。


「我々の回答に変更はない」


 笑ったのだと、思った。

 人間味の抜け落ちた、ぞっとするほど空疎な笑みだった。


 そして、視界の端で火花が散る。

 同時に、破裂した音。

 まばたきの後には、大口径の銃から放たれた弾丸が装甲を貫通し、部下の腹から鮮血が噴き出していた。――ノース大尉へ銃を向けていた部下だ。ディックスではない。


 大尉が撃ったのだと、遅れて気が付いた。

 ……だが、なぜ自分の部下を?


 リーダーらしき男が続けてディックスに銃を発砲した。こちらは装甲にあたって火花が散る。ディックスは、銃を構えたままではあるが撃とうとはしなかった。ディックスはしきりに何かをノース大尉に訴えているらしいが、大尉の発砲で一時的に聴覚が麻痺し、おれの耳には届かない。


 彼らは、特殊な装備で聴覚が麻痺しなかったのだろう。大尉が2、3言何かを言って、蹲る部下の頭部に向けて銃口を引き絞る。怪物のような口径の銃身から放たれた弾丸はヘルメットを貫通し、顔面のシールドの内側にべっとりと血が飛び散った。初撃の弾丸で蒔き散った男の残骸が崖から零れ、雪と山肌を赤く濡らす。


 その光景を目にした部下――ディックスに銃を向けていたリーダーらしき男が、突然、大尉に照準を変えた。錯乱しているのか。発火したように。まるで、情動が発火したように、めちゃくちゃに引き金を絞った。咄嗟におれは身を伏せたが、頬や肩口を銃弾が掠めていく。

 

しかし、なぜ? 彼らはレシピエントだったのか? しかもこのタイミングで?


 大尉は自らに発砲する者へと真っ先に銃口を差し向け、無遠慮に撃ち抜いた。ためらいの欠片もなく。躱し、再装填し、淡々と、淡々と、処理するように大口径の黒い塊から弾丸を吐き出す。


 部下たちはディックスを優先処理する者と大尉を撃ち抜こうとするものとで混戦状態となった。初めの内はディックスの動きを目で追っていたが、目印の少ない装甲服ではもつれ合う中の誰がディックスなのか分からなくなってしまった。部下の中にはショットガンを装備していた者もあって、文字通り、誰がどれなのかなどたちまち分からなくなった。咽るような血と屎尿の臭いがわっと雪原に立ち込める。砕けた装甲も四肢もばらばらと落ちていく。


 身体を起こそうものなら、穴だらけになって死んでしまうだろう。新しい銃創の痛みに耐えながら銃撃が止むのを待った。どさくさに紛れて射殺されかねなかったが、おれのことなどまるで眼中にないようだった。

 運などという呑気な解釈をする気はないが、そう、ただ、まだ死なれては困るだけだったのだろう。――ノース大尉にとって。



 その証拠に、屈みこんでいたおれの襟首を引っ張り上げるようにして立たせたのは、大尉だった。


 大尉は何発かもらったようだが、血だらけで立っていた。

 立っているのは、大尉だけだ。


「――――、――――――」


 大尉が何かを言っているがまだ聴覚が麻痺しているようだ。耳を指したかったが両手を拘束されている。おれは首を振って「聞こえない」と口でかたどった。それを見て取った大尉はおれの首元から手を離した。支えを失っておれは膝からどさりと落ちる。冷え切った脚に鈍く衝撃が伝わった。


 大尉は行動の意図が分からずぽかんとしているおれを再度見おろし、――薄い唇を歪めて笑うと完全におれから視線を外した。そして、あろうことか自分の装備の装甲を外しにかかりだした。目を白黒させているおれなどまるで視界に入っていないようで、どこか虚脱した顔で遠くの山脈を眺めていた。雪の降りやんだ空には西日が混ざり始めていた。折り重なった彼の部下の死体にも赤い日差しが降り注ぐ。ディックスは、……死んだのだろうか。わからない。


 殺されるはずのおれが生きていて、死ぬはずがなかった軍部の人間が死んでいて、おれを殺すはずだったのに部下を殺した大尉はすっかり戦意を失くしたような顔つきをしていた。


 とても、静かだった。


 これだけの死が築かれて、おれの周囲は静謐で。しばらく目を閉じていたくなった。今撃たれる心配もないと直感で判断した。


 だが、その静寂もやがて嘘になる。

 聴力が回復して少しずつ音が返ってきた。

 おお。おお。と風がうなる。怨嗟のように唸る。



 深い煙の臭いに顔を上げると、大尉が煙草をふかしていた。

「吸うか?」

 おれの視線に気が付いたのか、尋ねてくる。

「手が塞がってまして」


 後ろ手に拘束されているので肩をすくめて応じると、大尉は新しい煙草を取り出しておれの唇へと差し出す。口端でフィルターを咥えこんで軽く顎を引くと、大尉がジッポライターで脇から火を灯した。機関の支給品のライターだ。軍部も同じものを使っているのだろうか、とふと思えばいやに見覚えのある傷がついている。


「貴様に返してやる」


 短い電子音が背後で鳴り、拘束が外れた。それと同時に掌に、金属の塊を握りこまされる。手になじんだ感覚。身体の前にもってきて検めると、ジッポライターだった。底を見るとおれの管理番号が刻まれている。……紛失したと思っていたものだ。


「……『押収した証拠品』だったのでは?」

「それは罪を認めるという内容の発言だと受け取るが」

「まさか。冗談ですよ」


 肺まで煙を落とすと、懐かしい味がした。

 例えば、10年前におれが煙草を切らしている時にねだったものと、同じ苦味だった。


「……ギリコ・E・唐科は真剣にならない、とは聞いていたが。ここまでとはな」

「あなたこそ、殺すべき人間を前にして部下を皆殺しにした挙句装備も外して、あまつさえ温情を与えるなど。あなたという人はもっと、その命令系統が何であれ職務に忠実に私を殺すものだと思っていた」


 回答は期待していなかった。だから、おれは続ける。


「私を1人を殺して何の解決になることもない。いえ、むしろ、何の益があるというのですか。……繰り返しの主張になりますが、私とスミス技官は首謀者ではありません。私を拘引してきたとき、大尉はおっしゃった。『私たちの庭は上手く毒麦を育ててくれた』と。大尉ご自身の言葉とは思えない。部下にも聞かせられない事情がある。それは大尉ご自身の意思だったのか……私にはわかりかねますが。殺してまで知らせたくなかったことですか」


 大尉は黙ったまま、煙草をふかしている。

 疑問ではなく確信として、おれはある解答を口にした。



「災禍を起こしたのはあなたですね。ノース大尉」



 大尉は答えない。軽く目を閉じ、煙を吐いている。

 たっぷり一本分吸いきってから、大尉は、一度だけちらりと背後に目を遣った。それこそ、後ろ髪を引かれるように。だがそれも一瞬のことで、こちらへ視線を直す。その瞳には昏い影が落ちていた。

 やがて、大尉が口を開いた。


「『人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った』」


 聖書の一節だとわかった。沈鬱を込めた呟きは滑らかに響いた。


「本来はすべからく善なるものであるはずだった。収穫以前の毒麦の処分はよい麦まで抜いてしまうかもしれない。だから収穫の日まで待って、毒麦のみを集め束にして焼いてしまおう――そういう話でしたっけ」

「『マタイによる福音書』だ」

「ですが、よい麦を収穫する日まで悪い麦でさえも救われる可能性はある――世の終わりでも誰も滅びるべきではない。これはそういう話だと思っていました」

「私もそうだと思っていた」

 大尉は静かに言った。

「誰もが、絶望していた。誰もが本当は自分の苦しみを終わらせてほしかった。抱えきれない苦しみを誰かが背負うか、どこかに置き去りにするかしたかった。22世紀を前にして、国が国民を守ることができなくなり棄民という形で切り捨てを表出して以降、人類は生物であることを諦めるしかなかった。選民思想が公然とまかり通る。選ばれた者のみが庇護を受けなければ生き永らえられないのならば、皆揃って地獄へ向かった方がいい。選ばれなかった者は大人しく死ねと選ばれた側が言い放ち、庇護を受けられなかった者は諦めるしかない。この仕組みの存在ひいては仕組みの存在を認めてきた人類そのものを悪とせずして、この腐敗した根幹を払わずして人類はこれより先に進むべきではない」


 抑揚もなく吐き出された言葉には明確な呪いと怒りが込められていた。


「棄民は正当な生存権もなければ、社会的な地位も権利も剥奪される。温暖化が進行した地域は飢えや寒冷で冬を越すのが困難だった。海面上昇による塩害や居住区域の減少、保護区設立のための立ち退きの強要によって、毎年、多くの同胞が死んでいった。殺されていった。まともな医療も受けられず死ぬ者、はした金のために研究施設に売られる子供。そうして売られた子供はアジテーターとして教育され簡単に命を捨てる。……棄民の出である貴様にも、多少は分かる話だろう? ……いや、貴様は運がいい方だったか」


 大尉はおれに目を遣った。おれのことはプロファイルか何かで調査済みなのだろう。おれは小さく肩をすくめるのにとどめた。


「……養父には感謝していますよ。私を地獄同然の養殖工場から救ってくれた。――によって、工場に売られる前があやふやになっていた私を見捨てず、教育と保護区で生きるための身分証を与えてくれました。無償の愛を私に注いでくれた。それが意識的なものであると私に悟らせない距離で。血が繋がっていないどころか、工場で何かの意識と混ぜ物にされた、言ってしまえば怪物の可能性を持つ私を養父は愛してくれた。善性がヒトにあるとすれば、養父のような人のことをいうのだと……私はそう思います」


 かつての『唐科ギリコ』の家族は、を売った後、どれくらいの間食いつなげたのだろうか。

 今のおれに知る由もないし、興味もなかった。

 養父から話を持ち出された時でさえも、興味がわくこともなかった。興味を持ちたくもなかった。20数年前か、存命だった養父が、かつての家族のもとに帰りたいかと尋ねた時、おれは黙って首を横に振った。

 辛いことを尋ねた、と養父がおれに頭を下げたが、なぜこの人がここまでするのかなど当時のおれには分からなかった。

 『彼』の家族に会うことがあればきっとおれは平常心を保っていられないだろうと想像がついた。坂を火車が転がり落ちるように自分がかつての家族に復讐を遂げることも。躊躇いなくそれを実行できる精神性も。結果は火を見るよりも明らかだ。


 愛を受けたからといって、結果として幸せになったとはいえ、それとこれとは話が別だ。

 きっと、今の自分にも、昔の自分にも戻れなくなる。


「二束三文の金で売られたからか。私という人間が元からそうだったのか。工場での出来事がきっかけだったのか。養父に拾われた私が、それ以前の生活が過酷なものであったことを知ったからか。保護区も棄民も、この社会も。理解しなければ、壊したいとも思わなかった理想郷だ。……私はいつの間にか、人類がこの先も続いていくということに疑問をもっていた」


 仕組みを知ることさえなければ。

 おれはおれが惨めだったということを知らなければ、この社会を憎悪することすらなかった。


「興味を捨てたのはその頃か? 機関に所属する前に関わった研究から一切足を洗ったらしいな。当時の上司と部下の全員に口封じまでして」

「よくお調べで。研究を抜けたのは……業界の噂でのスミス技官に勝てないと思ったからですよ。競い合うのは性に合わないんです。事実、鳴り物入りで機関に入って来たあいつと私とではまるで比べものにならなかった。――前のラボの一件は、そういった事故があったと聞き及んではいますが」

「さて。真相を知るものは貴様しかいないわけだ。だが、そこまで噂を立てられておいて、機関内で半ば村八分にされていた貴様が、自分に白羽の矢が立たないとは思わなかったのか?」

「言わせたい奴には言わせておけばいい、というのが私の信条だっただけです」


 そんなことを。随分昔にもヨハンに言った気がする。


「その結果、誰からも理解されずとも? 正しい姿で認識されずとも? ……私には、『事故』の件も全てが真実であるが故に、自分を信じられるに値しないと貴様が思っているように見えるが……失礼。あまりに図星だったかね? 睨まないでくれたまえ。しかし、自身の評価を放り出したりなどするから付け入られる」

「ええ。猛省していますよ。……それに便乗して、あの理想論者にまで罪を擦り付けようとする者がいることに気付かなかった」


 災禍の首謀者という罪を背負わされたのが俺だけだったら耐えられただろうか。受け入れただろうか。

 ロクに他人に興味を持てなかった自分への罰であると。

 罰を受けなければならないと思うほど、無関心であることを後悔していたのかい? と、ヨハンなら問うだろうか。いや、それは既に問いかけられていたものだったか。


「……話が逸れましたね。それで? まさか、私が絶望したのと類似した絶望があなたにあって、私に大尉のお気持ちが分かるだろうとおっしゃるおつもりですか。理解せよ、と? 私はヨハン――スミス技官とは違って憎みながらも人類を愛することがなかったから。そして大尉もそうであったから滅びを選んだのだと?」

 苦々しく返したおれに、

「概ねそんなところだ。……不服そうだな」

「私は部下を自分の手で射殺しようとは思いませんので」

「貴様が言う台詞ではなかろうに。ああ、いや、だったな、すまない」


 大尉は喉の奥で低く笑った。しかしすぐにその表情も消える。水面に浮かんでは沈みを繰り返しているようだ。


「彼らにとって、アーサー・ノースはただの上官ではなかった。そしてアーサー・ノースにとっても、彼らはただの部下ではなかった。彼らは私の構成要素であり、私は彼らの一部であった」

「……彼らはレシピエントだった、と?」

「私もだよ。ヨハン・スミスの作り上げた『延髄サーバ』とは別のものだ」

 大尉は淡々と告げた。

「私が積まれているのは、ある男が造り上げた意識サーバだ。一部データは脊髄サーバから流用している。故に、私たちは、延髄サーバの稼働時期から貴様たちの側にいた。管理者の1人であった貴様のことも。あの空間においても溶出することがなかったヨハン・スミスの意識の断片も。私たちは知っていた」

 記録を読み上げるような抑揚のなさで大尉は言う。


「あなたが……いや、あなたの所属するサーバが災禍を起こしたのだとすれば、世界中に根を張ったレシピントが発火したことには説明がつく。しかし、」


 おれの疑問よりも先に大尉が、

「10年かけて、君たちに旧体制を滅ぼしてもらうために。私たちはレシピエントを選出した。拷問、買収、使える手段は何でも使った。私たちのサーバと延髄サーバに重複したレシピントの存在もあってか、混線した状態を作り出した。毒麦の株、疑わしきものすべては燃やし尽くさねばならない。次の時代に残すべき、健全な精神、汚染されていない精神を残して。だが、こんな時代に誰が残るというのかね? 枯野に火を放つようなものだ」


 考えを巡らせた。

「いえ、……いえ、おかしいでしょう」おれは否定の後に間髪入れずに続ける。「なぜ、あなたがサーバの構成員ならば、なぜあなたは保全槽にいないのです? 機関における技術は我々の領分だ。あなたがた軍部の方が技術で先んじていることは大きな矛盾だ。スミス技官にしか知り得ない内容もありますが、稼働以降は再現データの保管や管理は私がしていた。もとより実際の人間を使う『箱庭試験』には認可が下りにくい。私は、もう二度とこんな実験が行われたくなかったがために、誰にも触れさせないために『見届ける』という約束を果たすことを決めた。スミス技官や私の管理外で『延髄サーバ』の技術が進む? スミス技官はもう、こちらにはいないのに……」


 言葉の途中で、おれははたと気が付いた。事実に開通した思考を炎が舐めとるように、堪えがたい怒りが沸き起こった。短くなった煙草の存在。偶然だと思っていた。煙草の種類にも限りがある。しかし、意図的に大尉がこれを選んだとしたら? ――ヨハン・スミスの愛用していた煙草と、同じ銘柄を。


 脚の拘束もなく、立ち上がって掴みかかるだけの体力があればそうしていただろう。できないことをわかって大尉が悠然としているのが、尚一層腹立たしい。


 フィルターを唇から離し、拳で握りこんだ。掌に、焼けつく火種の熱を感じる。灰が指の隙間から零れ落ちていく。



「あなたがたは……ヨハン・スミスをそちらのレシピエントにしたのですね」

 


 押し殺した声で、おれは続ける。

「双方のサーバは重複レシピエントで混線していたのだとしたら。……すでに延髄サーバにいた意識のないスミス技官を、組み込むのは容易い。……ですがいくら機関上層部と軍部とラボが組織がらみでやったことでも倫理委員が見過が本人の同意なしの施術を許可することはないはずだ」


「本人の同意はあった」

 大尉が言葉を遮って告げる。二つの目が、試すようにおれを見据えていた。


「貴様も目にしているから問題はないだろうと。はそう言っていた」


 彼女。……彼女?


 ヘムロックではないだろう。おれの知る人物で心当たりがあり、その下準備ができたものといえば、

「……ジェニファー・マッケンジーの推薦状か」


 最後に食堂でヨハンにあった日。おれは自分のラボを出たところで、ジェニファー・マッケンジーに会っている。ジェニファーは言った。『めちゃくちゃにしてやる』と。推薦状を突きつけて。ヨハンが推薦状を本気にするとも思っていなかったおれは、目の前の不愉快な現実を本気にしたくなくて、取り合わなかった。


 10年前の、おれの後悔。


「マッケンジー課員は優秀な技術者を私たちのところへ送り込んでくれた。彼の脳髄。彼の全てを。ジェニファー・マッケンジー検証課員にも個人的な感情があることは知っていた。彼女は彼を殺す気でいた。スミス技官はその思いには気づいていただろうよ。だが彼は全てを了承し我々のもとへやって来た。――スミス技官の計画はあつらえたように都合がよかった。貴様が希望を願って彼の計画に乗ったように、……アーサー・ノースは絶望を願って彼の計画に紛れ込むことにした」


 大尉は醒めた目で、語った。

 情動が発火した狂気の沙汰だと思えた方がまだいいのだが、まるっきり平静に大尉は続けた。


「貴様と同じように、ノースは棄民の出だった。彼は、遺棄区画の死体置き場に流れ着いた保護市民のIDを奪って『アーサー・ノース』となった者だ。延髄サーバの稼働前、当時少尉の階級であった彼はただの人間だった。彼は我々が使用可能な個体の内、群を抜いてサーバ適正が高かった。そしてとりわけ、世を憎むものであった」


「……それで上層部の方々はとりこむはずの男に、逆にとりこまれ災禍を起こしたと? 機関は、……災禍を防ぐために存在したのではないのですか」


「否定する。私たちは災禍を適切なタイミングで引き起こすためにある――どんな兵器にも安全装置が存在するように。私たちはその役割を担っていただけだ。彼の理念、第二の災禍による悪意の抹消は『次の時代』に適切なものであると我々は判断した。そういった意味では災禍の首謀者は彼であるといえるだろう」


 まるで他人事のようだった。

 アーサー・ノース本人も、彼らにとっても。どちらもが他人のように振舞っている。


「あなたがたは安全なところからアーサー・ノースを介して地上が火に焼かれるのをただ眺めているつもりだったのですか」

 さあ、とそれは笑った。西日を受けた瞳が酷薄に輝いた。吐き出す息は白く煙る。

 大尉はまぎれもなく、生きている個体生きている人間だ。だが、そこに彼の意識はあるのだろうか。


「彼と我々はわけ隔てのないものだ。我々の意識も、彼の意識も。私たち自身は私たちがどれほどの人数で何者によって構成されているのかを知らない。生存する私たちのレシピエントの意識系統を模し、並行し、一塊の存在として思考する。そうだな、貴様以外の人間が全て地上から消え去れば私たちは息絶えたと証明できるだろう。共通意識の塊とは、そういうものだ。唐科技官。私たちはアーサー・ノースが願い、スミス技官が創りあげた意識体のようなものだと思ってくれたまえ」


 本体のない意識の塊。概念だけで世を統べようとする。まるでそれは――。……そこから先を考えることは憚られた。こんなものが『それ』だと認めるわけにはいかない。おれに信仰はないが、目の前のこの不遜を『それ』であると認識するようなことがあってはならないと判断する理性はまだ残っている。


 大尉はまだ火の残った煙草を落とした。

「私たちの内の何人かは、この先、確実に命を落とすだろう。しかし、何人かは確実に生き残る。延髄サーバの脆弱性は克服しており、先ほどやってみせたように新設サーバでは私たちの指令なしに情動が発火することはない。私たちは生存する。その後、我々の社会を創りあげよう。災禍を生き残った民衆がいれば、我々は善なるものとしてそれを歓迎しよう」

「それは、アーサー・ノースの忌み嫌った選民思想じゃないのか。……アーサー・ノースがあなた方の提案を受け入れるとは考えにくい」


 おれの反論に、大尉はゆっくりと首を振った。


「その考慮は不要だ。『私』は生き残れない。これより先の時代には適合できない。だから、アーサー・ノースはここで死ぬことになっている」

 それはおもむろにおれの前に屈みこんだ。ぐい、と力の入らないおれの手を引く。包み込むように、手で手を覆い被せるように、それが携えていた何かを手掌に押し付けられた。


「たしか、問うたな。自分やヨハン・スミスを殺したところで何が変わるのかと。答えよう。


 押し付けられたのはハンドガンだった。大尉が部下を撃った大口径の銃とは別のものだ。おれにも扱える大きさで、ずしりとした重みがある。安全装置は外れ撃鉄が起こされていた。……銃口を、大尉に向けた状態になっている。


「災禍を起こし、貴様と貴様の敬愛した友にその罪を擦り付けた男だ。殺していくといい、ギリコ・E・唐科」


 ハンドガンを握りこませた大尉の手指が、おれの指先へと伸びた。かじかんだ指を丁寧に、丁寧に、一本ずつ銃把に添えられる。握りつぶした吸殻が、もっと細かい灰になってざらざらとまとわりついた。人差し指は未だトリガーから外れているが。ノース大尉はおれの手を握り込んだまま自分の喉笛へと照準を合わせた。

 装甲服を脱いだのは、おれでも殺せるようにするため。

 そう。準備は整っている。

 いつでも撃てる。


 いつでも、殺せる。


「な、にを。言っているのです」

 おれは露骨に狼狽えて声が震えた。振り払おうとすると、大尉はおれの指をトリガーに掛けようとして、反射的に身動きが取れなくなってしまう。


「その身体で貴様が山を下りるのは不可能だ。私はここで死ねと言われた身。貴様は私に殺意がある。極めて合理的だ。……さあ、好きな時に撃つといい。貴様が先に死ぬかな。私が死ぬのが先かな」

「殺意など……」

 ない、と言いかけて、首を振った。それは嘘だ。自分でもわかる。

 子供がぐずるようにして、哀れっぽく拒むおれに、大尉は冷えた声を降らせる。


「貴様の存在は私たちにとって都合がよかった。貴様やアーサー・ノースが自身の理念に沿う形でヨハン・スミスを見出したように。この災禍の熾り火として貴様とヨハン・スミスは丁度良かった。そしてそれを、誰もがそうであると信じた」

 信じるに足る虚構だった。と。大尉は言った。

「信じた? 上層部がですか。あなた方が創りあげた虚実をあなたがたが信じようと? 初めにあなたはおっしゃった。マッチポンプだ。私は私が無実であることを知っている。あの男が誰にそそのかされようと人類を売るような男ではないと、知っている。仕組んだのはあなた方だ。それ以外で『ギリコ・E・唐科とヨハン・スミスが奸賊かんぞくだ』と信じるような人物など……いるわけが」


 言葉を吐きながら、おれは大尉の顔を見られなくなった。この期に及んで、信じたくはなかった。


 災禍が起こってから、何日経っている? 10日だ。


 誰もが突拍子のない暴力の原因を求めただろう。不条理な暴力を前に、誰も彼もが怒りの捌け口を求めただろう。その要求に対して、上層部並びに有力者をレシピエントとして有する上層部のサーバが世界に向けて何を発信したのかも。


「貴様が誰を信じようとも、民衆は貴様たちを信じなかっただろうよ」

 謳うように、それは語る。

「我々は語り続けよう。『災禍の首謀者はヨハン・スミスであった』と。『災禍の担い手はギリコ・E・唐科であった』と!……貴様がいくら主張しても覆ることはない。貴様たちは使嗾しそうを行った『絶対悪』として社会に刻み込まれた。『ヨハン・スミスは毒麦を蒔いたもの』ということ――彼が如何ほどに人類を愛していようと滅びを望んだこと、貴様が真に滅びを希求していることは不変の事実なのだから」


 ……彼らの筋書き通りだったのだろう。何もかも、御膳立て通りということか。あいつの思いも。おれの願いも。ジェニファー・マッケンジーの悪意すらも。スーザン・ヘムロックの後悔も。


 目の前が真っ暗になったような心地で、唇を震わせた声は絞り出したように震えていた。


「……あなたは。ヨハンの描いた理想郷に、泥を塗った」

「貴様とヨハン・スミスの青写真に」


 自分を入れ給えよ、とそれは笑う。


「誰も死ななくてよかったことだった」

「だろうな。死人は10億は下らんだろうよ。そして、まだ増えるだろうとも」

「……災禍が起こったことも、機関の制圧も、あなたが部下を殺害したことも。……ヨハンが死んだことも」

「私たちにとっては全てが茶番だ」

「ッ、ふざけんな!」


 銃把を握る手に力がこもる。込めることができた力は微々たるものだった。1人でまともに引き金を絞れるかどうかも定かではない。怒りでどうにかなりそうなのに、悲しいまでに、我を忘れて発砲することも、この存在を殴り飛ばすこともできない。おれの情動は発火しない。


 引き金を引けないでいるおれを、大尉は顎を引いて観察していた。どうすればおれが引き金を引けるのかを計算して言葉を選んでいる様が、怒りを煽る一方でおれの冷静さを保たせている。

 そこへ一石を投じるべく、大尉が畳みかけた。


「これは、ヨハン・スミスの望んだ殺人でもある」

「あんたをブッ殺すことがか?」


 唸るように言うのが精いっぱいだ。まだ頭の半分以上は冷静でいられる自分が、憎い。


「ああ。アーサー・ノースは、彼に会ったことがある」


 よく覚えているとも、と彼は感慨深そうに告げた。

「語った通り、アーサー・ノースはヨハン・スミスに目をつけてはいた。……私にも聡明ではあれど、賢明ではない男だと一目でわかったよ。あれは放っておけばいつか自滅するタイプの人間だと。それも、周りを巻き込んで自滅する厄介な人間だ」

「……わかるものなんですね」

「似たような虚無を抱えている人間には中身が完全に見えずとも巣食っている何かがあることがわかるものだ。そして、その部分を理解してしまったが故に、彼に『真剣にさせたい人間がいる』と言わしめたギリコ・E・唐科という人物がいかほどのものなのか、私は興味を持った」

 おれは返答に詰まった。大尉の言もだが、ヨハンがおれを真剣にさせたい、なんて。言うのか。……いや、忠告ならあった。真剣にならないのは悪い癖だ、と。だが、それは、おれ自身の言葉のはずだ。そのはずだ。

 動揺を隠そうとするおれに大尉は言葉を重ねた。

「彼はこうも言っていた。『災禍が起こってしまって、もしも自分がサーバの外で生き残っているなら滅びを選択する。唐科技官はそれに従うだろう。だが、自分がそこに居なければ――自分さえ、いなければ、唐科技官だけであれば必ず再生のチャンスは訪れる。ヨハン・P・スミスが延髄サーバで息絶えれば、ギリコ・E・唐科は滅びを放棄する。きっと彼ならば、彼の手で復讐を遂げるだろう』と」


 息が止まってしまいそうになる。


 何だ、その予想。自分さえいなければ? 再生のチャンス? サーバ内で死ねばおれが滅びを、諦める?


 おれの復讐、って、なんだ。何もしなかったおれ自身にか? 身勝手な上層部か? 軍部か? ヨハンやおれに目をつけたアーサー・ノースか? 災禍なんかを望んだ今の社会か? その、全部?


 ぐるぐると回る思考を加速させるように、大尉は続けて口を開いた。


「貴様を本気にさせる、ただそれだけのために。ヨハン・スミスは意識提供者の推薦を受けた。私はその純粋な献身を利用した」


 怒りは留まるところを知らなかった。染み入る寒さも忘れ、怒りでカタカタとなる歯も、手の中で震えてなる銃も、耳元で五月蠅い鼓動の音でさえも。撃て、撃てと急き立てている。


「さあ、殺すといい」


 同時に、撃ってはならない、という思いが沸いた。ヨハンの発言。――この発言が嘘ならばわざわざ大尉が不利になることをおれに伝える必要はない。おそらくは、真実だ。……ヨハンと稼働前に面識があったであろうノース大尉がいつか使者としてやって来ることを悟ったとしても確定的ではない。だから、それを射殺することがヨハンの言う『おれの復讐』ではない。


 ……殺してはいけない。


 自分で考えても分かる。もしも、仮に、ヨハンが生きていてこの場にいるのなら、あいつは滅びを選んだだろう。つまりは、これ以上の介入を放棄する。サーバの外側からできることに限りがあるからだ。ヘムロックとのつながりもなかっただろう。外部との協力もない。ヨハンが諦めた社会を延命させる必要性を感じないおれは、あいつが諦めると言えば、黙ったままではないにせよここで殺されることを選ぶ。最終的に、そうできている。おれはそういうやつだし、ヨハンはそういうやつだ。


 外側からの介入ができないのを悟っていたからこそ、ジェニファー・マッケンジーの誘いに乗ったのだろう。


 きっとヨハンは、どうしようもなく、社会を諦められなかった。どうあれ人間を愛していた。誰に憎まれようとも、謗られようとも、人類を愛することができてしまった。


 結果、自分が死んでも。


 こんなクソのような現状を諦めないと決めてヨハンはサーバに行ったのだろう。最後に見せた、いやに満ち足りた笑顔を思い出す。勝手に一人で決めて去って行った。もちろん、知っていたら何が何でも止めた。だから、稼働の瞬間まで、おれには知らされなかった。権限の多くを失っても、蚊帳の外から必死に手を伸ばしつづけた10年だった。自分が諦めない限りおれが諦めないとは、傲慢もいいところだ。だが、ヨハンらしいと分かってしまう自分も腹立たしい。それに気づけなかった自分が、情けない。


 全世界から後ろ指を指されるようなことになってるぞ、おまえも。おれも。

 大尉から現実を知らされ傷つきはしても、仕方ないね、と苦く笑う顔すら想像できてしまう。


 世界の誰からも憎まれ続けるなど、理解されることを期待するのは苦しい、と言っていたヨハンの苦痛そのものは永遠に終わらない。……考えれば考えるほど、ずるい。おれがヨハンの思惑を理解するだろうと期待して、託して去っていったことを心底憎らしいと思う。おれが裏切れないことも。裏切らないことも。あいつは全部分かっていて、一人でいなくなってしまった。


 どうすればいいのかなんてわかっていただろう。――きっとあいつなら、そう言う。今のおれを見たら得意げに言う。


 信じられたくなかった。けど、信じられてしまった。自分を理解して答えに辿り着いてくれる、と。理解することへの期待が苦しくて仕方のなかったあの男に、信じられてしまった。


 もしかすると、何もかもがおれの独善かもしれない。誤認なのかもしれない。本当はなにも理解していないのかも。


 だが、おれは誰よりも、ヨハン・スミスを理解したかった。



 ヨハンはおれを理解しようとしてくれた。

 ――だったら、おれが応えない理由なんてない。




「私は、あなたを殺せない」




「……やはりあなたは間違っている。夢の中で知人の目を潰したことで気に病むような男に、どうしようもない理想主義者に――他人による殺人を望むようなことが、できるものか」


 銃を持つ手はこのまま永遠に冷えて固まりそうだった。大尉は咎めるようにおれの手をきつく握った。その感覚も、徐々に鈍くなりつつある。鈍い痛みを堪え、

「大尉、私はあなたを憎悪している。彼を貶めた上層部を、憎悪している。認めましょう。ええ。あなたの手ではなく私の手で引き金を引いてしまいたい。私は私の悪意を肯定する」


 目を閉じ、銃把を握りしめ、それから、それから。

 指に込めた力を、ゆるめた。



「ですが……私にあなたは殺せない。自分の苦痛を終わらせるという綺麗事ではあなたを殺せない」



 大尉の指が一度強直し、それから、骨が砕けそうなほどにおれの指を握り込んだ。怒りと嫌悪と落胆をぐちゃぐちゃに混ぜたような表情で、大尉は吐き捨てた。

「それこそが綺麗事だ。自分の手を汚すことを厭う理由に過ぎない」

「私は手を汚すことを厭ってあなたを撃たないんじゃない。もう私の手は汚れている。私はこの数日の間に自分が生きるために情動が発火した職員を殺している。それに、問題はそこじゃない。あなたを撃っても何も変わらないのなら、私があなたを撃つことに意味はない。あなたがここで自死しようと……たとえあなたがどれほど憎かろうと、ここであなたを撃ってしまっては私の苦痛も、あなたの苦痛も終わらない」


 半分は自分への言い聞かせだった。

 聞き分けろ、唐科ギリコ。

 まだ、撃ちたがっている自分は確かにいる。それが、なくならないものだと、自分の中にあるものだとおれは認識している。


「結局自分の苦しみは、自分のものでしかない。誰もが理解できる社会に失敗したこの現実が、なによりの証明です。こんな一つのことを分かるために、私たちは随分と遠回りした。沢山の人を巻き込んだ。それは、事実であり、おれの罪だ。共通理解は前提にならなかった。誰もが理解し合える社会を作りたかった私たちは、その善意こそが私と彼の独善だったと気づけなかった」


 ヨハンの言葉を敬虔に信じていた。あいつの眩しさにのっかろうとしただけだ。

 いつだって眩しかった。理解の及ばない眩しさの裏に、張り付いた憎悪が、苦痛がたまたま似通っていただけだ。あいつは、苦痛が剥き出しになったおれにシンパシーを感じていただけだ。きっと、それだけのことだったのだ。


 だがそれに名前を付けるとすれば。

 思いを巡らせると、笑いが漏れた。


「……本来の人間に共通理解などない・不可能だ、と考えていた者同士が、何となく互いの苦痛を理解してしまった、と思い込んだ。いえ、……私はスミス技官を理解したと誤解していた。ただ、私とスミス技官は理解したいともがいただけだった。私は彼を理解しようとし、彼は私を理解しようとしてくれた。彼が私を理解しようとしてくれていた。無関心でいられなくなった。――一生かかったって見つからないと思ったんですよ。自分の脳味噌の中身にある澱をなんのデバイスもなしに賭け値もなく共感していい・共感できると思える相手なんて。おれにとっては……ヨハン・スミスは命を懸けてもいいと思える友だった。そしてどうやら、ヨハンはおれのために命を懸けてもいいと思ってくれていたらしい」


 気恥ずかしさよりもずっと、誇らしく思えた。

「おれたちはとうの昔に満足していた」


 は、と大尉は笑った。その一音でタガが外れたのか、大尉は呵々大笑した。血に汚れた西日に、死んだ大尉の部下たちに、死にかけのおれに、大尉の笑い声が響いた。あるいは。あまねく世界を見てきた意識の、哄笑だった。

「ふざけるなよ」

 上擦り、引きつった声で大尉は言う。

「……ええ」

「ここまで世界に犠牲を強いた私たちに説くようなことか?」

「筋違いでしょうね。だが、あなたがたのいう『茶番』にはお似合いなのでは? いくら他人が陳腐と言おうが、彼と築いたものは何よりも代えがたいものだった」

「私たちにこのまま苦しめと? 理想郷など、ないと?」

 喉笛に喰らいつかんばかりの怒気を隠すことなく、しかし恐ろしいまで冷淡に大尉は言葉を吐いた。苦痛に悶えながら、毒をまき散らさんばかりに。


「……いいえ。いいえ、大尉。それは違います」

 上層部が災禍によってやり直した後の時代には災禍のない社会を想定しているということだ。理解すれば壊さずにはいられなかったおれには、成程、お似合いの役割だろう。


「災禍がレシピエントを介した基底意識の流布によって起こったのならば、逆のことをすればいい。あなたや上層部の意思とは反対に。世界中に敷かれた『災禍を望む』という意識層を、『災禍を望まない』層に入れ替える。誰も、滅びなんて求めない。災禍を起こすためにあったあなた方は、その役目を終えるでしょう。……あなた方を殺せるとすれば、その時だ」


「それが貴様の復讐か。私たちが選んだレシピエントを、私たちの箱庭を、滅びに足り得る悪意たる意識層を残らず焼却することこそが、復讐だと?」大尉は深く唇を噛んだ。「貴様は耐えられるのか。社会を憎んだ自分の意識のままに、滅びを慢性的に望むほど疲弊していた人の営みを肯定するのか」


「否定も肯定もしない。これで社会がよくなるだなんて、おれはかけらも思っていない。なぜなら、これを担うおれから悪性が消えることはないからだ。『災禍に足る、滅びを望む意思』を破壊する。ただ、それだけだ。ここから先の世界に災禍の存在が不要になっただけで、おれは人間の悪性を消すわけじゃない。災禍のない世界をどうするのかはあなたがたでもなく、おれ一人でもなく、もっと多くの人間社会が決めるべきことだ」


「貴様のやることが成功しようと失敗しようと、2度目の災禍が起こったという事実は消されない。私たちのすることは変わらない。……上層部は撤回などしないだろう。スミス技官と唐科、貴様たちこそが、悪であると語り続けるだろう」


 意思系統の方針は変わらないらしい。自分たちが滅びを望んでおいて身勝手なことだ。

 だが、それがいつまで続くだろうか。そう考えるとつい口元が弛む。


「……何かおかしなことでも?」

 対照的に大尉は露骨に眉をひそめる。


「おれがこれからしようとすることは、『災禍による滅びを望む』という思想を殺すことだ。密集したあなたがたの根幹を殺す行為だ。おれには災禍による滅びを望む理由がある。過去にも、現在にも。だが、災禍による滅びを望まなくなった社会からは、ヨハン・スミスが滅びを望んでいたという確証はなくなるだろう。ヨハンが災禍を企てたとされるような理由すら、消し去るだろう」


 ノース大尉は、おれの意図していることに気付いたらしい。

 渋面を浮かべた後、信じがたい怪物でも見たかのように、

「狂っているな」と、低く唸った。


 なんとでも言え。おれは笑みを深める。覚悟は決まっていた。だから、やっと笑うことができたんだ。大尉が渋面になればなるほど、可笑しくてたまらない。


「ヨハン・P・スミスは災禍のない世界を願った。人類が滅びない未来を望んだ。――おれは、最期まで見届けなければならない。どんな結末になろうとも結果を世に伝えろとあいつは言った。だが、真に人の世の未来を願った男が、首謀者と呼ばれるような結末にさせるものか」


 ここまでさせるつもりじゃなかった、なんて言っても、もう遅いからな。

 ああ。これなら。アーサー・ノースを殺すことよりもずっと、胸がすく。


「『ヨハン・スミスは毒麦を蒔いたものだ』などと、誰にも言わせはしない」


 憎まれるのは、おれ一人でいい。


 

 受けた言葉を噛んで含めるように、大尉は歯列を食いしばっておれを睨んでいた。理解しがたいものを前に、怒りを溜めているようだった。現時点でどこのサーバに属していないおれを止めるには、ここで殺すことが最善策だろう。予定ではそうだったはずだ。そのために部隊は組まれた。


 世間を混沌に陥れた張本人はここで死に、臨界点まで自滅し合うことで災禍は終結に向かい、上層部の望んだ悪意の死滅した社会が始まる――これは、そんなシナリオだったはずだ。


「あなたがたの想定よりも社会は悪意で満ちてはいなかった。多くの犠牲は出たがレシピエントの情動発火だけでは足りなかった。更なる火力が必要だった。レシピントでない人口層は確実に存在する。おれをすぐに殺さなかったのは、おれの発言を引き出し非レシピエント側を炊きつける必要があった。棄民も保護市民も関わりなく、社会に絶望していた人間に十分に殺し合ってもらうために。ラボから脱出した生存者を殺害したのは、ギリコ・E・唐科によって助けられた職員が万が一生き残ってしまうと、流布する虚言に揺らぎが生まれるから」


 ……何もしなければ、救助しようとしなければ、助かった命だってあったのだろうか。

 いや、それこそ、あの時は何もせずにはいられなかった。必死だった。


「おれが死なせたようなものかもしれない。けれど、彼らを殺したのは、大尉、あなたたちだ。ラボを離れるときには関係者を虐殺するという根も葉もない噂か、敬愛した友人を奪った機関への報復にでも仕立て上げる算段だったのでしょう。……ジェニファー・マッケンジーあたりが考えそうなことだ」

「……ご名答」

「おれがジェニファーだったらそうする」おれは吐き捨てた。


 結局、おれも彼女に振り回されてしまった。彼女は、ヨハンに恨みがあった。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは言ったものでヨハンと仲良くやっていたおれもそろって嫌われていたことくらいは自覚がある。彼女はおれとヨハンを全世界に対して告発することには成功したということになる。


「彼女はここのサーバが落ちた時点で死んで、意識の欠片も残ってはいない」

「聞きたくなかった真実ですね。安心した、とでも言えばよろしかったのですか?」

「殺せるものなら貴様の手で始末をつけたかったかね?」

「……それこそ愚問ですよ。だが、ここにいるのがあなたではなく彼女だとしても同じ結論を下します。――おれには殺せない」

「貴様は、つくづく矛盾している。自分に悪意があると克明に認めている貴様が、友愛だけで人間の善性を証明しようと思い至るとは。……悪い冗談としか思えん」


 大尉はうなだれた。おれの手を掴んだ指からも、力が失われていく。


「やはり、私を殺していこうとは思えないのか」


 おれはゆっくりと大尉の手を振りほどいた。自由になった銃が手を離れ、雪面に落ちる。それを見遣って、大尉が浅く息を吐いたのを聞いた。目に見えて落胆していた。

 おれの決意に変わりはなかった。


「……おれはあなたに生きろとも死ねとも言わない。アーサー・ノースがおれを理解できないように、おれはあなたを理解しない。根底にある苦痛が、憎悪が、いくら似通っていても、自分の苦痛にケリをつけられるのは、自分だけです」


 これ以上、言葉は必要ないだろう。


 大尉は銃を拾い上げることもなく、鋭くおれを睨んでいた。アーサー・ノースですらなかった彼は、アーサー・ノースになった彼は、そして、アーサー・ノースから一塊の意識になった彼は。どこへ漂着するのだろうか。

 きっとその存在は世界の誰よりも満たされていて、誰よりも孤独なのだと思った。



 ややあって、大尉が尋ねた。これからどうするつもりだ、と。険もなく、なんとなしに口に出したようだった。


「……とりあえず生きます。ここで死ぬだろうと言う予感はあってもここでは死ねないという覚悟でいましたから。満身創痍で何の備えもなくこの雪山を下りるのはそれこそ死にに行くようなものですし……ラボに戻って、回復を待ってあなた方の車を奪って山を下ります」


 おれの言葉に対して大尉は鼻を鳴らした。そこから、威圧的な雰囲気はいくらか削がれている。


「私の前で堂々と言うことか? 車を、奪う? 回復までの物資は? 電力は? 断たれたネットワークはどうする? 貴様がこれからサーバになるにせよ一人では不可能だ。――連絡をとりたいんじゃないのか? バックアップの送信先は、スーザン・ヘムロックだろう?」


 何らかの妨害をされるのかと身構えてしまうが、大尉は苦笑して否定した。


「『私』の負けだ。邪魔はしない。私の言えた義理ではないが、貴様が死ねない・私を殺せないというのなら、生きのびて成し遂げるといい」

「……言われなくても」

「そう噛みつくな。……物資は好きに使え。『私』は山を下りるつもりはない。その気持ちに変わりはない。シックル・ツー――ディックスのように貴様とスミス技官の友情に絆されたつもりもない」


 そうだ。ディックスのことを、忘れていた。

 見計らったかのように、大尉は、背後に向かって声を張り上げた。

「そろそろ死んだふりはいいぞ、ディックス少尉」


 呼応するように、死体の山がごそりと盛り上がった。その中から、銃を携えた一人の武装兵が立ち上がる。


「……大尉」

 ばつの悪そうに言う声は、たしかに聞き覚えがある。装甲服は血で汚れているものの、姿勢や呼吸から目立った大きな外傷がありそうにはないことに安堵する。


「ギリコ・E・唐科が私を災禍の首謀者と指摘してから、機会を窺っていたんだろう」


 こちらへ来い、と。促す。ディックスは躊躇った後、銃を下ろして、さくりさくりと雪を踏んでこちらへ来た。ヘルメットに覆われた顔ではわからないが足取りで緊張がこちらへも伝わってくる。

 ディックスは大尉に侍ると、装甲服のヘルメットを外した。幼さの残る、澄んだ緑の瞳をした若い青年だった。


「罰を受けると言ったな、少尉」

 はい、とディックスが応じる。真摯な返答だった。

 大尉は、一度、深く息を落としておれへと向き直った。


「ディックス少尉は、稼働時から機関に潜入させておいたこちら側の人間だ。だが、私たちのレシピエントではない。偽装のために貴様のライターをくすねたのも、機関内サーバの情動発火を外へ拡散したのも、外からの通信を断ったのも、ログを偽装し直接的に貴様への罪をかぶせたのは、全て私の命令によりこの男が行った工作だ。この通り、使える人材であることは保証しよう」

「……ええ。そして、この場においてただ一人おれを庇ってくれた」

「貴様が首謀者ではないと知るからこそできた行為だ」


 ディックスは気まずそうにしている。深々とおれに頭を下げた。

「命令に従ったのはわたしの意思です。ですから大尉、先程の処罰は……あの世へ供回りをしろ、と?」

「いや。反逆した貴様を連れて回るほど私は寛容ではない」

 ぴしゃりとはねつけた大尉にディックスは委縮する。どうやら肝は据わっていてもあまり気の強い方ではないらしい。彼が声をあげたのは随分と勇気が要っただろうな、と思う。


 しょっぱい面をした彼をみて、大尉はにやりと唇を歪めた。

「一度反逆したのなら最後まで貫いたらどうだ、ディックス」

「それは……」ディックスも大尉の意図していることが何なのか、理解しているようだった。言い淀むディックスの答えを、大尉は最後まで言わせなかった。

 大尉の瞳に陰はなく、最上級の肯定が、そこにはあった。

「ロディア・ディックス少尉。貴様を隊から追放する」


 朗々とした響きに空気が震えた。ディックスの背筋が、ピンと伸びる。


「貴様は知ってしまった。私が、我々が何であるかを知ってしまった。重大な服務規程違反だ。隊には置いておけない。どこへなりと行け。行ってしまえ。貴様の信じた行為をしろ。貴様が信じると決めた者を、信じろ」


 いいな、と。大尉は念を押した。ディックスの瞳が、朱を照り返す。潤み、揺らぎ、嗚咽を漏らしかけ、ぎゅっと唇を結んだ。


「感謝します、大尉」

 ディックスは再度頭を下げる一方で、大尉は迷惑そうに深々と眉間にしわを刻む。

「感謝などするな。貴様の同僚を殺したのは、私だ。恨め。今日この日まで、貴様に真実を語ることができなかった私を恨め。貴様の同僚の在り方を歪めた、私たちを憎め」

「あなたは正しくはなかった。上層部も。この社会も、わたしたちは間違えている。糺すべきだと思っています。ですが、わたしは守られた側です。ノース大尉、あなたの意図が何であっても、あなたご自身が私を守ってくださった」


 まっすぐな声で、ディックスは言った。

 大尉は慈しむように、眉尻を下げる。己にはない得難いものに手を伸べようとして触れられないことを悟った、そんな顔だ。思いを馳せるように大尉は呟いた。

「結局、貴様は一人も撃てなかったな。だが不思議と、お前が誰も撃たなくてよかった、と。……どうやら私はそう思っているらしい」


 お互い特殊部隊失格だ、と言って、大尉は、装甲服のインナースーツからデバイスを取り出す。おれたちの眼前でいくつか操作を行う。上層部への報告か、除隊のための手続きか。ただ、今以上に事態が悪くなることはないだろう。という直感が働いた。


 視線に気が付いたのか、大尉が不意に顔を上げる。操作も終わったようで、最後におれの下肢を制御していた拘束を解いてみせた。

「まだ何か言うことでも?」

 さっさと行け、と言わんばかりの目に、先程までの温度はない。


「何て言えば、いいんだろうな。ノース大尉、あなたを憎む気持ちに変わりはないが、その」

 言葉に詰まったおれに、あくまで厳しい口調で大尉は言った。

「忘れるな。これから貴様の助けになる男は、貴様を陥れた男だ。私は貴様とヨハン・P・スミスを陥れた男だ。……それをゆめ忘れるな」


 ただ、精一杯憎まれようとしているようにしか見えなかった。行った事柄そのものは許しがたいが、それだけがこの男のすべてではないということを、まざまざと見せられてしまった。


「……大尉は人が悪い」

「これから災禍の憎悪を一身に背負おうとする貴様に言われたくはない」


 大尉は渋面に戻り、インナースーツに取り付けられた束帯へと手を延ばす。

「……持って行け」


 大尉が取り出したのは煙草のソフトパックだった。見覚えのある、白地に赤い円が中央に描かれ幸運を冠したパッケージ。

「ゴールドラッシュ時代の験担ぎ、らしいな。これを吸っていた男がそう言っていた。……これが、天国に最も近いとも言っていたが」


 受け取って、指にナイロンとは別の感覚が引っかかる。……小さく折りたたまれた紙が見て取れた。それについて尋ねようとすると、大尉は首を小さく振った。今は訊くな、ということらしい。


「あなたは、どうするのです。アーサー・ノース大尉」


 代わりに、これから先のない男におれは残酷なことを尋ねた。我ながら、考え直してほしいわけでもないのに無責任なことを訊くのだと辟易する。

 にべもない返事がかえってくるのだろう、と思っていた。


 つい、と大尉の目線が落ちる。まばたき程の間の後、大尉と目線がかち合う。


 その顔に、おれは背筋が凍った。

、唐科技官」

 恐ろしい程に穏やかな笑みだった。


 底の見えない真っ暗な瞳。打って変わって表層を薄い膜で覆ったような違和感のある態度に戸惑い、おれのほうが先に目を合わせていられなくなって、目を逸らす。

 おれは何かに気が付きたくないでいる。


 当惑するおれに、大尉は酷薄さをにじませた後、穏やかな調子に立ち戻る。


「私の苦しみは、私が連れて行かなければならないからな。それにここは――空に近くていい」


 先ほど大尉は足元を見たのではなく、その下に広がる空間を見遣ったのだと、そう思った。例えば、延髄サーバであり、その箱庭の根幹となった、保全室を。


 だから、空を。鎖された場所ではなく、災禍が裾野に広がる人の世の空を見上げている。


「私は天国には行けそうにないが」


 ぽつりと彼は言って――おれははっとなって息を呑んだ。

 なぜ、この煙草の銘柄の逸話を知っている? ヘムロックにも語ったことはあったが、それは、おれがあいつに最初に話して聞かせたことだ。

 『天国に最も近い』という信憑性もなかったそれを、おれが幸運と呼んだのを、あいつはいたく気に入っていた。


「おまえ、まさか、まだ――」


「さあ、行け。唐科技官。行った先で、見届けるといい」

 最後まで言わせてはくれなかった。彼の言った最後のそれは、祈るように切実だった。


 彼が願った終わりとは、人の世だったのか、災禍だったのか、溶け落ちることのなかった彼の苦痛だったのか。

 だとしたらおれは、なんて残酷なことを彼に言ったのだろう。


「おれはまだそっちに行けないのにか」

 思わず口を衝いて出た言葉だった。


 彼は苦しそうに笑って、それから、来なくていい、と言った。


「私なりの責任の取り方のつもりだ。こうなった僕が言えた義理じゃあないが――死ぬな。あんたの苦しみが終わる、その時まで、生きてくれ」

 

 おれがしっかりと頷いたのを認めると、彼は満足そうに頷き返した。これ以上訊くべきではない。決意が揺らいではいけない。おれも、彼も。


 眼鏡を拾って掛け直す。唇を引き結んで、立ち上がった。自由になって温度が戻りつつある脚が鈍く疼いた。ふらつくが、まだ、立てる。その肩をディックスが支えてくれた。地面の雪を踏みしめる。ここに立っている。


 一歩、脚を出してゆっくりと歩き始めた。軋んだ音を立てて、降り止んだ雪面に足跡を残して歩く。



 ほどなくして背後で一つ分、銃声がした。



 ディックスが足を止める。彼は振り返ろうとして、硬く目を閉じた。叫びだしそうに口がわなないて、食いしばる。じっと痛みをこらえるように。


 おれは、振り返らなかった。傍らのディックスが再び目を開くまで、弱弱しく彼の身体を支えていた。深く吸い込んだ息が、ツンと鼻腔に染みた。


 銃声は、怨嗟の声をあげる山風に溶けるように滲んで、すぐに消えていった。


 何を合図にしたでもなく、おれたちは同時に歩みを再開していた。



 死ぬことになると思っていた、この断崖を離れ、ラボへと再び戻るために。


 見届けるという、おれたちの約束のために。


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