時指を毟る

カワサキ シユウ

第1話

 美奈子さんは突然、右手の時指を毟って僕によこした。


「早川くんに貸してあげる」


 昼休みの屋上は僕たち以外誰もいなくって、時が止まったように静かだった。僕はその指をすぐさま返してしまいたい気持ちだった。そんなもの受け取れないと思ったからだ。けれども美奈子さんの有無を言わせないオーラと辺りのどうしようもない静けさのせいか、僕は黙ってそれを受け取るしかなかった。左の手のひらの上では冬眠を邪魔された芋虫のように、美奈子さんの時指が遠慮がちにのたうちまわっていた。その体温は思ったよりもずっと熱い。綺麗に整えられた爪が時折、初夏の眩い陽光を反射して美しく光っていた。

 しばらく呆然と指を観察していると、用は済んだと言わんばかりに美奈子さんは何も言わずに僕に背を向けた。


「ちょっと待って」


 美奈子さんが長い黒髪を垂らしてたおやかに振り向いた。


「何?」


「あの、なんで……? 突然で驚いたけど、あれだったら僕の時指……」


「いらない」


 美奈子さんはもう一度背を向ける。


「じゃあね」


 今度こそ、そのまま去ってしまった。僕と時指を、静かに照りつける陽光の下に置き去りにして。


 



 時指(通常「ときゆび」と読む)は簡易な方法で着脱が可能という、人体でも珍しい性質を持つ部位だ。右手の甲の薬指と小指の付け根付近にひとつだけひっそりと生えるコブのようなその指を、アクセサリーのように考える民族も世界にはいると聞く。けれども、この日本においては時指を外して使うことはなぜだか大きな意味のあることと見なされていて、用途といってもそんなに多くはない。

 最もポピュラーで健全な使い道はといえば、配偶者との交換である。エンゲージリングのようなものだと僕の母は言っていたけれど、だったらエンゲージリングがあれば十分じゃないの、と聞き返して小さい頃に母を困らせた。

 最近の若者は恋人になるとすぐ時指を交換したがる、と僕の中学校の頃の先生はモラルの低下を嘆いていたけれど、その感覚は高校生の僕にはまだよくわからない。大人になればそういうものだと納得できるようになるのだろうか。

 ともかく。学年一の美女、高嶺の花、孤高のお嬢様と評判の美奈子さんからいきなり呼び出され、時指を押し付けられて、僕はそれを持て余していた。僕の右手には僕の時指があるから美奈子さんの時指をつける余地はなく、かといって自分のを外してまで他人の――それも恋人でもないクラスメートの――時指をつけるのもなんだかなぁ。とりあえずネットで調べた時指の生育方法に従って、日当たりのよい窓辺でたっぷりのミネラルウォーターを与えながら面倒を見ている。早く「返して」って美奈子さんが言ってこないかな、なんて思いながら。


 僕の思いを知ってか知らずか、美奈子さんは特に変わった様子も見せず過ごしているようだった。お嬢様然とした彼女は普段から白い手袋をしていたから、その変化もそんなにすぐ気づかれるようなものでもないだろう。

 気が付いたら一学期も終わり、夏休み。美奈子さんの時指はふくふくと健康そうで、元気に机の上を這いまわり、とうの美奈子さんからはなんの連絡もなかった。

 夏休みも明け、秋も直前というある日。僕は昼休みの教室で女子グループの噂話を耳にした。


 ――美奈子さん、婚約者がいるらしいよ。


 ――マジで! さすがお嬢様! で、相手は相手は?


 ――さぁ、そこまではわからないらしいんだけど。


 ――なぁんだ、デマ?


 ――かもね。……でも、なかったらしいよ。


 ――何が?


 ――美奈子さんの、時指。


 きゃあ! と歓声があがった直後、一人の女子が口の前に指をあてて沈黙を促すポーズをとった。なに、と怪訝そうな表情の女子たちが彼女の指さす方を見ると、そこには美奈子さんが無表情で立っていた。もともと表情豊かな方ではないが、そのときはいつもに増して色がなかった。しばしの無言。結局、美奈子さんはなにも言わずにその場を去っていった。緊張がゆるみ、騒然とする教室をそっと抜け出して、僕は美奈子さんの後を追った。

 姿を見失ったけれど不思議と焦りはなかった。根拠はないけれど、そこにいるという確信があった。扉を開けると、秋晴れの真っ青な空と輝く太陽が視界いっぱいに広がった。そこに浮かび上がるように屋上の縁に腰掛ける美奈子さんの姿があった。


「佑くん」


 美奈子さんは昔のように僕の名を呼んだ。微笑むように小首をかしげるのが見えたが、逆光のせいでその表情はわからない。


「……美奈子ちゃん、どうしたの」


 僕も昔そうしたように彼女に首をかしげて尋ねた。


「……ううん、なんでもない」


 すくと立ちあがると迷いのない足取りでこちらに歩いてきた。後光のように刺す光のせいでどんな顔をしているのかわからないが、その姿を僕は美しいと思った。僕の横をさらりと通り抜け、一度だけ立ち止まった。


「ありがとう。……私の時指を、よろしくね」


「……あぁ」


 冷たい水が一筋、僕の背中を静かに伝った。


 そのまま彼女は僕の前から姿を消した。





 翌日、クラス担任は美奈子さんの失踪を知らせた。理由や原因はなにも告げなかったけれど、僕はそれを自殺だと確信していた。





 時指の用途には、もうひとつ有名なものがある。


 自殺者の形見分けだ。


 時指を音読みで「じし」と読み、「自死」という漢字をあてる。このことから時指はときに、自殺のメタファーとして用いられることがある。


 部屋に帰ると、美奈子さんの時指が机上を這い回っているのが見えた。窓から入る月の光を反射して、妖しく艶やかに輝いていた。僕はその時指をつまみあげて口に運んで、長い時間をかけて咀嚼した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

時指を毟る カワサキ シユウ @kawasaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ