その9

 僕が無言で帰り支度を始めると、巡回時間を大幅に遅れた教師が、えっさかほいさかと自習室にやってきた。お気楽にやってきはしたが、薄暗くなった部屋に2人でいた僕たちを見ると、僕と奏野を見るなり、不審げに眉根を寄せる。

 仕方がない。自習室に入ってから、予定の1時間をオーバーしているのだ。

 下手にごまかせば、かえって妙な疑いを招く。

 僕は男だから別にいいけど、こういうとき、いちばん傷つくのは女の子だ。

 格好悪いけど、全ての責任をひっかぶって頭を下げるのが確実な手段だ。

「すみません! もう帰ります……」

 でも、どうやら、それで済まないほど事態は重大なものになっていたようだった。

 みなまで言い終わらないうちに、頭からいきなりの怒声が降ってくる。

「お前ら、2人で何してた!……奏野、お前、情報処理部の部長だろ!」

「はい、今日は、その……」

 口ごもるのも無理はない。

 いくら人助けとはいえ、部活の備品を私用で自習室に持ち込んで他人のレポートを偽造していたのだから。

 でも、奏野は間違ってない。

 僕は落ち込んだ気持ちを奮い立たせて、代わりに釈明した。

「すみません、他の人が先に帰ったんです……先生が遅れていらっしゃる前に」

 決心の割には、我ながら情けない言い訳だった。

 それは掛け値なしの事実だったが、痛いところを突かれたらしい。教師の言葉はそこで詰まった。考えてみれば、巡回の遅れも、やましいことといえなくもない。

 先生は身体を屈めて、僕を拝むように言った。

「悪い! ……ほら、日が暮れる前にさっさと帰れ」

 いったん謝ってしまうと、照れ隠しだろうか、物言いは余計に横柄になった。

 だが、脛に傷持つ奏野は、急に矛先を向けられてたじろいだ。

「あ、あ、じゃあ、カギ御願いします……」

 巡回のセンセイは頭を掻きながら部屋に入ってくると、いそいそと僕らを追い出す。

 不純異性交遊の疑いがなんとかうやむやになったところで、教師に部屋のカギを預けた僕たちは、自習室の外へと飛び出した。

 自習室のドアが閉まって、廊下が暗くなった。窓から差し込む外灯の光を頼りに歩きだしたところで、さっきまでしおらしかった奏野の態度は、また元に戻った。

「さっきのセクハラは、黙っといてやる……貸しだぞ、これは」

「お手柔らかに……」

 嫌なヤツに借りを作ってしまった。しかも、弁解の余地はない。

 だが、その返済期限はそれほど迫ってはいないようだった。

「ありがとな……」

 囁く声が耳元近くで聞こえたのは、階段を下りて幾つめかの踊り場に差し掛かった辺りだった。

 外灯の光が届かない壁際で周りがよく見えない。それだけに、背中に当たる柔らかい胸の感触が、耳元の息遣いと共に、よりはっきりと感じられる。

「 奏野……?」

 背中にぴったり寄り添われたやましさに、慌てて階段を駆け降りた。

 逃げ出した僕の耳には、微かに反響する囁きだけが残された。

「いつでも呼びな……話ぐらいなら聞いてやるよ」

 冬は終わったはずなのに、小刻みに足を動かす僕の心臓は高鳴っていた。

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密室はグラウンドの向こう側に 兵藤晴佳 @hyoudo

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