…聞かなかったことにする

「ミランダさん」

「ミランダでいい」

「じゃあ、ミランダ。俺はしん。ゴローの息子とかいう長ったらしい名前じゃない」


 また笑われた気がするが、これは譲れない。


「わかった」

「なんだお前、俺に何か恨みでもあるのか」 

「ないと思うか?」

「…聞かなかったことにする」


 うん、と、妙に遠い目をして酒を追加する。わざとらしい、が、ちょっと遊びすぎたかもしれない。賞味期限のよくわからない海外産のチーズをすすめる。

 次。


「ちょっとした手違いって言ったけど、下手したら俺、今頃死んでた気がするんだけど?」  


 パングラタンをちびちびとかじっていたセラフィナが、はっと顔を上げる。今にも、皿を放り出して土下座そうで慌てて手を上げる。


「待て。セラフィナ、アンタはとりあえずいいから。さっき目一杯謝ってもらったから。俺が聞きたいのは手違いってとこだから。な、とりあえず、冷めるから食べてくれ」


 納得したわけではないようだが、ミランダにも促され、渋々といった様子で皿をつつく。

 さっきから見ていてわかったが、躊躇ためらってとか遠慮とかからではなくて、異様に食べるのが遅い、この女。

 ミランダを見ると、涼しげな様子でコップ酒を飲みながら、俺の視線に気付いて肩をすくめる。


「私も謝ればいいのか?」

「じゃなくって、だから、手違いって何って訊きたいんだよ。あー、その前に本題訊いた方が早いのか。殺されかけた理由、まだ聞いてない」

「俺も俺も」


 チーズの欠片かけらを平らげてするめを齧っていた親父が、呑気に便乗する。て言うか手ぇ上げんな、頑張って主張する小学生かオノレは。  

 セラフィナの皿以外は乾き物しか残らないテーブルの上を、片付けないとなあと思いつつミランダから目をらさない。と言ってもまあ、相手の目はサングラスの向こうなんだけど。

 ――なんてことを思っていたら、ミランダがサングラスに手をかけた。

 手早く外されたその向こうには、眼が二つ。完全にではなさそうだが、白く、濁っていた。


「見苦しいものを見せて失礼する。ほとんど見えないものだから、かけていた方が楽でな。だが、目を見ずに話をするのも失礼だな」

「…いや、俺は別に」

「大切な話だ。この街に、漆黒が逃げ込んだとの報告があった」


 ぴくりと、親父が身じろぎした。ほんのかすかにだが、確かに。まるで、獲物を見定めた獣のように。

 ミランダが、俺を見据えながらその実、親父に話しかけているのは判った。でも、漆黒って何だ。


「シン、我々の事は何か聞いているか?」

「ミラ」


 短い親父の呼びかけに、怯えたように身を強張らせたのはセラフィナだった。料理に伸ばされた手は、とっくに止まっている。まだ残ってるのに。

 ミランダは、俺から視線を外さない。

 そうすると、俺からも外せない。


「聞き覚えも見覚えもない」

「…本当に、何も話していないのか?」

「俺の知ってる親父は、今だに母さんに馬鹿みたいに惚れ込んでてって言うか馬鹿で、いつもどこにいるんだかよくわからないフリーライターで、実は免許証の年齢は嘘で昔外国でなんか悪いことやってたらしくって、でも今はただの変なヤツってくらい」

「なあ、新よ…コンパクトにまとめてる中でなんか馬鹿とか変とかやたら断言されてる気がするんだが」

「事実だろ」


 眼はやはりミランダに向けながら、それでも動きで、親父が大袈裟にうなだれたのが判る。

 本当は頼りにしてるんだって、憧れてるところもあるんだって、そう言うのはしゃくだから。大体、そんなことを口にしたが最後、調子に乗りまくることは目に見えている。


 ミランダは、目を閉じることで見つめ合いを終わらせた。そういえば、ろくに見えてないんだったか。でも、力はあった。


「ゴロー、もういいだろう。ヤツがここに来た以上、シンに隠したまま守り通せると思うか。それとも、逃げるか?」

「…わかった。そうだな、これは俺が悪い」


 親父はそう言って、なみなみと注がれていた酒を一息にあおった。それでも眼はあくまで冷静で、さっきのミランダのように強い力を持っていて。


 ――ああ、俺は、この眼を知ってる。


 母さんが死んだと告げたときに、俺はこの眼を見ている。

 哀しいだとか悔しいだとか、赦せないだとか。そういったごちゃ混ぜでどうしようもない感情を押し殺して、勝手に一人で胸の中に押し込めて、逆に凪いだ眼を。


「長くなるぞ」


 知らずに正座して背筋を伸ばしていた俺を見て、親父は、呟くように告げた。

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満月の夜にご用心(仮) 来条 恵夢 @raijyou

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